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常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

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2010年2月25日

そこにいるだけで

人に気遣うことの
少ない私でも、

すぐ近くに、
誰がいるかいないかで、
反応が変わってくることに
最近、気づいた。

まったく、
見ず知らずの人で、
そこにいても
不平や不満がなさそうな空気が
ただよっていれば、
声をかけることなどなく、
わたしも、自分の好きなことをしている。

それが、どことなく、
何か足りないように見える人には、
思わず、声をかけてしまう。

本当に、与えるつもりが
あるかどうかは分からないが、
声をかけてしまう。

そこは、寒くないですか?

窮屈じゃないですか?

退屈じゃないですか?

うるさくないですか?

そんな感じだ。

なんだろう、それって。
ふと、考えた。

人に気遣うタイプの人間じゃなくても、
そこに人がいるだけで、
なんだか、声をかけてしまう。

もちろん、絶対に、
声をかけないで、という空気を
かもし出すかのように、
全身にマスクをつけているかのような人には、
さすがに、声をかけようとは思わない。

そういう場合を除いて、
ちょっとした体温を感じる距離に、
誰かがいると、人は、声をかけてしまうんです。

おそらく、人の体には、
なにかしら、人とつながっていたい本能が
あるのかもしれませんね。

だから、インターネットじょうでも、
SNSや、ツイッターが流行るのでしょう。

そうやって、私も、そこにいる人に、
ツイッターを通して、話しかけているのかな。

2010年1月28日

準備がよすぎて

誰かといっしょに
物事を進めるためには、
必ずといっていいほど、
準備というものがあって

その準備しだいで、
その結果がどうなるかっていうことが
決まりそうなときには、

自分の思い通りの結果を叶えたい人は、
一生懸命、準備をすることになります。

けれど、
いっしょにやる人が、
それほど熱意がないときには、
準備に加担してくれないこともあります。

じゃあっていうことで、
一人だけで準備したりすることも
ありえることでしょう。

もしも、話がそれだけで済めばいいのですが、
一人で、準備しすぎている、
という見方をされると、

そういうことはダメだ、
おかしい、

みたいなカタチで、
がんばればがんばるだけ、
反感をもたれることもありえます。

かといって、
一人で準備することに反感は
湧いてきても、
いっしょに準備してくれるかといえば、
そういうわけでもなく、

なかなか、話はややこしくなります。

ただ、そういう気持ちになる、
相手の状況もわかります。

お互いのためであるはずなのに、
いくら、自分がやる気がないように思われても、
一人ではやられたくないわけです。

人間って、
むずかしいもんです。

準備に加わりたくない人を、
どう巻き込むか、
ものすごく協力をしてもらわないとしても、
最低限、邪魔をされないようにどうすればいいか、
いろいろが知恵が必要でしょうね。

2010年1月 5日

戻って、やり直すか?

ふと考えてみた。
人生、やり直したいか、と。

そう思ったときに、
分岐点が、いくつか思い浮かんだ。

1.どこに進学するかどうか。

2.さらに、進学するかどうか。

3.この人を信じるかどうか。

4.この会社に勤めるかどうか。

5.ボランティア活動をするかどうか。

6.この人と結婚するかどうか。
  (家を出て行くかどうか)

7.転職するかどうか。独立するかどうか。

8.実家を売却するかどうか。

9.何の技術を習得していくか、だれといっしょに仕事をするかどうか。

まだまだ、
たくさんあったとは思うが、
これらの大きな分岐点のいずれかで、

そのときには選ばなかった、
もう一方、または別のことを選んで
人生を生き直してみたいか、
と自問をしてみれば、

ノーらしい、と自分で分かった。

これまで選んできたことでOK、
という自分なのだ。

もちろん、
いいことばかりじゃなかった。
嫌なこともたくさん。

だとしても、今までの選択で、
今までの経験したことで、
十分だったと自分は思っているらしい。

ちょっと、意外。

そんなことを考えたこともなかったから、
もう少し、後悔することとか、
ほかを選んでおけばよかった、
という気持ちがあるかな、
と思ったのだが、そうじゃないのだ。

やり直したい人生でない。
今の選択で、十分。

そうなれば、これからの人生についても、
意外と、心は簡単だ。

今進んでいる道を、
しっかりやればいい、
ということになる。

今日も、がんばるぞ。

やり直しはしなくていいから、
何度でも、何度でも、挑戦するのだ。

昨日は、NHK番組の影響で、

一歩を越える勇気

一歩を越える勇気

っていう本が、話題になっていたようだ。
27歳、162cm、60kgの小柄な体で、
金なし、コネなしで、1億の資金を集め、
エベレスト登頂に挑戦している栗城さんのお話。

何度も挑戦するためには、勇気をもらえそうだ。

2009年11月30日

働きアリ

今朝、面白い話が、
読売のPodcastから
もれてきた。

働きアリを集めて、
よーく観察して、
そのなかにいる
「よく働くアリ」と「あまり働かないアリ」を
分類したそうです。

そして、
あまり働かないアリだけの集団をして、
まだ、放っておいたところ、
分類する前の比率に似た比率で、
また、働くアリと、そうでないアリが
出てきたとこと。

これって、面白くないですか?

人間に、当てはめられるかな、
と考えました。

がんばる人と、がんばらない人を分ける。

がんばらない人だけを集めて、
無人島に住まわせたらどうなるか。

その中から、
がんばる人が出てくるかな?

うーん、想像できないな。

がんばらない人の集団のなかでは、
きっと、誰かがんばっている人に
寄り添って、そこから、
おこぼれをもらおう、みたいな考え方が
占めていそうだから。

(俺も、そうか...笑)

読売のPodcastのなかでも、
言っていたけれど、
働きアリだって疲れる。
疲れたら休む、
癒されたものは働く、
そういうことのバランスが
とられているんだろうって。

つまり、
働きアリには、
自分の意思(?)とは別に、
集団のバランスの中で働く、休む、
という性能、機能が備わっているんじゃないか。

人間に、それと同じものあるかな。

せいぜい、自分が飢えるか、飢えないか、
で動いたり、動かなかったりするんじゃないか。

ははは...

人間と、アリでは、
頭の中に記憶されている
「働く」プログラムのモチベーションも、
違うのでしょう、きっと。

そう思われて、しょうがない。

でも、働きアリの分類は、面白い話だ。

ただ、これに似ていて、
ちょっと思い出したのは、
誰か1人がいじめられていて、
その子が取り除かれても、
次に、また別の人がいじめられる、
というパターン。

そういうことだけは、
人間の脳に、埋め込まれているんですね。
うーん、ちょっと、これだけだったら、
さびしい話やな。

2009年11月20日

泣くタイミング

人が泣く理由、
っていうのは、
意味不明なことが多いもんです。

泣くのは、
その人の自由ですし、
泣くためには、
その人の感性が
その人の涙腺に命令を出している
わけだから、
他人に100%分かるわけがない。

とは言っても、
目の前で誰かに泣かれたら、

「なんで?」

と思いますよね。

けれど、泣く人みんなが、
その「なんで?」に答えられるとは
限らないってことを、
あらためて感じました。

そういうことを感じられないあたり、
わたしは、かなり鈍感かもしれませんが...笑

ただ、泣いている理由が
自分で分からない人も、
いつから泣きたくなったか、
泣いたタイミングで何が起きたか、
何を考えていたか、何を感じたか、
くらいは、記憶に残っているようです。

だから、私のような鈍い人でも、
ちょっとした理由みたいなものを
手繰り寄せるために、
そのタイミングだけは、
聞かせてもらえることになる。

もちろん、
その泣くタイミングを聞いたところで、
さらに意味不明??になる可能性大ですがね。

逆に、泣く理由がわかっているときに、
変なタイミングで泣かれると、

おいおい、今は泣くときじゃないだろ!?

なんて思うこともあるでしょうけどね。

人は泣く。
泣くタイミングに泣くことを、
自分の心がゆるさないで、
ただ1人になったときに
泣くという選択をする人もいる。

いつでもどこでも、
こらえきれずに泣く人もいる。

いろんな泣き方がある。
意味のある涙も、
意味のない涙、
他人からは理解されにくい涙もある。

あなたが今日涙を流すとしたら、
その涙は、どんな涙でしょうね?

2009年11月13日

顔を出しておけ

新しい出会い、新しい場所、
新しいことをスタートするときに、

いつ、どこで、どうお世話になるか、
分からないから、
この人には顔を出しておいた方がいいな、
っていうことがあると思います。

しかし、逆に、

「今度、こっちに来るんなら、
 俺のところの顔を出しておいた方がいいよ」

とエラそうに言う人には、
かえって、拒否反応が出てしまうことも
あるでしょう。

顔が利くことは分かっているけれど、
どんなことになろうとも、
世話にはならないぞ、っていう覚悟があれば、
顔を出さずにすませることも出来るでしょうが、

よーく考えてみて、
気に入らないなとは思いながら、
顔を出しにいくこともあるでしょうね。

人と人のコネ、というのは、
どこでどうつながっているか、
分かりませんからね。

思い切った行動をしたり、
思い切った言動をしないでいた方が
賢明ということもありえます。

そういえば、私の母親の世代で
よく聴かれていた森進一の「おふくろさん」問題
っていうのがありましたね。

作詞家が「顔を見せなかった」ことで怒って、
歌わせないことにまでなって...

はたから見れば、
大人気ない話だと思えますが、

大人だからこそ、
そこまで徹底した話になりえる。

権利なの、法的装置なの、
大がかりになってくるんですよね。

顔ねぇ...。

本当は、顔を見せて、
どうなるもんでもないんでしょうけど、
わざわざ、俺に会いに来た、
俺を重要視、大物視してくれた、
ということを確かめたいんでしょうね。

これが、単なる営業で、
ちょっと、顔を見せに行きたいんですが、
となると、断ることが多くなるんでしょうけど...

見せる顔のない私は、
どこに、顔を見せようか、
思案中です。

2009年10月 3日

他人の人生にふれる

自分の人生ばかりに、
執着していると、

どうも、
自分の生き方は正しいか、
間違っていないか、
そんなことばかりを考えてしまうのが、
人間のようです。

人の数だけ、
いろんな生き方がある。

自分から見れば、
正しい、正しくない、
で片づけられる「他人の生き方」も、
もう少し近づいてみれば、

そればかりでは済まされない、
何かを秘していることが見えてくる。

しかし、
近眼的に、他人を見ていると、
そういうことは見えてこない。

近眼的に見るというのは、
自分にとって損か得かとか、

相手は、自分の悪口を言っているかとか、
自分を厳しく扱う人間か、
自分にやさしくしてくれる人か...

そういうことだけで見る場合なのだ。

そして、面白いのは、
そういう見方だけで見ていると、
そういうふうにしか見えないわけで、

相手の深みとか、奥にあるものも
まったく見えてこないもんなのです。

相手の一言一言に、
動かされすぎてしまったりして、
自分すら、
奥のない、深みのない人間を
演じてしまうことがあります。

自分にも、相手にも、
人間の深み、奥というものがあります。

そこにふれられる人間になる。
それができないと、いつでも、
誰にでも、振り回されてしまう。

人と人の付き合い、
って面白いもんです。

2009年9月29日

自分を見つける

よく「自分探しの旅」と言いますが、
そんな遠くに行かなくても、

ちょっと自分と個性の違う人と
出会うと、意外な自分が
見つかったりするもんです。

だいたいは、
知りたくもなかった自分、
であることが多いですが。

知りたくもない自分を見つけて、
もっと突っ込めば、
できると思っていたのに
できないということが分かった自分に
出会ったときに、人の反応パターンは、
3つに分かれます。

そうか、出来ないんだ、
ということを、自分にも認め、
他人にも明らかにする人。

そうか、出来ないんだ、
ということを、自分では認めるけれど、
他人には隠したり、出来る振りをする人。

出来ないことが何よ、
出来ないのはあなたのせいよ、
と他人のせいなどにする人。

もしかしたら、
それ以外の反応もありえるかもしれない、
いずれにしろ、出来ない自分を見つけ、
それを認めるのは、大変なことなのだ。

だからこそ、過剰な反応が出てくる。
出来る振りをして、それをがんばっているうちに、
本当に出来るようになればいいのだけれど、

それがいつまで経っても、
出来ないままであれば、
自分ばかりでなく他人をも苦しめることにも
なりかねない。

だから、
「出来る、出来る」と言いながら、
まわりから見れば、出来ていない、
という人と付き合うのが、
一番面倒なのだ。

出来ないことを認められない、というのは、
プライドにもかかわることだからだろう。

出来る自分を見つけるのは、楽しい。
出来ない自分を見つけるのは、苦しい。

けれど、本当は、
そういうことでなく、
自分を見つけることそのものが、
人生のプロセスなのだから、
過剰な反応をせずに、
出来ることを着々とがんばって、
出来ないことにつなげていけばいいのだ。

2009年9月13日

新しい関係に入る

友達だった二人が、
お互いの気持ちを知り合って、
恋愛という関係に入る。

結婚していた二人が、
もう無理だ、だめだ、
ということで離婚という関係に入る。

パート従業員だった人が、
能力を認められて、
正社員として働き始める。

人と人は、
何かのきっかけで、
相手は同じであっても、
新しい関係をスタートしていることは
少なくないように思います。

逆に言えば、
新しい関係に入れないことが長く続くと、
その関係は、必然的に壊れていくかもしれない。

関係性というものは、
時代の変化、人の成長とともに、
進化していかないと、
そういう運命にあるんじゃないだろうか。

一方が、同じ関係性を期待しているのもおかしいし、
一方だけが、一人で勝手に変えていこうというのもまたおかしい。

たとえば、親が、
10代、20代、30代、40代と
成長していっている子供に対して、
いつまでも同じ扱いをしているようでは、

子供は逃げていくのが
当たり前だろう。

しかし、もし、
その扱いに、子供が心地よくて、
甘えてばかりいたら、
その関係性は後々になって
「自立できない」という大きな問題を生み、
そこから壊れ始める。

変わるか、壊れるか。

新しい関係性を見つけて、
それをスタートできないと、
そうなってしまう。

そういう意識のもとで、
人と人との関係を考えていくなら、
人は成長していけるように思います。

甘えない、
期待しすぎない、
自分を高めていく、
相手を高めていく。

そういう正常(?)な関係性。

新しい関係を求めていくぞ。
夫婦、親子、仕事、などなど...

でも、実際、それを求めない人との関係も、
しぶしぶ付き合わないといけないことも
あるだろうな。

2009年9月10日

付き合ってられない

こんなやつらに、
付き合っていられない、
と思ってしまう「やつら」がいるとします。

でも、付き合ってしまうのは、
たとえば、仕事であれば、
それによってお金がもらえるから、
付き合い続けることでしょう。

じゃあ、仕事じゃなくても、
付き合ってしまうのはなぜか。

それ以外の自分の「得」があるからかな?

あるいは、付き合わないと、
自分に「損」が回ってくるからかな?

いや、そういうことでもなく、
損も得もないし、
付き合うことも、付き合わないことも、
自分の自由で選べる立場なのに、
それに付き合ってしまう、
というのを人はやってしまう。

それはなぜだろう?

無駄だと分かっていて、
付き合ってしまうことが人間にはあるように思う。

それこそ、簡単に言ってしまえば、
「人間が好きだから」
ということになるんでしょうけど、

そういう言葉で片付けてしまうと、
なんか、わざとくさいので、
なんとか別の言葉を捜したくなる私です。

そこで見つけた言葉が、
「変なもの見たさ」
という感じじゃないでしょうか。

付き合ってられない人間には、
だいたいにおいて、
ちょっと変なところがある。

もちろん、とんでもないバカだったり、
迷惑をかける存在だったり、
訳の分からないことですぐ怒る人だったり
する場合もあります。

それでも、その「変なところ」が、
その先、どうなるんだろう...
と思えば、なんか見届けたくもなる。

付き合ってられないけれど、
見たいことは見たい。

逆に言えば、見たいところがまったくなくなると、
付き合ってられない気持ちがそのまま通ることになって、
関係は、すぐに終わるということ。

あなたの周りの、
付き合ってられない人、
そんな感じじゃありませんか?

2009年9月 3日

楽にさせることなんかできない

忙しそうな人を見て、
楽にさせてあげようと思い、
手伝ってあげても、paper

だいたいにおいて、
その人は、他のことで
忙しくなってしまう。

悩んでいるようだから、
楽にさせてあげようと思い、
話を聞いてあげても、

やっぱり、同じように、
その人は、他のことで
悩みだすようになる。

その人の旦那さん(上司でも何でも)が
とんでもない人のようなので、
楽にさせてあげようと思い、
弁護を手伝ったり、
抵抗を手伝ったりしてあげても、

その人は、他に依存する相手を探したり、
他のことで問題に巻き込まれていたりする。

人のことを楽になんか、
結局のところ、出来ないことが多いのだ。

そういうことを、最近、やっと分かった気がする。

もちろん、「楽にさせてあげたい」という
私自身の気持ちに、
「その人に感謝されたい」とか、
「嫌われたくない、好かれたい」みたいな
感情も入っているから、
そんな結果になるのかもしれないが、

総じて、楽になんか出来ないのだろう。

自分自身で、
自分を楽にする道を探さないことには、
なんとも出来ないのだ。

楽にさせてあげよう、という、
ちょっと自己満足的な思いから出てきた、
遠慮や、ご機嫌とり、親切は、

その後に何の効果にもつながらなかった、
となった時には、お互いがお互いの存在を
面倒くさくなる可能性すらあるわけだし。

他人を楽にさせることなんかできない。

そう開き直れば、いい意味で、
他人に対して積極的になれる。
そんな気がしてきました。

それは、きっと、
「苦労させたくない」
ということにも関係することでしょう。

2009年8月27日

言葉がうまいと...

うまく言い訳されて、
逃げられたなぁ...

と思うことがあります。

昨晩、ごはんを食べていると、
電話が鳴りました。

ナンバー・ディスプレイに示された
IP電話番号と、声の調子から、
家庭教師か、塾の案内だと察知します。

「中学3年生のお子様をお持ちの...」

来た来た。

いつもなら、ここで、

「お母様は、いらっしゃいますか?」

と尋ねられる。

そうすれば、私の返答は、
イラっとしながら言うことが、決まっている。

「いえ、どのようなご用件でしょうか?」

そこで、相手の用件に、

「家庭教師」とか「塾」という言葉あれば、
その瞬間に、

「けっこうです」

という結末。

しかし、昨日は、違った。

「中学3年生のお子様をお持ちの、
 お父様でいらっしゃいますか?」

「はい」

思わず、素直に返事をしてしまった。

不思議なものである。

私は、逃げ道を失った。

うまい言葉も思いつかない。
結局は、断ったのだけれど、
いつもより、長く話を聞いていたようで、

電話が終わって、食卓に戻ると、
子供らが

「いつもより、長く相手していたね」

と言った。

事情を説明すると、

「なるほど、うまいね、その人」

となった。

たしかに、電話に出てきてくれた本人を差し置いて、
信頼関係も何もない、相手の身内を出してくれ、
と頼むのは、そもそも、おかしい話なのだ。

そこらへんを知った上での対応が出来ているマニュアルなのだろう。
わたしも、いいことを学んだ。

世の中、いろいろ、進歩しているもんだ。

2009年8月23日

ぶつけられても...

何かをぶつけられると、
だいたいは、痛いものです。

実際のモノでなくて、
感情や言葉でも、
ぶつけられると痛いもんです。

今の時代には、
不機嫌な人が多いかもしれない。

誰かに対して、
横柄な態度をとれる立場にいる人であれば、
なおさら、そういう「不機嫌さ」をぶつけてくる。

よくぶつけてくる人がいます。

逆に、よくぶつけられる人もいます。

一方、そんなにぶつけられることのない人もいる。
ほとんどの場合、ぶつけられることのない人は、
他人に対して、ぶつけることも少ない。

反対にいえば、
よくぶつけてくる人ほど、
他人からも、よくぶつけられる
ということかもしれない。

お互い様、という感じでしょうか。

ぶつけることなく、相手に、
自分の感情を伝える能力に長けた人は、
きっと、コミュニケーションがうまくいく。

ぶつけること以外の方法を学べない人は、
ぶつけあって、傷ついたり、傷つけられたりすることが、
絶え間なく、続くことでしょう。

よくぶつける人でも、
相手によっては、遠慮して、
ぶつけることなく、上手に伝えられることもあります。

それは、相手が一枚上手な場合など。

今の時代、
感情をぶつけられるのは、
交通事故のようなものかもしれない。

何度も何度もぶつけられることが多いのは、
どこかに、自分の過失があるんだろうけど、

たまーにぶつけられるくらいなら、
あってもおかしくないこと。

ぶつけられても耐えられる力が、
ちょっとだけ欲しいもんです。

2009年8月20日

スピッツ

臆病で優柔不断のわりに、
すぐに怒り、キャンキャンと吠える犬のように、
うるさい人を見ていると、

犬の「スピッツ」という言葉を思い出した。

なんでだろう?

スピッツなんか飼ったことも、
さわったこともないはずなのだが...

いや、もしかしたら、
営業などで戸別訪問をし、
吠えられたことはあったかもしれない。


犬の種類図鑑などで調べてみると、
スピッツのことを、こう書いている。

「20世紀に日本に持ち込まれ、改良を重ねた結果、
現在のような純白の被毛の小型スピッツが誕生しました。
そのかわいらしさに人気は一気に高まりましたが、
無駄吠えや甲高い鳴き声が耳障りだということで
徐々に敬遠されていくようになりました。
...
警戒心は強いですが、家族や飼い主には従順です。
活発で、度胸があり、怖いもの知らずなところもあります。」
犬の種類ガイド

無駄吠え、甲高い鳴き声、
という点では、そんな感じの人間様を
表現するのに、ピッタリです。

また、こんなふうに書いているのもある。

「また感覚が鋭い面もあるので
神経質にはなりすぎないよう気をつけましょう。」

神経質にならないように
気をつけましょう、というのは、
犬に言っているのか、
その犬を飼う飼い主に言っているのか。

そのどちらでもいいですが、
飼い主が神経質になれば、
犬も神経質になるのは事実。

その「スピッツ」のような人の近くに、
おだやかーな人がいるのですけど、

体型まで、おだやかーで、
かなり肉づきがいい感じなのですが、
そのスピッツ人間の、いいパートナーに
なっている感じがします。

小さい犬ほど、おびえて吠えるもんだ、
と聞かされてきた気がしますが、

人間も、おんなじで、
器が小さいから、
その小さな心が動かされて、
騒いでしまうんでしょうね。

2009年8月 9日

ふつりあい

たとえば、
中学校レベルの勉強しかしていないのに、
いきなり、大学受験レベルの試験問題を出されたら、
たまったもんじゃない。

時給800円で働かせておきながら、
時給3,000円レベルの仕事なり、責任を
負わせられたら、やってられない。

子ども扱いさせられながら、
大人と同じ行動を期待させられたら、
息苦しくなる。

ふつりあいなリクエスト。
知らず知らずのうちに、
人は、人に対して
そういうものを求めているかもしれない。

いわゆる、自分に都合がよく、だ。

そして、
それが許される人がいる。

自分に都合よく考えて生きていても、
それだけの権力があれば、
まわりがそれを支えようとするから...

あるいは、
支えざるを得ないような立場、
依存しているような関係性を
つくってしまったから、
そうなるのかもしれない。coldsweats01

自分の置かれている状況が、
なんか、ふつりあいだな、と思ったら、
そこから、逃げ出せばいいんだけれど、
それが出来ないでいる人もいる。

ふつりあい、不公平、不平等。
世の中は、そんなもので
あふれかえっていて、

自分ひとりが、
つりあい、公平、平等を
求めようとしても、
なかなか、そう簡単にはいかない。

人がすでに得ている利益、
得をしている関係性を
自ら壊そうなんていう人は、
もともと力のある側に立っている人には少ない。

もし、その「ふつりあい」をやめるとすれば、
力のある側が、そうせざるを得ない時代の流れとかを
感じたときくらいだろうなぁ。

なんだか知らないけれど、
戦後の農地改革って言葉が思い浮かんできた。
地主だった人々から、小作人の人々に、
農地が安く譲られた時期。

そんな改革に似たようなことでも起こらない限り、
世の中の「ふつりあい」は変わらないだろう。

あとは、逃げるだけ?sign02

2009年8月 2日

いっしょに変わろう

グループや組織の中に、
足を引っ張る人がいたときに、

なんとかして、
その人を変えたいとなれば、
その人に合わせて手段を選ぶことになる。

言ってすぐにわかる人ならいい。
そして、実際に変わってくれる人なら、
たいへん助かる。

しかし、世の中には、
そんな人はめったにない。

だから、いろんな人間関係、
リーダーシップ、コーチングの本が
売れたりする。

いくら読んでも、
試してもうまくいかない。

リーダーは謙虚になれ、
と言われて、

「わたしも欠点があるから、
 いっしょに変わろう」

なんて歯の浮く言葉を言ってみるけれど、
その言葉が、単にテクニックとして出てきた言葉か、
本心で出てきた言葉かどうか、
っていうことは、長年付き合っている人が見れば、
明らかにわかること。

小手先で、本当の自分が
変わっていないのと同様に、

小手先で、相手が
本当に変わるわけもない。

何事も小手先のテクニックが通用する時期が、
どこの世界にも、たしかにある。

しかし、その世界が成熟してくると、
小手先のテクニックだけでは、
どうしようもないときが出てくる。

人間関係なんか、特にそうなんじゃないかな。
生の関係だけに...

いい「小手先」を思いついた時には、
要注意だ。それが小手先だと知れないと
思っているかもしれないが、
みんなにすぐに知られてしまうかもしれないから。

小手先を使う人間でいることは止めたいものだ。

2009年7月17日

ふりまく幸せ

博愛の精神で、
いろんな人にやさしく出来る人を見ると、
ちょっと、嫉妬を感じます。

自分も、本心から、
そんなことが出来たらなぁ、と。

でも、そんなことを考えると、
すぐに現実的になっちゃう。

そういうところまで、
気持ちが長続きしないんだな、私は、と。
気づくわけです。

どうせ、心遣いをしても、
その人たちをいい気持ちにさせることなんて、
出来ないよ、とあきらめてしまうクセ。

感謝されたり、
やってよかったという自己満足がないと、
何も始められない打算的な考え。

これっていうのは、経済とか、生産性が
重視されている世の中に慣れているために
出てきちゃう思いなんでしょうね。

だから、そこから離れるためには、
大きな愛とか、大きな効果から、
ちょっと離れたほうがいい。

大きな愛はないけれど、
大きな効果は望めないけれど、
1日5分でも、1週間に20分でも、
ささやかなことをやり続けられる気持ち。

そういうことが大切な気がする。

大きな愛を生み出す器も、
大きな効果を出してやるという気合もいらない。

小さな愛だけを使って、
小さな効果、時には見えない効果を
気長に期待してみる気持ち。

小さいことだとわかっているから、
小さい期待しか湧かないし、
小さい努力のため、
ちょっとした時間を使ってみてもいいか、
という気分になれるんです。

大きな愛、大きな効果を目指すから、
かえって、何も出来ない。
何も始められない、何も変われない。

小さいことでいいんです。
小さいことだからいいんです。

小さな愛しか持っていない私は、
そう開き直ろうと思いました。

2009年7月11日

出会わなければ

好きだったけれど、
今は嫌いになってしまった人に、

出会わなければよかった...
と思ってみたところで、
それは無理な話で、

ただ、出会わなければよかった、
という言葉は、本当は、
違う気がします。

本当のところは、
出会うことによって、
見えてしまった、
自分のちょっとイヤなところとかを、
見たくなかった、ということだと思うんです。

強いと思っていたけれど、
本当は弱かったところ。

賢いと思っていたけれど、
もっと賢い人がいたこと。

寛容だと思っていたけれど、
意外と赦せない人間だったこと。

そのどれもが、
知りたくなかった自分のこと。

人は、人に出会って、
新しい自分にも出会える。

そう考えると、面白いもんです。

人に出会えない以上は、
新しい自分も引っ張り出せない、
引っ張り出されてくることもない。

すれ違う程度の出会いなら、
あまり、影響がない。

だんだんと深く関わりだしてきた時に、
お互いから、何か新しいものが引き出される。

それを期待して、出会いを深めていく、
という賢い人もいるだろう。

行き当たりばったりで、
引き出されてしまう人もいるだろう。

いずれにしろ、出会って初めて、分かること。
ある程度の予想はできても、自分のことすら、
分かりえないのだ。

出会わなければ、なんて言わない方がいい。
出会ってみて分かったことの方が、
出会わないで分からなかったことより、
きっと大切なはずだから。

2009年7月 7日

嫉妬されている

その人と話していると、
頻繁に出てくる、
という言葉を見つけるものです。

他人の言葉には見つけておいて、
私自身にもきっとあるだろうから、
人のことばかり言うのは恥ずかしい限りですが、

「嫉妬されている」

という言葉をよく使う人は、
逆に言えば、敵対心メラメラで、
嫉妬していることが多いと思います。

たとえば、
自分の子供の出来がよくて、
そんなによくない子供の親から
「嫉妬されている」と言う人は、

さかのぼれば、
自分自身は、
その子供の親に比べて、
出来が良くなかったなんていう過去があり、
実は、嫉妬していた、という事実が
あったりするものです。

嫌われている、という人は、
それ以前に、相手を嫌っていたりする。

恨まれている、と言う人、
邪魔されている、と言う人、
不公平に扱われている、と言う人、
いろんなタイプがあるんでしょうけど、

だいたいは、
自分がその逆をやっていて、
その感情とか、行いをぼやけさせるために、
あるいは、隠すために、
「されている」みたいな表現を使っている。

そうみたいだなぁ、ということを、
最近、分かってきました。

たとえば、
北朝鮮という国が、
「敵視されている」という言葉を使う時には、
自分たちが、まず敵視して、見ているんです。

だから、私も、
そんな言葉を使う時には、
ちょっと待てよ、と考えなくちゃいけない。

「~ちゃいけない」
「~なければならない」
これって、きっと、私の口ぐせ。

理想主義なんだろうなぁ...

