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常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

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2010年3月 8日

親との会話はイライラ

身内の人間との会話は、
とてもイライラする。

なんでだろう?

同じことを言われても、
きっと、身内の人間に言われると、

あ、そうか、
とはならない。

うるさいなぁー、
と思ったり、言われたりして、
おしまい。

それは、きっと、
10代とその親の関係ばかりでなく、
20代とその親、30代とその親、
40代、50代でも、きっと同じなんだろう。

親との会話は、
イライラするのが定番。

イライラしない親との会話には、
どんなコンテンツ(内容)があるんだろう、
と考えてみれば、

おいしい食べ物の話とか、
繰り返しじゃないうわさ話とか、
前に話してない面白話とか、
そういうものだと思います。

それ以外の話になると、
特に、互いの行動とか性格の話では、
イライラしだしてくる。

そして、不幸なことに、
身内の、そういうことこそ、
口にして言いたくなってくる。

いやなクセ、フシギな行動、
もったいないやり方、恥ずかしい姿、
などなど。

身内で、距離が近いからこそ、
目につくこと、それが一番イライラするし、
それを口にすると、イライラする話題になっちゃう。

さらには、
身内だからこそ、
話をよく聞いてくれないから、
そのイライラは積もり積もっていく。

身内との会話は、
なかなか、うまくかみ合わないものですね。
もっと、楽しくできたら、楽しいはずの相手でしょうが...

世の中に、親子との会話を楽しめている人々は、
どれくらい、いるかなぁ。

2010年3月 5日

代われない

代わってあげたい、
と思える優しさは、

きっと、
代わってあげない方がいい、
という厳しさと同じ愛情に
通じるんじゃないか、
と思います。

今日は、いよいよ、
長女の高校入試。

まもなく、向かうところです。

ついでに、次女もテスト。

こっちは、昨晩、コンパスが壊れて、
今朝になって、コンパスを2個もっている友達に、
借りるためのお願いをして、
事なきを得た様子。

長女にしても、
なにかパニックとなるようなことは
起きるかもしれない。

起きないことがないなんて、
思わないほうがいい。

そのパニックにぶち当たったときに、
近くにいれば、代わってあげたい、
俺だったらこんなふうにできるのに、
と思ったりするところですが、

残念ながら、
今回ばかりは、
そんなシーンを間近に見ることが
できません。

やれることは、
おだやかに、自分のなすべき今日の仕事を、
ちゃんと、こなすだけ。

実際は、昨日も、今日も、
相変わらずの1日にしか過ぎないけれど、
人の心が、どんだけ注ぎ込まれるかで、
違った1日になっている。

ああ、自分のことより、
ちょっと、気になってしまいます。

自分のことのほうが、
ちょっと楽だな。

たかが高校入試、
されど高校入試。

これからもあるだろう、
いろんな関門の1つに過ぎない。

がんばれ、がんばれ。

受験じゃない人も、みんな、
今日は、がんばってください。

2010年2月24日

やっぱり、男だった

最近は、料理を作ることに
ハマっていて、
夜、寝る前でも、
なんか思いつくと、
翌朝のために仕込みをしていたりする。

失敗も、成功もあり、ですが、
成功して、奥様と子どもが
喜んでくれるのが、単純に
嬉しいというわけです。

料理をしていると、
なんだか、女性っぽい気分を、
疑似体験しているようなつもりに
なっていましたが、

どうやら、やっぱり、
自分は、男らしい。

というのは、
昨日、ちょうど、
三女(小3)のPTA、授業参観があって、
久々に、時間の都合をつけて、
出ることにした。

長女らのときに、
PTA役員をやって以来だから、
3年ぶりくらいだろうか。

久々に、行くと、
やっぱり、ちょっと、
勝手が変わっていたりする。

で、他のお父さんも来ていたりするけど、
やっぱり、少数派、マイノリティ。

間違いなく、見た目も、完璧な男だし、
そちらの傾向は、まったくないし。

なかなか、馴染めない気がした。
公園デビューするのが、
ちょっと大変だ、っていうお母さんの気持ちが、
なんとなく分かった。

とても、いい空気だったんけどね。
やっぱり、心のどこかにある「男心」が、
そういうシーンで、自分を出すのを
遠慮させてしまう。

ああ、男だったんだ、
と改めて、思わされました。

お母さんたちの中に入っていくのは、
無理そうです。

家庭で、料理なんかして、
お母さん気分を味わうくらいが、
ちょうどいいレベルかな。

今日は、何を作ろうかな。

2010年2月13日

家族と社会

人はそれぞれ、
いろんな家庭で
育っていくけれど、

あらゆる家庭において、
その家庭としての「働き」が、
「機能」が、ちゃんとしているとは限らない。

お父さんという「機能」がない、
あるいは、未熟だという家庭がある。

お母さんという「機能」が足りない、
あるいは、不完全だという家庭もある。

それ以外の機能でも、
いろんな過不足があるだろうし、

大ざっぱにいえば、
きっと、どこの家庭にも、
そんな、家族の機能不全は、
あるんだろうなぁ。

自分の家庭だけが、
たいへんだった、
なんて大きな声で訴えて、

ほかの家庭の話を聞かされたとたんに、
あら、そんな大変なこともあるんだ、
と気づかされて、恥をかくこともあるだろう。

すべての犯罪が、
家庭のせいばかりとは
言えないだろうけれど、
家庭のなかに、何らかの要因が
あるだろうなぁ、っていうのは想像できます。

だから、
自分がやっている、
ダメな行動とか、
性格による苦しみとかを、
その家庭のせいだけにするのを、

世の中からは理解してもらえない。
きっと、共感してもらえない。

それは、だれの家にもある、
家庭の問題。
その家庭の問題のせいにして、
社会に出てくるな、
って言われることになるだろう。

しかし、もし、
犯罪とかが起こってしまったときには、
家庭の問題だ、というだけでは済ませることができずに、
いくらか、行政の責任も問われたりして、
「社会の問題」になったりもする。

犯罪が起きないと、
「社会の問題」にはならない。

犯罪が起きるまでは、
「家庭の問題」で済ませられてしまう。

これが現実。

なんとなく、矛盾があるように思うけれど、
すべての家庭の責任を、
犯罪が起きる前から、
社会の問題にしてしまえばキリがないから、
そうなってしまうのも、仕方がないのだ。

いろんな家庭には、
いろんな問題がある。
それが犯罪にいたってしまう寸前のものもある。

犯罪前に、それらを防ぐっていうのは、
基本的に、どんなことでも難しいことなんだなぁ、
と思ってしまいます。

だから、何事も、社会は、後手後手にまわってしまう。

社会とは、複雑だ。

2010年2月 6日

仲直り

子供が仲直りするまでの時間と、
大人が仲直りするまでの時間は、
けっこう違うような気がする。

娘たちからは、
いろんな仲直り談を聞く。

学校では、
いろんなケンカがあるのでしょう。

それは、そうだ。
人間と人間がともに生きていれば、
そんなズレがないほうがおかしい。

ズレばかりがある日常だろうし、
みんなみんなが、そのズレに
うまく対応できるわけじゃない。

私だって、その一人だ。

子供の頃に、
仲直りまでの時間を短くする練習を
していないと、
大人になると、なおさら難しくなる。

「謝ってよ」と言って、
「ごめんね」と言えるか。

だって、あんただって、
悪いじゃん、となってしまえば、
後は、お互いの欠点を
過去にさかのぼって言うばかり。

子供のころの兄弟げんかで、
部屋に、境界線を引いてから、
60歳になって、一方が死ぬまで、
ひと言も口をきかなかった、
という実話もあるようだ。

仲直りは、一つの技術。

子供の頃には、
ごまかせる要素が
いろいろあるだけに、
うまくいくが、

大人になってしまえば、
記憶も、言葉も増えているから、
なかなか、そうはいかない。

知恵や経験も増えているわけだから、
もっといい選択肢を選べるはずなのに、
大人が選ぶ選択肢のほうが、
ややこしいことをわざわざ選んでいるように見えて
仕方ないこともある。

ややこしいことをわざわざ選ぶ。
大人って、ホント、そうだよなぁ...

2010年1月27日

卒業式はいつ?

中3の娘が卒業するまで、
あと1ヶ月ちょっと、となりました。

その前に、
高校入試があるわけですが、
卒業式は、その受験日の翌々日、
というのが、娘の中学校の恒例らしい。

今年も、それにならった日付となっている。

私が卒業した中学校では、
卒業式の翌日が、
合格発表日だった。

聞いた話によると、
ある中学校では、
合格発表の日に、
卒業式を当てているところもある様子。

合格発表は、午後4:00~だから、
卒業式はもちろん終わっているわけですが、
なんだか、複雑に感じられます。

田舎の中学校だと、
夜には、謝恩会というか、
卒業祝賀会があるわけで、

万が一、合格発表において、
合格でなかった人は、
そんなパーティに参加するような気分には、
なれないでしょうからね。

みんなが合格することを前提にして、
卒業式を、合格発表の日にしているのかな。

たしかに、卒業&合格のおめでとうを、
同じ日にまとめてしまえば、
合理的といえば、合理的...

でも、この情報は、
どこかで聞き違いってこともありえそうだな。

なんたって、
卒業式に、合格発表っていう話ですから。

ともあれ、卒業式まで、
あとちょっと。
中学校の卒業は、
あっという間に来る感じですが、
小学6年間の卒業に匹敵するくらいの
中身の濃さがあるかもしれない。

そんな気がします。

みんな、卒業まで、がんばれ、がんばれ。

2010年1月18日

ライフスタイル色々

自分とは全く関係ないことなのに、
他人のやっていることを、
とやかく言いたくなることがあります。

それは、
心のどこかで、
自分にからめて考えているから、
なんだと最近気づきました。

たとえば、
自分がとても難儀して
仕事をしながらお金を稼いでいるときに、
いとも簡単にお金を手にしている人を見ると、

そういう稼ぎ方は、
人間としてどうなんだろうなぁ、
とか考えてしまうかもしれない。gawk

また、
夫婦関係において、
共稼ぎをしながら、
妻である自分だけが
家事をがんばってきた女性の中には、

夫が家事をよく手伝ってくる、
ご主人を見たり、聞いたりすると、
男に、家事をやらせるなんて
女性として恥ずかしい、
とか言いたい人もいるかもしれない。angry

さらに、他の例を探せば、
テレビやメディアで紹介されたりする、
専業主夫と働く妻という関係で
うまくいっているカップルを見て、

そんなのおかしいだろ、
と思う方もいるだろう。think

まだまだ、例を探せば、
いろんな仕事、人間関係、ライフスタイルに、
自分が信じてきたこと、
がんばってきたこととは違うから、

おかしいだろ、と思えるものは、
きっとたくさんある。

時代が変わったから、
なんていう理由は、認めたくない。

わたし自身も、
そんな生き方は情けないだろ、と思ったり、
そんなことじゃ自由がないだろ、と思ったりするものに
出会ったこともありますが、どうも、
そのモノサシがいつも正しいわけじゃないな、
っていうのが、ちょっとずつ分かってきた気がする。

人生いろいろ、
価値観いろいろ、
ライフスタイルいろいろ、

認めたくないものにも、
日々たくさん出会いますが、

認めようが認めまいが、
それが通ってしまう世の中だったりも
するんですよね。

だから、面白いのでしょう。
そして、判断がむずかしい。

2009年12月18日

ペットを失うということ

昨日、「ほまれ」さんからメールをいただき、
ペットについて考えさせられました。

というより、私の場合は、
クロスケという犬です。
その名のとおり、
真っ黒い犬でした。

「ほまれ」さんからのメールを抜粋して紹介します。

読まれる前に、ペットを飼ったことのない人には、
なかなか分かりにくい感情かもしれない、
といことだけ、お伝えしておきます。

そして、この「ほまれ」さんのまわりには、
その感情を理解してくれる人がいなかった、
もしくは少なかったんだろうと思います。

--本文--

いつもこちらのサイトで勇気を頂いている者です。
個人的なことですが先日、愛犬が亡くなりました。
気が狂いそうなくらい悲しくて、心をどうにかして
こちらのサイトでこんな時に欲しい言葉を探しました。
(中略)
下記のものは
ペットが亡くなった上に無理解な方々が
更に心を傷つけた経験から作った文章です。
良い言葉にはならないほどの長いものですが、
気持ちを汲み取ってください。

~ ペットを失うということ ~

1.あなたの目の前で涙している人は
  ペットが亡くなったから泣いているのではありません。
  「家族」を失ったから泣いているのです。
  どうか、そのことを知っていてください。

2.あなたの目の前で涙している人が
  ペットの死について後悔していたり
  責任感で自身を苦しめていたら、どうか、
  その人が選んだ選択は正しかったと言ってあげてください。

3.あなたの目の前で涙している人を励まそうと
  「そんなに悲しんだらあの子が心配するよ」
  「元気を出して」
  「頑張って」
  「あまりに泣いていると成仏できないよ」
  など決して言わないでください。
  どれほどの存在であったか、
  どれほど心を通わせたことか、
  そこにはあなたには計り知れないほどの愛情が
  存在していて、気持ちを理解して欲しいだけなのです。

4.あなたの目の前で涙している人に元のようになって欲しくて
  「新しい子を買えばいいじゃない」なんて決して言わないでください。
  あなたにとってはただのペットでも、その人には、
  この世でたった一つのかけがえのない存在なのです。
  代わりなんていないのです。
  もし、あなたが子供さんを亡くされて周囲の人々から
  「また産めばいいじゃない」と言われたらどんな気持ちがするでしょう?

5.あなたの目の前で涙している人に
  呆れや怒り、焦りで、言葉をぶつけないでください。
  「いつまで泣いてるの」
  「たかがペットが死んだくらいで」
  「しっかりしないと!」
  それを一番分かっているのは目の前で涙している人です。

--終わり--

すごい愛情で、
ペットと付き合っていたんだなぁ、
と感じさせられました。
(私は、ここまでなれないなぁ...とも)

ただ、わたしが20歳の頃、
実家に舞い込んできた「クロスケ」に対して、
わたしが抱いた感情も、やっぱり、
「家族」だったんだと思います。

しかし、その「家族」に対しての気持ちは、
わたしが年をとって、結婚したり、
子供ができたりして、変わっていきました。
本当に、冷たい方向に、変わったと思います。

クロスケは、もう亡くなってしまいましたが、
そんなふうに変わってしまう自分を
知っているので、もうペットは飼わないほうがいい、
と感じます。

それが申し訳ない気持ちと、
反省を含めた上での決心かな。

最後まで面倒を見切れないなら、
身勝手な愛情を向ける対象なんて
増やさないほうがいい、そう思います。
ペットばかりでなく、人に対しても、
ときには、ものに対してもそうかもしれません。

2009年12月17日

言の葉

言という漢字は、
言うことからできていて、

それが、
葉っぱという、
パーツに分かれて、
私たちの口から、心から
出て行く。

だから、言の葉。言葉。

よくできている単語だなぁ、
って思います。

昨日、自分の父親と、
これからのことについて、
話し合いました。

たいしたことじゃありません。
ただ、たいしたことでないからこそ、
父親の心に入り込んでいける言葉とか、
話の流れとかは、ずーっと考えていました。

なにせ、コミュニケーションの苦手な人間ですから。
そして、自分の気持ちをうまく外に出すことを、
ゆるされない時代に生きていた人間ですから。

言ったことが、うまく伝わった試しがない。
そんな気がします。

いや、伝わっていたとしても、
自分のなかで、勝手に変えたり、
無視しているのかな。

よく分かりませんが、
わが家ではトラブル・メーカーだった父親だけに、
私が何か伝えた後の行動というのは、
とても気になります。

昨日、伝えた。

新年まであと2週間ほど。

いろんな感じで、父親にも、
節目節目の日々がやってくる。

どんな行動をするんだろう、
その行動を見ていれば、
わたしの伝えたことがどうだったか、
が分かってくる。

本当は、言葉で伝えてくれたら、
一番いいのだけれど、
言の葉をもっていない人がいるのも事実。

伝えてくれようとするけれど、
言の葉を違う使い方して伝えてくれる人もいるから、
なんとも言えない。

言の葉は便利だけれど、
ときどき、何の役にも立たないと思えるときもある。

そういう言の葉だから、
かえって面白いのかもしれない。

2009年12月 9日

遠慮か、後悔か

やれば出来るんだけれど、
面倒くさがりの子どもがいる。

うちでいえば、次女。

急いでいたり、
こちらの機嫌が悪いと、
怒ってでも、
無理やりやらせるのだが、

怒るのが面倒だったり、
その気にさせることを大切にしようと
考えるときには、
ちょっと、ご機嫌をとりながら、
付き合うことになります。

でも、それにも限界があって、
最終的には、怒ってしまったりするわけで、
どうせ、最後が「怒る」ことに決まっているのなら、
最初から怒ればよかったなぁ、
などと反省(?)したりすることがあります。

いずれにしろ、
自分の子どもに遠慮しちゃいけない、
って、勝手な親は思うわけです。

おそらく、
子どもの側から見れば、
えらい迷惑でしょうけどね。

そして、親は、
遠慮しないで、無理やりやらせて、
いい結果でも出ようものなら、

「ほら、がんばって、よかったジャン」

なんて得意顔で言ったりするわけです。

がんばったのは、子ども本人なのにね。

分かっているのは、
親の理論は、子どもの理論は、
まったく一致しないということ。

子どもが、楽しみとか面白みを
求めているのに対して、

親は、後悔しないことを
求めているわけですから...。

もちろん、後悔といっても、
子どもでなく、自分が後悔しないことを、
考えているので、どこまでも、
勝手な親だなと思うばかりです→自分。

そうは言っても、
やっぱり、遠慮するときがあるんですよね。

遠慮か、後悔か。
なかなか、結論の出せないポイントです。

2009年12月 7日

テストの渡され順

1ヶ月に、3回テスト!?

受験生の長女の
テスト予定を見ると、
そうなっています。

高校受験まで、
あと残り3ヶ月。

そんな日程になっても、
不思議でない。
もう、テストはイベント、
という感じ。

おまえらは、受験にだけ
集中しろ、という環境づくり。
人ごとなので、いいなぁ、
と思うしだいです。

そこで、テストばかりだから、
テストの結果に、一喜一憂するわけで、
採点されたテストが、
一気に全教科渡されればいいのですが、
そうはいかない。

渡される順によって、
これまた、一喜一憂です。

偶然にも、良い順に渡されれば、
前半は、やったー!いい結果だ、
と喜んで帰ってくるのですが、
後半になるほど、
「やっぱり、ダメだった」
という顔をして、家に帰ってくる。

悪い順に渡されれば、
前半は、いいと思っていたのに、
と暗い顔をしていたと思ったら、
翌日には、元気な顔をして、
帰ってくる。

そんな一喜一憂を見ているこっちも、
一喜一憂してしまうから、
いっそこそ、全教科いっしょに
渡してほしい、なんて思うのですが、

全教科の授業が毎日あるわけじゃないから、
そうなるのも、自然なこと。

人生と同じなんでしょうね、
いいこと、悪いこと、
どんな順番でやってくるかは、
分からないけれど、

そういう「結果」が、
いろいろな順番にあるんだよ、
っていう人生の予習です。

がんばれ、がんばれ!!

2009年11月28日

愛か、甘やかしか

うちの奥さんは、
家事の当番ルールを率先して破る。

すべては、
彼女の負担を減らすために、
私が思いついて、
娘たち3人+私の計4人で、
自分たちにできることを
分担しているのだけれど、

「ご飯つくりたくない」
「ああ、大変だ」
「夕ご飯つくると、ゆっくりする」

と言っているわりに、
私たちが当番を果たそうとする時には、
その仕事がちょっとしか残っていなかったり、
やりやすいように、すぐに終わるように、
お膳立てされていたりする。

そこまでされたら、
意味ないじゃーん、
と思うのだけれど、

奥さんのクセは直らない。

娘たちにすれば、
助かったぁ~、
という感じで楽になるのだけれど、
どうなんだろう?

と私は、思ってしまう。

甘やかしに、しか思えない。
けれど、愛情とも言えないわけでもない。
うちの奥さんなりの愛情だ。

わたしには、そういうタイプの愛情はなく、
きびしく、自立できるように、
教え込んだり、環境を整えたりする
ことしかしないからね。

きっと、彼女のこの行為が、
愛情であったか、甘やかしであったか。

というのは、
娘たちが、どんな大人になっていくか、
を見ていくことでしか分からないだろうなぁ。

兆しとしては、長女が、
家事能力、生活能力が低いことから、
今のところの、妻のやり方は、
長女にはNGに思える。

今後、ちょっとでも、
能力が高まっていくのだろうか?

愛情か、甘やかしか。
今の私には分からないことなので、
10年後くらいに、結末を見てみたい、
と今からわくわくしている。

2009年10月28日

幸せを与えられる料理

インフルエンザのために、
学校閉鎖となっている娘たち。

学校祭の代休日も含めると、
今日で5日目のお休み...

それにつきあっている妻は、
そろそろ、疲れもたまってくる頃だろうなぁ、
と思いながら、見ています。

学校のある日であれば、
給食を食べている子どもたちだから、
子どもたちのために、
昼食を準備する必要などないわけで、

それが予定外にも、
家にいられると、
文字通り、3食すべての面倒を
見なくちゃいけない。

わたしが心配してどうにかなる
もんでもありませんが、

娘たちには、昼ごはんくらいは、
簡単に自分たちで用意して食べるように、
と言っています。

食べる人を幸せにできる料理ですが、
3食すべてに、全精力を注いでいたら、
作っている側が、うんざりしてくることもあるでしょう。

まして、仕事をもっている奥さんたちは、
そうでしょうね。

お金を渡して、これで食べてきて、
とやった方が楽だし、
お金をもらって、食べに出かける方も、
きっと、楽しいかもしれない。

それをせずに、
手料理を食べさせようとする、
ということは、
自分から、その価値を見出さないことには、
なかなか、無理なんじゃないかな、と思います。

昨夜の、我が家の夕ご飯は、
圧力鍋で作った、
鶏肉、じゃがいも、こんにゃく、大根の煮物。

妻の味つけが、娘たちの口にあったらしく、
「おいしい、おいしい」と言って、
食べていました。

わたしも「おいしい、おいしい」と言いながら...

豪勢な材料を使っているわけでもなく、
お買い得だった、スーパーの鶏肉と、こんにゃくに、
あとは、義父が畑で収穫した、じゃがいも、大根だけ。

そういうシンプルな材料で作った料理が、
子どもたちの「心の糧」となるのであれば、
妻がちょっとは難儀をして手料理を作るのも、
いい価値があるんだろうな、と思わされました。

何を食べたか、なんて覚えていることはないかもしれません。
覚えているのは、手料理を食べさせてもらったな、
という感情のみ。

残念ながら、わたしの母は、料理が下手だったため、
そんな濃い思い出はありませんが、
親子丼と、たまねぎに卵をからめた炒め物の記憶だけは、
けっこう、しっかりとあります。

そういう思い出があるだけでも、
まだ、マシな方かもしれませんね。
あ、カレーの記憶もある、
ラム肉のジンギスカンの記憶も。
(これは料理じゃないか...)

料理の思い出は、意外にも、
大切なのかもしれませんね。

2009年9月16日

できあがった関係性

一度できあがってしまった関係性は、
なかなか、変えるのが難しいもんです。

依存し、依存される人間関係が、
一度できあがってしまえば、
どちらも、それがまるで使命かのように
思い込んで振舞うから、
その関係から、なかなか抜け出せない。

DV(家庭内暴力)という関係性も、
きっと同じでしょう。

上司と部下、先生と生徒、
そういう関係からできる
特殊な感情の関係も
変えるのは、なかなか難しいことでしょう。

横山秀夫さんが描く警察組織の小説を
読んでいると、

警察官は、その組織に入ると、
退官をしても、警察人だと書いています。

なんとなく、想像できます。

関係性から離れられない組織も、
あるんだろうな、と。

もっている秘密、技術、知識によっては、
ほんとうに、そんなことも...

いろんな関係性にしばられて、
人間は、窮屈に感じたり、
快適に感じたりしながら、生きている。

もしも、窮屈に感じたら、
そこでガマンをしたらダメだと思う。

ガマンをすれば、
ガマンしてもらった方は、
ガマンをしてもらったことに感謝するどころか、

ガマンをさせていることすら気づかず、
それが当たり前と思うに決まっているんです。

そうして、できあがった関係性は、
ずーっと続きます。

関係性を変えるなら、
できる限り、早く変えてしまう。
それしか、ありません。

それができないとなると、
時には、血の流れる革命なんかが必要になる。

穏やかに変えたければ変えたいほど、
早めに変える。それが大事です。

2009年8月16日

紹介を頼まれて

「ここの先生は、上手でしょう。
 みんなに紹介してちょうだい。」

と看護師さんに言われた。

次女の手術後の診察のために、
病院に行った際、
シワと見分けがつかないような、
かなりきれいな手術跡を見て、
看護師さんは、そんな言葉を口にした。

顎の下から、
腫瘍を取り出した手術。

考えてみれば、
そんな手術を、
多くの人が必要とするわけがなく、
残念ながら、

そこのお医者さんを
紹介することなど、
まず、ないだろう。

そんなことを、すぐに考えた。

だから、代わりに、

「ここの看護師さんも、
 いい看護師さんですよ。」

と、ちょっと歯の浮くようなセリフを
口にしたが、案外、喜んでいた、
その看護師さん。

頼まれた紹介の代わり、
くらいになったように思う。

頼まれて、果たせるものであればいいのだけれど、
果たせないものについては、困るもんです。

あまりにも真剣な頼みごとだと、
なおさら、応えてあげなくては、
と思いますからね。

頼まれたら、すぐに応える。
応えられないものは、
代わりのもので、うまく済ませる。
あるいは、断る。

そういうことがスムーズに出来れば、
人間は、もっと、いい感じになるでしょうね。

2009年7月26日

顔の表情

ふつうに動いている顔の神経が、
けっこう大切なんだな、と思わされる。

先週の火曜日に行なわれた、
次女の顎下腺腫瘍の摘出手術。

手術の最中、心配だったことは、

1.腫瘍が悪性でないかどうか
2.腫瘍が神経に癒着していて、手術の表情がひきつらないか

この2つだった。

アグネス・チャンさんも、
ちょっと場所は違うが、
似たような手術を以前行なった、
という話を読んだことがあり、

その際に、顔の表情がひきつった、
ということがブログとかに書かれていた。
その後のリハビリで治ったということを聞き、
ちょっと安心してはいたが、

実際に、次女が手術後に、
ちゃんと笑えることを見て、
よかったなぁ、と改めて思った。

見えない、ささいな神経かもしれないけれど、
ちゃんと、顔の表情をつくるために、
がんばって動いている神経だ。

こうやって、文字を入力するためにも、
ちょっとした神経が大脳からの命令を
受け止めて、この指を動かしているわけで、

人は、そういうことを、
ちょっとした不自由を経験しないと、
気づけない。

顔の表情っていうのは、
心のなかから来るものだけれど、
それでさえも、神経が働いていなければ、
どうにも表しようがないんだな。

神経さん、ありがとうです。

カラダのなかの、ささやかに見える、
たいした役に立たないように見える器官でも、
人間は、ひとつでもなくせば、
不自由が増えるんです。

大切にしないといけないな。

2009年7月15日

思いやりが重い

「あなたが大変になるから、
 こうした方がいいんじゃない?」

「ん、いいよ。」

「じゃあ、こうしたら?」

「あっ、大丈夫。」

「そうだ、これはどう?」

「ごめん、もう放っておいて。」

たしかに、言われるとおりやれば、
楽ができるかもしれないけれど、

自分のために、ずーっと考えてくれていて、
いろいろと言ってくる、その時間が、
面倒になることがあります。

重いというか、
自分で決めたとおりにしたいとか、
今は、急いでそのことを考えるつもりはないとか。

たぶん、自分のペースで考えたいところを、
相手が、思いやりとは言え、
そっちのペースで考えたことを、
どんどん言ってくるからでしょうね。

それだと、
ブティックの店員が、
「これなんか、どうですか?」
と矢継ぎ早に声をかけてくるのと、
たいして変わりない。

一方は、思いやり?
もう一方は、買わせたい気持ち。

自分のペースで考えさせてくれ!
ちょっと放っておいてくれ!

思いやりが重いときには、
そんなふうに思うものです。

思いやりの言葉を、
ここ最近、かけられたことがないなぁ、
という人にしてみれば、
うらやましいことかもしれませんがね。

2009年7月14日

問題をつくる能力

生きるとは、
問題をつくっていくことだと思う。

なかには、
問題を解決していける人もいる。

大半は、
問題をつくりっぱなしの人が
多いだろうから、

解決する人が少ない、
この世の中には、
問題があふれかえってしまうに
決まっている。

わたし自身も、
問題の塊だと思う。

朝起きれば、
着る服が必要になる。
尿意を感じるから、
トイレも必要だ。
しばらくすれば、
お腹が空いてくるから
食べ物も必要。

そして、食べ物がなくなれば、
どこからか手に入れなければいけない。
手に入れるためには、お金が必要で、
そのお金を稼ぐために、働く必要がある。

そのやっている仕事が、
自分に向いていればいいけれど、
向いていなければ、かなりのストレスになって、
ストレスを解消する手段も必要になる。

そういう見方をすれば、
やっぱり、生きるっていうのは、
問題をつくるってことなんだろうなぁ...

