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常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

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2010年1月15日

すべてを捨てる

欲しいものをすべて得ることが
できたら、きっと、
それらに付き合うために、
すべての時間が奪われるんじゃないか、
と思います。

となると、反対に、
すべてのものを捨てることができたら、
すべての時間が手に戻ってくる?

実際、そんなことは、
出来ないんでしょうけど、
気持ちの上で、

何もかも、すべて捨てる、

っていうのは、
なんかスッキリして
面白いかも。

ただ、本当の意味で、
何もかも捨てる、
っていうことを、
私たちは、知らないと思うんです。

持っているものから、
立場、地位、人間関係、
そういうものを何もかも捨てたら、
何が残るか。

とりあえず、自分だけは残ります。

でも、その残った自分にも、
まだまだ、いろんなものが
残っているわけでして、

いろんなものを捨てても、
けっこうなものが残っているんです。

結局、捨てきれないものがある、というのが現実。

それは「豊か」にもなるけれど、
悩みが絶えないということにもなる。

いろんなものを手に入れようとすることは、
プラスのものばかりでなく、
マイナスのものも集まってくること。

いろんなものを捨てるということは、
マイナスのものばかりでなく、
プラスのものも捨てなくちゃいけないことも
あるっていうこと。

むずかしいもんです。

2010年1月13日

続かない

人のために、
何かやってやる、
っていう気持ちは、
長続きするもんじゃありませんね。

これは、きっと、
性格なんだと思いますが、
人のためにやるからには、
役に立つとか、
喜ばれるとか、
そういう反応を期待している。

もちろん、
それを押しつける気持ちはないけれど、

それほど期待されていない、
喜ばれていない、と感じたら、

すぐにでも、撤退する気持ちで、
やっている時ってあります。

それは、ちょっとしたきっかけで、
心の思いがハッキリしてくるから...

「ああ、だったら、やらないや」

という気分になっちゃう瞬間です。

そこで分かるのは、
「人のために」
やっているわけじゃなかった自分。

分かってもらえなくても、
反応がなくても、
がんばり続けるんだ、
って思える人もいるでしょうけど、

私のような、根気のない人は、
すぐにあきらめて、
反応がありそうな「次」を
探してしまいます。

それは、やっぱり、
「人のため」でなく、
反応で喜びたい「自分のため」
ということ。

これを自覚して、
人のためをちょっとは思いながら、
誰かの役に立つことをやっていれば、
ほどほどの満足感が得られる仕事でも、
家事でも、ボランティア活動でも、
できるんじゃないかな、って思う。

ほどほどの満足感、
それくらいの期待が
ちょうどいいかもしれません。

2009年12月20日

必要な、なまけ心

しきりたがり屋の人が、
ちょっと歳をとるとか、
すこし体具合が悪いとか、
ほかに悩みがあるとか、

そういう状況になるとやっと、
「しきり」をしなくなるようです。

わたしにも、
その「しきり屋」の血が
流れているので、
自分でも、ちょっと自覚します。

なんか、面倒くさいなぁ、
と感じるようになる。

しきりたい気持ちは、
かすかに持っているのですが、
「もう、いいや」と放り出したくなる。

ひとにまかせて、
自分はお客さんでいたい感じ。

しきりたがり屋が
退場すると、やっと、
次世代の人の、
がんばりたい気持ちを
伸ばせるチャンスが来ます。

退場してくれないうちは、
それができない。

でも、本当に退場したまま、
であってくれればいいのですが、

他人がしきっている風景を見るや、
「しきり」の血が騒いで、
結局、登場してくる人もいたりします。

もともと、がんばれる人だから。
自分の思い通りとか、理想とかのために、
人を振り回してでも、
がんばれる「性質」の持ち主だから、
そういう登場もありえるわけです。

だから、そういう人たちには、
ちょっとした「なまけ心」が
芽生えて欲しい。

あんまり、
がんばる感じでないほうが助かる。

とは言っても、世の中はフシギ。
がんばってほしい人は、怠け心があって、
がんばってほしくない人ほど、怠け心がが
なかったりしますから...

どうしましょう。

2009年11月25日

眠くない

寝不足すると、
夜も早い時刻から
眠くなるものですが、

心がハイテンションな時には、
そんなふうにならないもんですね。

何日でも徹夜できそうだ、
っていうのは、
こういう感じのことでしょう。

わたしの中で、
仕事が盛り上がっているとき、
アイデアが湧いて湧いて止まらないとき、
そういう状況がやってきます。

体は、日に日に、
年をとっているのでしょうが、
心は、ちょっと別の次元に
いることができる。

ただ、それも、
時間に限界があることでしょうね。

若いときには、1週間くらいOKでも、
年をとると、2日が限界とか...

がんばれる限界は、
何のためにがんばっているか、
によっても変わってくる。

それは、年齢とは別だろう。

家族を養うため、
借金を返すため、
っていう「重荷」の場合もあれば、

夢を実現するため、
ヒットさせるため、
名誉のため、
っていう「ごほうび」のためっていうのもある。

どっちでなら、
がんばれるかっていうのは、
根本の価値観しだいってところでしょうか。

眠くないほど、
がんばれるのは、
自分のなかに、
どんな価値観があるのか。

何が、そんなに、
自分を面白がらせているのか、
ワクワクさせているのか。

知っておいて、損はないだろうな。

2009年11月23日

若さとバカさ

若い人の言っていることが、
バカらしくなってきたら、
もう年だ、と思う。

「よくも、やりもしないことを
 べらべらとしゃべるもんだ」
と思いながら、聞いている自分を
感じたら、それは年のせいだ。

そういう実感が出てきた。

若い人が、
まだ実現もしないことを
しゃべるのと、

年をとったひとが、
過去にやり終えたこと、
思い出話ばかりするのは、
本質的に変わらないんじゃないか、
と思います。

それは、自分の存在意義を
たしかめるために言っているという点で。

若い人は、
過去の実績がないから、
過去を自慢しようにも、
見せつけようにも、
限界がある。だから、
心のなかにうずまく、
未来への思い、夢、目標、
思いつきをしゃべるしかない。

仮に、年寄りの真似をして、
思い出話を語ったところで、
とっても、ちっちゃな世界になる。

年とった人には、
未来のためにがんばる気力とか、
夢とか、時間がないという気持ちがあるから、
未来のことは、せいぜい、
「とんでもない世のなかになってきた。
 これから先、どうなるんだろう?」
くらいにしか語れない。
だから、過去のことばかりを
しゃべるしかない。

時間は逆戻りできない。
そうなると、自分の話題は、
自然と、過去のものばかりに
集中し始める傾向になっていく。

それを実感し始めたら、
若さ、バカさに付き合う覚悟が、
あったほうがいい。

ただ、その付き合う覚悟の中で、
自分のもっている知識や経験で、
こんなふうに変えてやろう、
なんて思い始めたら、
あんまり意味がないだろうな。

若さ、バカさに付き合うって、
簡単なことだけど、
頭が固くなると、
むずかしくなるんです。

私も、危ないなぁ...

2009年11月15日

老人に生まれて...

80歳のカラダで生まれ、
年齢を重ねれば重ねるほど、
カラダが若くなっていく。
という「数奇な人生」の主人公。

ブラッド・ピット主演、
アカデミー賞候補で話題にもなったストーリー。

ベンジャミン・バトンB002UVJQ4S

ベンジャミン・バトン 数奇な人生

このシチュエーションは、
ちょっと、今の常識と違いすぎて、
その感覚を理解するのはむずかしい気がする。

しかし、年を重ねることの
大切さを考えさせられます。

うーん、それともちょっと違うかな。
みんなと進む時間が
反対だったら、ということを考えると、
どんな経験、気分を味わうかが想像できます。

年をとったら、やっぱり、
それに合わせて、カラダの老化があるのが自然。
そうあるべきだな、って思う。

不老不死を望むのは、どこかおかしい。

しかし、このストーリーの主人公には、
それがない。

誰かと出会い、好きになれば、
その人といっしょに同じ方向に進む時間を
過ごして、人生を味わえるはずだが、
それもない。

自分の時間は、若さに向かって進み、
相手の時間は、老いに向かって進む。
とんでもない話です。

高齢者で、カラダが若々しくて元気、
というのは悪くないが、

高齢者の元気というのは、
カラダの若々しさばかりから来るんじゃなくて、

それまでの人生で
どれだけワクワク生きてきたか、
というライフスタイルから来るもんでしょう。

そういう元気なら、わたしも持ち続けたい。

しかし、時間が逆行するのだけは、
なんか、むごい。

みんなが年をとる方向に、
時間を歩み、死んでいく、
っていうのは、
大切なことなんだなぁ、
と思わされました。

年をとるぞ!恐れずに。

2009年11月 1日

なんの症状だったのか?

新型インフルエンザの症状というのを、
インターネットで調べてみると、
いろいろ書かれていますね。

厚労省のサイトには、

「突然の高熱、咳、咽頭痛、倦怠感に加えて、
 鼻汁・鼻閉、頭痛等であり
 季節性インフルエンザと類似しています。
 ただし、季節性インフルエンザに比べて、
 下痢などの消化器症状が多い可能性が指摘されています。」

とあります。

また、グラクソ・スミスクラインのサイトには、

「初期症状は38度以上の高熱が突然出て、
 咳などの気道症状や全身倦怠など、
 一般的なインフルエンザとほぼ同様と思われます。
 しかし、下痢、嘔吐、腹痛、胸 痛、鼻出血、歯肉出血が
 現れる可能性もあります。
 更には、潜伏期間、重症の程度と時期、
 好発年齢などの情報も必要となります。」

というような感じに書かれている。

さらには、

「いずれにしても重症化し易く、
 早い段階で下気道症状が現れて急速に悪化し、
 下痢症、神経症状も現れる特徴が指摘されています。」

とのこと。

もしかして、昨日の私の症状は、これだったのか?

思い当たりました。

夕方の5:00頃から、
けっこうな頭痛があり、
もしかして...と思っていたら、
その頭痛がなかなかおさまらず、
早めに眠ることに...。

しかし、頭痛はなかなかおさまらず、
もちろん、眠りに就くこともできない。

そのうち、トイレに行きたくなり、
それが済んだら、眠りに就けた。

1時間後に、すっきりとした感じで、
眠りから覚め、お風呂に入って、
しばらく後に、眠った。

今朝も、カラダは、いつもの通り、元気である。

果たして、インフルエンザだったのか?
よく分かりません。

もちろん、インフルエンザにかかっても、
おかしくない環境にはいます。

次女のクラスが、
半分以上の人がインフルエンザや風邪の症状を
訴えているために、学校閉鎖となっていますからね。

そういうところを考えてみれば、
この新型インフルエンザは、
ものすごい猛威をふるっている気がします。

厚労省のサイトにある

「ほとんどの方が軽症で回復しています。
 ただし、持病がある方々のなかには、
 治療の経過や管理の状況により
 インフルエンザに感染すると
 重症化するリスクが高い方がいます。」

という言葉から考えると、
わたしは、軽症な方なのでしょうか。

1日、それも4時間ほどで終わった、
インフルエンザの症状?

よく分かりませんが、
あの頭痛は、久々に痛かった、
という気がします。

インフルエンザの症状は、人それぞれのよう。

インフルエンザが騒がれている昨今ですから、
そうでない病気まで、
インフルエンザと勘違いしたりしそうですが、
情報をよく調べて、対応をしましょうね。

そういえば、感染者数は、
北海道が一番多かったようですね。
やっぱり、寒いところの人々は、
感染しやすくなってしまうのか...
天気予報によると、雪も降るらしいですから。

いずれにしろ、気をつけましょう。

皆様の健康を、今日は祈っております。

2009年10月25日

とうとう、インフルエンザが来た

昨日と今日は、
娘たちの学校祭のはずが、
次女のクラスでは、
感染者が2名出たということで、

学級閉鎖とのご通達が...

当然、次女は、
不機嫌である。

これまで、いろいろと準備してきて、
楽しみにしていた学校祭。

それが、突如として、
学級閉鎖でクラス全員が
参加できないというわけですからね。

昨晩、担任の先生から電話をいただき、
感染してしまった生徒と親も、
たいへん申し訳ないご様子らしい。

たしかに、心苦しいだろうなぁ。

わたしはといえば、
学校祭を直接準備した子どもらとは違い、

まあ、しょうがないだろう、

とすんなり納得できている。

長女の方は、今朝、いつもより30分くらい早い6:45頃に、
家を出かけていった。わたしのデジカメを借りて。

中3だから、最後の学校祭。
楽しんできてほしい限りです。

次女については、
今年は残念だけれど、

わたしの期待は、
2週間後に、全県新人卓球大会があるため、
その時まで、学級閉鎖が延びなければいいな、
と思う次第です。

実際、地区予選の日程において、
学級閉鎖となった学校もあるらしく、
全県の優勝候補と言われながら、
予選に出場できず、全県への切符ももらえない、
という生徒も、話を聞くところでは、いるらしい。

新人戦とはいえ、悔しいだろうなぁ、と思います。

これが、最後の夏の総体であれば、
なおさらでしょう。

インフルエンザ、生活や、
それまでの準備までも、
おびやかす存在。

学校や、部活動ならまだしも、
命にまでいたるとなると、
油断ならないですね。

昨日、マスクの品切れが
続いていたドラッグストアにて、
子供用マスクを発見!!

これは、チャンスと思い、
7枚x3袋を購入しました。

こわいな、インフルエンザ。

そうか、来年の2,3月には、
長女の高校入試もある。

そのときに、インフルエンザに襲われないよう、
注意していなくちゃいけないですね。

2009年10月24日

気づけない

大切なことに、
後になって気づいてしまう時に、

どうして気づけなかったんだろう?

と後悔してしまうことは多い。

私だけじゃないですよね。
(と、共感をもらいたくなる...)

たしかに、後に気づいたことについて、
今この時期だから、やっと、
気づけたんだよ、と自己弁護的な納得を、
自分に強要してみて、
自分で納得することはできても、
本当の自分は、知っている。

あの時だって、
それに気づけることは、
できたんだ、と。

視点なんですよね。

気づけるときの視点と、
気づけないときの視点は、
まったく違う。

話を聞く時にも、
それが言えるかもしれない。

あまりにも、
自分の中の思いが強いと、
アンテナの受信方向は、
だいたい絞られてくる、
あるいは、偏ってくる。

ある一定の方向にしか
敏感でない。

それ以外の方向から、
聞こえるもの、見えるものには、
まったく気づかないという感じ。

お年をめされた方々が、
よく聞こえることと、
ほとんど聞こえないことの
両方を持っているというのは、

こういうことが原因で起きる現象、
なんだと思います。

そういう意味では、
年をとらなくても、
聞こえるもの、聞こえないもの、
見えるもの、見えないもの、
気づけるもの、気づけないものが、
ちゃんとあるんだろう。

人それぞれの視点、アンテナの受信方向の定め方によって。

逆に言えば、アンテナの角度は、
360度すべてに向けることができない。

その時々の悩みや関心事が何かによって、
いつも、変わっている。

だから、気づけないことがあっても、
しょうがないのだ。

そうか、そうか。

また、今日も、開き直ってしまった...笑

2009年10月23日

まっすぐに進めない人生

ちょっとした自由時間ができると、
人は、うれしくなり、
前から、やろうやろうとしていたことを、

今日はやってやるぞ!

と意気込むのですが、
だいたいは、1日の終わりが近くなって、
それをする時間なんて、ほとんど残っていない、
っていうことになったりするもんです。

違う?

わたしは、そのタイプです。
残念ながら...

よっしゃー、やってやるぞ、
という意気込みは、誰よりも大きいのですが、

やりたいことを手にした瞬間から、
次々と、寄り道が始まってしまう。

ああ、こんなんじゃ、
何にも始まらないよ、
何もできていないよ、
と思いながらも、

気になってしまうこと(仕事)などから、
手を離すこともできずに、

ずるずると、まっすぐでない道に入ってしまう。

ああ、なんで、
こんなことになっちゃうんだぁ?!
と思いながらも、

自分を止めることができずに、
そっちの関係ない方を、
やり遂げて、なんだかんだ言いながら、
自己満足してしまうわけです。

こんなんでいいのか、
本当に、俺は?

と思う自己嫌悪感と、
ちょっとした爽快感の中に、
挟まれて、今日も生きています。(笑)

まっすぐに進めない人生、
寄り道ばかりの人生。

でも、それも人生。

それでいいじゃないか。

また、開き直ってしまった。

2009年10月18日

メガネ一家

緑内障、という言葉を、
お医者さんから聞くと、
ほとんどの人はビックリすると思います。

もちろん、それがどんな病気か、
分からない人は、???の状態になるでしょうけどね。

三女の視力が落ちて、
学校側から眼科に連れて行って、
見てもらうようにとの連絡があり、
秋休みの間に、妻が連れて行きました。

そこで言われたのが、
「緑内障の恐れ」という言葉。

その夜に、ガッカリして、
報告する妻に、私は、あんまり驚かなかった。

というのは、三女は、
視力検査などのときに、
見えているものを、
言葉としてしっかりと出して、
しゃべることがまだ下手なんです。
小3にもなりましたがね...

昨日の土曜日を利用して、
緑内障の遺伝的要素も調べるために、
わたしといっしょに、三女が行くことになりました。

視力検査は、
言葉で「右、左」とか言うんじゃなくて、
指差しでやってもらいました。

そうしたら、結果は、以前より良好。

緑内障の「りょ」の言葉も、
先生から聞くこともなく、
メガネの処方だけで済みました。

予想通りの展開。

視力が落ちたことも問題ですが、
まだ、言葉で表現できないことも問題です。(笑)

視力が良くなれば、
そっちの表現能力も改善されるかな?

さて、それから、めがね屋さん探し。

よく知っている、メガネ屋さんに行くと、
大人用だったら、一式5,000円とか、
7,000円とかのものがあったのですが、
子供用になると、一式10,000円のものしかない。

「いやぁ~、子供用だから、需要が少なくて、
 この値段で買わないと、ダメなのかなぁ。
 しょうがないことなのかなぁ。」

と、なかば、あきらめ気分で、別のお店へ。

そしたら、ありがたいばかりの、
子供用も、一式6,600円という価格。
「これだ!」と思い、車に乗っていた娘を呼んで、購入。

この価格には、感謝ですね。

小3で初めてのメガネ、なおかつ、
眼科の先生も、度は進むだろうから、
ということで、1年に1度くらいは、
メガネを変えるかもしれない、と言われ、

さらに、小3ですから、
レンズを傷つけるだけで済まずに、
フレームやら、メガネそのものを壊してしまう
可能性さえ、あります。

もちろん、高額で丈夫な商品を買えば、
長持ちするかもしれませんが、
子どもの使い方は、大人の想像を超える可能性大。

そこに、一式6,600円という価格なれば、
万が一、破損したとしても、気軽に、

それほど、子どもを叱ることなく、
「しょうがない、また買おう」という気になれる。
子どもが使うものは、汚れる、壊れる、は当たり前ですからね。

わたし、妻、三女、そして、
メガネ予備軍の長女、次女もいますから、
間違いなく、うちら家族は、メガネ一家になりつつあります。

2009年10月 1日

すっきり坊主頭

何年かぶりで、
坊主頭にしました。

坊主頭

思えば、中学校を卒業して以来かも。

なんでか?

生まれ変わるため?

でもないですが、
何のことはない。
バーコード頭になりたくないからです。

家系でいえば、間違いなく、
ハゲてしまう家系。

このごろ、シャンプーをするたびに、
遠慮なく、洗うもんだから、

あ、今日も、たくさん抜けている、
なんて考えるわけです。

だからといって、
洗う手を弱めるかといえば、
そんなことはしない私。

いっそのこと、
そんな抜け毛が気にならない状態になればいい、
そして、未練タラタラのヘアスタイルに移行して、
バーコード頭になっているよりだったら、

いっそ、坊主頭になろうと、
楽天で、ホームバリカンを買い、
妻に、やってもらいました。

妻にとっては、初体験。
まだまだ下手な部分もありますが、

坊主頭のために、
床屋さんに行くのも、
なんか、もったいないから、
何度もやっていくうちに、
妻に腕をあげてもらいます。

そのうち、EXILEのATSUSHIみたいに、
スリットを入れるとか、
所ジョージさんみたいに、
金髪にしたりしてみるとか。

坊主頭は坊主頭で、
いろんな楽しみ方があることでしょう。

とりあえず、スッキリです。

今日から、髪の毛の心配なんて、
しなくていい。

悩みがなくなるっていうのは、
悩みの種そのものをなくせば、
簡単なことなんですね。

今回のことで、思い知った。
わたしのまわりの人々も、
1週間もすれば、慣れることでしょう。

2009年9月17日

脱け出して

ともすると、私たちは、
いつも安心できる場所に
戻ってしまいがちです。

長女が修学旅行で
もちかえってきた沖縄のヤドカリを
見ていても、そういうことを感じます。

貝のお引っ越しをするんですが、
間もなくして、前の貝に戻ってしまう。

それは、我が家の小さい砂浜に、
いろんな貝がなくて、
サイズが合わないとかの原因も
あるんでしょうけど、
住みやすい場所に戻ってしまうのは、
やっぱり、生き物の習性なのでしょう。

それを、うまくいっていないときにも、
やってしまうんですよね。

うまくいっていない、という今の場所があって、
それじゃあまずいと思って、
そこを脱け出したものの、

脱け出した先で、
なんか、うまくいかないと感じて、
また、元の場所に戻ろうとする。

それは、その元の場所に
期待がもてそうになったからじゃなくて、
「まだマシだ」みたいな淡い期待を
捨てられないからなのでしょう。

実際に戻ってみると、
ああ、楽になったとは思っても、
期待のできる状況にはなっていないのです。

しばらくすれば、
住みやすさゆえの、
何も改善しようとしない態度が、
さらに問題を大きくしていくことになります。

脱け出したなら、
そこでがんばらなくちゃいけない。
引き出してくれる人がいたら、
その人に感謝して、
少しはがんばってみなくちゃいけない。

自力で脱け出すのは、
だいたいが難しいもんです。

人の助けがあって初めて
脱け出せることの方が多い。

どんどん脱け出すための人生。
今日は、何から脱け出せるかな。

2009年7月25日

流れてしまうもの

「洗濯機が壊れたくらいじゃ、
 幸せだと思わなきゃだめだね。

 この大雨で、洗濯機どころか、
 家や生活まで流れてしまった人が
 いるんだから。」

うちの妻が今朝言った名言です。

昨日の朝から、
洗濯機が脱水から「すすぎ」に
移れないのです。

水がどんどん流れっぱなし。
全自動だから、気づかなければ、
ずーっと流れっぱなしになります。

「よし、これからは、
 手洗いして、自分ですすぐよ!」

と、なんだか気合の入っている妻ですが、
そんなに、がんばらなくても、
本当にダメだとなったら、
買うしかないんじゃないの、
と思っている私。

とは言え、洗濯機どころでなく、
生活すべてが流されてしまった人たちのことを
思えば、そんな不便は、たいしたことじゃない、
という気にもなります。

便利な生活に慣れてしまって、
わたしたちは、ちょっとした不便にも
がまんできなくなったら、終わりだな、
という気がしました。

全自動ゆえに、プログラムが暴走すれば、
こんな現象になる。以前も、同じ現象があって、
そのときの解決方法を何度も試しているのですが、
どうも、今回ばかりは、それが出来ない感じ。

脱水だけは、まだ出来る、
というのが面白い。

水が流れっぱなしになっては、
地球にもきびしいわけで、
今日あたり、今どきの洗濯機が
いくらくらいするもんか、見てこようかと
思っているところです。

2009年6月26日

動けるときに動く

体の不調など何も感じない、
とーっても若い頃には、

うだうだ、だらだら、
と動くことをおっくうがっていた気がします。

けれど、ちょっとずつ歳を重ねてくると、
なんとなく、すんなり動けない自分の体を
感じたりするものです。

「老いた」とまではいきませんが、
なんとなく、疲れが残るとか、
腰がすっきりしないとか、
消化能力が落ちたとか...

以前のような、ほぼ完璧な体がほしい、
と思っても、それは叶うわけなどなく、

しかし、そのスッキリしない体のことを気にしすぎて、
気落ちしていたりすると、どんどん、時間が過ぎていく。

ちょっとした不調でもそうなのですから、
本当に老いた体を感じている人は、
もっと強くそんな気分になるんじゃないでしょうか?

動けるときに、精一杯動いておく。
そういうことが大切だな、って思います。

体の不調を気にしだしたら、
キリがない。

もちろん、治るようなことなら、
病院に行ったり、薬でも飲んで、
治せばいい。

しかし、そういう治るかどうか分からないことで、
自分の「体調」としてずーと付き合わなくちゃいけないことは、
あきらめて、不完全を当たり前として、
生きていたほうが、イキイキできるというわけです。

体が動く、ということを
今は当たり前に思っていますが、
そういうわけじゃないなぁ、
っていうのは、

車を運転していて、
信号ギリギリで、
横断歩道を渡るおばあちゃん達を見ていると、
よく分かります。

すごい余裕をもって、
本人は渡っているつもりでしょうが、
かなり遅いのです。
待たされているのです。

思うように、体が動かなくなる、
という時期は、必ず来る。

元気な女優の森光子さんだって、
もう、でんぐり返しの演技は止めたほうがいい、
といわれるようにもなる。

動けるうちに動いて、がんばる。
それが一番。

動けなくなりそうだったら、
その動ける範囲でがんばる。
それがベスト。

いつまでも快活でいたいから、
そんなことを考えます。

2009年6月21日

恥を知れ、と言われること

恥を知れ、と言われたことは、
ないけれど、よくよく考えてみれば、

自分の中にある恥なんて、
よく分かっている気がします。

それでも、それを見せないように、
うまくごまかして、
そんな恥となる部分なんかないように
振る舞っているから、

恥を知れ、なんて言われないでいるのでしょう。

あるいは、恥を知るような場面に、
自分を引き出さない、持って行かないから、
そのままで済んでいる。

新しいことや、
これまでやったことのないこと、
チャレンジしなければいけないことに
出くわしたら、

きっと、恥を知ることになるはずなんです。

勉強不足だったこと、
プライドばかりが高くて教養の低かったこと、
うまくいっているように見せる努力ばかりしていて
本当は中身がついてきていなかったこと、

そういうことがあらわになって、
恥を知れ、と言われるシーンが出てくるはずなのですが、
そこを、うまく逃げかわしていると、

そう言われないまま、時を過ごしてしまう。

恥を知れ、なんて言われたい言葉じゃないですが、
誰にだったら言われても、素直になれるか。

きっと、尊敬する人からだったら、大丈夫なのかなぁ。
あるいは、すごーく信頼関係の厚い人から。

でも、そういう人がいないとなると、
永遠に、言ってもらえない。

そのままじゃ恥ずかしいことなのに、
変わるきっかけを見つけられないことになる。

世の中に生きていて、
恥をかくシーンがあるということは、
ありがたいことかもしれない。

インターネット上の社会で、
匿名で存在することばかりを考えて、
なんの恥もかくことなく、
生きていてばかりいては、
きっと何かズレてくるかもなあ。

ちょっと、自分自身を振り返って、
そんな感じのズレあるように思えてきました。

ダメなだぁ、恥を知れ! ホントに。
でも、厚顔無恥だからな俺って...笑

2009年6月12日

価値観は変えられない

洋服とか、靴とか、化粧くらいなら、
相手の好みに合わせて、
変えられるかもしれない。

けれど、価値観ばかりは、
そう簡単に変えられるもんじゃない。

おまえの金銭感覚、
どうにかしろ!

