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2008年12月25日

気づかないホメられたい

クリスマス・イブの昨日は、
どこのスーパーも、
人が多かったことだろう。

わたしも妻と買い物に行ったが、
いつもとは違うスーパーに行った。

ちょい用があって、
自宅から40分ほど離れたところ。

買うつもりはなかったのだが、
妻が店内を見ている間に、
お惣菜コーナーを見ていた。

すると、そこに1人の女性。

ん?

竹村先生じゃないか?

と思った。小学校の時の担任だ。

その時には、
彼女の年齢のことなど、
考えなかった。

わたしの記憶にあったのは、
よくホメてもらったこと。

小学校を卒業してから、
25年は経っている。

憶えてくれているだろうか?

声をかけたい衝動にかられた。

自分の子供のことを話したりして、
なんか、ホメられたい気分になっていた。

「あのー、竹村さんですか?」

と声をかけた。

その女性、不思議そうな顔をして、

「あ、違います」

と一言。ちょっと、オドオドした感じにも見えた。
わたしの人相が悪かったのか...笑。

ああ、違ったんだ。

考えてみれば、
彼女の見映えは、50歳くらい。

今の私は、39歳。
小学校の頃に、先生は、
中学生の子供もいたくらいだから、
少なくとも70歳にはなっているはずだ。

50歳くらいなわけがない。

そういうことに気づかなかった。
というよりも、何かしらホメられたい、
なんとなく甘えたいような気分に
なっていたんだろう。

クリスマスだったからか?

そういうホメられたい感情があったことに、
あとで自分で気づいたのだけれど、
その時には、ホメられたい思いに
心が占められいたから、

なんていうか、
先生であってほしい願望ばかりが強くて、
年齢のことなんて考えなかったもんなぁ。

わたしにも、そんな感情があったとは...

義理も何もなく、ストレートな心で
ホメてもらえそうな時、
人は素直に、ホメてもらいたいと
思えるのかもしれない。

子供の時にホメられた記憶には、
そんな印象が強く残っているのだろう。

大人になってからは、
そんなストレートなホメられ方が
少なくなるっていうことなのかな。

だから、ホメられることに、
知らず知らずのうちに、飢えてくる。

それに、考えてみれば、
学校の先生という存在。
たとえ、実際に出会ったとしても、
わたしのことを、憶えていてくれるとは限らない。

退職するまでに、
出会う子供たちの数は、
かなり多い。

そういうわけで、憶えていてくれなかった、
という事実に出会えば、私は、
さらに、 ショックを受けたかもしれない。

過去の人から、
今の自分を褒めてもらおうなんて、
甘い考えかもしれませんね。

過去は、過去です。

2008年12月24日

涙で文字が...

涙で文字がにじんだら...

なんていう歌詞の歌が
昔あって、

便箋に書いた文字に、
涙が落ちてにじむということでしょうけど、
そんな手紙を送るかいな、

というツッコミを入れたくなったものです。

ドラマでも、歌詞でも、
本当にそんなことがあるもんか?

と思えるものは少なくありません。

けれど、
本当に起こりそうでないからこそ、
なんか共感できたりします。

それは、
そうあって欲しい、
そんなことが現実だったら、
という願望が心を引きつけるんでしょうね。

実際に、日本中を探せば、
そんな人がちょっとは見つかる
かもしれませんけどね。

やることの意図は、
まったく違ったとしても...

人間は、わざとらしいことを嫌いながら、
同時に、わざとらしいことが好き。

要は、それが出てくるタイミング。

その場所でタイミングがよければ、
好かれる。
タイミングが悪ければ、
遠ざけられる。

今日は、クリスマス・イブ。
ちょっとは、わざとらしいことがゆるされる日
かもしれません。

けれど、相手と場所を間違えないように
したいものです。

2008年12月15日

3分、2分、1分

知らず知らずのうちに、
ケータイを開けたり閉めたり...

先日、となりに座った女子高生が、
ケータイを閉めたと思ったら、
またすぐ開けるの繰り返しをしている姿。

今では、あまりにも当たり前の姿だけど、
実際、どれくらいの間隔で、
それをくり返しているんだろうと思い、
時間を測ってみた。
わたしも、暇人である。

2分、3分、2分、2分、1分、1分、1分、2分...

こんなにも短かったのか、
とちょっと驚く。

何かしら、一般的な調査データでも
あるもんかなぁ、と思って、
インターネット検索をしてみたけれど、
見当たらない。

授業中には、いくらか遠慮するんだろうとは思うが、
それでも、この間隔(感覚?)は、
変わらないだろうと予想できる。

誰かと対面でしゃべっていても、
ケータイを手に持っていれば、
思わず、この開け閉めをやっちゃうことだろう。

ケータイを忘れたり、
ケータイを持ち込んではいけない状況だと、
きっと、禁断症状に近いものが
現れるかもしれない。

それを見ていて、
ちょっと、この人、
生きていけるかなぁ、
という心配がもたげてきた。

きっと、大きなお世話なんでしょうけど...

呼び出し音が鳴っているわけでもない、
バイブで震えているわけでもない、
メールの着信音を消しているとすれば、
メールが届くたびに、すぐに返事をしているか、
メールが届かなくても、誰かに「つながって」いたくて、
何通ものメールを送っているか、
そのどちらかだろう。

何度も何度も、それをくり返している。

そして、20分くらい経って、
やっと、呼び出し音が聞こえた。

「つながった」という安堵感。

必要以上に大きな声でしゃべって、
これから遊ぼう、という約束を作っている姿が、

「私は、たくさんの人とつながっていて、
 すぐに遊べる人がいるんだよ。」

みたいなアピールに感じられた。

誰に、アピールしている、
と言うんだろう。

誰も、あなたの「ケータイでつながっている」振りには、
うらやましさなんて感じないのに...