ところが、
その問題を解決することによって、
華々しく注目される人もいる。

けれど、自分の家庭の問題を解決したくらいじゃ、
そんな注目を浴びることはない。

身内のトラブル・メーカーに付き合ったり、
親を介護したり、
子どもを更生させたなんてことは、
世の中にとって、たいした問題にならないから、
だれも褒めてくれたりなんかしない。

褒めてくれなくても、
自分の身近の問題だから、
なんとかして解決しなくちゃいけない。

ああ、もう、うんざりだ、
と思ったときに、ふと思う。
「死んでくれたらいいのに...」

生きるとは、
問題をつくること。

死ぬとは、
問題をつくれなくなること。

もちろん、それまでつくった問題の中で、
解決されないで残ってしまうものもあるかもしれない。
それでも、死んでしまえば、もう、
新しい問題は生まれなくなる。

やっぱり、生きている人間が、
一番こわい、一番面倒くさいのかもね。

身内に、トラブル・メーカーがいると、
そんなことを感じることでしょう。

そのような皆様、本当に、お疲れ様です。

2009年7月13日

怒らせてみる

これから、
長い付き合いになる人に対して、
あまり怒らないように、あるいは、
あまり怒らせないように、

と気を遣うのは、ちょっと違う気がする。

長い付き合いになるからこそ、
わざと怒らせるようなことをしてみたり、
ちょっと自分も勝手な態度をとってみたり、
自分の悪いところを見せなくちゃいけない、と思う。

怒ってみて、
怒らせてみて、
それでも付き合いたい相手か。

そういう魅力が、良さが、
相手の中に残っているか。
見ることができるか。
そういうことだと思います。

でも、怒るっていうのは、
実際のところ、
マイナスなイメージが強いから、
そのシーンに出くわしたときには、

心の準備ができていないと、

「怒ってしまった」

「怒られてしまった」

という感情ばかりに心が向いてしまい、
大切なところを観察できないで終わるかもしれない。

そこは、本当の部分を見るために、
耐えられるようになりたいものです。

怒らせないで、
ウソの部分ばかりをつかんで、
付き合い続けたりするよりも、

いつかは見えてくるに決まっている、
本当の部分を、早く見たほうがいいですから。

関係がどうしようもなく深くなってから、
「こんなはずじゃなかった...」
ということになっても、
遅いんですからね。

もちろん、いつでも、
やり直しはできますが...

2009年6月16日

親をクビにする

「バッテリー」を書いた、
あさのあつこさんの作品を、
いろいろと読んでいると、
描かれている子供が、
すごく大人びているように感じます。

典型的な、アタマの固い大人らしい見方
かもしれませんが、

それを感じたときに、
最初は、そんなこと出来ないよ、
そんなふうに考えるわけないよ、
あくまで物語だよな、
というような受けとめ方をしていました。

しかし、実際、
考えたことが出来るかどうかは、
別にして、きっと、子供たちは、
「今は出来ないことも含めて、
 自分たちは出来る」
っていうことを、いとも簡単に
信じているかもな、という気がしました。

たとえば、車の運転一つにしても、
子供たちに、ちゃんと教えれば、
出来ると思うんです。

もしかしたら、大人よりも上手かもしれない。

ただ、法律で禁止されていることと、
一般的には、大人よりも精神的に未熟だから、
運転が危なくなるだろう、ということから、
そういう運転をするシーンは、
日本では、まずありえない。

もちろん、無免許運転をする、
という選択もあるでしょうが、
子供たちにしてみれば、
運転できるけれど、しない、
みたいな受けとめ方かもしれない。

仕事をすることだって、
ちゃんと教えれば、
能力的には大人とほぼ同じに
できる仕事が、できる人が、
けっこうあるだろうなぁ。

いい加減にやっている大人より、
いい仕事をする人がいても不思議じゃない。

大人は、子供たちに、
出来ないとは思っていても、
子供の心の中では、
けっこうなことが出来ると思っている、
もっと前進的にいえば、
出来ることを知っている。

大人だけが、
子供は、こんなもんだ、
これくらいしか出来ないんだ、
と決めつけている。だから、
やらせていない。

現実的にはどうか分かりませんが、
そういう大人と子供の世界を想像したときに、
ちょっとワクワク感を覚えました。

子供に、いろんな機会を与えれば、
きっと、大人も子供も楽しめるだろうなぁって。

あらためて、子離れの必要を感じた私です。
子供から、親をクビにされた方が、
おもしろいかもしれないし...

2009年6月 3日

分かれ道

6月のこの季節になると、
部活をしている中学生も、高校生も、
最後の大会「夏の総体」シーズンとなる。

わが家の後ろは、すぐ高校があるし、
知人の子どもらの最後の結果を知ったり、
活躍を耳にすると、青春だなぁという気がします。

高校生には、
全国で戦うインターハイがある。

誰もが、そこを目指しているかといえば、
最近、そういうわけもでもないな、
ということが分かってきました。

中学生の頃にも、
何らかの大会があって、
何かしらの結果を見ることになります。

実力のある人たちは、
やっぱり強い。
小学生、もしくはもっと前から
始めている。

そういう人たちが、
上位での戦いにしのぎを削っているのを見て、
さらに、同じような顔ぶれで、
高校生になってからも戦うことが予想される。

そういう予想がある中で、
この夏の総体が終わったときに、
進路を考えることになるでしょうが、

1つの選択肢は、
インターハイを目指すか、
ということでしょう。

そうでないもう1つの選択肢は、
高校進学、卒業後の進路を考えて、
高校を選ぶか、ということになるはず。

インターハイを目指せる高校に進むか、
将来の職業に近づける高校に進むか。

このどちらも獲れる学校があれば、
一番いいのですが、
必ずしも、そうとは限らない。

もちろん、将来の職業に近づける高校の方を
選んだからといって、部活を続けられないわけじゃない。

けれど、やっぱり、練習の質から、
チームやメンバーの質まで違ってくる。

部活の空気や人間関係は楽しめても、
上位を目指せる空気には、かなり遠い場合もありうる。

中学生のスポーツと、高校生のスポーツは、
ハッキリと違う。そんなことを感じる、この夏です。

2009年4月 5日

ウィンドウショッピング

こんな不景気でも、
新しいお店が次々とオープンします。

新しい店が出来るたびに、
ちょっとくらい遠くても
車でドライブしていくようなパワーは
なくなってしまったので、

ちょっと時間が経ってから、
思い出したように行くのが常です。

わが家から30kmくらいのところに出来た、
イオンショッピングセンター。
車で45分ほどの場所。

知人たちは、
行った、行った、
と言うものの、
なかなか行く機会もなく、

やっとこさ、昨日、
娘らの練習試合の帰りに、
寄ってきた。

なんでもある、
わけじゃあありませんが、
いろんなことで時間がつぶせる場所、
なのは事実。

お腹がすいたら、
ファーストフード、牛丼店、スイーツショップで、
軽く食べられることもできれば、
レストラン街でしっかり食べることも出来る。

映画館、ゲームセンター、本屋さん、
ウィンドウショッピング、時間のつぶし方は色々。

人、人、人...

それほど多くはなくても、
人ごみの中は、やっぱり疲れます。

1時間ほど、そこにいて、
スイーツを買って持ち帰り、
家に着いたら、バタンキュー。

ウィンドウショッピングが趣味の人は、
エライなぁ、と思いました。

わたしにとっては、
スポーツや運動をするよりも、
疲れることでした。

しかし、あんなお店を立てられたら、
それほど特徴のないお店は、
どんどんつぶれていくのは事実だよなぁ。

2009年4月 4日

仕事のあいまいさ

何が仕事で、
何が仕事でないか、
ハッキリとした区別をするのが難しい、

っていうのが、私の仕事でして、
自分でも、分からなくなるから、おかしい。

きっと、インターネットという
情報が大量に消費される時代が
来たから、そうなんだろうと思います。

何かの商品でも、サービスでも、
それを知ってもらうための情報を
発信しなくちゃいけない。

けれど、情報を発信したから、
それが即、お金になるとも限らない。

もしも、
お金になることが仕事で、
お金にならないことが仕事じゃない、
となれば、

あらゆる仕事の最初のステップは、
お金にならないだろうから、
「金にならないからやらない」となれば、
どんな仕事にも発展しなくなるんだろう、
と思うんです。

お金にならない時期とか、
お金にならない仕事というステップを
乗り越えたからこそ、
お金になっていくこともある。

でも、必ずしも、
やっていることのすべて、
お金にならないけどがんばっている仕事のすべてが、
そういうふうに成長してくれるとは限らない。

仕事には、あいまいさがある。

そのあいまいさがイヤだということで、
ハッキリさせることができれば、
そのうち、他の人にも真似られて、
自分だけの仕事に出来なくもなる。

すると、また、新しい仕事、
お金にならない仕事からスタートして
始めなくてはいけない。

もしかしたら、仕事は、
あいまいなうちがいいかもしれない。
なんてことを考えました。

2009年4月 3日

お別れの準備

15歳のバースデー。
アンジェラ・アキさんの曲「手紙」に出てくる、
15歳になった長女です。

つまり、わたしの「父親」という仕事も、
15年経ったということ。

けっこう続いているなぁ、
という気がします。

もちろん、辞めるつもりもありませんが。
辞めたくても、もうそんなに長くないし、
これから始めようにも、
8歳の三女が20歳くらいになるまでしか、
父親らしいことは出来ないわけです。

娘たちにとっては、
死ぬまで「父親」でしょうが、
見守る父親でなく、育てる父親の時間は、
思ったより短いことでしょう。

きっと、あっという間...

油断していると、何もしないうちに、
過ぎ去ってしまう時間になるかもしれない。

そんな娘たちが、昨日から、
北朝鮮のミサイル(人工衛星?)の
発射ニュースを知り、
ものすごい心配をしているようです。

なんといっても、
上空を通過するとか、
堕ちるかもしれないエリアの県なので...

夜になって、
長女と次女から
感謝の手紙をもらった。

どうやら、もしも...、のことが
あった場合に備えての手紙らしい。

15歳まで育ててくれてありがとう。

これからもがんばるのでよろしく!

そんな言葉が並べられている。

よかった、「さよなら」という言葉だけはない。
必要以上に、ミサイルのことを心配している様子
ではないらしい。

しかし、実際問題、
ミサイルとして落とされたら、
なんにも出来ませんからね。

今日死ぬとしても、
明日死ぬとしても、
精一杯生きている人生を
これからも続けていくしかないでしょう。

ミサイルが落とされる可能性よりも、
交通事故に遭う可能性の方が高いですからね。
日々の安全を、気にかけたほうがいい。

2009年3月10日

自分の物語

卒業式も終わり、
自分たちの授業も残りわずかとなって、
あと7日だけ学校に行けば、
春休みに突入する娘たち。

学校から、いろんなものを
持ち帰ってくるようになりました。

その1つに、
夏休みに書いた読書感想文の、
市内小中高校の入選作品を集めた文集、
というものがありました。

幸い、三人娘みんなが、
入選はできたらしく、
載せられていた様子。

娘たちの文章を読み返してみるとともに、
他の子供たちの文章にも目を通してみる。

全国へ提出されて、
文部科学大臣賞、サントリー賞などをとった作品が、
3つあって、それらを読んでいるうちに、
思わず、惹き込まれてしまいました。

娘らと同じような年齢の子供たちながら、
その文章には、読んだ本と、
自分の生きてきた物語をからませた
洞察力のある言葉が光っていました。

うーん、結局、
自分の物語があるんだなぁ...と。

深く納得。

もちろん、自分の物語は、
多くの人にあるけれど、
それを、自分と等身大の言葉を使って
表せることが、大きな才能。

自分の身の丈を越えた言葉を並べても、
きっと、読む人の心には響いてこない。

子供だからこそ、
いや、子供とかそういうんじゃなくて、
言っていることのレベルにあった言葉を選べないと、
文章は、ピタっとこない。

本を読んで、自分の物語を見つけられる人。
本には、そういう人を育てるパワーがあるんですね。

あらためて、感じさせられました。

2009年3月 8日

お弁当づくり

卒業式シーズンは、
卒業生をもつ親じゃなくても忙しい。

うちの娘らは、中2、中1だけれど、
土曜日の昨日が、卒業式の予行、
日曜日の今日が、卒業式の本番。

土日だから、給食がない。

となると、お弁当作りをしなくちゃいけない親。

2日連続の弁当作りに、
妻はウンザリするだろうと考え、

思いつきで、

「俺が2日目を作ろうか?」

と言ってしまった。

「あなたの作った弁当なんて、
 子供たち、食べないよ。」

みたいな返答を期待していたが、
すんなり、いいよ、と。

娘らも、いいよ、と。

おいおい、本当か?

ということで、土曜日の昨日、
カンタンに作れそうな、
なおかつ、材料費も安いおかずを
インターネットで探した。

あと、冷蔵庫に残っている材料も見比べる。

妻といっしょにスーパーへ行く際、
買ってもらった材料の値段は、
合計で258円。

私が作った時だけ、高上がりになるようでは、
なんの意味もない。

258円以外は、自宅にあるものだけを使う。

今朝、起きた時刻は、いつもどおりの5:00。
妻が朝ごはんを作り始める6:00前には終わらせたい、
と思って、ササっと、作る。

フライパンと、電子レンジだけを使って、
完成させられました。

なんといっても、ポイントは、
卵サンドを作るために、
ゆで卵(?)を電子レンジで作ったこと。

器に、卵を割って落として、
黄身に、つまようじで、ジクジクと穴を開ける。
それから、1分10秒のチン。

黄身に、つまようじで穴を開けるのだけは忘れてはいけない。
忘れると、爆発する! それを心に銘じて、しっかりやりました。

おかげで、お湯を沸かす時間も節約できて、
予定どおり、6:00までには終了。

ああ、妻は、いつもがんばっているんだなぁ...

いい経験をした、お弁当作りでした。

そんな難義もしていないので、
また、作っても大丈夫、という気分が残っています。

次も、がんばるぞ!

2009年3月 6日

色を変える

子供の顔には、
うっすらと産毛があって、

中学生にもなると、
女の子とはいえ、
ちょっと黒っぽくなってくるから、

産毛の処理をしないと、
顔全体が暗ーく見えてきたりするもんです。

「おいおい、そろそろ、剃ったほうがいいぞ」

とコトバをかけて、自分たちで、
産毛シェーバーで処理をするんですが、

終わってみて、顔を見れば、
やっぱり、白っぽくなる。
見た目、明るい感じ。

色って、大切なんだなぁ、って思わされます。

部屋の色とか、着る服の色とかも、
あらためて、そういう目で見て、
ちょっと変えてみるだけでも、

なんか気分が変わってくる。

わたし自身はというと、
高校生の頃から早く大人びて見られたいと思い、
ブラック、グレー、ブラウンの色を身にまとってきたから、
やっぱり、ちょっとダークなイメージが漂います。

そんな人だからこそ、着ていく服の色を変えると、

「なんか、明るい」

とか言われたりします。

バーゲンで買い物をするときには、
いろんな色を選べなかったりしますから、
気に入ったデザインの服を見ると、

普段は着ない色でも、
思わず買ってしまう。

それが、ちょっとした冒険に...

今度のバーゲンには、そんな冒険をしてみよう、久しぶりに。

2009年1月31日

トランポリン

不必要な力が入ってしまって、
ミスが出てしまうと、

「力まないで、普通に...」

というようなアドバイスを
受けるものです。

今朝、たしか、
フジテレビの「めざまし」で
放送されていた内容ですが、

先日の全日本卓球選手権で
小学2年生ながら、予選を勝ち抜いてきた高校生に
勝って話題になった平野美宇ちゃんが映っていました。

卓球を始めた頃、
トランポリンの上に立たせて、
ボールを打たせたとのこと。

普通に考えれば、
安定した床に、しっかり立たせて、
力がちゃんと入るような練習を
させる気がしますが、

コーチであるお母さんいわく、
「普通、小さい子供たちは、
 力んで打ってしまうけれど、
 この子は、力んで打つことがない」と、

その効果を語っていました。

力まないからと言って、
打ち放たれるボールが弱々しい
わけじゃない。

上手に、相手の意表をついたコースにねらえて、
それなりに十分なパワーがボールにもある。

力を込めれば、
力のこもったボールが
打たれるとは限らない。

これは、人生にも言えることだろうなぁ。

力めば、いい結果が出るとは限らない。
ちょうどいい力加減で、効果的に、それを出す。

トランポリンの上で練習すること。

この不安定な世の中で、
いろんな経験をすること、っていうのは、
そういうことに似ている気がします。

思い込んでしまって、
「これでいいはずだ、絶対に、これでいくぞ」
と力んだ瞬間に、足元をすくわれるような世の中。

キビシイように見えるけれど、
力まないで、世の中を見る人にとっては、
どこの道を歩いていけばいいか、
見えるのかもしれません。

トランポリン、いい言葉に聞こえました。

2009年1月19日

支えていく力

どんなに強いかを調べてみたら、
過去10年間の
3大会(秋の新人戦、春季大会、夏の総体)
2種目(団体戦、個人戦)で、
54回の優勝。

他のチームにも、トータルして
60のチャンスがあったはずなのに、
なぜ勝てなかったのか。
娘らの部活動(卓球)の話です。

からくりの90%は、シンプルな話でした。
そのチームのメンバーだけ、
他のチームより始めるのが
3年くらい早かった。

10年以上も、
その始めるきっかけを作っているのは、
スポーツ少年団であり、
それを支えている地域の大人たちです。

時には、全県大会で優勝したり、
上位に食い込んだりする時代もあるので、
それを支えてきた人々は、
時間を作ることに難儀をしながらも、
喜びも味わってきたことでしょう。

伝統や歴史は、
それらを背負う人々を
さらに強くすることもあります。

だから、
そういうチームがいるキビシイ条件で、
からくりの残り10%の隙間をくぐり抜け、
勝ったり、優勝を手にするには、

伝統や歴史に勝るアイデアや作戦、
それを支えていく力が必要になります。

その力は何か。
きっと、いろいろあることでしょう。
子供ら本人の力、親や家族の力、
仲間の力、先生や学校の力、運(?)の力、
ぜんぶでなくとも、そのどれかを味方につけて、
無敵と呼ばれる敵に、今日も挑むのです。

最近の3大会にて、
1つの種目(個人戦)については、
優勝カップを奪いとった、娘らのチーム。

あと、もう1種目(団体戦)。
伝統や歴史に勝るアイデアや作戦を見い出し、
それを支えていく力を
増し加えていくことが出来るか。

本番まで、あと3ヶ月。

がんばるぞ。

(娘のPTA文集の清書用)

タイトル:消える魔球が欲しい

敵のラケットが振られる瞬間、
フッとボールが消える...。
そして、空振り。
(しばしの沈黙...)ヤッター!!

そんな魔球が欲しいと思うのは私だけでしょうか。
とてつもなく強いライバルにも、その一球さえあれば、
どんなピンチも切りぬけられる。
なんとか生み出そうとしているのですが、
いまだにボールは消えません。
せいぜい、こちらがずっこけて、
敵の視界から消えてしまうくらいの話です。

ダントツに強いチームには、
消える魔球なんてありませんし、
いりません。ちなみに、
娘らがやっている卓球では、
○○中がそういう存在。
過去十年間、春夏秋冬すべての優勝校名には、
ずらーっと「○○」という文字が並びます。

理由は、すぐに見つかります。
○○だけは、卓球スポーツ少年団があり、
他のチームよりラケットを持つのが三~四年早い。

しかし、そのキビシイ条件のもとで、
他のチームが優勝を手にした一年もある。
きっと、伝統や歴史に勝るアイデアや作戦、
それを支えていく力があったのでしょう。

子供たちにも、勝つために、
そんなアイデアや作戦を見つけ出して欲しい
と願っています。
そういう経験が、きっと、
子供たちが生きていく時代の力となることでしょう。

2008年12月 6日

親が反抗期

子供には、
親への反抗期が、
よくあることだけれど、

親が子供に反抗したら、
子供はどうなるんだろう?

親がしっかりしてくるのは、
子供を育てるからだと思う。
面倒を見る相手がいると、
人は、成長してくる。

子供には、基本的に、
面倒を見る相手がいない。

家庭にペットなどがいれば、
面倒を見る機会になりそうだけど、
それだって、
親がほとんどの面倒を見て、
子供はただかわいがるだけであれば、
子供がしっかりしてくる機会には
なりえない。

ホントに、
ただ「ペット」を持っているだけに
過ぎない話になる。

面倒を見る相手がいると、
人は、しっかりしてくる、というのであれば、
それは、妹や弟でもいいし、
介護の必要な祖父母でもいいかもしれない。

そういう面倒を見る相手が
いないとなれば、
親自身が面倒を見られなければ
しょうもない相手になるのも、
一つの手かな。

とは言っても、
虐待とか、
いつもイライラして怒ってばかりいるとか、
お金を稼がないとか、
飲んだくれてダラダラしているとか、
そういう家庭基盤を壊すことでなく、

なんていうんだろう、
体がちょっと疲れやすいとか、
ストレスでちょっとイライラするとか、
たまに家事を怠けたくなるとか...

その程度の面倒をかける親で
いいんじゃないだろうか、と思う。

親としての務めをちょっと放棄して、
子供に面倒をかける反抗期みたいなものが
あった方が、子供は、しっかりするかもって。

子供の活躍するシーンを見るのは、
とても嬉しいことで、
そのために、親が裏方仕事に徹して、
子供には、勉強やスポーツ、習い事という、
自分のことばかりをさせて、
何かの面倒を見させたり、働かせる機会を
与えなかったら、現実味のない子供が
育ってしまうかもしれない。

生きることには、必ず、
面倒を見ることと、
面倒を見られることが
含まれるから、
そういうことを忘れさせないようにしたいものだ。

2008年11月30日

ヘアカット代 0円

昨日、娘らのヘアカットをしました。

長女かが生まれた際に、
知人からの出産祝いとして、
妻が、子供用バリカンをリクエストして
それをもらって以来、

私のヘアカット歴は、
かれこれ、15年にはなるだろう。

バリカンだけでは、
細かいことができないため、
途中で、散髪ハサミセットも買っている。

髪の毛が服につかず、
また床に落ちないようにする、
前掛けシートみたいなものも買ったり、
ヘアカットのコツ本も入手して、

15年もやっていれば、
かなり上達するものである。

娘らの頭は3つ。
ちょっとした失敗はありながらも、
無難なヘアカット、時には、
ヘアカタログに似せたヘアカットも、
だいぶ出来るようになってきた。

よって、わが家の娘らのヘアカット代は、
生まれた時から、0円である。

12歳、14歳という、
友だちにどう思われるか、
ちょっとは気になる年頃の娘たちが、
わたしのヘアカットで満足できているのは、

1.それなりに上手だから
2.部活動に一生懸命なためショートヘアが必要だから
3.細かいリクエストも出来るから

といったところでしょう。

何歳まで、ヘアカットさせてくれるかは、
分かりませんが、ますます上達する、
わたしの技術に慣れすぎて、

いざ、美容院でヘアカットしてもらう、
というシーンになった時には、
ちょっと戸惑うかもしれませんね。

細かいリクエストを言うのを躊躇したり、
お金を払う段階になって、こんなに高いんだ、
みたいな実感を感じたり...

長女、次女のヘアカットは、
間もなく終わるかもしれませんが、

三女は、まだ7歳。
少なくとも中学卒業まで、
あと8年間。

もっともっと上手になるぞ!

と思っているところです。

2008年11月 9日

いい大人じゃない

自分のことを、
いい大人じゃないな、
って思うことがあります。

大人気ない、
っていうか...

子供に対して、
感情むき出しになる時っていうのは、
勝ち負けにこだわったり、
競争心が強すぎたり、
っていうことが多い。

子供相手に、
本気で戦っているか、

子供が戦っているものに対して、
本気でのめり込んでしまっているか。

大人の目で見れば、
(冷めた目で見れば、)
やっぱり、大人気ない...

ってことになるでしょうし、

「いい大人が...」

と見られることも多いでしょうね。

そういう人間の一人である私は、
そういう性格である自分に開き直って、
子供とも熱く向き合うポリシーだ、
っていうことにして、

大人気ないまま、今なお、
いい大人じゃなく、振る舞っています。

なんで、子供のことなのに、
熱くなっちゃうんでしょうね。

同化している?

子供に夢を託しすぎ?

目先のことしか見えない?

そうだとしても、
今は、この今の瞬間しか
ありませんから、
大切にしたいものです。

2008年11月 3日

自分の戦い

子どもが、
子ども自身で戦わなければいけないことを、
黙って見ているのは、なんとも、
歯がゆいものです。

私も、親バカな一人ですが、
やってしまいがちなミスに
2つあります。

1つは、
代わりに戦おうとしてしまうこと。

もう1つは、
代わりに戦うつもりはないけど、
あれこれ、いちいち、細かいくらいに、
指図してしまうこと。

代わりに戦ってしまっては、
まったく意味がありませんし、

たとえば、子どものケンカに、
親が完全武装して登場してきたら、
違和感どころではないでしょう。

変です。

しかし、代わりに戦わないで、
指図をいろいろする方は、
声を荒げて、口やかましく、
言ったりでもしない限り、
変には見えないこともあります。

ただ、子どもにも、
いろんなタイプがあって、

指図があると助かる、
という具合に依存してしまう子どももいれば、

指図があるとうるさいからと言って、
そのうるささから遠ざかるために、
戦うべき場所から逃げてしまう子どももいる。

子ども自身の戦いなのに、
その場から逃げてしまっては、
元も子もない。

親は、「自分の戦い」と勘違いせず、
放っておくことを学ぶ時もあるんですよね。

それが、なかなか、難しいです。

手を差し出すべき時も、
きっとあるでしょうから、

そのタイミングの見計らいをするつもりが、
どうしても、親心で手を口を出したくなってしまう。

親は親で、自分の戦いに集中したほうがいい。
子どもには子どもの、自分の戦いがあるんだから。

うーん、むずかしいけど、
それが出来ないと、親離れ、子離れもできない。

2008年10月16日

コメントを考える

子供たちの秋休みは、
昨日で終わり。

通信簿には、
毎回のことながら、
親のコメント欄があり、
今回は、私の当番となりました。
3人分...

決まりきった感謝の言葉だけで
終わるのは、先生がつまらないだろう、
っていう気がする。

しかし、そうではないとしても、
当たり障りのないことを書くのは、
わたし自身もつまらない。

かと言って、深い話にしすぎるのも、
読む先生にとっては重いことでしょう。

私が書いたのは、以下のような感じでした。

長女
新人戦の前から、自分を見つめすぎて、
思い通りにいかない自分や結果を見て、
焦っている感じでした。
気づくまで意外とボーっとしてい ることが多いのですが、
気づいてしまうと気にしすぎてしまう性格...。
今は、自分のことも、物事も、長い目で見るための
経験の日々のように思われます。
後期 も、よろしくお願いいたします。

次女
中学校生活に、だいぶ慣れてきて、
生活リズムもつかんできたようです。
また、目標が ハッキリと見えてきたようで、
面倒くさがりながらも、要領よく、
やっている感じがします。
物事をパパッと進めたい性格なので、
忍耐を学ぶことも多い でしょう。
基本的に元気ですが、頭痛持ちで、
時々ご迷惑をかけることもあるかもしれません。
後期も、よろしくお願いいたします。

三女
毎日、元気に過ごしているので、感謝しています。
勉強も少しずつ、がんばっているようですが、
まだ、言葉の力が足りない気もします。
後期も、本を読んだりすることを、本人は、
がんばると言っています。よろしくお願いいたします。

書いてみて、ちょっと先生のような気分。

私は、3人娘一人一人を考えただけですが、
先生は、それを30人分ほどを
考えて書いているわけですから、もっと大変でしょうね。

今日から、後期のスタート。
お疲れさまです。

2008年10月 6日

ガマンの限界

人一倍、
いろんなことをガマンして、
がんばっている人が、

それでも、
いろんなことがうまくいかなくて、
さらにガマンしようとしている姿を見ていると、

なおかつ、
その人のまわりの人々が
その人のガマンを知ってか知らずか
それほどガマンしているようには見えないと、

なんとなく、関係のないこっちが、
「もっと爆発したらいいのに...」
と思ってしまう。

それでも、その人は、
自分のガマンが足りないからと言い、
まわりの人々を責めたい気持ちを押し殺して、
さらにガマンしようとする。

もしかしたら、
その人のガマンが、
まわりの人間をダメにして、
(悪い結果の責任をとらずに逃げてばかりで...)
ますます、悪い結果をもたらしているかもしれないのに...?

と考えた。

自分の行動によって、
悪い結果が出てしまった時に、
自分で責任をとらせたり、
必要な責めをしなかったら、

その人は、いつ学べるんだろうか?