と結婚してから言われても、
ちょっと難しいのだ。

そんなこと、
いまさら言われても...、
となる。

変えられないものは、
いっしょになる前に
「選ぶ」しかないのだ。

変えられるものなら、
いっしょになった後に、
変える努力をしてもかまわないけどね。

食べ物の好みも、
ちょっと価値観に似ている。

納豆嫌いの人を、
いっしょになってから、
好きにならせようとしても、
なかなか無理。

嫌いだと分かっている料理を、
せっかく心を込めたのに、
と愛をちらつかせても、
嫌いなものは、嫌いなのだ。

もちろん、愛に負けて、
ガマンして食べてくれる「時期」も
あるかもしれない。

それで、
「これは、うまいわ」
となれば、うまく出来た話だけれど、

だいたいは、
愛が熱い、ガマンしてくれる「時期」を
過ぎれば、嫌いなものは、
相変わらず嫌いなのだ。

だからといって、
同じ価値観の人を探そうとしていて、

実は、こっちのルックスに惚れられて、
なんとしてでも、結ばれたいために、
相手が「ピッタリの価値観を持っている振り」を
する場合があるから、

価値観重視っていうのも、また怖い面をもっている。

出来る限り、日常に近い行動をしてみて、
そこにかいま見るクセとか、感じる空気、
それが価値観なんだと思います。

特別なことをしている時には、
なかなか見えないのが、
価値観なのでしょう。

いっしょに暮らすというのは、
日常のことですからね。

2009年6月11日

暇なときの、きれいごと

時間があまって、
何にもすることがない、
というときに、

きれいになることをする人、
って意外と多いかもしれない。

たとえば、わが家で言うと、

次女は、暇があると、
毛抜きで、足のすね毛を抜いている。

三女は、耳かきを、
気持ちよさそうに自分でしている。

長女は、本棚とか、紙類の整理や
捨て方をしている。

妻は、コロコロワイパーを転がしながら、
居間のあちこちを這いずり回っている。

この暇なときの、掃除というか、
きれいにしようって思う気持ちは、
何だろうなぁ...と考えます。

暇なんだから、
休んでいればいいのに、
あるいは、
もっと好きなことをすればいいのに、
と思うんです。

でも、そんなことはしないで、
きれいごとをする。

きっと、シンプルな作業で、
なおかつ、やった後に、
スッキリするとか、気持ちよくなれることだから、
思わず、やってしまうんでしょうね。

好きなことが、必ずしも、
シンプルなこと、簡単なこととは限りません。

たとえば、水泳が好きな人であれば、
水着やタオルを準備して、
お金をもって、プールに出かけなければいけない。

そこで、お金払って、準備体操して、
知っている人がいれば、その人に挨拶して、
それからやっと、泳ぎ始める。

泳ぎ始めてしまえば、
スーイスーイとシンプルなことなんですが、
それまでの時間は、けっこうかかる。

ところが、
引き出しから毛抜きを出したり、
耳かきを出したり、コロコロワイパーを
手にすることくらいなら、すぐにできるんです。

人間って、やっぱり、
シンプルなことが基本的に好き、
なんですよね。

もしかしたら、完ぺき主義の人よりも、
そうでない人の方が、きれいにできることもあるかも。

完ぺき主義の人は、
完璧にきれいにするために、
いろんな準備が必要だったり、
そのための覚悟も完璧にやらなければいけないから、
シンプルな話じゃなくなる。
完璧にやるか、それができないならやらない、
みたいに感じになることもあるのではないかな。
すると、超きれいか、超汚いかのどちらか?

てきとうな人は、てきとうに気軽に始めて、
てきとうなところで終わる。
そういうことを、てきとうに続ける。
だから、ある程度のレベルで、
だいたい、いつもきれい。

暇なときに、てきとうにやっちゃいましょう。
きれいにすることは。

2009年5月31日

虫さされ

夏祭りなんかに行くと、
ビールを飲んだ酔っ払いの人が、
よく、虫にさされているシーンがある。

アルコールの入った身体が
発散される汗、匂いが、
虫を惹きつけるのか。

それとも、アルコールの入った身体が、
虫に刺された場合に、皮膚を
大きくはらさせるのか。

くわしいことは分からないけれど、
ちっちゃい虫とはいえ、
たくさん刺されるのは、イライラする。

ここ数日、うちの妻は、
虫さされがひどく、
かなりイライラしている。

虫よけのスプレー、
虫さされのクリーム、
必要なものはそろえたけれど、

結局のところ、
時期が過ぎないと、
ダメな場合もある。

妻のイライラを、
イライラしながらガマンするのが、
今の私にとっての時期のようで、

だいたいは放っておきながら、
イライラに共感して欲しそうなときには、
呼ばれたりして、付き合っている。

それにしても、なんで、
妻が刺されるメインなんだろう。

きっと、皮膚というか、肌がうまいんだろうなぁ。
あるいは、虫に好かれそうな体温だとか...

いずれにしろ、なんか、
虫に好かれるものを持っているんだろう。

そういえば、20歳の頃から、
変な虫につかれることが多かった。
看護婦だったから、病院でやさしくするたびに、
100%勘違いされて、今でいえば、ちょいストーカーっぽい感じ。

虫に好かれるやつって、いるんですねぇ。

2009年4月29日

標準か、正常か

(身長-100)x0.9

という計算式は、
わたしが子供の頃には既にあった
標準体重の求め方で、

おそらく、日本人の80%は、
この計算式でOKじゃないだろうか、
なんて勝手に思う私です。

正式には、ブローカ式桂変法なんて、
言うんですね。桂さんが考えた方法らしくて。

じゃあ、これに当てはまらない人は、
どうなるか、というと、きっと、
骨格とか、身長とかが、
ちょっと標準じゃない人でしょうね。

これは、異常ということじゃない。

そして、この標準体重が「正常」ということでもない。

いわゆる、平均に近い意味の、標準ということだろうから。

標準って、
うまい逃げ道なんですよね。

血液検査のときにも、
コレステロール値の標準が
参考に載っていますけれど、

それに当てはまらないから、
即異常でもない。

けれど、やっぱり、
人間の心理としては、
そこに印刷されている「標準値」を
無視するわけにはいかないじゃないですか。

ちょっと、不安になったりするわけです。

で、再検査とか、精密検査をしてみて、
「異常なし」と出てくれば、
検査費用を返してくれ、とも言いたくなる。

標準と比べて、
自分が異常か、正常かを
判断できるわけじゃない。

けれど、その標準値もなければ、
検査して出てきた値に、
どんな意味がありそうか、
ということも考えられなくなる。

標準とは、むずかしい言葉ですね。

2009年4月16日

中心を見つけたい

ものごとには、
きっと何らかの中心があるらしくて、

それがハッキリ分からないものでも、
人間は何かと「中心」というものを
見つけたい生き物かもしれないな、
って思います。

誰か他人の家族を見れば、
「あの家は、奥さんを中心に回っている」
「いや、だんな中心だ」
「いやいや、わがままな息子中心だ」
なんて、いろいろな話が飛び出すわけです。

実際のところ、
他人の家の中心が分かったところで、
どうってことはないのですがね。

そのお宅に、車でも、家でも、
売ろうとしていて、
その財布をだれが握っているのか知りたい、
というのなら、話は別ですがね...

家族とか、集団の中心ばかりでなく、
人一人にも、中心があると思うのですが、

その何を中心にしているかによって、
グラグラとぐらついた人間にもなれば、
確固とした人間にもなりうる。

こころの中心、からだの中心が、
大切だと思う次第です。

こころの中心は、
やっぱり、何を大切にしているか、
何を信じているか、目標にしているか。
本音で。

からだの中心は、
足腰だと感じます。

この足腰が弱ると、
やっぱり、からだばかりでなく、
心も弱ってくる気がする。

最近、くしゃみをすると、
その反動が、腰に響くことがあるんですよね。
ギックリ腰じゃあないし、
それがいつもというわけじゃあないのですが、
ちょっと、注意したいもんです。

運動しているときには、
なんでもないけど、
なんで、くしゃみの時だけ、
そうなるんだろう、という不思議な気持ちです。

2009年3月27日

待ち時間なし

朝の6:30頃に、電話が鳴る。

こんな時間に電話をよこすのは、
わたしの弟がパニックになった時くらい...

弟の場合は、
パニックになる事実そのものは、
たいしたことのないことなのだが、

電話をかけてくる時間帯や、
頻度が「問題」だから、
それに長年つき合ってきた私も、
だいぶ慣れてきて、電話が鳴っても、
「またか」と、けっこう冷静にしていられる。

で、先日の6:30にも、
電話の前に行って、
ナンバーディスプレイを見てみる。

すると、妻の知人から。

看護婦だった妻には、
病気とか体調のことで、
けっこう相談の電話が来る。

妻はまだ寝ていたので、
わたしが応対してみる。

「体に湿疹が出来て、
 かゆくてかゆくて眠れなかった。
 総合病院の救急外来に電話をして、
 そっちに行ってもいいか、と尋ねたら、
 皮膚科の担当医がいないから、
 行き着けの皮膚科へ行ったほうがいい、
 と言われた。」

とのこと。

幸い、その皮膚科には、
わたしの次女も「とびひ」で通ったことがあったので、
知っていた。

さらには、インターネットで受付できることも思い出し、
予約スタートの9:00になったら予約して連絡をする、
と伝えた。

便利な時代になったもんです。

9:00になって、予約をしたら、
13番目とのこと。

その知人さん宅から、病院までは30分ほどだったから、
着いてまもなく、診察してもらえたらしい。

病院に行って、待ち時間なし。

体具合が良くない上に、
病院で待たされることほど、
さらに不快な気分になるものはない。

どこの病院でも、こんなシステムが入ってくれたら嬉しい。

2009年3月20日

どうして、気のせい?

どこか調子が悪くて、
医者に行きたい、
と思うようになったら、

私の場合は、注意している。

だいたいが、
「気のせい」みたいな診断を
されるからだ。

先週末からの歯痛...

これは、ホンモノだろうなぁ、
と思って、昨日、
三女の歯医者通いに付き合って、
いっしょに行ってみた。

まず、歯医者さんが、
歯の外観から見て、

「うーん、特に、
 虫歯になっているところは
 ないようですね」

というコメント。

最初は、左の奥歯がしみる感じだ、
と伝えていて、ついでに、
右の奥歯もなんか、もしかして、
みたいなことを言おうと思っていたが、

そのコメントを聞いて、
とりあえず、やめることにした。

どうせ、どっちもダメになっているんなら、
ついでに治してもらったほうが安上がりだ、
と考えたんだけど、そこで、やめたのは正解だった。

とりあえず、
レントゲンを、
ということで、
レントゲンを撮影した。

治療席に座って、
お医者さんが来る前に、
レントゲン写真が貼られた。

ん?

なんか、きれいだ。
けど、この歯の根っこのあたりが、
薄黒くなっているなんて
言われるのかなぁ?

なんて考えて待っていたら、
先生が来て、まもなく、

なんともないですね。

というコメント。

へ?
また?

もしかして、
ちょっと年をとって、
歯茎が下がってきて、
そこの歯の部分が
ちょっとした知覚過敏に
なっているかもしれません。

でも、普通に生活していれば、
また、再石灰化っていうやつが起きて、
そこの部分に、カルシウムがついて、
大丈夫になってくるはずですから、
という分かりやすい説明を聞かされる。

それにしても、
また、なんともない、
という結果。

あれも、気のせいだったのか?

しかし、不思議なことに、
そう言われた瞬間から、
しみる感じがなくなってくるから、
やっぱり、不思議だ。

うーん、これで、また、
簡単に病院に行けなくなった。

私が病院に行ってもいいのは、
手遅れの時だけか?

2009年2月26日

インフルエンザ、終わり?

ピークは過ぎたようだ、
と報道されている、
冬の大敵インフルエンザ。

ほっとしますね。

我が家は、予防接種なしに、
今年も、一人もかからず。

子供らの学校で感染ニュースを
聞き始めた頃には、マスクをして
学校に行かせていました。

実際、小2の三女のクラスでは、休校が2日間。
中2の長女のクラスでは、早退が1日。

危険とは背中合わせの状況にあったわけで、
何事もなく、ピークが過ぎたことは、
やっぱり、喜びたい。

親として、でかしたぞ!、と。

見えない敵だけに、
高をくくってしまいそうですが、
実際に「そこにある敵」なのは事実なわけで、

予防接種をするのも1つの手段、
しないなら、また別の手段をやればいい。

一番よくないのは、
何もしないこと。

きっと、世の中の問題、
私たちが出くわす問題も、
そんなもんでしょうね。

予防するか、
予防できなかった時のために
何かをちゃんと考えているか。

今頃は、期末テストの最中で、
娘らは机に向かっていることでしょう。

昨日勉強した成果を、
ちゃんと出せているかな?

悪い点数をとらない予防として
ちゃんと勉強していたはずだから。

2009年2月25日

何を拾ってるの?

ハーッと息を吐けば、
白くなる寒い朝に、

小学生、中学生、高校生が
通学路を歩いています。

ただいま期末テスト期間中ということで、
うちの娘らを、だいたい半分くらいの道のりまで
車で送って、家に帰る途中、

一人のおばあちゃんが、
道路脇に、何を見つけたか、
かがみこんで、何かを拾おうとしている。

おっ、おばちゃん、何か見つけたな。

そう思って、通り過ぎようとしたら、
それは、空き缶だった。

あら?

「何か見つけたな」と思った自分を、
ちょっと恥ずかしく思った。

世の中のおばちゃんと言えば、
なんとなく、パワフルなイメージばかりが
心に残っているから、

何かしら得になるような行動しか
しないように思い込んでいる私。

失礼な私です。

私も歩いていて、
ゴミを見つけたら拾う、
というくらいの行動をしなくちゃ、

この勘違いの償いは出来ないだろうなぁ。

もしかしたら、
自分自身が強欲だから、
他人についても何かしら強欲なイメージで
見てしまっているのかも...

大きなお世話をする前に、
自分の面倒を見たほうがいいな。(笑)

2009年2月19日

しっぱい

自分にウソをつけば、
失敗でなくなることがあって、

どうウソをついても、
失敗でないことに出来ないこともある。

そして、私の場合は、
自分が「失敗だ」と認めなければ、
失敗にならないことが多い人間。

プラス思考、前向き、主体的といえば、
聞こえはいいですが、

悪く言えば、
往生際が悪い、こだわる、負けず嫌い、
あきらめが悪い、自分に都合がいい、自己チュー、
いろんな表現が当てはまりそう。

笑うしかない。

失敗を認めれば、
自分が全否定されたように
思い込んでしまうから、
そんなふうな傾向にあるのかもしれない。

ちょっと、自意識過剰、自信家?

これは、危ないな、と思うこともあります。

ギリギリのところまで、
良くない方法でがんばってしまう可能性が
ありますからね。

うーん、それを考えると、
今でも、危ないこと、
いろいろあるかもなって。

それは、ダメだと分かったら、
新しいことを見つけ出して、
すぐにでも始めなければいけないのに、

その新しいことをやりたくないから、
この方法でいいんだ、と固執して、
いつまでも続けている。

年をとるっていうことは、
そういうことかもしれない。

以前は、お年寄りの方が、
1つのことにこだわって、
なかなか前進できない様子を見ると、
なんで、もっと柔らかく考えて、
前に進めないんだろうとか思っていたもんです。

人のこと、言えないな。

確実に、それに近くなっている気がする。

ああ、恐ろしい...

とりあえず、失敗を認めよう。
どこからどこまでを失敗としようか。

2009年1月22日

インフルエンザ・パニック

新型のインフルエンザが、
広まり始めたら、
家の中に篭城するように
という勧告が出されています。

たしかに、得体の知れないものに
感染してしまっては、
元も子もないですからね。

今日と明日、
うちの三女の学年は、
休校だそうです。

休み中は、
友だちにも遊びに行ってはいけない、
という具体的な指示まで出されました。

聞くところによると、
15%くらいの欠席で、
そういう対応がとられるらしい。

40人クラスであれば、6人。
それが3クラスあれば、18人。

たしかに多い気がします。

おそらく、広まっているのは、
新型インフルエンザでなく、
これまでもよく知られたタイプでしょうが、
潜伏期間が、3日くらいはあるという話ですから、

もし感染してしまっていれば、
土曜日、日曜日あたりから
症状が出ることになります。

うーん、うちの子供は大丈夫かなぁ。

そのせいで、一家全員が感染したら...

なんていう心配もしたりしますが、
不思議なことに、というか、
きっと偶然ですが、

予防注射を受けた年には、
感染し、
予防注射を受けなかった年には、
感染しないというわが家。

今年は、受けていない。

どうなることでしょう?

週末、お出かけの予定があるので、
何事もなく、この2日間が過ぎてくれれば、
と願うばかりです。

2009年1月 8日

足腰の強さ

寒くなったせいか、
それとも、雪よせとか、
三女のスキー練習に付き合っているせいか、

朝起きたときに、
腰のあたりがちょっと筋肉痛っぽくなっていて、

「お、腰が鍛えられているな」

と思う日々です。

三女も、学校の登下校だけでは、
鍛えられないほど、
スキー練習をしてから、
足腰が鍛えられている気がします。

不安定な雪上を、
スキーで移動したり、
スキーで滑ったりする、
っていうのは、

それだけバランス感覚が
求められますからね。

スキーが出来るのは、
雪国のメリットだなぁ。

スキーをして、
足腰を鍛えるなんて
いう発想は、
子供の頃にはなかったけれど、
今思えば、けっこう鍛えられていたことだろう。

なんてったって、
リフトを使わずに、
山の上に登って、
そこから滑って、

また山の上に登って、
そこから滑って、
なんてことをしていたこともありますから。

それを、何度も何度も...

たとえ、まわりの空気が冷たくても、
そんな往復を繰り返すだけで、
自分たちの背中には、
ぐっしょりと汗かいていた記憶があります。

足腰も鍛えられて、
冬にはなかなかかくことの出来ない汗も、
存分にかいて、健康的な冬休み生活だったでしょう。

三女の練習では、
まだ、リフトに乗れる前の段階なので、
ちょっとそれに似たことをしています。

まもなく、リフトに乗れるようになるので、
もう、足腰を鍛えることよりも、
バランス感覚の練習になることだろう。

いずれにしろ、雪国で鍛えられて、
強くなって欲しいものです。

2008年12月30日

ずるい生き方

生き方には、
いろいろとあるんだなぁ、
と思う。

そして、
ある人から見れば、
ずるいと思われる生き方にこそ、

人間の知恵が、
たくさん詰まっていたりする。

自分の本当の姿を見せて、
嫌われる人がいて、

それとほぼ似たような姿なのに、
自分の本当の姿を見せて、
なぜか好かれる人もいる。

嫌われる人からすれば、
姿とは別の性格とか、個性で
好かれているように見えるから、

「あの人はずるい」

なんて思うことになるだろう。

一方、
自分のウソの姿を見せて、
嫌われる人がいるけれど、

同じような自分のウソの姿を見せて、
なぜか好かれる人もいるもんです。

やっぱり、
もっと汚い手を使っているんだ、
みたいに思われて、ずるい、
と言われたりするもの。

真っ当な生き方をしようが、
ちょっと曲がった生き方をしようが、
人は、ずるい、と言われる可能性がなくなることはない。

ずるい、ということは、
間違っているとか、
不正なことをしたとか、
抜けがけしたとか、
そういうことに限らず、

「うらやましい」の代わりに、
使われることも多いからでしょう。

相手にはあって、
自分にはないから、ずるい。

相手が勝って、
自分が負けたから、ずるい。

不正なことをしたか、どうかが、
本当に訴えたいポイントではない。

自分に出来ないことをしているのが、
うらやましいから、ずるい、と言いたくなるのだ。

ただ、本当に「ずるい」ことを企てて、
やっている人は、自分のずるさに、
いつか負けてしまうことも事実。

なぜか、ずるさっていうのは、
使い分けているうちに、
ほとんどと言っていいほど、
裏目に出てしまうことがありますからね。

これ、間違いないと思います。

2008年12月12日

コーチのもがき

金メダルの重みというものが
すごく感じられる会見だった。

2004アテネ・オリンピックにて
女子800m自由形の金メダリスト柴田亜衣選手(26)が、
引退を発表した。

自分が強くなる、速くなる、
という目標のもとにがんばっている選手本人、
そのすぐ近くにいて、
いっしょにもがき苦しむだろうコーチ。

その苦しみも、引退というカタチで、
一区切りを迎える。

この柴田選手が、この後の人生でいつか、
金メダリストを育てようとした時には、
コーチという立場で、同じように、
もがき苦しむときが来るんだろうなぁ、
と想像しました。

メダルをねらっている人々は、
全世界どこでも、コーチなども含めて、
もがいている、苦しんでいる。

そんな光景が思い浮かびました。

自分だけ苦しんでいると思えば、
優越感を感じたり、油断につながることも
あるかもしれない。

けれど、みんなが
もがいていると思えば、
油断なんかしていられない。

逆に、そんなことを考えている時に、
自分がケガをしたり、不調だったりすると、
きっと、焦ることになるだろうと思う。

いずれにしろ、もがき苦しむ。

本人じゃなくても、そうなる。

今の世の中、子供ももがいている。
それを見ている、育てている親も、
もがいている。

それが、カッコ悪いことなんかじゃない。
それをカッコ悪いと思えば、そこで終わる。

人生は、もがくもの。

そう思っていたほうがいい。
時々、カッコよく決まったら、
喜べばいいだろうし...

わたしも、まだまだ、
もがきます。

2008年12月 8日

このまま、という選択

人は悪くないし、
欲も深くないし、
たいして悪いことを
しているわけでもない人が、

なぜかしら、
問題にぶちあたることが多いなぁ、
と思って見ていたら、
ちょっとした法則を発見した。

それが、このままでいい、
という選択。

このままでいい、
ということを、どうやら、
世の中は、許してくれないようだ。

このまま、という選択をした瞬間から、
問題にぶち当たる運命を選んでいるようなもの。

それは、進歩しようとか、
変わっていこうとか思っている人よりも、
その気がない分、問題にぶち当たった時の
「騒ぎ」が大きくなる。

つまり、こんなことを言うわけだ。

何にもしていないのに...

たしかに、普通であれば、
何にもしていない、
ちょっかいを出していなければ、
問題に巻き込まれることはないような気がする。

目立たないように、
たたずんでいれば、
問題に気づかれないような感じがする。

しかし、現実は、
そうじゃない。

時が流れている限り、
世の中のどこにも、
「このまま」「そのまま」
という場所は、現実にはありえないからだ。

そもそも、
生きている人間本人が、
そのままじゃないでしょ。

生きていくこと自体が、
このままじゃないのだ。

何かを食べて生きる、
何かを出して生きる。

単純なそういう生理的システムさえ、
体の変化を生んでいる。

人間には、このままでいい、
なんて選択は許されていない。

そういう結論に至った。

あきらめて、
変わり続けていこう、
と思います。何歳になっても。

2008年12月 5日

もう分かった?

ああ、そうか、そうか、
もう分かったよ、それは。

と思う瞬間があります。

私にも、何度も何度もありました。

時には、同じようなことについて、
何度も、そう思うんです。

もう分かった、と。

それを何度も?

ん?

つまり、分かっていないことじゃないか?

分かっていないということを
認めると、なんとなく、
自分の能力のなさに
情けなく感じたりもしましたが、

最近、それは違うかもな、
と気づきました。

そもそも、
分かったなんて思えるもの
じゃない、と。

分かったなんて思うのは、
こっちの幻想であって、
分かられるようなものじゃないんです。

たとえば、
これからのアメリカの景気、
日本の景気だって、
どうなるか、分からない。

こんなふうになることは分かっている、
という人がいて、
いや、その反対だ、という人もいる。

それも、後になって、
ほら、私の言ったとおりだろ、
と言える人が出てきたとしても、
その人の予測がいつも当たるとは限らない。

やはり、もう分かった、
なんて言えるようなことじゃないんです。

それなのに、
「もう分かった」と言ってしまう、
言い切りたくなってしまう人間が、
そうじゃない結果を見て、

「ああ、まだまだ、分かっていないんだ」
と気づく。

多分、それも、ちょっと違うわけで、
まだまだ分かっていないも何も、
分かることなんて出来ないかもしれないんですよ。

そういう心構えで、
人生を、世の中を生きていったら、
もっと自由に、気楽に生きられるような気がします。

そして、もっと、がんばったりすることも。

よく言われることですが、
人生はギャンブル、

ちょっと意味は変わりますが、
人生はカオス(混沌)、

そんな感じであった方が、
誰にでもチャンスがありそうで、
なんか嬉しく感じちゃうことも発見しました。

今日も、分からないことに向けて、
がんばるぞ。

2008年12月 2日

生きてる孝行

今の医療技術では治らない、
原因も分からない、と言われることほど、
行き詰ってしまうことはないように思います。

うちの長女は、
難病ではありませんが、
原因の分からない症状があります。

今後何の問題もなければ、
わたしが心配しているだけの話だった、
ということになりますが...※強皮症
(そう願っています。)

数日前に、
長女の同級生だった女の子が、
亡くなったという話を聞いた。

元々、病弱だったように見えた女の子。
保育園のときなどはまだ元気な姿も
見えたりしたが、だんだん、
そういう姿を見ることも少なくなっていった。

妻が以前聞いた話によると、
難病だったとのことです。

難病と指定されているものに、
わが子がなっていることを思うのは、
かなり苦しいことなはずです。

そうであるかそうじゃないかを
心配している私でさえも、
ふと思い出しては、
心配になっているくらいですから。

その苦しみは、
わたしの想像を超えるでしょうね。

思い通りにやってくれない姿を
時々見ると、娘らにはイライラしますが、

思い通りも何もできない姿を見ている親に比べたら、
わたしのイライラは、かなりぜいたくでしょう。

生きているだけで、丸儲け。

という言葉がありますが、

生きているだけで、親孝行。

って思わなければいけないかもしれませんね。

自分についても、そうですね。

生きるっていうのは、決して、
当たり前のことじゃないんですよ。

忘れがちなことです。

2008年12月 1日

逃げられるかもしれない瞬間

知人が、クルマにひかれて、
重傷を負ってしまった。

初雪の日、
歩いていた知人に気づかず、
クルマがぶつかってきた。

クルマのタイヤが、
自分の足の上を走り、
車体が自分の目の前を
通りすぎていった瞬間は、
なんとも言えない恐怖だった、とのこと。

話を聞いただけでも、
ちょっと身震いをした。

そんな状況でも、
クルマの行く先をしっかりと見て、

「あ、行ってしまうかなぁ...」

と考えたらしい。

幸い、クルマは、
5mくらい進んでから停止した。

運転手は、
その知人の、知人だった。

ちまたのニュースでは、
人をひいてしまったショックで、
逃げてしまう事件が多発している様子。

逃げるどころか、
引きずってしまうという話も
少なくないから、その知人は、
救われた方なんだろう。

ただ、事故を起こしてしまった側は、
相当なショックらしく、お見舞いに来るのは、
その人の姑さんで、家庭での様子を聞くと、
放心状態に近いらしい。

逃げたとしても、
いつバレるだろうか、
という不安が止まらないだろうし、

逃げなかったとしても、
大きなことをしでかしてしまった、
という後悔ばかりが募ってくる。

クルマの事故、っていうのは、
やはり苦しいものなんだ、
と感じさせられた。

運転がそれほど上手でない私だけに、
注意しなくちゃいけないな、と思わされる。

クルマという乗り物は、
自分の手足の延長線にあるもののようで、
本当は、自分でコントロールできるものでもない。

人が人にぶつかったくらいの衝撃では済まされない。
運転しているのは人であっても、
ぶつかっていくのは、カターイ「モノ」だ。

便利だから、それを使っているのだけれど、
そういう事故が起きるのを耳にすれば、
そんなものを人間が運転していいのだろうか、
なんていう気さえしてくる。

ホントに、注意しなくちゃいけないな。

逃げたいようなことが起こらないためにも。

2008年11月21日

歩くブーツ

雪が降ってきたために、
靴やシューズでは、
外を歩くのがたいへんに
なってきました。

娘らは、自転車でなく、
歩いて学校に行く必要があるから、
なおさらです。

妻が、長女に気遣って、
オシャレなブーツをいっしょに選んで
準備をしていたわけですが、

昨日初めて履いて学校に行ったところ、
ヒールが高すぎて、4kmの距離を歩くには
向いていないことが判明しました。

そういうオシャレに関して
あんまり面倒くさくない性格の次女は、
危うく遅刻しそうになった、ということで、
急遽、実用性のあるブーツが必要に...

オシャレすぎるブーツは、
歩くには向いてない場合も
あるんですね。

それでも、街を歩く女性たちは、
必死に、そのブーツを履いて歩いていたりするから、
ホント、お疲れさまです、と思いました。

話によると、足を痛めるばかりでなく、
肩がこったり、水虫になったり、
苦労の耐えない人もいるとか。

オシャレというものは、
犠牲を払わなければいけないことなんですね。

今朝は、雪が積もっていないので、
家にあった、無難なブーツを履いて、
学校に向かった娘たち。

「おまえらに、オシャレは5年早い」
と思った私でした。

2008年11月15日

ちょうどいいところ

「ちょうどいいところで、
 切り上げていいから」

と言われて、
仕事を切り上げるのは、
よくあることかもしれません。

いっしょのチームで、
同じ目的、目標でがんばっている時であれば、
その「ちょうどいいところ」は、
一致していることが多いでしょう。

しかし、場合によっては、
自分がうまくいって
「ちょうどいい」と思ったところは、

別の人にとっては、
まだうまくいっていない
「中途半端」なところかもしれない。

すると、その人は、
こんなことを言ってくる可能性がある。

「ごめん、もう少しやらせてくれる。
 そうすれば、ちょうどいいから。」

そこで、待ってみたり、
付き合ってみたりする。

それが長くなると、しょうがない、
自分ももう少し進ませてみようか、
なんて思ったりもする。

そして、手がけ始めたと思ったら、

「ああ、終わった。
 ちょうどいいから、終わろ!」

なんて言われたりする。

え~!
ちょっと、今、タイミング悪いよ。

と素直に言えればいいのだけれど、
相手に合わせて、中途半端なまま、
切り上げると、なんとなく、スッキリしない。

そんなこと、ありませんか?

