「theが分からない。」
長女がそう言ってきた。
英語の勉強だ。
「なんで、theくらいのことが分からないのだ?」
そんな気持ちで、
theについて教え始めると、
自分も学生の頃に、
よく分からないでいたことが、
思い出された。
長女が尋ねてきたのは、
こういう例文を書くこと。
問題:あなたの家は、駅から遠いですか?
長女は、
Is your house far from station?
と英文を作った。
しかし、正解では、
station のまえに、theが付く。
the stationだ。
なんで、theが付くの?
という話になる。
中学校の頃は、
theを「その」と訳するようなクセが
ついてしまったりするから、
そういう疑問が出てくるんだろう。
間違いでもないけど、
会話のなかで、限定される、
また、絞り込まれることに
theが付くことなんだ、
と教える言葉が、私の口から出てきた。
the station
尋ねている人は、
具体的な駅名までは分からないけれど、
一番近い駅をイメージして尋ねるだろうから、
限定していることになる。
そして、尋ねられた方は、
間違いなく、自分の家から近い駅を限定し、
駅名やら、場所、距離などもイメージして
答えることだろう。
会話のなかで、
お互いのイメージが共有されて限定されるところに、
theが使われるんだよ、と補足した私。
だから、
Where is the pen? (the penはどこ?)
といきなり尋ねられたら、
ふつうであれば、
What is the pen? (the penって何?)
と尋ね返されるんじゃないかな。
イメージを共有していないのに、
the をつけて会話されれば、
?と思われて当然なのだ。
しかし、面白いことに、
尋ね返されるときのtheは、
共有されている。
あなたが言っているthe penって何?
というわけで、お互いの頭の中で、
the penが、ある意味共有されるわけだから。
そんな余計な説明まで、
してやったけれど、
どうやら、長女は分かったようだった。
ただ、
ひと晩明けて思った。
そんな説明で良かったのかなぁ...って。
中学校の勉強くらいは、
まだ教えられるが、
高校くらいになると、どうだろう。
ちょっと不安になる。
分からないことは、分からないと言うしかないな。
自分のまわりに、
良きライバルがいないために、
いつもいつも勝てる状況にいるために、
かえって弱くなることが
あるように思います。
それはそうでしょうね。
スポーツであれば、
自分よりも強い選手がいるはずだし、
ビジネスや仕事であれば、
自分よりも能力のある人がいる。
良きライバルがいないと、
そういうことを忘れがちになる。
「なんだ、自分って、
すごいんじゃない?」
みたいなことばかりを
いつもいつも確認することになるわけです。
でも、普通であれば、
そういう自画自賛を確認することに
飽きてくるものなのですが、
飽きてこない人種もいる。
それがナルシストっていう人。
ワンパターンの自画自賛シーンに、
何度出くわしても、飽きないわけです。
しかし、
本当に強くなりたい人、
負けたくない人は、
そういう自画自賛シーンに
飽きた方がいい。
そして、良きライバルが
いないならいないで、
自分が負けるかもしれない状況を
考え出した方がいい。
そういう状況を考え出して、
その上で、そういう状況の中で、
どんなふうにしたら勝てるか、
そういう訓練や練習が必要だと思うんです。
そういう思考に至ることが出来ない人は、
いつまで経っても、井の中の蛙...
いまは勝てても、
そのうち勝てなくなるでしょうね。
あいまいな態度を
示している人が多い中で、
ズバっとハッキリとした発言や行動を
する人がいると、
話題となる。
おとといの例でいえば、
自民党の渡辺氏が
麻生首相に対して造反。
昨日は、
秋田県の寺田知事が独自の判断で、
小中学校の全国学力テストの結果を、
市町村別で公表したこと。
もちろん、応援する人もいれば、
バカなことをしたもんだ、
という人もいるだろう。
どちらも、世論が大きくなびけば、
追い風になるが、
このタイミングで別のことが起きて、
世論の関心が他に向いてしまえば、
ちょっと変わったことをしたことで、
孤立することになったりもする。
話題となるということは、
そういうことだと思う。
注目されて、
その1人だけに人々が群がっていたのが、
その群れがサーッと引いていく。
いっつも、話題をつくっていない限り、
いつかは、人々が去っていく。
マラソンとヨットで世界一周をする「アースマラソン」へ、
12月17日に出発した間寛平さん。
スタート前日、当日、その後には、
話題性もあって、報道されていましたが、
今は、あまり情報が入ってきません。
「どんなことがあっても、
何年かかっても帰ってこようと思ってます」
という決意には、すごい話題性がありますが、
人々には、それぞれの生活がある。
命や、いろんなものをかけてまで
話題になったとしても、その結果は分からない。
今話題になっている人は、
1週間後、1ヵ月後、1年後、
どうなっていることでしょう。
5年くらい前からだろうか、
百ます計算という言葉が
流行りだしました。
これは、小学生の計算能力を高めて、
ほかの学力向上にも結びつけよう、
という陰山英男先生の試みでした。
この先生、だいぶ有名になって、
週刊ダイヤモンドなんていうビジネス雑誌にも、
登場しています。
最近の言葉に、こんなものがありました。
「数値だけ」ではダメだが、
数値はやはり重要なのだ。
(陰山英男)
その通りだと思います。
世の中には、
何らかの成果というものを、
数値に表せないものもありますが、
数値に表すことが出来るのなら、
やっぱり、数値にした方がいい、
と私も思います。
そうすると、それをアップさせたり、
良くさせたりする目当てを
もちやすいから。
子供の世界ばかりでなく、
大人の世界もそうでしょうね。