1分ごとにケータイを開いて、
つながっていることを確認しないと、
不安になってしまう友だちなど、私は要らないな。

2008年12月14日

身代わり犯人

ミステリー小説とかを読んでいると、
真犯人が、身代わり犯人をつくろうと
いうシーンが出てきたりする。

現実的には、
なかなかうまく成功することは
ないだろうとは思うけれど、

小説の中でのことだから、
途中までは成功する。

身代わりにされた方が了解しているならともかく、
実際に、最後までそれが成功したら、
とんでもない目に遭ってしまう。

子供の頃にも、
そういうシーンに、
たまに出くわした気がする。

クラスとかで何か問題や事件が起きる。

そういう時に、
一番騒ぐというか、
まわりを扇動しようとする人間がいる。

「そういえば、アイツは、
 こんなことをしていた。」

「アイツが、あそこにいたのを見た。」

「アイツが怪しいに決まってるジャン。」

なんてことを言って、騒ぎ出す。

そして、身代わりにさせられようとする方が、

「違うよ、俺(私)じゃないよ。」

と焦って否定しようとすればするほど、
怪しく見えたりもする。

騒ぐことによって、
自分以外の人間に、
疑いの目を向けさせようとする真犯人。

子供らしい知恵なんだろう...

大人になると、
そういうことをすれば、
かえって怪しまれる、
ということが分かってくるから、

自分を埋もらせるために、
じっと静かにしている。

手が混んでくると、
わざと疑われる状態にしておいて、
決定的に思える反証拠も
用意しているなんてこともあるだろう。

いずれにしろ、
身代わりにさせられる方は、
迷惑この上ない。

自分を守るためには、
「真犯人」になりそうな人間に近づかない、
というくらいしか出来ないだろうなぁ。

やっぱり、人を見る目が必要ですね。

2008年11月24日

下町の素朴

古き、よき時代の象徴として、
「下町」っていう言葉には、
いい響きがあるけれど、

下町生まれでない私のような人間には、
どんな情緒が、そこにあるのか、
よく分からなかったりします。

きっと、その下町以上に、
地方の田舎では、
もっと素朴な生活があって、
自然と結びついたものが
あったんだろう...と思います。

ただ、田舎には、
圧倒的に、人が少ない。

東京の下町みたいに、
多くの人間がふれあって、
つくりだされる文化や風習が、
ちょっと少ないかもな、
という想像をします。

もちろん、まったくないわけじゃない
だろうけど。

子供らがテスト勉強で起きているというので、
先日、テレビ放映されていた
映画「ALWAYS続・三丁目の夕日」
を見ていました。

ドラマの中にあったセリフに、
ちょっと感動...涙。

「ただ不器用な者同士、
 肩を寄せ合って暮らしていけたなら、 
 君の顔を見て、君の声を聞いて、
 暮らしていけたなら。」

下町と素朴、という組み合わせが
ピッタリなように、
下町と不器用、という組み合わせも、
しっくりときます。

素朴で、不器用な生き方が、
今の世の中にうらやましがらることは
ありませんが、誰の心の中にも、
そういうところがあるんじゃないかなぁ、

って思います。

要は、それをうまく隠せるか。
隠そうとして失敗するか。
最初から隠さないか。

それだけの違い...

今日も、不器用な生き方を
しているかもしれない私です。

2008年11月12日

マジメな顔

自分の顔は棚に上げておいて、
他人の「マジメな顔」に
思わずふきだしてしまうことがあります。

えっ! それがマジメな顔?

みたいに。

でも、どんな顔であれ、
マジメな顔と、
そうでない顔の
区別がつけられる人は、
まだマシです。

マジメな顔と、
怒っている顔が、
ほぼ同じような人。

マジメな顔と、
笑っている顔が、
なんか似ている人。

マジメな顔が、
困ってる顔に
見えてしまう人。

判断がちょっと難しくて、
困ります。

「マジメな顔をして、やってよ!」

と言ったところが、

「この顔がマジメなんだよ。
 そもそも、顔は関係ないだろ!」

なんて逆切れされたりしたら、
マジメに進めたいことも、
進まない空気に...

なんていうか、
マジメな顔っていうのは、
変なところに力が入ってしまって、
予想外の顔になっていることも
あるんでしょうね。

私のマジメな顔は、
どうなんだろう?

2008年11月 1日

旅に出る勇気

自分の近くにいて、
あんまり苦労せずに
育っているように見える娘らを見ていると、

「ちょっと、旅に出てこいや」

なんて思ったりする。

自分で言うのもなんだが、
親自身の問題で、
子どもをそれほど苦しめることなく、
育てていると思っている私だからだろう...

おとといは、8年間も、
娘を監禁していた母親のニュースが
報道されていましたね。

家族というものは、
いいものだけれど、
そんないい家族の中にも、
閉じ込められすぎれば、

何かしら感覚がズレて
くるんじゃないか、と思う。

悪い家族なら、なおさら。

雰囲気のいい家庭を
わざわざ悪いものにする必要はないけれど、
そこからちょっと離れて、
どんな世界があるか、見させたい。

インドあたりがいい、
という人がいます。

夏は、とてつもなく暑く、
人も、すごい(?)といいますから、
そんなところへ「なぜ?」と思いますが、

現実を見せるのにいい場所だ、と。

人それぞれ、オススメの旅行スポットがあるでしょうね。

もちろん、そんな海外旅行でなくても、
旅に出た価値のあるスポットは、
日本にもあるかもしれません。

四国のお遍路さんとか?

けどねぇ、ホントは、
親が送り出した旅よりも、
自分で出ようと思った旅のほうがいいでしょうね。

2008年10月24日

分かってくれる人

人には、一人でもいいから、
分かってくれる人が必要だ。

その考えが、
どんだけ変なものだとしても、
分かってくれる人がいると、
助かる。

分かってくれる人がいないことによって、
かえって、偏見の底に深く
落ち込んでいく人もいる。

もちろん、分かってくれた人がいることによって、
さらに輪をかけて、偏見に凝り固まる人もいるけどね。

そういう人は、
救いようがないから、
とりあえず、論外しておこう。

人が、自分の変な考え方から離れ、
すこしは、まともな方向に自分で直していけるためには、
ある程度の理解を受けて、自分に気づく余裕が
出来なければいけない。

その余裕は、
分かってもらえている、
っていう実感からくることが多いと思う。

分かってもらえない、
と強く感じる心には、
なかなか、その余裕は入り込んでこない。

しゃべる前から、
分かってもらえることもある。

話し合って初めて
分かってもらえることもある。

「私にはそういう考え方は出来ないけど、
 なんか、分かるよ。」

そんな言葉でもいいから、
人は、欲しているんだろうなぁ...