自分のこだわりを何もかも捨ててしまえば、
そんな「ちょうどいいところ」なんて
どこでもいいことになるんでしょうけど...

スッキリしたい気持ちは、
どうしようもないところもありますからね。

自分ひとりでスッキリできることなら、
何も問題ないのでしょうが、
世の中は、そんなことばかりじゃない。

ああ、スッキリしたい!

最近の、ちょっとした願望です。

2008年10月27日

まずホメる

上手にホメる、
というのは、
意外と難しい。

ホメるポイントがズレると、
わざとくささを感じさせる。

めったにホメることがない私のような人間だと、
下心があるような勘ぐりをされたりもする。

けれども、
自分にとっては、
当たり前とかたいしたことじゃないことでも、
相手の人が本気で感心していて、
ホメているなぁ、っていうのが分かると、
やっぱり嬉しくなる。

同じポイントで、
自分を見慣れている人が
ホメてくる時には、
そんなに感動しなかったりする。

ずーっと見てくれているなら、
もっと違うところに気づいて、
ホメてちょうだいよ、という感じだろう。

「もっと、ホメてよ!」

本心はそう思っていても、
まさか、ホメるポイントまで指定して、
おねだりは出来ない。

ホメるということも大事だけれど、
ホメるポイントは、もっと大切かもしれないなぁ。

ホメられて嬉しくて、

「よくそう言われるんです。」

と相手が言いたくなるような「ホメ方」っていうのは、
2通りあるように思います。

1つは、ホントに、
いつもそうホメられていること。

もう1つは、そうホメられることを待っていて、
それがヒットした時に言っていること。

人間は、みんな、ホメられたい。
ホメて、ホメられて、持ちつ、持たれつ。

お互いに、ホメあって生きていけたら、
どんなに幸せだろうか。(笑)

2008年10月17日

こんにゃくゼリーとモチ

こんにゃくゼリーの製造中止を
決断したマンナンライフ社には、
応援と同情の声が多いようだ。

うちの妻も、その一人で、
こんにゃくゼリーが好きな娘らのために、
「わたしも、署名運動に参加しようかな」と。

そういう騒ぎになる前から、
製造中止のニュースが出た瞬間に、

「えーっ!」

と言っていたくらいだから、
世論がそういう方向に向いているとなれば、
参加したくもなるだろう。

従業員は70人くらいしかいない会社らしい。

こんにゃくゼリーをのどに詰まらせて
死亡した人がいるのは事実であることから、

「こんにゃくゼリー」「死亡」
というキーワードだけは消えないことになる。

しかし、こんにゃくゼリーが、
本当に悪者か。

という議論になると、
のどに引っかかりやすいもので言えば、
「モチ」というものもある。

当たり前のことだが、
モチが引っかかって死んだからと言って、
モチをつくった人に製造中止を求めたり、
賠償責任を負わせたりすることはない。

そもそも、自家製のモチの場合だってあるから、
作り方次第では、こんにゃくゼリーよりも、
のどにへばりついたり、からまったりして、
危険度大の可能性はありうる。

2006年中に食品を原因とする窒息で
救命救急センターなどに搬送された事例は、
モチの168例が最多で、
「カップ入りゼリー」は11例だけだそうだ。

わたしも、こんにゃくゼリーが好きだけど、
事故の事実も軽視できず、
むずかしい問題だなぁと思う次第です。

2008年10月14日

じゃまがない

邪魔するものを
1つ1つ取り除いていく、
っていう作業は、
けっこう面白い。

完璧主義の人にとっては、
少しずつ理想に近づいていく様子が、
かなり快感に思えるだろう。

でも、実際のところ、
邪魔を1つ1つ取り除いていっても、
何もかも、邪魔がなくなる、
っていうことはめったにないと思う。

それに、邪魔がなくなる、
っていうことは、
本当に望ましいことか、
と考えれば、そうでもないんじゃないかな、
という気がする。

何かをするのに
「じゃまするものがない」
という状態は、
実はあんまりいいことが
ないんだよなぁ。
(ほぼ日、糸井重里)

この言葉を、どれだけ早く、
自分で自覚できるか、っていうこと。

たとえば、親が、
自分の子供にとって邪魔になると思えるものを
ぜんぶ取り除いていったら、
その子供は、間違いなく、学べない。
自覚できない。

自分にとって必要な「邪魔もの」を、
ただ、邪魔なものとしか思えなくなる。

「邪魔もの」があることによって、
自分がどんだけ成長できるか、
っていうことに気づかないで
大人になってしまう。

私を成長させてくれたのは、
たしかに、応援してくれたものもあるけど、
邪魔ものも影響力大なんだよね。

邪魔は必要なんだな、やっぱり。
うーん、ガマンして成長しよう。

2008年10月10日

気遣い娘と、耳の遠い親

わが家のことながら、
妻と、その父親の会話を
聞いていると、ホントにイライラしてくる。

まず、気遣い娘の妻は、
たいして大切でないことでも、
隅から隅まで話そうとする。

すると、必ず、

「あ?」

と聞き返す父親。

それをさらに教えようとすると、
また、父親が聞こえなくなり、
(分からなくなり?)

「あ?」

と聞き返してくる。

「あ?」



「だからぁ~」

の繰り返しの会話。

妻がもっとシンプルに、
枝葉を切り取っちゃって、
話せばいいものをと思いながら、
二人の会話を聞いている。

というか、聞きたくなくても、
二人で大声で叫んでいるから、
耳に入ってくる。

改善しなくちゃいけないのは、
間違いなく、娘の方だと思う。

気遣いすぎて、ていねいに話しているつもりが、
理解と忍耐を超える言葉数と内容に
なってしまっているのだ。

それに気づけない、
気づいても直せない「気遣い性格」。

話し終わると、
「耳が聞こえなくて困ったよ。」
とボヤいてくる妻だが、

「おまえが悪いんだよ。
 アメリカ人だと思って話したほうがいいよ。
 ズバっと結論。そして、理由。
 でなきゃ、耐えれないって。」

なんて教える毎日だけど、
いっこうに改善されず、
大声の会話は、
これからも毎日のように
続くんだろうなぁ...

はぁ~っ。

2008年10月 8日

知らないという勇気

「あの方は、たしかに名医かもしれませんが、
 本当は、外科の先生ですからね。」

次女の顔にできた「湿疹」が、
なかなか治らないために、
いつもの小児科へ妻が連れて行った。

その小児科へ行く5日前ほどに、
気になってきたので、妻が、
皮膚科もやっている個人医院へ連れて行った。

皮膚科へ行くことなんて、
めったにないもんだから、
総合病院に行くことしか思いつかず、
そこまでのことでないだろう、と面倒くさがったのが、
かえって、面倒くさいことになってしまった。

私も、子どもたちが小さい頃に、
紹介されて行ったことのある皮膚科を
思い出せればよかったのだが...

その時には、私も軽く考えていたのだろう。
せいぜい、いつもの小児科へ行くことしか思い浮かばず、
妻が、小児科よりだったら、皮膚科に行った方がいいよ、
という言葉に、納得してしまった。

心の中には、
そこの医院で大丈夫かな、
という心配はあったが...

「湿疹」という判断をされ、
薬などももらってきたことで、
ちょっと安心していた。

しかし、1日、2日、3日と経っても、
まったく良くなりそうもない。

おまけに、その先生は、
薬を14日分も渡してくれているから、
長くかかるものだと思い込むことになっていた。

それにしても、治る気配がない。

たまりかねて、昨日、
小児科へ行ってこい、と妻に言う。

そしたら、冒頭の言葉。

「あの方は、たしかに名医かもしれませんが、
 本当は、外科の先生ですからね。」

さらに、

「私の専門外で、よく知らない部分もありますから、
 私の判断で大丈夫かということもあるので、
 信頼のできる皮膚科の先生を紹介します。」

と言われて、別の皮膚科へ行くことになったらしい。

診断の結果:とびひ。

まったく違う病気だ。
お医者さんのせいばかりにも出来ないが、
今回は、勉強になった。

知らないことは「知らない」と言える人ほど、
自分の経験だけに頼って「知ってる」振りをする人より、
信頼できる。

きっと、最初は、ちょっとした傷口だったところに、
次女が、汚れた手で菌をつけてしまったんだろう。
自業自得な面もあるけれど、必要な処置を始めるまで、
時間がかかってしまい、ちょっとかわいそうな目にあうことになった。
親子ともども、いい勉強になったわけだな。

2008年9月29日

ティッシュの季節

あんまりにも鼻水が出て、
ちょっとめんどくさいなぁ、
と思いながら、

去年の日記をひもといてみると、
やっぱり、同じようなことを感じて、
それを書いているページがある。

見てみれば、
日付は、10月14日。

今年は、2週間ばかり早いんだな...

残暑のおかげで、なんとなく、
長い夏を経験していたような気分だったけれど、
あっという間に、寒くなった感じだ。

しかし、今週は、
また暖かくなってくれる、
という天気予報らしく、
ちょっとは期待している。

とは言っても、やっぱり秋。
朝昼の寒暖の差が激しくて、
ティッシュが欠かせない日々になるかもな。

原油高のせいで、
ティッシュの値段も以前より高いまま。
ちょっとは節約して使おうなんて
思う時もあります。

でも、止まらない鼻水にはかなわず、
ティッシュを引き出しては、
鼻をかみかみ、午前中を過ごしています。

鼻水だけならまだしも、
ツバを飲み込んだ時に感じる、
鼻の奥のツーンとした痛みというか刺激というか、
あれも、イヤなんですよね。

みなさんも、ありません?

夜中なんかには、特に敏感になって、
眠りを妨げられもします。

鼻炎スプレーなんかをやって、
しのぐわけなんですが、
そのスプレーの効き始めが、
また刺激が強くて、ツライ...

うーん、この季節。
あと2週間くらい続くかもしれませんが、
なんとか、乗り越えたいものです。

ファイトだぁ!

2008年9月11日

エアロビクス

ちょっと太めの女の子を見ると、
なんとか、やせさせてみたいものだ、
と思うことがあります。

エアロビクスなんかどうだろう...
なんて、大きなお世話を考えていたりする。

わたし自身も、5年前ほどに、
エアロビクスをしたことがあるので、
あのビートに乗って、
全身を動かすことの爽快感は、
やっぱり、度々思い出される。

その爽快感を味わって、
やせさせたいなんて、
思っちゃうんですよ。

ホント、大きなお世話です。

見ず知らずの人間に、
そんなことを考えられているなんて
思いもよらないでしょうから、
その太めの女の子の気分を
害することもないわけですが...

なんか、本気で自分がやりたくなって、
今は、どんなダンス・ミュージックが
あるんだろう?

なんて、早速、
インターネットで検索してみました。

いろんなCDがあるんですね。

検索するのに、
ハマってしまいました。

インストラクターの方たちが選んだっていう、
インストラクターズチョイス2008
なんていうCDが売っていたりするんですね。

なつかしの映画「フラッシュ・ダンス」の曲なんかも
入っている。ちょっと、体を動かしたくなります。

お手頃なのはないかなぁ、と言えば、

エアロビート~ダンス・ポップ・ヴァージョン
というのがあったりもする。

うーん、早速、欲しくなったりする自分が、
おかしくもありますが、昔やったステップを
忘れているんじゃないか、という心配もあって、

なにかいい本はないか、と探してみれば、

DVDでレッスン!はじめてのエアロビクス
なんていうお手頃な本もある。

世の中、探せば、
ホントに何でもすぐに見つかるなぁ、
っていう気がします。

さあ、あとはやるだけ。
いつ、やるんだ?

2008年9月 3日

動かしたい

体型が影響してくる性格。

必ずしも、というわけではないが、
なかなか動きたくなくなる体型の方は、
やっぱり、性格も、おっくうな面が出てくる。

もちろん、その半面、
他人を動かすことに対しては、
かなりせっかちだったりもするが...

目の前にある食べ物とか、
おいしそうな料理が出てくると、
その動きは、素早い。

しかし、何かを言いつけられたり、
何かを頼まれたりした時には、
動く魅力が半減して、
ほとんどといっていいほど、
ノラリクラリと動き始める。

待たされている方は、
イライラ。

なんとかして、素早く動かしたい。
けれど、この体型をなんとかしないことには、
本人も動きづらいだろう、なんて考え出す。

いっしょにダイエットに協力してやろうか、
なんて善意で思う人もいるかもしれない。

しかし、本人がやる気のないところへ、
他人が思いついたダイエットなんて、
成功するわけがないのだ。

医者とか施設にでも入って、
専門的な治療や対応でもされるならまだしも、
ほんのちょっとの間しか顔をあわせない人に、

他人のダイエットを完遂させる力など
あるわけがない。

ということは分かっていても、
なんとか動かしたい。
どうすればいいんだろう...
なんて考え出す。

考えるだけ、ムダムダ。
本人がその気にならない限り、
絶対に無理なんだよ。

って思いなおしながらも、
あきらめきれない。

この人の動きさえ良くなれば、
わたしも楽になるのに...

そう思うような相手、
いませんか?

2008年8月19日

集めるより捨てる

いろんなものを集めて、
とはいっても、

他の人に比べれば、
そんなに多くのものを
集めているわけじゃない私だけれど、

それでも、いろんなものが
集まっていることを感じる。

見えるものに限らず、
見えないものも。

集めたものが、
みんなみんな感情をもっているとは限らないけど、
必ず、付き合う時間が求められる。

それについて考えたり、
それを整理したり、
それを捨てようかどうか悩んだり。

1つ捨てれば、
そこにポッカリ空いたところに、
何かまた埋めたくなるのが人間。

知らず知らずのうちに、
また、別のものを集めちゃっている。

悩みの種は尽きない。

集めれば集めるほど、
豊かになるような気がするけど、
付き合う能力がアップしていかない人は、

集めれば集めるほど、
苦しくなっていたりする。

捨てれなければいけない。

それも、大切でないものを、
ちゃんと判断して捨てる能力が必要。

一番いいのは、大切でないものは、
最初から集めない、っていう方法だけれど、
そんなことは最初から分からないのが普通だ。

人は、集めてみないと分からない。

集めて捨てて、集めて捨てて、
なんてことをくり返していたら、
この世の中はゴミだらけになっちゃう。

でも、考えてみれば、人の体そのものに
必然的にゴミを出す(排泄する)システムが
あるんだから、それは当たり前のことなんだろう。

捨てる技術が必要な時代だなぁ、
っていう気がする。

そして、出来れば、地球のことを考えて、
次の使い道にうまく回す方法もあったらいい。

所有しているものが、かなり少ない私でも、
捨てるものはいっぱいあるなぁ、って思うこの頃です。

2008年7月13日

スイッチ間違い

わたしの朝の当番は、
お米を洗いなおして、
炊飯ジャーのスイッチを入れること。

わが家での当番です。

多分、2回目のミスを、
今朝してしまった。

おそらく、わたし以外でも、
ご経験された方はいらっしゃるだろう。

炊飯ジャーの炊飯スイッチでなく、
保温スイッチを入れてしまう失敗です。

そうなると、お米はどうなるか。

まず、炊飯ジャーを開けると、
おかゆっぽい状態のご飯が見えます。

ああ、失敗した...
と気づきます。

で、食感とかが、おかゆみたいな感じなら、
まだ救いがあるのです。

ところが、そうはいかない。

ご飯っていうのは、
熱い温度でないと炊けないんだな、
っていうのを実感することになります。

どう表現したらいいんでしょう?

方言になるのかな。
メタメタしたご飯、
お米の粒に、じわじわと周辺から
お湯が沁み込んでいったような感じのご飯。

モサモサしたような食感、
それでいて、中心部分には固さが残っていたりする。

ハッキリ言って、食べられるもんじゃないです。

この上なく飢えていれば、
話は別かもしれませんが...

サイトで検索してみると、
おかゆ状態にして食べたり、
次に炊飯する時に、少しずつ混ぜ合わせて食べたり、
という工夫をしてがんばる人もいるようです。

それでも、最終的には、

耐えられない!

となるらしい。

ちょっとスイッチを押し間違えるだけで、
こんなことになります。

もっと大変なことが起きるスイッチも、
世の中にはあるでしょうから、
そんなスイッチが間違って押されることのないよう、
祈るばかりです。

2008年7月 7日

一文字

文字1つがつくか、つかないかで、
話がまったく違ってくることは多い。

たとえば、病気とかだと、
その違いには、
ナーバスにならざるをえない。

「うつだー!」

っていう落ち込み状態と、

「うつ病だー!」

っていう病気状態では、大きく違う。
一方は、ひどくなれば、
自殺の心配とかありますからね。

「ちょー、はげしー!」

っていう感嘆文と、

「ちょー、ハゲー!」

じゃ、その場で振り向く人の表情も、
まったく違うだろうしね。

言葉は、シンボルでしか
ありませんが、

それから受ける印象、イメージには、
人それぞれの重みがあって、
すんごい意味があったりするので、
微妙な存在なんですね。

ハも、ゲも、ウも、ツも、
たった一文字で、
たいした重みもないけど、

ヂ!

っていう一文字を聞くだけで、
お尻が痛くなる人もいるだろうし。

一文字の力って、
すんごいなぁ...と思うわけです。

だから、言葉を使うときには、
ちょっと気にかけることも増えてきます。
(とは言っても、かなり未熟ですが...)

最近、ちょっと気にしているのは、
パニックるという言葉です。

うちの長女は、けっこう簡単に、
パニックることが多いです。

けれど、「パニック障害」という病気もあって、
突如として、動悸が激しくなったり、息苦しくなったり、
めまい、冷や汗、震え、呼吸困難などに至る人も
いますからね。

パニックって、
頭が真っ白になるのとは、
話の次元が違うわけです。

もっと高度なパニックというか、
自分だけの問題でなく、
周辺をも不安がらせてしまう問題にもなる。

間違っても、

パニック障害だー!

なんて言っちゃいけませんね。
まったく別物のようですから。

2008年7月 5日

時間の長い戦い

今晩の10:05からは、
女子テニスの決勝が行われる
ウィンブルドン2008。

シャラポワなどの美人どころが、
すべて破れていて、
視聴率などはどんなものか、
と思うところだが、

わたし自身は、録画をして、
しっかりと見ている。

それにしても、
試合時間が長すぎ...

きっと、得点の取り方が、
長くなるようなシステムなんだろう、と思う。

まず、1つ1つの得点ポイントは、
分かりやすくて、見ていて面白い。

スピードのあるサーブが鋭く決まったり、
反対に、サーブを2回連続で失敗(ダブル・フォルト)したり、
ラリーが続いているなかで、意表をついたコースに入ったり、
ネットに向かって走りより素早いボレーで決めたり、
プレイのシーンは様々だ。

しかし、その後が長い。

そういう1つの得点ポイントを積み重ねて、
4ポイントを取って(あるいは相手より2ポイントをリードして)、
1ゲームを勝ち取らなければいけない。
(ご存知の方も多いと思うが、実際には、
 1ポイント目を15、2ポイント目を30、3ポイント目を40と呼ぶ)

次に、そういうゲームを繰り返して、
6ゲームを取って(あるいは相手より2ゲームのリードをして)、
1セットを勝ち取らなければいけない。

そして、それを2セット、
勝ち取らなければいけないわけだ。

つまり、試合が長引く要素が2つ。
1ゲームの中で3-3(実際には40-40と呼ぶ)と競った場合と、
1セットの中で5-5と競った場合だ。

差を「2」に広げるまで、
シーソーゲームがくり返される。

テニスのルールを考えた人は、
かなり慎重な人だったと思わざるを得ない。

本当に「勝った」ということは、
難儀した上でのことなんだよ、
と教えているかのよう。

けれど、出来れば、ルールを変えて欲しいなぁ、
って思います。

卓球は、観客のことを思って、
ルールを変えたんですよね。

やはり、面白いと思えるスポーツには、
スピードが感じられる。

長々と、ダラダラとしている感じでは、
飽きられやすいことでしょう。

いや、あれがテニスの醍醐味だ、
という人も、いるでしょうけどね。

スポーツは見る側のことも思って、
変わっていかなくちゃいけない。
何事もそうかもしれないな、と感じます。

2008年7月 1日

ヘアスタイル

自分のヘアスタイルなんて、
それほど気にしていない私も、

高校生くらいの時には、
えりあしを伸ばしたりして、
今思えば、ちょっと恥ずかしい
ヘアスタイルをしていた。

昔の写真を見ると、
顔から火が出る...

天然パーマだったうえに、
寝ぐせも付きやすかったことから、
1日に何度もシャンプーしていたこともあったなぁ。

そのたびに、いろんなヘアスタイルに
セットしてみる。
なんと、暇なことをしていたもんだ。

昨日、マイカーの車検のご案内のために、
ディーラーの営業マンが、わが家をふいに訪れた。

見積書をもってきた彼。
どこかで見たことのある顔。
そうだ、近くのスーパーの店員だった人だ。

ヘアスタイルが、まったく変わっている。
坊主頭。以前は、パーマをかけていた。

2つの素朴な疑問。

なぜ、坊主頭になったのか?
なぜ、スーパーを辞めて、車の営業マンになってるのか?

この2つを掛け合わせると、
人それぞれの選択があるような気がしてきた。

実際、2度目の訪問であったことだし、
他に頼む予定もなかったので、
車検の予約を入れた。

坊主頭の印象が良かったのか。
それとも、スーパーで見慣れていた顔が良かったのか。

わたしは、髪の毛が薄くなったら、
坊主頭にしようと思っている。

少ない髪の毛を大切にするかのように、
洗う回数を減らして、地肌にベタッと
バーコード上に伸ばしているのは、
やめた方がいいと考えているから。

わたしの髪の毛は、何歳までもつかな。

2008年6月15日

大きな揺れ

昨日の8:43、
私は、娘たちの練習試合ということで、
娘二人と、その同級生二人の4人を乗せていき、
わが家から50分ばかりの中学校体育館にいました。

当初は、仕事のために、
岩手県盛岡市に向かって
列車で移動している可能性もありました。

ところが、1日がかりの練習試合をするとのことで、
その仕事の方は、ほかの方にお願いして、
練習試合への往復運転係をやったというわけです。

そして、その8:43。

まもなく、娘らの練習試合が始まろうとするところに、
その体育館の壁というか、幕というか、窓ガラスが
揺れ始めました。

最初は、列車が通る際の揺れが始まった
と思ったのですが、そこの近くには、
線路などなくあるわけでもなく、

あっという間に、ものすごい揺れとなって、
体育館の天井から、何か落ちてくるのでは、
と思うほど、ちょっと怖い状況でした。

考えてみれば、
震源地の岩手県南部に近い場所でしたからね。
震度5+だったようです。

体育館のように大きなところにいると、
天井がすべて落ちてくるかもしれない、
っていう心配が湧いてきますね。

日本で生活しているのは、
幸せなことかもしれない。

きっと、1ヶ月前の中国の四川でも、
だいたい同じレベルの地震が起きて、
日本ほど建物の造りがしっかりしていなかったから、
ああいう大惨事になったんだろうなぁ、
って想像が膨らんできました。

大きな揺れが続いているなか、
ステージの上で監督会議を行っていた先生たちが、
卓球台の下に隠れろ、という指示を出したので、
みんな従いました。

私も、すみっこに入りました。

ちょうど、わが家には、
その盛岡でお会いする予定だった方から、
電話が入っていたらしく、

「もう、家を出られましたか?」
という安否の質問。

「今日は、ほかの方にお任せして、
 別件で出かけています。」
と返事をした妻。

「それは、良かったかもしれませんね。
 こちらは、新幹線で足止めされてしまって、
 盛岡に行くのに時間がかかりそうです。」
というような言葉だったらしい。

たしかに、出向いていくのも、
危険だったかもしれないし、
出向いていっても、
相手方と会えなかったかもしれない。

そう考えると、練習試合の場にいて、
子供たちといっしょに行ったことは、
良かったことでしょう。

もし、練習試合に連れて行く方を
誰かにお願いして、自分が盛岡に向かっていれば、
自分の身も危ない上に、心配が尽きなかったでしょうから。

被害に遭われた皆様に、お見舞い申しあげます。

2008年6月13日

思い出で作られてる生物

もし、人間が、
誰しも姿形がほとんど同じで、
体格や運動能力にも違いがなく、

違いといえば、
目のちょっとした大きさとか、
鼻のちょっとした向きとか、
唇の色くらいなもんだとしたら...
(ちょっと気持ち悪い光景だな、
 映画「アイ・ロボット」を思い出します。)

どうなるんだろう?

ある意味、みんな、双子、三つ子みたいな感じ。

ちょっとした違いとは言え、
きっと、人間は、それで、
他人の区別をやれるようになるだろうなぁ。

ただ、区別には使うとしても、
外見が、美人か、そうでないか、
の価値判断をするものにはならなくなるかも。

としたら、
人を美人かそうでないかを決めるのは、
その人の持っている性格か、
その人の持っている「思い出」か、
っていうことになるのかもしれない。

思い出が、美人かどうかの決め手。
というのは、ちょっと面白い世界だ。

今この世界では、
長々と何度も語られる思い出話には、
ちょっと退屈を感じたりするもんだけれど、

思い出話に、見えない美人力みたいなものがあって、
それに耳を傾けることによって、
時には、クラクラしたり、時には、しびれたり、
なんてことがあるとしたら、
一生懸命、耳を傾けるだろうなぁ。

見ることよりも、
聞くことが発達する世界に
なるかもしれない。

他人との違いを決めるのは、
思い出しかない世界だから。

...

うーん、実は、
今の世界においても、
他人と自分の違いは、
思い出にあるかもしれないな、
って思います。

ただ、思い出以外にも
見られるところがいっぱいあるから、
そういうことは忘れられているけど。

人間は、思い出で作られてる生物。
見た目は似ていても、
思い出というパーツは、
人それぞれ違うから、
作り始めには似ていても、
時間が経てば、どんどん違っていく。

そして、なかなか完成しない。
生きている限り、思い出パーツは、
どんどん増えていくからね。

人は、思い出なしでは生きていけない。
性格だけが、その人のすべてじゃない、
っていうことだね。

もちろん、性格を作ったのは、
いろんな思い出だろうけど。

そう考えたら、もっと、
他人の思い出に関心を持ったほうがいいな、
っていう気がしてきました。
それが良いものであれ、悪いものであれ。

自分の思い出に対しても、そう。
でも、こんな考えが出てくるのは、
年をとった証拠かなぁ...

2008年5月31日

菓子パン家族

わが家の人たちは、
みんな、菓子パンが大好きだ。

とってもおいしいケーキが
食べたい時もあるけど、

もうちょっとボリュームがあって、
100%お菓子でもなくて、
おいしい甘系のものと言えば、
わが家の人たちの脳には、
菓子パンが思い出されるらしい。

昨日は、娘たちの中学校で
体育祭があって、
日焼けした真っ赤な顔で帰ってきた二人。

次女の顔の方は、ひどい。
こりゃぁ、ヤケドに近いなぁ、
と感じた私は、
日焼けを癒す薬とか買ったほうがいいなぁ、
と思って、出かけることにした。

インターネットで調べると、
ヒリピタクールなんていう、
まさしくそのものというネーミングの商品を見つける。

出かけようとする背後から、
「菓子パン、買ってきて!」
というリクエスト。

生クリームが入ったヤツ、
大きいヤツ、
チョコレートのヤツ、
勝手なリクエストをしてくる。

「俺がおごることにするから、
 俺にまかせろ!」

というセリフを残して、
いっしょに行きたいという三女を連れて、
夜のドライブへ。

ドラッグストアに行って、
店員に尋ねると、
探していたヒリピタクールの売り場に
案内される。

あった、あったと思いきや、
顔以外であれば、どこにでも使えます、
という店員の言葉。

スプレーだから、手にかけてから、
顔にかけるんじゃダメですか?