責めるべき時にガマンをして、
もっと悪い結果が出てしまってから、
責めたくなる。

そして、責めたくなった自分の気持ちを呪い、
さらに、ガマンしようとする。

これでは、きっと、悪循環になる。

「自分さえガマンすれば...」

わたしは、あまりガマンの出来る人間じゃないし、
こんなふうに思えないからかもしれないが、

「自分のガマン」の効果を
買いかぶっている言葉のようにも思える。

まわりにいる一人の力ではどうにもならないこともある。
結局、本人が自覚して、がんばらなければいけないのだ。

あまり、ガマンしない方がいいことも、間違いなくある。
そう思われて仕方がない。

でも、その人本人には言えない。
どことなく、自分のガマンする姿を
快感に思えているところもあるから。
悲劇のヒロイン、ヒーローみたいに...

2008年8月22日

恐怖の「間」

怖いことでも、
驚かすことでも、
少しの「間」もなく連続で来ると、
感覚が鈍るんじゃないか、と思う。

怖い、と思う暇もなく、
ただただ押しつぶされていく感じ...

なんか、1つ怖いことが起きたら、
サーッと、その恐怖が引けて行って、

ちょっと考えたり、
心配や不安になったりする「間」が
与えられている方が、もっと怖くなる。

来るんじゃないか、
来ちゃうんじゃないか、
なんか怖いことが起こるんじゃないか...
って思うのは、ある意味、期待もあるんだろう。

怖いと思いつつ、
期待してしまう。
こういうシーンでは、
怖いことがきっと起こるよな、
みたいに。

そこで、最近発見したことは、
その「間」を感じる長さに、
けっこう個人差があるようだ、
ということ。

たとえば、1つの恐怖をやり過ごしてから、
15秒もすれば、不安になってしまう人もいれば、

15秒くらいでは、
新たな恐怖を感じるほど
長くないという人もいるわけだ。

前者は、いつも忙しくなってしまう人かもしれないが、
後者は、知らず知らずのうちに、
物事が過ぎ去っていることがあるだろう。

うーん、笑いばかりでなく、
恐怖にも、「間」が大切だったんだなぁ...

考えてみれば、ホラー映画なんか、
そういう「間」をよく使っているんだよな。

うちの長女は、あることをものすごく怖がるんだけど、
それが、娘にとってはちょうどいい「間」なんだからだろうね。
なるほど、なるほど。

2008年8月 8日

暑さにたくましく

暑い夏に鍛えられると、
人は、たくましくなっていくものです。

ガソリン単価の上昇に負けてなるものか、
と思い、わたしも、昨日から、
ちょっとした移動には、
自転車を使うようにしました。

15分程度のことなら、
自転車で十分です。

きっと、車で行っても、
信号機に止められたりすれば、
7~10分はかかったりしますから。

自転車の方が、小回りがきいて、
かえって、動きやすい。

朝8:30頃だと、まだ暑くなくて、
自転車に乗りながら、
顔にあたる風の涼しささえ感じるくらいです。

もちろん、お昼頃になると、
そうはいきませんが...

夏休み、子供たちも、
暑い毎日を送っています。

うちの三女は、天気の落ち着いた今週から、
毎日のように、学校のプールへお出かけ。

お昼過ぎ、1:00頃には、
ワクワクしながら出かけます。

3:30頃まで楽しんでくる様子。

私が家に帰って、
話を聞いてみると、プールに
送迎してもらっている友だちもいるとか。

「わたしも、車で連れてって」

と甘える三女に、

「プールに自転車で行くから、
 たくましくなれるんだよ。」

と訳のわからないことを教えて、
諭しています。

実際、プールに自転車で行き始めてから、
肌も小麦色になって、体力もつき始めた気がします。

なんと言っても、
わが家は、学校から遠い方。

隣町の小学校の方が近いくらいのポジション。

暑さ真っ只中の中、
15~20分くらいの時間をかけて、
自転車で往復していたら、
たくましくなるはずです。

初日には、鼻血まで流した様子。

夏休みが終わる頃には、
さらにたくましくなるだろう三女を見るのが、
楽しみです。

わたしも、それに負けずに、
自転車を使う頻度をアップしようと、
決心したのでした。

2008年7月27日

学校からの呼び出し

昨晩は、知人に招かれて、
ディナー・バイキングに行ってきた。

14階の展望レストラン。

恋人同士のためには、
ガラス越しに夜景が見えるよう、
窓ガラスと向き合ったテーブルに、
椅子が並べられている席があった...

残念ながら、私らは、
そこへは案内されなかったが、
私たちの案内された席からも、
夜景は、十分に見ることができた。

数百ドルくらいの夜景ではあったろう。

目に見える風景画きれいだと、
料理の味わいも、よくなってくる。

そして、話にも花が咲く。

長い間、話しているうちに、
自分の子供らのことに、話は及んだ。
ちょうど10歳くらいずつ世代が違うもんだから、
子供たちにかかわる問題や悩みも、
少しずつズレてくる。

小学校に呼び出されたという知人、
わたしの娘らは中学生、
成人した子供が持ち込んでくる悩みの数々を
頭を抱えて語ってくる知人。

「Shuさん、学校になんか
 呼び出されたことないだろ?」

と言われて、
ちょっとドキっとした。

娘らのことではないが、
私のことで呼び出されたことはある。

そんなことを思い浮かべながら、
黙っていると、もう一人の知人が、

「Shuさんのところの娘さんたちなら、
 そんなことはないって。」

と代わりに返答していた。

そういうふうに見える娘らなんだろう。
それは、それで素直に嬉しいと思った。

ケンカ、テストの成績、警察沙汰、お金のこと、仕事のこと、
親である自分たちすら、自分の問題で大変だ、
というのに、子供たちは、次々と問題を持ち帰ってくる。

今は、大丈夫に見える娘らにも、
それに似た問題が起こるだろう。

ちょっと待って、今それどころでないから、
という時に限って、問題は押し寄せてくる。

心の準備をしておかなくちゃいけないな。

2008年7月26日

キャンプ帰り

子どもらの部活動や、
その他の夏の予定で、

なかなかちょうどよい日程が
見つからずに、今年のキャンプは、
どうしようか、やめようか、
と私は思っていたのだが、

妻の「絶対にやる!」という決心が
あったために、急遽、
昨日の午後からキャンプに出かけた。

場所は、いつものところ。

金曜日、土曜日の1泊のためか、
はたまた、曇り具合の天気のためか、
ほかのキャンプ客は、ほとんどなく、
露天風呂に入りに行けば、
ほぼ貸し切り状態という2日間だった。

私たちがキャンプ場から帰ろうとした頃から、
お客さんがたくさん来て、にぎわいだしてきた次第。

ともあれ、初めての
貸し切り状態キャンプに、
いろいろな経験をさせてもらった。

先日、地震があったばかりで、
行く途中の道で、なんか、
道路が崩れたような跡形がある。

おいおい、大丈夫かよ、
と思いながら、ハンドルを握っていたが、
妻の「行く」という決心を変えることはできなかった。

着いてすぐに入った露天風呂。
いつもであれば、お盆期間中であるため、
夏の暑さも厳しく、また、人も多いため、
風呂あがりの瞬間から、汗もダラダラ、
という具合だったが、今回は、サラリという感じ。

ちょっと曇りの天候というのは、
この時期には、かえって、
ありがたいもんだと感じた。

かと言って、夏っぽい暑さが、
まったくないわけでもないから、
なんか、得した気分である。

そして、当然のごとく、
喉の渇きもひどくないから、
ジュースや、アイスを恋しがる子供たちの姿も、
それほど見ることなく、財布にも優しかった。

問題は夜。
にぎやかすぎて、眠れないのも迷惑だが、
あまりにも人がいなくて、暗い感じっていうのは、
ちょっと怖い。

ナイトハイクに行けば、
人々の存在を感じさせる灯りの雰囲気もなく、
真っ暗...

桟橋を渡る時なんか、今思えば、
おそろしいことだったように思う。

虫でも、蛾でも飛びかかってきて、
驚いたついでに、桟橋から谷に落ちたら...

人々の存在は、光として感じられるが、
それがないから、まったく寂しいもんだった。

あと、人の声の内容が、
ハッキリと聞こえてしまうのも、
なんともイヤなもの。

わいわいガヤガヤのはずが、
子どもを怒っている声や、
連れてきてはいけないはずのペットを叱っている声、
はたまた、夜中に到着して、キャンプを組み立てる音、
露天風呂の入り口のドアが開閉する音。

何もかも、ハッキリ聞こえる。

人気が少ないだけに、
襲われそうな錯覚さえ...

と考えているうちに、眠りについていた。

さきほど帰ってきて、
今年のキャンプはおしまい。

断行した妻は、疲れ果てて、
今は眠っている。
散歩しながら、「年だ、年だ」と言っていた。

こうは言っていても、来年の夏がくれば、
「行かなきゃいけない」と誰よりも、
騒ぐんだろうなぁ...

2008年7月23日

決めること

自分のために決めることと、
他人のために決めること、
っていうのが世の中にはある。

自分のためだけなら迷わないが、
他人も関わってくると迷ってしまう人もいれば、

まったくの反対に、
自分のためなら迷うが、
他人のことだったら何の迷いもなく、
即断即決できる人もいる。

人によって、
「決める」ことへの重みは、
感じ方がそれぞれだ。

リーダーになると、
決めることが増えてくる。
そして、決めたことによる責任も、
少し重くなってくる。

その責任の重さが、
人を成長させもすれば、
人をダメにもする。

間違いのない決断をしようと考えれば、
なかなか決めることができずに、
迷ってしまう。

自分の好き勝手に決めてしまえば、
誰も従ってこない状態ができたりして、
何も進まなかったりもする。

重さとは、微妙な働きをするもんだ。

先日、娘らの大会を観戦している時に、
別チームの酒好きな知人が、真っ昼間から、
酒の匂いをぷんぷんさせて、
話しかけてきた。

「ああ、どうも。娘がね、
 今度キャプテンを引き受けることになって、
 どうしようなんて言ってたんだですよ。へっへっへ...」

なんか、安っぽいドラマを見ているようなセリフ。

ともあれ、かわいい娘が
大役を引き受けることなって、
喜んでいるお父さんになっていた。

酔っ払いながら口にすることは、
きっと、その人の本音からの自慢だ。

この知人は、試合の結果がどうのこうのよりも、
そういう責任の重さが嬉しかったのだろう。

決めることの重圧に耐えて、
子どもが成長する姿も頼もしいものだ。

2008年6月20日

スイッチ・オン

うちの妻に、
今朝からスイッチが
入っています。

明日から、
夏の総体。

心置きなく、娘らの応援に
身も心も捧げるために
今日のうちにできることは、
バンバンと片づけていくつもりのようです。

長女、次女ともに、
中学生になった今年の気合の入りようは、
これまでのどの大会よりも

スゴイ!!

という感じがしている私です。

ちょっと引いてしまうような空気も
漂っていますが、それだけ、
子供を思っている母親なのでしょう。

まだ、1年生と2年生の親です。
今年が最後になる3年生の親ではありません。

それなのに、こんなスイッチの入り具合。
来年、再来年の総体では、
どんなことになるのか、
想像するだけで、今から恐ろしいです。(笑)

でも、娘らは、
その母親の気持ちを感じてか、
身も心も、いい状態にもっていけるよう、
がんばっている感じです。

さあ、どうなるか。

妻は、今日のうちに、
ぐったりと疲れることでしょう。

興奮して、今晩眠れなくなるよりは、
その方が、いいでしょうね。

子供は、
悩みの種にもなれば、
喜びの種にもなる。

どう育てて、
どういう存在にしていくかは、
親の気持ち1つなのかもしれませんね。

全国の3年生も、その親も、
がんばれ!最後まで。

2008年6月 6日

ハマる性格

うちの妻は、
気がついたら、
やらなければいけない性格。

私は、やり始めたら、
究めるまで、とことん、
やってしまう性格。

だから、何でもないことでも、
妻が始めてしまったことは、
私がハマることになったりする。

応援うちわも、その一つ。
応援うちわ

間もなく始まる子供たちの総体のために、
作ろうという妻に対して、

「別に作らなくていいじゃん」

という態度で出ていた私が、
なんだかんだ言われて、
結局、説得されて、
ここ数日の空き時間に、
いっしょに作り始めることになる。

そして、作りはじめてしまうと、
今度は、私がハマってしまう。

こんなんじゃいけない。
こういうふうに作り直さないと。

それじゃあ、変だ。
色がおかしい!

とか。
私なりの意見を持ち始める私。

そして、そんなふうに、
私がハマり始めた頃には、妻が、

ちょっとクールダウンしていたりする。

おいおい、おまえが言いだしっぺで、
誘ったことだろう、と言ったところで、
もうどうしようもない。

勝手にハマっている私が悪い。

応援うちわは、家族5人分が完成。
本番までは、まだ2週間もあるのに、
わが家だけは、応援の準備まで
バッチリになっています。

2008年5月29日

基本が違う

誰かと話をしていて、
話すポイントが違うとか、

分かるところと分からないところが違うとか、
そういうことを感じた時には、

もしかしたら、基本と思っていることも
違うかも...って思えるようになった。

たとえば、算数という勉強があって、
なんとなく、足し算から分かっていくのが、

「基本」

だと思っているけれど、

どこでどう違うのか、それは分からないけど、
引き算から分かっていくほうが楽な人も
いるかもしれない。

まさかの、掛け算から分かることが楽だ、
っていう人も、いないとも限らない。

教える側は、
基本から順番に教えているつもりが、
かえって難しい順番に教えていることも
あるかもしれない。

誰かに何かを教えていて、
とてつもなくイライラする時には、
そんなことを感じるようになりました。

基本が違っているなら、
話は、全然、変わってくるんです。

価値観の多様化した時代とは言いますが、
基本まで変わってきている時代だとすれば、

私たちが信じていることの多くが、
思い込みかもしれない、という疑いも
必要になってくる。

基本っていうのは、
分かっていくことのスタートにあるものだから、
本当は、あんまり変わって欲しくないことだけど、

柔軟に、その基本も変わっている、
と考えるようになれば、

「基本」が分からない人にも、
何らかの可能性があるように思えてきます。

今までは、「基本」が分からなければ、
もうダメだ、この先の見込みもない、
と言われるのが常だったんでしょうけどね。

ちょっとズレた人を目の前にして、
うーん、この人の基本は何だ?

と問いかける。

まずは、わが家の三女から、
基本を問いかけているところです。(笑)

2008年5月14日

違うことをする

朝市は、
田舎の風景だと思う。

小学校では、
そんな風景に親しみ、
またそこで買い物をする、
という体験学習をさせてくれる。

昨日は、
うちの三女が、
そういう体験学習があった。

先生から指示された買い物は、
理科の時間に育てる「野菜の苗」。

グループごとに、
買う野菜が決まっていて、
三女は、前日から、

「わたしは、ブロッコリーを買うんだ」

といって、ワクワクしていた。

さて、朝市買い物の当日である昨日。
偶然にも、うちの義父も行っていたらしく、
三女と顔をあわせたらしい。

「何、買った?」

と尋ねたら、

「きゅうり」

という返事。

そんな話を自宅に帰ってきて、
妻(義父の娘)に教えたらしい。

妻は、

「え?きゅうり?」

と思ったらしい。

「そんなはずはないよ。
 ブロッコリーを買うように
 言われているんだから」

「きゅうりと、言ってたぞ。」

???

午後になって、
自宅に帰って来た三女。

妻が、先生からの連絡帳を見ると、
「一人だけ、きゅうりを買ってしまいました」
と書いてある。

あちゃー。

わたしも、その話を聞いて、

「なんで、きゅうりを買ったの?」

と尋ねたら、

「安いか、と思って」

という返事。

安いかどうかが、分かるわけがない。

今まで買ったことがないのだから。

先生は、しょうがないから、
そのきゅうりを植えようか、
という話になったようだが、
見てみると、茎が折れていた。

それについては、三女いわく。

「落とした」

どうにもならない。

先生に確認せずに、勝手なことをするわ、
買ったものを大切にせずに落としはするわで、
わたしにソックリです。

だからこそ、ちょっとイライラ。

「いいか、今度は、
 先生にちゃんと聞いてから、
 やりたいことをやるんだぞ。」

一人だけ、きゅうり。

将来は、かなり個性的な人間になるだろう、
という有望視がされます。

うーん、でも、自分のお小遣いを
無駄にしてしまったことは、
自覚して欲しいなぁ...

2008年5月 5日

伝えなきゃとは思いながら

隠すつもりはないけれど、
伝えなきゃいけないと思いつつ、

そのうまい方法が見つからずに、
ずるずるとタイミングを逃してしまう
ことってあるかもしれない。

大事でなきゃいいけれど、
うまい方法を探すというのは、
それだけ大事なことだったりするわけで、

隠し事をたくさん持っている人は、
ちょっと大変だろうなぁ。

子供も話すタイミングをねらっている時がある。
昨日は、うちの三女が、そんな様子だった。

どうやら、少し、気分が悪かったらしい。

しかし、そうでもない時でも、
甘えたようなことを言っていたりするので、

その気分が悪いことを信用してもらえない、
と考え、「眠い」と伝えてきた。

私たちは、その言葉どおりに、
ゴールデン・ウィークの疲れがもう出たのか、
(たいしたこともしていないが...)

と思い、横になりなさいと言ってやった。

三女は、その通りに横になり、
しばらくは寝ていたが、
やっぱり、落ち着かない様子。

ちょっと遊ぶような振りをしたり、
また、寝ようとしたり...

そんなことをくり返しているうちに、
三女にさわってみたら、
なんと熱がある。

先週末に風邪をひいていた長女から、
どうやら、うつされたらしい。

気分が悪い、
という大切なことが言えない状況を、
自分でつくってしまっていた三女。

伝えなきゃと思いながら、
信用されないのでは...とか、
ビックリされてしまうのでは...とか、
怒られるんじゃないか...とか、

考えれば考えるほど、
伝えるタイミングを逃してしまう。

いつも、正直に伝える、
という習慣を身につけていることが
どれだけ大切なことか、
っていうのを改めて感じた。

三女も、なんとなく感じたのかもしれない。

2008年4月26日

1つアップ

昨日は、娘らの卓球大会。

朝からずっとそれに参加していたもので、
その話題しか、ありません。

はは...

総当たりの団体戦。
万年ビリケツのチームでした。
いつも全敗で、7校中、7位という具合。

それが、去年の春に6位にアップ。

夏の総体には、6位のまま。

秋の新人戦には、なんとか5位。

1位が大好きな私にしてみれば、
まだまだ味気ない話ですが、
それでも、アップしたのは
子どもたちには嬉しい話だったらしく。

それなりに喜んでいました。

昨日の大会でも、
なんとなく、また5位かぁ、
みたいな空気でしたが、

最後の対戦校が、
秋の新人戦では3位だったのが、
どうやら、4位っぽい戦績になっているらしく、

レベルの高い話ではありませんが、
4位、5位の決定戦みたいな戦いに
なりました。

ただ、この1つの違いが大きかったりするわけで、
4位であれば、ちょっと上位の大会に進めます。

5位であれば、何のご褒美もなし。

いちおうエースの我が長女と、
ナンバー2の先輩が2勝して、
相手校にも2勝をとられ、

2-2の同点で迎えた、
最後の対戦。

こちらは、ラッキーガールと呼ばれる先輩。
見た目それほど強そうには見えませんが、
やりにくいと言われているその人。

昨日の対戦相手も、やりにくそうでした。

かなりの接戦、
これまでは大人しかったお母さんたちも、
今回ばかりは、もしかして...
という期待も湧いてきたのでしょう。

どこの学校よりも元気な応援をしていました。

結果、勝てたのです。
やはり、ラッキーガール。

4位になって、
泣いている親の姿というものを
初めて見ました。

私も、ちょい感動...

5位から4位。
それでも感動できる。

感動って、どこにでもあるもんですね。
感動できる心を持ち続けていることが
大切かもしれません。

2008年4月25日

時代遅れ

時代遅れ、

という言葉は、
だいたいにおいて、
マイナスな意味合いで
使われることが多いよな。

もうこんなに進んでいるのに、
まだ、そんなところにいるの?
まだ、そんなことしているの?
まだ、そんなものを大切にしているの?
みたいな感じ。

ちょっと、バカにしている感じも
含まれているかもね。

いやいや、かもどころじゃない、
わたしの場合なんか、
もろ、そんな意味合いで言ってきた、
ように思うよ。

ちょっと反省しなくちゃいけないかもな。

だって、時代も、
その時にあったものも、
遅れているわけでも、
早まっているわけでもなくて、

その過去にあったものを使うことが
面倒くさくなったとか、
飽きてきたとか、それだけの理由でしょ。

もちろん、
こんな高機能なパソコンを使い始めたら、
もう、ワープロなんかには戻りたくない。

それに、進んでいるものを使えば、
ちょっとだけ優越感を感じるのは事実だ。

だから、それから外れるものを、
時代遅れ、って言っている時が多い、
と思うんだよね。

ただ、自分のことを、
「時代遅れ」の人間だ、
って言える人は、
ちょっとカッコイイかもしれないって、
私は思う。

なんかの演歌の歌詞にあったような...

この時代に、
チョンマゲをつけて、
脇には刀を差して、
見るからに時代遅れの人間が、
さっそうとパソコンを使いこなすような姿を
見せたなら、やっぱり、カッコイイよ。

違うかな?

これは、わたしだけの感覚?

もともと、時代なんぞ関係なくて、
ただ単に、人間が飽きただけの話なんだよね。

後になってみれば、
昔の方が新鮮に感じて、
逆戻りしていることなんて
けっこうあるわけで。

当時は、チョンマゲなんかには、
みんなが飽きていた。

で、ロングヘアー。

けど、周りがロングヘアーばかりになると、
今度は、坊主頭が魅力的だったりする。

EXILEのATUSHIなんか、
完璧な坊主頭。

あれで、演歌なんか歌ったら、
それっぽすぎるけど、
歌う歌が変われば、
あの坊主頭も、時代遅れじゃなくなる。

今度は、逆に、
黒人のジェロが演歌を歌えば、
また、カッコイイ。

演歌も、時代遅れじゃなくなる。

思い出した言葉があったよ。

「新しいアイデアというのは、
 新しい場所に置かれた
 古いアイデアなんだ。」
(仕事は楽しいかね?、デイル・ドーテン)

時代遅れが、時代遅れじゃなくなるのって、
まさに、こんな感じかもね。

2008年4月 7日

心の育つようなプレゼント

知人から、
この言葉を聞いたときに、
すーっと胸に入ってきました。

心の育つようなプレゼント。
子供たちのために。

今の子供は、
いろんな人から
「もらうことに慣れている」
ような場合が多いかもしれません。

何の記事か忘れましたが、
それは、少子化の影響で、

親も、おじいちゃん、おばあちゃんも、
加えて、未婚のおじさんやおばさんとか、
たくさんの人が、一人っ子や、
少ない子供のために、
いろんなプレゼントをくれる状況だそうです。

要は、プレゼントが1点集中しているので、
たくさんもらえる。だから、慣れている、
とのことでした。

なるほど、なるほど。

そんな子供に、

「まだもらっていないものは何?」

「次に欲しいものは何?」

「もっと欲しいものは何?」

なんてリクエストをするのは、
もしかしたら、賢いことじゃないかもしれない。

それは、きっと、
子供目線で考えたプレゼント。

じゃあ、勉強や将来のために、
本が読めるよう、図書カードをプレゼントする、
なんていうのは、
大人目線で考えたプレゼントかもしれない。

本好きな子供、
図書カードで他のものも買わせてくれるお店を
知っている子供にとってはいいだろうけど、
そうじゃない子供にとっては、
逆に、「夢のないプレゼント」になっちゃうかな。

となれば、出来れば、
そのちょうど中間がいいのかなぁ。

わたしも、自分の娘への
プレゼント、考えさせられました。

心の育つプレゼント。

いやいや、娘ばかりでなく、
自分へのプレゼントを考える時にも、
「心の育つような」を大切にした方がいいように思います。

自分へのご褒美は、
そんなものがいい。

何かゆったりとした時間を与える時にも、
自然と育つようにしてくれるものがいいですね。

今日から、うちの娘らは、
新学期です。

これからの1年間、
どんなふうに、心を育てようかな。

2008年3月23日

どれくらい?

どれくらい面白いの?

どれくらい悲しいの?

どれくらい苦しいの?

聞かれても、答えるのが難しい質問だ。

どれくらい大きいの?

だったら答えられる。

比較するものが、
ほとんどの人にとって明確だからね。

消しゴムより大きい。

車より小さい。

あなたより大きい。

などなど…

けれど、感じるものについては、
どう答えるのか。

気心知れていれば、
相手の喜びようとか、
顔の表情とか、

すっげぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~。

とかの言葉表現でも伝わるでしょう。

けど、そういうことじゃ伝わらないし、
そんな方法で伝えてくれない人もいる。

そんな人に、
「どれくらい?」
って尋ねる人の方が悪い。

相手を見て、尋ねなくちゃいけない。

感じた気持ちを出来る限り、
ちゃんと伝えてあげたいとは思っても、
子供から頻繁に、

「どれくらい?」

と尋ねられると、ちょっとイラっとする。

これって、きっと、
相手の感じたことを聞きたい気持ちもあるけど、

それを聞いた答えから、
何かしら自分も喜べるような期待も
あるのでしょう。

もしかしたら、後者の期待の方が
大きいかもしれない。

だから、好奇心旺盛な顔をして、

「どれくらい?」

って聞いてくる。

アニメの「あたしんち」じゃないけど、
手を広げて、

「これくらい」

ってふざけて答えるしかないね。

すぐにでも答えが欲しいようだから…

「それじゃあ分からない」

って言うけど、私には、

「あなたの質問のほうが分からない」

っていう時があります。

2008年3月21日

レベルは変わる

他の都道府県、エリアでも、
そういうことが当たり前かは
分からないが、

私たちが高校入試の頃に
レベルがまあまあと言われていた高校が、
今では、高いという事実を知らされた。

反対に、レベルが高いと言われていたところが、
今ではそうでもないということも。

そういえば、
昔には、さらに逆転があったというから、
今になって、また、その昔に戻った、
ということなのだろう。

時代が変われば、
いろいろと変わるもんだ。

きっと、男女共学になったり、
男子校になったり、女子高になったり、
中高一貫校になったりと、
学校の経営スタイルが変わることによって、

入りたいと思う子ども、その親の気持ちも、
変わったりして、そこに集まる人々も
変化していくのだろう。

いいことのように思われる。

反対に、昔から今まで、
高いレベルのままの評価を変えないでいる学校も、
すごいことだと思う。

世の中は、少子化。

少なくなった子供たちの中から、
才能のある子供たちを、
少しでも多く集めようとすれば、
いろんな工夫をするようになるだろう。

そういう新しい工夫は、
魅力的に見えて、
なんとなく行ってみたい気持ちを
育むようになる。

新しいことに不安を感じる人もいるだろうけど、
考えてみれば、古いことにも不安はあるのだ。

学校の経営に限ったことではない。

このままでいい、
とあぐらをかいているうちに、

どんどん変わっていこうという人たちが、
変化を起こしているのに気づかなかったりする。

おいおい、聞いてないよ。

と不満をもらしたところで、
知ろうとしなかった自分が悪いのだ。

有名な音楽プロデューサーが言う。

「聞いてないよ~!」でなく
「それ教えて下さい」という前向きな心。
(つんく)

まさしく、その通りだと思う。

変わっていることに気づかなかったら、
うっかりして見落としていたら、
置き去りにされたような気持ちを感じたら、

言うべきコトバは、
「聞いてないよ~!」
「知らなかった!」
「俺を何様と思っているんだ!」
じゃない。

「教えて下さい」だよ。

2008年3月14日

おいしい給食

今日は、給食費を払わない校長先生の
ニュースが報道されている。(東京都新宿区)
「校長の給食は検食だから不要だ」という認識が、
積もり積もって、未納分は17万円。

給食の話題は、まだまだありそうだ。

全国のどこかには、

「給食費はちゃんと払っているから、
 うちの子どもに『いただきます』
 と言わせないでください。」

という親もいるらしい。

なるほど、そういう理論かぁ、
と感心してしまう。

そのご家庭では、
稼ぐ父親(または母親)に対して、
「いただきます」と言いなさい、という教育なのだろう。

じゃあ、料理してくれる母親には、
「いただきます」と言わないのか?