分かってくれる人が見つかるなら、
人は、どこへでも行くくらいの気持ちになることもある。

そういう意味で、この雑多で、
たくさんの人々が参加しているインターネットという社会は、
分かってもらうためには、いい場所なんだろう。

ただ、ものすごいホントも入っているけど、
ちょっとしたウソも入っていることを見抜けなくちゃいけないね。

そうしないと、同じように、
偏見に凝り固まってくるから。

もし、あなたに、分かってくれる人がいるなら、
あなたは、ホントに、幸せなんですよ。

2008年10月 2日

誤解じゃない

たとえば、
嫌いだと思っていても、
「嫌い」という言葉を、
相手にも周りにもずーっと発しないで、
済ませることはできる。

けれど、嫌われている空気を、
相手は、ちゃんと感じることは出来る。

感じた相手が、
自分は嫌われているみたい、
と周りに言いふらし始めた時に、

「誤解されている」

と言えるだろうか。

たしかに、
「嫌い」ということは、
誰にも言っていない。

相手が、勝手に感じたことで、
場合によっては、間違っていることも
あるかもしれない。

けれど、
誤解なんかじゃない、
と私は思う。

仮に、誤解だとしても、
相手は、誤解したくて、誤解している。

つまり、そう思ったほうが、
自分に都合がいい、
または自分を守れるからそう思っている。

それだけのこと。

誤解されたなんて思わないほうがいい。
それを取り消してもらおうと、
一生懸命にならないほうがいい。

相手の思いたいように
思わせておけばいいじゃないか。
そう思うことによって、
相手に得があるならそれでいいだろうし、

自分の方に損があるなら
その損すら気にしなければ、
そのことはそれで終わるのだ。

つきつめて言えば、
世の中に、誤解なんかない。
そう思う。

みんな、自分の理解したいように
理解するだけのことかもしれない。
何らかの意味で、次に進むために、
あるいは、そこにとどまるために。

2008年9月30日

恩人の存在

いろいろと手助けをしてもらう、
いろんなものを譲ってもらう、
何かと声をかけてもらう。

そういう人がいるのは、
とてもありがたいことです。

恩人です。

自分が非力な時には、
誰でもいいから、
そんな恩人がいると、
ホントに救われます。

しかし、あとになってみると、
恩人の存在がちょっと心の負担になることも
少なくありません。

その恩人が、
スーッと姿を消してくれたり、
サラっと何でもないように振る舞ってくれると、
心の負担も軽くなりますが...

いついつまでも、
近くにいられると、
何かしらお返ししなくちゃ
いけない気持ちに、
いつも襲われることでしょう。

恩人の助けが必要な時が
過ぎ去ってしまった時に、
その恩人とどう付き合うか、
これは、大きなテーマだと思います。

その恩人がいなければ、
たしかに、あの時は通り抜けることが
出来なかっただろう。

しかし、今は、もう、
恩人の助けがなくても
大丈夫なところまで来た。

それでいながら、
恩着せがましくされると、
なんか、恩を受けたことが
かえって損のようにさえ思う人も
いるかもしれない。

すごく身勝手なことかもしれない、
と分かっていながらも、
そう感じてしまうこともありえる。

恩人がいる時には、
窮屈な気持ちを感じるけれど、
恩人がいなくなると、
心が解放されて、
なんか伸び伸びしていられる。

恩人の助けがいらなくなった時に、
恩人とどう付き合うか。

これって、自分を育ててくれた人と
どう付き合うか、っていうことにも
通じることでしょうね。

大切なことを忘れてしまいそうです。

2008年9月15日

同じ話の中に見つける宝

ご年配の方から、
話を聞くときには、
同じ話が何度もあることを
覚悟しなくちゃいけない。

そんな覚悟を持つことなんて、
まっぴらごめんで、
もう付き合いたくない、となれば、
同じ話が始まった瞬間に、
うまい言い訳を見つけて、
逃げていくことでしょうね。

身内の話とかになれば、
なおさらでしょう。

私も、自分の母親の話であれば、
同じ話を聞くのは、ホントに耐えられません。

逃げていかずに、
話の聞き役になるっていうことは、
その人に対して、ある程度の遠慮か、
ちょっとした好意でもなければ、
無理な気がします、私の場合は。

それでも、同じ話が出てくると、
やっぱり、ちょっとキツイと思うこともあります。

そんなときには、
その話の中に、宝物を見つけようと
思ったりします。

宝物といっても、
何かツッコミを入れられるネタ
のことなんですがね...

ツッコミを入れて、
さらにふくらませられること。
今まで聞いたことのない話に、
発展しそうなことです。

ただし、
そういうツッコミに応えてくれる人に
対してしか、できませんがね。

あくまでも、自分の話したい「同じ話」を
1から10まで話す決心を固く持っていて、
揺らぐことなく、話し続けようとする人には通用しません。

そんな人につかまってしまったら、
もう、あきらめるしかありません。

嫌われることを覚悟で、
話から逃げるか。
話し続けるのを
ひたすら忍耐して聞くか。

同じ話の中に見つける宝は、
なかなか見つけにくいために、
いずれにしろ、大変なものだなぁ、
と思うことでしょう。

2008年9月10日

楽しみと苦しみ

楽しいことが苦しくなる、
っていう感覚は、
もっともっと究めようという時に
生まれるものだと思います。

しかし、
楽しいことを究める気持ちがないと、
いつもワンパターンで、
つまらなくなることもあるから、
極めることが悪いわけでもない。

となると、
苦しむことが悪いわけでもない、
と言えることにもなる。

とは言っても、
人間誰しも、好きで苦しみたい人
なんていうのは、そんなにいない。

時おり、子供やお偉いさんの
ご機嫌を損なわないように、
たいして上達もしていないのに、

周りがわざと下手な振りをしたり、
おおげさに、上手だとほめてみたりする、
というシーンを見かける。

本人は、ほとんど努力もしていないのに、
そんな「上達」を実感できた気分になるから、
つけあがるに決まっている。

楽しいばかりだろう。

ただ、それも、しばらくして、
周りからご機嫌取りをしてくれる人々が、
サーッと消えると、現実を実感することになる。

え? 私は上手だったはずじゃないの?