と尋ねると、やっぱり、やめた方がいいとのこと。

顔であれば、化粧水タイプがオススメです。
と、あまた、店員のお姉ちゃんの後についていく。

ヒリピタクールの半額の値段だから、
ま、いいか、と思って、レジに向かった。

さて、いよいよ、菓子パンを買いに向かう。

最初のお店、目ぼしいものがない。
じゃあ、量で勝負だと思いかけたが、
量で勝負しても、満足してもらえなかったら、
かけたお金がもったいなくなる。

どうせ、同じくらいのお金を使うなら、
ちょっとはリクエストにそった菓子パンを探そうと、
2店目に向かう。

うーん、これまたない。

3店目、ビンゴ!というわけにはいかないが、
リクエストに近いものがある。
おまけに、食べ盛りの娘たちを満たすだけの量も
ありそうな菓子パンたち。

早く、日焼けを癒してあげようと出かけたわけだったが、
日焼け化粧水を選ぶよりも、
菓子パンを選ぶことの方に時間がかかってしまった。

それもこれも、
わが家の人たちの食い意地のせいだ。
しょうがないべ。

今日は土曜日だけど、
娘たちは練習試合。

酔っ払いのような、
真っ赤な顔をして、
出かけていった。

明日も、あさっても、
治らないだろうなぁ...

2008年5月28日

失った意味

何かを失った時には、
その意味を知りたくなる。

それまでに、
自分の元にあったものが、
失われるというのは、
何らかの悲しみをもたらすから、
どうしても、意味が分かりたい。

実際、その意味が分かったとしても、
その悲しみは、消えないかもしれない。

消費者庁、の設立のために、
ガス湯沸かし器事故で子供を亡くしたお母さんが、
活動している姿。

お母さんの姿を見て、
子供を亡くした意味を、
このお母さんは、
何度も何度も考えさせられただろうなぁ、
と感じた。

そして、きっと答えは見つからなかった。

そんなに簡単に見つかるような答えなど
あるはずがない。

子供の命、についての答えだ。

だから、自分が行動することで、
その意味になろうとするのが
人間のように思う。

行動することが意味、
行動することが答え、
行動することが目的。

失ったことを考えれば考えるほど、
さらに苦しみが増してしまうから...

私は、幸いなことに、
命ほど大切なものは、
失っていない。

私が失ったものなど、
命に比べたら、たいしたものじゃない。

それでも、何かを失った時には、
その意味を考えてしまう。

自分の生きる姿を、
「意味」にしよう。

失ったものがあっても、なくても、
そういうことが大切に思いました。

2008年5月24日

200kmドライブ

久々の長距離ドライブをしました。

娘らの大会のために、
206kmほどをドライブ。

途中、眠くなったりして、
休まなくちゃいけないのかなぁ、
と自分では考えたのですが、

そのドライブが快適で快適で、

宇多田ヒカルのアルバム「Heart Station」を
大音量で聴きながら、あっという間に、
現地に着きました。

ああ、宇多田ヒカルって、
本当に、歌をつくるのも、歌うのも、
上手ですね。

このアルバムは、最高にいいって気がします。

ケータイのダウンロードも
最高記録を伸ばしているとか...

とにかく、いい歌だ。(うただ?)

ふと思いました。

この人が年をとったら、
どんな容貌になって、
どんな歌を歌うんだろうなぁって。

サザンについて言えば、
見た目とかはあんまり意外性もなく、
そのまま年を重ねて、

長い間愛されるグループになって、
今回は、無期限の休止宣言。

宇多田ヒカルっていう人は、
どんな年のとり方をして、
どんな歌を歌う人なって、
どんな人になるんだろう。

曲を聴きながら、
そんなことを想像しました。

で、あっという間に到着。

途中、私の前を、
郵便配達のバイクが、
いいスピードで、
青空の下を気持ちよく、
走っていました。

けっこう長い間、
その後ろを走って、
ちょっとしたツーリング状態を
楽しんでいたことも、
ドライブに飽きなかった理由でしょう。

娘らが、勝ち残れば、
今日も宿泊で、それはそれでよし。

負けたとしても、ドライブを楽しみに、
今日は、一生懸命、応援してきます。

2008年5月17日

覚えているカラダ

婿入りしてから、
自分がよく行くお店が
いろいろと変わった。

変えざるを得なかった、
というのが正解かな。

その1つに、床屋さんがある。

最初に行った床屋さんは、
とっても丁寧で、
丁寧すぎて1時間半もかかって、
イヤになってしまった。
(それまでは、1時間くらいで
 終わっていたからね)

ちょっと急いで、と言えば、
なんとか1時間チョイで終わる感じ。

そう言いながらも、
6年くらいは通ったね。

私にしては、よく忍耐したもんだ。

とうとう、我慢がならなくて、
早く出来るところがいい、と妻に言ったら、
妻が行く美容院を紹介された。

たしかに、早かった。
30分で終わった。
もちろん、理容院と違って、
顔そりなんかはないけどね...

そんなことは、私も、
必ずしも必要としていなかったし。

ところが、今度は、
30分で終わるくらいのことなら、
もっと安くできるところがあるんじゃないか、
と思い始めた。

自分のヘアスタイルにそれほど執着のない私だから、
そんなことを考える。

見つけた、見つけた。
おばちゃんがやってるところ。

美容院通いは5年間で終わり。

そのおばちゃんのところへ通ってから、
ちょうど3年になる。

わたしの頭のかたちとか、
髪の毛質とか、どれくらい切るかとか、
そういうことはよく覚えてくれているが、
それ以外のことは、ほとんど覚えていないようだ。

まず、けっこう、
毎回同じ話をしてくる。
60歳は超えている方のようだから、
これは、しょうがないとしよう。

次に、ヘアカットが終わった後のサービスとして、
いつも栄養ドリンクをあげる店のようだが、
私が毎回断っているのを忘れている。

最後に、もちろん、
前回いつ来たか、なんて覚えていない。

覚えているのは、髪についてのことだけのよう。
それはそれで助かる。

職業柄で、人に対して覚えているところって、
違うんでしょうね。

ホントかどうか分からないけど、
産婦人科の先生は、顔を見ても思い出さないけど、
アソコを見ると、思い出すとか...
(朝からすみません)

ホントかなぁ。

歯医者さんは、歯を見ると、
思い出すのかな。

昨日ヘアカット、行きました。
今日は娘たちの卓球大会だから、
ちょっとスッキリと行きたくてね。

昨日も、栄養ドリンクを渡そうとした、
おばちゃん。ありがとう。

でも、まだまだ要らないよ。
元気なヤツだから...

2008年5月 8日

かための歯ブラシ

気分的には、
スッキリ感が強いような気がして、
かための歯ブラシというのが
好きな私です。

皆さんは、いかがですか?

ここ数年は、歯医者さんに、
ふうつでいいですよ、
と言われて、ふつうの歯ブラシを
選んでいたのですが、

昨日、新しい歯ブラシを入手しようと、
お店に行ったところ、

私の買おうとしていた歯ブラシでは、
ふつうが残り1個だけ、
かためが残り8個くらいだったかな。

という感じで並んでいました。

気分的には、
助かったー!、残りの1個だった、
となるような感じでしたが、

どうも、隣りに並んでいる「かため」が、
気になりだしてしまい、何度も手にとっては、
うーん、スッキリするだろうなぁ、
みたいな想像をふくらませていました。

そこで、とうとう、
久々の「かため」を購入。

しばらくは、かための歯ブラシで、
スッキリさせてもらいます。

極細タイプの毛先にしてから、
歯茎もけっこう強くなったようなので、
かためにしても、とりあえずは、
大丈夫でしょう。

とにかくスッキリしたい私にとっては、
この極細毛先と、かための組み合わせが、
ベストに思えてなりません。

昨晩から、歯みがきを楽しんでおります。

自分の歯で、食べ物が食べられる幸せ、
っていうのを長く続けるためにも、
ちゃんと歯を磨かなくちゃね。

世の中には、役作りのために、
若くして、歯を全部抜いてしまう俳優さんも
いたりするようですが、

中途半端な私には、
そんな勇気は、とてもじゃないけど、
出てこないでしょうね。

自前の歯でいつまでも食べていたい。
たいしたものを食べているわけじゃありませんけど、
入れ歯の管理の手間などは、
永遠にない方がいい。

今日も、シャカシャカ磨きます。

そういえば、6月4日は、虫歯の日とかって、
小学校の時に、習ったな。

来月かぁ...

2008年5月 4日

邪魔していた

助けていたけど、
邪魔もしていた。

親が子供を助ける一生懸命さには、
知らず知らずのうちに、
そんなことがあるように思う。

親と子の関係でなくても、
それに近いものがあるかもねぇ...

わたしも、
自分の子供の邪魔をしたくない、
と思いつつも、

振り返ってみれば、
かなりの邪魔をしていたことを
思い出したりもする。
苦笑いです。

まわりが見えなくなるほどの一生懸命さ。
もしかしたら、誰にでもあるかもしれない。

たとえて言えば、
精一杯がんばれと背中を押しながら、
コートのすそを踏んづけて
相手が前に進めないようにしている感じ。

相手が踏んづけられていることに
気づいてくれるならまだいい。

気づかなければ、
ああ、ごめん、踏んづけていた、
とこちらが気づくまで、相手は進めない。

気づき、っていうのはタイミングがあります。

もっと早く気づけば、と思っても、
「時」というものがある。

助ける側も、助けられる側も、
それぞれに成熟していかなければ、
その時は来ない。

まわりの人間がいくら分かっていても、
本人たちが、助けと邪魔に気づかなければ、
どうしようもない。

助ける側が助けることを当然と思い、
助けられる側が助けられることを当然と思っているうちは、
何の変化もない。

当然なんてことはない。

人は、必ず、
助けられる側から、
助ける側に変わっていく。

そして、そのうち、
助けられたりすることもあって、
また、助けたりすることもある。

そういうことの繰り返し。

それに気づくことが、
とっても大切だと
思うようになった。

介護されるってことも、
そういうことかもね。

2008年4月30日

聞こえたり、聞こえなかったり

ガソリン価格が、
またアップするという、
この月末。

昨日は、
祖母へ会いに行く途中、途中の
ガソリンスタンドに、
行列が見られた。

その時には、
そんなに気にならなかったが、
今日が、その最後の月末30日。

わたしも、
ガソリンを入れに行かなきゃいけないなぁ、
と思っている。

売れ切れです、
なんて言われたら、
どうしよう...

ガソリンが好きなわけでもないが、
また、ガソリンの話で始まってしまった。

さて、昨日は、あらためて、
実際に会ってみることの大切さ、
っていうのを知った。

想像していた以上に、
祖母は元気だった。

もちろん、体の方は、
だいぶ弱ってきていて、
叔父夫婦の体力に大きな重荷と
なっていることは事実のようだ。

しかし、しゃべる言葉のハッキリしている状態は、
まだまだ元気に生きていてくれそう、
という感じだった。

娘らには、会うのは今日が最後かもしれない、
なんて言い聞かせて、出かけていったが、
娘らが食べさせたケーキも、ぺろっとたいらげたし、
間違いなく、大丈夫だろう。

ただ、耳だけは、...だった。

不思議なものである。

最初は、そんなに大きな声でなく、
普通に話しかけていても、
聞こえるようだったが、

急に、聞こえなくなる。

まったく、冗談のような話で、

「あ?耳が聞こえなくて」

なんて言い出す。

おいおい、さっきまで、聞こえていたじゃないか。

と思って、大きな声で話していれば、
そのうち、また、普通の声で話していても、
聞こえるようになる。

集中力?

それとも、話題によって、
聞こえたり、聞こえなかったり?

もしかして、話題かもしれないな。

自分の体のこととかの話は、
あんまり聞きたくないようだ。

しかし、食べ物とか、
娘たちの話だと、よく聞こえる感じ。

耳にも、スイッチがあるのだろう。
聞きたい時、聞きたくない時。

今すぐにでなくとも、
間違いなく、残りわずかな日々において、
無理して聞かなくていいことは、
聞かずに済ませたいのは、
たしかに当たり前のこと。

私の耳にも、そんなスイッチが欲しい。

2008年4月29日

ゴールデンウィークだぜ!

気分的には、今日あたりから
ゴールデン・ウィークになろう、
と思っています。

でも、
やりたい仕事もあるので、
気分だけです。

そ、やりたい仕事です。
やらなければいけない仕事でなく...

でも、家族との時間を削ってまで、
やることだけは、避けようと思っているわけで、
やっぱり、ゴールデン・ウィークには、
ちょっとしか出来ないかな。

やりたい仕事に、
ちょっと待った、をかけられている状態、
っていうのは、気分的に心地よい。

いつ、その仕事と向き合えるか、
と思えば、けっこうワクワクするんです。

そのワクワク感が、
また、いいアイデアを湧きあがらせてくれる。

結局、手では仕事をしていなくても、
頭の中ではどんどん仕事が進んでいて、
いざ、その仕事と向き合った時には、
仕事の質が変わっている、
ってなことも、けっこうあるわけで。

頭の中の仕事、っていうのも、
つくづく面白いもんだと思います。

私の場合、
ゴールデン・ウィークだぜ、
と思った瞬間から、
不思議と、頭の回転がよくなる。

これって、なんでしょう...

仕事と遊びって、
もともと両立できるものなのかも。

仕事の延長線上に遊びを置くことも、
遊びの延長線上に仕事を置くことも、
あんまり変わらない。

ゴールデン・ウィーク中、
頭の中の仕事を楽しんでいきたいと思います。

まずは、今日のスケジュールを
楽しむことから。

2008年4月18日

思い出が財産

新しいことに、
あまり感動がなくなって、

自分自身も、
新しいことに
チャレンジをしなくなると、
きっと、思い出だけが、
大切になってくると思う。

もし、そんなふうに思う時期があって、
それでも、思い出を増やしたいとしたら、
何かをしないことには、
新しい思い出はできない。

いつもいつも、
同じ思い出を心に呼び込んで、
人生を生きていくのは、
けっこう退屈じゃないかなぁ…
と私は思ってしまう。

しかし、
昔の思い出ばかりが
楽しく思えてしまう人には、
そんな退屈はないだろう。

思い出話を、
100回以上聞かされる方は、
飽き飽きしていても、

100回以上それを話す方は、
まったく飽きていないはず。

話している瞬間に、
そのシーンに再び
立っているような気分を
何度も味わっているだろうなぁ、
って感じる。

嫌な思い出であれ、
いい思い出であれ、
同じことだろう。

思い出、思い出…

わたしも、欲しいものを
いっぱい集めて、
もう何も欲しくなくなった時には、
思い出だけが財産になるのかなぁ。

まだ、ささやかですが、
欲しいものがあるようなので、
その段階には、来ていないようです。

お金で買える「思い出」。

旅行でも、何かの体験でも、
結局は、そういうことかもしれない。

お金で買えるモノには、
不自由しなくなった時に、
人は、お金で買える「思い出」を
求め始めるのかも。

モノでも、思い出でも、
このお金で何をしよっかぁ…
っていうことなんでしょうね。

2008年4月11日

ドキドキ

心臓がドキドキすると、
不整脈じゃないだろうか…

頭痛がすると、
脳梗塞じゃないだろうか…

腰が痛いと、
ヘルニアじゃないだろうか…

年をとると、
自分の体について
心配することが多くなるようで、

あなたはまだ若いから大丈夫よ、
と多くの人に言われながらも、

若いからといって安心できない、
っていうメディアから吹き込まれた言葉が
頭をかすめて、やっぱり心配になる。

むかーしのコラムに書いた気もするが、
自分で不規則な心臓の鼓動を感じて、
お医者さんに行き、問題ないですよ、
と言われながらも、24時間心電図まで
とったことがある。

結果、問題がなかった。

その後も、しばしば、
そんな感覚はあった。

ところが、去年暮れのダイエットが成功して、
今もかなり理想体重に近い状態をキープするようになって、
なんか、その不規則鼓動、
ドキドキが感じなくなった。

恋に、ときめかなくなったせいなのか。

それとも、やっぱり、
あの頃には、ちょっとは不調があったのか、
今となっては、よく分からないが、

本当に不健康になってから、
体に気をつけるよりは、
自覚してがんばった方がいいのは確かだ。

健康な感じっていうのは、
気持ちがいい。

心配事が1つ減る。

だまっていても、
心配の種は増えてくるというのに、
自分の体について
わざわざ、その種を増やす必要はあるまい。

腰が痛いっていうのも、
まったくない。

体重が減ると、
腰にもいいだろうからね。

あとは、頭痛だな。

寝不足とかの時には、
やっぱり、頭痛がある。

あと、腹が減っている時と。

それでも、いつもあるような人間ではないので、
それほど、心配しなくていいだろう。

よく寝て、よく遊んで、適度に食べて。
これが基本だな。

いつ、仕事するんだ?

遊びながら、仕事をしているつもり。
それが一番いけなかったりしてな。

2008年4月 4日

めずらしく落ち込む

ふと思い返してみると、
昨日は、私にしては、
めずらしく落ち込んでいたなぁ…

と思う。

どういうことだったんだろう、
と考えると、思いがけず、
メディアの力に影響されたんじゃないか、
という気がする。

テレビ、新聞、雑誌、書籍などなど、
そのいずれにしても、思わず、
のめりこんでしまった時には、
心が、その世界に染まってしまう。

ある意味、それがすべて…みたない感じ。

それだけ面白く創られたものだからだろう。

ゲームなどは、
まったくハマるために創られているから、
そのハマり度合いは、相当だろうと予想できる。

このゲームは、
ハマらないから面白いよ、
なんて話は聞いたことがないし…

だから落ち込ませるために
創ってはいないだろうけれど、
そこに描かれた世界観を
どう吸収するかによっては、
落ち込んじゃったりするんだろうなぁ。

これって、どうしたらいいんだろう?
こうなったら、どうしようもないよねぇ。
なんか、いきづまる…

みたいに感じたことが、
自分の生活にも影を落としているように感じて、
自分の生活と向き合った瞬間から、
なんとなく落ち込みモードになる。

もちろん、反対に、
自分とは全く関係ないことだと割り切られれば、
自分の生活に戻った時には、
「自分は恵まれているな、幸せだな」
とかえって幸福感を感じることもあるだろう。

ふだんは、割り切りモードの私だけど、
めずらしく落ち込みモードになって思うのは、
ちょうど中間がいいのかも…っていうこと。

いろいろな世界を分かって、
そのなかで生きていくためには、
どっぷり浸かりすぎてもいけないし、
まったく関係ないと背を向けるのも、
なんか違うような気がする。

いつもは、背を向けっぱなしの私でしたが、
ほんのちょっと、そんなことを思いました。

ただ、これも、
落ち込みモードから抜けたから、
言えることなんですけどね。

つまり、中間モードということ。

落ち込みモードのままだったら、
きっと、こんな気づきも言えないはず。

世界の本質を見られる目を持とう。

2008年4月 3日

期限切れ

いつもは感じていないけれど、
法律の力ってすごいな、
って思う瞬間があります。

ガソリン税の期限切れで、
単価が安くなったこともその部類ですが、

矛盾がありながらも、
法律がいったん定められると、
世の中は、それで動くようになる。

誰かの何かを守ることもあれば、
誰かの何かを奪いとることもある。

守られた方にしてみれば、ラッキー。
奪いとられた方にしてみれば、矛盾。

必ず、矛盾があると思っていた方がいい。
だったら、そんなもの要らない、
という人もいるでしょう、きっと。

私もその意見に賛成なところも
あったけれど、
ちょっと丸くなってきたのかな、

矛盾がなくなると、今度は、
無秩序&混乱が広がるだろうなぁ、
と感じるようになった。

ということは、
矛盾がありながらも、
安定がいいような気がしている。

はははは…

やっぱり、ちょっと年をとったようだ。

矛盾を打破して、
正しさとか、理想とかを追求する時には、

安定がこわれて混乱することを
覚悟しなくちゃいけないけど、
それがイヤだとなれば、
矛盾を受け入れることになる。

法律には、
そんな矛盾を解決する力もあれば、
新たな矛盾を生んでしまう力もある。

そして、
その法律をつくるのは人間だから、
そういう矛盾があるのは、
当然のことといえば当然なんだよね。

わが家のルールを見ていれば、
分かるよ。

私も、妻も、子供も、
面白半分になって
けっこう色んなルールをつくるけど、
後になって考えてみれば、
矛盾だらけ。

矛盾があるから、
そのうち守ることをしなくなる。
自然と風化することに…

ルールが風化するくらいのことならいいけど、
人生が風化するような生き方だけは
したくないものだ。

2008年3月17日

まだ忘れない

自分の誕生日を忘れる、
っていうのは、
どういう感覚なんだろうか?

私には、
ちょっと想像できない。

毎年のように、
小学校の卒業式の日が、
わたしの誕生日だから、

子供が小学生のうちは、
忘れないことだろう。

そして、今年は、
今日がその日。

次女の卒業式でもあります。

三女は、まだ1年生なので、
もう5年間は、自分の誕生日を
忘れることなどないでしょう。

39歳になりました。

40歳になるまで、
あと1年間待てばいいだけです。

20歳になるまで、
あと1年待てばいい、
という時と同じ気持ちになろうと
がんばってみましたが、

どうやら、それは無理のよう。

その代わり、別のワクワク感はあります。

1つは、
この冬に入る前にダイエットが成功して、
とっても身軽になった体が、
スポーツや運動をしたくて
かなりウズウズしていること。

今なら、娘たちと、
汗をかきながら、
スポーツを楽しめそうです。

それを可能にする体力が
復活していることを感じるものですから。

2つ目は、なんていうか、
40歳を前にしているのに、
不安定な自分がいること。

安定志向にどっぷりと漬かり、
「ああ、このままでいい」
と思っている自分。

じゃない自分が、
現実にいます。

安定してられないほど、
時代の流れが速いのか、
私がトラブルメーカーなのか、
周りにトラブルメーカーがいるのか…

よく分かりませんが、
昔は、安定した人間であろう、
と思っていた私が、

安定しないことがいい、

と思えるようになったのは、
進歩か、後退か。(笑)

今の自分に満足せずに、
1年をがんばろう!

皆様も、どうぞ。

2008年3月10日

寝技

わたしは、常日頃、
よほどのことがない限り、
7時間以上は眠れない。

だいたい、
それくらいになれば、
自然と目が覚める。

そこで目が覚めないということは、
かなり疲れているか、
体調が悪くてアウトか、
そのいずれかなのだ。

どこでどう間違ったか、
うちの長女は、よく眠れる。

今朝は、その最たるものを見せてもらった。

昨晩、ちょっと咳をしたもんだから、
8:00頃には寝かせた。

よく眠れば、少しはよくなるだろう、と。

その時点から、大切なことを
忘れていた私。

実は、今日、長女だけは振替休日だった。
土曜日に、卒業式があったために、
1,2年生ともにお休みの日。

忘れていた私は、
普段どおり、6:15には起こすつもりで、
長女に合わせて、次女、三女も
寝室に行かせた。

朝になる。
私は、いつもどおり、
6時間ほどの睡眠で目が覚める。
気分は悪くない。

そして、6:14頃、
腕時計のアラームがなるように設定しているので、
鳴り出したら、娘らを起こしに行く。

3人を起こす。何の疑いもなく…

すでに、みんな10時間近く眠っているから、
気分もいいはず。

そこで、起きてきた長女を見て、
妻が「え?なんで起こしたの?」と
私に言う。

「あ~~」と、振替休日を思い出した私。

「どうする?」と長女に聞くと、
もっと寝るということで、寝室に戻った。

具合はまったく悪くないようだが、
それから、さらに2時間ほど眠らせて、
12時間以上は不要だろうと、
朝の8:00に再び起こした。

信じられない!
それまで寝ていられる、
12時間眠れる人間がいる。

私は、その半分の6時間だけでも、
目が覚めるというのに…

すごい寝技をもっている娘である。

ふだんの眠りが長い分、
この娘は長生きするんじゃないかと思っている。

となると、わたしは、短命か…

2008年3月 3日

何もしなくても溶ける

もう、暖かい。

昨日は、そんな1日でした。

家のまわり、道路脇に残っている雪は、
まだ、背の高いところもあるのですが…

路上からは、雪が消えています。

それでも、春が待ちきれない。

昨日は、お出かけして、
わが家に帰った後、
誰もやらないだろうっていうことを
してました。

そのままにしていても、
何もしなくても溶けるはずの歩道の雪を、
せっせせっせと、川に投げ落として、
春をつくっていた私です。

路上には雪がないのですが、
歩道の段差部分には、
きれいに雪が残されて、
壁のようになっているのです。
場所によっては、1m以上。

こんな感じ…

P1070325.JPG

もちろん、私も、
1mもあるところには、
手を出さない。

やりがいがありすぎるから。

幸い、家のすぐ前は、
高さ50cmくらい、幅は30cmくらいの壁。

スコップを使って、
スコップの幅くらいの塊ごとに
投げ捨てる。

時間的には、20分ほど…

いい趣味みたいなもんです。

それだけの時間で、また、
春が近づいた気分になれるんですから。

時おり、私の横を通る人々は、
見ているような、見ていないような雰囲気で
過ぎ去っていきますが、

私は、おかまいなし。

ちょっと後になれば、
ここが一番早く春っぽくなることでしょう。

そんな春が待ち遠しくて、
しょうがない人間です。

この春のイベントは、
次女の小学校卒業と、中学校入学。

そして、
次女が卓球部に入った後、
長女と、ほかの先輩たちと、
団体戦ではどこまで勝ち進んでいけるか。

さらに、長女と次女それぞれが、
個人戦では、どんな成績を残せるか。

まずは、春季大会が、
ゴールデンウィーク前にあるようですから、
それまで、ワクワクしながら、
娘たちを眺めていたいと思います。

心だけは、すでに春モード。

2008年2月26日

スイッチ遊び

修理をするのが面倒で、
ちょっと壊れたまま使っているもの
ってありませんか?

わが家には、あります。

それは、暖房ヒーター。

どこがちょっと壊れているか、
って言えば、電源オン・オフのスイッチ。

他のスイッチは、大丈夫なのです。
3時間延長スイッチ、温度設定ボタン、などなど…

電源スイッチだけが、
調子悪い。

押しても、押しても、ピッと電源が入らない。
はたまた、切るときも、ピッと切れない。

そうかと思えば、
一発で成功する場合もあるし、
強く押せばいい時もあるし、
弱めに押せばいい時もある。

10回以上押しても、
ダメな時は、あきらめることもある。

まっ、いいか。
ちょっと寒くても、
ガマンしよう、みたいな感じ。

そして、どうかなぁ~、
と思いながら、軽くタッチすると、
ピッと入る。

きっと、どこかの接触が悪いのでしょう。
しかし、完璧に壊れているわけでもない。

なんていうか、
そういうヒーターと付き合っていると、
何かしら、このヒーターが人格を持っていて、
その時その時の気分で
入ってみたり、拒否したりしているようにも思える。

あとは、こちらの日頃の行いとか…

そういうのと付き合って、
もう3年かな。3年間、直していない。

冬だけのお付き合い。

今朝起きた時も、
たしか6回は押したかな。

まだ、まともな方です。

ムダに思えるスイッチ遊び。

早く直したらいいだろ!
とイライラする人もいるでしょう。

私も、待てない人間ですから、
すぐ直したくなると思っていたら、
意外と、こういう付き合いが気に入っています。

普段は、マイペースの妻の方が、
かえってイライラしている。

不思議なものです。
人がイライラすることって、
いろいろ違うんですね。

2008年2月25日

追突されました

昨日、家族でのお出かけの後、
自宅に帰る途中、
後ろの車に追突されました。

とは言っても、
わたし自身も、前の車に
追突しそうになっていた。

路面がちょっと凍結しているところ、
前の車がちょっと急停止(多分?)したのでしょう。

わたしが慌てて、
ブレーキをかけてしまう。

ブレーキをかけるしかなかった。

ABSが作動して、
なんとか、ぶつからずに、
踏みとどまる。

前の車との距離は、
1mくらいだったろうと思う。

おぉー、ぶつからずに済んだ。

と思っていたら、
後ろの車が接近してくるのが、
バックミラーで分かった。

そんなにすごいスピードじゃなかったから、
良かったけれど、ガチーンと追突。

多分、少し押されて、進んだ。

車を降りて、ぶつかった箇所を見ると、
やはり、追突のキズがかすかにある。

今の車って、形状が戻るように出来ているので、
損傷としては、小さく見えるんですね。

トランクを開けることが出来ないから、
やはり、それなりの衝撃があったのでしょう。

体には、それほども感じることなく、
乗っていた家族みんな、
そうでもなかった感覚だったので、
車の性能を感じるばかりです。

そのせいか、
追突してきた女性の方が、
なんか、かわいそうに思えました。

ぶつかってしまったことの不運というか…

そちらの車には、幼稚園児らしき二人の子供。
外に出ているお母さんを追って、
雪がチラチラしている外に出てきました。

「寒いから、入ってた方がいいよ。」
と私が言うと、素直に戻っていった。

警察が来て、話をしたり、
確認作業をして過ぎた時間は、30分ほど。

夜には、追突された方のご主人から
電話がかかってきました。

ちょうど自動車整備主任だということ、
それも、私の車ホンダ・フィットの
ディーラーのそれだということで、
一石二鳥?