ただ、問題は、
その数値に、なんていうか、
感情を入れ込むなどの操作が
出来ると、ちょっとマズイ。
たとえば、
100mを何秒で走れたか、
というのには、
何の感情も入りようがありません。
スタートでオンして、
ストップでオフにして、
時間が表示される。
体重、身長も、
そのままの現実を
計測してくれる。
しかし、何かの決定率とか、達成率、
というものを計算して表そうとする場合には、
これを含むか、含まないかのラインが
あいまいになりやすいものだと、
そこから計算される数値も、あいまいになる。
なんとか数値にはしてみたけれど、
その数値がなんとも役に立たない、
という具合でしょう。
目当てにする数値の中身が、
あいまいになると、
その数値対する「やりがい」も
薄れてくる。
それを盾にして、
指導されたり、命令されたりすると、
今度は、ウソの報告が始まったりする。
あいまいであるゆえに、
可能なウソです。
数値の扱いっていうのは、
いつでも、ややこしいものだと思います。
「これは健康にいいよ~」
と誘われる商品がある。
同じ商品について
「これは金儲けにいいよよ~」
と誘われる人もいる。
こんな不景気な世の中では、
ほとんどの人が、
警戒心が強くなっていたりするから、
単純に、
「○○にいいよ~」
と言われても、
すぐに飛びついてもらえるわけじゃない。
そうなると、話術の上手な人を仲間に引き入れて、
その人から、うまい具合に誘ってもらった方がいい。
だから、そういう人に対しては、
手の内を見せて、
「金儲けにいいよ~」
なんてセリフに変わってくる。
手の内を見せられたときに、
ちょっとドキっとすることがある。
「なんで、わたしにそんなこと言うの?」
みたいな感じ...
けれど、よくよく考えてみれば、
(つまり、そういうことを言うってことは、
私をだますつもりはなくて、
私を仲間にしようってことかしら...)
という結論にたどり着く。
実は、だまされるよりも、
仲間に加えようとしているのは、
ちょっと怖い気もしたりする。
それでも、
私のことをだまされるような人でなく、
仲間としてがんばれる人だと認めているんだ、
なんて、勝手に考えれば、
嬉しいとか思うかもしれない。
仲間。
響きがいいですからね...
手の内を見せられたら、
ちょっと注意しなくちゃいけない時代なのかも。
いい話の仲間だったらいいんですけど。
2009年まで、
あと21日しか残っていない。
その残りの「今年」をがんばるとしても、
やっぱり、新しい2009年の目標とかを
考えたくなる時期ですね。
考えたくないとしても、
考えるよう催促されている人も
いるかもしれません。
自分で自由に目標を考えられる環境に
いる人は、ある意味、幸せかもしれません。
なかには、「上」からの目標を受けて、
それを自分の目標に落とし込むとか、
自分の目標に反映させるとかしないと、
「自分の目標」を認めてもらえない人も
いることでしょう。
たいへんな立場です。
まして、世の中が不景気になったり、
思わしくない結果が続くと、
「上」からの目標は、
だんだん窮屈になってきます。
それを、自分のものとして考えるのは、
この上なく「やらされ感」を感じる原因になります。
やらされ感では、
目標に向ける「やりがい」も
トーンダウンすることが多くなります。
目標だけならまだしも、
その目標を達成するための手段やアイデアまで、
限定されてしまうと、
もう、自分は道具に過ぎないのか?
みたいな感情になって、
その目標に向けてがんばる日々が、
苦痛になってしまうことも...
目標を考えるこの時期、
あるいは、3ヵ月後の年度末の時期、
目標を考える人々には、
いろんな感情がうずまきますね。
果たせないと分かっている
無謀な目標であれば、
なおさら、虚しい。
うーん、気合では
どうにもならない目標があるのも、
事実だと思います。
今年引退した、KKコンビ。
KKコンビで分かる人たちは、
それなりの年代かもしれない。
わたしが言っているのは、
PL学園出身の
桑田真澄選手、
清原和博選手。
それ以前の世代にも、
KKコンビなるものがあったのかは、
分からないですが...
桑田選手が、
清原選手より早く、
アメリカ大リーグを引退して、
日本に帰ってきた。
そして、日本テレビの
「行列ができる法律相談所」にて、
清原選手のバッティング・ピッチャーを務めるために、
現役時代と同じレベルのボールが投げられるよう、
毎日練習をしている、と語った。
しばらくして、
清原選手が引退することが決まり、
そのバッティング・ピッチャーとして投げたシーンが、
テレビで放映されたりもした。
実際に、清原選手の練習相手として、
十分なレベルであったかは分からないけれど、
一流プレイヤーの練習パートナーになるためには、
もしかしたら、本人以上に練習をしなくちゃいけない
かもしれないなぁ、って思います。
少なくとも、同等なことができなくちゃいけないでしょ。
最近の私は、そういうことを痛烈に感じます。
娘らの卓球練習相手であるために、
思いついたときに、
練習に付き合っているような感覚で
過ごしてきていましたが、
どうも、それでは、
練習パートナーが務まっていない、
ということが分かったのです。
つまり、強化する相手になりえていない。
伸び盛りの娘らのパートナーでいるためには、
大げさな話。娘ら以上に、
練習をしていなくちゃいけない。
そんなことを感じました。
なめていたんでしょうね。
練習相手さえできるレベルであればいい、と。
しかし、練習パートナーであるためには、
レベルをアップしていなくちゃ話にならない。
ダイエットも兼ねて、
この冬はがんばってみようと考えています。
(追伸)
夫婦関係も、これに似ている気がします。
相手がいい人であれば、
幸せになれるわけじゃありません。
自分も、いいパートナーとして、
いつも成長していないと、
幸せを感じることも出来ない。きっと...