という苦しみが、ドーンと押しよせる。

楽しみの後には、必ず、苦しみが。
そして、苦しみの後には、必ず、楽しみが。

世の中は、そんなふうに
なっているんだろうと思います。

今苦しんでいる方、間もなく、
楽しみが来ます。

今楽しんでいる方、存分に味わってください。
間もなく、その味わいが消えてしまうかもしれませんから...

時間を投資して、
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。

2008年9月 4日

人生に遅刻する

約束の相手が誰かによって、
早めに行ったり、
遅刻して行ったりするのは、

人間性が、
ちょっと疑われるかもしれない。

でも、たしかに、
「あの人なら、遅れても大丈夫だ」
と思ってしまう人がいるのは事実。

反対に、
「この約束は、絶対に待たせてはいけない」
と思う大事なことがあるのも事実。

人によって態度が変わる、
と思われてもしょうがない...

それよりだったら、
誰に対しても、キチンと早く行く人、
誰に対しても、だいたい遅刻する人、
っていう感じの方が、
裏表がなくて分かりやすい。

人生には、ところどころに、
約束っていうものがあって、
それには、1つ1つ重みがあるのが、
当たり前といえば当たり前。

同じ人との約束も、
時が流れれれば、
変わってきたりもする。

好きになって告白して、
付き合うことが出来たばかりの時には、
1分1秒も遅れることなく、
待ち合わせに行っていた相手に、

その同じ相手に、
結婚してからは、いつ帰るか、
今どこにいるかも伝えることなく、
晩ご飯の準備もしているというのに、
待たせていてもなんとも思わない。

そのくせ、
「あ、食べてきたから」
なんてことも多々あったりする。

遅刻しても何とも思わない相手に、
なっちゃったんだよねぇ。

トキメキがなくなったから、
なんて自分と相手を納得させるけれど、
ときめかなくなった自分が原因なことには、
気づいていない。

人と結んだ約束か、
自分と結んだ約束か、
神様と結んだ約束か。

どれを大切にするかは、
人それぞれの、その時々の価値観で
決まるものだろうけれど、

いつしか、どの約束に対しても、
けっこうラフな自分がいて、
知らず知らずのうちに、
自分の人生にも遅刻しているような気分に
なっていたりすることはないですか?

こうなっているはずのところに、
まだ辿り着いていない感じ。

うーん、遅刻しているなぁ...

でも、それはそれで楽しいから、
自分をゆるせている自分です。

2008年8月31日

捨てられた気分

あまりにも、
家族とかに迷惑をかけると、
家族から捨てられる。

会社に迷惑をかけると、
会社からも捨てられる。

友人に迷惑をかけると、
友人からも捨てられる。

ということもあるかもしれない...

捨てられたくて、
捨てられるという人は、
あまりいないだろうけど、

そういう人のことを思って、
拾ってくれる誰かがいると、
その捨てられた人は、
幸いだと思う。

きっと、捨てられるだけの理由が、
あるんだろう、と思う。

わがままとか、
自己チューとか、
うるさいとか、
細かすぎるとか...

そういう理由があることを覚悟の上で、
拾ってあげて、面倒を見てあげる。

ちょっと上から目線的な対応かもしれないが、
その捨てられた人の救いになるんであれば、
そういう上から目線も、
そんなに悪いことじゃないと思います。

身内だったら耐えられないけれど、
ちょっと面倒を見るくらいの他人だったら耐えられる。

あるいは、仕事としてだったら、
そういう面倒をすることに付き合える。

そういう、いろんな出会いを
ありがたく思いながら、
捨てられた人生を送る人々は、
ささやかなチャンスを得て、
やり直していくんでしょうね。

出会いというものは、
ホントに不思議なものです。

誰が、誰をどう助けるか、
誰が、誰からどんなふうに助けられるか、
そして、その結果どうなるか。

予測出来ないから、
人間の変化っていうのは
面白いんでしょうね。

2008年8月14日

手をつなぐ

恋人同士が手をつなぐのは、
何もおかしいことはない。

夫婦が手をつなぐのも、
照れくさいけど、
おかしいことじゃない。
いつまでも仲のいい夫婦だ、
ってことになるだろう。

親子で手をつなぐ、
っていうのも、また幸せな感じ。

年老いた親の手を引っ張って、
歩いている姿は、また別ですがね...

でも、男同士が、
手をつないでいると、
だいたいは変な目で見られるだろうなぁ。

日本という国では、
まず間違いなく、そうなるはず。

じゃあ、女同士、
女の子同士が手をつなぐ、
っていうのはどうだろう?

それは、見る側がどう見るか、
で違って見えるでしょうね。

私の場合で言えば、
あんまりにもベタベタしていると、
ちょっと違う性向があるのかな、
と思ったりする時もある。

そう思う私は、きっと、
ここ最近、そういう光景を
見慣れていないからだろうなぁ...

たとえば、
小学校、中学校、高校なんかでは、
そういう仲良しが手をつなぐのは、
ごく当たり前の光景かもしれないから。

とは言っても、なかには、
女の子同士で手をつなぐなんて、
私は出来ない、っていう人もいるだろう。

やっぱり、そこには、
性向、個性が現れる?

久しぶりに、ベタベタと
手をつなごうとする女の子を見て、
そんなことを考えたりしました。

こんな暑い夏なのに、
手なんかつながなくても...