事故後の対応も素早く、
手厚くやってくれそうです。

これまで、
追突されたのは、3回ほど。

自分が追突していながら、
けっこうキレる人がいたりして、
あまりいい気分をしなかった時もあったけれど、
今回は、いい感じがします。

わたし自身、車にあんまり執着がないので、
ケガなどがなかったことだけが幸いだと思って、
それほどイライラすることなく生きています。

自分がそれほど悪くなくても、
事故に巻き込まれるのは、
何も車だけの話じゃない。

生きていれば、人間関係でも
そんなことはよくありますからね。

事故には注意しましょう。
予防できる事故なら、予防しておくべき。

2008年2月23日

苦しいのは耐えられるけど…

昨晩も、隣りの義父の部屋から、
テレビの音声がもれて聞こえる。

「ただでさえツライ毎日なのに、
 あんなに好き勝手に生きている人を
 近くで見ていると、ゆるせなくなる…」

みたいなセリフだったな。

私も、この気持ち、分かるな。

きっと、私よりも、
ツライ思いをした人は、
日本中に何千人といるだろうけど、

同じ屋根の下にいて、
節約している自分と、
好き勝手している家族の誰かがいると、

目に見えるだけに、
腹が立ってくるんですよね。

その時には、
日本中のことも、世界中のことも、
考えることなんて出来ません。

目に見える、自分の家族が、
とてつもなく、憎らしく見えてしまう…笑

今は、老人ホームに入ってしまった義母ですが、
お嬢様育ちだったことと、
精神と身体が弱かったために、
親になおさら甘やかされて育ったことが
クセとなっていて、

60歳を過ぎた大人なのに、
何一つガマンが出来ない、
その上、節約ということも一切できない。

水の出しっぱなし、
風呂の湯沸かし器もスイッチつけっ放し、
お金はあればあるだけ使おうとする、
何か欲しいものがあれば、
今すぐにでも買ってこさせようとする。

そういう母親の元で育った娘(私の妻)は、
人様に迷惑をかけることの多かった母親のために
周囲に気遣うことが多い日常を送り、
気を遣うのが専門の人に育ってしまった。

ある意味、後遺症みたいなものです。

結婚する前は、
好き勝手にやる、豪快なお母さんだと思って、
面白がっていました私ですが、やっぱり、
いっしょに生活するとなると、
耐えられないもんですね。

きっと、この人、面白いなぁ、
と思える人のなかには、
家族にかなり迷惑をかけている人が
いるでしょうね。

ちょっとの付き合いくらいなら、
楽しめていいけれど、
同じ財布で、または、同じ屋根の下で
生活しようとすると、かなり支障が出てくる。

自分が苦しいのは、
けっこう耐えられるんです。

けれど、その横で、
好き勝手やられるのは、
どうしても、耐えられない。

逆に言えば、
私のように鈍感な人間は、
苦しんでいる人の近くに
いってはいけませんね。

好き勝手なことを言ったり、
してしまいそうです。

2008年2月22日

大人になれない

成人男性の喫煙率は、
下がってきていて、

未成年と成人女性の喫煙率は、
上がってきている。

そういう状況を考えると、
まだまだ、

「喫煙は病気である」

という意識が広まっていないことが
感じられる。

それも、当然だ。
私も愛煙家だったら、

「その煙を吸いたがるのは、病気ですよ。」

なんて言われようもんなら、

「うるせぇ。大きなお世話だ。」

と蹴飛ばすことだろう。

幸いにも、愛煙家じゃないから、

「そのケーキを食べたがるのは、病気ですよ。」

っていう言葉に置き換えて、考えてみた次第…

分かる、分かる、その気持ち。

もう、やめられないんですよね。

もっと早い段階で、
やめるきっかけがあれば、
そんな「やめられない地点」に
きてしまうこともなかったんですからね。

今吸っちゃっている人を、
やめさせるのは、もうあきらめましょう。

潔く、肺がんでも、その他でもいいから、
喫煙による病気を患っていただいて、
タバコを吸いたくなる人々の
抑止効果になってもらうことを願って、
人生を痛々しくて生きてもらいたいと思います。

とすれば、健康に生きてもらうチャンスは、
「これから吸おう」という誘惑に
かられてしまう可能性のある人々。

やっぱり、未成年の皆さんです。

間違いなく、
今吸い始めたからと言って、
1ヵ月後とか、1年後とかに、
死ぬことはないでしょう。

タバコを吸い始めることで、
仲間に加わることが出来たり、
大人の気分を味わえたり、
癒しの時間を持てたり、
得するようなことも少なくないでしょう。

たしかに、
それも否定はしたくない。

どうしたら、始めずに済ませることが出来るだろう。

ちょっと、本気で考えています。

始めるからには、何か、
自分にとってのメリットがあるわけで、
始める段階では、
やめさせて欲しいなんて願ってもいない。

やっぱり、大きなお世話と思われて、
煙たがられるだけ。

わたしも、無意味に嫌われるのだけは、
冷たい人間とは言え、
あまりいい気分じゃないから、
しつこく言いたくはない。

どう言えばいいんでしょう?

やはり、50年後に肺がんで
苦しんでいる自分自身とかから、

「そういうことで大人の気分味わっても、
 しょうがないよ。」

とか言ってもらわないとダメでしょうかねぇ。

2008年2月19日

無心になる時間

無心になって、
ただひたすらやれることって、きっと、
あんまり頭を使わないで済むことだと思う。

もしくは、
ものすごく慣れていて、
だまっていても体が動くようなこと。

だからと言って、
カンタンなことだとは限らない。

無心になってやることは、
人それぞれ違うはず。

そんな無心にやれることを
見つけられる人は、
とっても幸せだと思う。

スポーツでも、
仕事でも、
勉強でも、
何でもいい。

無心な自分は、
何かしら生きている意味の何かを
果たしている時間を過ごしている。

無心になれない自分は、
いつも、何かに悩まされたり、
心が奪われて集中ができなかったり、
邪魔されてストレスを感じたり…

いわゆる、力を出し切れていない。

とは言っても、
無心でやっていることが、
自分の好きなこととか、
自分の得意なこととも限らない。

ただ、ひたすら、
思わず、それに心が注がれてしまう。

時間の経つのも忘れて、あるいは、
時間が経っていることは感じるけれど、
なんとなく、進んでいる時間とは別の世界で
生きているような錯覚…

無心は、体だけを時間の進む場所に置いて、
心は、時間とは違う次元にいっているかもしれない。

そう考えると、
心って、本当は、
年をとらないのかもね。

体におさまって、
体と同じように年をとっているように思っていれば、
やっぱり、年をとっちゃうけれど、

体とは違う「時間」を過ごしているとすれば、
いつまでも、若い感覚でいられるはずなんだよ。

今日は、三女の誕生日。
子供が年を重ねるのは、
なんか成長が感じられて嬉しい。

けれど、自動的に自分も年を重ねるんだよね。
わたしは、来月がくれば、39歳になる。

30代最後かぁ…

心だけは、無心の領域に、
いつも居たいものだなぁ。

2008年2月 5日

強い心と、楽しめる心

自分よりも人生経験の多い方々を見ていて、
強い心っていうのは、
どんな時でも楽しめる心なんだなぁ、って思う。

そう考えれば、
わたしの心なんか
まだまだ強くない。

ちょっとしたことで、
楽しめなくなったり、
不機嫌になったりするところが、
けっこうあるからね。

がんばろうとかいう意欲はあるけれど、
いろんなことが起きるたびに、
ちょっとは揺らされている。

揺らされない人間なんて、
つまらないという人もいるかもしれないけど、
何かを成し遂げるためには、
揺らされない部分も必要だなぁ、って感じる。

他人から見て、
面白い人間でいるかよりも、
自分から見て
面白い人間になっているか。
満足できる人間か、
っていうことのほうが大切だ。

強い心を手に入れれば、
どんな時でも楽しめるのか。

どんな時でも楽しめるように
自分を訓練していれば、
強い心が手に入るのか。

そもそも、
強い心が手に入れば、
人生は楽しいか。

楽しいだろう、
っていうつもりで、
強い心を求めているんだけれど、
そうでもなかったから
イヤだなぁ。

でも、そう簡単に
手には入らないだろうから、
強い心への好奇心はあります。

どんなものなんだろう…ってね。

分からないものには、
好奇心が湧いてくるものです。

分かると、いっきに好奇心は
レベルを下げますが。

強い心って、
ホントにどんなものなんだろう。

手に入れた人にしか
分かりませんよね。

手に入れた人、いるのかなぁ。

2008年2月 4日

自分の機嫌をとる

斉藤一人さんの「ツイてる!」
という本の付録CDを聞いていると、

自分の機嫌をとる、

という表現が出てきます。

自己チューじゃないか、
と思えるような言葉ですが、
それが違うんですよね。

聞いてみると、
なるほどなぁ…
と思ってしまう。

というよりも、

他人の機嫌をとる、

よりも、世の中のためになることだ、
って分かってくるんです。

だいたい、
他人の機嫌をとっていると、
自分に無理をするようになる。

自分に無理して、
他人に合わせているわけですが、

現実には、その他人の機嫌で、
「他人に合わせている努力」
が無駄に終わることもある。

ああ、こんなことになるんじゃ、
機嫌とりなんか、するんじゃなかった、
と思うんです。

でも、自分の機嫌をとると、
そうはいかない。

たとえば、
他人が機嫌を損ねている。

そのために、
自分が何かをしてあげなくちゃいけない、
と思わずに、

その人は、その人の都合で
勝手に機嫌を悪くしているだけだから、
その機嫌の波に飲み込まれないようにしよう。

そして、自分までが、
機嫌が悪くならないように、
集中できることとか、
楽しめることに心を注いで、
自分の機嫌をとるようにした方がいい。

また、機嫌が悪くなる他人に合わせるよりも、
そういう機嫌の悪い人が近くにいる環境でも、
自分の機嫌をコントロールできる自分になった方が、
何倍も、自分のためになる。

世の中のため、社会のためにもなる。

機嫌の悪い人と、
いつまで付き合うことになるか、
分からないんです。

けれど、自分とは、
人生の最後の最後まで、
付き合うことは間違いない。

だったら、ずーっと付き合う自分の機嫌をとった方がいい。

機嫌をとりましょう。
自分の機嫌が、一番大切です。

そして、他人に、
自分の機嫌をとらせないようにすることも
大切です。オススメです。

»斉藤一人さんの「ツイてる!」

2008年1月29日

針のいらない時代

痛い思いをしても、
何の効果もなければ、
痛い思いなんかすることは
選ばないことでしょう。

子供たちの学校で、
インフルエンザが流行りだしたようです。

うちの子供らは、
今年は、予防接種をしていないから、
どうなるかな?

予防接種の注射を打たれて、
痛い思いをしたのに、
そのワクチンとは別種のウィルスが
流行してしまったため、
何の効果もないという年がありました。

そんなら、意味ないや…

と思っていたのですが、
どうやら、注射針のいらない予防接種が、
出てくるようです。

まだ、研究段階のようですが、
「舌の下に、ただ載せるだけ」
という英語の表現しか見ていないので、
よく分かりませんが、

口内炎のパッチみたいなものか、
錠剤なのでしょう。

痛みもない予防接種であれば、
なんとなく、もっと気軽に受けられそう。

針がないから痛くない予防接種、
鼻から入れるから苦しくない(?)胃カメラ、

次は、傷が全く残らない手術かな…

医療だけがどんどん発達して、
生きる時間だけが長くなり、
生きる価値があやふやになっているとしたら、
世の中は、ダメになるでしょうね。

痛いのはイヤだけれど、
痛みを感じて生きているのは、
生きている意味、価値があるんでしょうね。

どんどん、どんどん、
痛みのない時代になっていく。
それが楽だし、
私たちもそれを望んでいるから、
そういう傾向なんだろうけど、

この先には、
どういうことが待っているんだろう、
と思うと、ちょっと怖い気もします。

本当は、痛みがあるのに、
「痛みがない」と宣伝してしまって、
それを隠すために、
いろんな違法行為も出てくるかも…

誰かが、
「痛みは友達」
って言っていたけど、
それは本当かもね。

ちなみに、今の私は、
右手首がちょっと痛い。

雪よせをしている時に、
ちょっとひねったかな。

2008年1月 9日

ワクワクして眠れない夜に

アタマにきて眠れない夜もあれば、
悩み込んで眠れない夜もあります。

で、今日は、
それとはちょっと距離を置いた
ワクワクして眠れない夜です。

こんな日も珍しい。

なんでワクワクしているか?

なんか、一つの仕事がうまくいった。
そして、それが、
これからどうなるか、
っていうのを考えたら、
不安もあるけれど、

期待がふくらんで
ワクワクしてしまった。

布団に入って、
奥さんの寝顔をチラチラ見ながら、
眠りに就こうとしたんだけど、
どうも、アタマがハッキリしている。

11:00に寝室に行ったんだけど、
1時間経過しても、
全然、眠れる気配もなく、
とうとうあきらめた私。

パソコンを開いて、
このコラムを書いています。

「眠れない夜」というタイトルで、
これまで、2つのコラムを
書いていたことがあったよ。

1つは、悩みこんで、
もう1つは、アタマにきて。

今日は、ニュータイプ。
ワクワクしすぎて…

子供の頃の、遠足の前日みたいな感じです。

私の場合は、それ以上に、
中学生の部活動の大会がある前日に、
ワクワクしすぎて、眠れなかったなぁ。

人生に、
ワクワクすることがあるっていうのは、
悪くない。

仮に、そのワクワクが、
勘違いとか、ニセモノで、
後になったら、バカだったなぁ、
と思うことであっても、

そのワクワク感を、
ちょっとの間楽しませてもらっただけでも、
私は、感謝したいと思うよ。

そのワクワクのネタに…

同じこの時刻に、
日本のどこかに、
ビクビクしている人もいるだろうと思う。

その人には申し訳ないけど、
私は、勝手にワクワクさせてもらう。

そして、もし、
後日、私がビクビクする日が来たときには、
その人にワクワクする日が来るように願う。

生きているからには、
ワクワクできる心を持っていたい。

ワクワクできる事柄に立ち向かいたい。
やり遂げたい。

でなきゃ、生きている意味がないでしょ。

皆様にも、ワクワクして眠れない日が来ますように。

2008年1月 6日

おまけが欲しい

年末セールや正月セールに行くと、
○○○円以上で、福引券1枚とか言われて、
それに合わせて買い物をしたりする。

まんま、と罠に引っかかっているわけだ。

福引で当たったことなど、
めったにない。

ハガキの懸賞なら、
けっこうあるけどね。

当たる賞品、
がんばればもらえる賞品、
数量限定で並んで買える商品。

お正月には、
いろんな欲しいものが
心の中に浮かんできて、
何度となく誘われてしまう。

それに加えて、時々、
それに付いてくる「おまけ」の方が
欲しくて、努力してしまうことも…

そのものよりも、
そのものの「おまけ」が欲しいとなると、
努力のタイプが変わってくる。

もちろん、そのものを手に入れようとする人もいる。
けれど、そのものが本当に欲しいわけじゃないと、
そのものを手に入れた人で、
「おまけ」が要らない人から、
「おまけ」をもらうという方法もある。

そのためには、
「おまけ」が要らない人を
探さなくちゃいけない。

もしくは、
「おまけ」が要らない人の情報を持っている人を
探すわけだ。

ちょっと、話を置き換えて、
「楽しい人生」とか
「満足のいく人生」とか、
「自分の使命が果たせる人生」とか
そういうものを欲しいと思った時に、

世の中には、おまけがいっぱいある。

お金、時間、人間関係、モノ、健康、美貌、名声、などなど。

いや、実際のところ、
これらが「おまけ」かどうかも、
よく分からない。

楽しい人生でも、満足のいく人生でも、
その中には、お金とか、人間関係とか、名声とかが、
少しずつ含まれているのが当たり前(?)で、
それなしでは生きていられない気もするから。
日本人であれば…

日本人でなければ、
話は別かもしれないけれど、
だって、日本人の環境は、
特別だからね。恵まれているのも事実だろうし…

新年を迎えて、
今年はどんな年にしようか、
どんな年になるんだろうかって、
やっぱり考えることが多くて、

何が人生で、何がおまけか、
たまによく分からなくなる日本社会に生きているなぁ、
って感じたわけです。

皆さんは、どうですか?

2008年1月 5日

歯車がまわる気分

ピタっと、
歯車のまわりが止まる瞬間に、
人生では何度も出会う。

うーん、動かない。

で、それが解決したいことだったり、
解決しないと後が始まらないことだったりすると、
朝から晩まで一生懸命に考え出す。

すると、今度は、
お~~!、これなら回る、
という瞬間に出会う。

だいたいは、
アタマの中だけのシュミレーションだから、
いろんなことが抜け落ちていたり、
考えなきゃいけないことを忘れていたりして、
不完全なところが多いけどね。

ただ、その方がマシ、
という場合も少なくない。

何をしても、何をやらなくても、
かならず、歯車がまわらない瞬間は来る。

そういうことは避けられない。

だったら、少しくらい抜け落ちていたって、
歯車が少しずつ回り始めた後から
考えなくちゃいけないことに気づいた時から
それを直していけばいい。

そうしないことには、
人間は動けないんだよ。

完璧に回ることができるシュミレーションが
出来上がってからじゃ遅いかもしれないし、
完璧をつくりあげる気持ちが、
いろんな仕事を遅くさせてしまって、
かえってダラけさせることだってありえる。
むしろ、そんなことの方が多いんじゃないかな。

見落としが多いながらも、
はたまた勘違いもけっこうあるだろうけど、
自分の中で「歯車がまわる気分」になっていたら、
それは、始めてみた方がいいよ。

まわしてみようとしないことには、
本当にまわるかどうか、
どこで止まっちまうかも分からないしね。

ある意味、
プログラミングみたいなことかもしれない。

大々的なものでも、
ささいなものでも何でもいいけど、
プログラミングって、
そういう経験の繰り返しだから、
経験してみる価値はあるね。

歯車がまわる気分になっても、
なかなか、その通りにはまわらないんだよ。

けれど、まわしてみないことには、
そういうことが分からないから、
まわしてみるしかないんだよ。

とりあえず、勘違いOKでいいから、
まわる気分になることから始めよう。

2007年12月24日

眠いというキーワード

なんていうか、
その言葉自体は、
愚痴とかじゃないけれど、

なんとなく、
力が吸収されてしまうキーワード、
っていうものがある。

きっと、誰が、どんな瞬間に、
そのキーワードを言うか、
っていうことにも関係していると思うんだけれど…

たとえば、夕食を食べ終えて、
子供たちに勉強をさせようというタイミングで、
うちの奥さんが、
「眠い」っていう言葉を口にすると、
私のやる気も含めてすべて、

その「眠い」という言葉に
吸収されそうな気がしてくる。

わかった、眠かったら、
今すぐにでも眠れよ、と言いたいのだけど、

あれもやらなきゃいけない、
これもやらなきゃいけない、
みたいな感じで、
なかなか寝ようとしない。

そんなことなら、俺がやるよ、
って言うけれど、自分でやらなきゃ
気がすまないところもある。

そして、本当にたいしたことじゃないことだけ、
私のために残して、やっと寝る準備を始める。

寝ようとした瞬間に限って、
今度は、子供が
「おかあーさん!」と呼んだりする。

「どうしたのよ?」と聞けば、
たいしたことない確認であったり。

私はイライラ…してくる。

「眠い」という言葉が、
自分の力までも吸収して、
これからの活動を邪魔しそうだから、

その言葉自体を抹殺しようと、
妻をもセットで追い出そうとするわけだけど、

「眠い」という言葉を抱えたまま
まだそこにいようとする。

やっと追い出せると思っていたら、
それを引き戻す子供がいる。
そんな感じの構図だ。

たいした言葉じゃないけれど、
私が、敏感に、その言葉の吸収力を
怖れているんだろうなぁ。

ただ、実際、言葉には、
そんだけの吸収力があるよ。

その場その場の雰囲気で、
吸収力の高い言葉は違うかもしれないけど、
その言葉がポンと出てきた瞬間に、
みんなの力が吸い取られるような言葉がね…

2007年12月 8日

朝が来るって奇跡なこと

今朝は、ふつうに、
朝を迎えることが出来ました。

吐き気もない、
救急車の音もない、
気を失うこともない。

本当に、
いつもどおりの朝。

そういう普通が
ありがたいって思えることを、
最近は忘れていたなぁ…

もっと、もっとと、
最近の私は欲張りだったかもしれない。

欲張りにも
いろいろあるだろうけど、
ないんだから求めてもいいだろう、
って思う人もいるだろうし、
あってもあっても飽き足らずに
求める人もいるだろう。

私は「ない」つもりだったから、
普通のありがたみを忘れて
ひたすら求めようとしていたかもしれない。

求めるためにがんばることは、
大切なことだけれど、
それ以上に大切なことが「今の普通」に
あったりします。

きっと、今日という1日が
始まらなかった人もいる。
今日が始まった人のなかにも、
なんとかギリギリ始められた人もいるだろう。

そんな人がいることを思うと、
なんとなく、比較した上での安心感かもしれないが、
今の普通って、幸せだなぁって思うことができます。

今は、頭の包帯が、
ちょっと窮屈ですが、
今日の10:00に病院に来てください、
と言われているので、
そこでちょっと軽い状態にしてもらえることでしょう。

ちょっとした痛みもありますが、
そんなに気になる程度でもない。
寝ている間も、気にならなかった…

かえって、痛みのある方が、
人の痛みとか、健康の大切さとかを
忘れられないでいられる気もする。

私のような「鈍感力」ナンバー1の人間には、
そういう痛みが必要だ。
「ふつう」のありがたさを忘れないためにも、
そういう痛みが必要だ。

また痛い目に遭わないように、
忘れたくないものです。

2007年12月 7日

救急車で運ばれて…

今朝起きて、トイレをした後に、
昨日の仕事で解決できなかったことが
思い出された。

「そっかぁ、こうすれば、
 うまくいくかも。」

と考えているうちに、
なんか吐き気を感じてきて…

その後は、覚えていない。

聞こえたのは、妻が、
「救急車をお願いします」
と電話している声。

なんで救急車を呼んでいるんだろう、
俺のためかな?俺ならなんでもないのに、
と思いかけて、目の前を見ると、
血が点々と見える。

俺の血?

誰が渡したかよく分からないけど、
そこにあったティッシュ箱から
ティッシュを取り出して、
そこらへんの血を無意識に拭き始めた。

どこから流れたか分からない。

頭をさわってみて初めて、
傷口が見つかった。
意外にも大きい傷口のよう。

俺、やっぱり倒れたんだ。
よく覚えいていない。

救急車が来た。
立つことが出来た。
パジャマからトレーナーとジャージに着替えて、
ベンチコートをはおって、玄関に向かう。

妻と救急隊員に支えられて、
救急車に乗って、横たえられた。

意識はハッキリしている。
手についた血が気になる。

俺、もしかして、
死ぬのかなぁ…

ちょっと思ったりした。

血圧は98まで下がっているらしい。
そういう受け答えは、すべて分かっているから、
多分、これからもっと大丈夫になるだろう、
とは予想できた。

ただ、救急車がブレーキをかける度に、
なんか、頭に血が集中するようで、
ちょっと気分が悪くなる。

間もなく、病院に着いて、
救急外来へ入れられる。

血圧を測る空気圧が痛い。
体温を測られながら、
血圧が122に戻っていることを聞く。

やっぱり大丈夫だ。

先生は、いい感じの人。
分かりやすいように、声をかけてくれる。

検査は心電図とCT。
どっちの検査結果も大丈夫。

手術室に入れられて、
麻酔を頭部にチクっと打たれた。
場所を変えてやっているようで、
痛みで鈍くなっていないところだけ、
痛みを感じた。

次には、
頭の傷を洗うために
温かい液体(湯?)を流している様子。

消毒をして、頭髪を剃ったのかな。

最後、ステイプラーという道具で、
傷口を縫っていた。
10回くらい、バッチンバッチンしていたかな。

痛くはなかった…

たしか、朝の6:00頃に起きたから、
それまでの時間は、1時間半ほど。
7:30になっていた。

すごい中身の濃い朝。

今日は、何も仕事出来ないかなぁ、
なんて思っていたけれど、
その後の診察も普通に終わって、
今、こんなふうにコラムを書いている。

診察を待っている間は、
もう元気になっていたから、
私よりも早く救急車で運ばれてきた家族と
会話をしていた。

今の私は、頭に包帯をグルグル巻きにして、
かなり重傷っぽく見えます。

なんで、倒れたんだろう…

いろんな心配はあるけれど、
人はいつ死ぬか分からないな、
と改めて思った。

それと、もしものために、
さっと出かけられるよう、
荷物はまとめておいた方がいいな、
っていうことも思った。

気を失ったのは、これが2回目。
最初の時は、19歳のクリスマス。

今は、38歳のクリスマス間近。

20年ぶりの出来事。
また、20年もしたら、
気を失うのかな…

いずれにしろ、精一杯生きよう。

2007年11月19日

寝ている子供を奪う

いい言葉ねっとのトップページに、
写真を掲載しているように、
こちらでは初雪となりました。

で、初雪のわりに、
けっこうな積もり具合でして…

さ、さむいです。

昨晩を思い返してみれば、
こんな寒さになるわけだと
納得します。

寝室に行って、
寝ようと思ったら、
体の芯から冷える感じ…

布団の中は、
あたたかくしてもらっているけれど、
なんか、寂しい…?

隣りの妻の布団には、
まだ甘やかされて一緒に寝ている、
小1の三女がいる。

その存在が、
とても暖かそうで、
妻の布団の中から奪い取って、
私の布団に引き入れた。

これは、あったかい。
人間カイロだ。

寝顔を見ているだけでも、
よく眠れそう。

三女も、よく眠っている。

心配なのは、寝入ってしまった後に、
私が布団を一人占めして、
娘に風邪をひかせたりしないかなぁって。

夜中に、ちょっと目が覚めたときに、
娘を見たら、私の隣に、ちゃんといた。
布団もかかっていた。

どうやら、私は、
朝になるまで、
布団を一人占めすることなく、
眠っていられたようだ。

外を眺めてみたら、
こんな感じに変わっていた。

【昨日の夕方】

【今朝】

ああ、冬だねぇ。

先週末のうちに、
スタッドレスタイヤに交換していて
よかったよ。

冬が来るのは、
イヤだイヤだと思っていたけれど、
来てみれば、なんのことはない。

これから4ヶ月あまり、
付き合ってやろうか、
という気分になっちゃっています。

雪国生まれですから、
やはり、慣れたもの。

私の隣りに寝た三女は、
雪を見て、ワクワクしながら、
登校していきました。

同じような気分になって、
今年の冬を楽しみたいと思います。

2007年11月12日

振り返っても、何もない

ある知人の話。
ジョギングをしていたそうです。
毎日毎日続けていたことなのですが、
ある時に、つまずいて転んだとのこと。

何につまずいたんだろう、
と後ろを振り返ってみても、
あたりをいろいろと見回しても、
何もなかったんだそうです。

そこで、その知人は、こう悟った。
何かにつまずいたわけではない。
年を重ねて、自分の走り方が変わってきた。
若いときほど、足があがらなくなって、
平らなのに、つまずいた。

人生でも、つまずく。
つまずかせられた相手に、
腹が立つ。

しかし、実際は、
その人がつまずかせたわけじゃない
かもしれない。

自分がつまずいた瞬間に、
偶然、そこに居ただけ。
それなのに、思い込んでしまって、
その人を恨みだしたりする。

つまずくのは、
痛いこと、
恥ずかしいこと、
損なこと。

そういう価値観しかないから、
つまずかせられたものを
一生懸命に探してしまう。
誰かのせいにしたくなる。

その価値観を変えた方がいい。

人はつまずくもの。
つまずいて当たり前。

問題は、つまずいた後に、
どんなふうに起き上がるか。

ありもしない「つまずかせたもの」を
延々と探す暇があるなら、
起き上がり方を考えたほうがいい。

年を重ねて、
残りの人生を楽しみたいのなら、
なおさらだ。

人はつまずくもの。
つまずいた後に、
後ろを振り返っても、
何もないことが多い。

それを忘れないようにしたい。
そう思います。

2007年11月 9日

男性85センチ、女性90センチ

最近、メタボ、メタボという言葉が
よく言われるようになって、
男性のウェストが85センチを超えたら、
メタボリックシンドロームで
やばいというのは知っていましたが、

女性にも、
90センチという基準値があったのは、
知りませんでした。

なんで、女性の方が甘いの?