もしかしたら、料理しない親だから、
そういう発想なのかな?
(あくまで、想像だ…)

お弁当屋さんで、お弁当を買った時に、
その店員さんに「いただきます」っては言わない、
それと同じ発想で、給食を考えているのかも。

しかし、給食のことを考えれば、
「いただきます」っていう言葉は、
料理をしてくれた人に向かって言うわけでもなさそう。

ちなみに、給食費は安い。
うちの子供らについて言えば、
一食240円くらいの話。

すき家の「豚丼」ミニサイズのみ、
とほぼ同額。

それで、栄養のバランスもよければ、
量もそれなりにある。
私たちが食べていた頃の給食とは違って、
メニューもいろいろ…

クリスマスが近くなったり、
イベントがある時には、
「お楽しみ献立の日」とか言って、
小さいケーキなんかも持ち帰ってきた。

240円でそんなことが出来るのは、
大人数向けの食材調達、調理だからでしょう。
(それに、行政からの補助金もある)

わが家で弁当を作ったら、そうはいかない。

そう考えれば、安い値段で
いろいろと食べさせてもらって、
「いただきます」って言ってもいい気がするけど、

別に安くしてもらわなくてもいい、
という人達にとっては、そうでもなくなるか…。

それに、給食というものが、
学校という空間が崩壊しないためにも
必要なものかもしれないしね。

となると、別の立場から考えなくちゃいけない。
料理をする人への感謝でも、
安く食べさせてもらっていることへの感謝でもなく、
別のことで。

ちなみに、
よく言われている「食育」という立場からいうと、
「いただきます」というのは、
「これから食べましょう」の意味でなく、

食べ物に宿っている「生命をいただく」
という意味だそうです。

なるほど、そうなると、
すべての人に共通する
「生かされている」という視点から、
「いただきます」って言えますね。

うちの次女は、今日が小学校最後の授業。
小学校で食べる給食も、今日が最後。
給食を、おいしく食べられることでしょう…

食べること、大好きですから。

2008年3月 1日

勉強DM

飽きもせずに、
何度も何度もダイレクトメールが
わが家に来ている。

去年の末には、
「クリスマスまでの最終〆切」

今年の初めには、
「新年の特別申込期間」

そして、3月になった今は、
「新学年準備期間、〆切まであと1ヶ月」

〆切ったはずなのに、
次々と、新しい〆切が出来ている。

それをもらう長女も、
もう分かりきっている。

「また、来るよ。」

きっと、その通りだろう。

最近、期末テストが終わったばかり。
テストが返ってきて、
合計点も分かってきた。

点数的には、
これまでとそれほど変わらないが、
問題があるらしい。
他の人たちの点数が、上昇しているのだ。

いつも競っている友達とは、
(これまで2度しか勝ったことがない)
20点くらいの差がある様子。

これまで負けたことのない友達とは、
接戦になってしまった感じ…

けっこう、落ち込んでいる。

親の私も、
ほかの人達もがんばってきたなぁ、
と驚いている。

と同時に、長女の勉強について
やっぱり、要領が良くないのでは…
と改めて感じ始めてきた。

おそらく、私に似たのだろう。

1.勉強ノートを、きれいに書くことに集中している。

2.それほど大切でないことでも、100%分からないと、
  次に進めない。

こういうことにこだわっているかぎり、
要領が悪いに決まっている。

それでも、忙しくなくて、
時間がたくさんある時には、
大丈夫だった。

しかし、今は、
部活動に、冬の雪道登校に、
時間が少なくなっているのが事実。

このままじゃいけない、
っていう意識が、ちょっとは
目覚めてきたようだ。

しかし、本人の性格からして、
「安心」が出来なければ、
勇気をもって取り組めない人間でもある。

つまり、何事も心配したがる人間。

だから、下手すると、
睡眠時間を減らしたり、
勉強時間を延ばしたりして、
無理にでも、安心を得ようとするかもしれない。

それで、体を壊さないならいいけれど…

どうなるかな。

野口悠紀雄の「超」勉強法の基本三原則

1.面白いことを勉強する
2.全体から理解する(重要な点を把握する)
3.8割原則(基礎を8割理解したら応用に進む)

こういうことが必要な時期なのかもしれない。

これは、大人の勉強にも言えることだな。
私も、勉強を忘れないようにしよう。

2008年2月14日

バレンタインの許可

今どきの生徒会は、
こんなことを交渉するのか…

長女の中学校では、
生徒会がねばってねばって、
先生たちと交渉をした結果、
昨日、バレンタインデーの許可が出たらしく、
1枚の文書を持ち帰ってきた。

そこに書いている文章が、
なかなか面白い。

要点は、こんな感じ。

1.学校内、下校中に、食べない。

2.チョコ渡しのために、部活に遅れない。

3.先生方の前で堂々と渡さない。

バレンタインを堂々と許可する先生方も、
なかなか、心の広い配慮をしたものだ、
と感心しました。

禁止されるものと予想して、
バレンタイン当日に「友チョコ」の交換をしたら、
目立ってしまって怒られるだろう、と考え、
1週間前に、あげたりした女の子もいる様子。

ちなみに、うちの娘も、その一人。

ところが、どっこい。

先生方から「公式な許可」が出たもんだから、
今日は、学校で盛り上がっていることでしょうね。

盛り上がりすぎて、
ハメをはずす生徒も出てくることでしょう。
そして、やっぱり、怒られる…かな。

今日のバレンタイン・イベントが、
無事に終わるよう、祈るばかりです。

昨晩、うちのチビ三女も、
お姉ちゃんたちの真似をして、
登下校がいつも一緒の男の子に、
チョコをあげたいと言いました。

「いいよ。」と返事。

喜んで、準備をしている。

「どんなふうに言って、
 あげるの?」

「プレゼントです。」

「それもいいけど、
 いつも、一緒に帰ってくれて、
 ありがとうって言ったら?」

「うん。」

「それとも、好きです、
 って言う?」

「ううん(首を振っている)」

どうやら、ただ、
チョコをあげるイベントを
やりたいだけの小1のようです。

小1の男の子だと、
学校で渡されてから食べる可能性があるので、
今朝、登校の際に、通り道にあるその子のうちに、
次女といっしょに、寄って行くように指示した次第。

喜んでくれたかな?

私は、昨日のうち、
妻からもらいました。

好きなチョコを30個楽しめる予定です。
子供らにもあげたりして、
すでに20個しかありませんが…

2008年1月27日

迷子じゃない迷子

昨日は、隣県の岩手で、
北日本卓球大会というものがあり、
娘ら3人と、朝7:00からドライブ。

天気の違い、
というものを、
まざまざと感じるドライブでした。

1時間ほどの道のりでしたが、
その間に、あっという間に
風景が変わった感じ…

県境の山を越えると、
急速に、雪が少なくなる風景に。

川端康成の小説「雪国」にある
「国境の長いトンネルを越えるとそこは雪国だった」
の逆パターンです。

小説の言葉を読むと、
いっきに、雪国になったような感じですが、
実際は、そんなことはないだろうと思います。

急速に、雪が少なくなる…
それが実際のところ。

それでも、十分、
驚きます。

こんだけ、天候が違うんだなぁ、
日本海側と太平洋側では、
と思えるんですから。

肝心の大会結果はいうと、
長女は、中1・中2の部で3回戦止まり、
次女が、小5・小6の部でシード選手を破ってベスト8、
三女は、迷子…

すべての試合が終わって、
観客席に戻ると、
三女が消えていました。

また、誰かと仲良くなって、
どこに遊びに行ったんだろう、
と思ったのですが、

すでに夕方の6:00近い時刻でしたから、
早く見つけ出す必要がありました。

ひろーい、ひろーい体育館。
まだたくさんの人が残っています。

見つけ出すのは、ほぼ不可能に思えましたが、
早く帰りたいがために、一生懸命探しました。

一生懸命に探せば探すほど、
見つからない。

ちょっと焦り出します。

まさか、どこかに挟まったり、
誘拐されたり、事件に巻き込まれたりしていないか、
こんな私でも、ありえない心配を始めます。

30分くらい経っているような気がする。
けど、5分、10分しか経っていない。
ただ見つからない。

うーん、早く帰りたいよー。

と思いながら、歩いていると、
知人の高校生に声をかけられて、
足を止めて、試合の結果などを聞いたりしてみた。

じゃあ、って言うことで、
歩き始めた瞬間に、
見覚えのある顔。

あ、この子は、
さっき、うちの三女と遊んでいた子だ。

と視線をずらすと、
その近くの中学生と遊んでいる「迷子」を発見。
笑い転げている…小1。

よかったー!

こいつー、心配かけやがって。

帰りのドライブは、
途中から雪国に変わって、
急に寒さを感じる気分でした。

2008年1月23日

男と女の守り方

もちろん、
性格というものもあるだろうけれど、
男が何かを守ろうとするとき、
女が何かを守ろうとするとき、

きっと、その守り方は、
どこかしら違うように思う。

たとえば、
自分の子供を守るときに、

女性である母親は、
子供が感じていること、感情、心を
守ろうとする傾向があるんじゃないだろうか。

男性である父親は、
心を強くさせて、
子ども自身の身を自分で守れるようにすることで、
守ろうとする傾向があるんじゃないだろうか。

守りたい気持ちは同じだけれど、
そもすると、違うものを守ろうとしているように見える。
…かもしれない。

そういうことの積み重ねが、
夫婦の教育方針の違いみたいな感じで、
浮き上がってくるかもしれないですね。

それが、
会社での自分の守り方は、
どういうふうになるんだろう?

女性は、
仕事や人間関係に対する「自分の感情」を
守ろうとする傾向があるのかな。

男性は、
仕事や人間関係における「自分の強さ」を
守ろうとする傾向があるのかな。

思いへの理解、
強さへの願望、
どちらが正しくどちらが誤り、
ということはなく、

それがうまくかみ合って、
いっしょに何かを育てたり、
成長していくときに、
男女ともに喜ぶことができる。

それが「違い」ばかり気になったり、
まったく正反対の方向へ
引っ張っていこうと戦う時には、
空中分解する。

守りたい気持ちは同じなのに、
残念なこと。

感情と強さ、
女と男…

うまくいく人間関係でありたいものです。

2008年1月20日

タダより怖いもの

やっぱり、
タダより怖いものはない。

…かもしれない。

うちは、3人娘だから、
1,2,3と自動的にお下がりがあって、
かなり経済的に助かっているだろう。

ぜんぶ娘っていうのは、
ちょっとつまらないけれど、
そういう経済的な意味では、
けっこう便利だと思っている。

そこに、3人娘、
という間違いない事実があるから、
女の子を育てた知人などから、
「もう着ないから」という理由で、
お下がりをもらう。

先日も、
「もう遊ばないオモチャとかがあるから」
ということで、三女のために、
お下がりをもらうことになった。

もらいに行ってみると…

帰ろうとする間際に、

「Shuさん、もう1つ仕事をやってみる気ないですか?」

というお誘い。

お!これは…

と思って話を聞いてみると、
案の定、ネットワークビジネスのお誘い。

お~~~~~!
そういう手があったのか。

タダでもらっている恩義があるから、
とは言っても、
ちょっとした手土産くらいは持って行くが、
それでも、気が重くなる。

話をちょっと聞きかけて、

「わたし、あんまり人間関係がないから」

と返事した。

えっ?

と言われる。

とっさに出た言い訳だったが、
かなりの効果があったようだ。

そうか、考えてみれば、
ネットワークビジネスは、
人間関係がなければ、
どうにもならない。
商品でもサービスでも
広げようがない、広がりようがない。

その知人も、それ以上話を広げることが出来ず、
間もなく終わった。

これは、いい返事を見つけた。

また、別の誰かから誘われたら、
そういう返事でいこう。

しかし、タダより安いもの、
タダより怖いものはない。

2008年1月17日

スキー教室の先生です

今日は、スキー教室の先生をやります。

小6の次女のクラスにおいて、
インストラクターは親が名乗りでるのですが、
名乗り出てくれた人が少なくて、
わたしに声がかかりました。

冬休みに、1度滑っただけです。

ちょっと心配です。

受け持つグループが、
第5グループということで、
中間レベルの子供らのようですから、
わたしでも大丈夫ということでしょう。

奥さんに、のり弁当をつくってもらって、
子供らのバスを追いかけて
運転していきます。

のり弁当が好きなんです。

学生として寮生活を送っていた頃に、
初めて「のり弁当」というものに出会ってから、
かなり気に入りました。

当時は、220円くらいだったんじゃないかな。

わたしは、好き嫌いが激しかったけれど、
寮のご飯を食べるだけで間に合わせようと
がんばったんです。

けれど、そんなことをがんばらないで、
嫌いなものは食べないという先輩たちは、
よく、ほか弁を食べていましたね。

1年生になったばかりの私は、
やっぱり「使いッ走り」ですが、
ただでやらされることはめったになく、
だいたいは、自分の分をおごってもらえました。

そこで初めて出会ったのが「のり弁当」。
先輩の注文と同じものを食べてみて、
感動したわけです。

考えてみれば、
それまでに、スーパーのお弁当とかを
食わされた経験はなかったですね。

ものすごくうまいレベルの料理人ではない母親が
つくったものと、給食しか、
食べたことがなかったのかなぁ…

いや、そんなことはないか。
外食の経験もあるか。

それでも、弁当屋さんの弁当は、
それが初体験だったろうな。

そういう思い出のある「のり弁」を携えての
今日のスキー。

吹雪かれるのが、一番イヤです。
前が見えないと、立ち尽くしてしまいます。

立ち尽くしてしまうと、
もう寒くて、寒くて、
滑る気が失せてしまう。

小6で最後のスキー。
いい思い出の役に立てるかな?

そう言えば、一昨年だったかな。
リフトに乗っている途中で、
ストックを落とした子供がいて、
それが、ちょうど、山の中の斜面で、
リフトを降りてから、雪をこいで、
拾いに行ったことがあったなぁ。

あれは、疲れましたよ。

今年は、そんなことがないように…

2008年1月 3日

今日は初すべりかな

おおみそか、元日、2日と、
けっこうな大雪となり、
今朝、やっとこさ、
落ちついた雪の降り方に
なっている感じの秋田です。

この3日間、
雪よせをしている間、
三女は、スキーを履いて、
私の周りをウロチョロ、
初すべりしていました。

今でも小さい方ですが、
なんとか履いても様になるくらい、
背も伸びました。

小学1年生になったことだし、
学校でもスキー授業が少しあるようなので、
「スキーやりたい、やりたい」
というリクエストが、
今年から叶ったわけです。

スキーを履いて、
ストックを突いて
平らな道を滑るだけでも、
いい練習になったことでしょう。

今日は、スキー場に連れて行こうと
思っています。

本当の初すべり、です。

まだまだ、リフトには乗れないでしょうけど、
小さい山を登ってはすべり、登ってはすべりを
何度もくり返して、うまくなれたらいいなぁ。

今のスキーは性能がいいから、
少しくらい濡れても、
雪がベタっと付くことはないのが
助かります。

私が子供の頃に、
スキーがお下がりだった時期があって、
正真正銘の「木製スキー」で滑っていた記憶があります。

本当に、坂にならないと、
滑らないスキーです。

今思い出すと、笑っちゃいます。

まったく進まないスキー。
滑ろうとする前に、
まず、スキー板の裏側についた雪を、
掃き落とさなくちゃいけない。
(たしか、雪ぼっこ、って呼んでいた。)

そして、すべる。

けれど、滑っているうちに、
また、雪ぼっこが付着する。

さらに、もう1回、山を登っていくうちに、
スキーの裏には、こんもりと雪がついている。

滑っている時間よりも、
その雪を掃き落とす時間の方が多いと思えるくらい、
無駄な時間が多かったように思います。

当時は、無駄な時間と思っていたかな?

よく覚えていないけれど、
無駄な時間にこそ意味があったかもなぁ、
って思います。

今日、子供らを連れて行くスキー場には、
リフトがあるし、スキーに雪ぼっこが付着することもない。

無駄な時間は、あまりない。
無駄な労力も少ないから、
スキーを滑っているだけだど、
汗もかかない。

けれど、三女は、リフトを使わないから、
私もいっしょになって、
ちょっと汗ばむかな。

けっこう、楽しみです。
いい天気でありますように…

2007年12月23日

ケンカは成立しない

ケンカっていうものは、
力の関係が拮抗しないと、
成立しないものだと思っている。

代表的なものでいえば、
兄弟ゲンカ。
仮に、力の差が大きいとしても、
お互いの気持ちの差が小さければ、
つまり拮抗していれば、成り立つ。

力の弱い方が本気で怒った時に、
力の強い相手がその怒りやら、挑発やらに、
煽り立てられて、本気になったら、
ケンカと言ってもいい。

しかし、力の弱い方が、
相手の強さに歯向かう気持ちもなく、
強い方も、それを知っていて、
自分に余裕を感じていれば、
ケンカは成立しない。

力も、気持ちも、
拮抗していないから、
ケンカになるわけがない。

親子の関係は、
ふつう、そういうものじゃないかな、
と思っていた。
特に、子供が10代前半までの頃とかは…

たしかに、10代のうちに、
親より大きくなる子供はいる。
そうだとしても、気持ちの上では、
親の方が強いはずだから、
ケンカは成立しないだろう…。

いくら、子供が反抗期になっても、
そんなことはないんじゃないかな?
とか思っていた。

どうやら、それは、
私だけの勘違いらしく、
10代のうちから、
「親子ゲンカ」が充分に成立する親子が
少なくないらしい。

じゃあ、それって、母子ゲンカじゃないの、
とどこまでも、父子にはありえない、
と思っていたけれど、父子でもありえるようだ。

先日、とある病院にいたら、
その現場を1つ見て、思った。

なんだ、夫婦ゲンカじゃないか、と。

中学生くらいの子供が父親を見下して、
何か不平、不満を言っている。
それに、父親が反論している。
母親は、その仲をとりもつどころか、
いっしょになって父親を見下している感じ。

たしかに、甲斐性のない父親だったのかもしれない。

しかし、父親の言っていることは、正論っぽい。
子供の言っていることは、なんとなく、
母親が父親に常々言っていることを
代弁しているに過ぎないような…

父子ゲンカに見えながら、
夫婦ゲンカをいつも見ている娘が、
母親の勢いに乗じて、代わりに、
夫婦ゲンカをしている光景に見えた。

だから、父子ゲンカが成立する場合もあるのだ。

どうなんだろう…?

そんなケンカが成立する家庭は、
うまくいくのかな。

その子供が自分の家庭をもつ時がきたら、
ちゃんと、夫婦関係、親子関係を
作られるのかな。

そんなことを思った光景だった。

2007年12月21日

集中せざるを得ない環境

中学生の頃だと思うが、
後ろの席を振り向いていたら、
突然、頭を叩かれて、
ビックリ+痛い思いをしたことがある。

たしか、数学の先生だったなぁ…

授業中にも、
落ち着きなくキョロキョロしている自分だった、
と記憶している。

周囲から見れば、
落ち着きがなく思えただろうけど、
私は、自分が関心をもった方向に
ある意味、集中していたんだけどね。

それが、後ろの席の女の子だったか、
男子生徒に話をしていたせいだったかは、
よく覚えていない。

その性癖を、そのまんまそっくり、
うちの次女が引き継いでいるらしく、
やっぱり、落ち着きがない。

私とは違って、よく気づいて、
チョコチョコ動くところはいいけれど、
なんせ、落ち着きがなく、
集中力に欠ける。

以前は、皿洗いをさせれば、
必ずといっていいほど、
皿を割っていた。

そんな次女と付き合うのも、
間もなく、誕生日の1月2日を迎えると、
丸12年間になる。

親として、いくらか、
集中力を高めさせる方法が
分かってきたような気がする。

ある意味、私自身が、
どうしたら集中力が高くなるか、
ということと共通するからね。

当たり前だけれど、それは、
「集中せざるを得ない環境」
をつくることだった。

たとえば、
卓球の練習に付き合う時には、
どんどん、球を打ち出して、
休んだり、余計なことを考えさせる隙を
与えないという感じ。

もちろん、休むべき時には休む。
けれど、いったん、練習が始まったら、
どんどん、球を打ち出していく。

ちょっと付いてこれない様子に見えても、
どんどん、打ち出していく。

以前は、付いてこれないと、
「こら、集中しろ!」なんて言っていた。

けれど、それもやめることにした。

そういうふうに声をかけたり、
怒ったりすると、そこで、
集中力がキレてしまう。

そんなことに集中力が奪われるよりも、
どんどん、球を打ち出しているうちに、
それに対応せざるを得ないから、
集中せざるを得なくなる。

もう1ついいところは、
私と違って、素直だから、
自然と、一生懸命に対応しようとする。

今のところ、そんな感じで集中させるのがいいようだ。
口で言っても、分からない人間とも言えるかな?

それはそれでいい。

集中さえ出来れば、
自分をコントロールする能力も
高くなるだろうから…

さて、私も集中しないと。

2007年12月 6日

買い与えること

1度買い与えるだけで、
その後ずっと騒ぐことがなければ、
買い与えることは、
とても「楽」なことである。

しかし、
1度買い与えたばかりに、
間もなく飽きられて、
それからは事あるごとに、
せがまれるのは、
とても「面倒」なこと。

与えられている方は、
自動販売機くらいにしか
思っていないかもしれない。

それも、
お金を払わなくても、
「これが欲しい」と言うだけで、
出してくれる販売機だ。

たしか、
今置かれている自動販売機の中には、
災害時には、お金を入れなくても、
ジュースを出してくれるタイプも
あると言っていたな…

そういう緊急事態の時に、
与えられたものと、
そうでもない時に、
与えられたものでは、
ありがたみも変わってくる。

だから、
なんでもない普通の時には、
どちらかと言えば、
与えられたものよりも、
勝ち取ったものの方を、
人は、大切にしようとする。

ちょっとでも苦しい道を通ってから
手を伸ばしてつかめたものには、
思い入れが生まれるからね。

子供に何かを与えるっていうのは、
とても難しいなぁ、と思うときがある。

何も与えないと、
みじめに感じて、
いろんなことへの「やる気」が
生まれてこない場合もある。

もちろん、ないことによって
ハングリー精神が生まれて
がんばれるタイプもいる。

みじめな気持ちを感じさせないように、
何の努力もさせずに、与えてしまうと、
努力する意味合いを見出せない人間になる。

だだをこねる、乱暴をする、機嫌を悪くする、
そんな努力?、知恵ばかりが身につけば、
ますます、与えられていることを、
勝ち取ったかのように勘違いするかもしれない。

うーん、そんな子供を見かけるなぁ…

そうならない子育てを、
しっかりやらなきゃいけないなぁ。

2007年11月28日

テスト勉強はイベント

今朝、起こしたはずの長女が、
起きてこない。

それもそのはず、
人一倍睡眠時間の必要なタイプのヤツが、
11:00まで、テスト勉強をしていたからね。

それくらいの時間帯まで
勉強するなんて当たり前、
という人も少なくないだろうけど、
長女にしてみれば、たいへんなこと。

1度目に起こしてから15分後の6:30、
もう起きなきゃいけないからということで、
気合で起こした。

起きて居間のコタツに入る。
朝食を食べるまで少しの時間、
こたつの中で、また眠っている。

それを見た妻、兼母親。
「お父さん、今日は、
 早く寝かせてね。」

「なんで、俺のせいなんだ?
 自分で勉強したいって言うから、
 勉強させていただけだよ。」

「この子は、早く寝なきゃいけない人だから、
 こんな状態で、テスト中に眠くなったら、
 意味ないでしょ!」

「大丈夫だって。あと、
 今日と明日だけの話なんだから…」

そこに、目をつむったままの長女。
「そうだよ。自分で起きていたんだから。」

私は、テスト勉強っていうのは、
イベントだと思っている。

もちろん、テスト勉強期間だけで、
良い点数が稼げるわけじゃないから、
日々の勉強が重要なんだけどね。

そのイベントに、
がむしゃらに頑張らなきゃ、
つまらない。

私は、自分もテスト勉強は、
けっこう頑張ったタイプだから、
頑張らせたい親。

妻に尋ねた。

「おまえ、今までで一番、
 テスト勉強とかを頑張った時期はいつ?」

「ない。」

「おいおい」

「友達と、今日はテスト勉強がんばろうねって、
 いっしょに夜食を作ってから、私は寝てたよ。
 友達は、勉強してたけどね…」

はははは…

そんなんだったら、
テスト勉強のイベントが
分かるわけがない。

「頼むから、勉強する気になっている子供の
 邪魔はするなよ。これはイベントなんだから。」

釘を刺しておいた。

2007年11月23日

もぐる練習

お風呂上がりの長女(中1)が、

「もぐって目を開けたら、
 痛くない?」

と尋ねてきた。

は?

「もしかして、おまえ、
 風呂の中にもぐって
 目を開けたのか?」

「うん」

なんでまた、そんなバカなことを…

「おまえ、お風呂の中は、
 そんなにきれいじゃないんだよ。

「え? プールの水より、
 きれいでしょ。」

「なに? プールの水の方が
 きれいに決まっているじゃないか。」

「どうして?」

「塩素とかの薬を入れているんだから…」

「げ…」

「おまえ、ホント、常識ないなぁ。
 バッカだよ。目がかゆくなってないか?」

「大丈夫」

「いちおう、洗ってこい。」

「うん」

常識のない長女だとは思っていたけれど、
そんなことをするまでとは…

考えてみれば、
常識のない親から生まれているだけに、
しょうがないかと納得することも。

なんで、風呂の中で、
目を開ける練習をしたかを聞いてみれば、
プールの中でさえ目を開けたことがなく、

テレビかどこからか、
プールの中では目を開けるものだと
初めて知ったらしいのだ。

それで、練習をしてみようと。

そもそも、今の子供たちは、
水中ゴーグルをして泳ぐのが当たり前だから、

私たちが子供の頃とは違って、
裸眼で目を開けて泳ぐなんてことは、
最初から経験したことがない。

「目が痛くない?」

けっこう熱いお風呂だったから、
痛かったとすれば、その温度?
それとも、お風呂の汚れ?

今となっては不明だが、
何をしでかすか分からない長女。

その後しばらく、
目が病気になるんじゃないか、
と心配をしていた。

そこまで心配することもないのに…

ちょっとビビらせてしまったかな。

2007年11月10日

躾のちがい

いろんな家庭があって、
いろんな方針があって、
いろんな躾がある。

子供を見れば、
なんとなく、
その子供の家庭状況が
想像できるような気さえしてくる。

けれど、
大人が見ているところでの
子供の振る舞い、っていうのは、
本当でないことも多い。

もし、大人が見ている時だけは、
ちゃんとするように躾られて、
それを守る子供であれば、なおさら。

子供同士でいるなかで、
それぞれがどう振る舞うか、
そこに、本当の躾が現れる。
そう思う。

相手が、自分と同じ子供だから、
ということで、
わがままし放題、
好き勝手な主張、
どうでもいい態度、

そういうことが当たり前になっていれば、
そのまま、大人に繰り上がれば、
その大人の社会でも同じことをするだろう。

そして、そうなった時に変わるのは、
自分も「大人」になったから、
相手が大人だからという理由でなく、
相手の地位が上だからとかの理由で、
態度を考えること。

子供相手だったら、
間違いなく、横柄な態度になる。

けれど、誰かお偉いさんの子供となると、
急に、ヘコヘコし始める。

相手が大人となれば、
身なりとかで態度を変えたりもする。

人を「見くびる」ことだけ
上手になっている。
しかし、その見くびった判断が、
いつも正しいとは限らない。

判断を間違った生き方のせいで、
思わしくない結果を見ることになる。

躾が、そこまで人生を左右するか。
本当のところは、よく分からない。

けれど、躾がない状態では、
きっと、伸びる方向を間違えるだろうなぁ、
という気はする。

子供同士の時に、
躾の結果がどう表れるか。

うちの子供は、どうだろう?
私が子供の頃は、どうだったろう?

2007年11月 6日

大福と、ポテトチップス

帰宅後のおやつ。
そして、
夕食後のデザート。

わが家のルールです。
妻が、それを、
しっかりと準備してくれています。

以前の私は、
それをしっかり食べていました。

そして、もちろん、
夕食もしっかりと。
おかわりは無制限…笑

昨日のおやつは、
大福さんです。

大福さんって、
きれいです。

真っ白なお餅と、白い粉。
ちょっと透けて見える「あんこ」。

お餅に豆を混ぜた豆大福なんか、
さらに最高です。

お餅がぷよぷよと柔らかいと、
なんか幸せさえ感じます。

おとといは、
いただきいものの大福。
昨日は、
買ってきた大福。

残っていて誰も食べそうになかったので、
それは食べました。

けれど、夕食後の
ポテトチップスのビックサイズには、
参戦を遠慮しました。

食べ盛りの娘たちは、
たくさん食べます。

ポテトチップスが
やみつきになる気分も分かります。

幸い、娘たちは、
けっこうハードな運動をしているので、
食べても食べても、
まだガリガリな体型なのですが、

私のように、
妻の提供する食べ物に甘えてしまって、
太ってしまう日々が来ないように、
祈るばかりです。

私のダイエットは、今なお成功しています。
不思議と、食べたいという気持ちも、
それほどセーブする必要なく、
ほかにしたいことを見つけられれば、
気をそらせるようになりました。

やっぱり、スタートが肝心ですね。
それまで当たり前と思って
食べていたものをやめる、
っていうのには、
強い意志が必要です。

意志がないと、無理、無理。

だから、
おやつと、デザートを出す妻が、
最近、悪魔のように思えてきた私です。

妻も、かなりやせている人間ですから、
どんどん食べる必要があって、
悪気はないんでしょうけどね。

大福と、ポテトチップス。
ダイエットに立ち向かう人にとっては、
和菓子とスナックの最強ペアかもしれない。

2007年11月 1日

88点、92点、100点

長女88点、
私92点、
妻100点。

長女と私が得意とする数学において、
基礎テストの結果は、こうなった。

中学校からの「学年だより」に、
長女たちが受けた数学の基礎テストの結果が
全体的に思わしくないということで、
裏面に、そのテスト問題がコピーされてきていた。

全部で25問、各4点。合格は80点以上。
基礎というからには、
やっぱり、基礎的な計算問題のみ。

娘は、いわゆるケアレスミス、
ちょっとした不注意による間違いで、
3問の得点を失った。

私は、
「そんなミスをするなんて、
 おっちょこちょいだなぁ。
 バカだねぇ…」
と冷やかしていた。

それを横目に見ていた妻。
家計のやりくりは上手だけれど、
計算、算数、数学は、
めちゃくちゃ苦手である。

その女性が、
「あとで、そのテスト、
 私がやってみるね。」
と言い出した。

おっ!?