2009年7月 5日

嫌われ者の扱い

人間の性質というか、
日本人の国民性というか、

けっこう変わった人に対して、
どう付き合っていいか、
分からなくなることが多い。

その分からないという気持ちが、
どう現れるかといえば、
だいたいは、除外するとか、
のけ者にするとか、嫌うとか...

そんな行動になりがちだ。

そんなふうにして、
嫌われ者になってしまった人の
気持ちを考えると、正論からいえば、
そんなことをする側の人間が悪い、となる。

ただ、そういう正論をいくら教え込まれようと、
人間は、知らず知らずのうちに、
嫌われ者をつくっていることがある。

たとえば、
そういう正論を語っている人が、
嫌われ者をつくってしまう人を、
強烈に嫌ってしまう感じに...

嫌っているということで、
本質的には同じことになるからね。

人が何を好きになるか、
ということと同じで、

人が何を嫌いになるかは、
感性的な問題で、ある意味、
どうしようもないんじゃないか、
という気がする。

生理的なことで嫌いになる人もいれば、
性格的なことで嫌いになる人もいる。

お金の使い方を見て、
嫌いになる人もいれば、
時間の使い方を見て、
嫌いになる人もいる。

派手な服装を軽蔑する人もいれば、
服装にお金をかけない人を
手抜きと断言する人もいる。

好き嫌いは、どうしようもない。

そんな気がします。

しかし、もっとダメなのは、
そういう好き嫌いがあることを
隠すことじゃないか、とも思う。

嫌いになっていることを隠そうとすれば、
どこかに、ゆがみが出てくる。

嫌いという感情が、
世のなかに、もっと軽く
受け止められたらいいんでしょう...

「へぇ~、あの人のことを嫌いなんだぁ」

みたいな感じで。

それを言われて、
嫌われていることが分かった人も、
嫌っている側も、もっと軽く受け止めればいい。

イチゴが好きか、嫌いか、
ということと同じくらいに、
人ごとにとらえられたら、

味付けの甘い、辛いくらいに
ささやかな問題として言えたら、
嫌われ者の存在が、もっとふつうになって、
大きくとらえられたり、苦しんだりすることもない気がする。

そのためには、人間の感情が、
もっと軽くないといけないんでしょうね。

なかなか、むずかしそう...

2009年7月 3日

怖い人間

うちの妻が私に尋ねる。

「あなた、見える?」

「おれ、見えない。」

「おまえは?」

「見えはしないけど、
 感じることはあるよ。」

幽霊について、
そんなことを言うから、
ちょっと、ゾクっとした。

生まれつき、怖がり屋の私は、
会話の中にさえ、
ちょっとした幽霊を感じてしまう。

けれど、見たことはない。

見えない幽霊を怖がり、
見える人間を、ちょっとなめている。

しかし、経験上は、
見える人間の方が、
見えない幽霊より怖いのだ。

だまされもするし、
利用されたりもするし、
おどしたりもする。

怖がる相手を間違っちゃいけないな、
と妻の言葉を聞いてから思った。

怖がらなければいけない相手を
カンタンに信じてしまったり、

信じていい相手を、
疑ってしまったり...

人間は、何かにとらわれていると、
見えるはずのものが見えなくなり、
見えていないのに見えているような気がしてくる。

本当に怖いのは、
そんなふうになってしまう、
自分という人間かもしれない。

人を見る目は、やっぱりあった方がいい。

2009年7月 2日

急速クールダウン

うわぁ、すっげぇ、
この人と気が合う~~!

っと急速に盛り上がりを
感じる人、相手と出会ったりします。

何を言っても、

そう、そう!

という感じで、
相性もバッチリと思ってしまう。

その相性の良さをさらに実感していたいがために、
ちょっとズレたこと、違うなって感じたことにさえ、
知らず知らずのうちに、合わせる自分がいたりする。

それが、すべての始まり。

合わないところまで、
合っている振りを始めると、
だんだん苦しくなってくる。

でも、この人と離れてしまったら、
次はないかもしれないと思ってしまうと、
離れる決心がつかず、

恋人だろうが、仕事だろうが、
ほかの何についてでも、

自分のなかでは盛り上がりが、
急速にクールダウンしているにもかかわらず、
がまんすることを決めてしまう。

やっぱり、がまんできない!
ってことに、数ヶ月くらいで気づいて、
早めに決心をすればいいかもしれないけど、

数年、十年、十数年とがまんを続けると、
それが当たり前になって、
本当に離れられなくなってします。

こころは、クールダウンどころか、
何も感じなくなっていたとしても、
「今」を変えようと思うことだけには、
センサーが反応してしまう。

そして、やっぱり、そのままを決め込む。

心の何かが急速にクールダウンしたときには、
ちゃんと付き合ってあげたほうがいいですね。
自分の心ですから...

2009年6月29日

ワンマンおばちゃん

ワンマンなんていう言葉は、
もう死後なんだろうかと思いつつ、
他に、心当たりのある言葉が見つからないので、

やっぱり、ワンマンという言葉を
使うことにした。

面倒見の良いおばちゃん、
という第一印象が、

ん?

なんか、これは違うぞ。

ただ、自分の思い通りに、
ことを運ばせたいばかりに、
一生懸命やってる、
ワンマンおばちゃんだ、
と気づかされる瞬間があります。

もちろん、ワンマンおばちゃん、
ばかりではありません。

私も、自分の思い通りに、
ことを運ばせたいときに、

ワンマンおやじになって、
いろいろと段取りを組んで、
しきり始めたりします。

なんにもしたくない人にとっては、
「ああ、らくだ、ラクだ」
となることでしょうが、

心に、少しでも、
自分の意見を反映させたい、
と思っている人は、
そういうワンマンぶりに
文句を言いたい気持ちにはなるでしょうね。

ただ、文句を言いたいだけで、
じゃあ、あんた、やってみろ、と言われた瞬間に、
とたんに、背を向けてブツブツと言い出すくらいな人
でしかなければ、結局、
ワンマンに進んでいくわけです。

そして、ワンマンぶりを発揮する人が、
そういう雑音をまったく気にしない人であれば、
まったく、問題ないでしょう。

残る問題は、
ワンマンぶりに付き合わされ、
お金やら、時間やら、労力やらを
いいように利用されて疲れた、
という感じの人が増えると、
人がさーっと去っていってしまうことでしょうね。

ワンマンな人がいると助かったり、
かえって面倒だったり、
いろいろあるもんです。

2009年6月 9日

ごほうびにならない

季節はずれな話ですが、
雪国に住む私たちは、
車が側溝にハマるという経験を
時々したりします。

ハマると、そこから
なかなか抜け出せません。

車は重いですから、
人の力を借りるにしても、
ちょっとした人数がいないと、
なかなか難しい。

今の家に住むようになって、
わが家に来たお客さん、
あるいはお隣に来たお客さんで、
側溝にハマった人の顔が3人は思い浮かびます。

ある時、ハマった車を一生懸命に持ち上げて、
ちょっと腰を痛めたという経験がありました。

別に、お礼など期待していませんでしたが、
数日後、わざわざ、お礼を持ってきてくださいました。

ところが、それが、
わたしの飲まない「お酒」。

ああ、ちょっとガッカリ...
(私の不在時だったので、ガッカリ顔を見せなくて済んだ。笑)

子どもでなくても、
自分の欲しくない「ごほうび」は、
嬉しくないものです。

けれど、大人の感覚で、
子どもに「ごほうび」をあげようとするとき、
それに近いことをやっているかもしれない。

これが嬉しいだろ。
これがおまえのためになる。
これが将来役に立つ。

...みたいな感じ。

ごほうびにならないものを
ごほうびとしてあげて、
大人がいい気分になっていたら、
世話ない。

危ないな、私も。

2009年6月 8日

ホンモノの矛盾

人に笑顔でいてもらう、
というのは、けっこう難しい。

その人が本当に楽しくて、
心から幸せ気分でいるのなら、
すっと、ふつうに笑顔になれるだろう。

その笑顔が素敵となれば、
なおさら、笑顔でいてもらいたい、
と思うに違いない。

しかし、笑顔が素敵な人が、
いつも、笑顔でいられるほど、
精神が強いとは限らない。

いろんなことが起きてしまう人生で、
どれだけのレベルのことまで、
心を揺らすことなく、

つまり、笑顔を崩すことなく、
強くいられるかっていうことが
ポイントになるからね。

耐えられなければ、
すぐに笑顔はなくなってしまう。

となると、その「笑顔が素敵な人」の
笑顔を次に見られるのは、
そのイヤな出来事のホトボリが冷める時か、

その人が笑顔でなりたくなる出来事が起きる、、
もしくは、無理にでも笑顔をつくりたい人に会う時まで、
のいずれかになるだろう。

目の前にいる「わたし」には、
その人は、笑顔なんぞ見せてくれないわけです。

笑顔をつくろうとする相手でもない、
ということ。

この現象を見たときに、
喜んでいいものか、
悲しむべきことか。

ちょっと分からなくなる時があります。

つまり、
本当の素の顔を見せてくれるだけ、
親しい間柄になったことを喜べばいいのか。

素敵な笑顔を見せてやるだけの
価値もない人間だと判断されたことを悲しめばいいのか。

あなたの恋人、夫(妻)は、
あなたに素敵な笑顔を見せてくれますか?

それとも、あなた以外の人に
見せる笑顔の方が、素敵ですか?

よーく、観察してみて、
もし、それが分かったら、
じゃあ、果たして、自分はどうなのか、
と考えてみたらいいかもしれない。

誰に見せる笑顔が
ホンモノか、
一番素敵か、あるいは
ニセモノだけど素敵に見える笑顔か。

今一番大切にしたいと思っている人、
今一番自分の本性を知っている人が、
それぞれ分かってくるかもしれない。

2009年5月29日

足踏みで待てない

パートナーのために、
足踏みをしながら待っている、
と思っている人は、

相手が、
待ってもらっているという意識を
もっていないときには、
ちょっと、イライラするもんです。

恩着せがましくするつもりは、
ないとしても、
「待たせているんだから、
 ちょっと急がなくちゃ」
って思って欲しいわけです。

あるいは、急ぐような様子を
見せて欲しい。

待たせているのにも限らず、
急ごうともしないどころか、
関係ないことをしたり、
誰かとおしゃべりをしているようでは、
待っててもらえるわけがないのです。

さあ、行こうか、
と思ったときには、
誰も待っていてくれない。

そんなことになるでしょう。

気の短い私は、
足踏みが苦手な気がします。

ちょっとは待っているけれど、
相手にその気がなく、
待つ価値がなければ、
とっとと置いていきたくなります。

今、ちょっと、足踏みしている気分です。

待つ価値はあるのか、
その決断をいつまで延ばすのか。

足踏みは、それほど疲れないにしても、
飽きることですからね。
ガマンの限界は、そう遠くはないでしょう。

2009年5月27日

集めるという大変さ

何かをやりたい、
というときに、
たった一人でできることなら、
面倒なことはないけれど、

集めなきゃなんない、
ということは少なくない。

集めるもの、
1つは人、
もう一つはお金、
さらにモノ、という具合に、

集めるものが増えれば増えるほど、
どんどん、面倒になってくるわけです。

一番いいのは、自然に集まってくる方法。
人にしろ、お金にしろ、
自然に集まってくるような仕組みがあれば、
なんの苦労もない。

と言いたいところですが、
結局は、
自然に集まってくる仕組みを考えるのに苦労するか、
声をかけてかけてなんとか集めることに苦労するか。

苦労のタイプが違うだけだと思うんです。

ものを売る営業のタイプが違うのに、
似ているかもしれない。

魅力のある、話題性のある商品をつくって、
ちょっと知られたら口コミ式で売れる方向性でいくか、

ありきたりの、よくある商品を、
頻繁に顔を合わせて営業をかけて売っていく方向性でいくか。

この違いかな。

自然と人が集まる仕組みづくり。
わたしは、この方が基本的に好きだな。

けど、だからと言って、
待っていればいいわけじゃない。

何かアクションをしたら、
その反応を見て、
変わっていかなくちゃいけない。

人を集める、っていうのは、
面白くもあり、難義な面もある。

集め役になるときには、
考えさせられます。

2009年5月26日

言ってしまったこと

言ってしまったことを、
言わなきゃよかった、
と思うのは、

言ってしまったことに、
本当の自分が出ちゃったから、
なんだと考えます。

つまり、言わずにいれば、
自分は「いい人」「頭のいい人」
「冷静な人」「優しい人」「おだやかな人」
だと思われていた、
という計算なのでしょう。

しかし、言ったという真実が、
きっと、本当の自分を表わしているんです。

だから、言ったことによって、
本当の姿を相手に知らせたことは、
自分にとっても、相手にとっても、
いいことだったのは確か。

これから、この人とどう付き合うべきか、
をちゃんと考えるための情報を与えることが
できたわけですから。

言ってしまったことについては、
そう思ったほうが、精神衛生上はいい。

もちろん、言わないでガマンしたことは、
それはそれでいいかもしれないが、
本当に思った「本当の気持ち」を伝えていないことは、

もしかしたら、リスクかもしれない。

相手が、本当の自分を知らないで、
自分との付き合い方を見出せずに、
後々になって戸惑わせることになるかもしれない、という。

言ってしまったことは、しょうがない。
そう思って生きていこう。

言ってしまったことは、
回収することはできないのだから。

2009年5月21日

透明な観察者

そんなに手出しをしたいわけじゃないけど、
思わず、その人のことを見ていると、
手を出さずにはいられなくなる。

見ていると、
危なっかしい、心配だ、
やっぱり、見ていられない、
と感じてしまう。

身近に、そういう人を一人でも持つと
(もちろん、赤ちゃんとかはそういう存在でしょうが)
心労が絶えません。

相手が、赤ちゃんでなく、
けっこう大きくなったティーンエイジャーや、
ちゃんとした大人だったりすると、

こっちの心配をよそに、
言うことを聞かない、
勝手な行動を始める、
というようなことが重なって、
心配がイライラに変わることも...

心配もイライラもしたくない。
そんな感情を持たないでも、
その人が、ちゃんと生きてくれたらいい。

そんな感情になる人も
いるかもしれません。

もし、消えてしまったら、
自分が死んでしまったら、
もう手出しも何もできないから、

あきらめて、ただ眺めることに
専念できるかな。

そんなことを思えば、
自分は死んだつもりになって、
「透明な観察者」になればいいのかも?

相手には何も見えない、
自分は何も手出しできない。

お互いがお互いの関係に、
自立するしかない。

そういう「透明な観察者」。

勝手に心配したり、
手出ししたくなったら、
これからは、
透明な観察者になってみようと思います。

2009年5月12日

代わりはいない

何らかの活動、作戦、
プロジェクトのために、

こんな人が欲しいと思って、
人を集めたり、試させてみたり、
いろんなことをしてみて、

分かることは、
理想の人材像のポイントが
どんどん増えていくこと。

最初は、
これくらいのことだけ、
出来ればいいや、
と思って、

ハードルを低めにして、
人材を探すのですが、

いざ、いろんなことをやってみて、
やらせてみて、それぞれの結果を見てみると、

うーん、なんか、うまくいかないな、
なんか、足りないな、と感じてくる。

そこで、ふと思う。

もう少し、代わりとなる人はいないかな、と。

そこで、また探して、
いろいろと試してみるとのですが、
一つ良くても、他のすべてがイマイチだったり、
これまでの人には出来ていたことが、
決定的に出来なかったり...

そんなことが分かるのです。

時間があれば、その足りない部分を育てて、
「代わり」にすることも可能かもしれませんが、

即戦力が必要な時期にさしかかっていると、
そういうわけにもいかない。

そこで認めるしかない。
「代わりはいない」という事実。

代わりがいないと分かれば、
力を注いでがんばらせる相手は、
ハッキリと限定されるわけで、

どうしようもならないところは、
それはそれで、目をつむって、
どうにかなるところだけ、あるいは、
絶対になんとかしなければいけないところだけ、
なんとか成長させるようにする。

代わりが、ポンポン見つかることなんて、
世の中には、そんなに多くないのです。

今向き合うべき人、ものと、
ちゃんと向き合って、がんばるしかない。

そんなことを思う、今日この頃です。

2009年5月 9日

好きになる瞬間

リアルな社会においても、
テレビや映画を見たり
インターネットでパッと目に入ってきたりして、

あ、この人、好きだ!

って言葉にして思っているわけじゃないけど、
心の中で「好き信号」が点滅するのは、
いつでも、どんなときでもありえると思う。

ときめき、までいかなくても、
なんか、生理的に、自分の心が惹かれてしまう
容姿とか、もっている空気、っていうのは、
何かルールがあるんだろうなぁ。

わたしの場合のそれって、
何だろうなぁと考えたときに、
すごく両極端にある、
ってことに気づいた。

女性の容姿でいえば、

なんとなくぽわーんという空気の人と、
すごくキリっとした目の人と、

どちらにも惹かれる感じだ。

それって、きっと食べ物でいえば、
大福にも魅力感じるけれど、
お寿司屋さんのガリにも惹かれる、
っていう感じに近いかもな。

人を好きになるのも、
その時々で食べたいものが変わるのと同じで、

いろいろ好きになる、
両極端を好きになる、
っていうことがありえるのは、
おかしくない。

だったら、浮気も当然だ、
なんて正当化するような話に
するつもりはないですが、

好きになる瞬間は、
その時々の状況で
どんなふうにでも心は揺れるから、

ちょっと注意していないと、

「こんなもの(人)を好きになるはずじゃなかった」

なんてこともありえるわけで、
自分の心を無防備にしてはいけないな、
って思います。

大げさに言えば、その気もなかったのに、
同性が好きになったりすることもあるわけで...

好きになる瞬間は、
何でもありうる、っていうことを
心に銘じて、生きていった方がいいな。

2009年5月 7日

言い当てる

なぜか、
クイズでもないのに、
言い当てようとするクセを持つ人が、
いたりします。

もしかして、
これでしょ!

じゃなかったら、
あれじゃない!

やっぱり、
こっちなんでしょ!

人のことを言い当てるのは、なんか、
自分に能力があるような気がしてきて、
けっこう楽しいものです。

占い師じゃないけど、
未来を予想できるような、
性格や心理を分析できる人に
なったような、そんな気分は、
悪くない。

けれど、言い当てられる側は、
実際のところ、それに付き合うのが、
面倒くさい。

頼んでもいないのに、
自分のことを根掘り葉掘り、
聞かれたりするうえに、

当てようとされて
ぶつけられる言葉が、
けっこう、自分の心に
かすってきたり、ぶつかってきたりして、
痛い思いもする。

他人の心を言い当てれば、
何がエライ、というんじゃ。

言い当てる暇があるなら、
解決するパワーでも知恵でも
分けてくれ!

そんな気分になるかもしれない。

わたしにも、そんな「言い当てっこ」したいクセ、
あるように思います。気をつけないと...

2009年4月11日

ふりまわされたくない

ふりまわされたくない、
と思う感情が心の中にあるときに、

何について、
そう思っているのか、
と考えてみれば、

相手のウソとか、
ころころと変わる気持ちとか、
不機嫌そうに見える態度なんですよね。

なかでも、わたしは、
ウソが一番やっかいな気がする。

明らかに不機嫌な態度に見えるから、

「どうしたの?」

と尋ねれば、

「なんでもないよ」

と答えてくる。

だったら、普通にしてくれていればいいのに、
まだ、その不機嫌な様子を続けている。

何かを一生懸命にやらなければいけない時に、
そんな不機嫌を連れて行くことなどできるわけがなく、

それに付き合って、
いっしょに足踏みをしなければいけない。

「言いたいことがあるなら、
 ちゃんと言ってよ!」

と詰め寄れば、今度は泣いたりする。

そうなれば、その泣きに付き合わなければいけなくなり、
時間がロスすることが目に見えているから、
そんなハッキリしたことも言えず、
ただただ、無意味に、付き合わされる。

本人は、
ふりまわすことに、
きっと快感を覚えているんですよね。

不機嫌な態度だっていう証拠でも、
見せられるわけじゃないから、
口でいう言葉だけで、

「なんでもないよ」
「普通だよ、これが」
「そういう目で見ているからでしょ」

みたいなセリフで、
自分の安全地帯に立っている。

そうなんですよ、ふりまわす方は、
いつも、自分の安全地帯をちゃんと
確保しているんです。

その安全地帯を切り崩さないと、
ふりまわす、ふりまわされる関係は、
いつまで立っても、変わらない。

安全地帯、ぶっ壊したいもんです。

2009年3月24日

役の違い

人気があるかないか、
っていうことも大切な要素として、
ドラマや映画の主役は決まっているんだろうけど、

見た目やベースの性格だけを考えて、
もしも、この主役と、あの脇役が、
反対の配役だったら、どうだったろう...と考える。

たとえば、
男女役が反対になっちゃうけど、
話題の映画「おくりびと」において

主役の本木雅弘、妻役の広末涼子が
主役:広末、脇役(夫):本木だったら...

双方とも、繊細なイメージのある俳優さんだから、
けっこう大丈夫かもしれない、
みたいに思うところもある。

もちろん、演技能力とかの苦労を
ちゃんと乗り越えられるかは、
また別の問題になるわけですが。

しかし、ふつう、映画を見るときには、
そんなことは考えない。

見せられるままの「役」を
そのまま受け止めて、
スクリーンに、画面に、見入る。

それは、きっと、
その映画がハッピーエンドであれ、
悲しい結末であれ、
それぞれの役が、そのストーリーの中で、
ほぼカチッと収まっているからでしょうね。

ところが、現実の社会では、
そのストーリーが、先々まで決まっているわけでなく、
まして、カチッと、スッキリ納得のいく結末とは限らない。

だから、家族でも、職場でも、学校でも、
なんらかの組織の中でも、
なにかうまくいかなくなると、

どこかの役割、誰かの役に問題があったんじゃないか、
と考えてしまう。

なまける「役」をしている人がいれば、
「そんな、なまけることはしないでよ!」
となる。

うるさい「役」をしている人がいれば、
「ちょっと、だまっててよ。しゃべる暇があったら動け!」
みたいなことにも。

一人がんばっている「役」の人がいれば、
「あんた一人で、いい子にならないで」
なんていうこともあるだろう。

いずれにしろ、現実の社会では、
カチッとしたストーリーはないから、
それぞれの結末に不満を抱えながら、
それぞれの「役」に、それぞれが、

もしも、こうであったら、
うまくいったかもしれないのになぁ...

なんて幻想を抱くわけです。

ただ、最初から、
うまくいかないストーリーを描いているのであれば、
(ちょっとマイナス思考ではありますが)

それぞれの「役」に納得がいくかもしれない。

ああ、こいつは、やっぱり、
こういうところで、こんな「役」を果たすんだなぁ。

あの人は、けっこうがんばってくれるんだけど、
空回りしちゃうんだよなぁ。

みたいな冷静に...

他人の役に、イライラしないためには、
そんなマイナス思考もいいかもしれない。

ただ、自分は、
そのマイナス思考に埋もれてしまわないよう、
精一杯、自分の役をこなす努力はするわけです。

2009年3月 7日

捨てる、捨てられる

生きていると、
いろんなしがらみが増えてくる。

子供たちだって、
見ていると、大人ほどでないとしても、
「しがらみ」があるように見える。

何かについて、
一人で出来ないことが分かる。
だから、誰かといっしょにやる。
何かを頼む。

頼んで、頼まれて、
いっしょにやって、うまくいく。
良かったな、ということになる。

そういう瞬間は、お互いに嬉しい。

しばらくして時間が経つと、
いつも、頼み、頼まれる、
という立場が同じとは限らない。
立場が反対になる時が出てくる。

頼まれる、頼りにされる。
この前のお返しだ、
ということで、がんばって協力する。

協力し合うことは、
いいことだと実感する。

そういうことが何度なく重なると、
一方的な立場でなくなり、
ある意味、共同体になる。

いい意味での共同体なら、
いくら続いてもいいが、
だんだん、年を重ねて、

自分たちの共同体で
築いたものを守ろうとすると、
とたんに「しがらみ」が生まれる。

なんだか、嫌な「しがらみ」になったな、
と思っても、そこから離れて
生きていく勇気が出てこない。

しがらみ、っていうことが本当に分かって、
生きることの大変さを知る。

生きにくさも...

しがらみから抜け出せば、
気楽になるだろう、ということを想像する。

けれど、いきなり、
しがらみを捨てたら、
生きにくいどころか、
生きることが難しくなるような気がしてくる。

やっぱり、捨てられない、となる。

生きにくいのは嫌だけれど、
生きることが出来なくなるのは、もっと嫌だ。

ということで、しがらみを捨てられずに、
しがらみにまとまりつかれて、
生き続ける。

人間は大変だなぁ...

2009年2月18日

聞き返し?

「少しずつ、やっていけばいいよ」

「少しずつ?」

みたいな感じに聞き返された時に、
聞き返された内容としては、
2つのパターンがある。

ということに、今朝、気づかされた。

1つは、

「少しずつって、どういう意味?」

というパターン。

もう1つは、

「少しずつって言った?」

というパターン。

「少しずつ」という言葉自体が、
とても基本的なものだから、

まさか、

「少しずつって、どういう意味?」

なんて尋ねられるとは思っていない。

そこへ、そんな質問を投げかけられるもんだから、
何、バカなことを聞いているんだよ、
というイライラ感がつのってきます。
(気の短い私です)

そしたら、

「少しずつって言ったの?」

という質問だったらしい。

ああ、そうなのか、と分かるまで、
イライラしていた自分も恥ずかしいけど、

「少しずつ?」

という中途半端な質問を投げかけた相手のことも、
おいおい、ちゃんとした質問にしろよ、と思う。

まさに、自分を棚に上げて、
という話なのですが、

質問するとき、何かを尋ねるときには、
ちゃんとした答えをもらうためにも、
ハッキリとした質問をした方がいいですね。

時間の節約にもなることでしょう。

2009年1月12日

会いたい

今はもう亡くなった人に、
会いたいと思う気持ち。

それは、別れ方によって、
会いたい気持ちの強さが
違うだろうなぁ...と考える。

突然の事故や事件で、
別れの準備をする暇もなく、
別れさせられたとなれば、

会いたい気持ちは、
なかなか消化出来ないだろうなぁ。

病気や寿命で、
余命のことをずーっと考えながら、
それまでの時間を大切に過ごして、
ちゃんとお別れをして亡くなった相手には、
いくらか、消化した気持ちで
別れられるかもしれない。

しかし、それだって、
ものすごく若くして、
病気で亡くすことになるとすれば、
やっぱり、無念だと思う。

会いたい気持ちの消化は、
同じように難しいだろう。

会ったことのない人に会いたい、
という気持ちは、これまた違う。

たとえば、
神様に会いたい、
と言う人がいる。

神様をよく分かっているのか、
分かっていないのか、
そこらへんは不明だが...