たしかに、そう思います。

けれど、もともと、
皮下脂肪の多い女性。

じゃあ、しょうがないかな。

とも言えますが、実際のところ、
この基準値以内だから大丈夫、
なんて言えませんし、

人それぞれの体型、体格、運動習慣によって、
ベストなウェスト基準値は、
微妙に違うでしょうからね。

人のことを心配するより、
自分のことを心配した方がいい。

基準値がどうのこうのよりも、
自分に「健康感」があるかどうかが、
一番大切かもね。

たとえば、
メタボ、ウェスト85センチ、
とか聞いて心配になるっていうことは、

心当たりのある生活習慣が、
どこかにあるということだと思う。

もちろん、
単なる心配症の場合もあるけれど…

私の場合は、
「本当の心配」だったね。

それだけの生活習慣に、
落ちぶれていた(?)から。

うちの義父は、
タバコを吸い吸い、
すごい咳き込んでいる。

それでも、
健康診断で「問題なし」と言われているから、
健康にはすごく自信があるらしく、
タバコをやめる気配すらない。

「自分だけは大丈夫」

きっと、そう思っているんだろう。
けっこう、激しい咳をしていても、
その考えは、変わらないようだ。

唯一、強烈な風邪をひいて、
タバコがまずくなる時だけは、
タバコをやめるけれどね。

大丈夫と思って、
ふり返らずに生きていくか、

ちょっとは心配しながら、
体に気遣って生きていくか。

これからの時代は、
環境だの、健康だの、安全だの、
と大きく騒がれていくことでしょうから、
心を定めていかないと、
振り回されてしまいますね。

それこそ、健康病、安全病、環境病に
なってしまうかも…

2007年11月 8日

黒い集団

朝に、ちょっとの用事があって、
車を運転して、お出かけ。

家々が立ち並ぶ、交差点。
右折をしたら、真っ黒い集団が群れていた。

いきなりの黒い集団。
「な、なに?」
とビックリしてしまった。

スピードを落とした瞬間に、
「ああ、出棺かぁ…」
と気づいた。

立ち並ぶ黒い集団の年齢層を見て、
高齢者の方だったんだな、
と分かる。

「この人も、とうとう逝ってしまったかぁ」
と思っているのか、
「わしゃ、まだ元気じゃて、こんな日がくるのは先だね。」
と思っているのか、
「わたしも、残り少ないかなぁ。」
と感じているのか。

いろんな表情が見えた。

年老いて亡くなる姿には、
「人はいつか死ぬんだな」と思うだけだが、

若くして亡くなる姿を見ると、
「人はいつ死ぬか分からないな」
という気にさせられる。

今日は、前者の方。

「いつか死ぬんだな」
と思うだけでは、
なんとなくセンチメンタルな気持ちに
なるにすぎない。

「いつ死ぬか分からない」
と思うことができて初めて、
思い残すことがないようにと、
テンションの高い気持ちになる可能性が
出てくる。

どちらがいいのか。

どちらかに偏っては、
人生が見えないんじゃないか、
という気もしてくる。

偏ると、決まって何かを忘れる。

何かを忘れると、
どこかで間違ってしまうこともある。

死とは何か。
この世の人生が終わること。
これは、間違いようのない現実のように思うけれど、
それまで何をするか、ということについては、
人それぞれの偏りもつ考えによって、
いろいろと意見が分かれるところ。

30代後半の私は、
命について考えるとき、
70代の方の気持ちは、
やっぱり、まだまだ分からないな、
と思ったよ。

2007年11月 7日

痛くないようにする

わたしは、
ここ最近の生きているなかで、
痛いという経験があまりないので、
痛いことには、きっと忍耐力がない。

すぐに、
音を上げると思う。

殴られて、
ちょっと脅されたら、
どうなるんだろう…笑

わたしでなくても、
痛いことが迫ってきているとして、

1.痛くないような方法を探す
2.痛みに耐えられる方法を探す

の二者選択があるとしたら、
おそらく、前者の「痛くないような方法」が
最初の関心ごとになるだろう。

それでも、
痛くないような方法に、100万円必要で、
痛みに耐えられる方法は、100円で済むとしたら、
後者の場合だって、考えられる。

とは言っても、
痛みの大きさにもよるだろうけどね。

わたしは、自分が「痛みもち」でないことを
本当に、感謝するよ。

頭痛もち、腰痛もち、生理痛もち、
などなど。

自分の周りを見てみれば、
たくさんの人が痛みとともに、
生活をしている。

今は痛いものがない私は、
痛みを忘れているから、
人の痛みにも、かなり鈍感だろう。

だいたい、こんなことを書いている段階で、
そういうことが知れてくる。

だから、前述のように、
「痛くないように、痛くないように」
ということに、囚われてしまったりする。

しかし、1つのことに囚われてしまうと、
必要以上に、おかしな行動も始まったりする。

採血のための注射だって、痛い。
それを避けようとしたら、
注射から逃げればいい。

けれど、逃げれば、
採血から得られる情報もなくなり、
たとえば、病気の早期発見につながって、
大きな痛みを避けられるきっかけもなくなる。

注射という小さな痛みを避けたばかりに、
もっと大きな痛みを受けることもあるわけだ。

痛くないように、
ということにこだわるのは無理がある。

人生には、痛みはつきものだ。

だから、どちらかというと、
痛みに耐えられる方法を見つけるか、
痛みに耐えられる自分をつくるか、
そのどちらかがいいかもしれない。

人に対する対応も、
そういうことを基本にしたら、
甘やかすこともなくなるかも。

痛くないように、
代わりに、痛みを受けるとか、
痛みを取り除いてあげるよりも、
その痛みに勝てるように
育てた方がいいという感じ。

育てる方も、
育てられる方も、
どんどん強くならなくちゃね。

2007年10月26日

ごほうびスィーツ

健康診断まで、あと4日。

今回は、ホント、
真面目に「甘いもの」を
断つことが出来ている。

自分でも、自分のことを
エライ、エライと思っている。

私は、やっぱり、
甘いものに目がない。

ミスタードーナツのCMなんか
見ていると、たまらない。

スィーツの特集番組を見るのも、
今はけっこうツライ。

それも、あと4日で終わる。

約2ヶ月間。
よくがんばったよ。

心なしか、というより、
現実として、
体重は5kgくらい落ちているし、
「Shuさんは、あんまり太って見えない」
と言われながらも、
気にしていたお腹のぜい肉も、
なんとなく、つまみ具合が
変わってきた。

こんな気持ちのいい健康感は、
なんとなく、やみつきになる。
ダイエットがやみつき?

そりゃぁ、下手すりゃ、
拒食症になりかねない、
心理状態か。

でも、きっと、大丈夫。
そんなことにはなりえない。

心をうまくスィーツから遠ざけていられるから、
ここまで、来られたんです。

昨日は、
「ごほうびスィーツ」を、
目の前のカレンダーに貼った。

健康診断が終わった後に、
2ヶ月ぶりに、自分に食べることを
許したスィーツのリストです。

きっと、全部は食べられないでしょう。
それに、健康診断が終わる時刻が、
だいたい午前9時と言われていますから、
店がオープンしていない。

何を食べられるんだぁ…

でも、ごほうびスィーツを貼っただけでも、
また安心できます。

これは、意外といい方法かも。
永遠に食べられない、
ずっとガマンしなきゃいけない、
っていうのは苦痛だけれど、

解禁される時期が来ると思えば、
かえって頑張れる。

せっかく、ダイエットが
うまくいっているこの勢いで、
自分が思うベスト体重まで、

ごほうびスィーツを食べた後に、
さらに1ヶ月、がんばってみようか、
という気にさえなっている。

また、1ヶ月後のカレンダーに、
ごほうびスィーツを貼るわけだ。

あまり先のことを考えると、
気が遠くなるから、
とにかく、あと4日がんばって、
健康診断では、
コレステロールの注意を
受けないようにするのだ。

ファイトォー!!

2007年10月24日

毎日、りんご

食欲の秋。

もう終わりそうかなぁ…

それとは関係なく、
毎日、毎日、りんごを食べています。

はい、そのりんごの画像。
りんご

実家に、りんご園があった頃より、
食べているかも。

まるで、りんごダイエットしているような気分です。
実際、来週に、健康診断を控えているので、
それに近いものはありますが…

すぐ近くにある「りんご園」に出向いて、
自分で選んで、買っています。

やっぱ、スーパーで買うより安いし、
その場で試食させてもらいながら、
選ぶのも楽しいです。

もうすでに、知り合いなんで、
好き勝手なこと言いながら、
いろいろと時間をつぶして、
りんごを買いに行っています。

今年は、もう数回行ったかな。

ちなみに、私が行っている「りんご園」のページは、
こちらです。→野田りんご園

ここで、りんご作りを始めた人の熱い思いが
分かってきて、なんか心を打たれます。

許可をもらって、ちょっと紹介。

■野田りんご園の「ふじりんご」について

健康な「りんごの樹」は、お日様を十分にあびると、
青々とした葉っぱが生えてきます。そして、
それらから良い花芽ができ、
おいしい「ふじりんご」が生まれるように、
四季をとおして育むのが、わたしの仕事です。

りんごが全国に広まったのが、明治8年。
わが増田町には、それから10年後の
明治18年くらいと言われています。
120年のりんご作りの歴史。山を背にして、
西向きの日当たりのいい環境が、
野田りんご園の自慢です。

歴史をひもとくと、
この地域に婿になってきた藤原利三郎さん
とうい方の名前が出てきます。
ここに住み始めて、人々の生活を見ているうちに、
人も心も貧乏ではいけない、
なんとか豊かにしなければという使命感のもとに、
当時は、林ややぶばかりであった山手の斜面を開墾して、
りんごを植え始めることに…。すべてが、そこから。
ただ植えたというわけでなく、
そこがぴったりの場所だという勘を信じての
りんご作りの始まり。

私は、そういう人々の子孫として、
切ったり、足したり、必要に応じて治療したりと、
りんごの樹とともに生きてきたわけです。
そんな思いと、受け継いだ環境と技術から
生まれた「ふじりんご」を、産地から直送します。

■大臣賞受賞の理由コメントから抜粋
「果実は、大きめで、形状、玉揃いとも優れている。
 果実の品質は、硬度15.3ポンド、
 糖度15.9%と明らかに高く、他をしのいでいる。
 肉質も緻密で果汁も多く、食味、鮮度ともに抜群である。」

11月10日頃より、ふじの収穫を予定しているらしい。
その頃になったら、私も、また出向くことでしょう。
ふじりんごの蜜が、やっぱり、たまらない…

→野田りんご園

2007年10月11日

住みやすい街

テレビ番組などで、
時々、住みやすい街ランキングなどを
特集したりするけど、

人それぞれ、今自分が住んでいるところを、
それなりに住みやすいと思っているはず。

もちろん、
何らかの面で不平・不満は
必ずあるだろうけど。

持ち家があるから、
仕事場に近いから、
家族や親戚が近くに住んでいるから、
もう住み慣れてしまったから…

どんな理由があるにしろ、
その理由がその時点で、
他の理由よりも大切だと思っているから、
そこに住んでいる。

逆に言えば、そこに
束縛されている理由にも
なっているんでしょう。

極端だけれど、
住みやすい街には、
こんな分け方も出来る。

「お金があれば、住みやすい街」
「お金を得るには住みやすい街」

きっと若いときには、
後者を大切にするはず。

でも、老後になって資金があれば、
前者を大切にするはず。

で、私が今住んでいる秋田っていうところは、
きっと、前者「お金があれば、住みやすい街」。

物事が、お年寄り中心に進んでいる。

仮に、まわりの人が、
お金のためにあくせくと働いていても、
それに左右されることなく、
生きていける環境のような気がする。

おそらく、体の自由が利くまで。

私も、あくせくと
働かなければいけない瞬間がある。

けれど、そういう瞬間から離れて、
三女と近くを散歩したりすると、

今は、稲刈りを終えた田んぼが、
秋の香りをただよわせていて、
ものすごいいい気分を感じる。

公園で腰をおろして、
子供らを勝手に遊ばせている間、
文庫本なんを読んでいれば、
その気持ちよさは、この上ない。

きっと、お金では
買えないもんだろうなぁ、
って思う。

間もなく、冬が来て、
豪雪状態にでもなれば、
その「住みやすさ」も薄まりかかるけれど、
今は、ホントに住みやすい…

そこから離れなければいけない知人もいる。
「お金を得るには住みやすい街」に行くそうだ。

とは言っても、ここがまったく
お金が得られない場所でないのも事実。

妻が、
コンタクレンズを買い替えるために、
街一番の大きな眼科に初めて行って来た。

親子3人が眼科医をやっているらしい。
スタッフ・看護婦は20人以上、
患者は午前中だけで200人ほどの回転。

元看護婦の妻が、そこで、
看護学校時代の同級生に会った。
潤沢とのこと…

やっぱり、医療関係だけは、
お年寄りが多ければ多いだけ、
潤うんだなぁ。

もちろん、他の業界でも、
勝ち組は、ちゃんと稼いでいる。

そうなると、彼らにとっては、こここそ、
「お金を得るには住みやすい街」になるわけだ。

なるほど、住みやすい街っていうのは、
自分中心で考えるしかないようですね。

2007年10月10日

気づかない願望

朝起きて、
トイレに立ち、
ふと、娘の同級生のお父さんの顔を
思い浮かべた。昔からの知人である。

「Shuさん、俺の息子に、なんとか、
 卓球を教えてもらえないかなぁ…」

みたいなことを頼まれるシーン。

なんで、そんなシーンを思い浮かべたのか?

こんな冷たい人間の私でも、
やっぱり、人に頼られたいのかなぁ。
そんなことを発見した。

冷たい空気をかもし出しているので、
ちょっと怖れられている私は、
めったに何かを頼まれることはない。

気心知れている人間は、
何かと尋ねてきたり、
頼んできたりするけれど、
それ以外は、あまりない。

「自分でやれ!」
みたいな見えないビームを、
そこらへんに撒き散らしているからね…笑

仕事でも、勉強でも、卓球でも、
それ以外のことでも、
何かを教えてくれと頼まれて、
本人が「やる気」があるなら話は分かる。

若い頃には、
家庭教師もやったことがあるけれど、
結局、親が「教えてくれ」と頼み込んでも、
当の子供本人に、その気がなければ、
私は、お金をもらって返るだけになる。

どうやら、
「やる気」を盛り上げる才能は、
私にはないようだから…

そういう自分を知っているから、
もっぱら、自分を鍛えて、
自分のレベルアップをする道が、
けっこう好きになっている。

それでも、
心の奥底には、
どこかしら「頼られたい」思いが
あるんですね、私にも。

実際、頼られると、
きっと面倒くさがるのも予想できますが、
願望として持っている分には、
問題ないわけです。

これには、自分でも気づかなかったよ。

「これからは、
 世のため、人のために、
 がんばっていきます。」

離婚したばかりの知人が送ってきた手紙。
ケータイのメールがあるんだから、
それで送ってよこせばいいじゃん、
と思ったけれど、自分なりのケジメだったんだろう。

世のため、人のために生きるよりも、
とりあえず、本当に自分のためになる生き方をしないと、
世のためにも、人のためにもならないんじゃないかなぁ、
と感じて、そうメールで書いてやった。

「なるほど、そうだな。」
というメールでの返事。

頼られたい願望を持つ人間は、ここにも居た。

頼られなければ、
自分の生き方が分からなくなる時もある。
頼られて初めて、
なんか生きてる心地がするんだろう。

私の願望は、そこまでいっているかな。
「おまけ」程度かな…

トイレに立ちながら、
そんなことを思った今朝でした。

2007年10月 7日

人のことを言っているうちに…

「あなたの体の調子が悪い理由は、
 きっと、ここに書いてある通りだよ。」

「あなたが悩んでいるのは、
 この番組で言っているパターン通りだよ。」

「あなたの家庭がうまくいかないのは、
 風水の…」

などなど、人の悩みや病気などの理由、原因を
カンタンに見つけだしてくれる人がいます。

それが当たっているかどうかは、
分かりませんが、言っている本人は、
間違いなく、これしかないと思って、
自信満々に教えてくれます。

わたしも、時折、
そういうことやってるなぁ。

自分から好きで
言い当てるのは、
けっこう面白い。

けれど、言い当ててみてとせがまれて、
無理やり、考えさせられるのは、
あまり面白くない。

反対に、言い当てられるのは、
期待していることについては
面白いけれど、
勝手に暴露されるような「言い当て」は、
不快になることが多いでしょう。

仮に、人のことを言い当てたとしても、
自分が同じ問題に出会ったときに、
あるいは問題に出会わないように、
うまく対処できるかと言えば、
それは分からない。

人のことを言っているうちに、
自分も同じ目に遭っていたりする。

そうなってみた時に、
単なる「言い当てる」ことが、
どれだけ無責任かが分かってきます。

言い当てても、
何ともならないのです。
クイズとかで賞金があるならともかく。

なんで、人は、言い当てるのが好きなんだろう?

私は、どうしてだろう?

スッキリしたい、
自分の分かる領域に物事を落ち着かせたい、
頭がいいと思われたい?

そんな感じかなぁ…

スッキリしたいっていう気持ちは、
意外とクセモノですね。

あくまで自分の願望ですし、
それが生理的なものに
つながっているところもあるから、
ガマンできないんです。

言い当てて、スッキリしたい。

うーん、でも、やっぱり勝手だなぁ、これは。

2007年10月 4日

好きな人のために

いくら、
好きだからと言って、
その人の人生に、
手を出して助けることは、
私の一番嫌いなこと。

そういうことは、
ほっとけと思う。

妻が、子供に手を出そうとする時にも、
「手を出すな!」
といつも、押さえこんでいる。

しかし、
最近、気づいたのだが、
それとは別の方法で、
私って、けっこう過保護だな、
と思った。

というのは、
手は出さないが、
子供がしているそれぞれの経験について、
必ず、意味を教えたがることだ。

いい経験とか、
うまくいった経験があれば、
努力したことをほめて、
けど油断するなよ、と言う。

よくない経験とか、
面白くない出来事があれば、
なんで、そういうことが起こったのか、
頼まれもしないのに勝手に分析して、
私が分かったことを伝えて、
その意味と、これからの対策を、
教えるという感じだ。

手は出していないけれど、
結局、意味を教えることで、
手を出しているような感じだな、
と気づきました。

それが、
子供本人が自分で見つけられるように、
助ける、もしくは質問などで導くのなら
話は別だと思うのです。

私の場合は、
最初は、質問とかして、
そういう導く方向にもっていこうとしますが、
そのうち、手っ取り早く教えたくなって、
「意味」を伝えてしまう。

皮肉なことに、
人間というものは、
自分で見つけた「意味」には、
感動とか、納得がありますが、

他人から見つけてもらった「意味」には、
無感動で、なおかつ忘れやすいのです。

私は、それを必死にやっているかもしれない。

ちょっとショックだけど、
「目からウロコ」の発見でした。

母親は、助けを与えようとし、
父親は、意味を与えようとし、
二人で何もかも守ろうとしていたら、
子供は、弱くなってしまうかも…

でも、意味をうまく見つけられなかったら…?

過保護な親は、そういうことまで心配します。

うまく見つかるまで、
時間がかかってもいいじゃない?

どうせ、自分で見つけた「意味」以外には、
何の感動も、何の納得もしていないんですから。

たしかに、そうですよね。

結局、親は、子供の人生が、
自分の思い通りに、
(私の場合は、あまり失敗しないで、
 ムダな時間が少なくなるよう)
進むように願っているだけなんですね。

違いは、その「思い通り」っていうかたちだけ。
傷ついて欲しくない、
人に迷惑かけないように、
成績がよくなるように、
才能で輝けるように…

なぁーんだ、私も、
単なる「親バカ」だったのか。

気づいていたつもりが、
さらに気づいたというわけです。

「意味」を見つけてやりたくなる、
「意味」を教えたくなる…

まだまだ、ガマンしきれませんが、
好きだからこそ、なんとか努力してみたいと思います。

2007年9月30日

預かりもの

何かを預かるっていうことは、
実はかなりリスクのあることなんだなぁ、
っていうのを、
子供の成長とともに感じてきた。

というのは、おそらく、
他人の子供にふれる機会が多くなかったからだろう。

たとえば、仕事の帰り道に、
ちょうど、自分の子供が下校している姿を見る。
近くに、子供の友達もいる。

自分の子供を車に乗せて、
ついでに、その友達も乗せる。

ちょっと緊張感が出る。

ほんの少しの距離だけれど、
たとえば、もし、事故にでも遭ったら、
乗せた「私の責任」になってしまう。

そんなことに巻き込むくらいだったら、
冷たいなぁと思われてもいいから、
他人様の子供は、自分の車に乗せない方がいい。

いつだったか忘れたけれど、
自分の子供と、子供の友達を
遊びに連れて行った先で、
何らかの事故に巻き込まれ、
友達の方だけ命をなくした、
なんていうニュースがあったように思う。

お互いにとって、
とてつもなく苦しい状況に
なっただろうなぁ、と想像できる。

銀行は、仕事として、
他人様のお金を預かる。

学校や幼稚園なども、仕事として、
他人様の子供を預かる。

そういうことが分かっているから、
ややこしいような、神経質なルールまで
今は存在している。

何かあった時に、
責任を問われないような体制に
しておかなくちゃ、気が休まらないだろう。

預けた方は、有料であれ、無料であれ、
何かが起きれば、必ず責任を問う。

預けるっていうのは、
信用する、信用される、
っていう関係の証拠っぽいところもある。

だから、わざわざ、
友達に預けたり、預かったりする行為を
してみたりもする。

それで、お互いに安心。
みたいな…

戦国時代の「人質」みたいなもんなかなぁ。

うん、たしかに、そうだ。

相手の信用のために、
人質が欲しいなら、
それは意味あるけれど、

無理やり、
預けられた「人質」は、
かなり迷惑だよね。

そういうことから考えても、
何かを預かる時には、
ちょっと注意した方がいいね。

2007年9月28日

もう、十分じゃないか!

とことんやる、
っていう美学があると思う。

成功するまで、
自分が納得するまで、
相手から理解してもらうまで…

けれど、
そういう目標に
なかなか到達できない時に、
どこかで、踏ん切りを
つけなきゃいけないこともある。

それ以上、
そのことに費やすと、
目標に見合わない「投資」に
なってしまうと判断すること。

株の世界で言えば、

Stop loss order(ストップ・ロス・オーダー)

日本語訳は、損切り注文と言うらしい。

損失を防ぐため、または最小にするために、
ある値段よりも株価が下がったら、
成り行きで売ってもらう方法。

この「成り行き」っていうのがポイントで、
急落している時には、
その基準にしていた値段で
売れるとは限らない。

たとえば、100円で1万株を買ったとして、
90円まで下がったら、
ストップ・ロス・オーダーにしようと考える。

そしたら、急落し、
なんとか、80円のところで
売り抜けることが出来た。

当初は、
(100-90)x1万=10万円の損失までは
覚悟していたけれど、
結果的には、さらに10万の損失で、
20万円の損失になってしまう。

こんなこともあるから、
どこを「もう、十分じゃないか!」
という基準にするかは、とても大切。

反対に、90円を
ストップ・ロス・オーダーにしていて、
やはり、そこまで下落したので、
売り抜けたとする。

その後、即座に高騰して、
95円を超えた、
100円を超えた、
105円を超えた、
まだまだいくかー!!
っていう瞬間を眺めているのは、
まことに悔しいはず。

株価なんていうのは、
ある意味、人気投票で、
群衆的心理で動いている「気まぐれなもの」。

その気まぐれが、
自分にとって都合いいようになるか、
都合の悪いように動くかは、
分からないところがあって当たり前。

人の心に関係するものを
扱っている場合には、
多かれ、少なかれ、
そういう要素が必ずある。

だから、期待しすぎてもいけないし、
最初からあきらめてしまうのも良くない。

思いも寄らない結果になったらなったで、
その時は、あきらめればいいだけ。

そのあきらめを最小限に抑えるためには、
がんばることについても、
なんらかの「ストップ・ロス・オーダー」が
必要なんじゃないか、と思う。

がんばることが何であれ、
いくつも失敗を重ねたにしろ、
「がんばる気持ち」
さえ失われていなければ、
それは、損を最小限に抑えたことだろうから。

2007年9月14日

損したかどうかのチェック

何かトラブルが起きると、
自分が何か損したか損していないか、
を考え始める。

損していなければ、
問題がどれだけ大きくても、
あんまり気にしない。

けれど、少しでも損していれば、
問題がどれだけ小さくても、
大きく騒ぎたくなる。

「訴えてやる」
「通報してやる」
「相談させてらもう」

そこまでしなくてもいい内容で、
ちょっとした会話、
コミュニケーションをして、
解決できるはずが
それが出来ないとなると、
第3者を巻き込んだトラブルは、
ますます増えていくだろうね。

ただね、当事者同士で
解決できるはずと思って、
当事者にまかせていたら、
とてつもなく複雑にしてしまって、
行き詰まったりしているケースもあるから、
やっぱり、第3者を交えての解決も
必要なんでしょう。

そう言いながら、
他人事には勝手なことを言う私も、
おそらく、自分の損になると、
きっと敏感になってしまう。

自分の損に対する敏感さ、
そこに、コミュニケーションが
うまくいかない問題が重なると、
問題が大きくなってしまう。

きっと、トラブルメーカーと
呼ばれる人は、そんなタイプなのでしょう。

一方、自分の損に鈍感で、
コミュニケーションがうまければ、
世の中は、何の問題も
起きないかもしれない。

ピースメーカーと呼ばれる人々は、
こっちかな?

私も、そんなふうに生きられたらいいなぁ…

お金に対する損をすることはめったにないけど、
自分の時間、労力が「損」しそうになると、
私は、けっこうキレますからね。

こんなに時間をかけたのに、
こんなにまでしたのに、
っていう気持ちは拭いきれない。

そこに、相手のコミュニケーション(連絡)不足
なんかがあったりすると、

「もっと早く、言ってもらえればよかったのに。」
「そんなことなら、最初から言ってよ。」

みたいなことになります。

皆さんも、経験ありますよね?