これからの時代は、
会社の合併や
学校の統合など、
2つや3つあったものを
1つのものにすることが
多くなるだろうなぁ、と思います。
それは、なんていうか、
合理化とか、縮小化とか、
そういう目的になることでしょう。
で、そういうことが目的なんだから、
妙なこだわりなんか捨てて、
考えるべきことに集中すればいいのでしょうけど、
そういう場面にありながら、
自分たちの立場にこだわって、
いっしょになった後の名前は、
こちらの名前を使わせてもらう!
いや、こっちの名前だ!
という議論を始める人たちも
少なくない。
そんなことを言っている場合じゃないから、
いっしょになろうというのに、
立場にこだわって、
そんな話を始める人たち。
それで、いっしょになる話が、
ぶちこわれて、その先では、
どちらも立ち行かなくなる。
やっぱり、いっしょになりましょうか、
という話は再び始める頃には、
双方ともボロボロになっていて、
復活の体力すら残っていないなんてことに...
立場へのこだわり。
男の人は、特に強い。
そんな場合でない時でも、
そういうプライドだけは、
立派に残っている。
うーん、私も男ですが、
男は面倒くさい、と思います。
もうダメだ、この人は、
と思ってしまった人を
見捨てるのは簡単で、
身内でなく、
相手に対して責任を感じなくていい人、
自分にとってどうでもいい人を
見捨てるのは、ポイといつでも出来る。
そんな時でも、
ふと考えてしまうのは、
この人を見捨てないことで
自分が成長できるんじゃないか、とか、
この人を見捨てたら、
自分の大切な人が困るんじゃないか、とか、
直結じゃないけれど、
何かしら、自分とのつながりを
感じてしまう時だろうと思う。
わたしも、例外にもれず、
その人に対しては、
何の恩義もないが、
私の大切な人が困るというか、
残念な目に遭うことが
予想されたりすると、
ダメな人間だと思っても、
見捨てられなくなる。
でも、そんなことを積み重ねていれば、
面倒を見なければいけない人間ばかりが増えて、
誰のことも見捨てられなくなる可能性すらある。
人一人が面倒を見られる人の数っていうのには、
必ず、限界があると思うから、
どこかで、線引きをして、
心の中で見捨てる。
冷たいハートの私でも、
見捨てることに、ちょっとした罪悪感を感じながら、
見捨てる。
ただし、見捨てられたことによって、
必ず、その人々が不利益をこうむるかと言えば、
見捨てられたことによって、
自分たちのやる気が芽生えて、
自分たちで問題解決していく姿に変わった、
ということもあるから、
「自分がやらなければ、どうしようもなくなる」
って思うのは、善意かもしれないけれど、
自意識過剰なところもあるんだな、
って気づかされた。
たまには、見捨ててもいい。
そこから、何かが生まれることもあるから。
一番ダメなのは、自分も、相手も、
変わらないことだと思います。
「すべる」という言葉に
とても敏感な時期がありました。
受験シーズンです。
学校のスキー教室を
ズル休みしたほど、
ナーバスになっていた、という記憶があります。
「すべる」というと、
なんとなくマイナスのイメージが
ついて回るのは事実。
受験に限らず、
クルマを運転していて
冬道をすべらせてしまうのは命とり、
手に持っていた皿が
すべり落ちて割れるのもダメ。
昔、会社の同僚である女子社員が、
お酒の席で、上司のツルツル頭に、
ガムテープを貼って
「ツルツルすべって、貼れない」
なんてやっていましたが、
これも普段ならNG場面。
笑いがすべってしまったら、
空気がシラケテしまって、ヒンシュクを買う。
しかし、すべるにも、
いいことはある。
スキーでも、スケートでも、その他のことでも、
ちゃんとすべらせることをコントロールできれば、
とても気持ちよかったり、役に立つわけですから。
問題は、その「すべる」をうまく
コントロールする方法なんですよね。
それが出来れば、世の中では、
いろんなことが過ごしやすくなる。
もちろん、すべっても、
気にしないでいられれば、
何も問題もないわけですが。
ここ数日、うまく「すべる」方法をさがしている私です。
いろんなことについて、
なんでも出来る、
ということはないが、
何らかの分野については、
なんでも出来る、
っていうことがよくあるかもしれない。
そういう私にも、
我ながら過信してしまうが、
けっこう、なんでも出来ちゃうなぁ、
と思う分野に気づいた。
ちょっと恥ずかしいので、
くわしいことは言えないが、
大切なのは、
そこで気づいたこと。
やっぱり、
なんでも出来る、
っていうのは、
なにも出来ない、
に近いかもしれない、ってこと。
学校の勉強とかだったら、
そういうことは、歓迎されるかもしれない。
国語、数学、英語、理科、社会、
すべて80点の人は、
50、60、100、65、70の人よりも、
優秀だ、ということで認められるだろう。
100、70、75、75、75の人と
比べられても同じだろう。
けれど、すべて80点の人は、
どの教科においても、1位はとれない。
勝てるのは、合計点のみ。
だから、
数学の道でトップを目指そうと
がんばる人にとっては、
その「なんでも出来る」人は、
ライバルになりえない。
きっと、その人は、
平均的になんでも出来る人じゃ、
切磋琢磨できないから、
数学だけ頑張ろうとする人を
仲間として探すだろう。
限定した目標を持っている人にとっては、
鼓舞する存在になりえない、ということ。
偏っててもいい。
飛びぬけているものがある人の方が、
ありがたい。
ちょっと、わたしも、
飛び抜けたいと思っています。
目指せ、ダントツ!