確信したいこと、
助けてもらいたいこと、
癒されたいこと、
そういうことが心の中に
あるのかもしれない。

そして、
神様を信じているから、
会いたいと思うとも限らず、

神様を信じていないから、
会いたいと思わないわけでもない。

うちの妻は、
信仰熱心な家庭で
育てられたわけではないが、
幼い頃から、よく感謝する人間だったらしい。

自分流のお祈りで、
神様、仏様とお祈りしていた、と言う。
そんな妻が、昨日、ふと言った。

「今なら、神様に会うのは、ちょっと怖いな。
 もし会ってしまって、
 これをしなさい、って言われたら、
 必ず、それをしなくちゃいけなくなるわけでしょ。
 神様に会わなくても、
 神様がいることを信じて生きている方がいいわ。
 それに、神様に会って、
 こういうことを聞きたい、と思うものもないし。」

もしかしたら、こんなことを言えるのは、
ある意味、幸せであるとか、
今の自分に満足しているからかもしれない。

苦しい境遇に身を置いている人の中には、
今すぐにでも、神様に降りてきてもらって、
この場所から自分を救い出して欲しい、
と思う人だっているだろうから。

会えない人に会いたいという気持ち。
これは、今の自分が幸せかどうかを知る
バロメーターかもしれないな。

2009年1月10日

ひき逃げしない

ひき逃げのニュースが、
盛んに聞かれる昨今。

わが家の近くで起きた交通事故。
ひいてしまった側が、
ひき逃げしなかった、
というニュースがローカルで流れた。

ひいた、ということ自体が、
ほめられることじゃないため、
大声で「エライ」と言えるようなことじゃないけど、

やっぱり、私は、
エライと思ってしまった。

事故が起きたのは、
夕方の17:10頃。
薄暗い頃だろう...

ひかれた女性は68歳、
ひいた男性は37歳とあった。

くわしいことは書かれていなかったので、
よくは分からない。

ただ、自分に置き換えて考えてみた。

車を運転していると、
ちょっと危ないんじゃないか、
というタイミングで、
道路を横断してくる人がいる。

70歳前後と思われる女性が、
そのほとんどだ。

今回の交通事故が、
そういう種類のものかは
分からないが、

車の左前部でひいた、とあったことが、
ちょっと気になった。

ここ最近の、
そういう年代の人がひかれた事故を
4件ほど探して見てみたら、
うち3件が、左前部でひいた、という記載。

右側から左側へ渡っている途中で、
気づいてブレーキをかけたが、
渡り終えそうな瞬間にひいてしまった?

それとも、
左側から右側へ渡ろうと、
飛び出してきた瞬間にひいてしまった?

なんか、後者が多い気がする。

そういうことを考えてみたら、
なんか、ひいた側が、
「かわいそう」という気もしてきた。

実際には、車が100%悪くなる。

私も、自分が歩行している時には、
車の前には、人間は、ほぼ無力だな、
と感じたりするから、それは当然だと思う。

ぶつかってしまったら、
結果的には、そうだとしか言いようがない。

間違いなく、車が悪い。
車は、とてつもない凶器だと本気で思う。

ただ、人生のタイミング、出会いとして、
考えれば、運が悪いというか、かわいそう、
なんですよね。

もう少し速く、そこを通りすぎていれば...

もしくは、もう少し遅く、そこを通りすぎていれば...

そう考えてしまう。
ドライバー目線かもしれないが。

ひき逃げしても、
ひき逃げしなくても、
交通事故は、
人生を大きく変えてしまう可能性を
もっている。

他人の事故を見て、
自分の運転を気にかけたい。
そう思った昨日でした。

2008年12月25日

気づかないホメられたい

クリスマス・イブの昨日は、
どこのスーパーも、
人が多かったことだろう。

わたしも妻と買い物に行ったが、
いつもとは違うスーパーに行った。

ちょい用があって、
自宅から40分ほど離れたところ。

買うつもりはなかったのだが、
妻が店内を見ている間に、
お惣菜コーナーを見ていた。

すると、そこに1人の女性。

ん?

竹村先生じゃないか?

と思った。小学校の時の担任だ。

その時には、
彼女の年齢のことなど、
考えなかった。

わたしの記憶にあったのは、
よくホメてもらったこと。

小学校を卒業してから、
25年は経っている。

憶えてくれているだろうか?

声をかけたい衝動にかられた。

自分の子供のことを話したりして、
なんか、ホメられたい気分になっていた。

「あのー、竹村さんですか?」

と声をかけた。

その女性、不思議そうな顔をして、

「あ、違います」

と一言。ちょっと、オドオドした感じにも見えた。
わたしの人相が悪かったのか...笑。

ああ、違ったんだ。

考えてみれば、
彼女の見映えは、50歳くらい。

今の私は、39歳。
小学校の頃に、先生は、
中学生の子供もいたくらいだから、
少なくとも70歳にはなっているはずだ。

50歳くらいなわけがない。

そういうことに気づかなかった。
というよりも、何かしらホメられたい、
なんとなく甘えたいような気分に
なっていたんだろう。

クリスマスだったからか?

そういうホメられたい感情があったことに、
あとで自分で気づいたのだけれど、
その時には、ホメられたい思いに
心が占められいたから、

なんていうか、
先生であってほしい願望ばかりが強くて、
年齢のことなんて考えなかったもんなぁ。

わたしにも、そんな感情があったとは...

義理も何もなく、ストレートな心で
ホメてもらえそうな時、
人は素直に、ホメてもらいたいと
思えるのかもしれない。

子供の時にホメられた記憶には、
そんな印象が強く残っているのだろう。

大人になってからは、
そんなストレートなホメられ方が
少なくなるっていうことなのかな。

だから、ホメられることに、
知らず知らずのうちに、飢えてくる。

それに、考えてみれば、
学校の先生という存在。
たとえ、実際に出会ったとしても、
わたしのことを、憶えていてくれるとは限らない。

退職するまでに、
出会う子供たちの数は、
かなり多い。

そういうわけで、憶えていてくれなかった、
という事実に出会えば、私は、
さらに、 ショックを受けたかもしれない。

過去の人から、
今の自分を褒めてもらおうなんて、
甘い考えかもしれませんね。

過去は、過去です。

2008年12月24日

涙で文字が...

涙で文字がにじんだら...

なんていう歌詞の歌が
昔あって、

便箋に書いた文字に、
涙が落ちてにじむということでしょうけど、
そんな手紙を送るかいな、

というツッコミを入れたくなったものです。

ドラマでも、歌詞でも、
本当にそんなことがあるもんか?

と思えるものは少なくありません。

けれど、
本当に起こりそうでないからこそ、
なんか共感できたりします。

それは、
そうあって欲しい、
そんなことが現実だったら、
という願望が心を引きつけるんでしょうね。

実際に、日本中を探せば、
そんな人がちょっとは見つかる
かもしれませんけどね。

やることの意図は、
まったく違ったとしても...

人間は、わざとらしいことを嫌いながら、
同時に、わざとらしいことが好き。

要は、それが出てくるタイミング。

その場所でタイミングがよければ、
好かれる。
タイミングが悪ければ、
遠ざけられる。

今日は、クリスマス・イブ。
ちょっとは、わざとらしいことがゆるされる日
かもしれません。

けれど、相手と場所を間違えないように
したいものです。

2008年12月15日

3分、2分、1分

知らず知らずのうちに、
ケータイを開けたり閉めたり...

先日、となりに座った女子高生が、
ケータイを閉めたと思ったら、
またすぐ開けるの繰り返しをしている姿。

今では、あまりにも当たり前の姿だけど、
実際、どれくらいの間隔で、
それをくり返しているんだろうと思い、
時間を測ってみた。
わたしも、暇人である。

2分、3分、2分、2分、1分、1分、1分、2分...

こんなにも短かったのか、
とちょっと驚く。

何かしら、一般的な調査データでも
あるもんかなぁ、と思って、
インターネット検索をしてみたけれど、
見当たらない。

授業中には、いくらか遠慮するんだろうとは思うが、
それでも、この間隔(感覚?)は、
変わらないだろうと予想できる。

誰かと対面でしゃべっていても、
ケータイを手に持っていれば、
思わず、この開け閉めをやっちゃうことだろう。

ケータイを忘れたり、
ケータイを持ち込んではいけない状況だと、
きっと、禁断症状に近いものが
現れるかもしれない。

それを見ていて、
ちょっと、この人、
生きていけるかなぁ、
という心配がもたげてきた。

きっと、大きなお世話なんでしょうけど...

呼び出し音が鳴っているわけでもない、
バイブで震えているわけでもない、
メールの着信音を消しているとすれば、
メールが届くたびに、すぐに返事をしているか、
メールが届かなくても、誰かに「つながって」いたくて、
何通ものメールを送っているか、
そのどちらかだろう。

何度も何度も、それをくり返している。

そして、20分くらい経って、
やっと、呼び出し音が聞こえた。

「つながった」という安堵感。

必要以上に大きな声でしゃべって、
これから遊ぼう、という約束を作っている姿が、

「私は、たくさんの人とつながっていて、
 すぐに遊べる人がいるんだよ。」

みたいなアピールに感じられた。

誰に、アピールしている、
と言うんだろう。

誰も、あなたの「ケータイでつながっている」振りには、
うらやましさなんて感じないのに...

1分ごとにケータイを開いて、
つながっていることを確認しないと、
不安になってしまう友だちなど、私は要らないな。

2008年12月14日

身代わり犯人

ミステリー小説とかを読んでいると、
真犯人が、身代わり犯人をつくろうと
いうシーンが出てきたりする。

現実的には、
なかなかうまく成功することは
ないだろうとは思うけれど、

小説の中でのことだから、
途中までは成功する。

身代わりにされた方が了解しているならともかく、
実際に、最後までそれが成功したら、
とんでもない目に遭ってしまう。

子供の頃にも、
そういうシーンに、
たまに出くわした気がする。

クラスとかで何か問題や事件が起きる。

そういう時に、
一番騒ぐというか、
まわりを扇動しようとする人間がいる。

「そういえば、アイツは、
 こんなことをしていた。」

「アイツが、あそこにいたのを見た。」

「アイツが怪しいに決まってるジャン。」

なんてことを言って、騒ぎ出す。

そして、身代わりにさせられようとする方が、

「違うよ、俺(私)じゃないよ。」

と焦って否定しようとすればするほど、
怪しく見えたりもする。

騒ぐことによって、
自分以外の人間に、
疑いの目を向けさせようとする真犯人。

子供らしい知恵なんだろう...

大人になると、
そういうことをすれば、
かえって怪しまれる、
ということが分かってくるから、

自分を埋もらせるために、
じっと静かにしている。

手が混んでくると、
わざと疑われる状態にしておいて、
決定的に思える反証拠も
用意しているなんてこともあるだろう。

いずれにしろ、
身代わりにさせられる方は、
迷惑この上ない。

自分を守るためには、
「真犯人」になりそうな人間に近づかない、
というくらいしか出来ないだろうなぁ。

やっぱり、人を見る目が必要ですね。

2008年11月24日

下町の素朴

古き、よき時代の象徴として、
「下町」っていう言葉には、
いい響きがあるけれど、

下町生まれでない私のような人間には、
どんな情緒が、そこにあるのか、
よく分からなかったりします。

きっと、その下町以上に、
地方の田舎では、
もっと素朴な生活があって、
自然と結びついたものが
あったんだろう...と思います。

ただ、田舎には、
圧倒的に、人が少ない。

東京の下町みたいに、
多くの人間がふれあって、
つくりだされる文化や風習が、
ちょっと少ないかもな、
という想像をします。

もちろん、まったくないわけじゃない
だろうけど。

子供らがテスト勉強で起きているというので、
先日、テレビ放映されていた
映画「ALWAYS続・三丁目の夕日」
を見ていました。

ドラマの中にあったセリフに、
ちょっと感動...涙。

「ただ不器用な者同士、
 肩を寄せ合って暮らしていけたなら、 
 君の顔を見て、君の声を聞いて、
 暮らしていけたなら。」

下町と素朴、という組み合わせが
ピッタリなように、
下町と不器用、という組み合わせも、
しっくりときます。

素朴で、不器用な生き方が、
今の世の中にうらやましがらることは
ありませんが、誰の心の中にも、
そういうところがあるんじゃないかなぁ、

って思います。

要は、それをうまく隠せるか。
隠そうとして失敗するか。
最初から隠さないか。

それだけの違い...

今日も、不器用な生き方を
しているかもしれない私です。

2008年11月12日

マジメな顔

自分の顔は棚に上げておいて、
他人の「マジメな顔」に
思わずふきだしてしまうことがあります。

えっ! それがマジメな顔?

みたいに。

でも、どんな顔であれ、
マジメな顔と、
そうでない顔の
区別がつけられる人は、
まだマシです。

マジメな顔と、
怒っている顔が、
ほぼ同じような人。

マジメな顔と、
笑っている顔が、
なんか似ている人。

マジメな顔が、
困ってる顔に
見えてしまう人。

判断がちょっと難しくて、
困ります。

「マジメな顔をして、やってよ!」

と言ったところが、

「この顔がマジメなんだよ。
 そもそも、顔は関係ないだろ!」

なんて逆切れされたりしたら、
マジメに進めたいことも、
進まない空気に...

なんていうか、
マジメな顔っていうのは、
変なところに力が入ってしまって、
予想外の顔になっていることも
あるんでしょうね。

私のマジメな顔は、
どうなんだろう?

2008年11月 1日

旅に出る勇気

自分の近くにいて、
あんまり苦労せずに
育っているように見える娘らを見ていると、

「ちょっと、旅に出てこいや」

なんて思ったりする。

自分で言うのもなんだが、
親自身の問題で、
子どもをそれほど苦しめることなく、
育てていると思っている私だからだろう...

おとといは、8年間も、
娘を監禁していた母親のニュースが
報道されていましたね。

家族というものは、
いいものだけれど、
そんないい家族の中にも、
閉じ込められすぎれば、

何かしら感覚がズレて
くるんじゃないか、と思う。

悪い家族なら、なおさら。

雰囲気のいい家庭を
わざわざ悪いものにする必要はないけれど、
そこからちょっと離れて、
どんな世界があるか、見させたい。

インドあたりがいい、
という人がいます。

夏は、とてつもなく暑く、
人も、すごい(?)といいますから、
そんなところへ「なぜ?」と思いますが、

現実を見せるのにいい場所だ、と。

人それぞれ、オススメの旅行スポットがあるでしょうね。

もちろん、そんな海外旅行でなくても、
旅に出た価値のあるスポットは、
日本にもあるかもしれません。

四国のお遍路さんとか?

けどねぇ、ホントは、
親が送り出した旅よりも、
自分で出ようと思った旅のほうがいいでしょうね。

2008年10月24日

分かってくれる人

人には、一人でもいいから、
分かってくれる人が必要だ。

その考えが、
どんだけ変なものだとしても、
分かってくれる人がいると、
助かる。

分かってくれる人がいないことによって、
かえって、偏見の底に深く
落ち込んでいく人もいる。

もちろん、分かってくれた人がいることによって、
さらに輪をかけて、偏見に凝り固まる人もいるけどね。

そういう人は、
救いようがないから、
とりあえず、論外しておこう。

人が、自分の変な考え方から離れ、
すこしは、まともな方向に自分で直していけるためには、
ある程度の理解を受けて、自分に気づく余裕が
出来なければいけない。

その余裕は、
分かってもらえている、
っていう実感からくることが多いと思う。

分かってもらえない、
と強く感じる心には、
なかなか、その余裕は入り込んでこない。

しゃべる前から、
分かってもらえることもある。

話し合って初めて
分かってもらえることもある。

「私にはそういう考え方は出来ないけど、
 なんか、分かるよ。」

そんな言葉でもいいから、
人は、欲しているんだろうなぁ...

分かってくれる人が見つかるなら、
人は、どこへでも行くくらいの気持ちになることもある。

そういう意味で、この雑多で、
たくさんの人々が参加しているインターネットという社会は、
分かってもらうためには、いい場所なんだろう。

ただ、ものすごいホントも入っているけど、
ちょっとしたウソも入っていることを見抜けなくちゃいけないね。

そうしないと、同じように、
偏見に凝り固まってくるから。

もし、あなたに、分かってくれる人がいるなら、
あなたは、ホントに、幸せなんですよ。

2008年10月 2日

誤解じゃない

たとえば、
嫌いだと思っていても、
「嫌い」という言葉を、
相手にも周りにもずーっと発しないで、
済ませることはできる。

けれど、嫌われている空気を、
相手は、ちゃんと感じることは出来る。

感じた相手が、
自分は嫌われているみたい、
と周りに言いふらし始めた時に、

「誤解されている」

と言えるだろうか。

たしかに、
「嫌い」ということは、
誰にも言っていない。

相手が、勝手に感じたことで、
場合によっては、間違っていることも
あるかもしれない。

けれど、
誤解なんかじゃない、
と私は思う。

仮に、誤解だとしても、
相手は、誤解したくて、誤解している。

つまり、そう思ったほうが、
自分に都合がいい、
または自分を守れるからそう思っている。

それだけのこと。

誤解されたなんて思わないほうがいい。
それを取り消してもらおうと、
一生懸命にならないほうがいい。

相手の思いたいように
思わせておけばいいじゃないか。
そう思うことによって、
相手に得があるならそれでいいだろうし、

自分の方に損があるなら
その損すら気にしなければ、
そのことはそれで終わるのだ。

つきつめて言えば、
世の中に、誤解なんかない。
そう思う。

みんな、自分の理解したいように
理解するだけのことかもしれない。
何らかの意味で、次に進むために、
あるいは、そこにとどまるために。

2008年9月30日

恩人の存在

いろいろと手助けをしてもらう、
いろんなものを譲ってもらう、
何かと声をかけてもらう。

そういう人がいるのは、
とてもありがたいことです。

恩人です。

自分が非力な時には、
誰でもいいから、
そんな恩人がいると、
ホントに救われます。

しかし、あとになってみると、
恩人の存在がちょっと心の負担になることも
少なくありません。

その恩人が、
スーッと姿を消してくれたり、
サラっと何でもないように振る舞ってくれると、
心の負担も軽くなりますが...

いついつまでも、
近くにいられると、
何かしらお返ししなくちゃ
いけない気持ちに、
いつも襲われることでしょう。

恩人の助けが必要な時が
過ぎ去ってしまった時に、
その恩人とどう付き合うか、
これは、大きなテーマだと思います。

その恩人がいなければ、
たしかに、あの時は通り抜けることが
出来なかっただろう。

しかし、今は、もう、
恩人の助けがなくても
大丈夫なところまで来た。

それでいながら、
恩着せがましくされると、
なんか、恩を受けたことが
かえって損のようにさえ思う人も
いるかもしれない。

すごく身勝手なことかもしれない、
と分かっていながらも、
そう感じてしまうこともありえる。

恩人がいる時には、
窮屈な気持ちを感じるけれど、
恩人がいなくなると、
心が解放されて、
なんか伸び伸びしていられる。

恩人の助けがいらなくなった時に、
恩人とどう付き合うか。

これって、自分を育ててくれた人と
どう付き合うか、っていうことにも
通じることでしょうね。

大切なことを忘れてしまいそうです。

2008年9月15日

同じ話の中に見つける宝

ご年配の方から、
話を聞くときには、
同じ話が何度もあることを
覚悟しなくちゃいけない。

そんな覚悟を持つことなんて、
まっぴらごめんで、
もう付き合いたくない、となれば、
同じ話が始まった瞬間に、
うまい言い訳を見つけて、
逃げていくことでしょうね。

身内の話とかになれば、
なおさらでしょう。

私も、自分の母親の話であれば、
同じ話を聞くのは、ホントに耐えられません。

逃げていかずに、
話の聞き役になるっていうことは、
その人に対して、ある程度の遠慮か、
ちょっとした好意でもなければ、
無理な気がします、私の場合は。

それでも、同じ話が出てくると、
やっぱり、ちょっとキツイと思うこともあります。

そんなときには、
その話の中に、宝物を見つけようと
思ったりします。

宝物といっても、
何かツッコミを入れられるネタ
のことなんですがね...

ツッコミを入れて、
さらにふくらませられること。
今まで聞いたことのない話に、
発展しそうなことです。

ただし、
そういうツッコミに応えてくれる人に
対してしか、できませんがね。

あくまでも、自分の話したい「同じ話」を
1から10まで話す決心を固く持っていて、
揺らぐことなく、話し続けようとする人には通用しません。

そんな人につかまってしまったら、
もう、あきらめるしかありません。

嫌われることを覚悟で、
話から逃げるか。
話し続けるのを
ひたすら忍耐して聞くか。

同じ話の中に見つける宝は、
なかなか見つけにくいために、
いずれにしろ、大変なものだなぁ、
と思うことでしょう。

2008年9月10日

楽しみと苦しみ

楽しいことが苦しくなる、
っていう感覚は、
もっともっと究めようという時に
生まれるものだと思います。

しかし、
楽しいことを究める気持ちがないと、
いつもワンパターンで、
つまらなくなることもあるから、
極めることが悪いわけでもない。

となると、
苦しむことが悪いわけでもない、
と言えることにもなる。

とは言っても、
人間誰しも、好きで苦しみたい人
なんていうのは、そんなにいない。

時おり、子供やお偉いさんの
ご機嫌を損なわないように、
たいして上達もしていないのに、

周りがわざと下手な振りをしたり、
おおげさに、上手だとほめてみたりする、
というシーンを見かける。

本人は、ほとんど努力もしていないのに、
そんな「上達」を実感できた気分になるから、
つけあがるに決まっている。

楽しいばかりだろう。

ただ、それも、しばらくして、
周りからご機嫌取りをしてくれる人々が、
サーッと消えると、現実を実感することになる。

え? 私は上手だったはずじゃないの?

という苦しみが、ドーンと押しよせる。

楽しみの後には、必ず、苦しみが。
そして、苦しみの後には、必ず、楽しみが。

世の中は、そんなふうに
なっているんだろうと思います。

今苦しんでいる方、間もなく、
楽しみが来ます。

今楽しんでいる方、存分に味わってください。
間もなく、その味わいが消えてしまうかもしれませんから...

時間を投資して、
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。

2008年9月 4日

人生に遅刻する

約束の相手が誰かによって、
早めに行ったり、
遅刻して行ったりするのは、

人間性が、
ちょっと疑われるかもしれない。

でも、たしかに、
「あの人なら、遅れても大丈夫だ」
と思ってしまう人がいるのは事実。

反対に、
「この約束は、絶対に待たせてはいけない」
と思う大事なことがあるのも事実。

人によって態度が変わる、
と思われてもしょうがない...

それよりだったら、
誰に対しても、キチンと早く行く人、
誰に対しても、だいたい遅刻する人、
っていう感じの方が、
裏表がなくて分かりやすい。

人生には、ところどころに、
約束っていうものがあって、
それには、1つ1つ重みがあるのが、
当たり前といえば当たり前。

同じ人との約束も、
時が流れれれば、
変わってきたりもする。

好きになって告白して、
付き合うことが出来たばかりの時には、
1分1秒も遅れることなく、
待ち合わせに行っていた相手に、

その同じ相手に、
結婚してからは、いつ帰るか、
今どこにいるかも伝えることなく、
晩ご飯の準備もしているというのに、
待たせていてもなんとも思わない。

そのくせ、
「あ、食べてきたから」
なんてことも多々あったりする。

遅刻しても何とも思わない相手に、
なっちゃったんだよねぇ。

トキメキがなくなったから、
なんて自分と相手を納得させるけれど、
ときめかなくなった自分が原因なことには、
気づいていない。

人と結んだ約束か、
自分と結んだ約束か、
神様と結んだ約束か。

どれを大切にするかは、
人それぞれの、その時々の価値観で
決まるものだろうけれど、

いつしか、どの約束に対しても、
けっこうラフな自分がいて、
知らず知らずのうちに、
自分の人生にも遅刻しているような気分に
なっていたりすることはないですか?

こうなっているはずのところに、
まだ辿り着いていない感じ。

うーん、遅刻しているなぁ...

でも、それはそれで楽しいから、
自分をゆるせている自分です。

2008年8月31日

捨てられた気分

あまりにも、
家族とかに迷惑をかけると、
家族から捨てられる。

会社に迷惑をかけると、
会社からも捨てられる。

友人に迷惑をかけると、
友人からも捨てられる。

ということもあるかもしれない...

捨てられたくて、
捨てられるという人は、
あまりいないだろうけど、

そういう人のことを思って、
拾ってくれる誰かがいると、
その捨てられた人は、
幸いだと思う。

きっと、捨てられるだけの理由が、
あるんだろう、と思う。

わがままとか、
自己チューとか、
うるさいとか、
細かすぎるとか...

そういう理由があることを覚悟の上で、
拾ってあげて、面倒を見てあげる。

ちょっと上から目線的な対応かもしれないが、
その捨てられた人の救いになるんであれば、
そういう上から目線も、
そんなに悪いことじゃないと思います。

身内だったら耐えられないけれど、
ちょっと面倒を見るくらいの他人だったら耐えられる。

あるいは、仕事としてだったら、
そういう面倒をすることに付き合える。

そういう、いろんな出会いを
ありがたく思いながら、
捨てられた人生を送る人々は、
ささやかなチャンスを得て、
やり直していくんでしょうね。

出会いというものは、
ホントに不思議なものです。

誰が、誰をどう助けるか、
誰が、誰からどんなふうに助けられるか、
そして、その結果どうなるか。

予測出来ないから、
人間の変化っていうのは
面白いんでしょうね。

2008年8月14日

手をつなぐ

恋人同士が手をつなぐのは、
何もおかしいことはない。

夫婦が手をつなぐのも、
照れくさいけど、
おかしいことじゃない。
いつまでも仲のいい夫婦だ、
ってことになるだろう。

親子で手をつなぐ、
っていうのも、また幸せな感じ。

年老いた親の手を引っ張って、
歩いている姿は、また別ですがね...

でも、男同士が、
手をつないでいると、
だいたいは変な目で見られるだろうなぁ。

日本という国では、
まず間違いなく、そうなるはず。

じゃあ、女同士、
女の子同士が手をつなぐ、
っていうのはどうだろう?

それは、見る側がどう見るか、
で違って見えるでしょうね。

私の場合で言えば、
あんまりにもベタベタしていると、
ちょっと違う性向があるのかな、
と思ったりする時もある。

そう思う私は、きっと、
ここ最近、そういう光景を
見慣れていないからだろうなぁ...

たとえば、
小学校、中学校、高校なんかでは、
そういう仲良しが手をつなぐのは、
ごく当たり前の光景かもしれないから。

とは言っても、なかには、
女の子同士で手をつなぐなんて、
私は出来ない、っていう人もいるだろう。

やっぱり、そこには、
性向、個性が現れる?

久しぶりに、ベタベタと
手をつなごうとする女の子を見て、
そんなことを考えたりしました。

こんな暑い夏なのに、
手なんかつながなくても...