と感じたわけです。

2008年7月16日

中国人の若い女の子

この季節になると、
わが家は、きゅうりでいっぱいになる。

義父の家庭菜園は、
毎年、きゅうりだけは豊作だ。

頭を抱えるのは、うちの妻。
そのきゅうりを誰に、どこに
おすそわけしたらいいのか、
いつも悩んでいる。

わたしと子供らだけでは、
とても食べきれない。

かと言って、
捨てるのも、もったいない。

今朝、妻は、
ゴミを捨てに行くついでに、
そのすぐ近くの縫製工場前で、
体操をしている中国人の女の子に
話しかけたらしい。

「きゅうり、食べますか?」

営業活動は成功。
もらってもらえることになった。

そこに、中国人の若い女の子たちがいるのは、
以前から、知っている。

アパレル業界の底辺にある縫製工場。
かなりキビシイはずのコストダウンのために、
中国人の女の子らを雇っているんだと思う。

時々見かけることから、
その縫製工場が、夜は、
その女の子たちの寝泊りの場所に、
なっていることだろうと想像していた。

初めて話しかけた妻。

いろんなことが分かってきた。

4、5人くらいで住んでいるものと思っていたら、
なんと、9人も住んでいるとのこと。

そんなに大きくない縫製工場でありながら、
なおかつ住宅でもないところに、9人で住むとなったら、
かなり狭いことだろう。

それに、若い女の子9人となれば、
問題も多くなるのでは...

きっと、そんな問題も解決しながら、
経営者さんは、その工場を運営していることだろう。

隣近所からの苦情も聞いたことがないので、
9人の親代わりとなって、教育・指導もしているんだろうな。

いつまでいるかは分からない彼女たち。

「これから、いっぱいあげられるぞ」と、
きゅうりのことしか考えていない妻。

日本での思い出に、きゅうりが追加されるかな...

2008年7月15日

昔話をしない方法

きっと、ほとんどの人が、
他人の昔話なんて
聞きたいと思わない。

それでいて、
自分は、意外にも、
いたるところで
昔話を始めてしまう、
なんてことがあるかもしれない。

ふと、自分を振り返ってみれば、
身に覚えのある気もする。

そこで、昔話をしないためには、
どうしたらいいか。

最新の話題を、自分に取り入れるしかない。
しかし、自分についての最新の話題じゃ
つまらない。

昨日は、腰が痛かった、
今日は、歯が痛い、
明日は、頭が痛いだろう...

誰も聞きたくない。

最近でいえば、iPhoneなんかが、
最新の話題になるかな?

昨日、私あてに、
iPhoneからメールを送ってきた知人がいた。

へぇー、買ったんだ?

とメールを返したら、

「なかなかメール打てなくて、
 がんばって打っていたら
 そのうち送信できました。
 そうなんです。購入してしまいました。
 おもしろいです。それでは!」

この知人は、しばらく、昔話をしないだろう。

何人に、iPhone買ったよメールを送るか、
分かりませんが、20人くらいに送る頃には、
世の中はもう、iPhoneが
最新の話題じゃなくなっているかもしれない。

しかし、昔話が好きな人の間に、
iPhoneの話題を持っていけば、
間違いなく、最新の話題でしょうね。

けれど、飛びつかれる話題じゃない。

そうなんです。飛びつかないんです。
ということは、昔話をしないためには、
昔話をする人々とちょっと距離を置く必要もある、
ということですね。そこにいると、
みんなが飛びつく昔話しか出来なくなるからです。

同級会なんて行ってる場合じゃない、というわけだ。

2008年7月11日

人をゆるしたい

誰かのことを嫌いになるのがイヤで、
誰かを恨んだり、憎んだりして
ゆるせなくなっている自分がイヤで、

そういう時間をなくしたくて、
その人をゆるそうと思えば思うほど、
その人が、心に住み着いてしまう...

