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常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

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2010年3月16日

目立たない方法

みんなが言い訳をしているときには、
言い訳をしない方が目立ってしまう。

誰も言い訳をしていないときには、
もちろん、言い訳をすると目立ってしまう。

むずかしいもので、
言い訳をすることで得をすることもあれば、

言い訳をすれば、
かえって損をすることもある。

要は、その言い訳に、
逃れさせてくれる要素が、
ハッキリと含まれているか、
っていうところ。

たとえば、

「うちの子供、
 まだ小さいので
 手がかかって」

みたいな言い訳をいったときに、

他の人たちにも、
同じような年代の子どもが
いるとしたら、

「何言ってるの、
 みんな同じでしょ」

という視線が
刺さってくることを感じるだろう。

今の時代でいえば、

「うちの母の介護をしないと
 いけないので」

みたいな言い訳にも、
どこの家にも、
介護しないといけない老親は、
一人くらいいますよ、
っていうことになるかもしれない。

「仕事が忙しくて」

これも、ダメだ。

だれの仕事だって、
忙しいんだ。
仕事に、終わりはない。
極めれば極めるほど、
やることは、どんどん増えてくる。

「ちょっと、カラダ具合が悪くて」

医師からの診断書でもあれば、
話は別だが、
自己申告だけでは、
なかなか信じてもらえないこともある。

いずれにしろ、
言い訳の使い方を間違うと、
かえって目立ってしまい、
逃れられるものも、
逃れられなくなる可能性大なのだ。

言い訳したいこと、
逃れたいことが1つ出てきて、
言い訳するか、そーっとしておくか、
どちらが目立たないか、検討中です。

困ったなぁ。

2010年3月13日

タテとヨコ

世の中、
タテのつながりと、
ヨコのつながり、
っていうものがあって、

タテというのは、
なんとなく、権力というか、
力の上下関係がいくらかでもある
ようなイメージにとらえられて、

ヨコというのは、
その力レベルが同じとか、
力関係がないところで、
役割や方向性が違うもの同士の関係、
というイメージを持っている。

どちらのつながりがいいか、
っていうのは、きっと、
人それぞれの個性や志向に関係していて、

その人がタテ社会で生きてきても、
やっぱり、ヨコにあこがれることもあれば、

タテ社会に慣れているから、
タテのつながりのほうが気楽だ、
っていう人もいます。

ヨコのつながりについては、
だいたいにおいて、依存しなければ、
タテほどのしがらみは生まれにくいから、
そんなに息苦しくはないかもしれないけれど、

場合によっては、
求心力を失い、
力が分散してしまって、
うまくいかない、
っていうこともあるんでしょう。

だからっていうことで、
もっと堅固な組織を作ろうと、
「力」が入り込んでしまうと、
ヨコ社会が、いつの間にか、
タテ社会になっていくということもありえる。

何らかの力がないと、
人は、まとまらない。

けれど、力が入りすぎると、
そのまとまりは、カタチだけのものに、
なりやすい。あるいは、
その力から逃げていく人を増やしてしまう。

タテとヨコのつながり、
そこに、どれだけの力を注ぎ込むか。

現代人は、自由な傾向があるゆえに、
意外と、むずかしいなぁ、と感じる今日この頃です。

2010年3月11日

道具選び、道具作り

いい仕事をするためには、
自分がやりやすい仕事を
させてくれる道具の存在がとても大切。

道具探しを始めると、
なかなかおわらなくなる。
納得のいく道具に出会うことなんて
めったにないからだ。

道具は、仕事をするための
ものだけれど、
道具探しだけで、
一つの立派な仕事になってしまう。

それに、いくらでも
時間をかけることが
出来てしまうくらい、
道具の世界は深いです。

さらには、
しっくりとした道具が
見つからないときもある。

困ったもので、
そんな時には
自分で道具を作るか、
適当なところで
てきとうな道具に
妥協していくしかない。

わたしの仕事の道具といえば、
やっぱり、パソコンで、
仕事がやりやすくなければ、
いくら安くても、
いくら高くても、
いくら軽くても、
いくらカッコよくても、
意味がないということになる。

ついでに、
ネット上の仕事が増えているので、

必要なサイトへ即アクセスするために、
自分だけの「スタートページ」を作っているわけですが、
その良さが、かなり重要になってきます。

これも、
なかなか満足するページは、
作れないのが現実です。

いつも進化させています。
これまでは、クリックするリンクだけを
配置したページでしたが、

今は、いくらか情報が見られないと、
やってられない。仕事が進められない。

今朝の時点では、
こんな感じのトップページになっています。

startpage
(他人から見れば、きっと、訳が分からない)

ツイッター情報が、
Hootsuiteで見られるように
なっているばかりでなく、

必要なリンクへも飛んでいけるよう、
目に入り込んでくるつくりです。

いずれにしろ、
いい道具探し、いい道具つくりは、
難しい。

きっと、それは、
仕事そのものが、
いつも進化していくもの
だからでしょうね。

今日も、仕事、がんばるぞ。

2010年3月 9日

ナンバー2も難しい

もうすっかり、
バンクーバーオリンピックの
空気は、ぶっ飛んでいる世間。

金メダル、金メダルと
騒いでいた世間も、
この国日本では、もう騒がない。

ほかの国々はどうだろう?

金メダルをとった人は、
今なお、ヒーロー扱いかな。

いろんな場面で、
引っ張りだこかな。

そんな中、
銀メダルっていうのは、
どうなんだろう?

2番手、っていうのは、
なにかいいことあるんだろうか?

ナンバー1というのは、
注目の的にもなるけれど、
嫉妬のターゲットにもなる。

足を引っ張られることもある。

そこにいくと、
ナンバー2というのは、
微妙に、同情されたり、
共感をもらえたりするところも多い。

年末恒例の漫才グランプリを決める、M-1。
2008に、チャンピオンになったのは、
NON STYLE(ノンスタイル)だったけれど、

年を明けてからの2009年という
1年をふりかえってみれば、
2位だった、オードリーのほうが、
注目された。

これは、2番手だったから、
というわけでもないだろうけど、

2番手でも十分に、
何かいいことがある、
っていう、一つの証拠だ。

これに限らず、
いろんな歴史を
ひもといてみても、
ナンバー2が、
うまく世渡りしていることは、
少なくない。

きっと、ナンバー1、頂点に立てる人は、
かなり個性的で、敵をつくってしまうタイプが
多いのに対して、

ナンバー2という立場の人は、
そういう人たちの下で、
いろんな対応能力を養っていくだろうから、
柔軟性があるかもしれないな。

ナンバー1がねらえなくなってきた自分を感じたら、
ナンバー2をねらっていこう、なんて考えている最近です。
でも、実際は、ナンバー2も難しいんだな。

ナンバー3、ナンバー4くらいになってしまいそうだ。

2010年3月 6日

マニアック

買っている本なんかに、
その人の嗜好が表れるのは、
当然といえば当然だろうけど、

掃除をする、という仕事ひとつをとってみても、
性格が表れるなぁ、ってことを思った。

なんていうか、
マニアックな掃除をする人と、
一般的な掃除をする人と、
っていうのがいると思う。

一般的な掃除っていうのは、
たとえば、その人の玄関に入ったときには、
とりあえず、見えるところが、
それなりにきれいなんだろうと想像する。

マニアックな掃除をする人は、
下手すると、玄関からのそういう眺めは、
それほどきれいじゃなくても、
家の中の、あるポイントだけは、
むしょうにきれいだ、という感じ。

それは、気になったところを、
そこだけ、とことんやってしまう、
という性格だからでしょう。

その「気になる」ところが、
その時々、移り変わって、
そのうち、全体を移り変わるようなものであれば、
結果的には、全体がきれいになるはずなのですが、

そういう全体にいくまえに、
とても細かいところだけに熱中する傾向があれば、

やっぱり、ポイントポイントしか
きれいになることができず、
全体的に見れば、ところどころに、
きれいじゃないところが残るわけです。

玄関に入ったときには、
なんだか、汚れているところが、
目に入ってくる、という感じ。

なにかを始めると、
思わず、マニアックになってしまう人にとっては、
しょうがない現象なんでしょうね。

全体を、さーっと出来ない性格。

うーん、そういわれてみれば、
私にも、その気があるので、
全体を見る目を失っちゃいけない、
と思う今日この頃です。

2010年3月 3日

流行色

流行色っていうのが、
流行色情報センターというのがあって、
そこから発信(提案?)」されている、
というのを聞いて、

自然に流行しているわけじゃない、
ことを知って、びっくりしたことがあります。

決められた流行色っていうのが、
本当に流行するっていうのは、
なんとなく、面白いというか、
おかしい、という気もしますが、

それに従う人間のほうも
面白いって感じます。

流行は、いつも変わっていきますから、
それを作り出せる人、
それを提案して従わせらえれる人って、
やっぱり、すごいかもなぁ、とも思います。

話の話題、流行をつくれる人も、
すごいなって思います。

ある瞬間に、
刺激的で、新鮮な話題が、
いつまでもずーっと
そういう印象を与え続けられることは
ありませんからね。

変わっていくものをつくれないと、
流行をつくっていながら、
いつの間にか、
流行遅れになってしまうわけです。
流行っていうのがあるから、

Twitterでの話題の変化を見ると、
そんなことを、強く感じます。

オリンピックの話題が盛り上がっていた流れは、
急激に、別のものに変わり、

地域活性化でマスコミに取り上げられて、
盛り上がっていた話題も、
イベントが終われば、急激に収束する。

話題の流動性。

なにが次にヒットするか分からない。

だから、次々と話題をつくっていったほうがいい。
何が流行するかなんて、一人の頭のなかでは、
分かりきれない。

ふつうであれば、ヒットするはずの話題が、
そのときに、芸能人の離婚とか、
大きな災害事故があったりすると、
埋もれてしまう。

世の中、カオス(混沌)状態。
だから、面白い。流行も変わる。

人間は、そのなかで生きていかなくちゃいけない。
人間って、すごいな。

2010年3月 1日

受験イベント

本当は、受験なんかで
人生は決まっていないかもしれないけれど、
その時分には、それが、
その時の行き先を決めてしまうように思われてしまうから、
やっぱり、熱中してしまう、受験イベント。

うちの長女の受験本番も、
あと4日と迫ってきた。

家族みんなで、
その長女の勉強しやすい環境を
整えようと、がんばっている。

正確にいえば、
その父親と母親だけで気遣っていて、
次女と三女は、いつもと変わらない生活ぶりだから、
邪魔にならないよう、統制している感じになる。

それで、インフルエンザの影響で、
金曜日から今日までの休みらしく、
4日連休だから、

本人の精神力が試されている感じがする。

学校にいえれば、
おのずと、勉強する雰囲気だろうが、
自宅では、そうはいかない。

自分の思いを
どれだけ勉強へ向けさせることができるか。

もちろん、ここ数日で、
すんごく実力アップすることはないけど、
メンタルをキープすることは大切ですから。

昨日のバンクーバーオリンピック、
パシュート女子において、
日本が、金メダルを逃してしまったように、
最後の最後に、何があるか分からない。

最後の最後まで、
気を抜かないっていうのは、
自分という人間、
あるいはテストという魔物が
どんなものか分かっていないと、
できないことだと思います。

ホントだよ。
最後の、最後まで、
何が起こるか、人生は分からない。

あと4日、みんなでがんばるべ。

2010年2月27日

4年に1度の奇跡

4年に1度のオリンピックって、なんだろうなぁ。

って、昨日の、
真央ちゃんの銀メダルの演技を見ていて、
そう思いました。

前回のトリノオリンピックは、
年齢制限で出場できなかった彼女。
今は、あの頃のような子供っぽさがなくなって、
プレッシャーや、新たな課題にぶち当たってる様子。

一方のキム・ヨナ選手は、
この4年間で栄光を手にした。

4年ってなんかすごい。

圧倒されてしまいました。

人の人生は、4年で、
全然分からないものに
変わっていく。

真央ちゃんが登場したときには、
この子が、世界の舞台でも、
金メダルを約束された人間になるんだろうなぁ、
っていう空気や成績を残していた気がします。

マスコミ報道によれば、
キム・ヨナ選手でさえ、
「この子ってすごいな」
と感じていたくらいだから。

4年に1度のオリンピック。
選手生命のピークが、
この4年というリズムに合わなければ、
もしかしたら、
縁のない大会になるかもしれない。

残念ながら、
この世界の大会に、
焦点を当てられるかどうかで、

世の中からの注目度も
変わってしまう。

さらには、人生の行く末も
変わってしまう。

ただ、
オリンピックしか、
人生の舞台といえないか、
といえば、そうじゃない。

ほとんの人間にとっては、
オリンピックという舞台は、
関係なく、生きていくわけですからね。

見ることは、たくさんあっても。

4年に1度って何だろう?