と感じたわけです。

2008年7月16日

中国人の若い女の子

この季節になると、
わが家は、きゅうりでいっぱいになる。

義父の家庭菜園は、
毎年、きゅうりだけは豊作だ。

頭を抱えるのは、うちの妻。
そのきゅうりを誰に、どこに
おすそわけしたらいいのか、
いつも悩んでいる。

わたしと子供らだけでは、
とても食べきれない。

かと言って、
捨てるのも、もったいない。

今朝、妻は、
ゴミを捨てに行くついでに、
そのすぐ近くの縫製工場前で、
体操をしている中国人の女の子に
話しかけたらしい。

「きゅうり、食べますか?」

営業活動は成功。
もらってもらえることになった。

そこに、中国人の若い女の子たちがいるのは、
以前から、知っている。

アパレル業界の底辺にある縫製工場。
かなりキビシイはずのコストダウンのために、
中国人の女の子らを雇っているんだと思う。

時々見かけることから、
その縫製工場が、夜は、
その女の子たちの寝泊りの場所に、
なっていることだろうと想像していた。

初めて話しかけた妻。

いろんなことが分かってきた。

4、5人くらいで住んでいるものと思っていたら、
なんと、9人も住んでいるとのこと。

そんなに大きくない縫製工場でありながら、
なおかつ住宅でもないところに、9人で住むとなったら、
かなり狭いことだろう。

それに、若い女の子9人となれば、
問題も多くなるのでは...

きっと、そんな問題も解決しながら、
経営者さんは、その工場を運営していることだろう。

隣近所からの苦情も聞いたことがないので、
9人の親代わりとなって、教育・指導もしているんだろうな。

いつまでいるかは分からない彼女たち。

「これから、いっぱいあげられるぞ」と、
きゅうりのことしか考えていない妻。

日本での思い出に、きゅうりが追加されるかな...

2008年7月15日

昔話をしない方法

きっと、ほとんどの人が、
他人の昔話なんて
聞きたいと思わない。

それでいて、
自分は、意外にも、
いたるところで
昔話を始めてしまう、
なんてことがあるかもしれない。

ふと、自分を振り返ってみれば、
身に覚えのある気もする。

そこで、昔話をしないためには、
どうしたらいいか。

最新の話題を、自分に取り入れるしかない。
しかし、自分についての最新の話題じゃ
つまらない。

昨日は、腰が痛かった、
今日は、歯が痛い、
明日は、頭が痛いだろう...

誰も聞きたくない。

最近でいえば、iPhoneなんかが、
最新の話題になるかな?

昨日、私あてに、
iPhoneからメールを送ってきた知人がいた。

へぇー、買ったんだ?

とメールを返したら、

「なかなかメール打てなくて、
 がんばって打っていたら
 そのうち送信できました。
 そうなんです。購入してしまいました。
 おもしろいです。それでは!」

この知人は、しばらく、昔話をしないだろう。

何人に、iPhone買ったよメールを送るか、
分かりませんが、20人くらいに送る頃には、
世の中はもう、iPhoneが
最新の話題じゃなくなっているかもしれない。

しかし、昔話が好きな人の間に、
iPhoneの話題を持っていけば、
間違いなく、最新の話題でしょうね。

けれど、飛びつかれる話題じゃない。

そうなんです。飛びつかないんです。
ということは、昔話をしないためには、
昔話をする人々とちょっと距離を置く必要もある、
ということですね。そこにいると、
みんなが飛びつく昔話しか出来なくなるからです。

同級会なんて行ってる場合じゃない、というわけだ。

2008年7月11日

人をゆるしたい

誰かのことを嫌いになるのがイヤで、
誰かを恨んだり、憎んだりして
ゆるせなくなっている自分がイヤで、

そういう時間をなくしたくて、
その人をゆるそうと思えば思うほど、
その人が、心に住み着いてしまう...

ゆるすことが目標になれば、
ますます、心に深く刻まれる。

人は、そういう生き物のようです。

そういうことは、
人間関係のことばかりでなく、
きっと、ダイエットとかにも言える。

ダイエットするんだ、
食べ過ぎないようにするんだ、
と意気込めば意気込むほど、

食べることが意識されてしまって、
忘れられなくなる。

ああ、今の私は、
食べることをガマンしてるんだよな。
これ、いつまで続けたら、
やせられるんだろう。

ダイエットが終わるんだろう、
みたいなことを考え出せば、
また、心に住み着かれてしまう。

住み着かせないためには、
そのことから離れるしかない。
忘れるしかない。

「そのこと」を忘れるんだ、
って目標にすること自体が、
そもそも矛盾していることになるんだけどね。

逆に、そのことを考えないでいられる、
忘れていられる「自分探し」を目標にした方がいい。

何かを忘れたい時には、
自分探しの旅が始まる。

忘れたいこと、
忘れなければいけないことは、
生きていく途中途中で
必ず見つかると思うから、
何度も何度も、自分探しに出かける。

そして、その度にいつも、
違う自分を見つけることになるだろう。

忘れることが自分探しとは、
つい最近まで、知りませんでした。

考えてみれば、
忘れること&自分探しは、
別れ&出会いみたいなもんですから、

うなずけます。

2008年7月10日

誤解される配慮

配慮というものは、
あまりにも行き届きすぎると、
誤解されやすいこともある。

たとえば、
たいしたミーティングとかでないから、
わたし1人だけでいいですよ、
という意味合いで、

「無理していらっしゃらなくてもいいですよ」

と言ったところが、

「来てもらっては迷惑だ」

と読まれることもあるでしょう。

もしかしたら、
その言葉を言われるまでは、
行きたくないなぁ...と思っていても、

ハッキリと言われた瞬間に、
行きたい気持ちを拒絶されたような気分にさえ
なるのです。行きたくもなかったのに、だ。

ありがたい配慮と思えばいい時には、
嫌われているかのように勘違いをし、

配慮が何もない時には、
やはり当然のように怒る。

先回りの配慮というものは、
むずかしいなぁ、と思うことがあります。

でも、そもそも、
配慮じゃなかったなぁ、
と自分で分かる時もあります。

というのは、わたし自身がせっかちで、
自分に関わる物事がスムーズに進むために、
他の人のことにも「配慮」している場合もあるから。

これって、よく考えてみなくても、
配慮と呼べるものじゃありません。

ただ、自分のためにやっていることでも、
他の人のためになって喜ばれることもありますから、
まったくの「大きなお世話」でもないことになる。

人のためにやった、
配慮したんだ、なんて思わないことです。

結果として喜ばれれば、それはそれでよし。
そうでなければ、それはそれでしょうがない。

「せっかく配慮したのに...」
「ためを思ってやたのに...」

なんてウソはいけません。

相手が喜んでくれるかどうか分からないのなら、
相手の気持ちを尋ねてからやった方がいい。

そうでない場合は、自己責任で。

2008年7月 6日

読めないものは読まず

KYという言葉が流行って、
もう久しい気もしますが、

実際のところ、
空気を読むというのは、
そんなに簡単なことじゃない、
っていう気もします。

人それぞれに特有の
空気の作り方があって、

それが理解されることを
当然の権利のように、
みんなが他人に求めたら、

言葉というものが要らなくなります。

日本人が得意だと思っている、
「あ・うん」の呼吸だけで、
世の中、うまくいくはず。

残念ながら、だいたいは、
「あ・うん」だけでうまくいっているという
日本人の勘違いか、幻想の場合が多いですけどね。
理想の中だけでの美しさっていう部分が強い...

ただ、実際に、「あ・うん」の呼吸だけで
うまくいっている人々は、

言葉を使っても、うまくいくのです。

ですから、何も言わない、
何の言葉もないという「空気」が前提なのではなく、

結局は、分かろうとする気持ちや、
本当に分かってもらいたい気持ちがないと、
いい空気なんて、ありえないのです。

何も言わなくても、
私のことを分かるのが当然でしょ、
なんていう空気は、

分かる価値すらないかもしれない。

それで、相手のことを、
KYだ、空気が読めない人だ、
と責めたところで、

お互いの交流に、どんなメリットが
あるのだろうか。クイズならまだしも...

分かり合えて、次に進むのが、
最大の目的なんですからね。

だから、相手のわがままなんかに付き合わず、
AKY、あえて空気を読まないっていうのが、
本当の正解であることも少なくないな、って思います。

2008年6月18日

一番悪い人

人って言うのは、
自分の身近にいる悪い人が、
一番悪い人に思えるかもね。

妻が、今朝、言っていた。

おー、そうかもな...

久々に、妻の名言に、
深く納得した。

たとえば、
ニュースで報道されている事件の犯人を
悪いやつだとは思っても、

被害者本人や家族の人間でない限り、
朝も夜も忘れられないほど、
心底憎みきれるものじゃないだろう。

そんな犯人よりも、
身近にいて相性のよくない人間の方を、
心底嫌うことができる。

実際、嫌っているだろうなぁ。

「実力があるヤツは
 イヤなヤツと相場は決まっているが、
 イヤなヤツに実力があるとは限らない。」
 (チーム・バチスタの栄光、海堂尊)

まず、自分よりも出来るヤツが、
憎らしくなる。

自分より出来るヤツなら、
世の中に五万といる。

幸い、そのほとんどは見えない。

だから、見えるヤツが憎らしくなる。
同じ職場、同じ学校、同じ地域...

何かしら不正な方法で、
自分よりも「出来るヤツ」に
なっているんじゃないか、と感じる。

そう信じたい。

本当は、自分の方が「出来る人間」なのに、
何かが間違って、どこかで大切なことが見落とされて、
今の私が評価されていないんだ、と信じたい。

だから、自分よりも評価されているヤツは、
一番悪いヤツになるのだ。

その一番悪いヤツについて、
褒められるような話が聞こえてくるもんなら、
そこが世界の片隅であっても、突っ走っていって、
否定のための説得を始めることだろう。

一番悪いヤツだから、
それくらいのことをしてでも
みんなに分かってもらわなくちゃいけない。
なんていう使命感まで抱いていたりする。

わたしにとっての一番悪い人は、
誰だろう?

あの人かな。

あなたにとって一番悪い人は、
誰ですか?

2008年6月17日

ウソの会話に付き合えない

世渡り上手な人は、
ウソの会話に付き合える人だと思う。

たいして褒められたことでない話を
褒めてあげて、

正しいわけでもないことを、
あなたが正しいと言い、

大げさに話していることを分かりながらも、
そうか、そうか、と付き合う。

そんな話はウソじゃないか、
と種を明かせば、まったく、
その通りなのだが、
実害のないウソっていうものもある。

ウソの会話に付き合ってあげたとしても、
実害がない、差し障りがないと思い、
それに付き合ってあげる心の広い人は、
世の中にたくさんいるわけじゃない。

誰もが、聞いてくれる人を探している。

しかし、誰もが、聞いてくれるわけじゃない。

話を聞いてあげて、
見返りがあれば聞く、
という人はいる。

それには、仕事として聞く人も、
含まれるかもしれない。

また、見返りというものが、
「話をした本人が気持ちを吐いて、
 次のステップに進む姿を見ること」
だと思って、聞いてくれる人もいるかもしれない。

つまり、そんなふうに、
次のステップに進みそうでなければ、
聞くだけムダだと思ってしまうことになる。

わたしは、そんなタイプかな。

ウソの会話に、
あまり上手に付き合えない。

いや、自分の間違いが
あることもいくらか自覚するとすれば、

「ウソだと感じてしまった会話」に
付き合うことが出来ない。

たとえ、本当だったとしても、
自分がウソだと感じてしまった会話には、
そういう反応をしてしまうということだ。

きっと、ある意味、自分も
ウソつきだからかもしれない。

そんな話は、裏に、
こんな感情があるから、
言っているに決まっている、
と自分に置き換えて、決めつけているのだろう。

そして、それが当たっていることもあれば、
はずれていることもあるでしょうね。

自分がウソつきでなくなった時に、
他人のウソに付き合えるようになる。
そんな気がします。

2008年6月 2日

気をつかって、つかわれて

気を遣われていると感じると、
かえって、気を遣う。

そして、その気遣いに相手が気づくと、
相手はさらに気を遣って、
こちらも、さらに気を遣うことになる。

気を遣っていることに気づいて、
それを、気遣いで応酬しようとすれば、
そういうことが延々と続く。

贈りもののお返しが、
エスカレートするのは、
そんな感じだろうなぁ...と思う。

気遣いは、どこかで誰かが
ストップしてくれないと
止まらなくなることがある。

けれど、そのストップする役目を
自分はしたくないと思ってしまう。

ストップしてしまうと、
「恩知らず」みたいに言われることが怖いから。

自分じゃない誰かが、
それをストップする役目と、
恩知らずと呼ばれる役目を
引き受けてくれたら、
本当に、気が楽になる。

それが起こるまでは、
気遣いの循環ループに、
半永久的に組み込まれてしまう。

好き好んで、
気を遣うことを続けたい人っていうのは、
珍しいでしょう。

だいたいは、そんな気遣いからは、
本当は解放されたいと思っているに違いない。

ただ、気遣いの「美しい文化」っていうのも、
あるんですよね。

なんていうか、
日本人の「おもてなし」の心って、
そういう気遣いがベースにあることでしょうからね。

何の気兼ねもなく、
気遣ってもらう立場にいれるのは、
心地よい。
お金を払って、サービスを
受けるような感じでしょうか。

でも、気兼ねしながら、
気遣ってもらう立場は、
ちょっと居心地が悪くなる。

難しいもんです、日本人は。

良さであり、面倒くささでもある、
ということなんでしょう。

2008年5月30日

普通という個性

あなた自身、
あなたの個性は何だ、
と思っていますか?

と尋ねられて、まさか、

普通なことです。

なんて答えませんよね。

個性というからには、
他の人と違うこと、普通じゃないことが
答えられるのを期待されているわけですから。

たしかに、「普通」という答えは、
冗談だとすれば、面白いですけどね。

実際、何もかも普通すぎて、
変わっている個性と思われる場合も
あるかもしれません。

でも、普通という個性は、
普通だったら、ない。

自分の個性を尋ねられたら、
「普通じゃないこと」を見つけなくちゃいけない。

ただ、それが難しい。

自分しか知らない人であれば、なおさら。

自分が持っているもの、
自分がしていること、
ぜんぶぜんぶが自分にとっては、
間違いなく、普通ですからね。

普通じゃないことっていうのは、
他の人と比べてみなくちゃ分からない。

比べてみて初めて、
普通だと思っていたことが、
意外と普通でないと分かったり、

普通じゃないと思っていたことが、
意外とたいしたことでない、普通のことだった
なんていうことが分かったりするもんなんです。

それって、普通じゃないよぉ~、

と言われるのが嬉しいことか。

それって、普通だよぉ~、

と言われることが嬉しいことか。

それは、ケース・バイ・ケースですね。

劣等感を感じない程度に、
周囲をちゃんと見ておいて、
普通のことなのに、

「ねぇ、ねぇ、これってすごいでしょ。」

みたいに騒ぐことだけは
ないようにしたいものです。

2008年5月10日

引き出す方法

今になっても、
銀行のATMから
お金を引き出せない、
という人は、珍しいだろうと思う。

ウェットティッシュなら、
うまく引き出せないことは、
時々ある。

でも、それ以上に難しいのは、
自分の心の中にあるけど、
それを引き出すのがなかなか出来ない。
みたいな感じのこと...

すぐそこにあるのに、
うまく引き出せない。

引き出したかと思えば、
なんか、相手に合わせすぎて、
自分の中にあったものじゃない形で
見せていたりする。

よく見てみれば、まだ、
自分の中に残っている。

うまく引き出すことさえ出来れば、
なにもかも成功するような気がするけど、
それを引き出せるかどうかが、
最初の関門だったりもする。

けれど、誰も、
自分が自分を引き出すのを
待ってくれていたりはしない。

そんなことは、
誰も頼みもしない。

自分で気づいて、
自分でやろうとするかどうかだけ。

誰からも頼まれもしないことが、
一番きつくて、
一番楽で、
一番損をすることで、
一番得もする。

自分を引き出すってことは、
そういうことじゃないかなぁ、
って思います。

そして、誰にも分からない。
自分で見つけるしかない。

引き出せるものも違うし...

2008年4月19日

桜の咲く頃

日本全国、桜の咲く頃、
っていうのが少しずつ違うから、
その時のイベントも
同じでない。

だから、桜とからめて、
話をしようとすると、

ん?

と思うことがある。

よくあるのは、
入学式のシーズンに、
桜が咲くようなイメージ。

残念ながら、
秋田に住んでいて、
入学式に桜が咲いているシーンは、
一度も見たことがない。

卒業の歌に、
「桜」がたびたび出てくることが
多いけれど、
入学式に咲かないんだから、
卒業式にはありえない。

下手すれば、雪ですら残っている…笑

実際のところ、卒業式に、
桜が咲いているところなんて、
日本のどこにもないんじゃないかなぁ。

あるとすれば、沖縄くらい?

2年ばかり沖縄に住んでいましたが、
たしかに、桜が咲くのは早かったなぁ。
記憶に残っています。

だいたいは、
入学式がちょっと過ぎてから、
桜が咲いているのではないでしょうか。

こちらでは、
ゴールデン・ウィークあたりに
咲くというのが恒例のように思います。

で、私が子どもの頃は、
ちょうどそのあたりに
運動会があったものでした。

うちの長女、次女が小学校に入りたての頃も、
そんな時期にやっていましたね。

ところが、週休2日制になってから、
(正確には、週5日制らしい…)
入学して間もない1年生は、
ちょっと準備がたいへんだ、
という話も出てきて、

ここ数年は、
桜とは関係のない、
5月とか、9月、10月に
運動会が行われています。

わたしの頭の中で、
桜とつながるイベント、シーンが、
なくなってしまったわけです。

それに加えて、
今年は、暖冬の影響で、
今からチラホラ咲いている。

入学式でもない、
運動会でもない、
ゴールデン・ウィークでもない。

なんなんだ、この時期に咲く桜は…?

という変な気分で、
桜を見ています。

桜には、罪はありませんがね。

2008年3月28日

お気楽な人生

ただいま、amazonでは、
「ルポ貧困大国アメリカ」という本が
売れているようですが、

その本に書かれている事実は、
事実として、たしかに怖いのですが、
(日本も、その後を追っているようで…)

なんていうか、
それよりも怖いのは、

生きることを「怖がってしまう」ことのように思います。

だいたい、怖がっている時には、
正しい判断とか、正しい行動が
出来なくなったりもするから。

動くべき時に動けなくなり、
やめるべき時にやめられなくなり、

話し合うべき時に話し合えなくなり、
だまっているべき時にだまれなくなる。

怖がってしまえば、
いろんな状況が打開できなくなることも少なくない。

怖がらせるためだけの情報なら、
いらないんじゃないか、と思ったりもする。

もちろん、現実を知る必要はあるけれど、

「問題点を突きつけられたが、
 同時に夢も持てた」
と思ってもらうようにするのが、
これからのトレンドである。
(コンサルティング能力、佐々木直彦)

という情報の与え方、伝え方が出来ない人には、
それが出来るまで、もしくは、
そういう伝え方が出来る人と組めるまでは、
ちょっと黙っていて欲しいなぁ、
と思う時もあります。

下手すると、
「たいへんだ、たいへんだ」と叫ぶ人は、
そのたいへんな事件そのものに、
さらなるパニックを重ねさせるようなもの。

問題ばかり増やしても、しょうがない。

一人一人が冷静になって、
一人一人が順番に、
逃げ出すことさえ出来たら、
みんなが助かったかもしれないのに、

出口に、一気に集中して、
誰も動けなくなったら、
誰一人無傷で助からなくなってしまう。

最近のニュースを見ていると、
父親が、家族みんなの命を奪っていこう、
とする事件を耳にすることが多くなった。

今朝も、そんなニュースが1つ。

どれだけ行き詰っていたんだろうか、と思う。

何かの情報に怖がらせられてしまって、
短絡的な行動をしてしまったんじゃないか、
という気もする。

冷静になって、賢明な誰かに知恵を求めれば、
いいアイデアを見つけ出すことが
可能だったんじゃないかと感じさせられることもある。

私も、幼い頃は、
父の病気の実態がよく分からず、
ただ怖がっていた時も多かったが、

賢明な人からの知恵を得て、
状況が見えてきて、
怖がることをやめられた。

誰かに怖がらせられることなく、
誰かを怖がらせることもなく、
正しい理解をもって、
お気楽な人生を生きていたい。

そんな私です。

2008年3月24日

春休みは、何もない?

春休み真っ最中に娘たち。

夏休み、冬休みに比べて、
なんとなく、春休みっていうのは、
のんびりな空気を感じます。

今は、前期、後期という二学期制なので、
秋休みというものもありますが、
それはとても短い。

でも、空気的には、
それに近い感じですね。

熱く何かをがんばる夏休みでもない、
年度末の最後の受験とか試験に備えて
がんばる冬休みでもない。

年度と年度の間のスキマ。

慌ただしく、何かに急かされている感じもないから、
のんびりな空気なのでしょうね。

見ているこちらまで、
のんびりしてきます。

そっかぁ、春は、
こんなふうに過ごすもんなんだぁ、
みたいな気づきもあったりして。

でも、新入社員、新入生にとっては、
ホントのところ、のんびりしてちゃいけないでしょうね。

引っ越しの準備やら、
必要なものを買ったり、
不要なものを処分したり…

うちの娘らも、
あと数年もすれば、
そんな慌ただしい春が来ることでしょう。

それまでは、のんびり、のんびり。

春の息吹をちゃんと感じるような生き方ができる。
これって、ありがたいことなんですねぇ。

もし、春の息吹を感じることなく、
心を急かして、3月と4月を一気に駆け抜けて、
ゴールデン・ウィークに入ってしまったら、

そこでは間違いなく、
ゆったりできるか、
わいわいと楽しめる。

そんな楽しい空気を満喫しているうちに、
ゴールデン・ウィークの残された日々が
1日1日と減っていることを感じ出したら、

「また、慌ただしい生活に戻るのかぁ…」

みたいな気分になるんでしょうね。
やっぱり、そんなふうになる五月病の心も
分からないでもない。

慌ただしいとはいえ、
この春もゆったりと過ごしたほうがいいです。

春の息吹を感じる日々は、とっても大切です。

2008年3月19日

教え子との写真

卒業式の祝賀会。

おしゃべりしたり、
写真を撮りあったり、
先生に挨拶に行ったり、
子供たちは楽しそうだった。

うちの次女は、
自称「写真家の卵」なので、
デジカメを片手に、写真を撮りまくっていた。

楽しそうである…

ふと思った。

こんなふうに撮った写真の中に、
将来は有名になったりして
いっしょに写っていることが
誇らしく思える友達もいるかもなぁって。

先生たちにしてみれば、
教え子といっしょに写った写真が、
ちょっとした宝になるかもしれない。

1年間、2年間という短い付き合い、
それも子供の段階での付き合いでは、
将来のことまでは予測できない。

「君は、きっと大物になる」
と誰かに言われたところで、
そんなものは、何の当てにもならない。

結局、大人になってみなければ、
分からない。

そして、大人になって、
写真を眺めるような時がきたら、

「あいつ、どうしてるかなぁ…」とか、

「そう言えば、この人は離婚したって聞いたなぁ…」とか、

「なんで、あんなことする人間になったんだろう」とか、

思うこともあるかもしれない。
(なんか、ぜんぶ、悪いことになってますが)

実際、そんな写真を見るだけの
余裕があればいいのですが…

そういうわけにはいかない人生の人こそ、
たいへんな目に遭っちゃうかもしれませんね。

わたしの願いとしては、
将来のわが娘が、
いっしょに写ってくれた友達や先生にとって、
ちょっとは自慢できる人間に
なってくれたら、嬉しいなぁって。

マスコミに使われるような写真には、
ならないように…

2008年3月18日

どちら様でしたっけ?

会うたびに、
「どちら様でしたっけ?」
と言われるのも、なかなかツライ。

もう8年ほども前から、
そんな感じかな?

あえて、
「どちら様でしたっけ?」
と聞いてこない時もある。

わたし自身も、
相手がかわいそうだから、
そんなふうに聞いてこなくても済むような空気を
つくることもある。

今思えば、8年前に、
私が声をかけたことから始まった。

子供の行事などには、
積極的に参加するタイプの私。

そこでは、たくさんの人に会う。
顔を覚えようとしているわけじゃないけど、
何かをいっしょにしたり、
子供の顔を覚えたついでに
親の顔も記憶に残っていたりする。

わたしが検査のために病院へ行った時、
座って待っていると、
隣りに見たことのある顔があって、
声をかけた。

え?え?
どうして、話しかけてくるの?

みたいな顔をしている。

そこで、

「どちら様でしたっけ?」

説明をすると、

「ああ、そうでしたか。」

という穏やかな返答。

それほど話ははずまなかったけれど、
わたしは、知人になったような気分になってる。

その後も、会話はせずとも、
たびたび、会う機会があった。

けれど、声をかけてみると、
その度に、

「どちら様でしたっけ?」

となる。

うーん、まいったなぁ。

と思いながら、考えてみると、
今は、認知症などの病気もあるから、
忘れていることをむやみに責めることも出来ないな、
という気がする。

こっちが、勝手に覚えているだけの話。

忘れられてもいいのだ。

その時その時、
忘れていることなど気にせずに、
楽しい会話が出来ればいい、
ということにしよう。

2008年3月11日

仲間でイメージアップ

自分の評判は悪いけど、
仲間がいい評判の人ゆえに、
イメージアップを図れる人がいる。

あるいは、これからのことを考えて、
こういうイメージのいい人と仲間になるから、
私を信用してください、みたいな人もいるだろう。

アメリカ大統領選のクリントン候補が、
自分よりも有利になってきたオバマ候補を
うまく「利用」しようとしているらしい。

というのは、簡単な話。

自分が大統領になったら、
オバマ候補を副大統領にする。

という提案だ。

この意図は何だろう?

今現在、どちらにしようかと迷っている人々に、
自分の心の広さを見せようとしているのかな。

それとも、1粒で2度おいしい、
みたいな味わいを与えようとしているのか。

はたまた、オバマ候補はその逆の組み合わせを
否定するだろうことを予測して、
彼の方を大人気なく見せようとしているのか。

いずれにしろ、作戦でしょう。

自分の力だけで戦えないことを、
弱さと見るか、それとも、
それを知っていることを賢さと見るかは、
人それぞれ。

わたしも、自分の仲間で
イメージアップを図りたくなってきました。

ただ、1つ注意しなくちゃいけないことが、
あると思うんです。

相手が有名になりだしてから、
「仲間にならせてください」では、
信用されないだろうってこと。

有名になる前に、才能の花が開く前に、
相手をちゃんと見極めて、
「仲間になります、助けます」
っていう賭けをしておかないと、
相手からの信用は勝ち取れません。

相手が「つぼみ」のうちに、
いい仲間を見つけましょう。

きっと、あとあと、
喜びを味わうことができるはずです。

2008年3月 9日

久しぶり、と言えない相手

こちらがお金を貸していた相手だったり、
面倒を見ていた人だったりするときには、

顔を見かけたら
「久しぶり」と声をかけるのは、
何の抵抗もない。

しかし、立場が変わって、
こちらがお金を借りていたことがあったり、
それで迷惑をかけていたり、
他にも面倒を見てもらったりした相手には、

顔も合わせられない、
という場合もあるだろう。

堂々と胸をはって、
「お久しぶりです」なんていうのは、
ちょっと勇気がいる場合もあるかもしれない。

そういう苦しい状況から
脱していないとすれば、なおさら…

うちの祖父が農業をしていた頃、
やはり、JA(農協)には、
お金の面でお世話になったいた様子。

それも、かなり…と感じていた。

祖父が農業を引退してから、
私は後を継がなかったけれど、
父も病気だったことから、
祖父の代わりに、債務整理のため
JAの金融担当者と何度も会うことになった。

別に、脅されたわけでもないので、
怖いイメージもなかったけれど、
おそらく、街などで会ったら、
声はかけずらかっただろうなぁ。

しかし、祖父が亡くなってから、
叔父たちの大きな助けもあって、
債務はすべて整理された。

心は、スッキリである。

そんな折、ショッピングモールで買い物をしていたら、
警備員の服装をして歩いている、その方を発見。

「お久しぶりです」

?という顔で、こちらを見ている。

「ど、どちらさまですか?」

と尋ねられる。

お、覚えていないのか?