物事をすぐにあきらめてしまう、
という人間にとっては、
なかなか粘り強い人間が
ちょっと怖い。
方向を間違うと、
ストーカーみたいにもなるが、
そういうことでなく、
何度つぶそうとしても、
何度責め立てようとも、
何度失敗をしても、
起き上がって立ち向かってくる存在は、
映画「ターミネーター2」の悪役アンドロイドを
思い出させる。
あれは、怖い。
キリがなく、
追いかけられる、
つきまとわれる、
命をねらわれる、
というのは、
心の休まる暇もない。
ちょっと休みたい。
と思う気持ちは、
誰にでもあるものでしょうが、
その休みをもらえないのは、
やっぱりツライ。
人によっては、
ちょっとがんばっただけで、
すぐにも休憩させて欲しい、
なんて人もいるだろうし...
いずれにしろ、
粘り強い人間に、
付き合わなければいけない時の、
精神的プレッシャーは、
ものすごいものでしょう。
スポーツやビジネスなどの戦いにおいて、
敵が粘り強かったりする時には、
イライラしたり、弱気になったりしては
負けてしまいます。
どこまで付き合っていくんじゃぁ~!
くらいの気合をもって、
立ち向かいましょう、人の粘り強さには。
たいした努力もしていないのに、
もっと言えば、何の努力もしていないのに、
やること、なすことすべてがうまくいって、
運がツイていると思えるような時があります。
そんな時には、
だいたい勘違いします。
自分が、かなり進歩して、
悟ったような気になる。
これからは、もう大丈夫。
何事もうまくいく、と思っちゃう。
一方、
いくら努力しても、
どんだけ苦労をしても、
先を越される、
ヒットを出せない、
失敗を繰り返す、
という時もある。
そんな時にも、
勘違いします。
運に見離された、と。
俺は、私は、もう終わりだと。
生きていれば、
何らかのシーンで、
そのどちらも経験することになる。
それが人生。
不思議ですよね。
努力とは関係なく、
うまくいったり、
うまくいかなかったりするんですから。
でも、そこも、
努力が大事だと考えている人は、
「たいした努力もしていないのに、
成功したとは言うけれど、
それまで積み重ねたものがあったからだ」
と考えたがるでしょう。
一方、運を大切にしたい人は、
「やっぱり、人は運なんだ。
努力とは無関係なんだ。」
と考えたがる、きっと。
そこをまとめちゃって、
「努力は運を支配する」
と言いたがる人もいる。
私が最近思うのは、
どれも、違うんじゃないかなぁって。
まとめたいとすれば、
「努力は自分を支配する」
みたいな感じ。
努力によって、
自分が手に入れるものに対して、
自分がどう思うかをコントロール
できるようになる、ってことではないかと。
努力によって、
ほぼ99%手に入れられる可能性の人もいれば、
50%くらいの可能性しかない人もいる。
さらには、25%くらいの人も。
スポーツとかであれば、
99%の可能性の人が勝ちそうだけど、
アクシデントなどが起こって、まかり間違って、
25%の可能性の人が勝つこともある。
そうなれば、
運など支配したことにはならない。
いんや、その25%の可能性の人の努力が、
運を支配したんだ、と言いたがる人もいるだろう。
もちろん、そう思うのは自由だけれど、
運だけを信じるのも、
努力だけを信じるのも、
なんとなく、息苦しいと思うことがあります。
努力はした、
やるだけのことはやった。
「あとは何が起こるか分からない」
っていうのも、面白いと思うんです。
そして、そう思えるようになったら、
努力が自分を支配した、
ということになるんじゃないかと。
イヤなら、やめればいいじゃん。
わたしの右脳は、
好き嫌いが激しいので、
いつも、そんな声をささやいてきます。
きっと、私じゃだけじゃないでしょうけど...
でも、もう少し理性のある左脳は、
やるだけの価値があるなら、やればいいじゃん。
守るべきもののために、がんばったらいいじゃん。
と言ってきます。
その間にはさまって、
いろいろと悩み、考えながら、
最終的には、やめるものもあれば、
続けるものもあります。
さらには、
いったん止めてはみたものの、
思い直し、タイミングを見計らって、
やり直すものもあります。
でも、やめればいいじゃん、
というささやきで、
思い切りよく、やめられる、
という私は、幸せな部類なんだなぁ、
っていうことを、時々感じさせられます。
普通であれば、しがらみ、
っていうものがあって、
自分の決断だけで、
やめたりしようものなら、
白い目で見られたり、
居心地が悪くなったり、
自分への待遇が悪くなったり、
いいことなどない方が多いでしょうからね。
自分だけ、一ぬけた!