答えが出ないまま、
バンクーバーオリンピックが終わりそうです。

ついでに、真央ちゃんの演技が終わったら、
あんまり、オリンピックを見たい気がなくなってしまった。

真央ちゃんが、
しばらく経ってから冷静になって、
本当に、もう4年先を目指すのか、
よく分からないけれど、

その4年先に、
金メダルが必ず約束されているわけでもなく、
万が一、キム・ヨナほどのライバル
(今回は、そう呼べないほどの点差だけど)
が登場しなければ、仮に、
金メダルをとっても、なんとなく、
出来レースみたいで、虚しいかもな、っていう気がします。

4年に1度、わたしの4年後は、どうなっているんだろうなぁ?
なんか、わたしも、奇跡をつくりたいな。

2010年2月22日

頭をやわらかく

これは、
絶対に食べれない、

これは、
絶対にできない、

この人のことを、、
絶対に好きになれない。

こういう絶対が、
若いうちに、たくさんできてしまうと、
年をとってから、大変だろうな、と思う。

そういう私も、
そういう嫌いを、
いっぱい抱えて、
40代になっている気がする。

嫌いが増えると、
頭が固くなるんです。

その代わり、
そういう嫌いを、
いかにも正当化するような、
言葉の表現だけは、

柔軟に、たくさん持てるように
なっているから、けっこう不思議。

頭は固いけれど、
言い訳のレパートリーだけは、
どんどん増えている。

逆に考えると、
本当のところは、
まだまだ、
やわらかい部分があるんだ。

自分が嫌いだ、
嫌だ、と感じない部分については、
やわらかくなれる。

正当化しようとしていることを、
自分では、うまくいった、
と思っていても、

論理的に考えながら、
聞いている人には、
もろにバレてしまう。

それに気づかないでいる、
頭の固さは、もっと情けない。

絶対という言葉を、
ちょっとずつ少なくしたいな。

今からでも、
間に合うんだろうか。

今朝の、バンクーバーオリンピック。
やっぱり、カーリング女子がやってくれた。

0-6から、逆転して、追いつかれて、延長戦。
そして、最後の最後の一投げで、
また、勝利を引き寄せた。すごいな。

大量リードされていても、
絶対に負けるなんて、ないんだな。

今日も、みんな、がんばろう。

2010年2月21日

カーリング

昨日は、今回のバンクーバーオリンピックのなかで、
一番、テレビを見た1日だった。

カーリング女子。

日本勢が苦戦しながらも、
なにかしら、がんばっているニュースが
耳に入ってくることが多かったので、

休みの昨日は、
なんとなく、テレビにスイッチが入った。

対イギリス。
後半で、リードしているシーンが、
映し出される。

ストーンと呼ばれる、
すべる石が、ハウス(円)というエリア内に、
押し出されては残り、
押し出されては残り、
という作戦の応酬。

後攻チームの最後の一投げで、
試合結果が決まる。

スポーツのようで、
なんだか、チェスや囲碁のような、
感覚に魅入られてしまいました。

カーリングって、
けっこう面白いな、と。

きっと、このスポーツ。
昨日の試合風景で、
ちょっと話題になるんじゃないか、
と思います。

今後の試合で、
ますます、いい成績を残して、
予選突破。4チームが残る、
決勝トーナメントに進めば、
これはブームが起きるだろうなぁ。

とは言っても、
現在2勝2敗で、5位タイ。
残り4試合で、
5勝4敗、もしくは、
6勝3敗にしないと、
可能性が低い状況ですから、
かなり大変な感じです。

でも、なんとか、がんばってほしいなぁ。

カーリングを見ていて、
後攻、後攻め、の大切さ、
っていうのは、なんか、考えさせられました。

ホントに、一投げで、
ガラっと変わりましたからね。
ある意味、マジックでした。

イギリスのイヴ・ミュアヘッド選手(Eve Muirhead)も、
なんだか、知的で、きれいで、試合結果と同様、
印象に残りました。

日本、がんばれ!

2010年2月20日

友だちは、無限にいるかもしれない

ツイッター生活が、
だいぶ板についてきた感じがする。

仕事でパソコンの前に座りながら、
あるいは、移動中にiPod touchを見ながら、

どこにいるかは
ハッキリしないけれど、
ゆるくつながっている人々の
ツイートを見て、

情報を、話を、
読んでいる。

限られた人と、
会うことばかりの日常は、
やっぱり、限られた世界に
なってしまう。

だからといって、
情報ばかりがたくさん入ってきて、
処理しきれないこともあるのは事実だけど、

限られた人以外の人との接点を
つくるうえでは、ツイッターは、
けっこう便利だと感じている。

それが、
本当の友だちっていうことでなく、
ゆるく「つながる」という状態が、
なんか、いいように思う。

友だちでいましょ、
とキツイ約束を作るのは、
ちょっと重い。

けれど、いつかは、
離れるかもしれないな、
くらいの感覚で、
ゆるくつながっていて、

その人の言葉とか、
発信される情報を見ているのは、
ちょっと、心地いい。

そういうことを期待して、
つながっている相手から、
あんまり情報がないと、
ちょっとつまらなくなるのも事実。

そうなったときには、
ゆるい「つながり」を
チョキンと切る。
(ツイッター用語でいえば、フォローを解除)

あんまり、罪悪感もない。

本当の友だちとの関係であれば、
そんな一方的な「切り方」は、
ひどいということになるだろうが、

ツイッターは、そうじゃないのだ。

世の中には、自分の友だちになってくれそうな人が、
無限にいるかもしれない、そんな気を起こさせてくれる。
それが、ツイッターの魅力かもしれない。

2010年2月17日

能力の出番

一人の人間には、
いろんな能力があります。

自分自身のなかで、
この能力は好きだけれど、
あっちの能力はあんまり好きじゃないし、
活かしたくないと思っていても、

世の中のニーズに
あっているのが、
あっちの能力だとすれば、
それを使わざるを得ない。

そうでないと、
メシを食っていけなくなったりする。

自分で気に入っている能力が、
必ずしも、社会から今すぐ評価されるとは限らない。

時間が必要なこともある。

否定するわけじゃない。
その「時」がくるまで、
能力を育み、がんばっていれば
いいだけのことなのだ。

それが、
一人でない場合、
チームの時にはどうだろうか。

いろんな能力、才能が、
きっと集まっているはず。

ある時期には、
AさんのXという才能が、
注目されて、
利益を生む時期があるかもしれない。

けれど、
時代が変われば、
BさんのYという能力が、
ニーズにあっていくことになり、
Aさんはサポートに回らなければ
いけないってこともあるだろう。

そして、CさんのZという能力が、
花開く時期もくるに違いない。

大切なのは、
それぞれの能力を、
それぞれが伸ばすように
がんばっていること。

そして、それが活かされる時期は、
それぞれに違っているから、

比べる必要もなければ、
優越感を感じる必要もなく、
卑下する必要もなく、
その時その時にできることを
やっていればいいのだ。

時代は、必ず変わる。

どの能力が、
今の社会で高く買ってもらえるか、
評価されるかを考えて、
自分のこと、仲間のこと、家族のことを
決めていくのは、賢明だと思う。

今の自分は必要ないと感じても、
それは、今ということなのだから、
あくまで、才能を伸ばすことを休んではいけない。

2010年2月15日

ずるずる

今まで、すごくがんばっていたことを、
あきらめる、という決断をするのは、
とても難しいことだなって思います。

それは、
あきらめるのが、
もったいないから、
という気持ちが一番。

と同時に、
まだ、通用するんじゃないかな、
っていう期待が二番目。

せっかく、今までがんばってきたことを...

という気持ちを捨て去るのはねぇ。

きっと、仕事やスポーツに限らず、
恋愛とか、結婚生活とかだって、
そういう「がんばり」をあきらめる、
っていうのは、難しい。

もう、いいや、
ってあきらめがついてしまえば、
きれいさっぱり、できるかもしれないけど、
そこの気持ちに至るまでは、

もうどうしようもない、
という結果をまざまざと見ないと、
きっと無理なんです。

人によっては、
ちょっとした兆しを見るだけで、
上手にあきらめる人もいるようですがね。

わたしは、それができているかな、
って思います。

そういうことを考えれば、
朝青龍は、まだ、
上手にあきらめた部類に入る気がします。

ふつうは、って言ったら、
おかしいかもしれないけれど、
もっと、もっと、
あきらめきれないで、
ボロボロになるまでがんばる姿を
痛々しいほどに、みんなに見せて、
やっと、あきらめることのほうが
多いかもしれない。

もちろん、そういう生き方も、
否定しないけれど、

ボロボロになるまで
がんばる姿の代わりに、
同じ時間を、もっと他のこと、
新しい何かに注ぐことができたら、

何らかの別のかたちを
こしらえることができたかもしれない、
そんなふうにも思います。

ずるずると引きずらないことができるのか。
うーん、なんか、自信ない。

けっこう、じたばたしている気がする。
いろんなことに対して。

潔さが欲しいところです。

2010年2月11日

寄り道好き

他人から見れば、
すごい、寄り道好き、
に見えても、
本人は、意外と自覚がないもんです。

というのは、本人は、
それを寄り道なんて
思っていないから。

寄り道=関係ないこと、
だと思われているとすれば、

まわりから見れば、
「寄り道」に見えることも、
本人には、かなり必要なこと
だったりするわけです。

それは、いくら、
その「不必要さ」を
説明されても、納得することはありません。

とにかく、必要なんです。
寄り道じゃない。

いくら時間がかかろうと、
そんなことをしている暇なんか
ないくらいに、切羽詰まっている状況でも、

思いついた、そのことを、
とことんやり遂げないことには、
次に突き進めない、
という心理状況です、本人は。

わたしにも、そういうところがあるので、
われながら、面倒な性格だなって思います。

寄り道か、寄り道じゃないかを、
多数決で決めても、これまたしょうがない。

それこそ、
他人の行動の良し悪しを、
論じていることこそが、
寄り道じゃないか、と逆襲されかねません。

寄り道=必要ないこと、
とどうしても定義したいのであれば、

他人をとやかく言うこと=必要ないこと=寄り道、
という定義も、追加したほうがいいでしょう。

自分が、そんな寄り道好きなのに、
他人の、寄り道好きを批判する権利はないな。
わたしも、ふかーく自戒だ。

2010年2月10日

予期せぬ行動を心配

他人の予期せぬ行動について
心配を始めると、キリがありません。

こういうことをするんじゃないか、
ああいうことをするんじゃないか、
今度は、それを...

なぜ、心配するのか、
といえば、自分のなかに、

こんなふうに進めたい、
こんなふうに終わらせたい、

という強い願望、
時には、わがままがあるからなんですよね。

けれど、そんな願望があろうと、
わがままであろうと、

他人の思いや行動までは、
コントロールできない。
できるわけがない。

他人の行動に対して、
こちらが勝手な願望やリクエストを
抱いたとしても、

それを伝えて、
納得してもらえない限りは、
行動は変えられない。
変えてもらえない。

そういうわけです。

そういうことが分かっているのなら、
他人の行動に対して、
それほど期待しなければいいのに、

人間は、どうしても、
期待をやめられない生きもの。

期待を食べて、生きているような感じ。

自分が努力した上での期待であれば、
まだマシですが、何の努力もしていないのに、
勝手に期待している場合もあります。

そうなると、
予期せぬ行動と言うよりも、
単なる「他人の行動」ということに
なりますがね。

心配するだけ、ムダ。
心配する気持ちが消えるよう、
心配するのに心が向かないよう、

夢中になれるものでも用意したほうがいい。

ああ、心配しない人間になりたい。

2010年2月 9日

うまくいくなー!