なんとなく嬉しく感じながら、
祖父の名前を伝えると、
思い出してくれた。

その節は、お世話になったことを話しながら、
その方は、早期退職されて、
今は警備員をしていることを聞かせてもらった。

私の顔が記憶に残っていないというのは、
おそらく、当時から6kgやせたせいではなかろう。

債務整理をしないければいけない案件は、
きっと、かなりの数があり、
わたしは、祖父の債務をかなりのことと思っていたが、
それ以上に面倒な方々との交渉などに、
日々、忙しい思いをされていただろうと想像した。

まだ40代後半かと思われるその方が、
警備員の帽子を脱がれた時に、
真っ白な頭髪が目に入った。

退職金上乗せ胃のために、早期退職か…

そればかりでもあるまい。

好きな人もいるかもしれないが、
催促、債務整理などの仕事をずっとやるのは、
かなりの激務だろう。

人間の中の、ドブさらいをするようなイメージだ。

きちんと問題を解決して、
「その節は、お世話になりました」
と声をかけてくれる人が、どれだけいるだろうか。

真っ白な髪が、忘れられない。

2008年3月 6日

送れない手紙

幼い頃から、嫁姑戦争を見せられてきた私は、
人間関係の「不可能」という言葉を学んだように思います。

その中で可能なことを選ぶとすれば、
気にしない、
離れる、
のいずれか。

うちの母も、祖母も、
上品な部類ではありませんが、
もし、祖母が、
上品に手紙を書いたとしたら、
こんな手紙になるかなぁ、
っていう想像をしてみました。
(もちろん、この手紙のように、現実は冷静じゃないですが…笑)

----- 手紙の本文 -----

ちゃんと読んでもらえるか、
分かりませんが、
お世話になったあなたへ
お礼を書きます。

これまで、お世話になりました。

出来れば、お互いのお付き合いは、
これで終わって欲しい、
とお互いが思っていることでしょう。

少なくとも、私は、そう思っています。

それだけ、勉強になった時間でした。

きっと、別のかたちで、
お互いが別の立場で、
知り合っていたら、お互いが、
こんなにもイヤな気持ちを
することなどなかっただろうと思います。

周囲の人は、無責任に言います。

よく話し合えば、
分かり合えるよ、と。

残念ながら、私には、
そうは思えません。

おそらく、私は、
私の大切にしているものを
大切にしたいために、
あなたの大切にしているものを
台無しにしていることでしょう。

しかし、同時に、あなたは、
あなたの大切なものを大切にするために、
私の大切にしているものを
ことごとく、ぶち壊している。

そして、その大切なものは、
お互いに変わりようがないように思えます。

それについて、
どちらが正しい、どちらが正しくない、
という結論をつけることが、
よく話し合うことの前提にあるとすれば、

そんな話し合いは、
私には時間のムダです。

ヴォルテールの言葉を思い出します。
「私はあなたの意見には反対だ、
 だがあなたがそれを主張する権利には賛成する」

いっしょに何かをするチャンスをあきらめるなら、
あるいは、無理をしてまでその必要がないのなら、
話し合いは、不要なのです。

お互いの主張の溝の深さを、
どれだけの時間をかけて確認しあっても、
何も生まれないと私は思うのです。

それよりだったら、
それぞれの信じることを、
それぞれがしていた方がいい。

それが、世のため、人のため。

そして、いつしか時が過ぎた時に、
何らかの立場が変わって、
相手の大切にしていたことが
分かるかもしれません。

それは、その時。

今は、その時でないような気がします。

そして、こういう手紙を書き送ることも、結局、
私が、私のことを理解させようとしているに過ぎなく、
あなたを腹立たせることになるでしょう。

だから、きっと、これは、
送られない手紙となって、
いついつまでも、残ることでしょう。

けれど、もし、
あなたが姑の立場になったり、
孫が嫁の立場になった時に、
目にふれる機会でもあったら、
役に立つ手紙かもしれません。

それまでは、無意味な手紙でしょうね。

あなたの記憶に残ってしまう姑より

----終わり----

きっと、嫁から姑に、
上品に、冷静に書いたとしても、
おんなじかもしれません。

感動的な手紙でも、
心に残る手紙でもない…

前述したように、
現実は、もっと冷静じゃないでしょうし。

ただ、どうしようもない現実の前では、
その現実にこだわるよりも、
こだわらなくて済むことに、
心も時間も注いだ方がいいと、私は思います。

そうやって、成長していかなくては、
現実の問題は、ますます解決できないでしょうから。

2008年3月 4日

話が通じない、を楽しむ

なんで、こんなにも
話が分からないヤツなんだ。

と思っていれば、
相手は、きっと、

なんで、こんなにも
話の下手なヤツだんだ。

と思っていることだろう。

どんだけ説明をしても、
どれだけメールを書いても、
話が通じない相手、
というものはいるものです。

そんなことがあると、
私も、ふつうはイライラする人間でしたが、
最近、ちょっと変わりました。

こんだけ話が通じないっていう相手も珍しい、
よほど、私との相性が悪いんだろう…
この状態を楽しんでしまえ、って余裕が出てきたのです。

これまでは、面倒くさくなって、
しょうがない、顔と顔を合わせて話し合おうか、
っていうのが、最後の手段だったのですが、

通じ合わないなら、そのままでいい、
と思えるのは、ビジネスの流儀などから言えば、
非常識なことでしょうね。

けれど、何でも楽しめたら、
それはそれでいいじゃないですか。

話が通じ合わないのも、
見方によっては楽しめることなんだって、
発見したのは、私にとっては、すごいことですよ。

通じ合うまで、いろんな方法を試せるんですからね。

顔と顔を合わせて話せば、
話が通じるっていうのは、
相手の安心、相手との信頼関係だと思うんです。

だから、メールのやり取りだけで、
話が通じ合わないというのは、
相手との間にある元々の信頼関係が問題なのであって、

それに対して、安心感を与えるために、
「顔と顔」以外の方法を見つけ出せれば、
それで、成り立つこともあるんですよね。

そういう工夫をすることを怠けて、
顔と顔を合わせることにしちゃうのは、
別の意味で、もったいない。

これまでの常識から言えば、
顔と顔を合わせることを怠けて、
電話やメール、FAXで済ませてしまうから
問題が解決しないんだ、となるんでしょうけどね。

話が通じ合わない状況は、
これからますます増えることでしょう。

時間もどんどん減ってきて、
「じゃあ、顔を合わせましょう」
っていうことも簡単に言えなくなるかもしれない。

本当に、顔をあわせなければいけない相手は、
もっと大切な人間関係の方かもしれないのに、
誰とでも顔を合わせることを選択していたら、
身がもたなくなることでしょう。

焦らずに、話が合わない状況を楽しもう。

4月の新年度に向けて、
わたしのテーマにしたいな、と思っています。

2008年2月18日

歩いてもらえる道

先週は、
娘たちがもらってきたバレンタインのチョコを見て、
よく食べられるなぁ、と思っていた。

子供たちは、手作りをして、
手作りのものをあげたい年頃なのだろう…

うちの娘らは、幸い、
時間がないから、
買ってきたものを、
きれいにラッピングだけして、
渡してきた様子。

もらってくれた友達のなかに、
食中毒とかを引き起こした子供は、
絶対にいないはずだ。

しかし、娘らのもらってきたチョコ。
これは、ちょっと、ヤバそう…

食べている本人たちも、

「ん、なんか、味が変?」

「これ、とっても堅い!」

「うわぁ、まずっ!」

とか言いながら、楽しんでいる。

味はどうあれ、
交換する友達がいるのが、
楽しいらしい。

それは、それでよかった。
私だったら、かなり上手でなくちゃ、
手作りは、食べられない。

そんなにうまくなくても、
食べてもらえる食べ物は、
幸せだと思う。

今朝、わたしは、
食べ物じゃないけど、
つくるものがあった。

それは、「道」。

今朝起きて、
降り積もっていた雪は、
とっても軽くて、
ふわふわしていた。

けれど、20cmほど積もっているから、
うちの子供らだと、雪をこぎながら
歩くことになってしまう。

あいにく、行政の除雪車は油断したのか、
除雪に来る気配もない。

そこで、わたしは、考える。

家の前の雪よせを終えたら、
歩道の道をつくろう、と。

やっぱり、雪が軽いのが幸いして、
手押しのスノーダンプで押していくと、
雪が両脇に寄せられて、40cmくらいの道ができた。

これなら、人一人、
みんなが一列に並んだら、
十分、歩いていける。

できた道を気分よく見ながら、
娘らが外に出てくるのを待った。

その間にも、雪は降り続いているので、
チョコチョコと雪よせをする。

次女、三女がランドセルを背負って出てきた。

私に続けと合図をして、
また、スノーダンプで両脇を前進しながら、
さきほど作った道をなぞるように、
雪をどけていく。

2回目だから、雪がもっときれいによせられる。

100mほど進んで、歩道の端にゴール。

子供らに、私を追い越させて、バイバイをした。
わたしは、自宅に向かう。

すると、私の前を歩く高校生が2人。
わたしがつくったばかりの「道」を歩いてくれていた。

とっても、嬉しいものである。

まだ、朝の7:00を過ぎたばかりだった。
これから、どんどん高校生があるけば、
ますます、しっかりした道ができる。

歩いてもらえる道は、幸せだ。
歩いてもらえればもらえるほど、
しっかりした道が出来上がる。

これって、ホームページやブログなどのサイトにも、
言えることだなって思った。

見てもらえれば、見てもらえるほど、
しっかりしたものができてくる。

あらためて、いつも、見ていただいて、
ありがとう、って言いたい気持ちになりました。

心から感謝します。

このサイト、ブログは、やっぱり、
わたしのつくった道みたいなものです。

ほとんど言葉だけで出来た道ですが…

2008年2月12日

付きあう人を間違わない

人間は第一印象と言われるから、
第一印象をよく見せる努力が、
世の中には、広まっている。

となると、どうなるか。

中身とは別に、
第一印象だけがいい、
という人がたくさん生まれることになる。

皮肉な話だ…

だから、
これに飛びついて、
つかまされた人は、
後で、後悔することもある。

人生では、つくづく、
「付きあう人を間違わない」
っていうのが、とっても大切だなぁ、
と思わされる。

付きあう人とは、
自分の、こちらの時間を使いながら、
何かをしたりすることになるからね。

それが間違いだった、
と気づいた瞬間には、
その「時間」がムダになる。

たしかに、
勉強として考えれば、
まったくのムダではないけど、
何度も、そんなことばかり
勉強しているわけにもいかない。

今付き合っている人の中に、
間違っている人いないかなぁ?
と考えてみれば、

ちょっと思い浮かぶ顔もある。

付き合うことに「損」しか見いだせないけれど、
身内ゆえに、付き合わなければいけない顔もある。

そう、そういう義理も少なからずあるんだから、
そういう義理のないところの付き合いでは、
間違いたくないもの。

間違ってしまって、
限られた時間を減らすようなことは、
出来れば避けたい。

どんな人間関係も大切にしよう、
と言われるけれど、

本当に大切な人間関係に
注ぐ心や時間が足りなくなったりしないように、
限界のある人間は、
やっぱり、付きあう人を考えた方がいいよ。

わたしは、そう思います。

2008年2月 3日

感謝されないこと

こんなにがんばってあげているのに、
なんて思っていることに限って、
だいたい感謝されることがない。

誰かのために、
がんばることは、
よくないこともある。

がんばっている姿が見えないと、
なおさらだ。

だからと言って、
これ見よがしに、
がんばっている姿を見せろ、
ということじゃない。

誰かのために、
がんばってあげることよりも、
その人ががんばれる方法を見つけたり、
がんばれるところに連れて行ってあげた方がいい。

たとえば、
利益ギリギリの値段で、
商売をして、お客さんのために
がんばっている気持ちになっていても、

もっと安い値段で売っているお店が
出てくれば、お客さんは離れていくこともある。

冷たい現実である。

お客さんのためにがんばって、
値段を下げていたんじゃなくて、
売れないから困る自分のためにがんばって、
値段を下げていたことに気づいた方がいい。

それに気づかずに、
その方向性にどんだけがんばっても、
感謝されることなどない。

がんばれば、がんばっただけ、
後々になってから「裏切られた」
という気分にされてしまうんだよ。

喜んでもらえるだろう、
なんて期待している時には、
自問したほうがいい。

もし、喜んでもらえないとしても、
これをがんばり続けるかって。

それが「イエス」なら、
がんばればいい。

それが「ノー」なら、
やめた方がいい。

もしかしたら、
がんばり始めた最初は「イエス」だったけれど、
途中で「ノー」に変わることだってある。

その時は、がんばれなくなったことを、
伝えた方がいい。

こちらのがんばりに、
相手が応えてくれなくなったり、
自分の気持ちが冷めてしまったり、
いろんな状況があるだろう。

感謝だけを期待して、
そこからのエネルギーだけで
がんばるのは、しょせん無理なのだ。

自分からの燃えるエネルギーがないと、
がんばりは続かないかもしれない。

感謝は、「おまけ」と思っておこう。

2008年2月 1日

他人の秘密に潜むリスク

北海道・せたな町の島歌小学校(児童14人)で、
昨日の朝に起きた殺人事件。

他人の秘密を知る、っていうことは、
とんでもないリスクを負うことになる場合も
あるんだなぁ、と感じた。

秘密を知りたがる人は、
少なくない。

犯罪の匂いのない秘密ならいいけれど、
その匂いがあるものは、
そのレベル、相手によっては、
命をねらわれるリスクがある。

そんな秘密は、
知らない方がいい。
そんなことを思った。

秘密を知っていることが
相手にバレたら、危ない。

秘密を知ろうとしないこと。
気をつけようと思う。

秘密で思い出した知人の顔が、
1つ思い浮かぶ。

誰彼に対しても、
秘密をよく知りたがる人だった。

直接、
「あなたの秘密は何?」
なんて唐突に聞くくらい…

ある意味、しつこかった。

その人の場合は、
秘密を知ることによって、
その人との「絆」というか、
「信頼関係」ができたように思えるのが
嬉しかったらしい。

信頼されたい願望だったのかな。

しばらくして、
その人自身が、お金のことで、
かなりの秘密をもっていて、
家族にも言わずに秘密にしていたため、
それがバレた時には、
やっぱり大問題となった。

自己破産、引っ越し、家族崩壊…

秘密が好きで、
秘密を知りたがり、
自分でも秘密を抱え、
その秘密につぶされてしまった。

秘密は、怖い。

秘密をもつのも、
秘密を知るのも、
怖いですね。

わたしの秘密は、何だろう?

幸い、たいしたものは、なさそうだな…

2008年1月24日

長い時間

先日、妻といっしょに、
スーパーで買い物をしていたら、
声をかけられた。

「あら、こんな遠くまで、
 わざわざ買い物だなんて…」

実際、遠くはないところである。

その人の声は、
どことなくテンションが高く、
声をかけられた私は、
ちょっと恥ずかしい気持ちを感じた。

ちょっとだけ言葉を交わした後、
私は、別の売り場へとカートを押していく。

振り向くと、その人は、
知人らしき人と、
長話にいそしんでいる。

私に声をかけてきた時も、
その二人は一緒だったから、
だいぶ話が盛り上がっていたのだろう。

そのついで(?)に見つけた私に、
その盛り上がった話のテンションで
声をかけた。だから、
ちょっと大きな声になってしまった。

長話をしていると、意外と、
自分のテンションに気づかないものである。

二人だけの長い立ち話、長電話、
ともに、テンションは高まりやすい。

だから、勘違いも起こる。

先日、
「あの人と長電話で、
 盛り上がったよ。」
と、ある知人が言う。

しかし、その相手によると、
「長電話に付き合わされたよ。」
とのこと。

長電話をすると、なんとなく、
絆が強まったような錯覚に陥ってしまう。

友達が少ない人ほど、
そういうことを自慢したがったりもする。

会話が長く続けば、
仲がいいというわけでも、
絆が強いというわけでもない。

時間にも、付き合いにも、
質と量というのがあるんだろう。

長さだけを強調するような価値観には、
気をつけなくちゃいけないな。
自分に対しても…そう思った。

2007年12月29日

自分との付き合い方

どんな人間関係がむずかしいか、
と考えてみれば、

その時々に、
いろんな人間関係があるけれど、
結局は、その人間関係をむずかしくしているのは、
自分かもな、という気がする。

なんていうか、
自分のコミュニケーションのクセとか、
自分の感じ方とか、
相手に与えてしまう印象とか…

だいたいは、
自分に起因するもの。

そういうものをもっている自分と
どう付き合うか、
ちゃんと付き合い方を見つけていないと、
自分が困ってしまう。

自分の暴走を自分でとめられない、
自分が後で困ってしまうような約束事を
その時の気分で決めてしまう、
自分にガマンをして始めるけれど、
時間が経ってみればイヤになっている。

そういう自分を見越して、
自分との付き合い方をちゃんとやらないと、
その自分と付き合わせることになる相手をも、
困らせてしまったりする。

困らせていることに気づいて、
その後の対処を考えられる人はまだマシ。

それが出来ない人は、
いつも同じことをくり返してしまう。

ささいなことかどうかは、
人それぞれだから分からないけれど、
私にも、そんなところがあるようです。

って、自覚しているだけ、
まだマトモかなぁ…なんて
油断しているけれど、

そういう自覚がない人は、
周囲が「付き合い方」を
工夫してくれているのでしょう。

あ、私も工夫されているか。

そんなこんなの自分を引き連れて、
今年1年も終わろうとしています。

来年は、そんな自分と、
どう付き合っていこうかなぁ。

みんなには、どう付き合ってもらおうかなぁ。

そんなことを考える時期になりました。
あと3日で、2008年だ。

北京オリンピックもあるぞ~~~!

2007年12月18日

集めようとしても集まらず

買い物に行くと、ほとんどの場合に、
直接販売の特設会場がつくられている。

珍味であったり、
お茶であったり、
ドーナツなどのスィーツであったり…

普通の売り場にある商品より若干高そうなだけに、
遠くから見ながら、本当にいいものかな、
なんて値踏みをしていたりする。

あんまりパッとしない商品だと、

買ってもらおうとすれば、
人は買ってくれない。

聞いてもらおうとがんばっても、
人は聞いてくれない。

集めようとしても、
人は集まってくれない。

そういう頑張りをしている時に、
ちょっとコケて、
そこらへんに物を散らばせたりすると、
人が集まってきたりする。

残念なことに、
そのコケたことがイベントになったわけだ。

人は、イベント物に弱い。
日常には、飽き飽きしている。

その日常の延長で
付き合わなきゃいけないことには、
けっこう、うんざいりしている。

イベントがあると、
心のガードも解かれる。

最近では、
そのイベントも過熱してきたので、
さらに大げさなことでも起きない限り、
振り向いてもらうのは難しいような気さえする。

商売をしている人であれば、
「無料」という言葉ですら、
人を惹きつけない有り様。

そういう言葉に免疫のない
ごくわずかな人しか
振り向いてくれない。

インターネット上は、
まさしく言葉の氾濫地帯であるから、
その傾向は、さらに強い。

集めようとする努力よりも、
集まってきたくなるネタを創りあげることに
集中しなくちゃいけない。

先日、その特設会場に居たお茶屋さんは、
本当に、人が寄り付いていなかったなぁ…

それも、一種のブランド志向だったのかな。

2007年12月12日

約束の苦しさ

私たちは、毎日毎日
何かを約束している。

その約束を守れない時には、
別の約束をつくったり、
ごめんと言う。

そういうことが、
何度も何度も続くと、
約束をつくる意味がなくなる。

いっそ、約束をつくらない方が
気楽でいい。そんなことすら
思ってくるかもしれない。

でも、約束をつくらなくなったら、
人は、何のしがらみもなくなる代わりに、
何かを目指す「きっかけ」もなくなるかもしれない。

たとえば、
新商品であれば「発売日」という約束がある。
スポーツであれば「大会」という約束がある。
勉強であれば「テスト、試験」という約束、
結婚であれば「婚約」という約束が…

そういう約束を目指して、
人は、自分を準備する。
自分のなすべきことを考え、
きちんと進めていかなければいけない。

準備が順調に、
思い通りに進んでいれば、
「約束」はとても楽しい。

そうでないと、
約束は苦しい。

途中で気が変わって、
やる気がなくなっていたら、
その苦しみは、自分と、
約束した相手双方に及ぶ。

生きていれば、
約束の苦しさは、
1度に限らず何度も
体験するだろうなぁ…

約束は、言葉から生まれる。

1つの言葉が出るだけで、
多くの人が、それに向かって
動き出す。もしくは、期待する。

その約束を果たせないことは、
それを裏切ること。

そんなことを考えると、
本当は、苦しくない約束なんて
ないかもしれない。

それくらいの覚悟で、
約束をつくって欲しいものだ。

そして、約束で鍛えられたい。

2007年12月 2日

松茸と、椎茸

松茸を食べる機会は、
私にはないけれど、
椎茸といっしょに料理することはないだろう、
ということは想像できる。

松茸さんは、
松茸さんらしい料理のされ方、
生き方があるだろうと思う。

椎茸さんは、
無難な存在。
ほかのキノコ類、
たとえば、しめじ、えのきだけとかと
いっしょに料理されても、
そんなに問題はないだろうと思える。

それは、相性の問題。
何も、松茸さんを無視してるとか、
仲間はずれにしているわけじゃない。

自然とできた仲間関係。

人と人との関係にも、
それに似たことが言えるように思う。

松茸さんらしい生き方が似合う人が、
仲間と群れて、いっしょに料理されることを
望む必要はないはずなのに、

人というものは、やっぱり、
寂しくなったりもする。

椎茸、しめじ、えのきという普通っぽい存在の人たちが、
いっしょに群れて、
楽しそうに料理されているのを見ると、
うらやましく見えるかもしれない。

かと言って、
仲間に入れてとは言えない。

仮に、仲間に入れてもらったとしても、
仲良く、相性よく、楽しめる性分でもないことは
知っている。

それでも、自分だけが、
仲間に加われないことがイヤになる。

だったら、ということで、
その仲間関係を壊したくなったりもする。

仲間が本当に必要か、
仲間がどれだけ必要か、
仲間がどんな時に必要か。

そんなことを、
いちいち考えながら、
仲間を探し求めるなんてことは、
普通はないと思うけれど、
本当に必要じゃない仲間を求めることは、
かえって寂しさの素になる。

松茸と、椎茸。
必要な仲間は、
それぞれ違うんだよ。

2007年11月29日

年賀状と携帯の季節

年賀状を書く季節が近づき、
プリンタのインク残量が
気になってきた。

実は、以前から気になってきて、
インクの品番を何度も確認するのだけれど、
実際に印刷してみれば、
なんだ、まだ印刷できるじゃん、
っていうことが何度もあるから、

結局、今日まで買っていない。

さすがに、年末が近くなってから、
いざ買おうとすれば、
在庫切れなんか起こりそうな心配を感じた。

何度目か分からない、
インク品番の確認を行い、
大型家電ショップに、
買いに行く。

ところが、すでに在庫切れ。

ああ、ダメかぁ…

ネットで注文することに決めて、
その場を去ろうとしたが、
新しいケータイが、
ずらずらと並んでいるコーナーを
通りかかる。

おお、すげぇ!!

高機能のケータイ。

テレビでもやっていたけれど、
値段体系がよく分からない。

分からないものは、買いたくならない。
それって、もう年ってことかな。

しかし、ちょっとガマンして見れば、
なかなか面白い。

そういうことか、
ケータイ会社は、
これからそうやって儲けていくのか、
なんてことが見えてくる。

なかでも興味深いのは、
ソフトバンクの980円携帯。

実際に、「待ち受け」のみの使い方をして、
毎月、980円で済ませられている人が
どれだけいるんだろう…

そんな素朴な疑問が浮かんだ。

ちょっと使ってもたいしたことないや、
と思いつつ、こちらからの発信や電話をして、
結局、2,000円程度になっている人が、
けっこういるような気がする。

また、相手がソフトバンクの時には、
メールや通話が無料だったりするから、
それを利用する人は多いだろう。

けれど、その相手が、
ソフトバンクじゃなく、
auとか、docomoとかに変えちゃっていれば、
とんでもない請求額を見ることにもなる。

いろいろ考えると、
便利なこともあれば、
落とし穴もありそう。

うーん、
年賀状というアナログな世界から、
ケータイというデジタルな世界に、
どっぷりつかってしまった家電ショップでした。

2007年11月27日

思い浮かべる顔

何か自分に不利益なことが
起きそうな予感のときには、
誰かの顔が思い浮かぶ。

それは、助けてくれそうな人の顔か、
あいつのせいだと言いたくなる顔のいずれか。

その状況を打開するために、
何が出来るかを考えるよりも、

助けてもらおうとか、
責めてやろうとか、
そんなことばかりを考え始めると、
自分が損をする。

しかし、考えが、
そこらへんに集中しているうちは、
そんな損すら見えたなかったりする。

誰かに、
「おまえ、そんなこと考えてる場合じゃないだろ!
 今出来ることを、1つずつやっていくしかないだろ!」
と言われて初めて、目が覚める。

とは言っても、
そこでハッキリ分かるもの。

自分の心の奥底には、
どんな感情が潜んでいるか…

どれだけ頼ろうとしているか、
どれだけ嫌っているか。

事実がハッキリ見えていない時こそ、
物事があやふやで想像ばかりが先行する時こそ、
自分の本当の感情、思考回路が
明らかになってしまう。

私も、不安なゆえに、
そんな損な思い、考えに、
心が占められてしまう時がある。

事実が分かった時には、
だいたい、後悔するか、
自分が恥ずかしくなる。

なんだ、そういうことだったのか。
それさえ確認すればよかったのか、
それだけのことをやりさえすればよかったのか。

解決策は、いとも簡単なもの。

事実を知らない、確認しないばかりに、
思いばかりが、一人歩きしてしまう。

他人の目がある時には、
特にそうだと思う。

自分の思うとおりに理解してもらえない、
自分が誤解されてしまう、
という恐れに侵略されてしまった心は、

ひたすら、弁解をしたり、
どんな工作をしようかなんて考え始める。

何の弁解も、何の工作も必要ない。
ただ時間が過ぎるのを待っていれば、
すべては解決されるかもしれないのに…

誰かの顔なんて思い浮かべなくていい。
何かを始める自分の姿を思い浮かべた方がいい。

2007年11月22日

強く立ち向かうか、軽く受け流すか

野球で言えば、
ものすごいスピードの球を
投げるピッチャーがいれば、

スピードはそこそこだけれど、
すごく曲がる変化球を
投げられるピッチャーもいる。

野球でない球技スポーツでも、
パワーで勝負する人、
別のところで勝負する人。
いろいろだと思う…

人間関係にも
それは言えるんじゃないかな、
という気がしている。

いじめじゃないけれど、
ちょっと虫の居所が悪い人が、
こちらを「いじって」くる時がある。

それに強く反発すればいいのか、
軽く受け流せばいいのか、
そこらへん微妙に難しい。

1つに、相手の目的、
目指していることが何か、
によるんだよね。

前々から、ライバル視していて、
ちょっと成功したこちらを意識しての行動か。

それとも、自分が目立ちたい、
もしくは、注目される話題をつくりたくて、
そういう「いじり」をしているのか。

はたまた、そんなことは何もなく、
勝手にこちらが「いじり」と勘違いしているのか。

ここらへんを、見極めないと対応を誤る。

で、対応について言えば、
ちょっと相手をすれば、
満足してくれる人か。

もともとすごく気が弱いから、
強く立ち向かえば、
ビビって逃げていく人か。

軽く受け流されたりして、
相手の反応がないと、
つまらなく感じて、
興味をなくしてしまう人か。

相手次第で、こちらの反応も
考えたほうがいい。

お互いが何も考えず、
それぞれの反応をしていると、

お互いにイライラしてきて、
問題が大きくなってしまうペアがある。

お互いにそれ以上の関心や意識もすることなく、
何の問題にも発展しないペアもある。

いじられた時に、
どう反応したらいいか。
相手の目を見て、考えちゃいますね。

2007年11月17日

優柔不断になってしまうこと

妻に対しての口グセは、
「おまえって、本当に、
 優柔不断なヤツだなぁ…」
というものだった。

ところが、最近になって、
どうも、私の方が、
「あなたって、本当に、
 優柔不断だね。」
と言われることが多いのに気づいた。

最初は、冗談で言っていた妻も、
その回数が多くなって、
事実として、優柔不断になっているから、
私も、それを認めざるを得なくなった。

なんだろう?