いっしょに何かをやる人とは、
いいコミュニケーションが
絶対に必要ですね。

コミュニケーションがうまく取れないと感じたら、
最初から関わらないか、関わってもあきらめるか、
その心構えが大切に思います。

2007年8月31日

食べたものが恥ずかしい

売れているようですね。

いつまでもデブと思うなよ(岡田斗司夫)

っていう本。

中身は見ていないですが、
ダイエットのために、
食べたものをすべて残らず
メモ帳に書き込む、っていう作業が
私向きな気がしました。

で、早速。
昨晩の夕食。

親子丼(小)2杯、
枝豆 1皿、
野菜ジュース 200cc、
なすの漬物(小) 1個、
きゅうりの浅漬(小) 10個、
ようかん 2cm。

こんな感じでした…

食べている時には、
それほど感じない量的なものも、
書いてみると、
けっこう食べているなぁと思ったり、
腹減ってたんだなぁとか感心することになります。

で、この書くという作業には、
2つの期待効果を持たせているらしく、

1つは、前述のように、現実が分かること。

2つ目は、書くのが面倒くさくなって、
食べるのも遠慮するようになること。

次女に、
書いたものを見せたら、
私だったら、

「食べても、書くのが面倒くさいから、
 絶対に書かないよ。」

とのこと。

まさしく、その通り。

ある意味、このゲーム。
それも、自分とのゲームに
参加する気のない人には、
まったく効果のないダイエットでしょうね。

私は、思ったとおり、
ハマりました。

やっぱり、書くのが楽しいです。

私は、今日からちょうど2ヶ月後に、
健康診断を受ける予定になっているので、
がんばってみたいと思っています。

しかし、このメモ帳、
あんまりたいしたものを
食っていない時には、
恥ずかしくて
他人に見せられないなぁ…

ただ、そういう食生活にこそ、
ダイエット効果があるわけで、
他人に見せられるようなメモ帳になったら、
もうダイエットしている意味ないでしょうね。

私の食べ物メモ帳が、
いつまでも他人に見せたくない内容で、
あるように努力するばかりです。

よかった。
このメモ帳を始める前に、
おととい、焼肉いっぱい食べておいて…

2007年8月30日

完璧なウソほど危ない

「この程度のウソじゃ
 見破られる」

と思い込んじゃって、
ウソの完成度をアップしようとすると、
かえって失敗する。

そんな気がします。

ウソを、
ウソじゃないレベルまで
盛り上げようとすると、

真実からどんどん
離れていってしまうからです。

たとえば、
人は知性だけでは動かない。

感情も入りこんでくると、
予定どおりはいかないことが
ほとんどです。

たとえば、
「今度の水曜日に、
 いっしょにランチ行こう」
と誘われたとして、

先輩だから断りにくいけど、
なんとか断りたいとする。

だけど、
「行きたくない」
という言葉だけは、
どうしても避けなくちゃいけない。

「お金ないから」
と言えば、
「私、おごるわよ。」
と言われる可能性もある。

「外食、ちょっと苦手で…」
なんて言い訳もありえない。

「今、ダイエット中で
 外食は控えているんです。」
くらいが、微妙に本当っぽい…

それでも、それまでの生活習慣で、
そんな必要性がないほどやせていたり、
ダイエット弁当を持参する性格っぽくもなければ、
また、それもウソだと見破られます。

ウソなんかつかずに、
本当のことを言えたら、
どんなに楽か…と思うけれど、
やっぱり、相手がそれに
耐えられそうにないと、
うまい方法が必要になる。

苦しいですね…

そういう場合の正解は、
皆さんそれぞれの努力に
まかせるとして、
完璧なウソだけは
絶対にオススメできません。

掘り下げて質問される前から、
隅々の回答が用意されているくらい、
怪しいことはありません。

そんなことを書いている自分も、
そういう傾向ありますから、
注意しなくちゃいけないです。

上手なウソがつける人間でありたいものです。
だますためでなく、出来る限り、
不快な気分を、お互いが感じないように。

2007年8月24日

老後をとるか、子供をとるか

知人に、小ぎれいな
70代のおばあちゃんがいます。

ご主人はお亡くなりになり、
息子さん、娘さんは
ともに独立していているので、
一人暮らしをしています。

そんな彼女が
うちら夫婦の顔を見た瞬間に、
つぶやきました。

「あー、なかなか、
 うまくいかないねぇ。」

何のことかと思って、
話を聞いてみると、
息子さんのこと。

20代、30代という若さゆえ、
手がかかるというわけじゃありません。

50代が近いというのに、
なかなかパッとしない生き方を
しているんだそうです。

だから、その息子さんや、
その奥さんから電話がかかってくると、
ヒヤっとするらしい。

必ず、お金の話です。

「わたしも、甘やかして
 育ててしまったからねぇ。」

子供は、いつまで経っても、
手がかかるものなんですね。

息子さんで話は済まずに、
弟さんにも難儀している様子。

やっぱり、同じように、
お金の話だそうです。

頼られるのは、
悪い気もしませんが、
そこまで来ると、
身内とは言っても
「ねらわれる」
という表現の方が
ピッタリな気もします。

うちにも、
ねらわれやすい女が
一人いるので、
ちょっと心配になります。

情にほだされやすい、
話を聞くと放っておけなくなる、
そんなタイプの人間は、
ねらわれます。

詐欺師とか、
赤の他人からじゃないです。
身内からの攻撃です。

老後をのどかに生きたい、
という願いも、
そんな身内から邪魔されます。

なんか、かわいそう…

いっそ、何の手出しもしないで、
気にせずに、老後を楽しめればいいでしょうけれど、
自分の性格が後ろ髪を引っぱり、
結局、手を貸してしまう。

老後よりも、いつまでも、
子育てをしているような始末。

話を聞いて勉強になったと同時に、
子供の教育を考えさせられました。

私自身が70代になっても、
「50代の子供」の子育てがあるなんて
ウンザリですからね。

こんな話も珍しくないし…

2007年8月13日

気持ち悪い

気持ち悪いと思っている人の行動は、
なんでも気持ち悪く見えてしまうもの。

思い込みの激しい人は、
とくにそう…

うちの長女は、
その典型的な例で、
気にしすぎるほどに、
そういう人の行動をおかしく
理解してしまう。

たとえば、
アイスクリームを食べる時に、
カップのふたをなめたりするしぐさを見て、
「気持ち悪い」なんて騒ぎ出す。

「おまえも、なめるだろ?」

「そっかぁ…」

「おまえ、なんか考えすぎだっていうか、
 おかしく解釈しすぎ。うるさいって。」

ホラー好きというか、
怖いもの見たさみたいな感じに
思えます。

怪しく見える人には、
怪しい背後があって欲しいような。

それでいて、
自分一人で怖く考えすぎて、
夜、なかなか寝付けなかったりする。

お盆という時期だから、
怪談話が好きなくせして、
誰よりも怖がるタイプなのでしょう。

今日から、わが家は1泊キャンプに行きます。
涼しいだろう山へ…

天気予報も、雨の降る兆しはなく、
楽しくなりそうです。

そこのキャンプ地は、
怪談話があるようなところではありませんが、
去年の経験から言うと、
夜中、トイレに行くために、
三女が転んだりして、
暗がりは注意しなくちゃいけないのは事実。

皆さんのお盆休みも、
それぞれでしょう。

もちろん、休みなく働く人も…

よい1日でありますように。

2007年8月 4日

暑くなって許されること?

北国の秋田も、
暑くなってきました。

日中の気温は、
クーラーのない部屋でも
35度を超えます。

ちょっと動くと、
汗がじわっときます。

それに、
ちょっとしたことがあると、
イラっともきます。

イラっときたのを止めるのは、
この季節では至難の業です。

車を運転していて、
工事現場付近を通りかかると、
緑の旗と、赤の旗で、
交通規制をしている男性に出会います。

ホントに、暑そうで、
ご苦労様です。

でも、そのせいか、
右手に持っている赤い旗を
胸の前に見せながら、

左手に持っている緑の旗を
振っていると、
ドライバーの私は、
「え?」と迷います。
止まればいいの?
進めばいいの?

大事をとって、
その男性の前に止まると、
イライラしたように、
緑の旗を忙しく振り始める…

ああ、そうでしたか。
進んで欲しいんですねと思いながら、
今度は、こっちがギアをニュートラルに
入れていることを忘れて、
アクセルを踏んでしまう。

ブーーーーン。

その男性、こっちが
怒っているように勘違いしたらしく、
顔を真っ赤にして、
さらに緑の旗を忙しく振る。

はい、はい、分かりました。

暑いと、みんなイライラ…

家に帰ると、
怒りの電話らしきものが
入っていたという話。

話を聞いてみれば、
すでに3ヶ月も支払が遅れている人から、
「こっちも生活がかかっているから」とか
「病人を抱えて大変なんだ」とか
「いい迷惑しているんだ」とか…

あのー、
支払ってもらうべきものを
受けとることが出来ないで、
困っているのは、
こっちなんですけどね。

暑くなると、
逆ギレも許されるようです。

娘たちは娘たちで、
テストの点数と順位が発表されたらしく、
教えるか、教えないかの探り合いを
学校でしていた様子。

「あなたが教えないと、教えないよ。」

「えー?!」

「教えない、教えない。」

「400点くらい?」

「違う」

「300点くらい?」

「違う」

「200点くらい?」

「なんで、そんなに下がっていくのよ!
 そんな点数で、○位とれるわけないじゃん。」

「…言わせてしまった」

「あら…は、は、はははは」

暑くなると、
隠し事も出来なくなります。

暑くなると、犯罪も増えるのかな?
自分にも、他人にも気をつけた方がいいですね。

2007年7月24日

どっぷりと浸かる傾向

子供の頃には
気づかないかもしれないけれど、
20年、30年、40年と生きてくれば、
自分が、どんなものにつかまってしまうか、
何にどっぷりと浸かってしまう傾向にあるか、
分かってきます。

ふと気づくと、
つかまっているんですよね。

きっと、人それぞれ、違う…

興味のあるところと
言える時もありますが、
単に、うまく誘導されて
つかまってしまう場合も
少なくありません。

もちろん、
つかまっても
悪いものばかりとは
限りません。

しかし、つかまった後に、
自力でそれから逃れられなくなるほど、
どっぷりと浸かってしまうとなると、
やっぱり、後々、自分が困る。

気づくと、
やるべきことをしていない自分がいて、
あたふたする始末。

すごい集中力と、
どっぷり浸かってしまう傾向は、
なんとなく似ているところもありますが、
根本的に違うな、って思います。

たとえば、こんな感じかもしれない。
仕事でも、スポーツでも、勉強でも、
本番っていうのがあって、

集中力のある人も、
どっぷり浸かってしまう人も、
外野の人間から見ると、
真剣そのものに見えるだろうと思うんです。

ただ、内面では、
まったく違うことを考えている。
集中力のある人は、
勝利や成功のために出来ることを
全身で考えているだろうと思うんです。

一方、どっぷり浸かってしまう人は、
負けたらどうしよう…
負けてしまうんじゃないか…
という思いにつかまり、
真剣とも深刻とも見える表情かもしれない。

自分で自分の気持ちをつかむ人間と、
何かによって自分の気持ちがつかまれる人間では、
まったく、内面が違うわけです。

本人は気をつけようと思うのですが、
なかなか、逃れられないということもあります。

思い返してみると、
逃れる必要のない環境で
育てられたということも
考えられます。

つまり、家族や身内の中に、
すぐに手を貸してくれて、
逃れる手助けをしてくれたり、
困ったことを代わりにしてくれる人
なんかがいたりするのです。

すると、ますます、
どっぷり浸かってしまうことに…

この人は、
どっぷり浸かってしまうタチだから、
と周りが理解を示しすぎると、結局は、
そういうことになるのかもしれません。

子供の時に、
どっぷりと浸かる時があるとしても、
自分で逃れられるようにしてあげないと、

大人になって、
どっぷりと浸かってしまった時に、
逃げる術を知らないことになります。

一見、集中力のように見えますから、
そこらへんに自分が気づかないと、
逃げられない人間になってしまい、

後々になると、
逃げてばかりの人間になることでしょう。

ああ、逃げる術を持っていないと
ダメですね。

2007年7月13日

トップになる素質

「これからも、がんばってね。
 君は素質があるから。」

なんて言葉を、
尊敬する人から言われたら、
天にも昇るような気持ちになるだろう。

しかし、それが
本当に実現するかは、
分からない。

しばらく経って
結果として見た場合に、
とてつもなく成長していたら、
その人に見る目があったことになるのか、

それとも、その言葉を聞いて、
本人ががんばったから、そうなのか。

なんとも言えないのだ…

とは言っても、
いくらか人を見る目が出てくると、
素質の有り無しは
なんとなく分かってくるのも事実。

それが絶対的とは断言できないけれど、
分かってくるんだよなぁ。

トップに登り詰めることができる素質、
そこまでは行かないけれど
そこそこは伸びる素質、
どうあがいてもこのままじゃ
どうしようもない素質…

いろんな素質の人が
集まっているチームがあるとすれば、
本人たちも、お互いの素質をなんとなく
分かってくる。

そして、ハッキリと分かれる。

素質を知って、
それを乗り越える努力をする者と、

素質を知って、
それに打ちのめされ、
おかしなことを始める者とに。

おかしなことを始める者は、
だいたいにおいて、
素質のある者の邪魔を始める。

ああ、無駄なことである。

けれど、素質のある者にとっては、
そういう邪魔を乗り越えて、
精神的に強くなることは、
決して無駄にはならない。

出る杭は打たれる。
それで打たれるくらいの杭なら、
それまでのこと。

そこを踏ん張って、
出すぎた杭になればいい。
なぜなら、出すぎた杭は
打ちようがないから。

邪魔する者がいくら企んでも、
もう止めることが出来ないのだ。

他の仲間、周囲がこぞって味方をし、
邪魔をする者との溝を深め、
素質ある者の側へ渡ることができなくなる。

邪魔なんてことは、
素質ある者をかえって助けるのだと思う。

邪魔する者は、そんな時間があったら、
自分の別の素質を探した方がいい。

2007年7月 4日

素敵なこと

「どう、素敵でしょ?」

と言われて、
その見せられたものの価値が
分かればいいけれど、

分からないと、そのものよりも
別のものに関心が向いたりする。

スポーツでの戦いぶりを見せられても、
ルールが分からないから、
選手の容姿とか、ユニフォームに
目がいってしますように、

高級車を見せられても、
その価値が分からないから、
単に光沢とか、形とかに
目がいってしまうように、

料理に出された皿が
1枚何万円だの、
どこから取り入れただのと
説明をされても、
やはり、肝心の料理に
関心が向いてしまうように、

自分が素敵だと思っていることに、
関心を向けさせるのは、
意外とすんなりはいかない。

たとえ、
それが好きなもの同士の友達でも、
はたまた、恋人や夫婦でも、親子でも。

同じものに関心が向かないことを
悲しいと思うか、
違うものに関心が向くから
面白いと思うかは、人それぞれ。

ただ、私としては、
違うものに関心が向くから面白い、
という考え方を受け入れられることが
幸せの秘訣だろうと思う。

同じものを素敵と思えないからと言って、
衝突したり、反発してばかりいたら、
何かを協力して進めるということが
何1つ出来なくなるだろうし…

血のつながった親子でさえも、
関心をもつものは、
180度違うことは
少なくない。

何かを素敵だと思えることは、
とてもいいこと。

それが人それぞれ違う、
というのも、悪くはない。

さらに、その違いを利用して、
何かをいっしょに出来たら、
それはそれでいいんじゃない?

結婚したばかりの夫婦が、
恋人時代には気づかなかった違いに気づく時、

親が、少しずつ大きくなっていく子供の
関心事がなんか分からないなって思う時、

会社の上司が、部下の働く方法が
これまでの時代とはちょっと違うなって思う時、

嫌悪感をもたずに、

違いに気づいた自分を
素敵なことだと褒めることが出来れば、
視野はどんどん広がるだろうと思うんです。

多分、ほんのちょっとの差。

それが、幸不幸の差にもなるのかな?

2007年6月24日

言ってください

牛肉に豚肉を混ぜて
売っていたという、
今話題のミート社問題。

記者会見にて、
代表取締役である父親に、
取締役の息子が言った。

「やったなら、
 やったと認めてください。
 あいまいな表現はやめて、
 本当のことを言ってください。」

あのシーンだけを見ると、
父親が悪者で、
息子が改心したヒーロー
みたいに見える。

人生長く生きていれば、
悪いことを何もしないでここまで来た、
なんてことはないだろう…

というのが、
ちょっとばかり
手を悪に染めた人々の言葉。

それに染まっていない人々には、
そんなことは信じられない、となる。

しかし、自分も同じように
苦しくなったり、攻め込まれたりすると、
それに似たような悪事に走ってしまう。

正義感=正義を貫く行動、
ならいいのだけれど、

潔癖感という、
単に「汚れたもの」を嫌う感情であれば、
自分が過ちを犯したものを隠したり、
捨て去ることだけに終始するように
なってしまう。

「本当のことを言ってください」

その言葉が、耳に響いた。

本当のことを言う義務は、
あなたにあるんですよ。

あなたが、本当のことを
言っていないでしょ。

本当のことを
言う約束だったじゃないですか。

私は、もう、
あなたのウソには
付き合いませんよ。

あなただけを悪者にしますよ。

うーん、その言葉の裏には、
どんな思いがあったんでしょうか。

実際のところ、
その悪事、その本当のことを
どれだけ早く知っていたかによっては、

「本当のことを言ってください」

というのは、むしろ、
身勝手な言葉かもしれません。

「本当のことを言ってください」

という言葉の裏に、
ウソが混じっていたら、
偽善でしょう。

自分のやったことや、立場を
うやむやにするための言葉だとしたら、
本当のことを言わせられる人を追い込むだけで、
自分は、いつの間にか、
悪者の枠から逃れられるのですから。

なんか、ゲームみたいですね。

いつ、だれが、どんな言葉を吐くかによって、
それぞれの印象が変わるんですから。

聞いている側が、
それにだまされているとしたら、
それこそ、本当のことは
いつまで経っても、
分からないということになるわけです。

「本当のことを言ってください」

いい言葉ですが、なかなか、
不気味な気もしてきました。

2007年6月12日

聞き上手と、聞かされ上手

話の聞き上手なの人は、
なんといっても好かれる。

そして、
ちゃんと肝心なところを
聞いているし、
ポイントとなるところで
分からないことが出てくると、
ちゃんと聞き返したりすることも出来る。

けれど、聞かされ上手な人は、
ただ、話を聞かされる役目に
追い込まれるばかりの時もある。

一方的に話されたり、
自分から単に座っているだけの役目を
しょいこんでしまう。

そして、
何が肝心かも分からないし、
ポイントとなることを
聞きだすことも出来ない。

ホントに、
聞かされるだけ…

ただね、ホントに、
聞かされ上手の人が好きな人も
いるんですよね。

何も質問を投げかけてこない、
話が分かっているかどうかなんてどうでもいい、
ただ、だまって聞いていてくれる人がいい、って。

多分、そこに、
人のぬくもりとして
存在してくれているだけでいい。

っていうことなのでしょう。

多分、お年寄りの方とかは、
そういう人がいいのかもしれません。

話に興味をもたれて、
質問をなげかけられて、
自分の話したい順番を乱されるよりも、
自分がただ長々としゃべっていたい感じ。

あと、もしかしたら、
失恋とか、すごくイヤなことがあったり、
ものすごく寂しい気持ちを感じてる人も、
ただただ聞いてくれるだけの人が
いいっていう場合もあるでしょう。

それが出来るためには、
よほどの忍耐があるか、
自分の時間を気にしない人じゃないと
ダメでしょうね。

私なんかは、きっと無理。
必ず、自分の時間を気にしちゃう。

よっぽどのメリットを感じることでもない限り…

ただの「聞かされ上手」の役を
押しつけられるのは、きっと耐えられない。

話を聞き始めた瞬間から、
この人は何を言いたいんだろう?

この話から何を学べるんだろう?
何を考えればいいんだろう?

なんて考えがちです。

聞き上手にはなれても、
聞かされ上手にはなれないタチの人間。

これで、損していることもあるんだろうなぁ…

でも、やっぱり、
耐えられないんですよ。
性格ですから。

2007年6月 2日

妻の年齢を感じる時…

私としては、
うちの奥さまをまだまだ若いと
思っているのだけど、

本人は、よく
「もう年だ、年だ」
と冗談っぽく言ったりするようになった。

人の顔っていうのは、
面白いもので、
すごく若く見える顔が、
見方を変えると、
けっこう大人びて見える時がある。

おそらく、うちの妻も、
そんなタイプ。

うちの中にいると、
童顔っぽく見えるところもありながら、
外に出ると、
人を気遣う性格のせいか、
落ち着いた年齢の人に見えてしまう。

そんな妻も(?)、
来週には39歳の誕生日を迎える。

お!

39という数字を見れば、
もう来年には40になっちゃうわけだから、
たしかに、もう若くもないな、
という気もしてくる。

ただ、数字の年齢は、
必ずしも、実際の人間の年齢を
表すものじゃないと感じるようになった私は、
まだまだ若いという気分は、
抜けきらないように思う。

と言いながら、
「まだまだ若い」
と言い張らなければいけない現実に、
実は、年齢の実感を認めている自分も
いるんでしょうね。

若い人は、
そんなことを言い張る必要がない。

言い張る必要のある人だけが、
そんな言葉に敏感になる。
化粧品のテレビCMでも、
雑誌でも、そんな敏感さに
うまく訴えかけるような言葉を選んでいる。

「花田花子、62歳。
 化粧水以外、何も使っていません。」

みたいなセリフを、モデルに言わせます。

そして、ご丁寧に、小さい文字で、

「効果には、個人差があります。」

と表示されます。おそらく、
これで、クレームはこないでしょうね。

うちの妻にも、
そんな言葉が心にとまる時が
くるんでしょうか。

いい年のとり方ができますように。
私も、それを、さ、さ、支えないと…

2007年5月24日

腰の高さ

おそらく、どのスポーツでも、
「腰の高さ」っていうのは、
かなり重要なんじゃないかな…と思う。

スポーツでなくても、
腰が大切なシーンは多いしね。

腰が高い人は嫌われて、
腰が低い人は好かれる。

腰が高いと自然に、
足も伸びてしまって、
動きが鈍くなる。

もう一つは、
腰の回転によるパワーを
活かせなくなる。

球を打つスポーツに限らず、
武道においても、
腰の動きって重要でしょう。

力の入り具合が
変わってくるから。

腰は、体の中心。
そこを痛めると、
歩くことばかりでなく、
いろんなことが不便になる。

私も、ギックリ腰をしたことがあるから、
分かるけれど、痛いばかりでなく、
不便このうえない。

いつも、腰のことを考えて、
かばうような体勢をとらなきゃ
いけないからね。

スポーツをやり始めた初心者が、
腰を低くすることが出来ず、
なんか立ったような姿勢で
練習していたり、プレイしていたりする風景は、
どことなく、やる気がないように見えてしまう。

本人は、かなり真剣だとしても、
そう見えてしまうから、しょうがない。

もしかしたら、心理として、
指導どおり、腰を低くするのが恥ずかしい。
真剣にやっているように見えるのがイヤだ。

とかいうステータスも
あったりするかもしれない。

だったら、そんなスポーツは
辞めてしまえばいいんだろうけど…

学校の部活動とかは、
全員が何らかに入らなければいけないとか、
のルールがあるもんだから、
それも出来ないでいる。

そんなに好きなことでないから、
腰が高い?

そんなんで大人になったら、
やっぱり、腰の高い人間になるのかな?

たしかに、才能があって、
引く手あまたなら、
すこしくらい腰が高くても、
問題ないだろう。

しかし、
才能も認められないうちから、
腰が高いとすれば、
イライラされるだけ。

スポーツの腰の高さ、
ビジネスの腰の高さ、
どれくらい通じるかは分からないけれど、

腰の高さを見て、
そんなことを、ふと思いました。

2007年5月17日

砂時計

TBSのドラマじゃないですけれど、
私も、一時期、砂時計を
ずっと大切にもっていました。

なかなか、
お気に入りの砂時計がなくて、
いろいろなお店を探して、
やっと買い求めた砂時計でした。

ガラスの筒の中に、
青い水が入っていて、
その中に、砂時計が
浮いている感じのものです。

なんか、海っぽいイメージ…
おしゃれな砂時計でした。

まだ、結婚する前のことで、
たしか、私と妻の分ということで
2つ手に入れたことを覚えています。

砂時計を好きになったのは、
こんな言葉に出会ったからです。

以前も紹介したことがありますが、
D・カーネギーの「道は開ける」からの引用です。

周囲の仲間が多く戦死して、
心に深く傷を負った兵が、
診療所に収容されました。
戦争体験に悩み苦しむ彼に、
軍医は、次のように助言したのです。

「テッド、君の人生を砂時計と考えてみるんだ。
 砂時計の上部には、無数の砂が入っている。
 そして、それらの砂はゆっくりと、
 一定の速度で中央のくびれた部分を通過して行く。

 この砂時計を壊さないためには、
 君や僕が余計な手出しをせずに、
 砂の一粒一粒がくびれた箇所を通過するままに
 しておくほうがいい。

 君にしても、僕にしても、ほかのだれにしても、
 この砂時計そっくりなのさ。」

砂時計を買い求めた当時の私は、
この言葉を度々思い起こしたくなるほど、
自分のまわりの問題に
対処できる能力がなかったのだと思います。

自分を砂時計と考える。焦らずに、
自分の中にある一粒一粒の砂を、
送り出す。

砂時計を振り回しても、叩いても、
砂の流れを乱すばかりで、
問題が過ぎ去るのを、
早めることなんて出来ない。

下手すれば、どこかにぶつけて、
砂時計を壊すばかりか、
砂をまき散らしてしまう。

人生の崩壊です。

そんなことを思い起こすために、
砂時計が必要な時期でした。

当時から、おそらく15年以上経って、
砂時計が必要でない私になっていました。

6歳の三女が、どこからか、
その砂時計を見つけてきて、
最近、遊んでいるのを見かけました。

数日前、私の目の前で、
砂時計を床に落として、
ガラスが割れて、
中から砂がこぼれていました。

ビックリする三女。
ああ、壊れちゃったと思う私…

私には、もう砂時計など
必要ないと思っているから、
そんなに怒る気にもなりませんでした。

娘たちにも、いつか、
私が学んだことと同じことを教えよう、
などと思ってもいましたが、
娘たちは、娘たちで、
自分で気づいたときに、
自ずと、それに似たことを学ぶことでしょう。

もし、学ぶべき時が来たときに、
私自身が「砂時計」のような生き方をしていて、
すぐさまに、感じさせられる存在になっていられたら、
と思います。

しかし、まだまだ、
その道のりは遠いようです。

自分では出来ても、
教えるのは難しいものですから。

2007年5月10日

母の日プレゼント

先日、めったにないことに、
自分の母親を連れて、
母の日プレゼントのために
お店に行きました。

そんなことは、
ここ数年ぶり…

妻も一緒にいましたが、
妻の予想どおり、
いろんな服を見せて、

「これ、どう?」

と聞けば、

「好きじゃない」

「襟がついているのはイヤなんだよ。」

「暗い色より、キラキラっぽい方がいい。」

「首のまわりが開きすぎて、ダメじゃないか…」

ダメ出しの連続です。

覚悟してはいったものの、
あまりの時間のかかりすぎに、
怒る気はしなかったものの、
私は飽きてしまいました。

自然、私の心は、
いろんな服を見ているうちに、

「これ、おまえに似合うんじゃないか?」

と妻への関心に、気持ちが移ります。

そういう目で見ると、
母親の服探しよりも、
かなり楽しい気分になってきます。

私は、一人、店内を歩き回り、
いろんな服を見てました。

同じようなデザインに見えて、
少しずつ違う服に気づきます。

また、ある傾向の服が多いことにも
気づきます。

なるほど、こんな感じのものが
けっこう売れているんだ、
って感心する時間に変わりました。

まだまだ夢中になっている頃、
妻が、決まったわよ、と呼びに来て、
帰ることになりました。

私は、妻にも買おうかと思いましたが、
「今日は、やめとこ」
という主役を重んじるセリフ。

決まった服を見れば、
センスの悪い母親らしい
あまりセンスがいいとは思えない服。

でも、それほど高くなかったので、
心は安心。

本人が喜んでくれていれば、
それでいいと思うことにしました。

なんで、この人は、
センスが悪いんだろう…
と思うのですが、
そればっかりは、
感性の問題ですから
すぐさま変わるわけにはいかないようです。

ところで、母の日まで、あと3日。

私は、妻のために、
服を買う日が来るのでしょうか。

忘れないように、
スケジュール帳にメモしておこう、
って今書きました。

予算は?円…

2007年4月19日

死の予感…

2年前の夏のある日、
というか、今となっては、
きちんと日付を覚えているのだが…

妻が、ふと、
私の実家の掃除に向かった。

何やら、思い立ったらしく、
思うように体を動かせない私の母を助けるために、
行こうと考えたらしい。

掃除をすると、
止まらなくなる妻。

とことん掃除をして、
それまでとは見違えるくらい、
モノも整理され、
部屋のスペースも広くなった。

掃除を終えて、
スッキリ気分の妻は、その足で、
私の祖父が入院している病院へ
寄っていこうと考えた。

そしたら、病室は慌ただしい。
「間もなく、終わりかもしれないので、
 家族の方を呼んでください」とのこと。

自宅で、子ども達を見ていた私は呼ばれて、
子どもを連れて、病院へ行った。

私が着く、
ほんのちょっと前に、
この世を去った祖父。

そして、その祖父は、
それから間もなくして、
私らとともに、妻が掃除をして、
空いたスペースに運ばれた。

数時間前には、その部屋に、
それほどのスペースはなかったけれど、
祖父を布団に寝かせて、
親類が訪問して囲んで座っても、
十分な余裕があるくらいの部屋になっていた。

まさしく、祖父を寝かせるために、
用意されたスペースになっていた。

妻は、死の予感を感じたんだろうか?

ここ数日は、今月初めに、
老人ホームに行ったばかりの母親(妻の実母)の部屋を
片づけたがって、パタパタしている。

実際、もう動き始めている。

それを見ていると、
なんだろう? これって、
また、あの死の予感なのかなぁ…?

って思うところもある。

この母親、妻には、
ずっと迷惑をかけっぱなしだからなぁ。

心の病、
お金の使いすぎ、
隣近所や地域社会へ迷惑をかける、
脳梗塞になれば入院の付き添いとなり、
退院して家に戻ってくれば介護、
老人ホームに入ったはいいが体調が悪くて呼び出され…

今の妻を見ていると、
私としてもホッとしている。

やっと解放されている感じだ。

しかし、妻は、まだ、
心の中で油断できない気持ちを
もっているようで、
それを見ていて、私は
本当に解放される日は
いつなんだろう…と思ってしまう。

人の「死」を願う気持ちは、
いけないことなんだろうと思うけれど、
それを願う人の気持ちが
分からないわけでもないなぁ、と考える私。

妻の掃除をしたい気持ちが、
「死の予感」につながるものか、
推し量っているところです。

どうなるんでしょう?