人間が、間違いなく、
小さいんでしょうね。

勝ち負けなんてものが
本当にあるかどうかも
分からないのですが、

他人がうまくいくことを
応援すればいいときに、
やっぱり、

「うまくいくな!」

なんて思ってしまうことが
ある自分に思います。

この人が、
ここで失敗してくれたら、
自分の勝ちだ、とか、

そうなれば、
自分が楽になれる、とか、

そういう時に、
他人を応援するっていうのは、
難しいもんです。

それくらいの器しかないから、
それくらいの成功、成長しか
手に入れられないのでしょうけど、

本当に、他人を応援できる人は、
エライなって思います。

間もなく始まる、
2010バンクーバーオリンピック。

スキー、スケートなどは、
自分のベストを出せるかどうかで、
勝敗が決まるところもありますが、

ライバルが失敗することで、
メダルの行方が決まる、
というのも事実です。

フィギュアスケートなんかで、
最初に、自分がそれなりにうまく滑れて、
あとで、ライバルが演技するというシーンにおいて、

もしも、ライバルのベスト記録が出されてしまえば、
負けるなんてことが分かっていたら、

失敗しろー!、
うまくいくなー!

なんて、心の願いが浮かんでこない
もんなんでしょうかね。

微妙な、心の状態であることは、
たしかだと思います。

もちろん、圧倒的な強さを見せつけられれば、

ああ、この人はすごいや。
かなわない!

という気持ちになるでしょうけれど、
ちょっとした違いで、勝敗が決まる、
と分かっているときには、
相手の、ちょっとしたミスが
ありがたかったりするかもしれない。

金メダルか、銀メダルか、
あるいは、メダルがあるか、ないか、
というシーンで、

ライバルのベストを応援するのって、
やっぱり、難しいと思ってしまう。

人間、ちっちゃいかな。
これじゃ、まだまだだ。

2010年2月 8日

黙ること

今は、
ちょっと黙っておこう、
という選択をするときに、

人は、
面倒くさいから黙ることもあれば、
黙っていた方が得そうだからということもある。

観察するために黙ることもあれば、
訳がわからなくて黙ることもある。

黙っているときに、
その人が発しているメッセージは、

しゃべりたくない、

と単純にとられがちのことも
あるけれど、黙るには、
いろいろな種類があるもんだな、
って思います。

そして、
コミュニケーションにおいて、
この「黙る」という選択を
上手にできる人は、

人のことを理解し、
人に理解されやすいという気もする。

ずーっと黙っているわけでもない。
かといって、ずーっとしゃべっているわけでもない。

必要なときに、
「黙る」ことができる。

これって、けっこう大切だな、
と思う。

人は、しゃべるようにできていて、
黙るようにもできている。

だから、
この2つを使いこなして初めて、
「人」になれるんじゃないだろうか。

使いこなせないうちは、
いろんな問題があるんだろうな。

私の前にも、そういうわけで、
いろんな問題がありそう...

2010年2月 5日

早起き

早起きが、
苦にならない人、

早起きが、
ものすごく苦手な人。

世の中の人々を、
この2つだけに分類するとしたら、
わたしは、間違いなく、
早起きが苦にならない側に
含まれる。

自分でも、
不思議なくらい、
苦にならない。

自然に、起きてしまうから、
しょうがない。

夜更かししたり、
体調が悪くなければ、
遅くとも、5:30には起きている。
(ふつうは、4:30~5:00の間)

それだけ早く、
起きて、何か世の中のために
なっていたかといえば、

自分の自由時間が増えて、
自分で楽しんでいただけのことで、
それじゃあ、あんまり意味なかったのかもしれない。

今週は、その早起きの時間を利用して、
朝食づくりの手伝いをしている。

30分ほどの手伝い。
今朝は、4:30頃に起きていたから、
その時間から、30分ほど使っても、
なんのことはない。
十分に、自分の時間が残ってる。

電子レンジで、おひたしをつくって、
ガスコンロでは、豆腐とネギのみそ汁を作り、
おひたしの上に、ちょっと飾りのようにおく、
炒り卵を、フライパンでつくって、
あとは、納豆を用意するだけだった今朝。

今朝は、-6℃という気温だったから、
あたたかいみそ汁を飲ませて、
娘たちを学校に行かせられることが、
なんだか、嬉しかったです。

早起きの時間を、
こんなふうに使えば、
ちょっとは、家族のためになって、
家族が1日元気に過ごせれば、
その家族から何かしらエネルギーを
もらえる人たちもいるかもしれない。

わたしも、朝食をちゃんと食べたから、
今日も1日がんばるぞ。

2010年2月 3日

プロの言い訳

プロの人が、
言い訳をする姿は、
きっと、みっともない、
というふうに見えるだろうけれど、

本当のプロの言い訳は、
もしかしたら、かっこいいかもしれない。

たとえば、
「言い訳しません」
と言葉を発するだけで、

おぉーー、さすが、

ということになって、批判の矛先が
下げられるかもしれないから。

でも、言い訳しません、
っていうことが、
その追求から逃れる
一番の言い訳かもしれないですからね。

そういうことが、
多くの人に知られてくると、
毎回、
「言い訳しません」
という言葉は使えなくなる。

「また、言い訳しませんで、済ませる気か!?」

という批判されることだって、
ありえますからね。

プロじゃない人は、
言い訳と分かることを、
ぬけぬけと言ってしまう。

プロの人は、
言い訳と分からないことを、
するっと言って、矛先をかわし、
その言い訳が進化している。

いずれにしろ、
プロは進化しているんだと思います。

言い訳のプロになりたい、笑。

2010年1月31日

ガマンの秒読み

あと、3日で終わるから、
ガマンしよう、みたいな「心のごほうび」で、
乗り越えられるものがある。

その、あと3日が、
あと1週間になったり、
あと1ヶ月になったり、
あと半年になったりすることもあって、

人がガマンするものの期間は、
人それぞれですが、
ガマンの秒読みが明けたときには、
ほんとうに解放感に満たされます。

時には、秒読みの間に、
ガマンするような苦痛が全くなくなり、
楽になること、逆に楽しくなることもあります。

何事も、最初の「ガマン」と印象が、
ずーっと続くとは限らない。

どこかで、気持ちは、
変わる可能性がある。

いずにしろ、
ガマンは変わっていく。

インターネットで買い物をする際に、
必ず、パスワードを要求されるものですが、
いろんなサイトを利用しているうちに、

しばらく利用していなかったサイトの
パスワードを忘れることがあります。

その際、
パスワードを再設定するか、
パスワードを再送信してもらうために、

自分だけが知っている質問の答えを
尋ねられたりするのですが、昨日も、
ちょうど、そんなシーンになりました。

その質問は、

人生は?

というもの。

うーん、しばらく、
その答えが思い浮かばない。

かれこれ、5年?、8年?ほど
使っていないサイト。

その時、人生をどう思っていたかな。

ためしに、

試行錯誤

と入れる。

ブー。

なんだろう?
じゃあ、

楽しい

かな。

ピンポーンだった。

ああ、当時は、単純に、楽しかったんだろうな。
あるいは、プラス思考で、そう思うようにしていたのかな。

今は、試行錯誤が、本音な私なのでしょう。

ガマンは始まったばかりか、
間もなく終わるところか、
分かりませんが、
必ず、終わるときが来るのです。
そればかりが、救いです。(笑)

2010年1月23日

49回目の失敗

自分だけでやれることは、
失敗する回数がそれほど多くなることは
ありませんが、

自分以外の誰かがからんだり、
いっしょに何かをするとなると、
とたんに、失敗の回数が増えます。

チームワークが下手なのか、
それとも、人の頭が増えると、
必然的に、そういうふうになっているのか。

今やっている事業?も、
かれこれ、失敗の回数を数えていたら、
49回くらいにはなっているんじゃないか、
という気がしています。

できれば、とうの昔に、
やめたいと思うことなのですが、
私にとっては数少ない「しがらみ」上の問題で、
どうしてもやらざるを得ない。

これだけ失敗が重なれば、
次は、50回目だ、なんて思う余裕も
ちょっとは残っていますが、

本音のところでは、
もう失敗に悩まされなくない、
という気持ちもあります。

チームはいっしょでも、
いろんな個性の人がいて、

才能はとてもあるんだけど、
ふだんは、ボーっとしている人や、

才能どうのこうのの前に、
目の前の問題にとらわれすぎて、
ささやかな能力ですら
発揮するのが難しい人、

とにかく、不平・不満を並べる、
気分屋の人、

コミュニケーション能力が
まだまだ足りない人、

いろいろいます。

それに加えて、私自身も、
まったく問題がない、
というわけじゃないので、

みんなの、いろんな問題がミックスして、
事業は、停滞してしまうのです。

ああ、なんで、こうなんだろう?

なんで、を考えてしまうと、
問題の本質も見えなくなったりするわけで、

失敗を何度も経験するのは
いい経験ではありますが、

しすぎると、見えなくなりすぎて、
さらに、失敗を重ねる危険性もあるな、
っていうことを感じました。

こんだけ失敗しているから、
ある意味、プロと言い張りたいところですが、
まだまだ、なにか不足しているから、
失敗しているのでしょう。

いつまで、失敗するのか。
ちょっと考え込むときもあります。

2010年1月22日

反省スパン

人が自分の仕事や、
出来事などを振り返るときに、
そのスパン(期間)というのは、
いろいろな長さがあると思う。

1日、1週間、1ヶ月、1年、10年、一生...

などなど。

待てないタイプの人間は、
やっぱり、
1日1日を振り返って、
次を考えたりしないと、
きっと、落ち着かないんだろうと思う。

その上、もしかしたら、
1日についての報酬というか、
見返り、リターンも、
その日に返ってきたり、もらわないと、
安心できない、もしくは実感できない、
という場合もあるかもしれない。

逆に、待てる、ということは、
その待てる期間の分だけ、
何も得るものがなくても、
冷静でいられる、ということになるかな。

1日しか待てない人は、
1週間待てる人とは
うまくいかないかもしれない。

1週間を待てる人は、
今日の結果だけでは、
動こうとしないこともあるだろう。

株にたとえれば、
株の値段が、
上がったり、下がったりという、
1日の小さな動きには、
微動だにせず、
長い目で見た動きに対して、
対応する感じかな。

変化があっても、
どれだけ待てるか。
どういう変化に対応するか、
その違いは、かなり大きい。

同じくらい待てる人と、
いっしょになればいいのか、
刺激と視点を楽しむために、
自分とは違う人といっしょになればいいのか、

時間の進み方が違うだけに、
その選択は、けっこう難しいように思います。

ただ、分かっているのは、
今日のことの見返りを、今日求める人は、
結果的に、もらいが少なくなるか、
落ち着かなくなることが多い、ということかな。

2010年1月19日

仕事の邪魔

ものが壊れて
修理をしなくちゃいけなくなったり、

不足しているものに気づいて
それを取りに行ったり、
買いに行ったり、

そんな突然の雑用が、
せっかくスムーズに進んでいる仕事を
邪魔したりします。

雑用以外のものとしては、
重要なミーティングもあるけれど、
たいしたことのないミーティング。
あるいは、電話、メールの相手。
実際、ここの判断は難しいんですよね。

今という瞬間を見れば、
仕事の邪魔に思えそうなんですが、
後々のことを考えれば、
その応対をするのがとても重要だったりする。

あとは、個人的な悩み、行き詰まりでしょうね。
仕事を始める前にあった出来事に、
あるいは仕事中に感じた不快感とかに、
心がとらわれて、仕事そのものに
集中できなくなること。