と驚いた私。
それならと私もと思い、
妻の前に、取りかかってみた。

数学が得意と自負する私、
時間はそれほどかからずに終了。

すぐに採点。
そしたら、結果92点。

おいおい、娘のこと言えないじゃん。
やっぱり、ケアレスミス。
この親にして、この娘あり、
という証明になった。

家事を一段落させた妻も、挑戦。
合格ライン80点も、
危ないかもねぇ…と私は思っていた。

自信がないせいか、
時間をかけて慎重に計算している。
やっぱり、自信なさげに終了。

早速、採点。
私が赤ペンをもって、
○を付け始める。

○、○、○、○、○、
○、○、○、○、○、
○、○、

おっ!?
左側は満点だぞ。

「やったー!」という妻。

○、○、○、○、○、
○、○、○、○、○、

ん?もしかして…

○、○、○。

すげぇー、100点だ。

「ホント、ホント?」という長女。

「おまえ、すごいな。
 なんか、今日、尊敬しちゃう。」という私。

得意だと思っている二人が、
100点をとれずに、
不得意なはずの人間が、
100点満点。

そういうことか…。

私なりに、
基礎テストというのは、
そういうことなんだ、
と分かった気がした。

自分は分かっている、
自信があると思っている人間ほど、
確かめの時点でも、ミスを見つけられずに、
ケアレスミスから逃れられない。

自信のない人間は、
基本に忠実に解いていく。
それで、合っているかどうかは、
あまり自信がない。しかし、
途中計算にミスがなければ満点。

一方、出来ると思っている
おっちょこちょい人間は、
頭のなかで問題の読み取り、
計算のミスをしているかなら、
満点はとれないのかも…

これは、あくまで、
わが家の中の傾向であって、
娘の中学校で、何ゆえ思わしくなかったのかは
分からないけれど、ね。

妻に、尊敬の眼差しを送りながら、
そんなことを考えたのでした。

2007年10月20日

雨の運動会

昨日の天気予報では、
今日は雨。

今週始めから、
その予報が変わることは
ありませんでした。

しかーし、
今朝は、晴れちゃっています。

おまけに、
太陽がサンサンと照らしていて、
私の仕事部屋に、
ブライド越しに、
日差しが入ってくるほどの強烈さ。

今なお、天気予報を見れば、
くもり、または弱雨…

ほんまかいな?

雨雲の動きを見れば、
ちょっと西側から、
迫ってきているようです。

それでさえも、
ごく少量の雨っぽい。
1時間に1mmくらい…

昨日、子供が持ち帰った連絡帳には、
「どんなに寒くても、
 ぜったいに、運動会はやりますので、
 カッパでも何でも着せてください。」
という先生からのコメント。

意気込みというか、
鼻息を荒くしている様子さえ、
想像された。

先生たちは、必死。
せっかく準備してきたことが
ムダにならないように。

気力で、雨雲を追い払ったかのよう。

今日、延期となって、
明日となれば、天候は、
もっと危うい。

きっと、今日は、
少しばかりの雨はあるだろう。

それでも、運動会は続けるだろうな。

私は、雨だと思って、
別の予定を考えていたから、
ちょっとテンションが下がっています。

そっちの別予定の方が、
けっこう期待大だったので…

でも、しょうがありません。
始めての運動会に、
三女は、とっても喜んで、
学校に行きましたし、

「やる」と決まった以上、
私も気持ちを切り替えて、
運動会に参加してきます。

最近は、毎日のように、
運動をしているので、
体の準備は万全。

とは言っても、
何の出番もありませんでした。

カメラ撮影に、
明け暮れることにするかな。
練習も兼ねて…

2007年10月17日

夢が変わっていく

現実的になって、
夢が変わっていくのは、
よくないと思っている。

現実が分かってきて、
夢が具体的になっていくのは、
いいことだと思う。

昨日、寝る前に、
長女が、思いついたように尋ねてきた。

「私って、これからも卓球を続けていったら、
 どんなことが目標になるんだろうね。」と。

漫画家になりたい、
とか小さい頃から言っていて、
たくさんのイラストを描くのが好きだった娘。

卓球を始めてから、
勝つこととか、何かを究めるに、
かなり集中した練習が、訓練が
必要なことも実感してきた。

それだけの練習をしていても、
本番で心が弱くなっちゃえば、
負けてしまうことも分かってきた。

そういう、ちょっとした「人生の味わい」を知ってきて、
ふと、自分の将来のことを考え出した様子。

だまって話を聞いていると、

「私、漫画家にはならないっていうか、
 なれないと思う。そんな才能ない気もするし…
 なんか、お菓子の新商品とかを
 開発する人になりたいな。」

たしかに、
ただ絵を描くのが好きなのと、
漫画家になるのとでは、違う。

しかし、子供の頃に、
何かを生み出すと言ったら、
限度がある。

やっぱり、
紙と鉛筆で何かを描くとか、
おもちゃで何かを組み立てるとか、
その程度。

けれど、そういう気持ちが、
何かを創り出したい、
という本当の気持ちの1つだとしたら、

「お菓子の商品開発」
っていうのは、1つの具体的な夢だと思う。

「しょっぱい系のお菓子?
 甘い方?」

「うーん、しょうっぱい系かな?」

「じゃあ、カルビーなんてどうだ?」

「ポテトチップス大好きだから、
 それいいね。」

いっしょに、ホームページを見始める。

この夢も、具体化の1ステップに過ぎずに、
また、変わっていくかもしれない。

それでも、いいから、
どんどん、心の中にある「したい」という思いに、
つながる夢につなげたいと思った。

漫画家

お菓子の商品開発

本当のところ、
何になるんだろう…

夢を考えられる環境があるっていうのは、
いいことだと思う。

考えられない環境だとしても、
本人の考える気さえあれば、
いくらでも考えられるはずの「心の作業」
なんだけれど、

打ちのめされるような現実に
囲まれている気分になれば、
考えることは、きっと難しい。

夢から逃げて、
現実にあわせて考えを変えるんじゃなくて、
現実のなかに、
考えることのできるスペースを見つけて、
夢を変えていく人間でいたいと思います。

2007年10月 3日

背骨が曲がる

娘らは前期後期の2学期制になったので、
秋休みっていうものが3日ほどある。
土曜日、日曜日にくっつければ、3連休。

こうなると、春夏秋冬、
すべての季節に休みがあるわけだ。

半年に一度、
長女の背骨をレントゲン撮影することに
なっているので、この秋休みを利用して
連れて行った。

しばらく待たされることになり、
その間、長女はマンガ、
私は読みかけの小説を読んでいた。

やっと呼ばれて、診察室の中に入り、
先生のパソコン画面に映し出されたレントゲンを見て、
娘も、私も、ちょっとビックリ。

声なんか、もともと出るわけもないが、
しばらく、言葉を失って座っていました。

半年前の写真に比べて、
曲がっているのが明らか。

前回は、たいして変わっていない感じでしたが、
今回の写真は、素人の目には変わっているのが分かる。

姿勢は悪い方なのですが、
先生が言うのは、
姿勢だけのせいとも言い切れないらしい。

骨の成長、体の成長、
いろんな要素があるとのこと。

とりあえず、
治療するとかの段階ではないけれど、
また、半年後ということでした。

病院を出てからの娘、
姿勢をよくしようと
気にかけています。

どれだけ続くか分かりませんが、
そして、背骨が元に戻るために
どれだけ効果あるかは分かりませんが、
あのレントゲン写真がきっかけになって、
姿勢がよくなったらと思う次第です。

そう言えば、
小学生に入った頃から、
体を変な形にのけぞらしたり、
行儀悪く座るのが好きな娘でした。

それに、何らかの体質が関係して、
背骨が曲がっている?
何かのたたりなのか…笑

普段は、知り合いの人にさえ
自分から話しかけるなんてしない娘が、

「この背骨の曲がりが治らなかったら、
 どうなるの?」

と心配顔で、看護婦さんに聞いている姿を見て、
お!よほど、効き目があったなぁ、
と感じました。

そう言えば、
私も小さい頃「背骨が曲がっている」
とか言われた覚えがあります。
行儀は良かったんですが…

けど、今は、
そんな状態は、少しもない。

きっと治るとは思いますが、
親の私も、気をつけていきたい、
と思いました。

成長が止まって、
固まってしまったら、
もう戻りませんからね。

2007年9月16日

おしゃれという話

子ども達同士が、
「あの人、すっごく、おしゃれだった」
と言うおしゃれが、
私には分からないことが多い。

おしゃれに興味がないから、
っていうわけじゃない。
自分と同じ年代とか、
大人びたおしゃれには、
よく気がつくけれど…

子ども達のおしゃれが、
よく分からないのだ。

おしゃれの方向性が違う、
もしくは、子どもに
おしゃれなんか必要ない、
とどこかで思っているのかも…

その証拠に、子ども達が、
「この音楽、すっごくいい。」
っていうのには、共感できたりする。

きっと、好きな音楽の傾向が
似ているからなんだろう。

さかのぼれば、
そういうところは、
子どもが親に似た、
ということなんでしょうけど。

だから、
方向性が同じであれば、
おしゃれでも何でも、
年代に関係なく
理解できるように思う。

だから、きっと、
音楽は分からないけど、
おしゃれなら分かる、
っていう大人もいるかもしれない。

いずれも、
子ども達の世界のこと。

分かることがいいのか、
分からなくていいのか。

そこらへんは
ハッキリしたことは言えないけど、
年代も違って、方向性も全く違ったら、
何にも理解しあえないだろうね。

年代が違うのはしょうがない。
どうしようもない。

方向性の違いは、
よく見比べれば、
きっと共通点があるはずなんだけど、
よく見ようともしないから、
かけ離れっぱなしになっちゃう。

方向性って、
何で形作られるんだろう…って思った。

もしかしたら、
頻繁に触れてる組織かもなぁ。

子どもは、学校。
大人は、会社・職場。

そこに来て、本当は、
「家族」っていう組織に
大人も子どもも双方が
関わっているはずなんだけど、

その重なりが弱いと、
それ以外のものたちに、
方向性を左右されていく。

おしゃれとか音楽でなくても、
何か一つ、方向性の合うものがあったら、
「大人」と「子ども」という分類も
いらなくなるような気がする。

そういうものが見つからない限り、
大人は、「子ども」だった過去を忘れて、
「今の子どもは…」なんて決めつけるのかも。

自分たちも決めつけられていた過去を
すっかり忘れて。

2007年9月11日

問題を伝える能力

自分の子供を見ていると、
時々、問題を伝える能力が
あまりよくないな、って思うことがある。

つまり、
何が問題か、
ということをうまく伝えられない。

ということは、自分自身も、
何が問題か、
っていうことを分かっていないことにもなる。

こんな言葉を思い出す。

「問題が何か分かれば、
 問題は半分解けたことになる。
 しかし、本人が問題と思わなければ、
 その人にとって問題は存在しない。
 だから、問題がないと言うことが、
 『問題だ』という場合もある。」
 (引用元不明)

友達関係でも、先生関係でも、
学校で何か困ったこと、悩むことがあった時に、
何が問題か、分かっているか。

気づいていない、
思い込んでいる、
考えすぎている、
こんなことのどれかに当てはまると、
ますます、問題から遠ざかる。

わが子の「問題を伝える能力」、
これは、しっかり磨かなければいけないな、
と思ったよ。

2007年9月 2日

考えても変わらない

なんでだろう、
何が原因だろう、
どうしてこうなったんだろう…

目の前に起きている現象、
特に人の行動について、
どんなことでも
こんなことを考え出すクセが
あります。

それは、私の場合、
相手を理解しようというより、
分からないことへの不安を
早く消し去りたい感じ。

結局のところ、
カンタンに言えば、
スッキリしたいらしい。

自分がスッキリすれば、
自分の中では
問題が解決された気分を
味わえる。

ところが、現実的には、
問題が解決されてないから、
そのスッキリも長続きしない。

他人の問題を、自分の中で、
いくら考えても考えても、
解決することはない。

その他人が自ら選んで、
行動を変えたり、何かをしないと、
解決することはないんだよな。

だから、他人の問題や悩みを
考えてあげることは、
あんまり助けにならない。

それよりだったら、
その他人が自分で解決できる方向に
考え始められるように、
導いてあげた方がいい。

代わりに、悩んだり、考えたりしても、
意味がないから。やっぱり、それは、
おせっかい以外の何ものでもないし。

たとえば、問題を解決するために
一番いいと思われる行動「Aをする」
ということを、

問題を抱えている本人の友達が、
昨日気づいたとしても、その時、
本人が乗り気でなければ、
解決はスタートしない。

よくよく考えて、
その本人が「やっぱり、Aをするのがいい」
と気づいた今日から、解決はスタートする。

他人の問題や悩みを
代わりに考えてあげることって、
どんなにしたって、
あんまり意味はない。

もし、ちゃんとした行動がとられないことによって、
自分も少し巻き込まれそうな心配があるとすれば、
気が気でないよね。

問題を抱えている本人が、
そういう他人への影響まで
考えられるくらい余裕があればいいんだけど…

考えたいわけじゃないけど、
他人の問題を考えることのある私。
結局、自分を守るために過ぎないとすれば、
普通に「自己中心的」な人間なんですね。(笑)

2007年8月22日

ラジオ体操 1・2・3

夏休みも、残りわずかとなってきました。
今のところ、私も三女といっしょに
参加しています。

自転車乗りがまだ未熟なので、
それが心配で付き添っているような
ものですが…

最近、雨模様で、
行かせるべきか、
行かせないですませるか、
考えてしまう日々。

今朝も、そうでした。
6:00前に、ざーっと雨が降り、
しばらくしてやんだ。

路面は濡れている。
そして、そらもグレー。

けれど、なんか降りそうでもない。

6:15、意を決して、
小6の次女、小1の三女を
起こします。

昨晩は、ちょっと夜更かししたから、
眠そう…&…不機嫌な三女。

私がヒゲを剃っている間に、
着替えて、いざ出発。

なんか、降りそうだなぁ…
三女の自転車を、
小走りして追いかけてながら、
そんなことを考えていました。

雨降りを予想してか、
半分くらいの子供しか
集まっていません。

それでも、ハンコとラジオを
持ってくる班長さんが来ていたので、
まずは正解。

6:30、ラジオ体操の歌が流れます。

6:32頃、ラジオ体操第1が始まると、
何かしら、怪しげな空気の流れと、
空の色を感じます。

6:35頃、ラジオ体操第1が終わって、
ラジオ体操第2に移るまでの間奏中、
ポツリと感じました。

「班長さん、今日は、
 これで終わった方がいいよ。」
と私。

今朝来ていた大人は、
私だけでしたから、
大人の権限で言い渡しました。

ラジオのスイッチをオフにして、
みんな、急いで退散。

幸い、すぐには降ってきませんでした。

おそらく、うちの三女が、
一番のろい自転車だったでしょうから、
自宅に着いたのは、多分一番最後。

残り10mほどというところで、
ポツリからポツポツと変わりだしたので、
ギリギリセーフ。

我ながら、退散の判断は正しかった、
と胸をなでおろしました。

実際、救われたのは、
うちの娘が一番だったでしょうけどね。

ラジオ体操をするのも、
あと数日。

朝の小走りランニングと、
体操という健康的なイベントがなくなるのは、
私にとって、大きな損失かもしれません。

これからは、どうしよう?

2007年8月12日

先生と親

学校というところは、
微妙なポジジョンだと思う。

公立の学校は特に…

私立は、ハッキリしている。
親がお金を払ってそこに行かせるのには、
子供のために何らかの目的があるんだろうから。

次の学校に進むための学力向上とか、
スポーツで力をつけるためとか、
特定の才能を伸ばすためとか…

そういう目的のために、
親が学校にお金を払い、
先生は給料をもらって教えて、
子供は勉強したり、努力する、
というシステム。
もちろん、勉強ばかりじゃないだろうけど。

公立の場合、親は
学校にお金を払わない。

学校は、親が払っているだろう税金を
資金として運営されていることになっている。

だから、その資金から
先生の報酬も支払われる。

よく
「私たちが払っている税金から、
 先生たちは給料をもらっているでしょ。」
みたいなことを言う人がいるけれど、

そういうことを、先生に自覚させようとか、
そういう視点で働かせようっていうのは、
ちょっと違うんじゃないかな、と思う。

だから、微妙なポジション、
ということになる。

親は、ある程度は主張するけれど、
強く押しすぎることはできない。

先生も、親の言うことをある程度は聞くけど、
学校の方針から外れることもできない。

じゃあ、その学校の方針は、
どこから来るかといえば、
教育委員会などの行政。

けれど、その行政も、
世論から左右される。

子供にまつわる事件が起きれば、
行政は責められる。
あれをしろ、これをしろ、
というマスコミと世論に敏感になる。

というわけで、
親には動かせなかったのが、
「親が含まれている」世論によっては
動かされたりもする。

なかなか変わらないように思える学校も、
そうやって変わっていくんでしょう。

子供も親も、先生も、
それにつれて変わり、
成長していく。

やっぱり、人によってもまれるんですね。

2007年7月31日

いっしょに居られない

わたしの場合は、
結婚して14年。

子供一人一人とは、
その年齢の数だけ
付き合っていることになる。

けれど、
妻でも、子供でも、
朝から晩まで1対1で
ずーっといっしょに居た、
という経験はなかなかないと思う。

風邪とかのために
自宅で休んでいる時には、
いっしょにいるだろうけど、
また違った意味だろうし…

1対1でいっしょに居る、
っていうのは、
相手が家族でも
なかなかないんだなぁ、
ということに気づいた。

先週末に、次女と神戸に行き、
多少の出会いとかはあったけど、
基本的に、その1対1に近い環境を
初めて経験したような気がする。

日常では、
子供の一人として付き合っている相手が、
朝から晩までいっしょに行動したり、
会話したりする相手に変わると、

知っているはずの人間とは言え、
意外なことを発見するものだ。

卓球大会の会場へ行ったり、
観光に行ったり、
おみやげを買いに行ったり、
食事や、知人に会いに行ったり、
帰り道へ向かったりと、

いろいろな交通手段を使ったせいか、
どこかに行くたびに、次女は、
何を使っていくのか
何度も確認するようになった。

正直、それを
面倒くさく感じ始めた存在に感じた私。

今思えば、タイムスケジュールでも
書いておけば、そんなことも
なかったのかもしれない。

しかし、親子二人だけの旅行に、
そんなタイムスケジュールまで
つくったら、なんか気楽になれない。

ただ、ワクワクしている次女にしてみれば、
次にどこに行くか、何が起こるかが
とても楽しみなわけだから、
心の準備もしたかったのでしょう。

いつもは、
緻密なタイムスケジュールを
つくるのが好きな私でも、

自分の娘だけといっしょという身軽さから
自分一人だけの旅行みたいな錯覚もあって、
すべてがフリータイムに思えていたのでしょう。

1対1というのは、
いくら気楽な相手であっても、
すべてがフリータイムじゃない。

気楽な相手じゃないとすれば、
なおさら、気を遣うことになる。

そうなれば、
いっしょになど居られない。

今朝、この次女は、
来週の東京での卓球大会について、
いろいろと確認をしてきた。

また、面倒くさくなってきた私。
そこで、いいことを思いついた。

大会スケジュールと、
往復の交通手段の時刻を教えた。
そして、自分でプランを立てて見ろ!、と。

さあ、どんなプランを立ててくれるか、
っていうところです。

2007年7月22日

緊張感のなかで生まれる

仲良しの人間だけが集まれば、
空気はとてもいい。

何をしても、
何をしゃべっても、
そこにいるだけで
楽しくなってしまう。

癒しの場としては、
もってこいだと思う。

けれど、そこを
何かを伸ばす環境に
しなくちゃいけないとなると、
その切り替えは、
けっこう難しかったりする。

そうなると、
ちょっとイヤだなと思いながらも、
ライバルがいたり、
緊張感をもたせる人がいる環境の方が
だらけないで良かったりする。

もちろん、その緊張感が
ケンカやら口論やらに発展して、
肝心なことが何も出来なくなるレベルなら、
それは、どうしようもない。

しかし、
一触即発の状態ではあっても、
ギリギリのところで、
やるべきことが出来て、
物事を進められるのであれば、
それはそれでいい。

その緊張感が、
いいものを生み出すかもしれない。

ただ、条件はある。
その緊張感に耐えられる人でなければ、
そういう環境を活かすことはできない。

むしろ、その緊張感に
つぶされる可能性の方が高い。

想像に難しくないですよね?

ライバルが登場することによって、
自分の努力の方向を見失い、
ダメになっていくタイプの人間。

指導方針が違うということで
コーチや指導者との関係が壊れ、
才能を腐らせてしまう人間。

ギリギリの緊張感っていうのは、
スポーツとかでは本番にも感じるものだから、
それを練習においても
乗り越えることが出来なくちゃ
本番に勝てる人間になれるわけがない。

そういう意味でも、
緊張感は悪くないんですよ。

ストレスがあるから、
緊張感があるから、
っていうことで、
何でもかんでも止めてしまったら、
きっと何も出来ない人間になってしまう。

かといって、
どんなストレスにも耐えろ、
と言っているわけでもありません。

無駄なストレスっていうのも、
たしかにありますからね。

日々与えられている緊張感の中で、
立ち向かう価値のあるものを
しっかりと見つけたいものです。

2007年7月 9日

実感が湧かない

昨日も、朝から晩まで
一生懸命、夫婦で応援していました。

次女の全県卓球大会、団体戦。
ぜんぶで、59チーム。
次女の所属するチームの目標は、
ベスト4でした。

予選は危なげなく勝ち進み、
決勝トーナメントへ。

娘も2試合ほど出番がありましたが、
ウォーミング・アップが出来た
というような感じでした。

ですから、
決勝トーナメントでは、
それなりに活躍してくれるだろう、
と思っていたのですが、

やはり、
安心できる試合ばかりとは
いきません。

当然、勝てるだろうという相手に、
ちょっとした運か何かで、
ギリギリ勝ったり、
逆転負けされたり…

かと思えば、
多分、負けるかもしれないと
思っていた試合に、楽勝したり。

ハラハラドキドキの試合の連続。

ベスト16、ベスト8、そしてベスト4と
なんとか目標達成となりました。

私の心の中では、十分やったと
もう安心しきっていたのですが、
どうやら、監督さんは、
さらに上を目指していたらしく、

残った4チームでの決勝リーグ戦において、
優勝できるように、子ども達を鼓舞していました。

監督さんの思いとは裏腹に、
応援していた親たちはもう満足しきっています。

しかし、子ども達は、
ちょっとしたチャンスを見つけたのでしょう。

監督さんが目の前にかざした目標に向けて、
最後の戦いを始めました。

苦しい戦いでしたが、
最初の対戦で勝ちました。

お!もしかして…
2位くらいは目指せるかも、
と思い始めた子供と親たち。

次は、優勝候補との対戦です。

うちの娘が、
重要なポイントでの試合に勝った瞬間に、
その後の試合が有利に運ぶ予感がよぎり、

これは、優勝も夢じゃないかも、
と親も子供も思い始めました。

結果、予感通りの勝利。

私たちと子ども達の喜びの声とは対照的に、
優勝候補チームの応援の声が
しぼみました。

勝負って分からないものです。

いよいよ、最後の対戦。
優勝を確実にするためにも、
油断は出来ません。

気合いを入れた子ども達は、
しっかりと勝ちとって
優勝をものにしました。

チームの中で、
いつも涼しげな顔をしていた1人のお母さんも、
この時だけは、涙を見せていました。

ああ、この人も泣くんだなぁ、
感激するんだなぁと思うと、
娘たちはすごいことをしたんだなぁ、
という気になりました。

全県優勝したゆえに、8月のお盆前、
東京で行われる全国大会に出場できるようです。

個人戦は、今月末に神戸にて。
団体戦は、来月に東京にて。

練習はそれほど好きじゃないけど、
大会は大好きという娘には、
とても大きな、大きなご褒美になりました。

今まで、優勝候補のチームが
何年も連続して優勝していたらしいので、
そこを破っての優勝が、正直なところ、
実感が湧かない私です。今でも…

娘たちにとって、親たちにとって、
こういう経験が後でどんな糧になるかは
想像もつきませんが、思い出も含めて
「何かをがんばる」って
やっぱりとても大切なことだなぁ、
と改めて思います。

2007年7月 3日

ちょっと父子家庭

年数回あるかないかの
「父子家庭」状態が、
昨日から始まりました。

妻はどこへ…?

なんてことはありません。

身内のお手伝いで、
妻が、ちょっとした旅行(?)に
出かけました。

父子家庭の時には、
わが子ら、とってもしっかりします。

部屋の整理、
食事の準備、あとかたずけ、
ほぼすべて、完璧にやります。

甘えられる母親がいない、
なおかつ、
「自分のことは自分でしろ」
という父親との生活ですから、
自然に、そうなります。

父子家庭状態の時には、
いつもそうしてきましたから、
けっこう自立している娘たちに、
頼もしささえ感じます。

勉強させるのも大事。
才能を伸ばす機会を与えるのも大事。
そして、生活能力を育むのも大事。

この3本柱がないと、
大人になった時には、
きっと困ります。

勉強ばかりさせて、
(あるいは習い事ばかりさせて)
身のまわりのことはすべて、
親がやってあげる…

小さいうちはいいでしょうけど、
大きくなったら、忙しくても、
自分のことは自分でやらなくちゃ、
あとで、自分が困るはず。

一方、
生活能力を育む家事ばかりをさせては、
視野の狭い人間になってしまう。

だから、やっぱりバランス。
勉強、才能、生活。

大人になっても、
この3つはきっと続いていくんです。

どれかを怠ければ、
自分の中のバランスも崩れてしまう。

結婚相手にも、
それを求めた方がいい。

そのためにも、
小さい頃から自分でそれらが出来るように
教育されていれば、
いくらかまともな意識をもっと大人に
なることでしょう。

そう期待して、
父子家庭状態を
見守っているところです。

さあって、今晩の夕食は何にしようか。
って意気込む必要もなく、
私が作るメニューは
ちゃんと計画されていますけどね。

悩む必要もなく、
夜の来るのを待つだけです。

今は、仕事に集中するのみ。

2007年7月 2日

子供に返ってしまう大人…

失恋とか、心がすごく
苦しくなる経験をすると、
しばらくの間、自分のことが
自分で出来なくなる現象を
体験する人がいると思う。

それが、あるラインを越えると、
本当に病気になっちゃう人もいるだろう…

自分のことが自分で出来ないと、
もう、それは、2歳児とか、3歳児の
子供みたいなもの。

いや、場合によっては、
2歳児、3歳児の子供の方が、
まだ、自分のことが出来るかもしれない。

1つ1つの行動について、
指示を受けないと、
始められない。

大人がそこまで返ってしまうということは、
かなり自信がなくなっていることであり、
なおかつ、傷ついたことばかりに
心が奪われて、思考回路がほとんど
働かなくなっている証拠でもある。

たとえば、
いっしょに生活している家族にしてみれば、
とても、手のかかる状態になる。
もし、親がそうなったとすれば、
子供にとっては、かなりの負担だろう。

大人っていうのは何か。

体が大きくなって、
生殖能力が備わって、
お金を稼げる人のこと?

心のコントロールはどうか?

心をコントロールできないまま、
体だけが大人になってしまった人っていうのは、
きっと、トラブルメイカーになるに違いない。

かといって、
自分の心を100%コントロールできる大人なんて、
それほどいないのも事実だろうし。

じゃあ、本当の大人って、どこにいるの?