どうして、変わってしまったんだろう。

私も、真剣に、不思議に思って、
ちょっと分析してみた。

共通することは、

1つ目、特定の人が関わっていることについては、
どうも、その人を避けたいという気持ちが出てきて、
判断が遅くなってしまう。

会いたくないけど、行かなくちゃいけないよなぁ…
みたいな感じ。

2つ目、お金を使わなければいけないことについて、
感情的には買いたいのだけれど、
それを買ってしまったら「なんで?」
というツッコミを入れられそうで、思い切れない。

3つ目、そもそも、
そういうことを気にしない人間だったのが、
気にするようになってしまったこと。

この3つ目が、ポイントと思っている。
そもそも、気にすることなどない人間だったのだ。

年をとったのかな?

それで気にすることが分かっているから、
面倒くさくなって、判断を延ばしている?

うーん、いずれにしろ、
我ながら、困っている。

物事を進められない。
決められるまでに、
時間のかかることも多くなって、
もったいない気がしてくる。

しかし、こうも思った。
「決められない」ことを
ありがたいことだと考えよう、と。

これまでには、
すぐに決めても、
それほど損することなどないことしか、
私の周りにはなかった。

しかし、今は、
すぐに決めたり、浅はかな判断をすると、
損をしたりすることが出てきたのかも。

決められないでいることを悩むよりも、
そんなふうに考えて生きていけば、
人生は楽しくなるんじゃないかな。

だって、とは言っても、
即座に決められることもあるからね。

ほら、このコラムなんか、
この「優柔不断」について書こう、
ってすぐに決めて、
書き終わろうとしているくらいだから。

決められなくなったんじゃない。
なかなか決められないことに出会う頻度が
多くなったのさ。

そう、自分に言い訳している。…苦笑

妻よ、俺を、バカにするな。

2007年11月14日

人ひとりと出会う

「こっちに来てもらえませんか?」
と言われて、こちらから出向いていく。

そこは、相手の土俵だ。

こちらは、お客さん気分になる。

お客さん気分っていうのは、
微妙なもので、

遠慮していれば、
丁重に扱われ、

自分は客なんだからと思っていれば、
おまえは部外者だぞと釘を刺されたりする。

相手の土俵には、
相手の背景が存在している。

モノだったり、
組織だったり、
人間関係だったり、
そういう背景があることを感じれば、

こちらの出方次第で、
相手は、バック、背景にあるものを、
見せたり、隠したりする。

その相手を理解する上では、
そういう背景を見せてもらうのは、
とても参考になる。
理解を深めるのに役立つ。

けれど、どうしても、その相手と、
一人の人間として向き合って、
話をしたい時には、そんなものたちが邪魔になる。

その相手が、
背景にあるものを意識しすぎて、
本当の顔をなかなか見せることが出来ない。

言い方を変えれば、
そういう背景に囲まれている時には、
自分を出せる方法を完璧に忘れてしまう。

まるで、別人…という場合もある。

その人の本当の顔とでなければ、
何を話しても、しょうがない。
話にならないと思えてしまうと、
そういう背景のあるところには、
出向きたくなくなる。

何もないところで会いたい。

喫茶店でも、レストランでも、
食堂でも、何かのお店でも。

それもダメなら、
海でも、山でも、海外でも…

相手が本当の顔を見せるところで、
その人ひとりに会ってみたい。

そうしたら、もっと、
その人のことを知って、
その人のことを好きになるかもしれないのにな、

現実は、それがなかなか出来ない。

背景に、自分を隠すことに慣れてしまった人は、
なかなか、見せることができない。

見せないことが
自分を守る唯一の方法だと思って
生きてきた人々かもしれないから、
そう簡単にはいかないのでしょう。

本当の「その人」に会いたい、
そう思ったりすることの多い日々です。

2007年10月28日

話しかけてもいいかな?

それほど深い知り合いじゃないけれど、
よく顔を合わせる人がいる。

過去には、1度きりとは言え、
同じグループでいっしょに行動したりとか。

けれど、どうも、
それ以上に深い付き合いにはならない。

なんとなく、
そういうギャップを感じる人に、
何らかのイベントで再会した時には、
ふと考えてしまう。

話しかけてもいいかな?

ちょっとした有名人だったりすると、
その人は、他の人から、
いろいろと話しかけられていて、
それだけでも忙しそう。

そこに、ほんのちょっとの顔見知りの私が、
話しかけていいものか、
そんなことを、私は考えてしまうタイプ。

かといって、
話しかけないと、
無視しているように見えたり、
怒っているように見えたりするんじゃないか、
なんて、余計なことも考えてしまう。

かえって、初対面の人へ
話しかける方が、楽なのだ。

アタマのなかでは、
自分は「小物」で
相手は「大物」なんていうイメージも
出来ていたりする。

小物が、大物に対して、
知り合い面をして
馴れ馴れしく話しかけるなんて、
あまり好きな光景じゃない。

だから、小物は、
目立たないようにして、
大人しくしていよう、
という結論になることが少なくない。

一人、ぽつんとしていて、
誰かから話しかけられるのを
待っている人なら、
それを察することが出来るし、
話しかけられるんだけどなぁ。

中途半端な知り合いで、
なおかつ、ちょっと大物だと、
気を遣います。

「仲間」というものがあって、
そのなかだけで、
楽しく話していたいようにも見えるしね。

話しかけて、
「ああ」で終わるだけの返答を引き出し、
相手の時間を無駄にするのも申し訳ない。

何か会話がはずむわけでもない。
そんな会話のネタも持ち合わせていない。

「誰と来ました?」

なんてバカなことを聞いて、
それで終わってしまいそうな感じもある。

そんなら、
話しかけなくてもいいでしょ。

話しかけてもいいかな?

なんて考えた時点で、
相手とは微妙な関係なんでしょうね。

話しかけたいけど、どうしよう?

なら、また違いますが…

2007年10月21日

気遣いすぎて邪魔

一人一人が
自分の好きなことをやって、
メチャクチャになることは
少なくない。

けれど、
みんながみんな、
お互いに気を遣いすぎて、
それぞれの好きなことを隠して
行動しているうちに、
どれもスッキリしなくて、
物事のスピードが遅くなることもある。

好きなことを前面に出すと、
収拾がつかなくなる。

しかし、それを隠してると、
引き金がなくて、
何も始まらないわけだ。

気を遣う、思いやる、
っていうのは、
相手がそれを必要としている人か、
その場が、そういうことによって
スムーズに進むか、
っていう空気を読める必要がありそう。

思いやりがあるように見えていて、
意外と、物事の進行を妨害している人が
いるのは不思議だったけれど、

そういうわけなんだ、
ということに最近気づいた。

空気を読めない「思いやり」は、
押しつけとなる可能性もあるわけだしね。

私みたいな短気な人間は、
仮に、私に対する「思いやり」でも、
自分でやれることだったら、
かえって、イライラしそうです。

自分一人でやったら、
もっとすんなり出来るのに、
手伝ってもらうことによって、
なんか遅れてしまっている感じがして…

邪魔!

なんて失礼なことも思ってしまいそう。

もちろん、
「手伝わせること」が
何らかの訓練とかであれば、
自分の子供に対してでも、
誰かに対してでも、
忍耐していますがね。

自分は気遣われる必要はない、
と思っている人間なのでしょう。

という考えで生きていることが、
かえって、周りに、
気遣いをさせていたりしてね。…笑

反対に、
私のことを助けて欲しい、手伝って欲しい、
もっと気を遣って欲しい、
と思っている人は、うっとうしがられるかも。

気遣いっていうのは、
相手の要求があるような、
ないような微妙なタイミングで、
先手を打って、
何かをしてあげることでしょうから、

もともと、勘違いがあっても、
しょうがないことなのかもしれません。

人に気遣うことの少ない人間の私は、
そこらへんが、まだまだ、
よく分かりません。

時々、なんで、邪魔と思うか、
分かったくらいです。

2007年10月 8日

お祭り気分

学校祭のシーズン。

どこまで自主的な活動をさせてもらえるか、
によって、子供たち、生徒たち、学生たちの
やる気、楽しみも変わってきます。

自分が学生だった頃を思い起こすと、
集中して準備した時期がどれだけあったか、
かなり怪しい気がします。

結局のところ、
学校祭の準備といって集まりながらも、
ほとんど遊んでばかりいたような…

いっしょにいるだけで、
仕事のスピードはかなり遅くても、
それだけで楽しかった。

そして、当然のごとく、
本番ギリギリまで多くのことが間に合わないから、
「間に合わせ」の準備で、始まってしまいます。

当然、失敗もある。
だから、笑いもある。
それがまた、楽しい。

そんなことでいい。
完璧な準備を目指しているけれど、
結局、そうなるんだから、
そういうことも含めて
楽しんだらいい。そう思います。

自主的にやっていることだと、
それだけで、なおさら楽しいんです。

もちろん、
学校に入って半年しか経っていない1年生には、
あまり、自主的なことは任されません。
どちらかというと、
指示されたとおりに動き、働く感じ…

中1の長女の学校祭が、
おととい、昨日で終わりました。

そんなに乗り気でなかった娘も、
昨日の「お祭り気分」には、
とても喜んで帰ってきました。

おそらく、来年になれば、
きっと自主的に動く部分が多くなって、
もっと楽しめるだろうなぁって思います。

学校祭の楽しみは、
そういう準備も含めたイベント以外に、
そこに見に来てくれる人々との出会いにも
あるでしょう。

中学校くらいの学校祭には、
親とか、地域の人しか来ない感じでしょうが、

高校生、大学生くらいになると、
同年代の異性が多く来たりするので、
そこらへんにもワクワクしてくる。

グループで遊びに来る人々。
それをグループで眺めている…

声をかけようか、かけまいか、
誰が声をかけるか、かけさせるか。

目をつけているグループが
他にもいたりする。
声をかけられることを期待しながら、
ドキドキ待っている側。

あんまり時間ばかりが過ぎると、
その気のないことを感じたりして、
帰りそうな雰囲気になる。

あわてて声をかけてみて、
ギリギリセーフになるか、
帰られてしまうか、
今度遊ぶ約束でも作れるか。

なつかしいシーンです。

いろんなイベントがある。
そして、そのイベントには、
自由もあるけれど、
制限もある。

そういうシーンで、
自分をどう活かすか、
どんなふうに働かせるか。

若さのパワーはないけれど、
今だったら、もっと力を集中させて、
いいものを準備できるだろうなぁ。

ちょっと若返りたい…

2007年10月 2日

大胆な言葉

女王様キャラ、
っていうことで、
女優(歌手も)沢尻エリカさんの言葉が、
かなり話題になっているようですね。

「別に…」

「特にないです」

簡単すぎる反応…ということで。

その反応には、
やっぱり、賛否両論ある。

けしからん、
という人。

すごくいい、
という人。

おそらく、自分をどの立場に置くか、
によって、気持ちが変わってくるのでしょう。

質問している側、
真面目に仕事をしようという立場に
自分を置いていれば、
「けしからん」という気持ちになる。

質問されている側、
しょうもないこと、
もしくはプライベートなことで
答えたくないことを聞かれているという立場に
自分を置けば、
「うるさい、だまれ」という気持ちになる。
彼女の言葉は、自分の気持ちを
代弁しているような感じ…

あと、もう一つ、
ある意味、妄想的かもしれないけれど、
沢尻エリカを、自分の女王様として認めれば、
こういう大胆というか、不敵な言葉が
すごくいい、と感じる人もいるだろう。

自分を、自分の思うように
扱って欲しい願望が
あるっていうことは、

そのように扱ってくれない人間のことは、
相手もしたくない、見向きもしたくない、
っていう本音も含まれている。

それを、正直な態度として表すことが、
日本人には、理解されにくい。

以前、ロシアのアイドル歌手「タトゥー」
っていう女性2人組が、
ミュージックステーションの生番組で
歌わずに帰った、という話がありました。

検索してみて分かったのですが、
もう、4年も前の話になるんですね。

彼女らはかなり無礼だ、という意見と、
日本人スタッフが失礼をした、という意見が
出たりしたことは、なんとなく、
今回の沢尻エリカ発言に
似ている気もします。

どちらについても、
ある意味、売り込みのための
プロモーションが入っているのかもしれませんから、
その真相は、私には分かりません。

ただ、自分たちのことに置きかえて、
何かをいっしょにするという観点から見れば、
時間が経つと、分かってくるものです。

「そこにいる、見ている」のが面白い相手と、
「いっしょに何かする」のが楽しい相手は、
微妙に違うということが…

大胆な行動をしたり、
過激な言葉を吐いたり、
かなりいい加減なことをする人は、
見ている分には、面白い。
刺激的ですから。

しかし、約束をつくって、
いっしょに何かを果たすとなると、
責任をもって役割を果たす人でないと、
付き合いきれない。

面白い、刺激的だけじゃあ、
物事が進みませんからね。

もちろん、
面白くて、刺激的なアイデアは、
必要ですが…

2007年10月 1日

だって、自慢になるじゃない?

たとえば、

「今まで、どんな仕事をなさっていたんですか?」

とか、

「これ、どこで買ったんですか?」

とか素朴な質問をして、
話を聞いた後に、必ず、

「だって、自慢になるじゃない?」

と付け加える人がいる。

要は、なんで、自分から
そういうことを言わなかったのか、
ということを弁明しているわけだ。

なるほど、
仕事やお金にコンプレックスを
もっている人には、
自慢に聞こえるような内容も
あるだろう。

しかし、私のような、
仕事もそこそこで、お金もそこそこしか
持っていない人間でも、

素朴に聞いている時には、
コンプレックスなんか感じないもの。

素朴に尋ねるんじゃなくて、
最初から、
自分と比べるために尋ねる人が、
コンプレックスを感じるのかもしれない。

そういう私も、たしかに、
自分と比べるために質問する時もある。

そして、その答えの内容に応じて、
優越感を感じたり、コンプレックスを感じる。

「だって、自慢になるんじゃない?」

っていう人は、おそらく、
質問している相手の真意を見抜けずに、
答えちゃっているから、
自慢に聞こえさせることになっているんだろう。

質問の真意を見抜くなんてことは、
かなりの難しい技だとは思うけれど、

相手に自慢と受け止められて、
「自慢になって、ごめん」と言うよりだったら、

相手のことを少しでも理解して、
受け止めやすいように、
自分のことを話した方が気楽。

勝手にうらやましがられたり、
勝手にうらまれたりするより、
だいぶいい。

相手を見抜くのが面倒くさいなら、

「これから言うことは、
 自慢だから聞き流して…」

って言い訳する方法もあるだろうし。

世の中、自分と比べて、
他人の話を聞きだす人は、
少なくない。

実は、自慢話を聞きたくない人ほど、
そういうことをしてしまう。

で、聞いた後に、結局、

「なんだ、自慢話かよ。」

なんて勝手に解釈する。
ちょっと矛盾…

聞きたい気持ちはあるけれど、
残念ながら、聞かされる話は、
ほとんどが、コンプレックスを
刺激する話。

話を冷静に聞く能力っていうのは、
意外に、貴重なものかもしれません。

2007年9月19日

大事なことを変えてくれる人

「それって、
 とっても大事なことだよ。」

自分が思ってもいなかったことを、
大事だよ、と言われると、

それを知らなかったことに、
素直にそっかーと思う場合と、

それって本当かなぁと思いながら
成り行き上、言うことを聞いてしまう場合が、
あったりする。

もし、それが、
相手がこちらを「利用する」ために
使っているセリフだったとしたら、
どうでしょう?
(もちろん、みんながみんなじゃないですよ。)

別に、そんな大がかりな企てではないです。
ちょっと、自分の都合のいいように
動いてもらうための「利用」です。

たとえば、
自分の仕事を手伝ってもらうとか、
居残りに付き合ってもらうとか、
お金を少し出してもらうとか、
待ってもらうとか、
何かをガマンしてもらうとか…
そんな感じ。

だから、
気の弱い人ほど、
「自分の大事なこと」を
見失いやすいことになってしまう。

自分の仕事を真面目に、
効率的にこなして、
早く帰ろうとがんばっている人が、
それを果たして帰ろうとするときに、

仕事の要領が悪くて
残業の多い人から、
「自分の仕事が終わったから帰るのって、
 ちょっとチームワーク無視してない?」
みたいに言われるわけです。

流行を追わずに、
自分のスタイルで
おしゃれをしている人が、

お店に行けば、店員から
「流行に敏感にならないと、
 もてませんよ。」
みたいなことを言われる。

「自分の意見を大切にしろ」
と言われたかと思えば、
「みんなの意見も聞いた方がいいよ」
と言われたりもする。

「リーダーが連絡するのが当然よ。」
と言いながら、
自分がリーダーになって連絡を忘れれば、
「ハッキリしない時には、
 自分から確認しなくちゃいけないよ。」
みたいなことを言ったりもする。

これ、ぜんぶ、
自分に都合のいいように、
大事なことを変えようとしていること。

その人の人生を思って、
「大事なこと」を変える手助けを
してくれる「いい人」も間違いなくいる。

けれど、そうじゃなくて、
「大事なこと」を変えて
利用しようとする人たちは、
その人たち自身にとって大事なことを、
「私にとっても大事なこと」
だと思い込ませようと必死になる。

もし、わたしたちが、それを
「自分にとって大事なこと」
だと勘違いしてしまうと、
思うツボ。

その勘違いが長く続いて、
その人の「常識」になってしまったら、
次の犠牲者まで作られることになる。

今思っている「大事なこと」って、
どうなんだろう?

自分が本当に思っていることかな、
それとも、
利用されて思わされてることかな?

さかのぼらないと、
分からないかもしれませんね。

2007年8月29日

目が合う

見ず知らずの人と
目があったときって、
即座の判断が
なかなか難しいことがあります。

実は、
じっと見ていたのを
知られまいと、
すぐに目をそらすか。

それとも、
偶然、目があっただけだよ、
という感じに、
さらーっと目をそらすか。

はたまた、
ごまかすように、
その人の背後に視線を移して、
背伸びするような振りをするか。

素直に、そのまま
じっと見つめ返しているか…

私の場合、
即座の判断ができるのは、
だいたい、さらーっと目をそらすか、
ごまかすか、くらいですが、

先日、子供の卓球大会の会場にて、
目があった時には、思わず、
じっと見つめてしまいました。

何なんでしょう…?

なんか、ここで目をそらしたら、
いかにも、わざとらしいと
いうタイミングに
なってしまっていたので。

ところが困ったことに、
じっと見つめていると、
その相手の人も、
じっと見つめてくるではありませんか。

にらめている感じではありません。

たしか、
女性だったとは思いますが、
顔を忘れてしまったので、
美人だったかどうかも、
分かりません。

ただ、なんていうか、
眼力に吸い込まれたのでしょうか。
どちらかというか大きな目だった、
という記憶だけはあります。

娘の卓球大会にはよく行くので、
「この人、よく見かけるなぁ」
という目で見ていたのか…

それとも、
「何、見てんのよ。」
ということだったのか。

今もって分かりませんが、
これから生きていく人生で、
その人とまた目が合うなんてことは
ないだろう、と予想されると、

「目が合う」偶然っていうのは、
特別なものにも感じます。

適齢期の男女であれば、
運命の出会いなんかも
感じたりするでしょうね。

ははは…

実は、あの時、
目なんか合っていなかったのかも
しれませんね。

その女性、目がよくなくて、
別のところをじっと見ていた視線と、
私の視線があっただけなのかも。

目が合うことに、
意味を感じすぎて、
考えすぎない方が
いいかもしれませんね。

視線をそらすことが
できなくなる前に…

2007年8月19日

先輩と後輩

いろんな学校で、
いろんな形の先輩と後輩の
関係があるだろうと思う。

それは、
会社に行っても、
そうだろうし…

お笑い芸人とかの世界でも、
また違うものがある様子。

年が若くても、あとで、
その世界に入ってきたとなれば、
後輩であり、

稼ぎが少なくても、より早く、
その世界に入ってきたとなれば、
先輩として扱われる。

勉強、スポーツ、仕事など、
何らかの本業で優れていれば、
先輩を越えて、
後輩が活躍もしたりする。

先輩にとっては、
ちょっと腹立たしく感じる
こともあるだろう。

それでも、
チームのためだとか、
優勝を味わいたいとか、
仕事を成功させるためだとかの
高い目標があれば、
なんとか耐えられる。

または、
今は後輩に負けていても、
そのうち追い越してやる、
という意気込みで、
がんばり続けられるだろう。

でも、先輩が
そういうことを
まったくあきらめてしまった時、
人間関係の問題が起きやすい、
と思う。

いわゆるいじめみたいなこととか、
意味のないプレッシャーとか、
負担をかけて、
本業に集中できない状態に
してしまうとか…

そうなってしまうのも、
分からないでもない。

だって、本業では、
もうかないっっこない、
ってあきらめてしまっているわけだし、
そういう状態にあっても、
先輩風を吹かせるとすれば、

「わがまま」を押し通したりして、
後輩らをあちらこちらに
動かす以外にないわけだから。

人には、小さくてもいいから、
支配欲みたいなものがあることを
否めない。

それは、自分の中で、
わがままと分かっていても、
何かしら「権利」みたいなものを感じれば、
支配してみたくなる。
人を左右してみたくなる。

そういう「権利」の誘惑に
勝つことは、並大抵のことじゃない。

先輩というだけで、
あんまり苦労することなく、
手に入れられる立場だったりするからね。

そして、みんなが、
先輩としての立場、
後輩としての立場、
どちらも持っているから、
自分の中で矛盾していたりも
するんだよね。

先輩、後輩って、
やっぱり微妙なものだよ。

2007年8月 7日

予想どおりの反応

そういう反応はされたくないなぁ、
と思いながらも、
きっと、私がこれをしたら、
そういう反応をしてくるだろうなぁ、
と予想できる時がある。

嫁姑の関係じゃないけど、
それに似ている感じだろう。

たとえば、
それを他の人を通して、
やってもらったとしても、
相手には、
背後にいる人間が分かって、
いずれにしろ、
その予想どおりの反応をされたりする。

そうなると、正直、
どうしようもない。

カラーの強い私は、
隠れようとしても、
そのカラーが見えるらしく、
つい最近、そんな経験をした。

行き詰まりである。

その相手とは、
どうやっても、水と油のように
相容れることが出来なそう…

こちらは気にしないで通り過ぎようとするが、
あちらはすぐに見つけて気にしてくれる。

本来、気にしてくれるのは、
ありがたいことで悪くないはずだけど、

気にしている相手にとって、
それがストレスになっているとなれば、
私の存在そのものを消す以外に
方法がないようにさえ思えてしまう。

そろそろ大丈夫かな、
と思った矢先に、
浮かび上がった反応なので、

「やっぱり、ダメかぁ」

という気持ちは否めない。

嫁姑の関係で悩む人たちの
気持ちが少し分かった気がする。

人種が違いすぎる。
目的がかけ離れている。
モノサシもインチとセンチくらいの差がある。

そういう人間関係の相手に、
どうしたらいいでしょう?

おそらく、
双方の個性もあることでしょうから、
他人からのアドバイスが、
必ずしもヒットするとは限らないでしょう。

私も、同じような境遇にある人に、
アドバイスなんか出来ない。

せいぜい私のやることは、しばらく、
その人と顔を合わせないように
することくらいだから。

今も、それをしているところです。
幸い、それが出来る相手だから
いいんですけどね。

でも、まったく、
ノータッチというわけには
いかない時が必ず来る。

その時に、
今度はどうしようか…

またまた、考えることになりそうです。

2007年7月29日

ねがいごと

今日、神戸から帰ってきました。

私よりも撮影の上手な次女が、
いろいろと写真を撮っていまして、
そのなかに、生田神社での2枚。

これがありました。↓

よりをもどす、

今度こそは…

誰に見られるか分からないけれど、
誰に見られてもいい願い事は、
きっと本気のもの。

ねがいごとは、
本気のものじゃないと、
かなわない。

けれど、本気だからと言って、
みんなの願い事がかなうとも限らないけど、

人生で何度も思う「本気のこと」が
1つでも叶うように思ったのでした。

2007年7月20日

嫌いな相手との距離

後ろ姿を遠くから見ただけで、
「あ、あの人だ」
とイヤな気分になる人が
いるかもしれない。

けれど、どんなにイヤな相手でも、
ずっと遠く遠くにいて、
アリンコくらいに小さく、
あるいは砂粒くらいに小さく
見える程度でしかなければ、
そんな気分にはならないだろう。

いや、それでも
私は空気で感じるから分かる、
なんていう人もいたりするかな?

そういう人は、正直、
たいへんだね。

嫌いな相手とのちょうどいい距離、
というものが存在すると思います。

いくら嫌いでも、
それだけ離れていれば、
あまり気にならない距離が…

夫婦が別居するのも、
そういう距離を置くためだと思います。

そういう場合は、
3つの距離があることでしょう。

1.物理的なもの:実際に、何m、何km離れているか。

2.精神的なもの:関わりがなくなる関係。

3.時間的なもの:記憶から薄れていくための時間。

こういう3つの距離を、
うまくとることが出来れば、
すごくイヤな相手を
それほど気にかけることなく、
生活できると思います。

もう、イヤでイヤでしょうがない。
けれど、まったくノータッチでは出来ない、
という関係にある時には、

まず、冷却期間として、
時間的な距離と、
物理的な距離を置いた方がいいかもしれない。

すると、必然的に、
精神的な距離も生まれてきて、
心が穏やかになることもあるでしょう。

いくら距離を置いても、
自分をそういうふうに
持っていけない人もいます。

人間ですから、
同じ人間を嫌いになっても
当然のこと。

けれど、人間を嫌うということには、
その人自身の未熟さもあってのこと。

「しょうがない」ということで、
自分をどこまでゆるせばいいのか、

「未熟」だからということで、
自分をどこまで変えようとすればいいのか。

嫌いな人との距離を測りながら、
私たちは、人間関係と自分の成長を
天秤にかけて、考えています。

自分の成長を考えれば、
イヤな人間関係でも付き合って、
乗り越えなくちゃいけないようにも思える。

しかし、自分の成長の土台に、
精神的な安定が必要だと思えば、
イヤな人間関係には大きな距離をとって、
かかわらないようにしたいとも考える。

距離感って、意外と難しいものです。
きっと、答えも、人それぞれ、
相手によって違うでしょうからね。

2007年7月11日

かわいいふりして

あみん。

「かわいいふりしてあの子
 わりとやるもんだねと」

という歌を聴いていたのが、
もう今から20年以上も前なんですね。

知らない方々も少なくないかも…

あみん、そのお二人が、
活動を再開するということを知り、
なんかいいなぁ、と嬉しくなりました。

結婚、子育て、いろいろな経験を重ねて、
「あの子」なんて呼ばれるような年代は
過ぎてしまったかもしれないけれど、
だからこそ歌える、語れる感性で
歌ってくれることを、
とても期待しています。

きっと、今の若い世代の人々にも
伝わるだろうと思いますから…

私には、女の子だけ3人生まれました。
男の私には分からない感性もあるけれど、
本とか、歌とかから
「わかるなぁ」と思える女心の部分も
見えたりします。

見えてるつもりが、
一番あやしいところもありますが、
まったくわからない、
というよりはマシでしょう。

…と思っています。

ちょっと何かに秀でていると、
女の子の社会では、
「かわいいふりして」みたいなことになります。

逆に、みんなと違って地味だと、
「変わってる」になります。

みんなと同じことで得られる安心感。
それがなくては、
生きていけない群れ…

親の私としては、
そんな群れには関わって欲しくないですが、
いろいろある人間関係。

それを100%無視して
生きていけるくらい強くなるのは、
子供には、難しいところもあります。

子供でそれが出来たら、
自分にかなり自信があるか、
かなり鈍感か、
そのいずれかでしょう。

自信も、鈍感も、
いつか痛い目に遭う。

群れていても痛い目に遭って、
自信があっても痛い目に遭って、
鈍感でも痛い目に遭う。

何がいいのか、
何が正解なのか、
女の子は悩みます。

結局、後でわかるのは、
悩んで悩んで、
自分が強くなってきたことくらい。

そして、
「そう言えば、あんなことあったなぁ。」
と思えれば、それぞれの出来事の意味なんか
分からなくても問題ないでしょう。

あみん。
女の子たちを応援するために
そんな心を歌ってくれたらいいなぁ、
と期待している私です。

がんばれぇ〜〜!