仕事の邪魔として、思い浮かぶのは、
突然の雑用、無用のミーティング、個人的な悩み、
この3つです。

そして、これらは、きっと、
永遠になくならないんじゃないか、
と思います。

それらに対してできることは、
それらと、いつ、どれくらいの時間向き合うか、
という優先順位づけと、時間の配分スケジュール、
くらいでしょう。

邪魔だからといって、
放っておくと、場合によっては、
さらに大きな問題を生み出す。

あまりにも付き合う時間を長くすると、
本業に手をつけられなくなる。

100%完璧な解決は目指さずに、
80%くらいの解決を見たら、
次に進むくらいの気持ちでいいと
私は思っています。

邪魔されたからといって、
ムキになって必死になると、
ハマってしまいますからね。

邪魔されるもの、これも、
人生には重要だ。

ほどほどに付き合えるようになりたいものです。

2010年1月14日

ライバルはありがたい

本音の本音。
ライバルの存在って、
本当にありがたいと思えるか。

たとえば、スポーツのチームにおいてでも、
国でも、地域でも、どういう区分でもいいのですが、
そのところの代表(レギュラーとか)になるためには、

そこにおいてダントツに強いか、
まわりが弱いか、
そのいずれかでないと、
自分は代表にはなれません。

強いライバルがたくさんいるチームにいると、
自分も強くなれるのは
間違いありませんが、

まわりも強いだけに、
自分は代表になれない
ということもありえます。

一方、弱いチームでは、
けっこう簡単に代表になれて、
それをきっかけに、
代表だけが集まるトーナメントや上部の大会に、
出場する機会が得られます。

その代わり、
弱いチームの環境に慣れてしまって、
たいした鍛錬を積んでいないから、
そういう上部の大会では、すぐに負けてしまう。

大きなジレンマですね。

強いところにいけば、
強くなれるけれど、
代表になれないかもしれない。
弱いところにいれば、
代表にはなれるかもしれないけれど、
強くなれない。

そのジレンマを乗り越えられないと、
変なジェラシーが出てくるかもしれない。

もしも、
強いチームの中で代表になれない時、
弱いチームの代表として
大会に出場できている人を見ると、

「なんで、こんな奴に、
 出場権があるんだ?」

みたいな気分にもなってくるから。

そんな状況など、いろいろ考えた上で、
本当に、ライバルの存在をありがたい、
と思えるか、となると、微妙な気がします。

結局は、自分の居場所を、
どういうところに置きたいと思っているか。

ライバルの多いところに、
突入していこうという覚悟は、
相当なものが必要だと思います。

ライバルがいて嬉しい、
なんて言える人は、
それだけ強い人です。

本年のところで、
言える人は、本当にわずかでしょう...

月刊 少年ライバル

月刊 少年ライバル 2010年 02月号 [雑誌]

2010年1月12日

あったことの扱い

人は、今自分がかかわっているものは、
幸せや成功に結びついてくれたら、
その扱いに困ることはない。

しかし、過去の自分がかかわっていたけれど、
捨ててしまったり離れてしまったものについては、
できれば、誰の幸せや成功にも
結びついてくれないほうが助かる。

というのは、
自分が捨ててしまったものが、
きっかけとなって、
幸せになった人、成功した人がいると、
心が揺れるんです。

ああ、捨てるんじゃなかった、
離れるんじゃなかった、と...。

でも、捨てたり、
離れてしまったことには、
ちゃんと理由があるから、

もう一度、手に入れられない現実も、
分かっている。だから、願うことは、
自分が捨ててしまったことは、
誰の幸せにも、成功にもかかわって欲しくない。

もしくは、今の自分が、
それ以上に幸せだったり、成功していればいい、
そうすれば、今かかわっているもの、
過去に捨ててしまったものの扱いに
困ることはないのです。

その2つを考えると、
捨ててしまったものについては、
心の中で縁がなかったのだとあきらめ、
今かかわっていることに、
あるいは、それも捨ててさらに新たなことに、
全力を注いで、幸せや成功に近づけるようにすればいい。

簡単にいえば、
嫉妬、ジェラシーという感情なんでしょうけど、
そういうものが湧いてこないためには、

知らなければいいことが存在します。

知ってしまうからこそ、
そういう感情に結びつく。

しかし、望まなくても、
知ってしまうこともある。

だったら、
「知らなかったことにする」
というアクションもあっていい。
それができるだけで、
心は、どれだけ楽になるか...

知らなかったことにする。
それも、一つの生きる道。

2010年1月11日

なんでも正解

人は、自分だけ正解、
というのが好きな時があるようです。

だから、
自分の生き様についても、
うまくいっていないと思いながら、
思わず、それを正しいと言いたくなる。good

他人から批判されそうな空気を
感じたときには、特にそう。ok

でも、生き方、人生に、
みんなに共通の正解なんて、
なかなか、ないことのほうが多い。coldsweats01

もちろん、原則的に、
共通したこともたくさんあるけれど、
人それぞれが選んだ、
そのぜんぶが、正解、ということもある。pass

そうではあるけれど、
何かしら、みんなと比べたり、
みんなに自分を表現しなくちゃ
いけないようなときには、

「自分だけ正解」spa

という立場をとってみたくなるわけです。

たとえば、
ずーっと独身を続けている人の中には、
独身が正解だという立場をとりたい人もいるだろうし、confident

かつて幸せな結婚期間があった人でも、
離婚してしまった人の中には、
結婚なんて損だと言いたい人もいるだろう。weep

結婚している人であれば、
たいへんな家族状況の中にありながらも
周囲には、そういうふうなところをまだ見せていない、
という人になると、やっぱり、結婚をいいと言うことが
正解に思えてしまうこともあるかもしれません。lovely

自分だけが正解、
そういう枠から外れて、

なんでも正解、
というときもあるんだ、
っていう思考回路。flairflairflair

こういうものを持っていないと、
生きるのは、苦しくなるかもしれない。

正しい原則をもちながらも、
柔軟に生きていくこと。
できたらいいなぁ...catface


2010年1月 8日

つながっているもの

本当は、
つながっているものを、
別々に見ると、
問題が小さく見えたりするもんです。

もちろん、
別々に見ていい時もあります。

反対に、問題のスケールが
どこまで広がっているかを見るためには、
つなげてみたほうがいいということになります。

企業会計の世界では、
連結決算なんていう言葉がありますが、
そのいい例でしょう。

それによって、
そのグループ全体として悪いのに、
1つの会社だけ悪そうに見させることが
できなくなるはずなのです。

もしかしたら、
家族という人間関係とか、
家計の状態にも、
それが当てはまるかも。

家族のなかで、
トラブルメーカーな人が、
外に出て行ったとします。

その人が、
しっかりと自立していれば、
何も問題はないのですが、

出て行った先で、
問題を山積み状態にしていたりすると、
にっちもさっちもいかなくなったときに、
再び、家族という組織に、
迷惑がかかることになります。

つながっているからには、
できるかぎり、心を配って、
問題の成り行きを眺めていないといけない。

自分だけが、
そこから開放された気になって、
自由に生きていたとしても、
つながっているものは、どこまで
つながっていたりするんです。

そして、つながっているからこそ、
ちょっと離して様子を見たりするのもあり。

つながったり、離れたり、
そのバランスで、人は、
成長していくのでしょう。

2010年1月 6日

責められ感

ちょっとした言葉でも、
何か自分が責められているように感じる。
そんな性格の人間は、ちょっと大変です。

実は、わたしにも、
そんなところがあって、

その責められ感を
感じたときにする行動は、
大きく分けて2つあるようです。
(なんか、他人事のようですが...
 きっと、いろんな人に共通かと思って)

1つは、
その責められるような状態(結果)を、
今すぐにでも、是正するようにする。

もう1つは、
絶対に、それは、自分のせいじゃないと弁明して、
真犯人を探そうとしたり、
真犯人と考えられる人を責めることに徹してしまう。

前者は、
責められてもたいしたことじゃないことまで、
ちゃんと是正しようとするから、
時間的にも、労力的にも、
ムダを生じたりします。

たいしたことじゃないんだから、
黙って、責められていればいいものを、
プライドとか、完ぺき主義が、
それをゆるさないでしょうね。

ちょっとくらい悪者になるっていうのが出来ない。
これが、一番の損かもしれませんね。

いいじゃないですか。
悪者、バンザイで。

そして、後者の、
ほかに責めるべきものを探す行為。
これも、キリがない。

真犯人がすぐに見つかるようなものなら
いいのですが、見つからないもの、
見つけてしょうがないものも意外と多く、

弁明や、そういう「探す」行動に、
時間や労力を使えば、
前者と同じムダが生じます。

責められ感は、
多くの人にとっても、
イヤなことでしょう。

できれば、だれからも
責められることなく、
生きていたいですからね。

でも、責められ感に強い人間に
なりたいな。時間のムダを減らすためにも。

2010年1月 1日

新年の妄想

妄想するのは、
わたしの自由だし、
誰にも迷惑をかけないことだから、

新年の朝に、
今年を妄想してみようと
思いました。

1月、
自分のやっている仕事に、
いろいろな紆余曲折がありながら、
ちょっとした光が見えてきて、
ワクワクしてくる。
三女のスキー教室をサポートするために、
スキー場に連れて行き、ちょっと練習。
長女の受験勉強を見守る。
次女の卓球上達を図るため、
わたしが太らないために、練習に付き合う。
妻とは、家のまわりの雪よせに励む。

2月、
長女の受験勉強が
ラストスパートに入る。
それに並んで、
私の仕事も、熱くなってくる。

3月、
長女、志望校に合格。準備に忙しい。
私の仕事は、ちょっとした軌道には乗るが、
業界の流れが速いだけに、
新たなチャレンジを続けていく。

4月、
長女、高校入学。
次女、中3生活スタート。
部活動の春季大会で、練習の成果を表す。
私の仕事は、どんどんん、進化をしていく。

5月...

と、ここまで書いてきて、
結局のところ、何月になっても、
いつになっても、チャレンジの日々なんだなぁ、
と感じました。

実際、そのはずです。

長女、次女ともに、
それぞれの環境で、
チャレンジしていかなければならない。

私も、それと同様なのです。

1年を通して、
その時期その時期に
なんらかのイベントはあるとして、
それに向けて、仕事にしろ、学校生活にしろ、
家庭生活にしろ、がんばるわけですが、

できるかぎりの進化、チャレンジをしていく。
これが、根底に必要なポリシーだと感じました。

新年も、がんばります。
みなさんへも、いい言葉で応援できたらと思います。

がんばるべ。

2009年12月31日

ボーダーライン

自分が、
がんばって節約している分野について、
ムダづかいしている人を見ると、
本気で腹が立つもんです。

こっちは、必死でやっているのに、
とんでもない、と。

けれど、
もしかしたら、
その人は、別の分野では、
わたし以上に、節約していたり、
気をつかっているかもしれない。
そうしたら、
きっと、私の方こそ、
イライラされていることでしょう。
(それは、お金であっても、
 水であっても、その他のものであっても...)

節約はある意味楽しいですが、
どこかで、やっぱりがんばっているから、
自分のことじゃない他人のことで
イライラしてしまう。
自分の管理下じゃないのに...

人は、どこかで、
ボーダーラインを引いたほうがいい。

これ以上は、気にしない、
これ以上は、怒らない、と。

そうしないと、
キリなく、怒ってしまう。
自分に関係ないことで。
(もちろん、地球人みな兄弟っていう
 発想からいえば、関係あるわけだけど...)