とやって、そのまま、やり過ごす、
っていうのは、よほど鈍いか、
人間関係が希薄でじゃない限り、
出来ないことのようです。
わたしは、多分、鈍いのでしょう。(笑)
人間関係が希薄かは分かりませんが、
情は、薄い気もします。
やめればいいじゃん。
他人にも気軽に言うことが多いですが、
その気にさせることは出来なくても、
何かしら、考えさせる機会になっているんでしょうね。
今、自分の目の前にあることに、
本気になれるものがないとする。
だから、
本気になれるまで、
お休みしようか...
そう考える人がいるかもしれない。
しかし、世の中は、
そんな「お休み」をゆるしてはくれない。
お休みしている間に、
こういう状態しか残らなくなりますよ、
こういうものしか手に入りませんよ、
こういうところにしか行けませんよ、
みたいなことを言われる。
そうなると、
「いや、そんなのはイヤだ。」
と奮い立って、
イヤイヤかもしれないが、
頑張る羽目になる。
がんばる人のすべてが、
やる気があって、
がんばっているわけじゃない。
がんばらないことによって、
自分が望まない状態に陥ってしまうから、
しょうがなく、がんばっているという人のほうが
はるかに多いと思う。
だからといって、
そういう人々が、
本気じゃないから、
やる気満々なわけじゃないから、
と言って、
責められるもんでもない。
自分の任されているところをやり、
自分で責任を負っている限り、
「それはそれでよし」となるだろう。
つまりは、
目の前にぶらさげられたニンジンのために
がんばれる人もいれば、
お尻に火がついて
がんばっている人もいるというわけだ。
実際は、どちらの面も、
人は持っていると思う。
私が最近がんばっているのは、
お尻に火がついているせいかもなぁ。
辞めた方がいい、
と言われながらも、
引退しない人もいれば、
まだ早い、
と引き止められながら、
それを振り切って、
引退する人もいる。
しかし、あとになって、
未練がつのってきて、
復帰したりする人もいる。
先月は、小泉元首相が政界からの引退を表明。
プロ野球では、PL学園の黄金時代を築いた
桑田選手、清原選手が、今シーズンで引退。
昨日は、シドニーオリンピックの
女子マラソン金メダリスト高橋尚子選手の引退。
さまざまなことを考え、
さまざまな思いで、
引退したことだろう、と思います。
そして、きっと共通するのは、
引退によって肩の荷をおろしただろう、ということ。
期待されることからの解放、
だと思います。
期待されて、
それに応えるためにがんばれて、
それに応える結果を出せるうちは、
その1つ1つの期待が、
とっても嬉しいに違いありません。
けれど、それに応えられなくなると、
苦しいの一言でしょう。
1度くらいの失敗であれば、
次はがんばるぞ、となるかもしれませんが、
それが積み重なると、引退を考え始める。
引退をして、解放されたら、
どれだけ楽だろうと思う。
しかし、その後の自分はどうなるか、
と考えれば、新たな不安に襲われることもある。
その不安に陥らないためには、
今のままがんばるしかない、としがみつく。
引退した方がいい、
と言われながらも、しがみつく。
本人は期待に応えるつもりで、
しがみついていたりする。
けれど、しがみつけば、しがみつくほど、
期待の声が遠ざかっていく...
引退って、難しいことなんですね。
時々、あさるように、
映画やDVDを見る時がある。
いつも、何かしらの意味を
求めてしまう私は、
そういうものにふれながら、
「気長に待たなくちゃいけないんだな」
ってことを、いつも学びたくて、
そういうものを見たり、読んだりしている気がする。
自分が、そういうことを学んだからと言って、
自分の子供や他の誰かにも、
同じことを学ばせたいと思ったときに、
その同じ映画やDVDを見る、
その同じ方法で学ばせることは出来ない、
ということは知っている。
それは、それまでの人生経験や考え方で、
心に止めないで、すーっと流して見たり、
読んだりしているシーンの方が、
ほかの人の心にひっかかり、
私とは別のことを感じたり、
学んだりするからだと思う。
ストーリーそのものには、
あまり関係ないのに、
その人の心にとって衝撃的なシーンであったり、
ショックを感じる内容であれば、
そっちの方だけに、心が奪われてしまう。
だから、人に学ばせようとする時に、
自分が学んだからといって、
同じ方法を容易には勧められない。
同じことを学んでくれるとは限らない。
人生経験、もっている知識、情報、感受性が、
違っているのが当たり前だから、
「どうして、これを感じれないんだ?」
「どうして、これを分からないんだ?」
と怒ってもしょうがない。
そういう意味では、国語の文章問題、
っていうのは、ちょっと偏ったものかもね。
感じること、読み取ることが、
1つの答えしかないっていうのは、
いろいろな人間がいるなかで、
無理なこともある。
何も感じない人もいるだろうし、
まったく違うことを感じる人がいても、
おかしくない。
感じさせる、学ばせるというプランは、
意外な展開になることがあって当然かもしれない。
そういう発見から、じゃあ、
こうしたら感じてくれるかな、
っていう工夫のできる人が、
何かしらのヒットを作れるかもね。
問題が起きた。
どうしよう?