なんて話にもなるだろう。

心の中を覗けば、
本当の大人なんて、
どこにもいないかもしれない。

誰もが、子供の心を残して、
(場合によっては、それをトラウマなんて
 言うかもしれないけど…)

大人っぽく振る舞うために、
精いっぱい生きているんじゃないのかなぁ。

その精いっぱいに疲れてしまった人は、
本当に、子供に返っちゃう。

その子供に返ることが、
ちょっとみっともないとか、
恥ずかしいという感覚がある人だけ、
もしくは、ある瞬間だけ、

大人でいられるんだと思う。

自分の心を見れば、
そんなことは分かりますもん。

まったくの子供であることは、
私自身、否定できません…笑

2007年6月23日

ウソに傷つき、真実に傷つく

子供を傷つけまいと、
大人たちが一生懸命にウソをついていて、

それがウソだとバレないわけがなく、
ウソだったということに
子供は必ず傷つく。

そして、本当のことを知らされて、
もう一度、傷つくこともある。

きっと、大人たちが
ついているウソって、
いっぱいあると思う。

すごく頭にきて、
その子を怒りたいのに、
怒っていない振りをしたり、

たいして上手だと思っていないのに、
上手、上手とほめていたり、

同じやさしいでも、
同じほめるでも、

子ども達は、その大人との
それまでの付き合いのなかで、
自然に、本心が分かってくいるはずなのだ。

見透かされていないと思っている大人の方が、
まだ子供だから何も分からないだろう、
と油断していて、すべて知られているから
おかしい。

見えないようにすれば、
聞こえないようにすれば、
ふれないようにすれば、
本当のことに気づかれないわけじゃない。

お父さんとお母さんが、
本当はどういった思いで、
夫婦をしているか、

愛しあっているのか、
ただ一緒にいるだけなのか、
別れたいのに無理しているのか、
そんなことだって、
ちゃんと伝わっているはず。

伝わっているだけで、
目の前のウソに、
一度は傷ついてしまう。

そして、それが改善されずに、
決定的な事実となった時に、
その重さに、もう一度傷つく。

ただ、

子ども達が傷ついてかわいそう…

なんていう考えも、違うように思う。

子ども達は傷ついて当たり前。
大人達が傷つけて当たり前。

果たして、
子供を傷つけない大人が、
どれだけいるだろうか。

子供の感受性もあることだから、
子供が勝手に傷ついていることだってあるのだ。

大切なのは、
そういう子供が傷ついている姿に、
早く気づき、

自分で癒せるように、
または何か助けを与えられるように、
見守ってやることじゃないかと思う。

子供の時から、
自分で自分を癒せる能力を
身につけている人は、
大人になった時に、
間違いなく強い。

大人になった瞬間、
これからは、自分で解決してね、
と放置されて、うまく生きていける人なんて
いるわけがない。

子供の頃から、何かしら、
大人に傷つけられて、
大人に教えられて、
強くなっていくんじゃないかな。

必ずしも、
ウソで傷つけなる必要がないなら、
真実を見せる方を選んだ方がいい。

そう感じる今日この頃です。

2007年6月15日

虫の命

虫がいる、虫がいる。

朝、学校に行こうと、
玄関に立った三女の言葉です。

妻が見ると、
とっても小さい虫。

私と同じで、
虫が嫌いな三女だから、
見えてしまう存在なのでしょう。

何でもない人は、おそらく、
気になりもしない存在。

ちっちゃい、ちっちゃい虫。
人が占める命のスペースに比べれば、
きっと何千分の一、何万分の一のスペース。

サイズで言えば、
砂粒1つくらいの
命のサイズにも思えます。

それでも生きているから、
砂粒サイズのものでも、
気になるのです。

きっと、命のサイズっていうのは、
それが占めるスペースの
大きさじゃないのでしょう。

「生きてるんだ!」っていう、
なんか、強い思い、エゴのパワー
なのだと思います。

そういうパワーが強いものは、
ちっちゃくても、気になる。

反対に、そういうパワーがないものは、
いくら大きくても、気にならないこともある。

ただ、実際は、
「生きてるんだ!」っていうエゴのパワーが
大きくても、ひとつまみ、ひとつぶししちゃえば、
消えてしまうような虫の命。

一方、人間といえば、
いくらエゴの弱い人でも、
一押しくらいじゃ死ぬことはない。

なんか、不公平かもな、
と思っちゃいます。

生きる気力のあるものに、
一生懸命生きて欲しいのに、

生きる気力すら
あるかどうか分からない人の方が
いつまでも生きてしまったりする。

もし、この世の中に生きるものが、
生きたい思いの強さで、
その体のサイズが決まるとしたら、
下手すると、人間は、
とってもちっちゃいかも。

たしかに、
生きたい思いだけが強くても、
困るところもあります。

どこかで、
誰か、何かの役に立つ思いもないと、
生きていてもらっていては
迷惑なところもありますからね。

そういうことが分かって出来る人間は、
やっぱり、高等な生き物なのでしょう。

虫の命ほども、
生きる思いはなくても、
何か、誰かの役に立つ存在で
いたいものです。

2007年6月 5日

だいたい7…

三女の学習能力、
とうとう問題となる段階に
来たようです。

長女、次女の時には
体験することのなかった
「わからない」という状況を
目にしています。

私も妻も、
なかばあきらめているのですが、
昨日は、笑うしかありませんでした。

1年生ですから、
宿題とは言っても、
それなりの問題。

おそらく、
学校で勉強した段階から
分かっていなかったのでしょう。

たとえば、こんな感じです。

8個のおはじきがあります。
左手と右手に分けて
隠して持ちます。

左手には2個あります、
と見せてみて、じゃあ、
まだ隠している右手には
何個ありますか?

という問題です。

引き算という言葉は、
まだ学んでいなくても、
頭の中で、引き算が出来るか、
という勉強のようです。

8個のおはじきのうち、
左手に2個あるのですから、
答えは…

すぐに分かるはずなのですが、
どうも難しい様子。

そこで、
最初のスタートを5個にして
それを分けることから
練習しました。

1個と4個、
2個と3個、
4個と1個…

どうやら、これは
片手で出来る程度の計算なので、
簡単なようです。

5個はクリア。

次に6個にしてやってみる。

1個と5個、2個と4個、3個と3個、
4個と2個、5個と1個…

これもクリア。

次に7個。

ここらへんから難しくなります。
ただ、面白いことに、
得意なものもハッキリしてきます。

2個と5個はなぜか得意なのです。
5個が片手ぜんぶだからでしょうか…
時間がかかりながらも、これもクリア。

いよいよ、8個。

8個のおはじきがあります。
こっちの左手には2個。
じゃあ、こっちの右手は?

ニヤニヤしながら、
ちょっと首を傾げて、

「だいたい7…」

みんな、思わず、笑ってしまいました。

どこで四捨五入する必要があったんだ?

たしかに、6個について、
だいたい7と言ってもいい場面も
あるかもしれないけれど、

この問題について言えば、
それは無理だろう、おまえ。

まだまだ算数には向いていない頭のよう、
親子が将来苦労しないように、
人任せにしないで、ちゃんと教えてあげないとなぁ、
と思った次第です。

2007年6月 1日

この世に生まれて…

何気ない言葉を聞いただけで、
思い出す歌っていうものがあります。

1日1歩

と聞けば、

♪3日で3歩、3歩進んで2歩下がる♪

と水前寺清子さんの歌を
思い出してしまう私は、
決して古くない人間と思っていましたが、

そんな歌を知らない人々にとっては、
やっぱり古いでしょうね、
と気づかざるを得ません。

負けないで

と聞けば、やっぱり、最近亡くなったZARDの

♪負けないで、もう少し♪

を思い出しちゃいます。

それに似たような感覚で、

この世に生まれて

という言葉を思い出すと、
今井美樹さんの「瞳がほほえむから…」で、

♪ねぇ、この世に生まれて…♪

が、耳に聞こえてきます。

心の中では忘れ去っていた人でも、
亡くなったりすると、
急に、思い出すことが多くなります。

と同時に、自分が
「生まれて何をしているか」
っていうのも考え出したりする。

インターネットの世界で
仕事をする機会が増えると、
やはり、「かたち」あるものがなくても、
大丈夫、生きていけるなんて
錯覚に陥ることがあります。

しかし、食べることを始めとして、
どれだけの空間が必要かに違いがあるとしても、
「かたち」あるものなしでは、
生きていけそうにない自分に気づきます。

そして、生きるために、
仕事をしているわけですが、
究極のところ、
仕事っていうのは、
モノをつくるか、
人を育てるか、
のどちらしかないんじゃないか、
っていう気になった今日この頃。

見えないものをつくる、
っていうのは、おそらく、
自分という人か、
自分以外の誰かを
育てていることに含まれると思うんです。

そのどちらにも携わりたくない、
とすれば、きっと、
人はダメになってしまうでしょう。

かたちある人間として生まれたからには、
かたちあるモノをつくるか、
かたちある人を育てるか。

この世に生まれてからの私自身について考えれば、
やっぱり、ダメだった時期っていうのは、
いくつかあると思います。

その時に、
モノをつくること、
人を育てること、
双方から逃げだそうとした時には、
もっとダメになっている。

けれど、ダメな時であっても、
最低でも、自分を育てることに心を注いでいれば、
それ以上、ダメになることはない。

自分を育てていて、
自分がダメになることは、
理論上、ありえないから。

実際のところ、
ダメか、ダメじゃないかは、
後になってみなければ
分からないところも多いですが、
今の私はどうなんだろう…

って考えてしまいました。

2007年5月23日

サイコロのような生き方

「おまえって、サイコロだな。」

「そうだよ。私はサイコロだよ。」

「何が出るかな♪、何が出るかな♪、
 って感じで、
 その日その日で、
 調子が全然変わるからな。」

「ははは…
 それが分かっているんだったら、
 あきらめることだよ。」

卓球大会の帰り道で、
私と次女がよくする会話です。
小学3年生に負けそうに
なったりする時もあれば、
中学生と対戦して
優勝したりする時もあります。

サイコロですから、
本当に、その時その時、
どんなことをしでかしてくれるのか
分からないのです。
いい意味でも、悪い意味でも、
裏切られることがしばしば…。

ただ面白いのは、
卓球で戦う娘を見ることによって、
娘の知らなかった一面が分かることです。

家にいる時には見せることのない一面が
戦う姿で、浮き彫りになります。

普段から
「大会は楽しいけれど、練習はイヤ」
と言うくらいの娘ですから、
大会の時にはワクワクしています。

私に言わせれば、
大会が楽しいのは、
練習の成果が出て勝てるからであって、
練習もせずに大会に出てすぐ負けたら、
楽しいわけがありません。

そんな娘が、ここ数日で、
少し頼もしいサイコロになりました。
自発的に練習をがんばっている姿が
目に入ります。

今度は、何が出るかな♪

っていう期待に、胸がふくらみます。

けれど、

「待て待て。
 今まで期待しすぎた時にこそ、
 裏切られたじゃないか…」

という心の声も聞こえてきます。

たしかに、そうなんです。

サイコロは、やっぱりサイコロ。

イカサマのサイコロでない限り、
どの目が出る確率も同じなのです。

「1」だけが出て欲しいと
思っていても、確率は1/6。
つまり、17%ほどしかないわけでして、
期待は、17%程度に抑えなくてはいけません。

サイコロな子供を見守る時の心構えです。

たしかに、大人にも、
サイコロ的な人がいますよね。

機嫌がよかったと思えば、
すぐにでも、変わってしまう。

お、調子良さそうと思えば、
次の瞬間にダメになる。

大人だからっていう期待をすれば、
こちらが疲れてしまう。

期待を17%程度に抑えることって、
人付き合いの秘訣かもしれないなぁ…
という気がします。

もしかしたら、
自分の調子だって、
その程度の確率かもしれませんし。

2007年5月15日

男らしさチェック

昨日の午後、
このサイトを見に来ていただいた方には、
かなりのご迷惑をおかけしたかもしれません。

一時、見ることが
難しい状況が続いた模様です。

というのは、
ヤフーのニュースにて、
「男らしさ」で揺れる男性
という記事があって、

当サイトの
「男らしさ」チェック
紹介されたのです。

これを作ったのは、
今から4年も前のこと。

20ほどの質問に答えて、
「男らしさ」を評価するものです。

20問程度の質問で、
俺の男らしさが分かられてたまるか、
と思われる方もいることでしょう。

ごもっともです。

ハッキリとは分かりえません。

それに、男らしさっていうのも、
いろいろありますからね。

昔でいう「男らしさ」は、
今から見れば、
単なる「男のわがまま」みたいなところも
あるでしょうからね。

わがままなことも出来た分、
それなりの責任もあった?

今は、わがままなことが出来ない分、
女性の方にも、責任がいくらか
分けられるようになった?

考え方は、いろいろでしょうけれど、
今の時代に、そんなことが
話題になることを考えると、
男らしさっていうのが、
本当に揺れているんだなぁ…
って感じます。

私はどうかって?

昔の価値観からすれば、
全然、男らしくないです。

子供を産む以外、
料理や洗濯、家事も育児もほとんどすべて
出来ますからね。

それが出来たら、男らしくないのか?

っていう問いもありそうですが、
そんなことは男がやるもんじゃない、
って本気で思っている人は、
まだまだいるようですから。

らしさ、っていうのは、
もちろん感性とか、考え方とかが
重要なポイントなんでしょうけど、

その感性や考え方から、
やることとか、行動が出てくるわけですから、
「やれること」っていうのは、
問題とされてもいいと思うんです。

赤ちゃんのオムツ、
それもウンチのついたものを
取り替えることが出来るかどうか1つをとっても、
そこらへんが分かってくると思います。

あなたの男らしさは?

あなたの恋人、ご主人の男らしさはどうですか?

1度、お試しください。
→「男らしさ」チェック

2007年5月14日

キャッチボール

当然のことだけど、
キャッチボールっていうのは、
投げられたボールを受け取ってから、
そのボールを相手に向かって
投げることになる。

私の薄い記憶の中で、
父親とキャッチボールをしたのは、
多分、1回くらいしかないと感じる。

それでも、
そういう記憶があるだけでも、
恵まれている方かも…

野球をやる、やらないにかかわらず、
そういう交わりがない男の人も
少なくないだろうからね。

キャッチボールのボールは、
見えるものだから、
お互いのやりとりの実感も
分かりやすい。

しかし、そのボールが
見えないものだとしたら、人間は、
どんなやり取りをするんだろう…

たとえば、会話とか。

たしかに、あるものだけれど、
目には見えない。

見ようとする人には、
見えるかもしれない。

けれど、見えない人は、
下手すると、
受け取る前から、
投げようとしたりする。

受け取る前に
投げているわけだから、
何を投げているか
分かったもんじゃない。

もし、それがぶつけられたら、
とてつもない大ケガをするかもしれない。

受け取ってから、投げる。
そんな普通のことが出来ないと、
キャッチボールは面白くない。

一方的に投げている方は、
キャッチボールをしているような錯覚に陥って、
楽しいかもしれないけれど、

一方的に投げられている方は、
次から、相手をする気など起きてこないだろう。

相手がいなければ、
キャッチボールは出来ない。

すると、ますます、
キャッチボールが下手になる。

けれど、やりたいから、
そのうち、ところかまわず、
キャッチボールの相手でない人にまで、
投げつけるようにさえなる。

おいおい、なんで、
こんなところで
キャッチボールをしている人が
いるんだ?

危ないぞ、あの人、危険人物だ!
警察に通報しろ、病院に連れて行け、
みたいな話になるだろう。

受け取ってから、投げる。
基本を忘れちゃいけないな。

2007年5月11日

生意気な女の子

「なんで、私たちが
 それをやんなきゃいけないの?」

そんなセリフを聞くと、

はぁ~!?

っと、ちょっとキレ加減になる私です。

なんで?

と聞かれて、私の方に、
明確な答えがあるわけではありません。

逆に言えば、

なんで、私がそんなことを
聞かれなきゃいけないわけ?

みたいな気分になります。

小学生でも、中学生でも、
口の達者な女の子たちは、
時おり、人を怒らせるツボを
知りすぎているように思います。

おそらく、大人の心をよく見ているのでしょう…

こういうことをしたら、怒る。
こんなことを言ったら、キレる。

知っていて、怒らせてみたい。

「なんで?」

という質問には、
もしかしたら、意味はないかもしれない。
多分、ないだろう…

本気で怒られると、
ちょっと焦るけれど、
流れが変わると、

なに、マジ切れしてんだろうねぇ~。

と、バカにする余裕さえ出てきます。

本気で相手をしたり、
マジ切れする方が
本当に「バカ」を見ます。

試されているのに、
まんまと引っかかったようなもの。

大人がそれじゃあいけない。

逆に、試す立場にならなければ、
大人であることの意味がない。

今の時代、マスコミからは、
毎日のように、
子供にまつわる事件が聞かされる。
それ自体が、どこかしら、
大人を試している社会の現れのような気がする。

子供に、ちょっと試されただけで、
大人が、取り乱すようではいけない。

私も、反省、反省です。

2007年5月 7日

起きられない朝

うちの娘たちは、
今朝起きるのが大変そうでしたね。

ゴールデン・ウィークのたたりでしょうか?

どうしても、
布団から離れることが出来なさそう…

ゴールデン・ウィーク中にした「いたずら」を
今日、すればよかったなぁ、と後で思ったのです。

いたずらっていうのは、
朝10時近くになっても
起きてこない長女に、

「おいおい、いつまで寝てんだ?
 朝ごはんが終わって、
 昼ごはんも終わったぞ。」

って、枕元で言ってやったんです。

えっ!?

という声を出して、
すぐに目を覚ましていました。

前日の夜9:30には
寝ていた良い子だったのに、
それでも12時間以上寝ているんですからね。

それが休みも終わって、
朝の6:15に起きなきゃ
学校に間に合わない。

苦しいはずです。

「今日から学校だよ。」

という起こし方では、
目も覚めるわけありません。

何の驚きも、何の魅力もありませんでしょうから。

それでも、今朝は頑張っていきました。

そうそう、今日から
「五月病」の人もいるでしょうねぇ。
日本ならではの病気…

起きられない朝くらいは、
まだ幸せな方でしょうね。

ゴールデン・ウィークに、
事故などに巻き込まれていないだけ、
ぜいたくな幸せだと思っていなくちゃ
いけませんよ。

皆さんも、何事もなく、
ゴールデン・ウィークを
終わられましたか?

思う存分楽しんだ、という人も、
何もしなかった、という人も、
こうやって、この画面を見られているだけで、
かなりの幸せ者です。

今週1週間も、
がんばって勉強や、仕事をしましょう。

2007年4月23日

とむらい合戦

日本人は、
とむらい合戦が好きだと
思っていた。

けれど、どうやら、
時代は、変わってきたのかも?
という気がしてきた。

長崎市長の銃撃事件で、
代替候補として立てられた娘婿さん。
明らかに、そのとむらい合戦効果で
勝とうという気が感じられた…

しかし、結果は、
その娘婿さんの勝利ではなかった。

今朝の報道を見ると、
負けたという結果をうけて、
亡くなった市長の娘さんが、

「率直に言わせてください。
 市民の皆さんにとって、父は、
 その程度の存在だったのですか?」

と、体を震わせて、話していた。

私は、そういうことじゃないのでは…?
という気がした。

というのは、開票作業の中で、
こんな投票用紙が見つかったようだから…

「伊藤一長市長
 今までありがとうございました」

→投票用紙の写真

政党に投票するものであれば、
その考え方に賛同できるかどうかが、
ポイントだと思う。

個人に投票するものであれば、
それまでの実績を評価するとか、
発表されている考え方に期待するとかの
意味があるはず。

亡くなった市長には感謝している。
しかし、代替候補として立てられた人に
縁もゆかりもないと感じる人達にとっては、

投票は、市長への感謝とは
別問題として考えなければいけないのが正論。

冷静に、
そういうことを考えた市民が
多かったのだと思う。

喪に服して沈黙を守るか、
とむらい合戦をするか。
おそらく、ご家族の方々は、
考え悩んだことでしょう。

歴史をひもとけば、
実際、とむらい合戦が
いつも勝利するとは限らない。

負けることも覚悟で戦うから、
とむらい合戦なのだ。

勝つ意志というより、
戦う意志を引き継ぐことかもしれない。

それを引き継ぐわけでもなく、
もし、勝った後の利益だけを見積もって
戦いに挑んだとしたら、
覚悟が足りないことになる。

「大義」という言葉がある。
多くの人に認められやすい、
人として守るべき道義のことだ。

昔から、戦争というものは、
個人的な理由、それもかなり利己的な理由で
始める場合でも、大義を偽装してでも、
始めることが大切にされていた。

そうすることで、
味方や協力者の集まり具合にも、
その覇気にも影響を与えたものだから。

情報の少ない時代には、
偽りの大義にだまされもしただろうが、

情報が多い現代には、

「本当の大義は、誰の胸にあるのか?」

そんなことを考えていく人々が増えないと、
世の中は、変わりきれないのではないだろうか。

2007年4月14日

イラっとする時…

毎晩、イラっとする瞬間があります。

お風呂上がりに、
髪を乾かそうと
ドライヤーのスイッチを
オンにした瞬間です。

毎日のことなのに、
そのことを忘れて、
毎日、イラっとしています。

次女が、節約好きで、
ドライヤーを差し込んでいる
テーブルタップの電源をオフにするんです。

自分が使った後はもちろん、
他人が使った後にも、
すぐに気づいて、オフにします。

ということは、自然、
翌日には、オフになっています。

だから、ドライヤーのスイッチをオンにしても、
ドライヤーは、温風を吹きだし始めない。

イラっとしている指先で、
テーブルタップの電源をオンにしないと、
髪を乾かし始められないのです。

わが家のみんなが、
イラっとしていることです。

節約主義は、とてもいいのですが、
ちょいと迷惑している家族のみんな。

そういう次女でありながら、
暖かい部屋を開けっ放しにしたまま、
部屋を出ていったりはする。

それこそ、節約しろ、
と思うのですが、
そういうことには、

「ちょっとの間だけだから、いいでしょ!」

という返事。

「おまえ、もしかして、
 学校でも、節約、節約って騒いでいないか?」

と聞くと、ニヤリとする…

こりゃあ、いやがられるかもなぁ、
と感じて、釘をさしておいた。

「おまえ、人に言うのはいいけど、
 自分のこともちゃんと見てから、
 人に言うようにしないと、
 ただうるさがられる人になっちゃうぞ。」

自分のことは見えないものである。

人のことはよく見えるから、
いくらでも指摘も出来れば、
注意も出来る。

子供のように、素直に言葉が出る時には、
多分、なおさらだろうし…

そんなことで、人間関係が
面倒なことにならないようにと思う
親の私でした。

多分、今晩も、
イラっとして、
それを思い出すことでしょう。

2007年4月11日

修学旅行に行けない

娘が入ったばかりの中学校では、
3年生が昨日の朝、沖縄へ出かけた。

知人も、自分の娘を
見送りに行ったとのことで
その時の様子を聞かせてもらった。

バスに乗らずに、
学校の中へ戻る生徒が1人…

最初から来ていない生徒が4人ほど。
インフルエンザが治っていないため…

全部で100人ほどの
生徒の中で5人と言えば、
かなり多いような気がする。

3泊4日の旅行が、
中学校生活の思い出の
すべてであるはずはないけど、

体調が、そのタイミングにうまく合わないで、
旅行に行けないのは、やっぱりもったいない。

日時の決まっているイベントっていうのは、
それに合わせて自分を準備できないと、
残念なことが起こりうるから、
気を引きしめていたいものです。

実際、気を引きしめていても、
うまく合わせられないこともあるでしょうから、
もしもの時は、あきらめるしかないのも事実です。

それが次のチャンスがあることならいいけど、
修学旅行みたいに、次がないのは、
残念なことでしょう…

修学旅行に行けない子供たちは、
自宅で待機なのでしょうね。

なかには、
「新学期が始まってすぐ、
 というこの時期にやるから、
 そんな脱落者が増えるんだ!」
って逆ギレする親もいるかもしれない。

子供の思い出のことを考えれば、
そんな気持ちになる親について
理解できないわけでもありません。

みんな元気で、みんな楽しく、
思い出ができるようになんていう願い自体が、
無理なことなんでしょう。

「そう言えば、私は、
 体調崩して、修学旅行に行けなかったなぁ…
 ずっとウチにいて、マンガばかり読んでたよ。」

なんていうのも、たしかに思い出の一つです。

まだまだ1年、残っています。
これから、いい思い出がどんどん出来ますように。

2007年3月29日

安上がりの女

うちの子供が持ち帰った「おたより」を、
ざぁっと見ていたら、
偏食の女の子の話があった。

思わず、ニヤっとしてしまったので、
その文章を紹介します。

-------本文------

うちの子は、「超」がつくくらいの偏食家です。
好物は? と聞かれても思いつくのは、

ご飯に、タラコに、ハタハタ

の3種類で、それ以外の食べ物は
別に無理して食べなくてもいいような
感じです。

気に入ったおかずがなければ、
ご飯だけ一口二口食べて
ごちそうさまをする有様です。

そんな具合なので、
回転寿司に行った時には、
これといって好物がないものだから、
いつもカッパ巻きを食べています。

最初から最後まで
飽きもせずモクモクと食べています。
栄養の面から見て
本当は色々な物を食べて欲しいのですが、
この時ばかりは、カッパ巻きで満足する我が子を見て
「安上がりの女」とからかいながらも、
その分、私も妻もお兄ちゃんも
高いものを食べています。

ところが、その娘が、この度、
歯の矯正をすることになり、
装置を付け始めました。

偏食がたたってか、
あごの発達が未熟で歯並びに
影響が出始めたのです。

その費用はうん十万円ということで
「安上がりの女」が一転して
「高上がりの女」に変わってしまい、
わが家の家計を圧迫しています。

ただでさえ、お金のかかる時期に…

というわけですので、この際、
かけたお金に見合ったレディになってもらいたい、
と願っているわけで。さて、どうなることでしょう…?

------本文終わり--------

偏食のせいで、歯の矯正。

それが真因かどうかは、
よく分かりませんが、
いろんな子供がいるものです。

うちの子供たちにかけたお金を再計算したら、
どうなるんでしょう?
それに見合ったレディとは、どんな女性像か?

今のところ、三女については、
まだ正体不明なので分かりませんが、

長女と次女について言えば、
もし同級生だったら、
気になる存在だろうな、っていう性格や才能は、
感じます。

おそらく、親の欲目でしょうが…笑

2007年3月28日

5人目の子供に500万円

人の才能は、
いろいろな面で
発揮されるものだけれど、

要は、それを評価してくれる人が
いなければ、浮かばれないことになる。

ソフトバンク社にて、
社員の育児支援の一環として、
第3子には100万円、
第4子には300万円、
第5子には500万円、
をプレゼントするそうだ。

子供がたくさん欲しい、
という才能(?)が、
こういう制度の会社では、
評価されることになる。

なかには、
お金欲しさに、育てる気もないのに、
子供を産もうとする社員が出てこないか、
なんて心配もあっただろうと思うが、
若い人たちを会社から離れないようにするための
策なんだろうと思う。

ソフトバンク社では、
対象となる勤続1年の社員は12,000人。
そのうち、子供の数でいうと、
3人は360人、
4人は53人、
5人は5人いるという。

子供4、5人っていうと、
やっぱりすごいなぁ、
とは思うけれど、

私の身近にもいるから、
そんなに珍しい気もしない。

産む人は、たくさん産む。
産まない人は、一人も産まない。

そんなふうな現象があるように
感じてしまう…

今、ソフトバンク社にいる社員のなかで、
子供がたくさん欲しいと思っている人にとっては、
そこからの転職を考えることは、
よほどの決心が必要な気がします。

もちろん、そんなことに関係なく、
俺は才能があるから、
いつでも、どこへでも転職できる、
という自信のある人もいるでしょうけどね。

子供がたくさん欲しい、
という才能が評価されるこの制度。

おそらく、数千円、数万円の祝い金を
プレゼントする会社は数多くあると思うけれど、
やるからには、こんなふうに、
どどーんとやって欲しいですね。

けれど、おそらく、
反発もあることでしょう。

なんで、
仕事に対する評価の報酬でなく、
そんなプライベートなことに
会社のお金をそんなに使うんだ!?
みたいなものが…

俺(私)は、結婚もしていないし、
子供もいないけれど、
あいつより会社に役立っているはずだ。
その500万円、俺(私)によこせー!

ってな具合に。

おっしゃる通り。

ただねぇ、
介護にいくらか携わってくると、
子供の必要性を強く感じますよ。

会社に尽くして、
お金をいっぱいもらって、
老後に備えて一人で
溜めこんでいるジジィババァ予備軍よりも、

一つの新しい生命が、
とても恋しいです。

4人目、考えようかなぁ…笑

2007年3月21日

やめさせること

自分でちゃんと責任がもてて、
「やめる」という決断をするのは、
誰もが出来るものじゃない。

学校をやめる、
会社を辞める、
恋人をやめる、
結婚をやめる、
男(女)をやめる…

親が、子供に、
「いいよ、おまえの好きにしていいよ。」
と言うのは、ある人にとっては簡単で、
別の人にとっては難しい。

そして、簡単な親がいいかと思えば、
それを受けて、簡単に決めた子供が
あとで後悔することは少なくない。

一方、簡単にゆるさない親が、
しっかりとした子供を育てられるかといえば、
必ずしもそうではなく、
子供を「反発心の塊」にしてしまうことも
たくさんある。

どこまでは、親が決め、
どこからは、子供に決めさせるか。
その判断は難しいのだ。

お金がかかることは親が決めて、
そうでないことは子供が決める?
それも、おかしい…

将来に影響することは親が決めて、
そうでないことは子供が決める?
よく分からない…

決める前に、
どう決めればいいのか、
迷う始末だ。

「やめる」のはいつでも出来るから、
とりあえず、続けていなさい…?