自分に関係ないことで、
怒ったときほど、
無理難題を押し付けてしまうのが人間。
がんばるのが
自分じゃないからだろう。

関係ないことには、
距離を置く。

そんなことより、
自分のがんばるべきことに、
心を向けるようにがんばる。

新年には、夢と目標に心を注いで、
心が散らされないようにしたいもんです。

2009年12月28日

3年結婚

物心のついた1年と、
物心のつかない1年では、
記憶の量も違えば、
時間の流れも
違うだろうなぁ、と思います。

だから、何かを
しなければならない、
という環境においては、

飽きるスピードまで
違うことでしょう。

たとえば、
小学校は6年間もあるけれど、
記憶がハッキリしないほど
幼い(?)から、

小学校生活が、
それほど飽きた、
という記憶は、
私の場合はありません。

娘たちにも聞いてみたが、
同感のようだ。

中学校は3年間で、
これがちょうどいいという気がする。
受験勉強には飽きるかもしれないが、
または、他の飽きる人間関係、
がんじがらめの校則とかあれば
同様に飽きるかもしれないが、
そんなもんだろうと思う。

高校の3年間も、
ギリギリじゃないだろうか。

しかし、
高校が5年間もあるとしたら、
いかにも飽きそうだ。

「高校が5年間」、
というこの言葉を書いただけで、
飽き飽きしてくる感じがあります。

もちろん、そこを振り返って、
とっても楽しかった思い出のある人で、
もっと高校生活を長く楽しみたかった、
という人でも、

実際に、3年を越えて、
5年も過ごしたら、
その感情が変わって、
3年くらいで終わればちょうどよかった、
となるかもしれません。

楽しかった、という思い出があるのは、
「楽しかった」という思いがある状態で
終わったから、そうなのです。

それ以上長くなれば、
その思いは変わるかもしれないんですから。

恋愛も、楽しかった、
という状態で終われば、
とても幸せですが、

そのあと結婚に至り、
お互いのよくないことが
見えるようになれば、
恋愛の楽しかった思い出も吹き飛ぶほど、

飽き飽きした、険悪な状態に
なることもあるわけで。

もしも、一人の人との結婚期間は、
3年まで、という自然のルールでも、
法律的な取り決めでもあったら、
結婚生活を楽しめる人は、
もっと多くなるんじゃないでしょうか。

ただ、3年結婚のルールでは、
子供を育てることができなくなりますね。(笑)

2009年12月26日

仕事が上手になるクリスマス

忙しいわりに、
なんだか、思考がまとまらず、
仕事のやり方がだらけてしまう
ようなことがあります。

しかし、同じような仕事をするというのに、
たとえば、昨日、おとといのように、
クリスマスだったりして、

ワクワクしているとき、
早く仕事を済ませて自由になりたいときには、
意外に、シャキシャキと仕事ができたりするもんです。

それが、気分だけの問題、
と済ませてしまえば、
ちょっとつまらないのですが、
思ったことが1つ。

なんか、うまくいかないこと。
だらけちゃってるなぁ、
と思ったときには、

ふだんのタイムテーブルじゃない、
新たなタイムテーブル、
あるいは、お試しタイムテーブルで、

生活してみればいいんだ、と。

たとえば、
翌日に書いていた、
仕事の日報とかを、
当日の最後に、夜遅くてもいいから、
仕上げてしまうとか。

朝の時間に、
時間をかけて行っていた情報収集を、

仕事の終わる、ちょっと前の夕方に、
終わらせてしまうとか。

そういう工夫で、
まず、朝の時間の余裕度が
変わってきます。

朝の時間に、
余裕度が出てくると、
あら、フシギ。

頭のなかまでも、
スッキリとしてきます。

たまっていたものがなくなって、
本当に「今日やりたいこと」
「今日やらなければいけないこと」に
集中できるようになっている。

これは、気持ちの問題もあるけれど、
一日のタイムテーブルを変えたから、
そうなったことなのだ。

1年、5年、10年と続けていることなら、
なおさら、変えたほうがいいと思います。

あと、もう一つは、
今の時代は、情報を集めることも、
立派な、1つの仕事。

それを、一日のいつごろに、
どれだけの時間をかけて行うか、
っていうこともポイントに思います。

タイムテーブルの最適化と、
情報収集を怠ると、
うまくいきません。

お休みのときにも、
どんなタイムテーブルにするかで、
楽しさが変わってくることでしょう。

休んだぁ~、という実感とかも。

今日は、土曜日。
2010年までカウントダウンだ。あと6日。

2009年12月24日

うまくいかないのは

うまくいかない、
って言葉を、喉の奥で
毎日くり返しているような気がします。

知らず知らずのうちに...

それは、いいことだろうか。
悪いことだろうか。
とふと考えてみた時に、

この「うまくいかない」のは、
意外と、いいことかもしれない、
という結論に落ち着きました。

まず、
なぜ、うまくいかないのか?

という問いには、
簡単な答えが待っています。

うまくいかない方法ばかり、
やっているから。

あるいは、
うまくいく方法までに
まだまだ経過しなければいけない、
いろんな方法が用意されているから。

そういうことです。

うまくいかないことが
続くことによって、
自分はどうなるか。

1つ、イライラします。
2つ、ガッカリします。
3つ、何がなんだか分からなくなります。
4つ、このくり返しです。

うまくいかないことで、
これだけの経験ができるのです。

反対に、うまくいってしまうと、

1つ、うれしくなる。
2つ、他のやる気も出てくる。
3つ、勢いで、いろんなことをがんばろうとする。
4つ、意外と、他のことがうまくいかず、
   最初の成功に甘んじる気持ちが起きてきて、だらけてくる。

そして、うまくいかないのは、
この「だらけ」が原因で、
うまくいく路線から外れてしまうのかも...

結局、うまくいこうが、
うまくいくまいが、
立ち向かっていけばいいのです。

うまくいかない時間は、
けっこう長いもんだ、と覚悟を決めて。
それで、短く済んだらラッキーということで...

2009年12月22日

1m50cmの雪よせ

男と女、
どっちが言い訳を
いいたがるかと言ったら、
やっぱり、男なんじゃないか、
と思います。

仕事がたて込んでいて、
やらなければいけないと思いつつ、
時間がすぎていくと、
家の用事なんかが
どんどん溜まっていきます。

何かと言い訳をして、
その用事をできないでいるのが現実。

今のわが家で言えば、
それは、積もりに積もった、
屋根の雪。

先週から1週間ほどで、
屋根には、60~70cmくらいの雪が
積もっているように見えました。

まだまだ大丈夫と思いながら、
気持ちは、その雪を見ると、
やらなければいけないという気持ちと、
言い訳したい気持ち。

そんなとき、妻が、
さっと屋根にのぼり、
雪よせを始めました。

ああ、申し訳ないなぁ、
と思いつつ、ちょっと助かる気分。

時間にして、1時間15分ほどの雪よせ。
妻がいうには、
「1m50cmの雪よせを
 がんばったくらいの気分」
とのこと。

お疲れ様でした。

妻には申し訳ないと思いつつ、
その代わり、ちゃんと仕事をするべ、
と集中力アップ。

でも、女の人ががんばると、
男の人は、言い訳しやすくなるかもね。
甘えたくもなる...

ちょっと、それに近い気分を実感。
ある意味、ヒモの気分かな。

いけない、いけない。(笑)

2009年12月19日

終わりなし

ああ、もう休もう、
休みたい、と思うけれど、

目の前を見れば、
歩き進まなければいけない道が、
ながーく待っている。

生きているうちは、
終わりがない、という気がする。

この心理状態っていうのは、
いいんだろうか、
よくないんだろうか、
ふと考えた。

がんばった後の休み、
というのは、けっこう
気持ちがいいもので、

しかし、休むんだ、
という決断を実行するには、
かなりの精神力が必要だな、
ということに気づいた。

だって、
目の前に、ながーく続く道のりを
眺めながら、休むというのは、
勇気がいるでしょ。

ああ、まだまだ、
こんなに道が長そうなんだから、
休んでいる場合じゃない、
なんて、休みかけて、
すぐに思う人だっているだろうし、

こんなに残っているんじゃ、
もう、進む気力も出てこないよ、
と思う人もいるに違いない。

だから、
まだまだ遠いけど、
(遠いからこそ)
ここで休もうか、
と思って、休むために、
立ち止まれる人は、
強いんです。

休まない人が、
強いんじゃなくて、
休む人が強い。

終わりがないから、
休みなくがんばるんじゃなくて、
終わりがないから、
休みながらどこまでいけるか、
よーく眺めて、がんばるんです。

終わりない、
これを感じられたら、
ちょっと生き方、変わるかな。

うんざりする人もいることでしょう。

2009年12月12日

デスクトップはどう

デスクトップは、
きれいスッキリにしておくタイプですか?

それとも、
使いやすいようにということで、
いろんなアイコンをずらずらと
並べているタイプですか?

わたしは、スッキリさせておくタイプ。

だから、机の上にも、
ほとんど何もない。

必要なときに出して、
使ったら、また元に戻す。

とは言っても、机のなかは、
乱雑な箇所もあります。

それはそれでいいと思っている。

見ているとこが、
スッキリしていれば、
なんか、心が落ち着く。

逆に、スッキリしていないところを見ると、
その気づいた瞬間に、
今すぐ、スッキリした状態にならないと、
次に進めない。

かなりの重要事項があって、
それを急がなければいけないという状態
でない限り、

そっちの「スッキリ」を優先してしまうんです。

となると、スッキリが優先されたことによって、
本当に重要なことのスタートが遅れたりも
しているかも...なんて思います。

自分では、そこらへんには、
影響ないと思い込みたいところですが、
きっと、遅れさせていることでしょう。

人間が生活をしていれば、
必ず、汚れをつくっているに決まっているから、
そんなことだと、ちょっと時間が足りないだろうなぁ、
なんて、自分で思います。

事実、
時間が足りない、
と思うことも多々。

見つけるまでは、
心をゆるがすというか、
何のストレスにもなっていなかった、
ささいな汚れや乱れ、崩れなのに、
見つけてしまった瞬間から
最重要課題になってしまう。

われながら、
ちょっと面倒くさい性格とも思います。
すみません→わたし。

でも、すべての汚れ、乱れ、崩れが、
わたしの思い通りに、いつもいつも、
スッキリされるということはない。

スッキリさせられることを、
あきらめなければいけないこともある。

本当に、スッキリさせたいとなれば、
何にもないところに行かないといけない。(笑)

われながら、バカというか、
面倒な性格です。

2009年12月11日

たいしたこと、やっていない

ケチをつけようと思えば、
だれの仕事にだって、
人はケチをつけられる。

政治家、マスコミ業界人、芸能人、
ここらへんは、テレビ画面などから、
私たちの目に入りやすいから、
いいターゲットになりがちです。

そして、いう。

「たいしたこと、やってないなぁ...」

私も、こんな言葉が、
心にくることがあるので、
その裏側の心理を、
自分でちょっとのぞいてみた。

1つは、
自分が見えてないのだ。
自分のやっていることが、
どれだけ、たいしたことなんだか、
本人は、よく分かっていない。

それほど、変わっていないのが
事実だったりする。

もちろん、あんなに悪いことしてないよ、
あんなに儲かっていないよ、とか、
弁明したくなるかもしれないが、

だからこそ、
「たいしたこと」という点では、
共通する可能性があるのだ。

そんなふうに思うと、
他人のやっていることを、
責める必要はなくなるな、
という気がしてきます。

うわさ話で、
乗っかることはしたとしても、
それは、それだけのこと。

うわさ話をしている間に、
自分こそ、その「たいしたこと」を
やればいいのだ。

手がけて、
その相手以上に、
うまくやればいいのだ。

相手をうらやむ必要がなくなった時に初めて、
人の仕事とか、やっていることを、
批判する気持ちもなくなるだろうと考えます。

「あの人、たいしたこと、やってないよ」

これは、うらやみの言葉。
そして、自分のやっていることに、
満足していない証拠。

それが、心の裏側にある。
ちょっとした発見でした。

私には、いっぱい、ありそうだ。

2009年12月10日

自分のテンションメータ

顔色を見るとか、
口から出てくる言葉を感じるとか、
朝のトイレがすっきり出るとか...

自分のテンションを見ることができる、
自分だけの「テンションメータ」が
だれにでもあると思います。

その様子を自分で見れば、
自分の今日の調子が分かるという感じ...

わたしの場合は、
やっぱり、言葉ですね。

それも、自分以外の言葉を
どれだけ吸収できるか、
っていうところ。

調子が悪いとか、
考え込んでいたり、
悩んでいたりすると、

自分の言葉だけは
たくさん出てくるのですが、
他人からの言葉が
心に入ってくる隙間がない。

それに目を向ける時間が少ない。

そんな気がします。

何か行動をするというのは、
きっと、誰かに働きかけていることで、
そこには、自分以外の言葉が
あるものなんです。

相手と向き合っていたら、
必ず、何か吸収できるはずですから。

もしかしたら、
そんなこと出来ない、
という人もいるかもしれません。

しかし、わたしの場合は、
長年の間に、そういうことが
自然と訓練されているので、
そういうことができるようになっている。

それをしないということは、
調子が悪いか、自分の悩みに、
埋もれてしまっているかのどっちか。

それじゃあ、いけないわけですよ。
自分が成長しないから。

さて、今日の自分を思うに、
ちょっと、テンションメータは、
低めでスタートしています。

これから、アップできるかな、というところ。

がんばります。

みなさんも、今日一日、がんばれぇ~~!