自分だけでがんばってみよう。
自立している人間が、
人に頼らないでがんばろうとする姿は
頼もしい。
けれど、
どうしよう?
自分だけがんばればいい。
と考えるのとは、
微妙に、自立していない姿
かもしれない。
というのは、
自分だけがんばればいい、
という考え方でいくと、
下手すると、仕事とかを
抱え込みすぎてしまうことになる。
抱え込みすぎても、自分の中で
ちゃんと処理できる能力があればいいのだが、
それがないために、
抱え込んだものにだんだん支障が生じたり、
無理をして、自分が故障するとしたら、
やっぱり、問題だ。
私は、気が短いので、
「いい人」には見えるけれど、
抱え込んでしまって、
かえって人に迷惑をかけてしまう人に、
ちょっとイライラしてしまう...
自分だけ、がんばればいい。
という考え方は、視野が狭い証拠かもしれない。
「自分だけがんばる方法」しか、
思い浮かばないということ。
この問題について、
みんなに話したら、
みんなが困るだろう...
としか思っていないことによって、
みんなでいっしょに解決する経験をなくし、
もっといい方法が見つかるチャンスも逃し、
最良の結果が得られる可能性もつぶしている。
自分だけ、がんばればいい。
この考え方は、迷惑だ!
そう言いたくなるのです。
ホント、気の短い私。
自分も失敗したくないけど、
出来れば、自分の子供たちにも、
失敗はさせたくないなぁ、
と思うのが親の欲。
どうやら、私は、
そういう欲が、人一倍強い、
ようなことが分かってきた。
人間には、
器用な人と、
不器用な人がいて、
ちょっとの助けがあれば、
何でもうまくいって、
失敗しない器用な人がいる。
反対に、ちょっとの助けくらいじゃ、
うまくなれないから、
何度も失敗してどうにかなる
という不器用な人がいる。
私の娘らで言えば、
前者が長女で、後者が次女。
長女は、ちょっと助ければ、
あまり失敗することなく、
何事も乗り越えられてきた。
だから、いろんな意味で、
教えたり、転ばぬ先の杖をやってきた。
しかし、年を重ねていけば、
もはや、ちょっとの助けでは、
失敗させないようになど出来ない状況が
やってくる。まさしく、今がそれ。
自分で考えなくちゃいけない。
そうなると、自分で失敗をして学ばなくちゃいけない。
しかし、元々、失敗に弱いタイプ。
ちょっとの手助けがなくなり、
自分で失敗を体験するとなれば、
そのたびに、ダメージが大きかったりする。
親としては、ちょっとかわいそうだと思いながらも、
しょうがないと言い聞かせて、眺めているところだ。
一方、次女は、ちょっとの助けくらいじゃ、
失敗を避けられる人間じゃなかった。
だから、いっぱい、失敗している。
バカだな、と思うことばかり、
何度も失敗しているが、その分、失敗にも強い。
今朝も、朝ごはんを食べながら、
ウィンナーを何度もテーブルに転がしていた。
まさしく、次女の象徴である。
昔から、そんな感じ。
1度や2度の失敗は当たり前。
10度目くらいで、なんとかうまくいけばいい方。
不思議な二人である。
それが、先日、部活の新人戦で、
姉妹対決の決勝となり、
練習では失敗ばかりの次女が、
長女を破って、優勝した。
勝負とは、分からない世界である。
人に何かを教える時に、
こちらの思い通りに勘違いをさせて、
そのタイミングをつかんで、
物事を教えるっていうことが
あると思います。
もちろん、偶然とか、
ちゃんと分かって、
その勘違いやミスをすり抜けて、
問題なく、進むこともありえますが...