「また始める」のはいつでも出来るから、
今はやめてもいいよ…?

本当に、それでいいのか。

たとえば、未成年の子供が、
性転換手術をしたい、
と言ってきて、
「いいよ。おまえの好きにしていいよ。」
と言える親は、どれくらいいるんだろう。

男をやめる、女をやめる、
っていうことを、
そんなに若くして決断して、
後悔させないだろうか…

と心配するのは当然のこと。

実際、後悔している子供がいるのは、
事実のようだ。

若いという「心の揺れ」に加えて、
性の変化という「揺れ」が重なったら、
心が苦しむのは目に見えている。

やる気がない姿を見ると、
「やめさせようか」と思ったりする。

そう思いながらも、
「気合い入れて、やる気を起こさせよう」
という思いもないでもない。

私も、いろいろ悩む年頃です。
自分のことでも、子供のことでも。

今のところは、
ほかの何かが見つかるまでは、
「やめない」「やめさせない」
というポリシーで生きています。

2007年3月16日

卒業おめでとう2007

今日は、うちの長女の小学校卒業式。

今年で最後かもしれない、
PTA役員としてのお祝いの言葉…

考えたものを、そのまま掲載しようと思います。

-----本文----

卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
また、今日は私もその一人ですが、保護者の皆さま、
これまでご指導していただいた先生方にも、
お祝いと感謝を申しあげたいと思います。

文集「竹の子」にも紹介しましたが、
卒業生の皆さんが、去年の5月に暗唱チャレンジした
茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩は、
私が以前から好きだった詩です。

今日も、この詩を読みたいと思います。
卒業生の皆さんも思い出せたら、
言ってみてください。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ 」

ありがとうございます。

皆さんは、まだまだ大人ではありませんが、
少しずつ、人間としての責任が
増えてくる時期に入ることになります。

何もかも、他人のせいにするというわけにもいきません。
「傷つけられた」と言えば、みんんが同情してくれるとも
限りません。それは、大人にしても、難しいことです。

この詩を思い出して、
まだまだ未熟な感じ方をする自分を、
「なんだ、そんなことぐらいで、クヨクヨしてるのか」
「ばかものよ」と笑い飛ばせるような心のゆとりを
もつようにしましょう。

それが出来ないと、
自分を一番邪魔するのは、自分になっちゃいます。
他の誰でもありません。

今日から、自分の感受性くらい、
自分で守れるよう、頑張ってみましょう。

もちろん、私たち大人もがんばります。

以上で終わります。
本日は、まことにおめでとうございます。

-----終わり-----

こんなところでしょうか。

2007年3月13日

死ぬくらい働いちゃうわよ

人を脅迫する方法は
いろいろあるもので、

たとえば、
上司が大声を出すと、
部下たちがビビって働き始めちゃうとか、

別の人の場合は
冷たい視線でにらむと、
周りが思わず言うことをきくとか、

なんて言うか、
強い態度に出ることが
ふつうだと思われる。

しかし、うちの妻は、
まったく違う方法をとる。

それは、私や子ども達に
やって欲しいと思っていたことを
やっていなかった時のこと。

「ああ、私がやれば、よかった」

と必ず、言うのである。

ふつうならば、
どうぞどうぞ、やってやって、
と思うかもしれない。

ところが、うちら家族は、
その言葉が、とても怖い。

それは、

「私が死ぬくらい働けばいいことなんでしょ」

という意味にもとれるくらいの言葉だから。

結婚前は、
そんな気配は感ぜられなかったが、
うちの妻は、下手すると、
一日中、家事で動いている。

いろんなことに気づきすぎて、
働き始める。やってくれる。

そして、疲れる…

疲れられてしまうと、
今度は「使いもの」にならなくなる。

片づけられない女に、
困っている夫や子供の話はよく聞くけれど、

私たちのように、
片づけすぎて疲れすぎる女に、
困っている夫や子供もいるのです。

今朝も、1つの事件がありました。

朝から、妻は、ため息の連続です。
ため息を聞くたびに、
居心地が悪くなります。

ああ、なんとかして…

ただ、私達には、
味方がいるのです。

それは「時間」

忘れるのが得意な妻は、
すぐにも忘れてくれます。

だから、けっこう助かるのですが、
それでも、忘れるまでは、

息が詰まる時もあります。

片づけられない女は、
私も多分イヤだろうけれど、

片づけすぎる女っていうのも、
なかなか慣れません。

間もなく、結婚14年になりますけれどね。

2007年3月 1日

「伸びる」にふれる

人が伸びるというのは、
見ていて面白いものです。

特に、介護とかに関わっていて、
「伸びる」というよりは、
「看取る」ような感じに近い環境に
ふれてばかりいると、

「伸びる」と場面に遭遇できるのは、
感動というか、一番の刺激になると
思います。

だから、スポーツ少年団とか、
ボランティアなどで、そういうことに
携わる人も、それなりにいるんでしょう。

その気持ち、分かります。

「生きてる」「動いてる」
という実感が湧きますからね。

1.伸びそうな人を見つけること。

2.伸びそうな人を育てること。

3.伸びている人をさらに伸ばすこと。

こういう3つのことがあるなかで、
子供とか、若い人を手がけてみたい
と思う人には、それぞれ、
好きというか、得意なところがあると思います。

私は、多分、「2」のところでしょうね。

伸びそうな人を見つけられるほど、
忍耐強くない。だいたいは、
伸びるか、伸びないか分からない人と
ふれる時間が多いでしょうからね。

かと言って、
伸びている人をさらに伸ばせるほどの
知識とか、能力が自分にないという現実も
あるわけです。

とりあえず、仕事でも、スポーツでも、
ある程度のことが出来て、
いろんな情報を集めて「今」を知っているから、
時代遅れの教え方にならない自信もある。

だから、伸びそうな人が目の前にいたら、
基本から、ちゃんと教えられるわけです。

学校教育みたいに、
クラスみんなが分かるように教える、
というのは、私には無理みたい…

過去に、そういう現実にぶち当たったことがあるので、
経験として、よく分かるんです、自分のことが。

どういうところで
「伸びる」にふれるかは、
いろいろあるとしても、
人を育てることに、
人は携わっているべきだと思います。

そうしないと、
自分が伸びなくなっちゃいます。
自分が伸びなくなったら、
周りに集まる人も、きっと
伸びない人ばかり…

そんな環境にあって、
「いい生き方」が出来るわけがない。

そう思う。

2007年2月13日

子供が真似をする人

ふだんは、学校と自宅を行き来するのが
子供の生活パターンではあるけれど、

習い事とか、ほかのものも加わると、
少しずつ、人間関係の幅が広がります。

そういう中から、
子供たちは特徴をすばやく見つけ出して、
その人の真似を始めるのが上手です。

それは、大人だったり、子供だったり…

あまりにも無邪気すぎると、
身体障害者の方の真似もしたりする。
そこらへんは、親がちゃんと教育して、
真似してはいけないことを
教え込まなければいけない。

そんな子供を
観察力があるというのか、
好奇心が強いというのか、

それとも、真似される側を
個性的というか、
変わっているというか、
面白いというか。

そこは分かれるところかもしれないが、
「真似」というのは、人間の本能に
入っていることなんだな、と思います。

良いことも、悪いことも、
真似をすることから始まる。

しかし、真似したいと思う事柄は、
人それぞれ、違うもの。

笑わせるために真似をすることもあれば、
自分を伸ばすために真似をすることもある。

あるいは、
ほめてもらいたいだけ、
仲間はずれにされないように、
面白そうだからとか、
優越感を感じるためとかも…

そう考えると、うちの5歳の三女は、
まだまだ小さいせいか、
「ほめてもらい」ためだけに
お姉ちゃんたちの真似を
していることが多いかな、
と思っていた。

ところが、最近は、
違う傾向が見え始めてきた。

自分では分からない漢字を
書くのを真似するようになったのだ。

そして、少しずつ、読み方も分かってきている。

漢字が面白い?
おりこうさんに見えるから?
勉強することが好き?

今のところ、本当のところは、
分からない気もする。

けれど、何か向上ためにしていることを
真似するようになるのは、いいことだ。

これからの人生でも、
そんなことを真似している人間に
なってもらいたいもの。

それをしなくなると、
きっと、つまらない大人になる。

「そんなことしても、ムダだよ。」
と必ず言うようになる人間だけは
イヤだな。

2007年2月 1日

学校には行かなくていい

中学入試シーズンを迎えて、
小学6年生の教室が
がらがらのところもあるようです。

もちろん、試験当日という場合もあるようですが、
「風邪気味なので」という理由であったり、
風邪をうつされないようにという警戒であったり、
それこそ、受験勉強をしているケースもあるよう。

何のための学校か?

学校が本当に必要か?

そんな議論も出てきそうな気がします。

踏み台…

そんな表現がピッタリな存在に
なりつつある小学校。

踏み台でOKなら、
それなりの存在に
変えていけばいいのでしょうけど、
小学校をそういう見方でなく
期待している人もいるでしょうから、
一筋縄ではいかない気もします。

なんと言っても、
義務教育ですからね。

義務教育だから、行ってもいいし、
行かなくてもいいなんてことになったら、
税金を使って払われている先生の給料が
「不確かなもの」に払われていることになります。

給食費が1%くらいが未納であることも含めて、
国会などで議論されているように、
義務教育というのは、考えなければいけない時期に
来ているんでしょうね。

学校に行かなくていい。

そんなことが当たり前になったら、
それこそ、
教育を受ける人と、
教育を受けない人という状態も
出てくるでしょうね。

「受けない人は、働くしかない」みたいな…

そういえば、昨日は、
ある事件の容疑者の母親が、
「うちが貧乏で、借金がたくさんあったから、
 学校に行かせることが出来そうになかった。
 だから、生まれた子供の
 出生届も出せなかった。」
といっていた言葉が報道されていましたね。

義務教育の時代でも、そういう方法で、
教育を受けさせないでいることも出来た。

そういう事実があるわけです。

そんなことですから、
学校に行っても、行かなくてもいい、
なんていう時代が来たら、
教育の差は、もっと大きくなるかもしれませんね。

それが進めば、
また昔のような「貧富の差」も広がる?

そして、争いも生まれてくる…

ちょっと、考えすぎてみました。

2007年1月11日

リフトに乗っている時間

今シーズンの冬は、
今のところ、やっぱり雪が少なくて、
助かっている。

けれど、子ども達は、
スキーの授業があるので、
冬休みのうちに1度くらいは、
スキーに連れて行こうと思い、
先日、連れて行った。

スキーに行って思うのだが、
あのリフトに乗っている時間は、
どうにかならないものかなぁ…
という感じ。

二人乗りのリフトだと、
娘たち二人がいっしょに乗るから、
私が一人になってしまう。

すると、リフトに乗ってから、
頂上に着くまでは、孤独な時間。

吹雪いていたりすると、
その孤独感は、とてつもなく高まる。

いろんなことを考える。

眼下に見えている、
スキーをしてる人々のことを、
勝手に想像もしたりする。

小さい男の子が、
お父さんの後に続いて、
上手に滑っている様子を見ると、
お父さんが一生懸命に教えたんだなぁ、
と感心したくなる。

私は、そこまで、教える気がない。
ある程度、滑られるようになったら、
あと楽しく滑っていたらいい、という感じ。

私は、子ども達の滑りを眺めてはいるけど、
けっこう好き勝手に、滑っているから。

ってなことを考えていても、
なかなか、リフトの終点には着かない。

深刻になりたいわけじゃないけど、
人生についても考えてみようか、
なんて思ったりもする。

けれど、寒かったりするから、
リフトを降りるたびに、子ども達に、
「もう、帰りたくないか?」
なんて聞いたりもする。

子ども達は、
「まだまだ、すべる」
という答え。

滑って降りていけば、また、
孤独なリフトの時間が始まる。

リフトがなければ、
あんなに高いところから
スイスイと滑ることは出来ない。

けれど、なんか、自分の足で登って、
滑り降りてくるコースなんてのもいいなぁ、
という気もしてきた。

多分、かなり汗をかくだろう。
寒いなんて感じてる暇もないくらい。
唯一、滑り降りてくる時間だけ、
「涼しい」なんて感じになるかな?

便利なリフト、けれど、
むしょうに孤独なリフト。

今度行った時には、
リフトを使わないで
滑ってみることを真剣に考えてる。

あの寒さと、あの孤独は、
もうイヤだぁーーーーー。

2006年12月23日

勧誘のマンガ

うちの長女は、
まだ中学校にも入っていないのに、
高校入試の教材勧誘DMが来る。

そう言えば、知人には、
高校入学が決まったばかりなのに、
大学入試の対策案内DMが来ていた。
たしかに、分かるといえば、分かる…

しかし、あまりにも早い勧誘で、
すこしウンザリする。

娘たちは、そのDMの中に
入っているマンガを見て、
「そんな点数、ぜんぜん、問題ないじゃん。」
とか、のん気なことを言っている。

おそらく、実際に、中学生になれば、
そんなのん気なことも言ってられなくなるだろう。

都心とかに住んでいれば、
それはなおさら…

大人の競争社会顔負けのバトルにおいて、
必死な努力を求められるんだろうなぁ。

私は、高齢出産という表現に、
かなり抵抗があるけれど、
先日、ジャガー横田さんが、
その高齢出産を無事に終えて、
母子ともども退院されたということで、
記者会見の報道がされていた。

その中で、気の弱そうな(?)旦那さんが、
退院して帰る車の中から、
ことばの教育を始めたという話。

ジャガー横田さんは「早い」と言ってたけど、
まんざら、そういうわけでもないな、
と思いながら、聞いていた。

大人は、自分たちの社会に、
競争があることを知っている。

子供たちも、同じような競争を、
自分たちの社会でも実感している。

それは、おそらく、大人社会からの期待とか、
プレッシャーとか、ストレスとかいう「かたち」で
入り込んできているものだと思う。

もちろん、子供のエゴで
競争心が強まることもあるけれど、
ほとんどは、大人のエゴから
伝わってきているんじゃないだろうか。

そう考えると、うちの娘らが
読んでいた「教材勧誘のマンガ」は、
大人の思考で考えられて、
誘導しようという企み。

大人がレールを敷いて、
子供がその上を走る。

大人がまったくレールを敷かずに、
子供が何かを達成するために走ることは、
めったにないだろうから、ある程度は、
仕方がないとしても…

んー、いろんな勧誘ばかりが多くて、
自分が子供に対してどうすればいいのか、
さえ見失ってしまいそうな気がします。

2006年12月17日

話し言葉は、ひらがな

子どもと話をする時には、
「ひらがな」でしゃべる気持ちが
必要だと思う。

もっと話を広げれば、
それは、大人と話す時にも、
役に立つことかもしれない。

何かをしゃべっている時に、
その言葉の漢字を思い浮かべて
しゃべることなんて、
ないだろうけれど、

だいたい早口になったり、
専門用語をバンバン出したりしている時には、
漢字が口から出ているようなものだと思う。

それを、口から
「ひらがな」を出しているように意識すれば、
自然と会話は、やわらかくなる。

小難しいのが好きな人にとっては、
カンタンすぎて、じれったくなるかもしれないが、
だいたいの人にとっては、
きっと分かりやすくなる。

面白いのは、
話す言葉は分かりやすくても、
それを書かせると、難しく書いてしまう人がいること。

逆に、書く言葉は分かりやすいのに、
それを話させると、難しく話してしまう人もいること。

私は、どっちだろうなぁ…

自分では後者のような気がしているけれど、
実際のところ、話す言葉も、書く言葉も、
難しい人間だったら、
しょうがないなぁ。

話し言葉は、「ひらがな」にしてみる。

私の来年の目標にしてみようか、
と思ってます。

2006年12月 8日

わが家のパフェ

やせているけれど、
大食いの妻が、
必ず見たがるテレビが、
大盛の特集番組。

昨晩はちょうど、
テレビ朝日系の「黄金伝説」で、
それをやっていた。

やっぱり、
子供たちも付き合って、
見ることになる。
私もそこにいるから、
目に入ってくる…

おいしい、おいしい、
と言いながら、
食べる芸人さんたちに、
多少の共感を得ながらも、
食べきれなそうに見える大盛には、
食欲は湧いてこない。

しかーし、
甘いもの大好きの
子供たちの心をつかむものが登場。

大盛パフェである…

甘党の私も、
サイズはともあれ、
やはり、食べたくなってきた。

「アイス、買ってきてぇ~」

と、まず、長女がねだり始める。

次女は、希望的に、
付き合うよ、みたいな空気を
漂わせている。

三女は、訳が分かっているのか、
分かっていないのか、
「食べたい、食べたい」と繰り返す。

妻は、人ごとのように
「買ってくれば…」
と言う。

私本人も、夕食前に、
けっこうハードな運動をしたから、
胃袋の余裕もあるし、
体が甘いものを求めているのを感じる。

もし、アイスを買いに行かなかったら、
アイスの幻想に悩まされながら、
家にある甘いものを食べあさりそう…

うーん、よし、買いに行ってくる。

三女を連れて、
近くのスーパーに行くことになった。

夜7:30。
ちょっと雨模様だけれど、
パフェに賭ける思いは、
そんなことに負けるもんじゃない。

家族みんなの思いがかかっている。
一番は、私かもしれないけれど…

2リットルサイズのバニラアイス。
チョコ味のコーフレーク。
そして、チョコソース。

これだけあれば、完璧だろう…

家に帰ると、もう大盛特集の番組には、
用はなく、みんな、それぞれで盛り付け、
パフェ・パーティとなった。

出演していた芸人さんは、
2リットルサイズなんてペロリと
食べられることだろうけれど、

うちら家族は、2リットルもあれば、
おかわりしても、まだ残る。

ああ、おいしかった。

今晩も、食べるんだろうなぁ。
わが子らは…

2006年11月14日

身内になりたい、他人になりたい

自分にとって都合のいい人、
誇れる人、自慢できる人、
そういう人が身内だったら、
誰にでも言いふらしたくなるかもしれない。

けれど、
誇れない人、恥ずかしい人については、
出来れば、身内であることを
隠していたくなる。

万が一、自分の名字とかが珍しくて、
その身内が良くないことで有名になったら、
同じ名字であることで、
かなりの痛手を負うことになるだろう。

そう考えると、
珍しい名字というのは、
損である。

ただ、本当は
良くないことをしているわけでないのに、
単に変わっているという理由だけで、
周囲から遠ざけられている身内をどう扱うか、
これが一番むずかしい。

自分自身は、その良さを分かっているのに、
周囲がそれについていけていない。

自分も分からないフリをするのか、
それとも、理解されるように
周囲を説得する側にまわるのか。

それが出来るかどうかは、
本当の勇気が試される時だと思う。

なんて言っても、
身内に関わることですからね。

そういう可能性のある身内を伸ばすか、
くじけさせるかは、身内の理解に
かかっていると思います。

もし、身内に、
そういう理解者がいない時には、
そう遠くないところに、
理解してくれる人がいるかどうか。

「人の目」に勝つっていうのは、
けっこう難しいものです。

子供は、子供の社会において、
大人は、大人の社会において、
それぞれ勝つのが難しい理由をもっています。

子供だから勝てるわけでも、
大人だから勝てるわけでもありません。

自分の何を守って、
何を捨てるか。
その選択にかかっている。

身内の存在というのは、
そういうことを試してくれる、
第一の関門のようです。

あなたの身内に、
変わっているけれど、
何かしら可能性をもっている人は、
いませんか?

2006年11月13日

結果を知らせてください

私の声など届くはずもないですが、
先週、文部科学省に届けられた
あの自殺予告の手紙の差出人は、
今、どうしているんでしょう?

いたずらだったのか?

自殺を思いとどまったのか?

周りの監視が厳しくなって、
自殺を実行できずにいるのか?

もし、いたずらだったとしたら、
もう、この種の手紙は、
かなり信用されなくなります。

本気で助けを求めている人が、
同じような訴えをどこかにしたとしても、
「ウソっぽい」という判断をされることになる。

そういう意味では、手紙の差出人は、
いろんな人に迷惑をかけていることになっちゃう。

もし、自殺を思いとどまったのなら、
それを、何らかの方法で伝えて欲しい。
そして、どうして、それを思いとどまったのか、
実際の助けがあったのか、
マスコミの効果で「いじめ」の手が止められたのか、
それとも、自分の心の中でさらに耐える決心をしたのか、
そういうことが知りたい。

昨日や、おとといも、
自殺した人がいます。
校長先生の自殺も、
よく聞くようになりました。

マスコミが発表したことによって、
いじめに、自殺に、どのような影響が及ぶのか。

近くの人に助けを求められない時に、
マスコミの力を使うことが出来るのか。
それとも、逆効果なのか…

そういうことが見えてくる期待
(もしかしたら、単なる好奇心かもしれませんが…)
をもっていたのですが、結局、
何も分からない、という結果で終わったとしたら、
とても残念です。

先週末は、テレビ、インターネットと、
ニュースに心を向けていたのですが、
どうなったんでしょう…本当に。

2006年11月 6日

根本的なところの性格

いくら「見せる」努力がうまくなっても、
いくら「隠す」技が磨かれても、

根本的なところの性格は、
やっぱり、変わっていないなぁ、
って感じることがあります。

攻撃的なところが、
どこかで、必ず出てくる人。

自信のないところが、
なんとなく、見えてくる人。

事なかれ主義の人は、
何となく逃げ腰になってくる。

なんでも自分でやりたい人は、
知らず知らずのうちに、
人に任せることが出来ずに、
前面に出てきてしまっている。

変えようと思っても、
なかなか変えられない…

だからこそ、
それが個性。

変える必要なんて、
あるんだろうか。
そんな素朴な疑問も出てきますが、
生まれたまま何も変わらずに、
成長していって、どこかで苦労することが
予測されるんだったら、やっぱり、
ちょっとくらいは変わった方がいい。

うまく隠す技とかでも…

でも、それが行き過ぎて、
自分の個性までも消し去って、
自分自身が生きている理由さえ
見失うくらいの「変化」は、
望まない方がいい。

だれでも、成功したい。
うまくいかないよりは、
うまくいかせたい。

そのうまくいく姿を、
新しい自分の個性として思い描いて、
(もしくは、受け入れていって)
自分が生きることに苦しくなるのでなかったら、
「変化」していった方がいい。

本当の根本的なところは変わらずに、
どこかに残っているとしても、
変わることをあきらめないでいたい。

自分が仕事をしながら、
変わっていっていない、
変わっていっている。

子供が頑張って、
変わっていっている、
変わっていっていない。

でも、根本的なところは、
どうだろう…?

やっぱり、変わってない。
それが良くないところであったら、
出てこないように頑張りたい。

大きく変わらなくても、少なくとも、
そういう努力が出来る人間でありたい。
自分の子供も、そう育てたい。

そう思います。

2006年11月 2日

そこの女、そのままにしとくか!?

スポーツ大会の施設に行くと、
いろんな人がいます。

小さい子供も、退屈がちに、
ウロチョロしています。

応援に熱中していながらも、
時おり、どうしても、頭にくる行動も
見受けます。

私も、小さい三女を連れて行くのですが、
長女や次女の応援に夢中になっていると、
その三女がウロチョロし始めることになります。

先週の日曜日、
子供の卓球大会がありました。
おなじみの会場です。

三女は、勝手を知っていて、
いろんなところをウロチョロし、
遊び始めます。

試合と試合の合間には、出来る限り、
退屈になりがちな三女と遊ぶようにしています。

先日の大会でも、そうしていると、
トイレの入り口で立ち尽くす男の子が、
目にとまりました。

ん?
その立ち尽くす姿は、もしや…

案の定、おしっこをもらしていて、
足元には、おしっこの池が出来ています。

母親は、どこにいるんだろう?

と思いながら、回りを見渡すと、

「あらぁ〜、何しているのよぉ〜。」

と言いながら、母親が来ました。

よかった。あとは、
この母親が始末をしてくれるんだろう、
と安心して、三女を追いかけて、
その場を去りました。

5分後くらいに、また、
その場所を通りかかると、
母親も、男の子もいませんでした。

ふと、トイレの入り口を見ると、
あ、あ、あるではありませんか?
おしっこの池が!?

えっ! あの母親は、何をしていったのだ!

怒りがこみあげてきます。
私にしては、珍しいことに、
そのまま、トイレに入って、
トイレットペーパーを多めに引き出して、
おっしこの池を拭きました。

怒りながら、その作業をしている自分に、
なんか、変わっているな、と思いながら、
きれいさっぱりとした入り口になりました。

これで、多くの人が知らないで、
そのおしっこの池を踏みつけ、
その足で、大会の会場を歩かれることは、
なくなります。

すぐ近くに歩いてきた妻や子供たちに、
「こんなひどい母親がいたなんだ!」
と訴えていると、娘たちから、

「お父さんが、そんなことをするなんて、珍しい!」

と言われる始末。

たしかに、そうだなぁ、
と思いながら、周りを見回すと、
例の母親が、そこにいるじゃありませんか。

何、しとんじゃぁ〜〜!!

その位置に居たら、
俺のやっていたことが見えただろ!!

なんで、何も手伝いに来ないのだ!
一言、何か言いに来ないのだ!

そう感じながらも、
直接言いにいくのは、
避けました。

何か、どこかしら、
余裕がない人だったのかもしれません。

間もなくして、その母親のことは忘れましたが、

「なんで、私が、珍しくも、
 他人の子供のおしっこの池を
 掃除してやろうなんて、思ったのか?」

そればかり考えていました。

ふと思ったのは、
娘たちが精一杯戦っている会場が、
ある意味、「神聖」な場所に思えたんでしょう。

だから、そういう神聖な場所を、
おしっこで汚しながら、そのままにしておく人が
ゆるせなかったのかもしれない。

直接、指摘するよりも、
早くきれいにしたかった、
ということだったんでしょう…

やったことは、表面的に見れば、
他人の不始末をきれいに片づけることですが、
内面的には、やっぱり、
私個人の理由だったわけです。

わたしは、ワタシなんだなぁ、と思いました。

その母親も、違うワタシを持っていたんでしょう…

2006年10月 8日

平等にして欲しい?

「私たちを平等に扱って欲しい」

という言葉は、うまく出来ている。
なんか、これ自体に、
正当な主張をしているような空気があるから…

しかし、実際、
中身を見ていけば、
そうでもなかったりする。

この言葉を口にする人は、
どういう人々か?

まず、その時点で、
それを言った相手から、
ちゃんと相手をされていない、
もしくは、軽く扱われている気が
している人々だろう。

その不平・不満から
この言葉が出てきた。

さて、この不平・不満は、
どういう動機から出てきているか?
というのが問題だ。

仮に、その人々が、
自分だけちゃんと扱われていたり、
注目されていたら、
きっと何も言ってこない人もいるだろう。

自分が特別視されるのは、
まんざらでもないのだ。

多分、誰かが不平・不満を言っても、
「いいじゃん、いいじゃん、
 そんなこと気にしない方がいいよ。」
みたいなことを言うだろう。

あるいは、自分自身が、
人を扱う側に立ったときには、
それぞれの人に対して、
扱い方が変わる人かもしれない。

それで、本当に平等か?