2009年12月 8日

期待の星

自分がうまくいかなくても、
この人なら、
どんなことがあっても
うまくいく...みたいな期待をかけて、
ずーっと眺めていた人が、

ちょっと、そうでもないな、
と思えてくることがあります。

有名どころでいえば、
フィギュアスケートの
浅田真央ちゃんのような存在かな。

今なお、
灰汁のないような笑顔は、
チャーミングでかわいいとは思いますが、

肝心のスケーティングの方では、

14歳の頃のように、
何も考えずに、
(失礼な表現かもしれませんが...)
ポンポンとジャンプをして、

年上のお姉さんたちを脅かしていた
「期待の星」っぽい空気は感じられなくなってきた。

きっと、彼女のスケーティングを見れば、
とても励まされた人々も、今は、
ちょっと、ガッカリしていることだろう、と思います。

でも、きっと、それが人生。

彼女のように、期待の星と思われていた人々にも、
スランプとか、挫折とか、谷がある。

そういうスターじゃない人には、
もっと、というか、なおさら、
あるに決まっている。

自分の身近な人にも、
当てはめていいかもしれない、この話。

期待の星も、いつまでも、
順風満帆とはいかない。

現実を見つめて、ふたたび出港するのだ。

浅田真央ちゃん、がんばれ!

わが家の期待の星にも、がんばってもらおうとするか。

2009年12月 4日

スピードいはん

車を運転していいよ、
という免許をとってから早20年。

正確には、22年だな。

罰金を払ったことは、
これまで何回あっただろう、
と考えてみたら、
おそらく、両手で数えられる程度
と思われる。

多い? 少ない?

よく分からない。

記憶でいえば、
スピード違反が2回、
駐車違反が1回、
一時停止違反が3回かな。

最近の履歴では、
家計簿を見ると、
2000年11月、スピード違反、
2006年7月、一時停止違反、
2008年10月、スピード違反。

となっている。

今もっている免許は、
2005年に更新した、
5年期間のブルーの免許。

来年2010年が免許更新の年で、
間違いなく、また、3年免許に
戻ってしまいようです。

5年間免許更新がなかった間に、
2回違反していますからね。

間違いなく、
運転の向かない性格だと
思っています。

すみません。

そんな性格は、「自由が好き」だという面に
表れているので、ちょっと監視されている気分を
味わったほうがいいんじゃないか、
という気になってきました。

レーダー探知機を、車につけようか、と。
そう思ったわけです。

なんだか、本末転倒な結論ですが、
今は、いい感じのレーダー探知機があるんですね。

面倒くさい人には、
何の設定もいらない、
ワンボデ・タイプ。

B000VWNSJ2.jpg
>> コムテック ワンボデ-タイプGPSアンテナ内蔵レーダー探知機 GX910B

お手軽な値段で、
高機能なものがほしい人には、
ディスプレイ、リモコン付きのもの。

B0015HSDCY.jpg
>> コムテック GPSアンテナ内蔵レーダー探知機 GL937

ちょっと、本気になって、考えている。
罰金を払うっていうのは、精神的に、
ちょっと苦痛が大きいんですよね。

それに、罰金に比べたら、
これらのレーダー探知機は、安い、安い。

ちょっと監視されている気分にならないと、
自由な人間には、抑制がきかない。

タッチパネル式とか、他にも、
いろいろあるんですね。

>> Amazon商品ガイド

いや~、でもなぁ、
運転する意識から変えろ、
とも言われそうですが、

どうなんだろう?
レーダー反応が大丈夫なときには、
もっと自由になりすぎて、
かえって危ないことになるかな。

うーん、車の運転が向かないなら、
運転しない方がいいかもな。

そうだ、そうだ!!punch punch punch

なさけない自分です。

2009年12月 2日

何をやるか、どこまでやるか

知らず知らずのうち、
私たちは人の真似をしながら、
生きていて、いつも、

何をやるかとか、
何を遊ぶかとか、
どこに行くかとか、
考えているように思います。

人の真似だから、
自分の前に見本があって、
なんとなく、こんなふうにやったら、
あんな感じに楽しいんだろうな、
ということがわかっています。

でも、本当に、
楽しむためには、
結局のところ、
何をやるかも大切だけれど、
どこまでやるか、っていうのも、
かなり大切な気がします。

何をやるかを決めるときには、
きっと、自分の好みとか、
自分との相性とかを基準にして選ぶ。

だれと結婚するか、
っていうのもきっと同じ。

問題は、その後、
その選んだものと、
どこまで付き合うか。

どこまで、とことん、
極めていくか。

そこらへんの覚悟がないと、
だいたいにおいて、
途中で戻ってこようとしてしまうだろう。

戻ってくれば、残念ながら、
何もしなかったのと
同じになってしまう。

学んだという「糧」にはなるだろうけれど、
それだけのことで終わりなのだ。
残念ながら...

逆に、それがムダにならないためには、
次に選んだものをとことん付き合うなかで、
前に学んだ「糧」を存分に使えたらいい。

それができないと、しょうがない。

とにかく、何をやるかも大切だけれど、
どこまでやるか、っていうのは重要。

どこまでやるか、どこまでやるか。
いつも自問しながら、がんばりたいものです。

2009年12月 1日

うらやましがる感情

仕事のできる人を見ると、
とってもうらやましくなります。
わたしの場合。

人によっては、
持っているもので
うらやましがる人もいれば、

持っているものでなく、
その人のまわりにいる人間、
人間関係を見て、
いいなぁ、と思う人もいるだろう。

けれど、考えてみた。

今、やっている仕事なり、
持っているものなり、
人間関係は、
自分の個性が良かれと思って、
集めたり、決めたり、やっていること。

他人と比べれば、
とるに足りないものもあるだろうけど、
自分に寄り添ってきたものばかりが、
自分のところにあるはずなのだ。

たとえば、
他人のことを見て、
欲しいなぁ、と思っても、

それを得るために、
自分の何かを変えなければいけないとして、
変えられるなら、それを得るために、
がんばればいい。

変えたくない、もしくは、
変えるのはかなり難しそうだ、
ということが自分で分かっているのなら、
今進んでいる先で、自分なりのものを得ようと、
がんばればいいだけのこと。

何かを得るとは、自分の何かを捨てること。
捨てないということは、自分の何かを守ること。
ときには、捨てきれずに、守っていくしかないものもある。
まわりの人から見れば、捨てればいいというものでも、
どうしても、それを信じていくしかないと思っているものも。

逃げじゃなくて、
ちゃんと、前進しながら、
攻めていくつもりの「守る」なら、
いいと思います。

うらやましがる感情を感じたときには、
そういうことを考えるチャンスなんだろうな。

自分にないものって何?
それを得られない理由って何?
そのために、自分にあるものを捨てられるか?
切り離せるか?

考えさせられます。

2009年11月28日

娘が読めという

情けないことに、
8歳の娘から、

この本を読んだほうがいいよ、
と図書館で、渡された。

いつもは、わたしが、
この三女に、
これを読め、あれを読め、
と探した本を渡しているのだが、
昨日は、その逆パターン。

夕方になってから、
図書館が閉まるギリギリの時間帯に、
出かけての出来事だった。

渡された本は、

大好きなこと/仕事4847015509.jpg

>> 大好きなことを「仕事」にしよう、中村修二

中村修二さんっていう方の本だ。
名前に聞き覚えがあるな、と思って調べたら、
あの青色発光ダイオードを開発して、
会社と揉め事があって、アメリカにわたった人じゃないか。

ん?

もしかして、私の名前が「修一」で、
それに似ているな、ということで見つけた三女が、
喜んで、わたしに渡したくなったのか。

いやいや、仕事が好きそうでなく見える父親が、
ふがいなく思えて、この本がいいと思ったのか。

この本を渡されたときのショック?衝撃?印象?が
大きくて、そういえば、渡した理由を聞いていませんでした。

とはいえ、めったにない、
三女からの「読め」という、オススメ本。

今日あたり、読んでみようと思っています。

大好きなことを「仕事にする」って、
そう簡単ではないし、
その結果として、みんなみんなが、
満足して幸せになれるかって
いうことは分からない。

ああ、ダメだ、ダメだ。
本を読む前から、そんな解釈を抱えて
読むなんていうことは。

素直に、読んでみるべ。

2009年11月27日

新しさに、遊ぶ

新しいことを学べるところに、
人は集まる傾向がある。

「学ぶ」といったけれど、
新しいことは、だいたいにおいて、
その新しさゆえに、
「遊ぶ」要素というものが多いから、

その「遊ぶ」
というところに、
人が集まるんだと思います。

パソコンに人が集まって、
携帯に人が集まって、
民主党に人が集まって、
中国に人が集まって...

みたいな感じです。

ただ、それが、
インターネットの世界だと、
「学ぶ」ことがありながらも、
自然に「遊ぶ」ことだけが前面に出てきて、
純粋に、面白いと思ってしまうような気がする。

それだけ、情報化、
というものが、
今までの生活、
遊びも含めたライフスタイル、
っていうものを変えてくれたんでしょうね。

仕事について、
儲けようとすると、
意外と簡単に行き詰ったりする。

けれど、
儲けるかどうか分からないけれど、
遊んでしまおうとすると、
行き詰ることは、まずない。

行き詰ることがない、
というのは、何をやればいいのか、
分からなくなる、ということがない、
ということです。

やることはわかって、
それをやり続けたとして、
必ず儲けて、行き詰らない、
という意味ではありません。

儲けなくても、行き詰らないほうがいいか。
行き詰っても、儲けたほうがいいのか。

長い目で見れば、
どちらがどうなのか、
分かりませんが、
学びながら、遊ぶことを、
人間は、忘れちゃいけないな、
って思います。

2009年11月26日

やる気ゼロ

お金をもらえるから、
がんばる。

食べられるから、
がんばる。

好かれるから、
がんばる。

スッキリするから、
がんばる。

いろんなガンバルが、
世のなかには、たくさんあって、
そのどのガンバルもできない人は、

ほかの人ががんばっているところの、
おこぼれをもらって、
「がんばった」ことのごほうびを
味わうことになる。

一番いいことは、
自分ががんばって、
その自分に対してもらえる、
ごほうびなんだろうけれど、

そうはうまくいかない世のなかがあって、
おこぼれをもらう人も少なくない。

おこぼれというと、
表現が悪いのですが、
株の利益なんか、
まさしくそんなもんでしょうね。

おこぼれの量が多くなると、
おこぼれどころでない話にもなります。

いずれにしろ、
そんなふうに、おこぼれがもらえそうなところに、
自分のお金を投資して、
それを待っている、という「がんばり」が
あるのは事実ですから、
がんばっていることに代わりはありません。

なんでもいいから、
がんばること、がんばる方向があれば、
何かしらの「見返り」があるのが世のなか。

ただ、お金が欲しいからとがんばっても、
必ずしも、お金がくるとは限らない。
別のもので、そのがんばりが
評価されることもありますからね。

お金は、簡単です。
分かりやすいですから。
多いか、少ないか...

それで、自分のがんばりへの評価が、
くっきり、はっきりと知れてくる。

なんでもいいから、
やる気を湧かせられる人は、
エライ。

それができないと、
その人につき合わせられるひとは、
ちょっと大変。

あなたのまわりにも、いませんか?
やる気なしの人。

欲が少ないから、そうなのか。
欲が強すぎて、そうなのか。
やる気ゼロの人と付き合うのって、
いろいろと考えなくちゃいけなくて、
大変です。

考えることが多くて、
こっちのやる気は、
ますますアップするのですんですがね...