勘違いやミスをする前に、
「おまえたちは、
こんなふうなミスをするだろうから、
気をつけていけよ。」
で分かる人たちならいいですが、
なかなか、そうはいかない。
そういう人たちに限って、
そんな勘違いやミスなんて
するわけないじゃないですかぁ~と思う。
あるいは、堂々と公言したりも。
そんな時に、
そういうことについて議論をしてもムダ。
ちょっと放っておいて、
思い通りのミスや勘違いをするまで
待っていればいいだけ。
最初は気をつけていたとしても、
そのうち注意力がなくなって、
ほとんどの場合、予想通りのことをする。
その時に、
「ほらね」と言えばいい。
もちろん、いろんな言い訳もでてくるだろうし、
納得したくないような顔も見せるだろう。
そんなことも、こちらの予想通りで、
そういう素直でないところがあるから、
そのままなんだということも理解した上で、
付き合っていけばいい。
教えられ慣れていない、
学び慣れていない、っていうのは、
環境の問題もあるけれど、
本人の中身の問題もあるんだなぁ、
って気づかされます。
だから、同じ環境で、同じことを学んでも、
誰もが成長するとは限らないのです。
そういう時には、教える側は、
欲張らずに、そのうちの一人でも
成長してくれたらいいという気分で
がんばればいいと思います。
今は、とても辛いかもしれないけれど、
勝ち以外には何も意味がない、
と思えるかもしれないけれど、
いつか、この時を振り返った時に、
「ああ、あの時は、こんなことを
学ぶためにあったんだ。」
と思える日がくることを約束したい。
ずーっと勝ち続けて
生きている人はいない。
誰もが、負けて負けて、
やっと勝てるようになって、
今も勝てているはず。
君自身のことを思い出してみても、
そうじゃないか。
負けて負けて負けて、
それが悔しくてがんばって、
そしたら勝てるようになって、
今しばらくの間、勝てていたじゃないか。
今はだた、それだけでは、
「勝ち」を支えられない時期に来ただけ。
自分の心の強さ、
それ以外の日々の努力、
いろんなことを振り返って、
それらを整理して強くなれるチャンスが、
また来たんだ。
負けていたばかりの時と、
何にも変わっていないんだよ。
ってことを言葉で言われても、
まだ、受け入れられないと思う。
それが、一度「勝ち」の味を
知ったことによる、
欲張りなのかもしれない。
あくまで、勝ちを目指すのは、悪くない。
けれど、勝ちを意識して、
打ちのめされてしまうのは、
負けてしまうよりも、もったいない。
負けてしまった君へ。
まだまだ、これからも負けることはあるんだよ。
それだけ、まだまだ強くなれるんだよ。
応援しています。
書きたいことが、
書きながら見えてくることがある。
言いたいことが、
しゃべりながら分かってくることがある。
やりたいことが、
やりながら気づくことがある。
自分は、本当は
何をやりたい、言いたい、書きたい、
っていうことを、腕組みをして、
ずーっと考えていても、
しょうがないことの方が多いのです。
思い込みの激しい人ほど、
そんなことを始めたら、
泥沼にハマります。
そういうことは、
とりあえず始めてみる、
っていうことが、
物事の整理に、
とても役立つからだろうと思います。
始めてみれば、
始める前に感じていた問題点が、
次々と解決されるか、
たいした問題でなかったか、
本当に問題だったかが、
分かるものなんです。
そういう本当のことにぶち当たれば、
本当に考えなければいけないこと、
焦点をあてるべきことが分かってくる。
体を動かしたくない人は、
悩みに埋もれてしまいやすい
かもしれませんね。
とにかく、何かしら動いていみる、
それが一番だと思います。
動かないで悩んでいたのが、
なんとバカらしかったことか。
ということが、後々になってから、
感じるもんですから。
目の前のライバルと、
その先にいる敵とどちらが怖いか、
といえば、
目の前のライバルに
心を奪われてしまうことだろう。
だから、
そのライバルに勝てたり、
自分が上だと実感できる経験があると、
それだけで満足してしまう。
もっともっとがんばれば、
上に伸びていけるはずの人なのに、
どうして、この人は、
ここで止まっちゃっているんだろう...
と思わされる人がいる。
そこは、きっと、
想像力の問題かもしれない。
見えないものを信じようとしない、
あるいは描こうとしない。
見えるライバルのその先にいる、
次のライバル、あるいは本当のライバル。
目の前だけで安心しきってしまうのは、
どこか、思い込みが強いのだと思う。
このくらいのレベルで安心していたい自分。
それ以上がんばらなくても済むようにしたい、
今やっていること以外の努力はしたくない、
もっとがんばる何かを考えたくない。
そういうことかもしれない。
だから、想像力が働くのをストップしている。
何かを教えているときに、
それをメモしようとする姿勢がないと、
もう教えたくなくなる。
という気持ちは、良く分かります。
学校の先生に限らず、
教えることの多い人は、
そんな気持ちを何度も感じながら、
教え続けていることでしょうね。
教える側は、メモする姿が目に見えて、
分かりやすいから、そこで判断をするけれど、
教えられる側には、面白いことに、
4つのタイプが存在する。
1.メモをとるし、ちゃんと理解もし、実践もする。
2.メモはとるが、理解してないから実践できない。
3.メモはとらないし、理解する気も、実践する気もない。
4.メモはとらないけど、理解していて実践できる。
1と2は、教える側から見れば、
双方とも、おりこうさんには見えるが、
理解力という面で差があり、
結果が変わってきてしまう。
それでも、教える側は、
一生懸命な「2」に対して、
理解できるように、面倒は見たくなるだろう。
3と4は、教える側から見れば、
いわゆる、態度が悪いという感じ。
それでも、「4」のように、
出来る人間に対しては、
一目置かざるを得ないだろう。
個人的には、嫌いな感情を感じたとしても...
問題の「3」のような態度に対しては、
レッテルを貼りやすい。
あいつは、聞く気もないし、理解する気も、やる気もない、
みたいな感じだ。
それでも、注意している間だけでも、
表面的にメモをとるような態度をすれば、
まだ、レッテルは剥がしてもらえる。
そういえば、自動車学校で講義において、
先生の顔を見ながら聞いていたら、
教科書を見ながら聞けと言われたな。
メモ魔がいいとか、
目を見ながら話すとか、
姿勢を正して話を聞くとか...