ゆるすことが目標になれば、
ますます、心に深く刻まれる。

人は、そういう生き物のようです。

そういうことは、
人間関係のことばかりでなく、
きっと、ダイエットとかにも言える。

ダイエットするんだ、
食べ過ぎないようにするんだ、
と意気込めば意気込むほど、

食べることが意識されてしまって、
忘れられなくなる。

ああ、今の私は、
食べることをガマンしてるんだよな。
これ、いつまで続けたら、
やせられるんだろう。

ダイエットが終わるんだろう、
みたいなことを考え出せば、
また、心に住み着かれてしまう。

住み着かせないためには、
そのことから離れるしかない。
忘れるしかない。

「そのこと」を忘れるんだ、
って目標にすること自体が、
そもそも矛盾していることになるんだけどね。

逆に、そのことを考えないでいられる、
忘れていられる「自分探し」を目標にした方がいい。

何かを忘れたい時には、
自分探しの旅が始まる。

忘れたいこと、
忘れなければいけないことは、
生きていく途中途中で
必ず見つかると思うから、
何度も何度も、自分探しに出かける。

そして、その度にいつも、
違う自分を見つけることになるだろう。

忘れることが自分探しとは、
つい最近まで、知りませんでした。

考えてみれば、
忘れること&自分探しは、
別れ&出会いみたいなもんですから、

うなずけます。

2008年7月10日

誤解される配慮

配慮というものは、
あまりにも行き届きすぎると、
誤解されやすいこともある。

たとえば、
たいしたミーティングとかでないから、
わたし1人だけでいいですよ、
という意味合いで、

「無理していらっしゃらなくてもいいですよ」

と言ったところが、

「来てもらっては迷惑だ」

と読まれることもあるでしょう。

もしかしたら、
その言葉を言われるまでは、
行きたくないなぁ...と思っていても、

ハッキリと言われた瞬間に、
行きたい気持ちを拒絶されたような気分にさえ
なるのです。行きたくもなかったのに、だ。

ありがたい配慮と思えばいい時には、
嫌われているかのように勘違いをし、

配慮が何もない時には、
やはり当然のように怒る。

先回りの配慮というものは、
むずかしいなぁ、と思うことがあります。

でも、そもそも、
配慮じゃなかったなぁ、
と自分で分かる時もあります。

というのは、わたし自身がせっかちで、
自分に関わる物事がスムーズに進むために、
他の人のことにも「配慮」している場合もあるから。

これって、よく考えてみなくても、
配慮と呼べるものじゃありません。

ただ、自分のためにやっていることでも、
他の人のためになって喜ばれることもありますから、
まったくの「大きなお世話」でもないことになる。

人のためにやった、
配慮したんだ、なんて思わないことです。

結果として喜ばれれば、それはそれでよし。
そうでなければ、それはそれでしょうがない。

「せっかく配慮したのに...」
「ためを思ってやたのに...」

なんてウソはいけません。

相手が喜んでくれるかどうか分からないのなら、
相手の気持ちを尋ねてからやった方がいい。

そうでない場合は、自己責任で。

2008年7月 6日

読めないものは読まず

KYという言葉が流行って、
もう久しい気もしますが、

実際のところ、
空気を読むというのは、
そんなに簡単なことじゃない、
っていう気もします。

人それぞれに特有の
空気の作り方があって、

それが理解されることを
当然の権利のように、
みんなが他人に求めたら、

言葉というものが要らなくなります。

日本人が得意だと思っている、
「あ・うん」の呼吸だけで、
世の中、うまくいくはず。

残念ながら、だいたいは、
「あ・うん」だけでうまくいっているという
日本人の勘違いか、幻想の場合が多いですけどね。
理想の中だけでの美しさっていう部分が強い...

ただ、実際に、「あ・うん」の呼吸だけで
うまくいっている人々は、

言葉を使っても、うまくいくのです。

ですから、何も言わない、
何の言葉もないという「空気」が前提なのではなく、

結局は、分かろうとする気持ちや、
本当に分かってもらいたい気持ちがないと、
いい空気なんて、ありえないのです。

何も言わなくても、
私のことを分かるのが当然でしょ、
なんていう空気は、

分かる価値すらないかもしれない。

それで、相手のことを、
KYだ、空気が読めない人だ、
と責めたところで、

お互いの交流に、どんなメリットが
あるのだろうか。クイズならまだしも...

分かり合えて、次に進むのが、
最大の目的なんですからね。

だから、相手のわがままなんかに付き合わず、
AKY、あえて空気を読まないっていうのが、
本当の正解であることも少なくないな、って思います。

2008年6月18日

一番悪い人

人って言うのは、
自分の身近にいる悪い人が、
一番悪い人に思えるかもね。

妻が、今朝、言っていた。

おー、そうかもな...

久々に、妻の名言に、
深く納得した。

たとえば、
ニュースで報道されている事件の犯人を
悪いやつだとは思っても、

被害者本人や家族の人間でない限り、
朝も夜も忘れられないほど、
心底憎みきれるものじゃないだろう。

そんな犯人よりも、
身近にいて相性のよくない人間の方を、
心底嫌うことができる。

実際、嫌っているだろうなぁ。

「実力があるヤツは
 イヤなヤツと相場は決まっているが、
 イヤなヤツに実力があるとは限らない。」
 (チーム・バチスタの栄光、海堂尊)

まず、自分よりも出来るヤツが、
憎らしくなる。

自分より出来るヤツなら、
世の中に五万といる。

幸い、そのほとんどは見えない。

だから、見えるヤツが憎らしくなる。
同じ職場、同じ学校、同じ地域...

何かしら不正な方法で、
自分よりも「出来るヤツ」に
なっているんじゃないか、と感じる。

そう信じたい。

本当は、自分の方が「出来る人間」なのに、
何かが間違って、どこかで大切なことが見落とされて、
今の私が評価されていないんだ、と信じたい。

だから、自分よりも評価されているヤツは、
一番悪いヤツになるのだ。

その一番悪いヤツについて、
褒められるような話が聞こえてくるもんなら、
そこが世界の片隅であっても、突っ走っていって、
否定のための説得を始めることだろう。

一番悪いヤツだから、
それくらいのことをしてでも
みんなに分かってもらわなくちゃいけない。
なんていう使命感まで抱いていたりする。

わたしにとっての一番悪い人は、
誰だろう?

あの人かな。

あなたにとって一番悪い人は、
誰ですか?