→ひまわり/待つわ’07(DVD付) ~ あみん

2007年6月30日

すぐに断る

勇気を出して、告白した時に、

「ごめんなさい。」

と言われるのと、

「少し時間をください。」

と言われるのと、
どっちがいいのか。

時間をあげて、
それを待っている間には、
おそらく、ふくらむ期待と、
ものすごい不安の往復を
くり返すだろうなぁ…

それでいて、
いざ結論を聞いてみれば、
「ごめんなさい。」
なんてことだったら、

すぐに断られた方がよかった、
と思ってしまうかもしれない。

身も蓋もない「すぐに断る」派、
思わせぶりな「待たせる」派。

うちの子供らは、
私に似ても、妻に似ても、
「すぐ断る」派のようです。

理由的には、
微妙に違いますが…

私の場合は正直に言いたいだけ。

妻の場合は、
ハッキリ言わないと、
後々面倒になって
自分が困ることになるから。

自分は、ハッキリと断るのに、
他人のことになると、
「なんで、そんなに
 ハッキリと断るのよ。」
みたいに思ったりするから、
勝手なものです。

もっと優しくしてあげたら、
なんて言ったりもします。

生きている間のいろんなお誘い、告白を
すべて受けていたら、きっと身が持ちません。

いつかは必ず、
断るというプロセスを
経験します。

断るのが遅くなれば、
それだけ断りにくくもなる。

断りにくくなれば、
不本意ながら「余計な付き合い」も発生し、
続けなければいけなかったりもする。

そんな経験をして
面倒に感じるよりだったら、
たしかに、すぐに断った方がいい。

でも、難しいところもあるんですよねぇ。

断って損するような気分も
もたげたりしてくるもんですから。

断るのって、やっぱり迷うかもしれません。
本当は…

2007年6月20日

責任をとって辞める

国会では、
首相が辞任を迫られます。

会社では、
社長が辞任を迫られます。

家族では、
父親が辞任を迫られることは
ありません。

辞めるというのは、
責任のとりかたの1つ。

辞めて、責任をとれるなら、
それが一番楽かもしれない。

辞めても責任をとれないことが
一番苦しい。

けれど、意外にも、
辞めることに抵抗を示す人が多い。

形だけとは言え、
自分を辞めることに追いつめるのは、
やっぱり「恥」となるからでしょう。

しかし、
辞めないことを選択して、
さらに責任をとらなければいけない事態が
生じてきた時には、
もっと大きな「恥」をかいて
辞めることになってしまう。

「この事態の改善に、
 精いっぱい努力することによって、
 私の責任をとりたいと思います。」

っていう具合の言葉が出てくる…

本当に、その見通しがあるならいいけれど、
そうでなければ、無理をしない方がいい。

と私は思っちゃう。

あきらめ早いからね。

一方、

「辞めて責任をとります。」

と言って、呼び止められるケースもある。

そんなんじゃ困るよ。
最後まで整理してから、
辞めていってよ、という具合だ。

そういう場合は、要注意だ。

すべての責任を押しつけられて、
周りがみんな辞めていったりすることも
あるからね。

いわゆる、ババをひかされた状態。

責任を辞めるタイミング、
これって重要だと思います。

わ、わ、わたしは、何を辞めようか。

2007年6月11日

いったん別れる

面倒なことから離れて暮らしてみて、
いったん、快適な生活を経験してしまうと、
きっと、もう戻りたくなくなることがある。

別れるか、別れないか
の瀬戸際にある夫婦が、
じゃあ、冷却期間を置くために、
ちょっと別居しましょうか、
とやってしまうと、

苦労していた方は、
もう戻りたくなくなる。

反対に、苦労させていた方は、
すぐにでも戻りたくなるかもしれない。
(苦労させていた自覚もなく…)

けれど、それを口で言えないから、
「別れてください」
というお願いに、テコでも動かない態度に
変わってしまうのかもしれない。

お互いが、別れて暮らしてみて、
「ああ、気楽…」
って感じちゃえば、きっと
別れることはすんなりといくだろう。
心のストレスも少ないでしょうね。

いったん別れて暮らしてみて、
やっぱり一緒に生きていきたい、
っていう気持ちが湧きあがれば、
(めったにないケースかもしれないけれど…)

冷却期間を置いたことは、
正解ということになる。

いったん別れて(別居)…
という方法をとった夫婦が、
実際に離婚にいたる割合はどれくらいだろう、

と探してみましたが、
ネット上では見つけられませんでした。

多分、50%は超えるだろうなぁ、って思います。

そう考えると、
いったん別れるというのは、
また戻るためというより、

ハッキリ別れるというかたちを
経験するのがイヤな夫婦(もしくは一方)のために、
あるいは先延ばししたい方々のために、
ワンクッションとしてあるんでしょう。

離婚件数も増えているけど、
統計数字としては見えてこない別居件数も、
それ以上に増えているかもしれない。

すんなり別れさせてあげたい、
けど、別れて本当に幸せになれるか…

いろんな別れの姿を見たり聞いたりして、
そんなことを考える今日この頃です。

2007年5月30日

1年、2年、3年…

私が生まれた実家には、
りんご園があった。

私が何歳の頃まで、祖父が、
りんご作りをしていたかは、
よく覚えていないが、
気づいた時には、やめていた。

しばらくして、話を聞いたことがあるが、
祖父は、りんご園を始めたパイオニア的な
存在だったらしい…

りんごの木が、
どんなふうに育つのかは、
まったく知らないけれど、

植えてから、
1年目、2年目、3年目の木が
それぞれあるとすれば、

それぞれに対する手のかけ方が
違って当然だろう、というのは、
容易に想像できます。

それは、人を育てる時にも言えること。

私は、りんごや植物を育てたことは、
あまりない人間だけれど、子育ては、
積極的にやってきたつもりだから、
人にたとえられると、よく分かる。

もう1つのポイントは、
育てる側にも、成長の過程がある。

まったくの初心者に、
何から何まで一人でやってみろ、
とは任せられない。

ベテランに付かせて、
見よう見まねで覚えさせるか、
ちゃんと一挙手一投足、
言葉と手本を示して教えるか。

そういうことをしないと、
覚えられるわけがない。

育てる側の人間が成長しなければ、
育てるものも成長するわけがない。

育てられるものに、
時期がある。1年、2年、3年…

育てる側の人間にも、
時期がある。1年、2年、3年…

成長の時期がそれぞれ重なって、
ちゃんとした実がなるのは、
その後のこと。

それまで待てなければ、
収穫の喜びというものは、
いつまで経っても
手に入らないのだ。

植えた次の日に実のなる木があるとしたら、
おそらく、私たちは、
育てることについては、何も学べないだろう。

1年、2年、3年…
実がなるまでは、
けっこう長く感じてしまう時間である。

私にとって初めてのことだけど、
ちょっと長い目で育てなければいけないものを
今年の春から育て始めている。

頭を使わなくちゃ、
育てることは出来ませんね。

2007年5月 4日

目立つ恥ずかしさ

たとえば、子供の頃に
いいことをして、
みんなの前で褒められた時は、
嬉しいけれど、
なんとなく恥ずかしい。

悪いことをして、
みんなの前で責められた時には、
それ以上に恥ずかしい。

この場合は、
恥ずかしいがゆえに
責めた人を恨む気持ちが
芽生える時もある。
自分の行為を反省する前にだ。

目立つというのは、
恥ずかしいと教え込まれのか、
いけないことだと言われて来たのか、
極力、避けるという人もいる。

知人から
何か買い物を頼まれた時も、
必ず「目立たない色」にして、
という人もいる。

実際、たいたし目立つものについても、
必ず、そう付け加えて、お願いするのだ。

目立つ=からかわれる、
目立つ=ネタにされる、
目立つ=いじられる、

という恐怖感があるのだろうか?

私も、その気持ち、
分からないでもない。

なんせ、自分の結婚披露宴を
強く、強く、拒んだ人間だから。

祝ってもらうことに
悪い気はしなかったけれど、

なんだろう…
目立って、主役として
いじられることに
どうしようもなく拒否反応が
出てきたもんな。

別に、籍さえ入れて、
身内の中で確認しあえればいいじゃん、
みたいなカネのかからない人間でした。

あと、成田離婚とかも流行っていた時期だったから、
盛大に結婚して、もしうまくいかなかったら、
それこそ恥ずかしいと思う気持ちも
あったのかもしれない。

そうなれば、披露宴で目立ったことが
とてつもなく恥ずかしい気分になるからね。

かえって、今なら、
結婚披露宴をしてもいい気がします。

結婚して14年、あの結婚から、
こんな家族になりました、みたいな。

本当は、目立ちたがり屋なんだけど、
自分の意にそぐわない「目立ち方」を
お膳立てされることがイヤなだけなんでしょう。

目立ちたがり屋のクセに、
わがままというわけです。

2007年4月30日

出会いのキーワード

初対面の人との会話が、
なかなか盛り上がらないと感じながらも、

ふとした1つのキーワードにふれたとたんに、
会話が途絶えなくなる瞬間があったりする。

昨日の私にも、3人の方と
ちょうどそんな瞬間がありました。

その時のキーワードは、
沖縄、ルイス、林明日香…

いわゆる共通のキーワードでしょうけど、
見つかる時は、探そうとしなくても、
3分くらいの間で、そこにたどり着くものです。

沖縄:
もう15年も前の話になりますが、
私が沖縄に住んでいたときに
関わっていたコミュニティに
偶然いた人に出会いました。
その当時、直接話したことは、
多分なかったと思いますが、
どことなく見覚えのある人だなぁ、
と思っていたら、いろいろと話を聞いているうちに、
15年前に出会っていた人でした。

ルイス:
これは17年前の知人の名前。
(多少の会話をした記憶があるという程度…)
ルイス・キャロル、カール・ルイスなど
けっこうありきたりの名前ですが、
私の知人ルイスが、
その方の奥さんの同級生と
結婚していた、という話でした。

林明日香:
何のことはない。
外科のお医者さん、という方がいて、
ちょっと話を聞いていたら、奥さんが
林明日香」という名前であることが分かり、
歌手の方と同じですねぇ、という話。

もちろん、
スポーツとか趣味の場所で出会えば、
そのやっていることが話題になることは
分かりきっていますが、

そうでないところで
共通するものになりやすいのは、
だいたいが、場所、人…
次がモノといったところかでしょうか。

それがダメなら、
あとは、天気の話とか、
政治の話とかしかないでしょうね。

アメリカ人は、
政治と宗教の話は
カンタンにはしないと言いますね。
熱くなりすぎる、激しくなりすぎる
可能性のある話題だそうで…

盛り上がるのはいいけれど、
初対面から激しくなることを
誰もが望んでいるわけじゃないでしょうから。

だから、盛り上げたい気持ちはあったとしても、
あまり無理して、根掘り葉掘り聞き出してまで
やる必要はないでしょうね。

昨日の私は、偶然、
すぐに見つかりましたが、
見つからない日は
自分を放っておいています。

2007年4月26日

先走って、嫌われる

私は、つくづく、自分って、
物事の順序っていうものを分かっていない、
大切にしていない人間だなぁ、
って思います。

たとえば、1つのことを決めるまで
ハンコを13個押すような世界は、最初から
意味がないと思っているところがあります。

物事がうまく進むためには、
根回しが必要と分かっていますが、
その根回しの方法が下手だから、
「根回し」にならない私です。(笑)

時には、わざと
「根回し」をやらなかったり…

確信犯ですね。

ひねくれものなのでしょうか?
それとも、面倒くさがり?
単に、自分の思い通りにやりたいだけ?

だから、インターネットのように、
上下がない世界に心が馴染んじゃいます。

早いテンポで、トントン決まるのが好きで、
ある意味、わがままで、忍耐ができない。

スピードを気に入ってくれる人には、
相性がいい。

けれど、順序を大切にする人には、
すこぶる評判が悪い。

私のなかでは、
スピードをありがたかってくれる人が
多いという誤解があるから、
けっこう、うまくいかないことがあるのです。

昨日も、言われました。

「ちょっと先走っていませんか?」

「はい、先走っていました。」

そこで、内心、思うんです。

「だって、あなたらが、
 何もやろうとしなかったじゃないですか?
 いっつも、文句ばかり言って、
 自分で何にも動かないから物事が進まないんですよ。
 だから、私が動いたまでです。」

それを言わないで、
私は悟るのです。

「なんだ、この人達は、
 自分の思い通りに物事を運んでくれる人が
 欲しいだけだったんだなぁ。
 私は、お呼びでなかったんだなぁ…って。」

それを見抜かないで、
それこそ、先走っていた私が、
バカだんたんだ、と。

先走り大好きな私は、
その度に、トーンダウン。

昨日も、トーンダウンした1日でした。

でも、めげずに、
今日も、先走ります。

2007年4月25日

ぶつかり合い

小学2年生の頃、
上級生(5年生くらい)の子供と
廊下でぶつかり、
呼吸困難に陥ったことがある。

ぶつかった衝撃で、
呼吸困難になったのではない、
ということは、たしかに覚えている。

ぶつかったばかりでなく、
ちょうど、足の指を踏まれて、

なぜかは覚えていないが、
その時ちょうど私は裸足になっていたせいで、

私の小指が、90度くらい広がって、
別の方向を向いていたことに驚いて、
呼吸困難に陥ったのだろう…

今でも、その時の指の角度が
まざまざと思い浮かぶくらいだから、
よっぽどショックだったはず。

保健室の先生に連れられて、
病院に行き、診察を受けたところまで
ハッキリ記憶に残っている。

ぶつかった時のエネルギーが、
私の小指に、すべて集中したとなれば、
90度くらい曲がっても不思議じゃない。

ぶつかるエネルギーって、
痛いんだよねぇ…

先日、ある仕事を
いっしょにしている先輩から
わざと、ぶつかられました。

正確に言えば、
ぶつかられた、
と私が感じました。

体と体のぶつかり合いじゃありません。

心に、心がぶつかってきたのです。

心構えができていなかったので、
けっこうビックリしましたが、
相手も本気でぶつかってきたわけでないので、
ほとんど痛みも感じませんでした。

けれど、次にぶつかる時には、
本気でいくからなぁ!
みたいな空気は感じた次第です。

その先輩、その仕事からは、
間もなく引退です。

引退すれば、私との関係は、
まったくなくなります。

ぶつかられた理由も分かります。
私が、新しい風を吹かせようとしているから。

そして、私が、
新しい風を吹かせるきっかけも、
その先輩達が引退していくタイミングを
見計らってのこと。

多分、ちょっと
急いでしまったのかもしれません、
私の方が…

でも、善は急げ、
という私には、
先輩達が続けてきたことが、
ほとんど考えもせず、
「これまでそうだったから」
という理由だけで、同じ流れで
進んでいこうとしているようにしか見えず、
新しい風を吹かせようとしたわけです。

きっと、それが、
先輩達にとっては、
「ぶつかられた」感覚があったのでしょう。

それに対するお返しとして、
ぶつかり返してきた感じ。

ぶつかり返す元気が残っていたのなら、
なぜ、もっと早く考えることをして、
自分たちで新しい風を吹かせようとしなかったのか。

そのことの方が、
私には理解しがたい。

自分たちを傷つけたのは、
自分たち以外の何者でもない。

先輩、先輩、
ぶつかる相手を
間違っていませんか?

って言いたい人が、
あなたの周りにもきっといるはず。

2007年4月17日

あんたが悪い

この先どんな関係になってもいい、
と思える相手には、
何でも言える。

「あんたが悪い!最低だ!」

ってなセリフでもね…

でも、ちょっと配慮しておいた方が、
自分の後々のためになると考えれば、
同じことを言うにしても、

「私の個人的意見ですが、
 もしかしたら、
 あなたが、こういうことをしていたら
 問題は回避されたかもしれません。
 もちろん、今からでも、
 こんなことをして、
 現状より改善することは出来ますよ。」

って具合に…

けれど、賢い人は、気づくはず。

言葉をいくら変えられても、
「自分に非がある」と言われてるんだな、って。

そう勘ぐられて、
かえって微妙な関係になるくらいなら、
相手に配慮するとしても、

「ごめんね。
 率直に言わせてもらうけれど、
 やっぱり、どう考えても、
 あなたが悪いよ。」

と言うしかない相手もいるはず。

ただ、頼まれもしないのに、
そういうことを言うのは、
ふつうだったら難しいですよね。

誰に対しても、遠慮せず、
あらゆる人間関係をどうなってもいい、
と思っている人でない限り…

しかし、どうしても言わなければ、
気がすまない「おせっかいな人」もいる。

一方、人間関係をこわしてまで言うこともない、
気づいたって、だまっていればいいという人もいる。

どちらが正解か。

言って、相手がそれを誠実に受け止めてくれたら正解で、
言って、相手に逆ギレされたら不正解?

言わないで、相手に良くないことが起きたら不正解で、
言わないで、相手は何事もなく生きていたとしら正解?

うーん、むずかしいです。

少し、利己的な理由でもあった方がいい。

相手が受け止めてくれようが、
そうじゃなかろうが、
自分のやりたいことを通すためには、
どうしても言わなければ、
次のステップに進めないっていうような個人的理由が…

昨日の私にも、そんなシーンがありました。

あるプロジェクトについて、
大がかりな変更を加えたのです。
ある意味、まったくの白紙からスタートするような感じに
変えようと提案したのです。

ということは、いくら言葉を飾っても、
今までを否定していること。
それに、相手も、そんな言葉でだまされるほど、
鈍い人達でもない。

だったら、しっかりと言わなくちゃいけないと思って言いました。

「ハッキリ言って、申し訳ないないですが、
 今までは、踏み込みがかなり足りなかったようです。
 このくらい踏み込んだやり方にしないと、
 かかわる人々の満足感は得られませんし、
 これまでの無駄もなくなりません。」

結果は…

ご想像におまかせします。

2007年4月 8日

板ばさみ

知りたいと思っても、
知ることのできないことがある。

それは、才能がなければいけなかったり、
努力をして能力をアップしなければ、
分からなかったりすることだから。

力がほしいと思っても、
手に入らないものもある。

それは、自分で増す能力とかでなく、
与えられなければ、
手に入れられない力もあるから。

ある事柄について知っていて、
そのことについて自分で決めて、
進められる力(権限)があれば、
誰もストレスは感じない。

けれど、実際は違う。

だから、
自分の仕事については
よく分からないのに、
権力とか権限ばかりを与えられると、
板ばさみになる。

つまり、その仕事をよく分かっている
上の人間と、下の人間から、
ああしろ、こうしろ、
と好き勝手なことを言われて、
苦しくなるというわけだ。

なんせ、権力、
つまり決定権をもっているわけだから、
関係者みんなが、そこに集中する。

知らないんだから、
そんなに追いつめないでよ、
と思ったりするのだが、
それで権力がなくなるわけでもないから、
みんなは遠慮してくれない。

どうしても解放されたいなら、
その権力ばかりでなく、
何もかも捨てなければいけない羽目になる。

それが出来ないので、
板ばさみの状態から
なかなか逃げ切れない。

多分、そんな板ばさみ状態になっている人、
少なくないと思う。

逃れる方法は、2つに1つ。

権力も何もかも捨てて、
しがらみから解放されるか。

知らないことを知るように
猛烈に努力して、
上と下からのプレッシャーに
対抗できる実力を身につけるか。

力があるところには、
いつもそんな板ばさみが
存在するんでしょうね。

2007年4月 4日

都合のいい勘違い

一生懸命にやっていると、
そのことが好きだと勘違いされる。

もちろん、
勘違いされて
悪い気はしないが、

勘違いされた上に、
ほかのことまで押しつけられると、
いい加減にしろ、と言いたくなるものです。

その一つが、ボランティアでやっていること。

日本の能登でもそうだけど、
ソロモン諸島でも地震が起きました。

その際に活躍するのが、
ボランティアの人々。

一生懸命に、人々のためと思って、
働いてくれます。

しかし、その支援を受ける人々の中には、
好きでやっていると勘違いして、
当然のような顔をしたり、
いろんなことを押しつけてくる人もいます。

もちろん、
嫌いでやっているわけじゃないけど、
好きでやっているんだからと、
支援を受ける側の「勝手な解釈、都合」で
横柄な態度をとられると、
アタマにくるものです。

結局、押しつけるために、
自分の都合がいいように、
勘違いしているんです。

私の身近でも、
似たようなことがあります。

子供のスポーツ少年団。
それを支えるのは、
ほとんどがボランティアの人々。

活動にかかる費用は、
親などが負担しているでしょうけれど、
そのお金さえ払っていれば、

あとは「好きでやっている人」が
物事をうまく進めてくれるだろう、
という勘違いを始めるわけです。

そういう勘違いが始まると、
ボランティアの方々と、
心の溝が生まれ始めます。

ある意味、ベビーシッター役と
勘違いされているわけですからね。

たしかに、活動の費用は
払っているんでしょうけど、
その働いている人々には、
報酬は一切払っていないのですから。

時おり、お疲れさまの意味で、
反省会とかで、
お酒や食事をごちそうしたとしても、
それはそれだけのことでしかないのに、
報酬を払ったような勘違いをしている。

何事も、自分にいいように勘違いしているだけ。

必ず、どこかで、
問題が浮かび上がってきます。

たとえば、
親がそんな勘違いをしているから、
間違いなく、子ども達も勘違いしてきます。

ボランティアの人々の時間を
台無しにするような態度をしたり、
問題を起こしたりするわけです。

「ああ、もうイヤ。
 私、やめます。」

と言われて初めて、
あわてだします。

なんとか、引き止めようと、
いろいろとがんばりますが、
どうしてもダメだとなれば、

「なんだ、あの人は。
 こちらが誠意をもって、
 お願いしているのに…」

なんていう陰口を言い始めます。

まだまだ、勘違いしている証拠。
分かっていない、
自分がどんなに依存していて、
何を言っているのか…

もし、皆さんの周りに、
ボランティアで何かをお願いしている人がいたら、
くれぐれも、勘違いしませんように。

自分たちのためです。

2007年4月 3日

選挙おばさん

皆さんのまわりには、
選挙が近くなると、
むしょうに活動的になる
「おばさん」はいないか?

わたしのまわりには、
2人いる。

どちらも、日○○産党である。

がんばっている2人…

選挙とかには鈍感な私ら夫婦は、
その2人の顔を見る頻度が多くなると、

「ん?選挙が近いのか?」

と思い始める。

そうすると、その選挙というものは、
1年も先のことだったりするから、
彼女らの活動のスピードというか、
段取りの早さに、ビックリするばかり。

昨晩は、一人のおばちゃんの方が、
チラシをもってきた。妻が応対していると、

「あんたのおばあちゃん、元気かい?」

なんてことを聞く。
ふだんは、あんまり話しかけることもないのに、
こんな時だけ、ご機嫌とりをしているようにさえ
見えてしまう。

それでなくても、私には、
このおばちゃんに、恨みがあるんだよねぇ…笑

あれは、結婚して間もない頃。

当時24歳の私ら夫婦を、
高校生カップルと見たからね。

たしかに、当時60歳くらいの
選挙おばさんから見れば、
18歳も、24歳もたいして
変わらなく見えるのも、事実だろうけど。

こちらに引っ越して間もないことだったので、
その記憶だけは、キッチリ残っている。

だから、その選挙おばさんには、
その後、ずっと良いイメージないんだよなぁ。

私の偏見というもので、選挙の時だけ、
「いい顔」しているようにしか見えない。

選挙おばさんが動き出すシーズン。

そのおばさんの苦労話も聞いたことがあるので、
選挙に励む理由も分からないでもないが、
私にとって「評判の悪い」広告塔の選挙おばさんが、
動けば動くほど、選挙というものが、
おかしく見えてしまう。

2007年3月24日

噂をつくる人

「ねぇ、ねぇ、あなたのこと、
 噂になってるよ。」

と言われると、
だいたいはギクっと感じる。

めったに、
いい噂であることはないから。

あと、
それを言っている人の顔を
見てしまう。

この人は、
自分で、そういう噂を
つくっちゃうタイプの人かなぁ…

ってな具合で。

もちろん、そうでない人もいる。
いい噂を、自分のことのように
伝えてくれる人もいるからね。

「噂になっているよ。」
と言いながら、

自分で、その噂をつくる人間を、
何人も見てきた。

だいたいは、さびしい人。
自分に注目を集めたい人。
他人の足を引っ張ることで、
自分が浮かび上がりたい人。

だから、噂をつくってしまう。

でも、噂っていうのは、
面白いものじゃないと、
飛びつかれない。

飛びつかれないと感じれば、
噂をつくる人間は、
もっともっと大きな噂を
つくろうとする。

今思えば、私が幼い頃、うちの祖母は、
そんな感じの人だったなぁ…
いわゆる嫁姑の問題。

間違いなく、私の母は、
そんなに出来た人じゃなかったから、
噂をつくるには絶好のターゲットだった。

よく、
「おまえの母親のことなど、
 みんなの噂になっているよ。」
なんて言っていたもの。

そのころは、
へぇー、そんなにダメな母親なんだ、
と思っていたけれど、実際、
言われなくても、そう感じることも
あるにはあったが…

「じゃ、その噂は誰が流しているの?」と、
その時に考えてみれば、
噂の根源がどこにあるか、
分かったはずだろう。

しかし、まだまだ、
人間が薄かった私には、
「噂をつくる人」の存在が
よく分かっていなかった。

あれから30年ほど生きてきて、
今なら、分かる。

噂は、つくる人、流す人、
もしくは、しゃべってしまう人がいるから、
広がっていく。

ここだけの話と禁止をすればするほど、
その噂の価値はアップして、
どんどん面白く広がっていく。

多分、私も、噂が好きだろう。

ただ、いい噂の伝言役でいたいな。
悪い噂は、自分のところで立ち切る感じで…

2007年3月19日

どんな人?

「その方は、どんな人ですか?」

新人さんとかが、何気なく尋ねる。

「ん?」

「その人ねぇー。
 どんな人だって言えるかなぁ?」

「うーん、なんて言えばいいんだろうね。
 ああいう人のことは…」

表現しにくい人っていうのは、
表現すると悪い言葉しか出てこないから、
誰も、それを言いたくない場合がある。

それを、正直に、

「あの人は、とってもわがままな人だよ。」

なんて言える人は、
誰からも何と思われてもいい、
っていうくらいの覚悟のある人でしょう。

だから、たとえ、
その場に裏切り者がいて、
その当人に、

「ねぇー、ねぇー、
 ○○さんがね、あなたのこと、
 わがままな人だって言いふらしていたわよ。」

なんて告げ口されたとしても、大丈夫。

一方、「どんな人?」と尋ねられて、
特徴がなくて、表現しにくい人もいる。

外見の特徴は言える。
たとえば、背が高い、髪が長い、
メガネをしている、やせている、太っている、
色黒、色白、猫背、耳が大きい…などなど。

けれど、内面的な特徴が、
1つとして出てこない。

苦しまぎれに出てきたのが、
「居るか居ないか、分からない人」
なんて言われたあかつきには、
尋ねた側は、さっぱりつかめない。

そんなふうに見える人でも、
ひとたび置き場所が変わると、
特徴のある人間になったりする。

オタクというわけではないけれど、
置き場所、居る場所によって、
特徴が出てくることもあれば、
何の特徴も出てこない場合もある。

時おり、そんな意外な人を見ると、
「分かりやすい人」よりも魅力的で、
ちょっと憧れたりもする。

私自身、分かりやすい人だ
と言われることが多いので、
ちょっとつまらない時があるのでね。

表現をはばかられるような「良くない」人間でなく、
ちょっと分かりにくい人…

皆さんの周りにもいたら、
応援してあげてください。

きっと、いつか、どこかで、
すごいことしてくれますから。

2007年3月15日

チャンスを呼びこめる人

その人が行くところ、
待っているところ、
どこでも、チャンスが来る。

私の知人に、
そんなヤツが一人いる。

ホントに、うらやましい…

しかし、もったいなくも、
そいつは、そのチャンスで
ほとんどと言っていいほど、
空振りをしちゃう。

意気込みも十分で、
そのチャンスにぶつかっていくのだけれど、
ちょっとタイミングがズレちゃうとか、
力が入りすぎちゃうとか、
方向を間違っちゃうとか…

そんな感じ。

せっかくのチャンスなのに、
もったいない。

私も含めて知人たちは、
うらやましい気持ち半分、
今度は何をやらかすんだろうという
あきらめ気分半分で、
そいつの様子を眺めている。

実際、大物なのか、小物なのか、
よく分からないところもあって、
面白いからね…

分かりやすいチャンスと、
分かりにくいチャンスというものも
あると思う。

しかし、不思議と、
チャンスを呼びこめる人には、
分かりやすいものばかりが集まっている。

そして、必死に、
チャンスをつくろうという人には、
分かりにくいチャンス、
もしくは小さなチャンスしか
来なかったりするもの。

ラッキーな人は、
いるものである。

周りが、自然と、その人のために
チャンスを与えたくなってくるんだから。

残念ながら、
そう簡単に真似できるもんでもない。

なんて言うか、天然…?