2009年11月18日

本気を出すタイミング

まだ大丈夫、
と思っているときの
本気度は、かなり低い。

たとえば、
これから大変になるから、
本気になって、
がんばったほうがいいよ、
と言われても、聞き流している。

大丈夫、大丈夫、
おれ(私)はなんとかなるように
生まれついている人間だから、
みたいな感じです。

実際、まわりの人の助けで、
なんとかなってきた人は、
幸か不幸か、これまでは、
なんとかなっちゃんたんだから、
その考えを変える必要性を感じるわけがない。

それは、
我慢強い人ほど、
そういう傾向があったりして、

その我慢強さが、
幸せなのか、不幸なのか、
知れたもんじゃない。

本気を出すまで、
がまんできる。

これって、人それぞれのことだから、
面白いもんです。

子どもであれば、
大人以上に、何ごとにも、
本気になりやすいと思われがちですが、
あながち、そうでもなさそう...

本気を出すかどうかは、
努力を続けられるかどうか、
と同じくらい、1つの才能のようです。

本気を出し続けることは、
実際のところ、大変だから、
本気を出すタイミングを誤るな。

子どもたちには、そんなふうに教えたいもんです。

2009年11月17日

方向を変えるエネルギー

何ごとも、
変わる、変える、
というのは、

意外なほどに
エネルギーが必要だったりする。

しかし、
その変わることに、
大きな大きな期待とか、
好奇心がある場合には、

それが、
十分すぎるほどのエネルギーに
なってくれて、難なく、
変われることもあったりします。

問題は、そのあとです。

その期待とか、好奇心で、
変えた方向が間違っていた場合に、

方向修正をしなくちゃいけない。

そのときには、
そこに変えたときほどの期待、好奇心は、
だいたいにおいてないわけです。

いわゆる、
失敗したという気持ちや、
挫折感が強くて、ふつうは、
エネルギーが湧いてこない。

それでも、
変わらなくちゃいけない時があるわけで、
その変わる時期に乗り遅れたら、
もう何もできなくなってしまう。

たとえば、
「~ができる」とか、「~を使える」とか、
いう能力が、いいものの一つと言われていても、

時代が変われば、
「~ができて、その先で何ができるの?」とか、
「~を使えて、その先で何を作れるの?」となる。

チヤホヤされなくなった能力を、
どっちの方向に伸ばしていくか。

何歳になっても、
そういうことが大切になってくるなぁ、
と感じます。

がんばらねば!

2009年11月12日

人の賞味期限

人の魅力とか、
やることや才能には、
賞味期限があると思います。

それは、
食べ物のように
「食べる」という感覚に
ちょっと似ているけれど、
ちょっと違っていて、

一番いいたとえとして、
例にあげられるのは、
芸能界で活躍する人々の
「賞味期限」だろうと思います。

それは、その人がもっている
才能、魅力、美貌、個性において、
人々を飽きさせないでいられる期間。

一つのヒットする芸しか
生み出せないとすれば、
すんごくヒットしたとしても、
消え去っていく。

ヒットを連発する人は、
やっぱり賞味期限が長い。

しかし、それに甘んじて、
似たようなものしか生み出せないと、
まもなく、飽きられることになる。

そういうことを考えると、
人一人として賞味期限が長い人は、
めったにないだろうと想像できます。

ほかの誰かとからんで、
あるいはグループとして、
一つでない頭からいろんなものを
生み出していく方が、
賞味期限が長くなるような気がします。

それでも、現実に、、
一人の人間として賞味期限の長い人がいるのは、
事実で、私がその筆頭として思い出すのは、
サザンの桑田佳祐さんだったりします。

ながーい間、
その才能が飽きられず、
あるいは、飽きられるどうのこうのの前に、
そもそも飽きられないものを生み出せるからでしょうね。

一人で賞味期限が長い人も、
誰かとからんで賞味期限が長い人たちも、
いずれにしろ、すごいことです。

わたしが、賞味期限の長い人間になるには、
どうしたらいいんだろう、なんてことを考えたもんで、
こんなことを書きました。

いまじゃ、まだまだというか、かなり短い。

2009年11月 9日

二物を与えられる

世の中に、
嫉妬してもしょうがないと思いながらも、
人は、やっぱり、
うらやましいと思ってしまうことがあるもの。

自分のもっているもの、
それは「モノ」に限らず、
子供とか、見えないものについても、
そんなことを思ったりするもんです。

天は二物を与えず、

ということばが、
本当のことわざか
分かりませんが、

二物を与えられている人は、
めったにいない、どころか、
けっこういるんじゃないか、
と思うくらいです。

たとえば、このバイオリニストさん。
宮本笑里
宮本笑里B002MHA3HY
ルックスの好みはあるとしても、
間違いなく、二物を与えられているでしょ。
才色兼備だよ、これ。
宮本さん、与えられたものを活かして、
これからも、がんばれ!! →dream

二物を与えられている人と、
自分自身を比べて、
落ち込んでいたり、
やることが手につかなくなっても、
しょうがないわけで、

二物を与えられている人と、
一物しか与えられていない、
あるいは何も与えられていないと感じている人で、
生き方は、どう変えるべきか。

そこがポイントに思えます。

一つ思うのは、間違いなく、
二物をもっている人の真似っこを
メインにした生き方はだめだっていうこと。

二物はもっていないけれど、
自分の性格、感性に合った生き方があって、
そこを見つけることが大切なんだと考えます。

それを見つけるために、
いろいろと遠回りすることはあっても、
最終的に、そこにたどり着ければ、
それでいいんじゃないか、と。

二物を与えられた人は、
求められるものも多い。
そして、さらにがんばれば、
さらに与えられる。
二物を与えられた人は、
結果的に、もっと与えられることもある。

そうでない人だって、
それなりに精一杯がんばれば、
それなりのものを与えられるのだ。

人生は、そういうところじゃないかな。

2009年11月 8日

基本をクリアするまで

これができなきゃ、
これが分からなきゃ、
どうにもなんないよ、
っていうものがあると思う。

勉強であれば、
最低限の知識が必要で、
それを分かっていないと、
その先も分からない、
ということ。

スポーツであれば、
最低限の基本ができないと、
運動としても、ゲームとしても、
楽しめないということ。

仕事であれば、
最低限のスキルがないと、
役に立たないということも。

いずれにしろ、
世の中には、最低限と呼ばれるもの、
言葉を変えれば、クリアしなければいけない、
「基本」というものがあります。

しかし、基本であるゆえに、
それが退屈でバカらしく感じてしまい、
そこをてきとうにやって、
ごまかしながら進めてしまうこともある。

たしかに、基本は、
見えないところで大切なもので、
そこにマジメに取り組むとなると、
ちょっと、バカらしく思っちゃうことが多い。

自分で書いてて、
再発見した。

そうなんです。
人間、「見えないところで大切」なことって、
けっこう、つまらなくなってくるんです。

なんだか、知らないけれど、
バレーボールチームを例に思い出した。

トスをあげるセッターは、
見えないところの大切な役柄。

一方、アタッカーは、
トスされたボールを打ち込む、
見えるところで大切な役柄。

それは、チームを見た場合の話なんだけど、
今度は、プレイヤーひとりひとりを見れば、
アタックの練習とかは「見えるところ」の練習だけれど、

足腰を鍛える走り込みの練習は、
見えないところの大切さになる。

私たちは、見えないところの「基本」に
支えられて、進歩している。

それを忘れちゃいけない。

見えるところばっかり、
がんばっても、成長できない。
強くなれない。きっと、勝てないから。

2009年11月 7日

がんばれる時間量

人をうらやむときに、
がんばれる時間の量とか、
努力できる時間の多さを
うらやむことは、
あんまりないような気がします。

だいたいは、
がんばった結果で得た、
その人の「栄誉」の方を
うらやんでしまう方が多い。

あなたはいいよね、
1日に10時間も練習することができて...

とか、

毎日7時間も勉強する時間があっていいね、
うらやましいよ、

という具合のうらやましがり方は、
めったにない。

あるとしても、
なんていうか、
本当にうらやましがっている、
というよりは、

自分の言い訳のために、
相手には、恵まれた環境があったんだ、
みたいな意図をもって、
しゃべっていることが多いかもしれない。

ほぼ同じ環境にいて、
努力のために費やせる時間も
同じくらいあるときに、

一方では、
その時間をがんばることに使い、

もう一方は、
その時間を別のことに使ったとすれば、

結果も変わってきたとしても、おかしくない。

しかし、その結果を、
うらやましいとは、
口が裂けても言いたくない。

言ってしまえば、
自分の負けのような気がするから。

となると、言えることは、
その感情をうまく隠した言い訳。

私たちが、そんなことを言うために、
努力することに時間を使うなら、

本当に努力しなければいけないことに、
時間を注いだ方がいいのです。

努力の方向が間違っていなければ、
努力するために注いだ時間が多ければ多いほど、
勝っていくはずなのです。

もちろん、素質やセンスによって、
差は生じてくるでしょうけどね。

次にがんばれるチャンスが
いつ来るか分からない。

だから、がんばれるときに、
がんばったほうがいいのだ。

そして、自分よりもがんばった人に、
それに応じた結果がついてきた時には、
心から祝福してあげればいいのだ。

それが、自分も、他人をも、
幸せにする方法だと思います。

2009年11月 2日

最初の決断

何か問題にぶち当たったとき、
何かクリアしなければいけない目標を
目指していくときには、

やはり、最初の1つの決断は、
とても大切だと思います。

しかし、わたしたちは、
その最初の決断1つだけに、
あまりにも、期待しすぎてはいけないな、
っていうことを感じます。

それは、最初の1つの決断だけで、
物事がすべて解決したり、
目標にすぐさま到達するとは限らないからです。

逆にいえば、
最初の決断だけで終わることの方が、
かなり少ないのが現実のように思います。

そういう期待をすると、
自分が困るようになっています。
最初の決断が完璧じゃないですからね。

また、一生懸命、
心を注いで、がんばったり、
時間をかけたから、
解決すると考えるのも、
また無理な話です。

1発で決まる、
がんばったから終わる、
それは別問題なのです。

だから、それほど
心を注いでいない問題、
がんばっていない目標が、
1発で、うまくいくなんて、
期待するほうがおかしい。

虫が良すぎる、
ということになります。

最初の決断は、
スタートのため。

それですべてが終わる、
などと、少しも考えてはいけない。

万が一、それで終わったら、
それはラッキーなだけなのです。

最初の決断をしたら、
次の決断のために、
心を準備をしておく。

終わったなどと思わない、
こんなふうに心を準備しておけば、
ガッカリすることも少なくなるはずです。

最近の私も、
そこらへんをがんばっています。

最初の決断だけで、
ホッとしないことって、
意外と大変なんですね。

2009年10月26日

終わったはず

え? まだ続いているの?

という現実を知ったときには、
かなり、心理的に疲れるもんです。

たとえば、私にしてみれば、
娘らも、ある程度大きくなってきて、

乳呑み児、いわゆる乳児を
育てることは、もうないだろうと思う。

そこへ、もし、
まだいる?という事実が
分かったりしたら、

たいへんなもんだろう。

ああ、学校を卒業した、
もう勉強しなくていい、
と解放感に浸っているときに、

「ちょっと待って、
 君、出席日数足りないし、
 学力レベルでも、この教科には
 合格点あげられないから、
 もう1年、勉強してね」

なんてことを言われたあかつきには、
いっきに、10歳くらい年をとるような
気分になるだろうなぁ。

実は、終わっていなかった、
という現実を目の前にするのは、
きっと、終わっていないからなんです。

もし、私がもう少し年をとった時に、
成人しているだろう、自分の娘たちに、
何か面倒をかけられるようなことがあるとすれば、

きっと、私の子育ては、
まだ終わっていなかった、
ということなんだろうと思います。

あるいは、どこかで、
子育ての足りない部分があったかもしれない、
ということ。

なんとなく、そんな予想もできる娘たちがいるだけに、
今、ちゃんと子育てしていなくちゃいけないな、
って思います。

もちろん、こっちが一生懸命やったとしても、
子育ての宿題が残る可能性もあります。

終わったはずだ、
という気持ちそのものが
NGなのかもしれませんね。

何歳になっても、
何年生きても、
もう学び終えた、やり終えた、
なんていうことはないのかも...