2008年6月17日

ウソの会話に付き合えない

世渡り上手な人は、
ウソの会話に付き合える人だと思う。

たいして褒められたことでない話を
褒めてあげて、

正しいわけでもないことを、
あなたが正しいと言い、

大げさに話していることを分かりながらも、
そうか、そうか、と付き合う。

そんな話はウソじゃないか、
と種を明かせば、まったく、
その通りなのだが、
実害のないウソっていうものもある。

ウソの会話に付き合ってあげたとしても、
実害がない、差し障りがないと思い、
それに付き合ってあげる心の広い人は、
世の中にたくさんいるわけじゃない。

誰もが、聞いてくれる人を探している。

しかし、誰もが、聞いてくれるわけじゃない。

話を聞いてあげて、
見返りがあれば聞く、
という人はいる。

それには、仕事として聞く人も、
含まれるかもしれない。

また、見返りというものが、
「話をした本人が気持ちを吐いて、
 次のステップに進む姿を見ること」
だと思って、聞いてくれる人もいるかもしれない。

つまり、そんなふうに、
次のステップに進みそうでなければ、
聞くだけムダだと思ってしまうことになる。

わたしは、そんなタイプかな。

ウソの会話に、
あまり上手に付き合えない。

いや、自分の間違いが
あることもいくらか自覚するとすれば、

「ウソだと感じてしまった会話」に
付き合うことが出来ない。

たとえ、本当だったとしても、
自分がウソだと感じてしまった会話には、
そういう反応をしてしまうということだ。

きっと、ある意味、自分も
ウソつきだからかもしれない。

そんな話は、裏に、
こんな感情があるから、
言っているに決まっている、
と自分に置き換えて、決めつけているのだろう。

そして、それが当たっていることもあれば、
はずれていることもあるでしょうね。

自分がウソつきでなくなった時に、
他人のウソに付き合えるようになる。
そんな気がします。

2008年6月 2日

気をつかって、つかわれて

気を遣われていると感じると、
かえって、気を遣う。

そして、その気遣いに相手が気づくと、
相手はさらに気を遣って、
こちらも、さらに気を遣うことになる。

気を遣っていることに気づいて、
それを、気遣いで応酬しようとすれば、
そういうことが延々と続く。

贈りもののお返しが、
エスカレートするのは、
そんな感じだろうなぁ...と思う。

気遣いは、どこかで誰かが
ストップしてくれないと
止まらなくなることがある。

けれど、そのストップする役目を
自分はしたくないと思ってしまう。

ストップしてしまうと、
「恩知らず」みたいに言われることが怖いから。

自分じゃない誰かが、
それをストップする役目と、
恩知らずと呼ばれる役目を
引き受けてくれたら、
本当に、気が楽になる。

それが起こるまでは、
気遣いの循環ループに、
半永久的に組み込まれてしまう。

好き好んで、
気を遣うことを続けたい人っていうのは、
珍しいでしょう。

だいたいは、そんな気遣いからは、
本当は解放されたいと思っているに違いない。

ただ、気遣いの「美しい文化」っていうのも、
あるんですよね。

なんていうか、
日本人の「おもてなし」の心って、
そういう気遣いがベースにあることでしょうからね。

何の気兼ねもなく、
気遣ってもらう立場にいれるのは、
心地よい。
お金を払って、サービスを
受けるような感じでしょうか。

でも、気兼ねしながら、
気遣ってもらう立場は、
ちょっと居心地が悪くなる。

難しいもんです、日本人は。

良さであり、面倒くささでもある、
ということなんでしょう。

2008年5月30日

普通という個性

あなた自身、
あなたの個性は何だ、
と思っていますか?

と尋ねられて、まさか、

普通なことです。

なんて答えませんよね。

個性というからには、
他の人と違うこと、普通じゃないことが
答えられるのを期待されているわけですから。

たしかに、「普通」という答えは、
冗談だとすれば、面白いですけどね。

実際、何もかも普通すぎて、
変わっている個性と思われる場合も
あるかもしれません。

でも、普通という個性は、
普通だったら、ない。

自分の個性を尋ねられたら、
「普通じゃないこと」を見つけなくちゃいけない。

ただ、それが難しい。

自分しか知らない人であれば、なおさら。

自分が持っているもの、
自分がしていること、
ぜんぶぜんぶが自分にとっては、
間違いなく、普通ですからね。

普通じゃないことっていうのは、
他の人と比べてみなくちゃ分からない。

比べてみて初めて、
普通だと思っていたことが、
意外と普通でないと分かったり、

普通じゃないと思っていたことが、
意外とたいしたことでない、普通のことだった
なんていうことが分かったりするもんなんです。

それって、普通じゃないよぉ~、

と言われるのが嬉しいことか。

それって、普通だよぉ~、

と言われることが嬉しいことか。

それは、ケース・バイ・ケースですね。

劣等感を感じない程度に、
周囲をちゃんと見ておいて、
普通のことなのに、

「ねぇ、ねぇ、これってすごいでしょ。」

みたいに騒ぐことだけは
ないようにしたいものです。

2008年5月10日

引き出す方法

今になっても、
銀行のATMから
お金を引き出せない、
という人は、珍しいだろうと思う。

ウェットティッシュなら、
うまく引き出せないことは、
時々ある。

でも、それ以上に難しいのは、
自分の心の中にあるけど、
それを引き出すのがなかなか出来ない。
みたいな感じのこと...

すぐそこにあるのに、
うまく引き出せない。

引き出したかと思えば、
なんか、相手に合わせすぎて、
自分の中にあったものじゃない形で
見せていたりする。

よく見てみれば、まだ、
自分の中に残っている。

うまく引き出すことさえ出来れば、
なにもかも成功するような気がするけど、
それを引き出せるかどうかが、
最初の関門だったりもする。

けれど、誰も、
自分が自分を引き出すのを
待ってくれていたりはしない。

そんなことは、
誰も頼みもしない。

自分で気づいて、
自分でやろうとするかどうかだけ。

誰からも頼まれもしないことが、
一番きつくて、
一番楽で、
一番損をすることで、
一番得もする。

自分を引き出すってことは、
そういうことじゃないかなぁ、
って思います。

そして、誰にも分からない。
自分で見つけるしかない。

引き出せるものも違うし...

2008年4月19日

桜の咲く頃

日本全国、桜の咲く頃、
っていうのが少しずつ違うから、
その時のイベントも
同じでない。

だから、桜とからめて、
話をしようとすると、

ん?

と思うことがある。

よくあるのは、
入学式のシーズンに、
桜が咲くようなイメージ。

残念ながら、
秋田に住んでいて、
入学式に桜が咲いているシーンは、
一度も見たことがない。

卒業の歌に、
「桜」がたびたび出てくることが
多いけれど、
入学式に咲かないんだから、
卒業式にはありえない。

下手すれば、雪ですら残っている…笑

実際のところ、卒業式に、
桜が咲いているところなんて、
日本のどこにもないんじゃないかなぁ。

あるとすれば、沖縄くらい?

2年ばかり沖縄に住んでいましたが、
たしかに、桜が咲くのは早かったなぁ。
記憶に残っています。

だいたいは、
入学式がちょっと過ぎてから、
桜が咲いているのではないでしょうか。

こちらでは、
ゴールデン・ウィークあたりに
咲くというのが恒例のように思います。

で、私が子どもの頃は、
ちょうどそのあたりに
運動会があったものでした。

うちの長女、次女が小学校に入りたての頃も、
そんな時期にやっていましたね。

ところが、週休2日制になってから、
(正確には、週5日制らしい…)
入学して間もない1年生は、
ちょっと準備がたいへんだ、
という話も出てきて、

ここ数年は、
桜とは関係のない、
5月とか、9月、10月に
運動会が行われています。

わたしの頭の中で、
桜とつながるイベント、シーンが、
なくなってしまったわけです。

それに加えて、
今年は、暖冬の影響で、
今からチラホラ咲いている。

入学式でもない、
運動会でもない、
ゴールデン・ウィークでもない。

なんなんだ、この時期に咲く桜は…?