何度失敗しても、周りの人々は、
またチャンスを与えたくなる。
そればかりでなく、
与えられなくとも、
また舞い込んでくるチャンス。

チャンスに向き合わせて
あげたいという気持ちは、
成功させてあげたい、とは違う。

成功させてしまったら、
ちょっとつまらないかもしれない…

思い出すのは、
競走馬のハルウララ。

負けても負けても、
またチャンスをあげたい。

そういう味方を増やせる才能。
それって、すごいなぁ、と思う。

2007年3月11日

飛ばし読みの達人

何かを逃れるために、
その何かがとても上達する
ということがある。

本を読むのが嫌いな知人。

しかし、上の人から
いろいろな本を読むように薦められるばかりでなく、
その本を実際に預けられ、
また読後の感想や意見も聞かされるので、
いろいろと難儀しているらしい。

そして、なんとしてでも
それから逃げたいという気持ちが、
ものすごい才能をつくりだした。

速読とは言えないまでも、
ものすごい飛ばし読みの技だ。

そして、しっかりと
内容も分かっているから、
すごいもんだ。

逃げたいばかりに
身についた技。

イヤなことからの逃避願望っていうのは、
時に、人を大きく成長させるもんですね。

私も、思い返してみれば、
学生時代は、コンピュータというものが嫌いで、
就職してから、パソコンが仕事の現場を
占領してくるのを見るにつれ、
ものすごくイヤな思いをしたものでした。

こんなものが、
自分たちの仕事能力を左右してしまうのか、と。

そして、イヤだ、イヤだ、
と思っていたことゆえに、
それを使いこなさなきゃ、
その感情からどうにも逃げられない、
とわかって、

真剣に向き合うようになったわけです。

おかげで、今は、
誰よりも、それなしでは、
仕事が出来ない人間になってしまった。

人の好き嫌いって、
本当に、当てにならないものです。

今、私が嫌いなことだって、
それから逃げるために、
ぐーんと上達していく可能性も
まだまだあるわけで…

人生、どの時点でも、
決めつけちゃいけないですね。

「関係ない」なんて、
死ぬまで断言できないですよ。
何事にも。

必死に逃げたい思いが、
新たな発想に変わるのを待つのを
楽しんだ方がいい。

じたばたなんか、しないでね。

2007年2月21日

真剣になるのがエライ?

自分たちにとって
切実な問題であれば、
やはり真剣になるのが当然。

だからと言って、
他人に対しても、
その同じ問題について、
真剣になるのがあるべき姿で、
真剣じゃないのはありえない、
という価値基準を押しつけられると、
ちょっと「ん!?」と思わされる。

もちろん、環境問題とか、
本当にみんなにかかわる問題であれば、
話は別だけれど…

狭い価値基準というのは、
狭い世界をつくっちゃうんだよなぁ。

2006年12月2日の朝日新聞に、
さかなクンの「いじめられている君へ」
という文が掲載されています。

「たとえばメジナは海の中で
 仲良く群れて泳いでいます。
 せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、
 1匹を仲間はずれにして
 攻撃(こうげき)し始めたのです。
 
 けがしてかわいそうで、
 そのさかなを別の水槽に入れました。
 すると残ったメジナは
 別の1匹をいじめ始めました。
 助け出しても、また
 次のいじめられっ子が出てきます。
 いじめっ子を水槽から出しても
 新たないじめっ子があらわれます。

 広い海の中ならこんなことはないのに、
 小さな世界に閉じこめると、
 なぜかいじめが始まるのです。」

人は、こうでなければいけない。
こんなふうに考え、
こんなふうに行動しなければいけない。
そんなふうに狭く決めつける大人の世界で、
子供が育てられれば、その価値観をもって、
子供の世界でも歩き出すようになる。

やっぱり、いじめが起きてしまう。

狭い世界をつくっているのは、
狭い考えをもった大人かもしれない。

人の考えまでも、
無理やり締めつけようとする大人を見て、
そんなことを感じました。

私は、まだまだ子供なのかもしれません…

もしかしたら、

「いじめられる方も悪い。」

「いじめは、先生の能力不足」

「いじめる子供の家庭環境が悪い。」

なんていう考え方も、
まったくハズレているわけじゃないかもしれないけれど、
それこそ、狭い世界に通じるかもしれませんね。

決めつけちゃうと、世界が狭くなるんですよ。
自然と「小さい水槽」が出来ちゃって、
いじめることしか、やることがなくなるんですよ。

2007年2月17日

息ができない

やっぱり、人に
借りはつくるもんじゃないね。

相手が直接言葉にしなくても、
借りがある「負い目」は
感ぜずにはいられなくなる。

だから、相手から
何かしらの願望を感じたりすれば、
応えなくちゃいけないのかな…
という気にもなってくる。

そういう空気の中にいて、
じっと待っていると、
息をすることすら
難しくなってくる。

あとは、耐えられる時間の問題。
思わず、「はい、私がやります。」
みたいなことを言わざるを得ない。

借りがなければ、
そんな息苦しさを感じる必要はない。

強烈な本がありました。

影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか(ロバート・B・チャルディーニ)

3,500円くらいした高い本だったけど、
読んでみて、借りはつくっちゃいけないなぁ、
自由がなくなるなぁ、だまされる可能性すらあるなぁ、
と考えさせられたんです。

この本では、
「返報性」という言葉で出てくる話ですが、
不要なものでさえ、それをもらっちゃうと、
何か返さなくちゃいけない気がしてくる。

いや、目に見えるものをもらっていなくても、
そういう「借り」を感じるケースがあるのです。

こんなお話です。

たとえば、うちの裏には、
高校があって、時々、
何かしら売りに来ます、

ある時には、吹奏楽部の
コンサート・チケット1,000円ほど。

「ああ、その日には、別の用事があって、
 行けないんです。ごめんなさい。」

と断る私。

心では思っていても、
「興味がないから、要らない」
とは言えない。

一生懸命練習しているだろうし、
わざわざ、チケットを売るために
1軒1軒歩いて回っているわけだから。

いくら冷たい私でも、
断るのが忍びないと思える時もある。

だから、
「ああ、分かりました。」
と言われると、よかったぁ…
と胸をなでおろす。

しかし、そこに罠がある。
断りを受け入れて「もらえた」という借りを、
知らず知らずのうちに感じているのだ。

ケンカ腰に断った人でない限り、
人間は、そう感じているらしい。

そこに、
「じゃあ、僕らの農園でつくった、
 この梨を買ってください。」
と言われると、

ほっとした気分とともに、
「これ5個入り袋でいくら? 200円?
 あ、買う、買う。」
となってしまう。

下手すると、
「安いね。3袋ちょうだい。」
なんてことを言って、
合計600円を払っていたりする。

恩などないはずなのに、
恩を返すかのように買ってしまう。

「返報性」。

これが商売に悪用されたら、
たまったもんじゃないですね。

読んで勉強になりました。

私も悪用する側に回れたら、
どれほど幸せか…なんて思う人ほど、
ひっかかるかもしれませんね。

悪用されたら怖い本です。↓
影響力の武器―なぜ、人は動かされるのか(ロバート・B・チャルディーニ)

2007年2月 9日

こう言えばよかった…

言葉は、出してしまえば、
あとで変えられない。

出さないでおけば、
何の意見もなかったことになる。

しかし、
言葉を出してもいいチャンス、
聞いてもらえるチャンスというのは、
意外と短い。

短いからこそ、
その間にちゃんと言わなければいけない、
という妙な焦りが出てきたりして、
おかしな言葉が出てきてしまう。

「子供を産む機械」
という言葉を発して、
話題となっている大臣さん。

たしかに、
誤解を生む言葉ではありますが、
野党のターゲットとされて
マスコミの騒ぎに利用されている面も大きいなぁ、
と感じるところもあります。

それをカバーしたいがために、
大臣さんは焦ったのでしょうか。

今度は、
「若い人たちは、
 結婚したい、子どもを2人以上
 持ちたいという極めて健全な状況にいる」
という言葉を発してしまった。

私は結婚をして、
子供を3人育てているせいか、
聞き流すことも出来そうな気もするけれど、

「結婚したい、子供2人欲しいが健全」

という意味にとられてしまえば、
たしかに、偏見だと思われてしまう。

この大臣さん、
これからは何を言っても、
多分、ダメな気がします。

大臣さんがダメというよりも、
「騒ぎ」のターゲットとして、
うまく利用される存在になっているからです。

人間、そういう存在として利用される可能性を
自分で感じたら、しばし沈黙するべきなんでしょう。

いいところを見せたい、
弁明したい、身の潔白を晴らしたい!

そういう気持ちになるのは、
人間誰にでもあることですから、
分かります。

けれど、それが可能になるのは、
それを伝える相手に
理解したい気持ちがある時だけ…

残念ながら、それがない時には、
それをつくりあげる別のことをした方がいい。

もしくは、理解されることにこだわらないとか。
ある意味、あきらめている感じにも思えますが、
タイミングを待つ、ということで、
とても大切だと思うのです。

自分の立場がすぐにでも
理解されることばかりを考えていたら、
そんな行動は選べないでしょう。

「すぐ理解される」なんて
期待しないほうがいい。

そうすれば、
「こう言えばよかった」
という後悔に打ちのめされて、
立ち止まったり、
眠れなくなることもなくなるのです。

そういう時は、
やっぱり焦るな!
だと思います。

最近の私にも、
ちょっと当てはまることが
起こりましたから、
そんなことを考えました。

2007年2月 4日

正々堂々と生きちゃいけない

知人の女社長さんが、
貸していたお金を踏み倒された話を
してくれた。

「その人ね、
 いろんな借金を抱えていたらしくて、
 自己破産したのよ。それで、
 返してもらえなくなっちゃった。」

最近は、よくある話だ。

「でもねぇ、自己破産の後、
 しばらくしたら、
 すんごい豪勢な生活してんのよね。
 だから、私、言ったのよ。
 そんな生活できるんなら、
 お金、返してよ、って。
 そしたら、もう借金は消えてるでしょ、だって。
 腹が立つわよねぇ。」

自分に負い目があるはずの人には、
自分の目の前で、
正々堂々とは生きていて欲しくない。
もう少し遠慮して生きて欲しい、
そう思うのが人間である。

それは、
思う側の人間の性格にもよるけれど、
相手が犯した罪の大きさにもよる。

たとえば、
自分の子供が殺されたりしていたら、
その犯人が、その人自身の子供と
楽しそうに遊んでいる姿を見て、
穏やかな気持ちでいられる人は、
よほど悟りのある人以外にはいないだろう。

もちろん、犯人は、
刑務所に入らされるだろうから、
犯人のそんな姿を見ることはない。

そうでないとしても、犯人の奥さんとかが、
同じように子供と楽しく遊んでいる姿を見せられたら、
やっぱり、怒りがこみ上げてくるだろう…

なんで、あなたは、正々堂々と生きているんだって。

手紙(東野圭吾)を読んで、
そんなことを考えさせられました。
(ちなみに、これは次女からのクリスマス・プレゼント)

そんな問題が起きないのは、
加害者の側が、遠慮がちに生きていて、
被害者の側が、本当に赦してくれる場合だけだろう。

しかし、現実は、
そんな簡単なわけでもない。

被害者、加害者の関係におさまらずに、
世間からの差別ということに発展するから。

世間が、
正々堂々と生きていくことに、
許可を与えてくれない。

もちろん、みんな、みんなが
そうだとは限らないだろうけど、
むずかしいのは事実だろう。

夢をもて、可能性をあきらめるな、
そんな励ましでは
解決できそうにない現実。

何の過去も影響してこない「別世界」へ
移り住む以外に、方法はないように見える。

しかし、その別世界というものも、
本当に、あるんだろうか…という気も起きてくる。

個人情報保護法。
こんな法律が、そういう人々を
少しでも守ってくれるのかなぁ。

守られることがいいのか、
守られないことがいいのか。
分からなくもなります。

自分、もしくは自分の身内が、
被害者になるか、加害者になるかによって、
そこの判断は分かれちゃうんです。

うーん、やっぱり、
犯罪というものからは、
死ぬまで、離れていたい。

離れていたいとなれば、
過去にそういうものがある人からも、
離れていたいという気持ちになるだろう。

とすれば、差別?

あぁ、たしかにそうだ。

誰をも責められないことなんだな。

2007年1月31日

差別ってダメ?

差別のない世の中なんて
あるんだろうか?

「差別はいけない」
と言っている、私たち大人が、
一番差別しているかもなぁ、
と思わされることが多々ある。

それに気づくと、
子供の前では、
うまくごまかしたりするけど、
やっぱり、差別してるよなぁ、
と分かってはいる。

そして、時に、
「差別」って言葉を使わない方法も
考え出したりしている。

たしかに、能力に応じて、
与えるもの、果たしてもらうことを
変えるのは必要だと思うから。

それを「差別だ!」と責められたりしたら、
いろんな不都合や面倒くささが
出てきてしまう。

「大人とは不思議な生き物だ。
 ある時は差別なんかいけないといい、
 ある時は巧妙に差別を推奨する。
 その自己矛盾を
 どのようにして消化していくのか。」
 (手紙、東野圭吾)

その通りだと思う。

否定しないし、
それがすべて正しいとも言えないし、
すべて間違いだとも言えない気がする。

違いは、世の中がうまく回るためか、
自分の都合がいいように回すためか、
その違いくらい。

けれど、それでさえ、
クッキリとした境界線なんかない。

差別と呼ぶか、配慮と呼ぶか。
それも、呼ぶ人次第っていうところ…

たとえば、食べ物の好みの違いは、
誰にでもあること。

今晩の夕食メニューが、
焼き魚だったとして、
家族のうち一人だけがそれを嫌いで、
あとは問題なく食べられる人々だとする。

その一人の人だけに、
大好物のハンバーグを出してあげたら、
残りの人々の中には、
差別(えこひいき)だという人が
いるかもしれない。

だったら、私だって、
大好物のカレーが食べたかったよ
なんてクレームを出す人も…

けれど、当の本人は、
配慮と思って喜ぶことだろう。

こんなことは、家庭の外でも
たびたび起こりうる。

去年問題になった耐震強度偽装マンション。
買った人々は自分の責任で買ったのだから、
それに、みんなの税金を使うのは不平等(差別)だ、
という人もいる。

けれど、当事者は、
国の責任もあるんだから、
税金を使うのは当然のことだ、
という話にもっていきたいはず。

どこかに、
不平等(差別)が起こるのは、
世の中の常。

それを受け入れるとはしても、
差別をごまかすのがうまい人間には、
なりたくないものです。

2007年1月21日

仲良し壊し屋

自分が気に入っている相手であれば、
もちろんだけれど、
そんなに気に入っていなくても、
仲良しそうにしている二人を見ると、
なんとしてでも、その関係を
壊したくるなる人がいる。

だいたいは、
同性の仲良しそうな二人に対して
そういう裏工作をしようとする。

場合によっては、
仲の良い恋人同士、夫婦関係が
ターゲットになる時も。

もちろん、
その仲良したちには、
何の非もない。

唯一、無理に理屈をこねるとすれば、
その仲良し壊し屋の前で、
仲良しそうにしてしまったこと。
もしくは、情報が伝わるくらい
仲良し過ぎること。

けど、仲良しが、
悪いことだなんて
誰も思わない。

ただ、考えてみれば、
それが嫉妬のターゲットになることは、
今の不幸な時代から考えれば、
なくもないと分かってくる。

ただ仲良くしていただけなのに、
裏工作にうまくハマってしまい、
そのせいで、戻れないほど、
関係が壊れしてまった人たちは、
かわいそう…としか言いようがない。

ある意味、試されたことになる。
自分たちの関係が…

だから、もちろん、
そんな裏工作にビクともせずに、
そのままのいい関係でいられる人たちも
いるからね。

壊そうとする人は、
もちろん悪いとしか言いようがないけど、
壊れてしまうくらいの関係だったんだ、
と分かる時も来るんだよねぇ。

もし、あなたが、
いい友達関係、恋人関係、夫婦関係を
もっているとしたら、
仲良し壊し屋でなくとも、
何か、きっと試しがあるはず。

その時までに耐えられる強さが
持てますように。

2007年1月17日

伝説の人

ふとしたことで知り合いになった人について、
別の知人から、こんなことを言われた。

「あの人、中学生の頃は、
 ○○で全国優勝したりした人だから、
 すごい人なんだよぉ~。」

おぉぉ~~!
そんな、すごい人だったんだ。

と思っていたら、
これまた別の知人が言う。

「あの人、その○○で
 △△道場としっくりいかなくて、
 今、微妙なところにいるんだよ。」

あらぁ~~~、
そんな性格の人でもあるんだ。

伝説の人のまわりには、
いろんな話題があるものだ。

もし、過去の伝説とまったく関係ないところ、
まったく別の世界で生きていれば、
「伝説」が引き合いに出されることは、
多分ないだろうと思う。

けれど、どうしても、
その「伝説」が見え隠れするようなところで生きていて、
ちょっとした失態でも見せようものなら、
それを引き出されて、

「あの人は、伝説の人だったのにねぇ…」

なんて言われることになる。

私にとっては、
伝説を語りつがれるような存在になるのは、
憧れだけれど、伝説をつくった後の生活を
ちゃんとしたものに出来るかなぁ…

なんて考えれば、どことなく不安を感じる。

かえって、過去の伝説が重荷になって、
自分のバランスが崩れるかもなぁ。

たいしたことでないことに怒るようになったり、
ささいなことにも見栄を張ったり、
ウソにウソを重ねて自分の首をしめたり。

そんなことを考えると、
伝説なんてつくらない方がいいね。

その伝説に、
自分がしばられるか、
周囲がしばられるか。

どちらにしても、
しばられたところでは、
生きにくい。

新しい「自分らしさ」というのも、
見つけにくい。

もしも、その伝説をつくられた頃の自分が、
どこかしら「つくられた自分」だったとしたら、
そのイメージにしばられることにもなる。

これは、きっと苦しいですよ。

伝説はつくったとしても、
それにしばられちゃいけない。

今の自分を生きるようにしたいものです。

2007年1月 9日

成人したら、何を始める?

昨日は、成人の日。

成人式が荒れるようになってから
久しくなりましたが、
どれだけの地域で、
成人式が行われたんでしょうね?

成人式が行われないのなら、
「成人の日」もいらないのでは、
という気さえする私です。

それに、今は、
成人の年齢を18歳まで下げる、
という議論も行われている最中ですから、
なおさら、そんなことを考えるのです。

「成人したら、親に感謝しろ!」
なんてことを、テレビのワイドショーで
言っている人がいました。

そんなことを言う人が、
自分が成人した時に、
どれだけの感謝を述べたか、
多少あやしい気もしますが、

人から押し付けられることなく、
自分の気持ちとして、
感謝したいと思えるなら、
感謝できる子供も、
感謝される側の親も、
幸せなことだと思います。

私たちの時代もそうでしたが、
成人したから、
酒を飲み始める、タバコを吸い始める、
なんていう人は、いないことでしょう。

飲んでいる人は、すでに飲んでる。
吸っている人は、すでに吸っている。

そもそも、それを成人した大人の
特権なんかにしているから、
かえって、フライングしたい子供が
増えてしまう気がします。

いっそ、子供にも解禁にしてしまえ、
ということでなく、
いっそ、大人にも禁止してしまえ、
なんてことを言ったら、
乱暴な議論でしょうね。

人間は、禁止されればされるほど、
魅力を感じてしまう生き物ですから。

酒でも、タバコでも、その他なんでも、
魔力のあるものには、
人間って弱いはずなのです。

成人したら、そういう魔力に、
責任をもって対処できる強さがあるはずだから、
解禁します、許しますということでしょう。

それを始めるのもいいですが、
それ以外のことを始める成人で
あって欲しいとも思います。

私も成人したつもりで、
何かを始めようと考えているところです。

2007年1月 2日

即席のはずが…

おととし、祖父が亡くなって、
(気分的には、まだ去年なのですが…)
年賀状を出す必要がなくなり、

知人が私のことを忘れて、
今回の正月も出さなくていいかな、
なんて考えていたら、
何枚か年賀状を来ました。

うーん、こりゃ、
返事を書かなくてはいけないな、と思い、
何を書こうかと考え始めたら、これまた、
ハマりました。

人数が少ないだけに、
その人々の顔がハッキリと浮かんでしまい、
無難な年賀状がかえって書けなくなったわけです。

即席のはずが…

じっくりと伝えたいことを考えることになり、
やっと出来上がりました。

今日は、皆様にも、
その年賀状をお送りして、
コラムにしたいと思います。

----本文----

あけましておめでとうございます。

トリノオリンピックで始まった2006年は、
卓球をしている娘たちが、全県大会などで
力を出せるようになり、わが家にも
金メダル並みの興奮をもたらした
スポーツ・イヤーでした。

2007年は、長女が中学校へ、
三女が小学校に入学するため、
親としての進化が求められることでしょう。

また、私の仕事においては、
去年より新たなチャレンジが与えられて
面白くなってきており、
今年はその成り行きがどうなるのか楽しみです。

ただ、まだまだハードルが迫ってくる予感もあり、
自分の真価が試される一年にもなりそうです。

そのため、今年は、
いのししのように突進していきながら、
気づかないうちに、
一つ一つのハードルを飛び越えていた、
…なんてことが起きるような
夢想をしているところです。
皆様にとっても、
そのような一年となりますように。

2007年元旦

2006年12月10日

一人、一人、去っていく…

志すレベルが違えば、
どう頑張っても
いっしょに進めない時が出てくる。

仕事でも、スポーツでも、恋愛でも、
結婚でも、勉強でも、友だち関係でも…

その違いに気づかない振りをして、
しばらくいっしょに居ても、
進めない事実は、隠しきれない。

自分から去る、
相手から去ってもらう、
両方ともに離れていく。

方法はいろいろあるけれど、
別れることに変わりはない。

もともとあるギャップが、
夫婦とかになった瞬間に、
すぐに埋まるわけがない。

親子だから必ず、
同じ方向に進めるとも
限らない。

友達だからって、
どちらか一方が、もう一方に
合わせ続けられるっていうこともない。

結局、いつかどこかで、
それぞれの進みたい方向が
明らかになってきて、
見えるところ、見えないところのどこかで、
別れることになる。

それを悲しいというのか…

それとも、新しい出会いのスタートというのか。

誰でも、古くからのつながりに、
踏ん切りをつけるのは、
心細くなってしまうけれど、

自分のため、もしくは、相手のため、
はたまた、誰かのためと思えば、
出来ない決断でもない。

誰かに、とやかく言われようが、
関係を捨てる、という時もあると思う。

今話題のテレビ番組
「のだめカンタービレ」。

心に残ったセリフ。

「僕は、やる気のない生徒に、
 やる気を出させるほど、
 やる気のある教師じゃないから。」

最初は、ともに歩むつもりだったとしても、
相手の「やる気」のない現実を見て、
捨てるっていうようなことがあっても、
いいんじゃないか、と思う。

付き合い続ければ、
やる気が出てくるというわけでもない。

捨てることによって、
次に登場する誰かがそういう役を
果たしてくれるかもしれない。

はたまた、本人自らが
奮起することだってありえるかも…

しかし、だいたいは、
何も変わらないってことになるのが
多いことも分かる。

であれば、なおさら、
捨てたことは正解になるかもね。

誰のためでもない。
少なくとも、自分のために…

余計なしがらみがなければ、
捨てたいと思うものは、
人間誰しも、1つくらい持っているだろうなぁ。

2006年12月 7日

無言か、捨てゼリフか

大人気ない人に、
「おまえ、大人気ないヤツだな。」
と言っても、なおるわけがない。

そうは分かっていても、
思わず、言いたくなるのが人間。

言えば、どうなるか。

ますます、大人気ない行動を
したりするのも、そういう人の傾向…

その行動の最たるものは、
無言になるか、捨てゼリフを吐くか。

なんで、無言なんだよ、と問いただせば、
「何を言っても、わたしは、
 大人気ないんでしょ。」
と言い返す。

そうかと思えば、
「じゃあ、もう、
 ○○なんてしないわよ。」
と捨てゼリフを吐く。

けれど、その○○っていうのも、
結局は、自分のためだけにやっていた行動で、
やめられても、誰も困らないことだったりする。

それを恩着せがましく言ったりするもんだから、
ホント、この人、分かっていないなぁ…
という感じである。

捨てゼリフっていうのは、
それを言う人に、
それだけの風格とか力があって、
意味のある言葉なわけで、

そうでない時には、
「自分はバカだ」と公表するような
ものに過ぎない。

しゃべれば、大人気ない。
無言になれば、意地っ張りにしか見えない。
捨てゼリフを吐けば、バカを表わすばかり。

こういう人には、
どういう生き方がいいんでしょう?

と考えるのは、大きなお世話でしょうね。

そんなことを考える暇があったら、
自分の生き方を見つめなおした方がいいです。

無意味なことに意地を張らず、
しっかりと自分をもった生き方。

これからは、
捨てゼリフを吐きたくなったら、
思い起こすことでしょう。

2006年12月 6日

心にあるけど、認めがたいもの

いい言葉ねっとサイトを
オープンして、間もなく5年になります。

それを機会に、
いろいろな方とのメールやり取りが
始まりました。

その中で、おそらく、
もっとも長く続いているメル友の方から、
今朝いただいたメールを紹介します。

私は、その方に
お会いしたこともないのですが、
求めているもの、悩んでいるものが
分かったような気になって、
いろいろと勝手なアドバイスやら、
おせっかいをさせてもらっています。

今日は、誰にでもある思いだろうと思って、
そのメールを以下に載せます。

------本文-------

おはようございます、Shuさん。

バーチャルながら、
いつまでも傍観者でいてくださり、
メル友?でいてくださる。

たいていの人は、
ココまで続きませんよ。(笑い)
そういう意味では、
Shuさんは、すごい忍耐の人か?

前置きはさておき、
ある事実に気がついたのです。

私は、ありのままの現実を
受け入れるのは苦しい。と、
逃げていました。

しかし、実は、
現実を受け入れようとしないことで、
苦しさが増すのだ。

ということを思い知ったのです。

「自分はもっと理解されるべき」
「自分はもっと愛されるべき」
「本当の自分の力はこんなものではない」
などなど…

果てのない欲望にしがみつき、
虚勢を張ることで生きてきたのです。

ある人には、こびへつらい、
ある人には、見下して傲慢になりながら…。

そんな悪あがきをするから、いつまでたっても、
自分を好きになれず、
劣等感や、虚しさにさいなまれることになる。

もちろん、そんな情けない自分を
少しでも、向上させようと努力を怠らない。

しかし、
良かれと思ってとった行動や発言が、
あだになることもある。

思い通りに行かないと気がすまない。

という自分がそこに居る。

それは、

浅ましい我欲にすぎないことを、
あることを通して、よくよく、
気づかされたのでした。

現実を受け入れようとせず、
不機嫌を抱えたまま、

自分を責めたり、罰したり…。

それでは、決して、
自分を向上させることはできないのだと、
今更ながら、気がついたのです。

あ、もう一つだけ、

「私たちの人生に起こることに、
 笑い飛ばすことのできないほど、
 深刻なことは、ほとんどない。」

その通りだと思いませんか?

悲しい時、悔しい時、
何でもジョ