2007年4月12日

利用されて生きる

利用価値のあるものは、
いつまであっても、
邪魔になることはない。

反対に、利用価値のないものは、
値段がいくら高いものだったとしても、
その高さゆえに、かえって
邪魔な存在になることもある。

人も同じかな…?

利用価値のある人なら、
いつまで生きてもらっていても、
迷惑がられることはない。

反対に、利用価値のない人間は、
正直なところ、居てもらうと
迷惑と思われることは少なくない。

私たちは、利用されたくない、
と思っている。

かと言って、どうせなら、
利用する側の人間でいたい、
と思う人ばかりでもない。

利用されたくはないけど、
利用したいわけじゃない、
ただ好きなように生きたいだけ。

好きなように生きる「生き方」が、
誰かにとって利用できるものだとすると、
好きなように生きたい人にとっては、
ラッキーかもしれない。

利用されることがラッキー?

そんな価値観になるのは、
すぐに、誰にでも出来ることじゃない。

利用、利用と「モノ扱い」のようで
あまり良い表現とは言えないけど、

世の中が、
一人一人の性格とか、才能とかに合わせて、
みんなの「利用方法」を
真剣に考えてくれるところならいいけれど、

実際は、そうじゃない。

何らかの「型」にはめて、
利用できるか、利用できないか、
を判断しているところが多いだろうから…

そういう世の中、社会に、
何のアピールをすることもなく、
利用されるために入りこんでいけば、
きっと、ただ利用されて終わる。

自分に合った利用のされ方でなく、
決まりきった利用のされ方で。

そんなことを考えると、
自分の個性が殺されてしまいそうで、
人に利用されることが、
ますますイヤになる人もいるだろう。

だったら、
神様に利用されるだけの価値があるか、
なんてことも、ふと考えてみたくなる。

人は、自分の利益のために、
人を利用するけれど、

神様なら、人類の成長(平和)のために、
人を利用するだろうって思う。

そこで、また思う。

人の利益に利用されるのはイヤだけど、
人類平和のために働くガラじゃない…

そんなことを言っていたら、
誰が自分を利用するというのか。

自分の好きなように生きて、
自分だけが自分を利用する?

それじゃあ、生きていけない。
莫大な遺産でも受け継いで、
食うために稼ぐ必要がない人でない限り、
生きていけないことになる。

自分には、どんな利用価値があるか。

利用されたくないタイプの私ですが、
何歳までも意味ある人間でいるためには、
利用されることは光栄なことだな、
と思い始めた今日この頃です。

2007年3月10日

空気という食べ物

うちの次女に、
義父の部屋に行く用事を頼むと、

「ゴホ、ゴホ…
 ひどいよ、お父さん。
 なんで、私に頼むのよ。」

と言いながら、返ってくる。

ぜんそくの娘、
タバコを吸いながら推理小説三昧の義父。

同じ空気を吸ってはいけない存在であった。

ところが、
1週間前ほどから、
その義父の部屋から
絶えず咳き込んでいる音が
聞こえるようになった。

咳き込むと、自然、
タバコを控えるようになる義父。

すると、義父の部屋の空気は
澄みわたってくる…

部屋の扉が開いていても、
部屋に入っても、
煙に苦しめられることもない。

最近のわが家は、
とても快適である。

禁煙は絶対しない、絶対しない、
と言っている義父も、
1週間ほどタバコを吸っていない今だから、

もう、そういう生活に慣れて、
その勢いで、タバコをやめればいいように
タバコを吸わない私たちは、
思うのだが、どうなるんでしょう…

おととし亡くなった祖父は、
67歳の時にタバコをやめた。
ずっと若い頃から吸っていたタバコだった。

その最終決断が面白い。
禁煙をして1週間ほど経ってから、
実は、「やっぱり無理だ」ということで、
外に出て、タバコに火をつけたらしい。

そのとたん、クラクラとめまいがしたと言う。
その瞬間、
「こりゃ、危ない。もう止めよう」
と決めたとのこと。

その日以降、
うちの空気がうまくなったのは、
言うまでもない。

実父、祖父ともにタバコを吸っている環境で、
育った私は、タバコの煙に
それほど嫌悪感を感じたことはなかった。

しかし、わたしの娘たちは、
わたしが吸わないから、
タバコの煙に敏感で、嫌悪感を感じる。

その嫌悪感を、義父も知っているから、
子供たちがいるところでは吸わない気配り。
そして、自分の部屋では吸い放題…

だった、なんていう過去にならないからなぁ。

そんな希望をもって、
義父の咳がしばらく続くことを
いじわるにも願っている婿殿の私です。

2007年2月 8日

仕返し

統合、合併、結婚…
言葉は何でもいいけれど、
いっしょになることに、

体裁を考える人もいる。

その人たちが、
最も嫌うのは「吸収」という言葉である。

たとえば、会社どうしの合併であれば、
社名の名残りが一切残らないとかいうことに
ものすごく抵抗を示すわけだ。

つまり、いっしょになるのは、
自分たちに力がなくて、
面倒を見てもらうために
そうするのだと、絶対に認めたくない。

周囲に、そう思われるような要素、
もしくは、「かたち」を残した統合は
したくないというわけだ。

実際、統合とか、合併とかの話が出る時には、
守るべき威厳も、体裁もないはずなのだけれど、
最後の最後まで、どうしようもないものを
守りたがるのが、また人間。

そして、守れば守るほど、
その「いっしょになる」目的からズレてしまい、
いっしょになる相手が遠ざかっていってしまう。
それも、また事実。

じゃあ、いっしょにならないことにする?
もう少し、一人(単独)でやってみる?

と尋ねられると、意外にも、
自信があるわけでないことも
分かってくる。

そこまで来て、
一人(単独)でやっていけないことを証明しちゃうと、
統合や合併の条件は、さらに悪くなる。

ある意味、最初の段階で
強情を張ったことに、仕返しされるわけだ。

しょうもないプライドを守ろうなんて考えず、
早い段階で手を打っておけば、
獲れる実も多かったはずなのに、
散々な結果を見るわけだ。

いっしょになる時には、
自分のポジションをわきまえるべき。

それが出来れば、
耐えられるはず。
そして、自分の力が取り戻されたら、
また別れたりすることも考えていい。

もちろん、別れないで、
そのままずっといっしょに居続けることも
問題ないのだが…

守りすぎちゃいけないのです。

2007年2月 3日

嫌いな人の前ではシャキっと

甘えさせてくれる人の前では、
人は、ダラけてしまう。

しかし、そうでない上に、
自分が嫌いな人の前では、
シャキっとしてくるのが人間。

それは、
介護を受けている人にも、
言えるようだ。

家族の中で、
甘えさせてくれる人には、
何でも頼ろうとする。

けれど、
自分でさせようとする人には、
頼んでも無駄だと分かっているから、
しぶしぶながら、自分をシャキっとさせて、
動き始めたりする。

なかには、嫁姑の関係で、
「この嫁だけには、意地でも頼らない」
と決め込んでいて、
シャキっとしているお婆ちゃんもいるようだ。

それでいて、
「○○さんは何もやってくれなくてねぇ」
なんて言いながら、
自分の息子とか娘には甘える人もいる。

そんなふうな「いじわる」が出来るくらいに、
意識がハッキリしているのは、
嫌いな嫁がいるおかげなのだ。

嫌いな人がいるっていうのは、
生活のスパイス。

向上心とか、あまりない人でも、
嫌いな人に対する対抗心だけは持っている。

それをバネにして、
生活に張り合いが出てくる場合も。

人の選り好みをしないで、
誰とでも穏やかに付き合える人と、
嫌いな人によって
生命力を与えられている人と。

どっちがいいんでしょうねぇ?

っていうか、比べられるものでもないけれど、
何が自分を助けてくれるかって、
人生では分からないものだなぁ、
とも感じる次第です。

良かった、私は。
嫌いな人が、いっぱいいて…?

2007年1月24日

汚れものに慣れる

私は、持っているものが
もともと少ない。

だから、机の上でも、
クローゼットでも、
だいたいはスッキリしている。

ついでに、パソコンの中身も…

仕事の書類が回ってきて、
私の机に載っていようものなら、
すぐに処理しようとする。

誰にも、私の机の上は侵させない…
みたいな感じです。

それで飽き足らずに、
隣の人の机の上でさえも、
ちょっと気になったりする。

これ、要らないだろう…なんて思うものは、
勝手に捨てたりしていたなぁ。
実際、捨てられた本人も、
気づかなかったりしてね。
やっぱり、要らなかったんだなぁ、
みたいに思ってました。笑

そういう私ですから、
要らないものの代表であるウンコなんて、
まして、他人のウンコなんて、
触れるわけがないという自信がありました。

けれど、子育てをして、
娘たちのウンコを始末したり、
時には、ウンコをしていないかチェックするために、
紙オムツとお尻の隙間に指を入れたりしてるうち、
ウンコとの付き合いも普通になりました。

でも、これって、
そんな難しくないことのはずなんです。
だって、自分の血を分けた子供ですから。
そういう人間のウンコには、
そんな抵抗があるわけない。

そこに来て、お婿さんの私には、
そんなに好きじゃない義母のウンコが
登場します。なんたって、これまでは、
けっこう口の悪い人です。

それで、腹の立ったことは、
数え切れない。

そういう人も、口の悪さとは別に、
介護が必要になってきます。
必然的に、ウンコの処理も…

腹の立つ人間のウンコほど、
汚らしいものはないと思っていても、
自分の妻ばかりが難儀しているのを
ただ見ているだけというのも出来ず、

結果的には、憎しみよりも愛が勝って、
夫婦そろって、ウンコの始末をしたりする。

そういうことに慣れてしまう。

次元は違いますが、
良くない色のついた金に手を染め始めるのも、
そんな感じかもしれませんね。

最初は、汚いと思っても、
それを超える「執着」があれば、
慣れちゃうのです。

多少、手にウンコがついても、
洗いさえすればきれいになるよ、みたいな。

2007年1月 6日

命を救って…

誰かが死にそうにしている場面に、
ちょうど出くわして、
それを救うなんていうことは、
めったにあるもんじゃないです。

37年間生きてきて、そんなことは、
たったの1度もなかったのですが、
38年目に、そのたったの1度が、
私に訪れました。

間違いなく、
私がそれを発見し、救い出さなければ、
一人の命が亡くなっていた、
という経験。

しかし、その救った相手の
その後の生き様を見て、
「なんで、私は、
 こんな人を救うことに
 なってしまったんだろう…」
なんて思うことにもなりました。

もちろん、命の価値は、
計り知れません。

どの命が、後々、
何を果たしてくれるか、
あるいは何をしでかしてくれるか、
なんてことも知る余地がありません。

命を救う前に、
この命が世のためになるかならないか、
なんてことが分かったら、
人には、救うか、救わないかを
選べる権利があるものでしょうか。

多分、「ない」でしょう。

救えるのに救わなかったことは、
人を殺したのと同じことだよ、
なんて言う人もいるでしょう。

んー、難しいです。

この世で生きるということだけに
執着した「命」を考えれば、
「ただ単に生かす」
という答えしかないことになります。

そこに、あの世を考えれば、あるいは、
私たちには考えも及ばない「神様の目的」を考えれば、

見ていられないような生き様、
多くの人に迷惑ばかりをかけるような生き様
をする人の命を救うことにも、
なんらかの目的があることになるので、
それが分かるまで待つ以外にないことになります。

医療が発達したことにより、
救える大切な命がある。

しかし、医療が発達しても、
救えない命もある。

そして別のところには、
医療が発達したことにより、
死ぬことをなかなか許されない命もある。

人に「死ぬ」ことを許せば、それは同時に、
殺すことも許すことになってしまう。

どんなに考えても、
答えの分からないそんなことを考えて、
救った命の重みを計りかねている私です。

2007年1月 5日

使い捨てカイロと、愛国心

私には、
愛国心というものが
あるんだろうか?

ふと考えるようになった。

今の安倍総理が、
「美しい国へ」という本を出版したことは、
何かしら、そういう愛国心を呼び起こしたい意図が
あるだろうと感じられる。

それは、日本人には、
そういうものがない、
と言われているためだろう。

そういう私にも、あんまり
愛国心というものがないような気がする。

というのは、たとえば、
日本という国が崩壊しそうになったり、
戦争で攻めらそうな兆しが強くなった時に、

「それを食い止めるために守ろうとするか、
 先頭に立って戦おうとするか」

と自問してみれば、正直、
逃げ腰になる自分を感じるから。

私は、典型的な日本人なのかなぁ…

日本という国を使えるだけ使って、
あと役に立たなくなったら、
逃げていく、捨てていく。
使い捨てカイロみたい…

たとえば、投資家であれば、
日本という国に可能性が見えれば、
日本にお金を残しておく。

しかし、それが見えなくなれば、
そのお金をしぼり出して、
他の国に投資し始めるだろう。

使いはするけど、
貢献しようとしない。
そんな国民だらけになったら、
日本には、どうしても
国外に出られない人ばかりが
残ることになるだろうなぁ。

うーん、そんなことを考えること自体、
やっぱり、私には愛国心がないんだなぁ…

高齢化社会がますます進む世の中、
愛国心について考えなくちゃいけないなぁ、
っていう気がする今日この頃です。

2007年1月 4日

人前では食べれない

私は、大食い選手権に
出られるほどじゃないけど、
よく食べる人間である。
昔は、やせているのに、
すごい食欲だなぁ…と言われていた。

食べる気さえあれば、
自宅だろうが、他人の家だろうが、外だろうが、
ちゃんとしっかり食べられる。
遠慮することはない。

しかし、世の中には、本当は、
かなりの大食い(いや、バカ食い)なのに、
人前では、そのバカ食い姿を
あまり見せないようにする人がいるのに、
最近、気づいた。

私が知っているタイプは2つ。
1つは、肥満体型じゃないけれど、
「大食いすることはバカみたい」
と食欲を恥ずかしがっている人間。

もう1つは、肥満体型なゆえに、
「大食いしている姿を見せると、
 だからデブるんだと思われるからイヤだ」
と体型にコンプレックスを感じている人間。

パーティや、バイキング、食べ放題に行っても、
そういう思いがもたげてきて、
食べることを遠慮するわけだから、
ストレスが溜まるのは、この上ないことだろう。

なんせ、食べることが大好きなんですからね。
まして、ストレスが溜まれば溜まるほど、
食べなくてはいられない質(たち)のはず…

けれど、一人ではコントロールできない食欲も、
人前では、必要以上にコントロールできるようになる。

そこに、不思議さと、
心のストレスの原因が
あると思います。

「人の目」を気にする、
それで自分を抑えすぎる…

体にいいわけないです。

もちろん、一人になった時に、
食べ過ぎてしまうことも、
体に悪いわけですが、

一番ダメなのは、
人の前では心を壊すようなことをし、
一人の時には体を壊すようなことをして、
その両方を繰り返すこと。

いつまでも、いつまでも、
繰り返すはずなのです。

気にするな、
そんなことをやめろ、
おかしいぞ、
と言われても、

心の虚しさは、
両方の行動を引き起こしてしまう。

うーん、食べるって、
簡単じゃないんだなぁ、
と感じてしまいました。

2007年1月 3日

帰りたい人、帰りたくない人

お正月。
帰省していた実家などから、
そろそろ「いつもの住みか」に
帰ろうかという人々も出てくる頃です。

生まれ故郷に帰りたい人がいます。
生まれ故郷に帰りたくない人もいます。

おそらく、生まれ故郷の田舎っぽさ、
自然の豊かさばかりで何もないところ、
固定化した人間関係のしがらみ、
などがイヤで離れたばかりの人は、
きっと今はしばらく帰りたくないことでしょう。

しかし、そんな人でも、
都会の洗練された無味乾燥さ、
自然が少なくてモノに囲まれてるところ、
人間関係の薄さに寂しさを感じ出してくると、
生まれ故郷がなつかしくなってくる。
(もちろん、それが気に入る人もいる…)

そこで、実際に帰ってみる。

やっぱり、ここにはあるんだ、
という実感をもてる人もいれば、
ここにもないんだ、
と思ってガッカリする人もいる。

帰るところなんていうものは、
帰る側の思いで、
どんなふうにも見えてくるもの
なんだと思う。

帰りたくなければ、
帰らなければいい。

帰りたくなったら、
帰ればいい。しかし、
自分が思い描いたとおりの
「ふるさと」であるとは限らない。

それは、逆も言える。
東京でも、ほかの都会でも、
アメリカでも、海外のどこへでも、
行きたければ、行けばいい。
けれど、そこが、自分が思い描いたとおりの
「夢を叶えてくれる場所」であるとは限らない。

どこもかしこも、一時的な住みか。
そう思っていた方がいいかもしれない…

自分が成長すれば、
自分が何かしら物事が分かってくれば、
それぞれの居場所は、
居心地が悪くなって当然なのだ。

母胎から生まれても
母胎に帰られないように、
大きくなれば、
幼い頃の服が着れないように。

人は、本当に、その「場」に帰りたくなるのか。
その場にいた「人間」のもとに帰りたくなるのか。
それとも、その場にいた「自分」に帰りたくなるのか。

どれなんだろう…ね。

考えてみれば、どれもこれも、
わがままな「帰りたい」なのかもしれません。

だって、場所も、人間も、自分も、
時間の流れに逆らって、
変わっていくのを止めることなんて
出来ないんですから。

結局、帰らなくていいんです。
帰りたいと思っていたところがどうなっているか、
「たしかめに行く」だけなんです。

2006年12月13日

病院を中心とした生活

さびれていく田舎について、
テレビ番組では
度々報道されるようになった。

私がいろんなところを見て回っても、
そういう風景が目に入る。

パチンコ店でさえも、
人が集まらずに、
たいへんなところがあるようだ。

しかし、田舎でも、
人の集まりが絶えないところが
間違いなくある。

それは、病院。

さびれれば、さびれるほど、
逆に、病院は栄えているようにさえ見える。

田舎でも、病院だけは、
建て替えられる。
新しく郊外へ移動したりする。

すると、その周辺にあった飲食店、
商店街なども、力さえ残っていれば、
いっしょに付いて行って、営業を続ける。

みんな、病院を中心とした生活を
送っているかのようにさえ、見える。

新しいショッピングモールも、
病院の近くに建つようになる。

病院に行くついでに買い物、
病院帰りに美容室、
病院に行くんだったら食べてくる、
病院に行ったついで稼いでくる…

みたいな感じさえ、ある。

私は、病院へなど行きたくないし、
毎日飲まなければいけない薬があるとしたら、
ホントにイヤだ。

行かなくて済むなら、
行かないままでいたい。

しかし、世の中の風向きが変わって、
人々の免疫力、自然治癒力が弱まれば、
自然と、病院には人が集まるようになる。

それで、経済がまわっている。

うーん、これも経済だからな。

人の死=葬儀屋が儲かる、
までたどり着く前の経済だから、
まったくの不幸を
食い物にしているわけじゃないけれど、
やっぱり、なんか、複雑な感じがする。

田舎において、
病院以外に盛り上がる道、
っていうのはないんだろうか。

病院繁華街を見ると、
そんなことを考えちゃいます。

2006年12月 9日

腰を鍛えねば…

腰は、体の中心。

これがイカレてしまうと、
いろんなことが大変になる。

だからと言って、
その腰を使わないように、
守りすぎれば、
かえって弱くなる。

最近の私にとって、腰は、
とても重要になってきた。

義母のボケ?がひどくなり、
夜も昼も関係なく、
おかしな活動を始める。

目が見えないのか、
見る気がないのか、
「どこに行くのだ?」
と聞けば、
「トイレ」と答えるものの、
まったく別の方向へ向かっているのだ。

わが家では、
一番最後まで起きているのも、
朝に、一番早く起きるのも私。

だから、義母の徘徊(はいかい)を察するのも、
私の仕事になっちゃってる。

なにやら、動き出す気配を感じて、
私がいる部屋の扉を開けて、
その気配の方向を見てみれば、
外に向かおうとしている…

「どこに行く気だ?」
と聞けば、
「父さんのところに」
と答える。

「外にいるわけがないじゃないか。」

「だって、こっちが部屋だべ?」

もう、頭の中は、眠っている?
ボケている?

ある時の夜中には、
玄関に転がり落ちていた。

ということが度々、起きるから、
その方向を変えるために、
体重58kgの体を抱えなければいけない。

腹が立つことに、
自分が行こうとしていた方向と
違う方向に連れて行かれることに
いくらかの抵抗を示すもんだから、
体重すべてが重荷となってくる。

わが家で、この体重を
抱え運べるのは、
私しかいない。

自力で歩かせることもあるが、
私も、早く事を済ませたいから、
抱え運ぶことになる。

自力で歩かせようとすると、
ガンコにも、おかしな方向にしか
行こうとしないんだから、変なものである。

いずれにしろ、この男、腰を鍛えて、
大切にしなくちゃいけない時期になった。

幸い、まだ若く(?)て、良かった。

牛乳、いっぱい飲んで、
カルシウムを摂取しよう、っと。

2006年12月 5日

雪と仲良く

去年は、豪雪でした。
今年は、どうなるんだろう?

イヤだ、イヤだと思えば、
やっぱり、雪は敵になります。

けれど、子供の頃は、
どうだったろうと考えれば、
やっぱり、雪は楽しかった。

雪が積もらない年は、
とてもつまらなかった。

わが娘たちを見ていても、分かる。
三女は、遊び盛り…

雪を見ると、とにかく遊びたい。
付き合ってくれる次女が
学校から帰ってくるのを待って、
雪で遊ぶのを心待ちにしている。

そういう気持ち、忘れているなぁ…
と思いながら、先週末から降る雪に
想いを馳せていると、

そうかぁ、

と思いついたことがあった。

多く積もった後に、
捨てるスペースがなくなり、
それゆえウンザリするのだから、

いつも、捨てるスペースが
あるようにすればよいのだ、と。

そうなると、あまり積もっていない今のうちに、
溶ける、もしくは流れるところに、
積もりかけた雪を捨てていればいいことになる。

これは、意外と楽しい作業である。

それに、今の時期は、
今日のように、青空が見えて、
天がそれを手伝ってくれる。

雪を捨てるスペースがなくならないように、
積もりかけた雪を早く消していく方法を考える。

たくさん降りだしてくると、
そう簡単にもいかなくなるでしょう。
それでも、今年は、雪と仲良く
過ごしたいと決心してみました。

それに、体を動かす機会が
少なくなる季節ですからね。

2006年11月19日

カーテンの色

「ちょっとぉ〜、
 これ重いから、持ってよ。」

カーテン選びに夢中になっているうちに、
候補の商品を抱えている妻が、
私に言った。

あ、こいつが体調わるいのを、
忘れていた…

あわてて、カーテンを取り上げて、
さらに選び続ける。

わが家は古いので(?)、それとも、
設計者のセンスのなさ(?)なのか、
居間の東西南北がどこも、
ガラス戸で、隣の部屋との仕切りがなされている。

夏は、たいへんいい。
どの方角も、開けっ放しにすれば、
風通しがいいから…

しかし、問題は冬。
ガラス戸であるから、
断熱性はない。むしろ、
ガラスの透明感が寒さを助長する。

その上、密閉性もないから、
通気が良すぎる。

私が婿になってきて初めての冬、
その熱効率の悪さに、
ビックリしたとともに、
何とかせねば、と奮い立った。

そこで思いついたのが、
すべてのガラス戸に、
カーテンを取り付けること。

部屋は、ちょっと暗くなるが、
熱効率は、すこぶる良くなった。
おかげで、あったかい…
灯油の減りも遅くなった。

そのカーテンなるもの、
すべての方角に取り付ける必要があるから、
枚数がこの上なく多い。

つまり、お金がかかる、というわけ。

しかし、デザイン性よりも大切なのは、
断熱性であることは言うまでもなく、
数枚を買い替えるべく、
バーゲン品のカーテンを探していた先日。

限られたデザインの中から、
部屋に合うものを見つけだし、
わが家に帰って、早速、取り付け。

なかなか、いい。

すべてが統一されたデザインじゃあないけれど、
カーテンを替えるだけで、部屋の雰囲気も変わる。
そして、そこに居る人間の雰囲気も…

自然に見渡して、自然に目に入ってくるものだからね。

少しだけ明るい色の方向が、
やっぱりポイント。

そこが光の入りやすい方向だと、
なおさら、大切になってくる。

ホント、気分変わりますからね。

心の中にも、
そんなカーテンというものがあって、
心の周囲からの邪魔を遮ったり、
光を通したりしているなんて考えると、
あんまり安物でもダメなんだなぁ…
っていう気がします。

かといって、たいしたものじゃないものを
高く買わされて、後悔するのもイヤですが。

2006年11月15日

歩くバランス

当たり前にやっていることだけど、
歩くっていうのは、
たいへんな作業だと気づかされた。

微妙に、左と右に、
体重のかけ方を移動しているんだよな。
倒れないように、バランスをとっている。

左足を浮かせて、
前に進もうとする時には、
短い時間だけど右足だけで、
体を支えている。

そして、右足に移った体重(力)を、
なめらかに、左足の方に移している。

そもそも動かしたいのは、
足ではなくて、体の位置であって、
その体をあっちに持っていきたい、
こっちに持っていきたいと思いついた脳のために、
足が、その体を運ぶ助けをしている。

左足と右足で、
その体の重さを支えて、
バランスをとりながら、
歩いている。

う〜ん、体ってすごいです。

なんで、こんなことに気づかされたかというと、
娘の卓球する姿を見ていてのこと。

どこが弱点だろうと思った時に、
気づかされたのです。
何が弱点かは、ハッキリしたところ、
よく分かりませんが、

基本的な動く、という動作は、
手も動いてはいるけれど、
足がやっぱりポイントなわけで、

その足の動きの基本は、
歩くことにあるわけです。

問題は足。
一番下にあるもの。
そして、意外と見えにくい。

そこがしっかりとバランス良く動かないと、
スポーツでも何でも動きがしっくりこない。

生き方においても、
一番下にあるものが問題。

一番下にあるものは何か?
心か、家庭環境か、生まれか、親か?

そこがしっかりとバランス良く、
動くならば、人生もしっくりとくる。

そういうことなんだと思います。

これからは、歩き方に気をつけます。
みなさまもどうぞ。
すべては、歩き方から…

2006年11月10日

怖い人が、好きなタイプ

自分自身が、
けっこう怖いタイプに思われるので、
怖い人を見ていると、
なんか共感する。

ただ、怖い人って言っても、
暴力をふるうとか、
乱暴そうに見える人のことじゃない。

コミュニケーションが簡単すぎて冷たいとか、
言葉がぶっきらぼうだとか、
顔が笑わないとか…そんな感じ。

娘たちの卓球大会が近いこともあって、
今、長女の方は、大人の人たちが集まる日に、
卓球場に行って、練習させてもらっている。

そこに行って、手の空いている人に、
恥ずかしいを知らない私が、
「娘と、少しお願いします」
と言いに行くわけです。

本当は、本人が行けばいいのでしょうけど、
いろんな大人の人の顔を知るまでは、
私が声をかけて、「練習をした」という事実の
積み重ねに協力中です。

その大人の中に、聞くところによると、
一番強いと言われる男性がいます。
ちょっと不機嫌そうに、座っている…
けれど、それぞれの台で練習している人々を、
クールに見つめながら、分析しているようにも見える。

表情は、怒っているように見えます。
その人が、怖い感じの人…

昨日までは、私も声を
かけたことがありませんでした。
けれど、せっかく、そこに行っているんだから、
声をかけない手はないと思い、
私さえも、ちょっと緊張しながら、
「娘を、ちょっと見ていただけませんか?」
と声をかけに行きました。

「え、ちょっと風邪ひいているんで、
 打ってあげることは出来ないんですけど、
 ここから見て、アドバイスは出来ますよ。」
と、意外と、やさしい内容の返事。

しかし、声は、やっぱり怖いんです。
やさしい内容のセリフでも、
怖く感じられることでしょう。

私としては、予測していただけに、
断らずに、見てあげると言われたことが
やっぱり嬉しかったです。

10分くらい、見てくれました。
そして、いろいろとアドバイスも…

たしかに、なるほど、と思えることでしたね。

やっぱり、違います。

どう練習すればいいかも、
ちゃんと教えてくれましたし…
怖い声で、表情を変えずに。

娘は、大会まで、あと2週間。
これで、宿題が明確になった感じでしょう。

がんばれ!、がんばれ!

2006年11月 4日

持病のない人間