という変な気分で、
桜を見ています。

桜には、罪はありませんがね。

2008年3月28日

お気楽な人生

ただいま、amazonでは、
「ルポ貧困大国アメリカ」という本が
売れているようですが、

その本に書かれている事実は、
事実として、たしかに怖いのですが、
(日本も、その後を追っているようで…)

なんていうか、
それよりも怖いのは、

生きることを「怖がってしまう」ことのように思います。

だいたい、怖がっている時には、
正しい判断とか、正しい行動が
出来なくなったりもするから。

動くべき時に動けなくなり、
やめるべき時にやめられなくなり、

話し合うべき時に話し合えなくなり、
だまっているべき時にだまれなくなる。

怖がってしまえば、
いろんな状況が打開できなくなることも少なくない。

怖がらせるためだけの情報なら、
いらないんじゃないか、と思ったりもする。

もちろん、現実を知る必要はあるけれど、

「問題点を突きつけられたが、
 同時に夢も持てた」
と思ってもらうようにするのが、
これからのトレンドである。
(コンサルティング能力、佐々木直彦)

という情報の与え方、伝え方が出来ない人には、
それが出来るまで、もしくは、
そういう伝え方が出来る人と組めるまでは、
ちょっと黙っていて欲しいなぁ、
と思う時もあります。

下手すると、
「たいへんだ、たいへんだ」と叫ぶ人は、
そのたいへんな事件そのものに、
さらなるパニックを重ねさせるようなもの。

問題ばかり増やしても、しょうがない。

一人一人が冷静になって、
一人一人が順番に、
逃げ出すことさえ出来たら、
みんなが助かったかもしれないのに、

出口に、一気に集中して、
誰も動けなくなったら、
誰一人無傷で助からなくなってしまう。

最近のニュースを見ていると、
父親が、家族みんなの命を奪っていこう、
とする事件を耳にすることが多くなった。

今朝も、そんなニュースが1つ。

どれだけ行き詰っていたんだろうか、と思う。

何かの情報に怖がらせられてしまって、
短絡的な行動をしてしまったんじゃないか、
という気もする。

冷静になって、賢明な誰かに知恵を求めれば、
いいアイデアを見つけ出すことが
可能だったんじゃないかと感じさせられることもある。

私も、幼い頃は、
父の病気の実態がよく分からず、
ただ怖がっていた時も多かったが、

賢明な人からの知恵を得て、
状況が見えてきて、
怖がることをやめられた。

誰かに怖がらせられることなく、
誰かを怖がらせることもなく、
正しい理解をもって、
お気楽な人生を生きていたい。

そんな私です。

2008年3月24日

春休みは、何もない?

春休み真っ最中に娘たち。

夏休み、冬休みに比べて、
なんとなく、春休みっていうのは、
のんびりな空気を感じます。

今は、前期、後期という二学期制なので、
秋休みというものもありますが、
それはとても短い。

でも、空気的には、
それに近い感じですね。

熱く何かをがんばる夏休みでもない、
年度末の最後の受験とか試験に備えて
がんばる冬休みでもない。

年度と年度の間のスキマ。

慌ただしく、何かに急かされている感じもないから、
のんびりな空気なのでしょうね。

見ているこちらまで、
のんびりしてきます。

そっかぁ、春は、
こんなふうに過ごすもんなんだぁ、
みたいな気づきもあったりして。

でも、新入社員、新入生にとっては、
ホントのところ、のんびりしてちゃいけないでしょうね。

引っ越しの準備やら、
必要なものを買ったり、
不要なものを処分したり…

うちの娘らも、
あと数年もすれば、
そんな慌ただしい春が来ることでしょう。

それまでは、のんびり、のんびり。

春の息吹をちゃんと感じるような生き方ができる。
これって、ありがたいことなんですねぇ。

もし、春の息吹を感じることなく、
心を急かして、3月と4月を一気に駆け抜けて、
ゴールデン・ウィークに入ってしまったら、

そこでは間違いなく、
ゆったりできるか、
わいわいと楽しめる。

そんな楽しい空気を満喫しているうちに、
ゴールデン・ウィークの残された日々が
1日1日と減っていることを感じ出したら、

「また、慌ただしい生活に戻るのかぁ…」

みたいな気分になるんでしょうね。
やっぱり、そんなふうになる五月病の心も
分からないでもない。

慌ただしいとはいえ、
この春もゆったりと過ごしたほうがいいです。

春の息吹を感じる日々は、とっても大切です。

2008年3月19日

教え子との写真

卒業式の祝賀会。

おしゃべりしたり、
写真を撮りあったり、
先生に挨拶に行ったり、
子供たちは楽しそうだった。

うちの次女は、
自称「写真家の卵」なので、
デジカメを片手に、写真を撮りまくっていた。

楽しそうである…

ふと思った。

こんなふうに撮った写真の中に、
将来は有名になったりして
いっしょに写っていることが
誇らしく思える友達もいるかもなぁって。

先生たちにしてみれば、
教え子といっしょに写った写真が、
ちょっとした宝になるかもしれない。

1年間、2年間という短い付き合い、
それも子供の段階での付き合いでは、
将来のことまでは予測できない。

「君は、きっと大物になる」
と誰かに言われたところで、
そんなものは、何の当てにもならない。

結局、大人になってみなければ、
分からない。

そして、大人になって、
写真を眺めるような時がきたら、

「あいつ、どうしてるかなぁ…」とか、

「そう言えば、この人は離婚したって聞いたなぁ…」とか、

「なんで、あんなことする人間になったんだろう」とか、

思うこともあるかもしれない。
(なんか、ぜんぶ、悪いことになってますが)

実際、そんな写真を見るだけの
余裕があればいいのですが…

そういうわけにはいかない人生の人こそ、
たいへんな目に遭っちゃうかもしれませんね。

わたしの願いとしては、
将来のわが娘が、
いっしょに写ってくれた友達や先生にとって、
ちょっとは自慢できる人間に
なってくれたら、嬉しいなぁって。

マスコミに使われるような写真には、
ならないように…

2008年3月18日

どちら様でしたっけ?