人は、
平等に慣れると、差が欲しくなり、
差によって自分が不利になると、
平等が欲しくなる。

勝手な生き物である。

しかし、逆の見方もある。
ある意味、「平等」に扱わない方が、
本当に平等である場合も少なくない。

たとえば、仕事でも、スポーツでも、
指導されるにあたって、
指導する側は、すべての人に、
同じレベルを望んだら、
時には平等でなくなる。

人それぞれのレベルに応じて、
求めることを変える、
平等でなくした方が、
平等な扱いと言えるんじゃないだろうか。

平等という言葉は、
正義と同じくらい、
微妙なものかもしれない。

2006年9月25日

お菓子の役割

子供たちとよく食べるお菓子の袋を
何気なく、眺めていて、
裏側をチラっと見たときに、
目に入ってきた言葉がありました。

こんな文章です。

「お菓子は、人と人、母と子の
 あたたかいふれあいを生みだします。
 子供に楽しさと夢を与え、
 個々のの豊かさを育てます。
 おやつのことを英語では
 リフレッシュメンツといいます。
 元気をつけるとか、
 心身を爽快にするという意味です。
 おやつの果たす役割をあらわすものでしょう。
 親しい人を招いてのホームパーティ、
 近所の人たちが集まってのよもやま話、
 そんなときになごやかな雰囲気を
 つくるのがお菓子です。」

なんか、いいなぁ、
お菓子をもっと買って、
役立てなくちゃいけない気がしてきた。

来客時にお菓子を出す習慣って、
アメリカとかでは、あまり見かけないから、
日本人らしいことのよう…

以前、アメリカの友人と、
日本人の知人宅に訪問した時に、
お菓子を出されて、そのアメリカ人は、
えらく感動していた。

たしかに、その後で、
今度は、別のアメリカ人宅に訪問した時には、
テーブルに何も出てこなかった。

「水、飲みますか?」
って聞かれた程度。

もちろん、パーティなど飲食のための
集まりであれば、何かが出るのは、
当然だろうけど、

イヤ、もしかしたら、
広いアメリカ。

「そうとも限らないよ。
 何気ない訪問の際にも、
 ちゃんと茶菓を出すところもあるよ。」

なんていう事実もあるかもしれない。
とりあえず、決めつけないでおこう。

食欲の秋になったせいか、
夕食後、何か食べたい気持ちになるこの頃。
思わず、戸棚や、キッチンの机を開けて、
何かないかなぁ…って探してしまいます。

うちの妻は、
甘やかすのが大好きですから、
ちゃんとあるんですよね。

お手頃なスィーツとか、スナックが。
やみつきになるようなヤツ。

私も、3人娘たちも、
そういう「何かある」環境に、
完全に飼い慣らされている感じです。

2006年9月24日

待っている人がいること

待っている人がいることを忘れると、
待たせた方が、今度は忘れられる。

待っている人がいるって、
本当は、素敵なことなんだよなぁ…

けれど、待たせている側は、
そういうことを当たり前に考えて、
忘れがちになる。

待たされている側だって、
待たされてばかりで、
期待ばかり募らされると、
そのうち、それから解放されたい、
って思ってきて当然。

待っているのって、間違いなく、
待たせているよりも、
身も心もすり減ることだから。

「じゃあ、もう、待っていなくていいよ。」

なんてセリフを吐いたら、
そのとたんに、お互いの関係は、
きっと冷めていくだろうと思う。

ただね、意外と、
立場が逆転したりすることも
あるからね。

親子関係で言えば、
幼い頃は、子供が、
親が関心を向けてくれること、
遊んでくれることを待っている。

けれど、大きくなると、
今度は、親が、
子供の帰りを待っている。

親が、幼い頃の期待に応えていなければ、
きっと、大きくなってからは、
親の期待に応える義務すら忘れるかもしれない。
だって、応えてくれなかったじゃん、みたいな…

男女の関係だって
同じかもしれない。
最初は、女性が待つ側かな。

それが時が経つにつれて、
立場が逆転することだってある。

その時に、待たされていた側の気持ちが分かって、
それを訴えたところで、遅いかもしれない。

待たせている時にこそ、
その気持ちを分からなければ
いけなかったのだから。

私はどうだろう…?

待っている時は、気が短くて、
待たせている時には、無関心なんてことに
なっていないかな。

もし、そうだったら、
最悪だょなぁ。

人生のそれぞれのシーン。
待っている側、待たせている側、
それぞれをちゃんと分かっている人間でありたい。

2006年9月21日

病院での寝泊まり

小さい頃は、
よくあるものです。
原因不明の発熱とか…

大人でもありうるか。

昨日、それに似たようなことが
次女の身にあって、
大事をとって入院することになり、
初めての体験でしたが、
病院に入院でなく、
付き添いで寝泊まりしました。
(さきほど、帰ってきた次第。
 お母さんと交代です。)

なんせ、初めてのことで
寝るためのものを
持参することを忘れたのですが、
そんなに深刻に考えずに、適当に、
椅子に座ってベッドに伏していれば、
寝られるだろう、と思っていました。

しかし、夜になってみると、
最初の30分ほどは、
うつらうつらと眠れたのですが、
ちょっと起きてしまうと、
自分の体勢と、体にあたるベッドの感触が
気になって、やっぱり眠れないということに…

まもなく、夜中の12時。
どうしたらいいものか…と考えているうちに、
疲れている頭に、アイデアが浮かびました。

ちょうど、その病院の近くに、
私の「楽屋?」「事務所?」が、
もう1つあって、そこにある、
こたつ用の下敷きが浮かんだのです。

もしかしたら、子供用のカーペットかもしれない。
けれど、毛じゃない。表面は、綿布地です。

夜中の12時、次女が寝ている病室を抜け出して、
10分あまり歩いて、そこに辿り着きました。

辿り着いてから考えたのは、
こんな夜中に、いきなり電灯がついたりすると、
不審人物の侵入に間違われたりするかもしれないから、
真っ暗闇を、お目当ての部屋まで進んでいきます。

暗闇をつかむように、
壁づたいにゆっくりと歩きました。
途中、思いがけないところの扉が、
こちらに開いていて、危なく、
顔をぶつけそうになりましたが、
それも、クリア。

なんか、ゲームみたいな気分です。

お目当ての部屋に着いて、そこは、
外側にあんまり灯りがもれないところだから、
安心して、電灯をつきました。

あった、あった…

ちょうどいいサイズ。
次女の寝ている個室に、
床にピッタリのサイズ。

折りたたんで、持ってきたバックに
詰め込みます。ちょっとはみ出ますが、
気にしない、気にしない。

カギをかけて、
病院へ戻る道すがら。
なんか、ホームレスが寝場所を探して、
歩いている姿に見えなくもない自分を
感じました。

すれ違った女子高生が、
ケータイをいじりながら、
こちらを怪しげな目で見る。

っつーか、なんで、
女子高生が制服姿で、夜中の12時に、
街を一人で歩いているわけよ!

そっちの方が、かえって怪しいぜ、
と視線を返しながら、病院を目指しました。

静まりかえった病院へ到着。
新聞紙でもあればよかったのですが、
見当たらずに、部屋にあった古い漫画本のページを
20枚ほど外して、床に敷きました。
そして、カーペットを二つ折りにして敷き、
体を横たえる。ああ、なんて、幸せ。

この幸せを感じるために、
私は、椅子に寝ていたんだなぁ…

横になりながら、しばらく、
ニヤニヤ笑っていました。

次女は、スヤスヤ…
私も間もなく、スヤスヤ…

入院の付き添いも悪くないなぁ。

2006年9月12日

ベッドへの憧れ

わが家は、ベッドでなく、
部屋に布団を敷いて寝ているので、
子ども達は、ベッドに憧れたりする。

そう言えば、私も小さい頃は、
ベッドに憧れていたなぁ…

今は、まったく。

昨日、おばあちゃん用の
新しい介護用ベッドが家に届いた。

介護度1については、
介護保険が適用にならなくなったため、
各家庭において対処することが、
今年9月からの国の方針らしい。

そのベッドが届いた。
そんな立派なベッドではない。

また、介護度がアップした時に、
ちゃんとした介護用ベッドを
再び借りることになるだろうから、
お手ごろ価格のベッドを入手した。

組み立てられたベッドを見て、
早速、子ども達が反応した。

「今日、ベッドで寝たい」

組み立てを手伝った次女の希望である。

それまで何をしているかも
分からなかった長女と三女が登場。

「私も寝たい!」

「わたしも」

3人娘の母いわく。

「3人いっしょには無理だから、
 今日は誰、明日は誰と、
 交代交代で寝たら?」

「じゃあ、今日は私。」
長女が、すぐさま言う。

私は、ピキっと来る。

「何、言ってんだぁ、おまえはぁ?
 なんにも、手伝っていないだろ!」

「あぁ、はい、はい。」

自分に、
権利があることを知った次女は、
最初は喜んだけれど、
みんなとは違う部屋で一人寝ることに
心細くなり、とうとう、
その権利を、長女と三女にゆずった。

二人で、どれだけ、
寝てくれるもんだか…

と思いつつ、夜を待った。

三女の心変わりを予測して、
ベッドを置いている部屋から離れていない部屋で、
私は、この機会にとばかりに、
デジカメで撮影した写真の整理を始めた。

母親と次女が、寝室に向かったのは、
午後9:30頃。

「電気を消しなさい」と、
長女と三女に伝える。

しばらく経っても、
くちゃくちゃ話し声やら、
動く声、笑い声ももれてくる。

憧れのベッドに眠れて、
興奮している様子。

10:00。まだ起きている。

10:30。まだ動いているような音がする。
長女は、明日の学校、大丈夫だろうか?
と思いつつも、1回は寝かせないと、
気が済まないだろうからと思い、
時の経つのを待った。

11:00、やっと静かになった。
長女が寝たのは、確実だろう…
しかし、三女は、本当に寝たのかな?

11:15。私の予想が当たって、
ベッドから起き出して、ほの暗い部屋から、
こちらを眺めている生物の「かたち」を感じた。
しばらく、知らない振りをする。

ちょっと待っても、
その存在が感じられたので、
そちらに向かった。

「トイレか?」

首を横に振る。

「眠れないの?」

コクンとうなずく。

ほら、見たことか? と思いながら、
後で寝室に連れて行くことを考えて、
とりあえず、座布団2枚を敷いて、
「そこに寝ていなさい」と言った。

不思議なもので、いつもの場所に寝られる、
という安心感を感じたのか、
その後、すぐに寝た。

憧れは強くても、
それが叶ったときに、
心が耐えられない。

結局は、いつもの方がいい。

人への憧れも、
同じものかもしれませんね。

2006年9月 6日

自分を超えられた時

いつまでも、
「助けてあげなければいけない」存在だと
思っているうちに、
いつの間にか、自分を超えていたりする。

嬉しいやら、
悲しいやら、
ビックリするやら、
子供というのは、
そういう存在である。

そんな時期になっても、
いや、まだまだ「俺の手」が必要なんだ、
と思い込んでいたら、かえって、
相手の成長を止めてしまいかねない。

子供に限らず、
部下でも、生徒でも、
自分が鍛えたり、教えた相手は、
教え方さえ良ければ、
自分を超えてくれる。

いつまで経っても、
自分を超えられないというなら、
教え方が悪い…
としか言いようがないかもしれない。

それとも、素質のないところに、
無理やり教え込んでいるか、
そのどちらか。

たとえば、自分の子供だからと言って、
同じ素質があるとは限らないのだから。

自分を超えた、または、
もう自分の助けが要らない、
と認めたら、あとは、
うまく身を引く方法を探すしかない。

もしかしたら、
身を引こうとした瞬間に、
子供の方で「まだ、そこにいて」
みたいなことを言ってくるかもしれない。

そうだとしても、
「大丈夫、ちょっと離れて、見守っているから」
と言い聞かせて、身を引いた方がいいのだ。

子供は頼もしい。けれど、
たしかに、不安定なところもある。

だから、手は離しても、
目と心だけは離しちゃいけない。
うちの子供も、少しずつ、
そんな時期に入ってきつつあるように思います。

2006年8月27日

電車で、ちょっと旅行

クルマの移動ばかりが
増えてきている昨今、
電車にも、バスにも
めったに乗ることがありません。

うちの子ども達も、
例外にもれなく、
そんな感じですから、
電車とか、バスとかに
乗る機会があると、妙に喜びます。

それに加えて、
うちの三女は、
電車とバスの区別が分からない。

昨日は、電車で1時間ばかりのところへ
所用があって、出かけました。
クルマで行っても、同じくらいの時間で、
着けるところなのですが、
電車で行ってみよう、
三女も連れて行こうと思い立ち、
電車に乗り込みました。

昨日は、ちょうど、
大曲の全国花火大会があって、
いつもより混んでいる様子でした。
って言いながら、そのいつもを知らないわけですが、
多分、混んでいたことでしょう。

1つ乗り換えがあったので、
その花火大会に行くお客さんたちといっしょに、
降りました。

幸い、次の電車は、
そのお客さんたちとは違う方向なので、
ゆっくり乗れることが出来たわけですが、
そこから、うちのチビちゃんのショーが始まります。

座席の上で飛び跳ねる…
電車がガタゴトいっていますから、
(ちょっとローカル電車っぽいのです。)
あやうく、通路に落とされそうな姿。

通路と乗降口付近をウロチョロしたりもするから、
電車が曲がる瞬間には、
振り回されて、乗降口の段ができているスペースに
落とされそうにもなっている。

ホント、何も知らないって感じでした。

飽きないようにと、
200円ばかり駄菓子をおやつとして
買っていたのですがね…

お菓子には飽きなかったようですが、
電車旅行が楽しかったようです。

後ろの座席に座っている、
高校生らしき姉ちゃんをチラチラと見ながら、
ちょっかい出して、遊んでいるし。

「何歳? お母さん、いないの?」
とか聞かれて、何も答えないうちに、
なんか、お母さんのいない、かわいそうな子と
思われているような空気もただよっているし。

そういう私も、
無理に会話に加わって説明をしなくても、
彼女らにも忘れ去られることだろうからと思い、
本を読むことにしました。

暑くなるだろうと思って、
三女の肩にはタオルをかけさせていたのですが、
クーラーが効きすぎて、かえって寒いくらい。

外に出ても、涼しい風が吹いています。

もう、秋なんだなぁ…と思いながら、
用事も済ませ、帰りの電車内も同じように過ごさせ、
夏の電車旅行は終わりました。

3ヶ月後には冬が来ると思えば、
ちょっと怖い気がするくらい。
暑い夏には、そんなことも想像できなかったけれど、
それも想像しやすくなった今日この頃です。

2006年8月15日

キャンプは涼しかった!

何年ぶりかで、
キャンプに行ってきました。

昨日のお昼頃に出かけて、
今日のお昼前に自宅到着。
1泊2日。

常設されているテントを
1,600円でレンタルし、
家族5人分の利用料2,400円を払い、
合計4,000円だけという
たいへん身軽なキャンプでした。

キャンプ場には、人がいっぱい。
その人たちの荷物もいっぱい…

身軽すぎる私たちは、
あちらこちらへと散策をしたり、
アスレチックをしたり、
露天風呂に入ったり、
お湯の噴き出るこんなところも見たり…
と、かなり楽しみました。

大噴湯

子ども達をもっと早く、
連れてこられていたらなぁ、
とも思いましたが、
三女の聞き分けが悪いので、
今の時期が無難だったのだ、と
夫婦の会話は落ち着きました。

夜ご飯は、焼きそば。
朝ご飯は、サンドイッチ。

と、いかにも、
気合の入っていない「キャンプ素人」らしく、
あくまで、身軽なキャンプを体験しました。

家族みんなの初体験ですから、
あまりにも気合を入れ、
揃えすぎて、疲れてもねぇ…

というのが、面倒くさがりの私の持論でして。

夜は涼しく、寝やすかったです。
ただ、いつもより、かなり早起きして、
いろんなことを考える時間がとれたなぁ。

考えたこと1:
だまって座っていると、
チョコチョコと動くアリの姿が、
いくつも目に入る。
エサらしき虫や植物を運んでいる姿も、
人間が踏みつぶしちゃえば、
すぐにも消えちゃう命。
しかし、それでも生きている。

そして、彼らの食べるエサなど、
この地上にある食べ物に比べれば、
微々たるもの。それだけで十分な生き方。

ふつうに考えれば、
足りなくなるわけがない。

人間も多分同じはず。
アリの何百倍も大きな体をもっているとは言え、
本当に生きるために必要な食物は、
ささやかなもんだろうなぁ、と思う。

それでも、どこかで足りないところがある。
なんか、不思議だった…

考えたこと2:
チェックアウトの時間が来て、
簡単に、クルマに荷物を載せ終えた私たち。
妻と娘たちは、最後の露天風呂に入っていた。

人々は、テントを片づけたり、
備え付けのリヤカーで大量の荷物を
運んでいる。

そして、必ずと言っていいほど、
リヤカーが石ころとかにつまずいて、
荷物が落ちてしまう。

こんなに大きな荷物をどこに持っていくんだろう。
また、キャンプするのかな。
それとも、来年まで物置の中かな。

便利な生活ができる時代に、
わざわざ不便な生活を求めてくる私たち人間が、
なんか、こっけいに思えてきた。

便利は好きでも、飽きちゃうんだろうなぁ…

しょうもないことを考えながら、
涼しい山間で過ごしたキャンプ生活は、
終わりました。

子ども達の夏休みも、後半戦です。
今週末は、卓球大会もあり。
さ、どうなるかな?

2006年8月14日

預け慣れてる母親

数年前、近所にアメリカ人夫婦がいた。
ものすごい近かったわけではないけれど、
けっこう交流があって、
彼らの生活風景を見て、
「へぇ〜」と思わされることが多かった。

アメリカに住んでいる時には、
なかなか子宝に恵まれず、
ちょっとした気分転換に、
日本での英語教師を引き受けて、
やってきていたのだろう、と思う。

そうした願望がヒットしたのか、
間もなく、子供が産まれた。

ちょうど、うちの次女と同じ時期に産まれた。
わが家は、義父母と同居はしているけれど、
面倒を見てもらえるくらいの体力がないため、
自分たちが、ほぼ100%子育てするのが
当たり前だと思いながら、生活していた。

幸い、次女であったから、
だいぶ慣れていたし…

ところが、彼らは、
産まれてまだ間もない頃から、
近所のおじいちゃんおばあちゃんに、
子供を預けて、いろんなところに出かけていた。

ちょっとした買い物どころか、
夫婦の1泊旅行までやってのけた。

すごい!、この人たちは。

アメリカ人という個性もあったんだと思う。
まかされた方のおじいちゃんおばあちゃんも、
それを楽しめる人たちだったのだろう。

子育てを、うまく楽している彼らに、
ちょっとした「うらやましさ」も
感じたりしたもの。

同時に、なるほど、そういうやり方もありなんだな、
と気軽に考えることも出来るようになった。

預け慣れると、
子供も預け慣れてくる。

預け慣れないと、預けながらも、
一挙一動ずっと見守っていないと、
心配になったり、ナーバスになるだろう。

彼らは、もうアメリカに帰ってしまって、
次の子供が産まれたということで、
写真を送ってよこした。

日本に来て、本当に良かったんだろう、と思う。

昨日は、日本人だけれど、
子供を預け慣れているお母さんを見た。
2人の子供を引き連れて、
うまい具合に手を貸してくれる、
おばあちゃん達に、預けていた。

時には、うちの娘たちにも、
ちょっとの時間預けていたりもした。

人を信頼できるっていう性格にも、
つながっているんだろうなぁ。

いい性格だよな。

2006年8月13日

食べ残しを食べられる間柄

誰かがふれたもの、
口にしたもの、
体から出てきたものについて、

自分がどれだけ触れるか、
なんてことが、その相手への思いを
測れる「ものさし」だったりする。

もちろん、介護などの仕事をしている人は、
そこらへんとはまた別の世界かもしれないけど…

結婚する前に、ボランティアで
幼児の施設に行ったことがあった。

子ども達と遊んだり、
スタッフの仕事を手伝ったりと、
自分では自分の働きに満足して、
充実していた気分になっていたけれど、

「こんなに乗っているんだから、
 オシメも取り替えてあげよう。」

と思って、取りかかりかけた時に、
体が止まった。心が抵抗した。

やっぱり、出来ないなぁ…って思った。

一緒に行った友人は、
平気な顔して取り替えていた。

「妹のをやった時があるから」

「へぇ〜、そんなに小さい妹がいたんだ。」

なんて会話をしていたけれど、
内心、尊敬の思いが出てきた。

妹のをやっていたからって、
出来るもんじゃないよぉ〜、
って分かっていたから。

間違いなく、その相手との心の距離だと思う。
自分が勝手につくっちゃっている距離…

先日の夕食、スパゲティを食べていて、
次女が「お腹いっぱい」と言って、
少し残した。

「いいだろ、いいだろ。
 俺が食べる」と言って、
私が食べかけて、
ちょっと尋ねてみたいことが浮かんだ。

「自分の食べ残しを食べられていて、
 なんか、イヤな気分はしないか?」

次女「しないよ。」

「おまえは?」

長女「別に」

まだまだ、オヤジくさい男には、
分類されていないようだ。
おそらく、私が食べ残したものは、
食べたくはないだろうけれど、ね。

そんな娘たちが幼い頃のオシメは、
何の抵抗もなく変えられた。
オシメのぬれ具合をチェックするために、
履いているオシメの内側を指でさわって、
知らず知らずのうちにしていたウンチが
指についても、なんとも思わなかった。

子供が生まれる前には分からなかった感情。

口や体にふれたもの、
そこから出てきたものに、
どれだけ触れるかが、
ちょっとした愛情の証…?

私は、娘たちが何歳になるまで、
食べ残しを食べられるんだろう。

あんまり食べ続けていると、
それこそ変態オヤジに思われそうだから、
大人になったら、やめた方がいいだろうな。

2006年7月18日

ぶんなぐるぞ!

「ぶんなぐるぞ!」
「ぶっぱたくぞ!」
「ぶっとばすぞ!」

おどしの言葉だ。

今の時代、
会社や学校でこんなことを言ったら、
パワーハラスメントとか、
指導のいきすぎとか非難されるだろう。

けれど、親子の関係であれば、
躾のために、そういう脅し文句が
あることもあるだろう。

もちろん、いきすぎれば、
児童虐待になる。

考えてみれば、
ぶんなぐるぞ!と言うからには、
過去にぶん殴った事実があって、
「その時と同じ目にあわすぞ!」
という意味になるはず。

親と子供が1対1の時に、
そういう脅しを言うか、
公衆の前でそういう脅しを言うか、
それによって、その言葉の重みも
違うだろう。

1対1の時に言うのは、
目的はあくまで相手を脅すこと。
それさえ果たせればいい。
たとえ、公衆の前で言いたくなったとしても、
周囲に与える自分のイメージを壊すことを避けて、
(もしくは、相手に公衆の前で恥をかかせないために)
あとで、1対1になってから言うというわけだ。

しかし、公衆の前で言うのは、
自分の思いをコントロールする必要を感じない場所、
もしくは、周囲に与える自分のイメージについて
何の心配もしていないこと。悪く思われようが、
かまわないというわけだ。

昨日も、娘たちの卓球大会があった。
団体戦…
監督兼父親というある知人。
自分の娘が、自分の納得するような試合をしてこないと、
「ぶんなぐられたいか?」
と脅す言葉を吐く。

団体チームのメンバーばかりでなく、
相手チームにも、会場にも、
けっこう聞こえる。

それを初めて見て驚いた私に、
別の知人が言う。

「前から、いつも、あんな感じだ。」

そうかぁ…

さめざめと泣く、その知人の娘さんが、
なんとなく哀れに思えるけれど、
そういう父親との付き合いになれている彼女は、
まもなく、普段どおりになっていく。

鍛えられているなぁ。

鍛え方は、いろいろあるだろうけれど、
うちの娘たちは、その姿を見て、
私という父親の厳しさとは、
別の厳しさを見たようだ。

「うちのお父さんは、ぶんなぐるぞ、
 って言わなくても、怒るときがあるから、
 いつ怒るか分からなくて、もっと怖いよね。」

ははぁ〜。

2006年7月16日

お祭り騒ぎ

近くのショッピングモールにて、
昨晩、夏祭りが行われた。

子ども達の記憶では、毎年、
メモ帳やペン、シールなどの小物が
安売りされるということだったが、

私の記憶では、
毎年というわけじゃない、
と思っていた。

その夏祭りの日にかかわらず、
在庫整理の時にはやっていたはずだよ、
と子ども達に伝えた。

長女は、そっかぁとそれを信じ、
出かけるのを思いとどまったが、
次女は、そうかもしれないけれど、
この目で確かめるために見てくると言い、
夏祭りに出かけた。

小雨が降っていて、
後には大雨になる可能性もあったため、
私も付き添っていく。

小学生やら、中学生やら、親子連れ、
フランクフルトを片手にビールを飲んでいるオヤジ、
などなど。かなりの盛況ぶりである。

ショッピングモールのアーケードに
立ち並ぶ出店を眺めて歩いていて、
次女は、早速、お目当ての店を見つけた。

定価400円のディズニーメモ帳などが、
20円で売っている。次女がねらっていたものが、
まさしく、そこにある。

安いというのは私にも分かるけれど、
すでに、似たようなものを
自宅にたくさん持っているのに、
さらに買い集める娘たちの心境は、
やはり、子供ならではのものなんだろう。

その心境は、分からないでもないが、
今の自分には、なくなっているワクワク感かもしれない。

けれど、大人にも、別のものが並んでいれば、
同じような行動が出てくる可能性はありえる。
一つの例は、今では珍しくない100円ショップ。

これも100円? あれも100円? それも100円?
そう思いながら、別に必要でもないものを、
安いという喜びで買い集める心境は、
ある意味、買い物というより、ゲーム。
もしくは、やっぱり、お祭り騒ぎに近い気がする。

安いからと言って、無制限に買わせるのも、
賢くないと思っていたので、300円までと決めて、
次女が買っている姿を、遠くで眺めていた。

いろんなものを手にとっては戻して、
迷いながらも、片手に持っている買い物袋が、
少しずつ膨れている様子が、娘の喜び、
そのもののように感じた。

無駄食いをしないよう、
軽めの夕食をとってきたためか、
周囲の友だちが、かき氷とか、ジュースなどを
食べたり、飲みながら、話をしていても、
次女は、ひたすら品定めに集中している。

しばらくして、かなりの満足顔で、
店を離れてきた次女。
それ以外の祭りの光景には興味がないらしく、
あとは帰る、と言い出す。

どこの祭りも、そうだろうけど、
普段は安く買えるものが、普段以上の値段で売っているものと、
普段は高く売っているが、かなり安く買えるものとがある。

前者に手を出すか、
後者に手を出すかは、
その人それぞれのお祭り気分次第、というわけだな。

2006年6月27日

見てなかったでなく、見えなかった?

「先生、ガラスが割れてしまいました。」

「割れてしまいましたでなく、
 割ってしまいましたでしょ。」

こう怒られるのが、普通である。

なかには、事情をよく聞いてみれば、
その通り「割れてしまった」ケースも
あることでしょうが…

聞き入れらることは、
めったにないかもしれない。
大人も、心の余裕がないからね。

私も、よく怒られたなぁ。
実際、ほとんどは、
私の不注意が多かったと記憶している。

なんか、ミスをした時には、
自分のミスでなかったことを
証明したくなるからね。

昨日、
「聞いちゃった」と公言して、
インサイダー取引で逮捕された村上さんが、
保釈されました。

事実は、「聞いちゃった」ではなく、
「聞き出した」もしくは「そう言わせた」らしいことを、
本人も認めているようですが、やはり、
「聞いちゃった」と公言したくなる大人の気持ちは、
分かります。

ただ、その場に、第3者がいると、
弁解とか、言い訳でなく、
事実が見えてくるんでしょうけどね。

娘が昨日、学校での出来事を話してくれました。
黒板に書いた文字を指差して、
「これは、何ですか?」と尋ねてきたそうです。

ある生徒が、
「先生、見えません。」
としゃべったらしい。

そしたら、先生が、
「見えないじゃなく、あなたが見なかったんでしょっ!」
と怒ったとのこと。

その生徒と同じ方角に座っている子供たちは、
「だって、本当に見えなかったのに…」
という思いを、ぐっと仕舞い込んで、
お説教を聞く羽目になったとか…

子供にとって大変な時代は、
大人にとっても大変な時代。

いろんな大人を見て、
さげすむのでなく、
何でも見えるように見える大人にも、
見えないものがあるんだなぁ…
って分かる子供→大人になってほしいと
願った私でした。

2006年6月22日

修学旅行の前夜

今朝、長女が
修学旅行に行きました。

行き先は、私が小学生の時と同じところ。
松島、仙台というコースです。

7:10までの集合、
7:30にバスが出発。
時間があったので、
見送りに行くことが出来ました。

去年、校外体験学習で1泊した際に、
荷物を少なめにして良かったという体験が
記憶にあったらしく、
今年も、少なめの娘の姿。

他の子ども達を眺めていると、
何を入れているのか、大きいバックを2つも
持っていく子どもの姿も見えました。

あれに、帰りのおみやげが加わったら、
さぞかし、たいへんだろうなぁ、
と思ってしまいました。

それも、思い出の一つにはなることでしょう。
楽しいハプニングは数あってもいいですが、
安全面では何事もなく帰ってきてくれることを
願う次第です。

バスが出発するまでの間、
私はしゃがんで、待っていたのですが、
たくさんのお母さん達は、
話がいろいろと盛り上がっているようで、
いろんな言葉が耳に入ってきました。

「うちの子は、朝の3時から起きているのよ。」

「忘れ物ちゃんと確かめるように行ったけど、心配だわ。」

「バスに乗って、窓から首出して落ちてしまうかも…」

修学旅行ネタの話は尽きないようです。

バスが動き始めて、
一人のお母さんがどこまでも、
バスを追いかけて、手を振っています。

周囲のお母さん達は、
「やめればいいのに…」と言いながらも、
見送りに熱心なお母さん。

たまらず、そのお母さんの子どもが、
窓越しに、
「恥ずかしいから、やめてちょうだい!」
というジェスチャーを送っています。

別に、遠いどこかに就職していくわけでもなく、
明日の夕方には会えるという短い修学旅行ですが、
こんな「見送りのシーン」も、
一つのイベントなんでしょうね。

ちなみに、うちの娘は、
いつもより30分くらいは寝付けなかったようですが、
今朝は、いつもどおりの起床。

自分の修学旅行は来年、という次女の方が、
ワクワクしちゃって、妙に早起きしていました。
内心、悔しそうなところもあるようで…