そういうのが理想だというのは、
教える側の好みなのかもしれません。
わたしも、それを認めます。
そして、わたしは、メモ魔が好きです。
ひいきしたくなります。
この戦い方でやっていくしかない、
この仕事を続けていくしかない、
この人と生きていくしかない。
と限定されていると、いちおう、
背水の陣っぽい気持ちになって、
がんばろうとはするけれど、
いや、それ以外にも、
こんな選択肢もあるよ、
と言われると、やっぱり、
すごく気楽になれる。
ただ、選べると分かったとたんに、
気楽になってしまい、
限定されていた時よりも、
やる気がそがれて結果が振るわなければ、
それも、またもったいない。
余裕のある戦い方と、
背水の陣っぽい戦い方と、
どちらがいいか。
一概には、結論を出せない気がする。
好みで選んでいいものか、
分からないけれど、
自分に似合いの戦い方ってあるように思う。
それがチームとして
戦わなければいけないこととなると、
その中の一人一人でまた違ったりするだろうから、
選ぶこと自体が難しくなる可能性すらある。
選べないと分かってる時には、
みんなで一致できたけれど、
選べると分かれば、
みんな自分の意見を言いたがったりもする。
その意見がまとまらなければ、
バラバラなまま戦うことになる。
選べるっていうことは、
いいようで、いいとは限らない。
そうなると、
選ばせるか、選ばせないか。
という時点で考えなければいけない。
それを選ぶというわけだ。
なかなか、面白い。
北京オリンピックの柔道やレスリングで、
たびたび見られた光景。
あれって、決勝より
大変かもしれない、
という気がしました。
ちょうど先日、うちの娘らが、
卓球の大会で体験したんです。
気もちの切り替えが難しい。
あと1つ勝てば「決勝戦」というシーンで破れ、
「3位決定戦」にまわされる。
あの時勝っていれば、
と思いながら、3位決定戦に臨めば、
だいたいは、つぶされてしまいます。
もちろん、実力差が圧倒的であれば、
そんな心理状態でも勝てちゃう、
という時もあるでしょう。
たとえて言えば、
さっきまでは1回勝てば、
100万円もらえるという戦いだった。
それが、今は、
これから始まる戦いも含めて
数回勝たなければいけない。
なおかつ、それを勝ち抜いても、
1000円しかもらえない。
大げさな金額差かもしれませんが、
心理的には、それくらいの差は、
あるように思います。
心での感じ方を変えれば、
つまり、勝った後の結果にとらわれず、
戦えること自体を楽しめたり、喜ぶことも出来れば、
まだ試合が出来るんだ、ちっちゃいチャンスかもしれないけど、
力を出し切って戦ってみようと思うことも出来る。
いずれにしろ、気持ちの切り替え。
ご褒美っていうのは、
いいモチベーションの原因にもなるけど、
手に入れられなかった時には、
かえってダメなモチベーションになるんでしょうね。
どうせ、...みたいに。
がんばっていても、
がんばっていなくても、
自分と他人の差は、
よく見えたりするものです。
その差が見えたことで、
プレッシャーやストレスを感じるのは、
きっと、少しでも向上心のある証拠だ。
ただ、そのプレッシャーやストレスが、
自分に対して、必ずしも良く働くとは限らない。
もし、その差が以前から分かっていて、
それに対して、
試みていることがあって、
発展途中であるならば、
今分かったことは、とりあえず参考とし、
今やっていることを継続して、
少しでも縮めていく必要があるだろう。
しかし、今試みていることが、
まったく次元の違う話で、
そんなことを継続しても全く意味がない、
というのであれば、
やることを変えていかなくちゃいけない。
問題になるのは、
何は変えなくても大丈夫で、
何は変えなければいけないのか。
プレッシャーやストレスを感じすぎて、
変えなくてもいいものまで、
めちゃくちゃに変えようとしてしまうケース、
というのはあるように思う。
向上心は必要だけれど、冷静さも必要だ。
それまでも失ってしまうと、
積み重ねたものが何もかも
失われてしまう。
もちろん、差なんかどうでもいい。
気にしないで、楽しめさえすればいい、
とあきらめて、楽しめる期間だけがんばり、
その後は、スッパリ止めてしまうという方法もある。
いずれにしろ、差を感じるっていうのは、
人の成長には欠かせないものらしい。
これから起こることの、
事の重大さに気づいて、
心の覚悟をするっていう時がある。
自分の大切な人に、
そんな重大なことが起こりそうだ、
と分かれば、覚悟をするように勧めて、
覚悟をさせたいと思うもの。
自分がすでに体験したことであればなおさら、
覚悟しなければ、どうなるかも知っているから、
しつこく、覚悟するように言いたくなるだろう。
しかしながら、本当の覚悟というものは、
他人からどんなに強く勧められたかで始まるものでなく、
自分の中の気づきがなければ、始まらない。
残念ながら、そういうものだ。
そして、もう1つは、
覚悟したからといって、
心配していたことを回避して、
自分の思うとおりに進ませることが
出来るとも限らない。
覚悟しなくても、うまくいくこともあれば、
覚悟しても、うまくいかないこともあるわけだ。
そこで思ったのだが、
覚悟をすることはもちろん大切だけれど、
覚悟以上に大切なのは、その大事な時に、
やれるだけのことをやれることじゃないだろうか。
だから、覚悟をさせれば、
その「やれるだけのことをやれる」力を出せるのであれば、
覚悟をさせればいいわけだが、
あまりにも、前情報を与えると、
かえって怖気づいて、いざという時にダメだ、
ということであれば、覚悟させるための情報なんか、
与えない方がいいとなる。
要は、人それぞれということだ。
覚悟することはいいことかもしれないが、
覚悟させることはいいことは限らない。