そう思っていた方が気楽だな。

覚悟しておいて方がいい。
他人事じゃない。

2009年10月17日

誰のおかげか

人は、誰かのお世話になっている時には、
あまり、そのことに気づくことなく過ごしてしまい、

ある程度の時間が経ってから、
誰のおかげで、今があるのか、
ということに気づいたりする。

時間が経ってみないと、
分からないのは、

今の自分というものが、
自分には、一番分かりにくいからなのでしょう。

今の他人というものは、
自分にも、よく分かるものです。

しかし、今の自分が、
一番見えなかったりする。

たとえば、自分が加わっているもの、
家族でも、職場でも、チームでも何でも、

それらがいい具合に動いているとすれば、
そこには、とても、がんばっている人がいるから、
そうなんです。

自分から進んでリスクを背負い、
適切な判断をして、
責任感をもって、
ちゃんと行動している人がいる。

そういう人が一人でもいる限り、
そこは、いい感じになります。

一人もいなくなれば、
そうじゃなくなります。

盛り上がって、
そういう人々が集まってきた
場合もあれば、

偶然に、そういう人々が
組んでいることもある。

いずれにしろ、
人と人の出会いは、
ギャンブルにも似たところがあって、
相性も考えれば、
どんな関係から、どんないいものが、
どんな悪いものが生まれるか、分からない。

がんばっている人の近くにいる限り、
人は、幸せを感じられるチャンスがある。

そう思って、生きているところです。

2009年10月16日

うまくいかない方法集め

物事をうまく進めるためには、
うまくいく方法を探せばいい。

しかし、世の中には、
いろんな「いい方法」が散らばっていて、
その情報量に圧倒されてしまい、
何も手につかないこともあったりします。

そこで、逆の方法。
うまくいかない方法を探してみると、

そうか、絶対、
これだけは、やっちゃいけないな、
ということが分かってくる。

わたしが最近集めた、うまくいかない方法。

  1. 決められない
  2. 人のせいにする
  3. 次の行動を考えるよりも、責任追求だけにこだわる
  4. すべてを知ろうとすること
  5. リスクを負えないこと
  6. 実質的な成功を求めていながら、見た目にこだわる
  7. 待てない
  8. 人にまかせられない
  9. 他人の時間を大切にしない
  10. 自分の時間、お金、モノを守ることに執着する
  11. 計画が立てられない、あいまい
  12. 行動よりも、話が長すぎる
  13. 焦りや不安を隠そうとする
  14. 問題提起だけが好き
  15. 整理ができない
  16. 集めることはできるが、使いこなせない
  17. 伝わらない言葉を使うことが多い
  18. 感情で決めたことに、理性を後付けする
  19. 自分のゴールがあいまいで、時々分からなくなる
  20. うらやましがることが多い
まだまだ、ありそうだけれど、
わたしにも当てはまることが多く、
ちょっと考えてしまいます。

うまくいかない方法を集めて、
それに該当するなかで、
これだけは絶対にやらないぞ、
と決心すること。

もしかしたら、
うまくいく方法を集めて、
満足感に浸っているより、
たいせつかもしれないな、
という気がします。

なぜなんでしょうね?

きっと、うまくいく方法を集めていると、
心が高揚して、それだけで満たされて、
なんか、成功しているような勘違いに至る。

そのポジティブな思考というか、
心理状態は、悪くないんだけれど、

じゃあ、自分はどうすればいいのか。
このスタートラインからどうすればいいのか。

っていうことを考えられないと、
あんまり意味ないんだよね。

それこそ、ないものねだりになる。
今やっていることの中にある「いいこと」が見えなくなって、
止めようとしてしまうことだって、ありうる。

うまくいかない方法。
これを集めるのって、大切だな。

子育てにも、仕事にも、勉強にも、スポーツにも。
何にでも、当てはまりそうだ。

2009年10月14日

安さが売り物

不景気だから、
安くなければ売れない、
という固定観念で、

いろんな工夫をしたり、
知恵を絞らない経営者がいるように、

不景気だから、
誰よりも安い給料で
働く「やる気?」を示せば、
雇ってもらえると考える働く人がいても
おかしくはない。

安さが売り物だと、
それ以上に安いものが
出てくると、ほとんどは負ける。

なぜか。

やっぱり、安さしかないから。

しかし、だからと言って、
人々が安さしか求めてこない場面に、

安さ以外のものをアピールしても、
実際は、どうにもならないこともある。

昨日の晩、三女といっしょに、
100円ショップに行き、
愛しいiPod touchの液晶画面保護のために、
シールを探した。

100円ショップでは、
新型iPodのシールなどなくて、
自分で切り取って使うタイプしかないだろう、
と思っていたら、

三女が見つけてくれた。

おお~、かなりの感動!!

安さが売り物の100円ショップに、
これだけ早く、新製品に対応した商品が並べば、
なんの文句もない。

安さ&品揃えがあっての、
勝負をしている100円ショップ、という存在だ。

アマゾンでは、靴のショップが、送料&返品無料
が当たり前になっている。

怖い存在だ。

安さだけが売り物じゃなく、
勝負するためには、
いろんな知恵が必要だ。

一人の働きマンとしても、
安さだけを売り物にしちゃいけないな、
そう思います。

2009年10月 9日

超える

教える人間と、
教えられる人間。

意外にも、
教える人間が、
分かっていないまま
教えているのに対して、

教えられる人間の方が、
その分かっていないところを見抜き、
それらを通して、本当に分かってくる、
というときがあるようです。

私と娘たちの関係にも、
そういうところがあるかな...

面白い光景だと思います。

教えられている人間の方が、
教えている人間を
超えているわけですから。

ただ、考えてみると、
そういう光景は、
意外と多いかもな、
という気もしてきます。

教えているからと言って、
偉ぶっている場合じゃないな、
というわけです。

教えている、
というシーンは、
いっときのことです。

しかし、
教え、教えられた内容というものは、
人の頭の中に入っていった後に、
いろいろな思考や知識、情報と絡み合って、
成長するわけです。

そういうことがあるから、
教えた人間を超えられることがある。

もちろん、教えられた側の人間が、
単に、傲慢になって、
「超えた」と勘違いしている場合もあります。

超えたのか、傲慢なのか。

それは、見た目だけでは分かりません。

その後の1つ1つの行動で、
分かってくることでしょう。

知らず知らずのうちに、
超えている。

面白いもんです。

2009年10月 7日

道楽、趣味、ギャンブル

面白いこと、
楽しいこと、
興味のあることに、
ものすごくのめりこんでいる人が、
知らず知らずのうちに、
それが仕事になっている、
ということがあるようです。

だからと言って、
だれしもが、自分の面白いこと、
楽しいこと、興味のあることに
のめりこめば、仕事になるとは限らない。

人の成功談に、
のめりこんじゃっている、
っていうのもある。

つまり、前述しような
「仕事になった」「成功した」という話を
聞くことに、のめりこんでしまって、

自分も同じように、
「成功する」ような空想に、
浸りすぎてしまう感じだ。

そういう人は、
お金にちょっと余裕があれば、
あるいは時間にちょっと余裕があれば、

頭の中にあるノウハウやイメージが
たくさんだから、
いろんなことをやってみたくなる。

一人でやる場合もあれば、
チームをつくってやろうとする場合もある。

まわりから見れば、ある意味、
道楽、趣味、ギャンブルだな。

しかし、道楽だから、趣味だから、
ギャンブルだから、成功しないとは限らない。

道楽だから、ギャンブルだから、
成功する確率は、わずかかもしれないが、
ちゃんと可能性として、残っている。

自分の道楽、ギャンブルにのめりこむのは、
破綻がくるまでは、面白い。

他人の道楽、ギャンブルに付き合うのはどうか。
付き合いながら、何か、いいことであれ悪いことであれ、
吸収するものがあるうちは、楽しいだろうな。

他人のお金を使って、
遊んでる、学んでる、
みたいな感じだろうからね。

世の中、道楽は必要なんでしょうね。
そういうことでもして、
どこかに遊びが生まれなければ、
変わっていけないでしょうから。

2009年9月28日

自分しか出来ない方法

自分しか出来なかったことについて、
誰でも出来る方法を生み出せる人は、
すごいと思う。

反対に、
誰でも出来るはずのことを、
自分しか出来ない方法に複雑化させる人は、
ちょっと面倒くさい。

というか、かなり、
面倒くさい。

その人が関わると、
なんだか訳がわからない方向へ
向かっていく感じ。

正直、
自分しか出来ないと思うことを
発見するのは、面白いもんです。

俺って、エライなと思えるから...。

でも、それを、
もう少し進化させて、
誰でも出来る方法を考えれば、

自分が自分をほめて、
自分が偉いなって思うんじゃなくて、

ほかの人から
「こんなに簡単に出来るなんて」
という驚きと賞賛が得られるもんです。

人には、どうしても欲があって、
最初は、自己満足で済んでいたものが、
そのうち、ほかの人から誉められてみたくなる。

それが、当たり前の感情だと思います。

そういうことがあって初めて、
人は、人につながっていられる。

もちろん、そのところばかり気にすると、
自分の人生だか、他人の人生だか、
何を生きているのか分からなくなりますがね。

誰でも出来る方法に進化させる。

最近の、私の仕事のテーマです。

2009年9月24日

違うと言われたら...

一生懸命にがんばったり、
探したり、運んだり、結果を出したりした時に、

もしも、

「それは、違うよ!」

と言われたら、どうだろう?

きっと、そんな経験は、
だれにでもあるんじゃないかな。

一生懸命に、がんばっても、
ちがう、と言われることはあると思う。

それは、一生懸命にがんばる方向が違うため。

まず、一生懸命にがんばるための方向を、
一生懸命に聞き出さなくちゃいけない。

相手が上司だとすれば、
その上司から。

相手が親だとすれば、
その親から。

しかし、世の中というのは、
不完全な部分が多いもので、
「違う」と言う相手が、
最初から、わかっているとは限らない。

結果を持ってこられて初めて、
「違うよ!」とは言えるけれど、

なにも出来ていない状態では、
何も言えないという人がほとんど。

つまり、いくらかカタチになり始めて、
それでいいとか、それじゃなくて、
としか言えないのだ。

そんなの、困るよ~、
と思う人が多いだろうけど、
それが現実。

新しいことがわからないけれど、
なんとなく、こんなことが出来そうだ、
という知識ばかりをもっている人は、

見せられてみなければ、
わかりっこない。

そういう人々に、
どうやって物事を知らせていくか。
これが、仕事というものかもしれません。

シルバーウィーク中に、
そんなことを考えていました。

わからない人に、どうやって分からせていくか。
ものを売るにしても、使ってもらうにしても、
そういうことでしょう。

2009年9月23日

自分の気持ち、関係ない

この商品は売れるか、売れないか。

今の時代にマッチしているか、していないか。

商売をしているときには、
そんなことばかりが大切になって、
自分の気持ちなんか、
まったく関係ない、
と思えるような時がある。

そういう人の志向とか、
時代を読むのが好きな人であれば、
いいのだけれど、

自分のやりたいこと、
自分の好きなこと、
自己実現ばかりに
関心のある人にとっては、

そういうことを考えなければいけない商売は、
ある意味、かなり苦痛かもしれない。

しかし、たとえば、今、
インフルエンザ・ブームで
マスクが売れるというときに、

ほかのものを売ろうとしても、
売れない可能性は高い。
自分がいくら好きなものだとしても、
そうなのだ。

アーティストであれば、
話は別だ。

自分が好きだと思う世界を、
歌なり、言葉なり、芸術で表現して、
それに心打たれる人、
共感を受けてくれる人がいれば、、
商売は成り立つ。

そういう商売と、
そうでない商売の違いを、
ちゃんと認識していないと、

「自分」に溺れて、
大きな痛手を食うことになる。

世の中には、
夢を追う「起業家」タイプ、
ひとつのことに専念する「職人」タイプ、
安定を愛する「事務屋」タイプが、
いるというから、

きっと、一人の人間の中にも、
それぞれのタイプが、
いろんな割合で共存しているんだと思う。

どの傾向が強い人間かによって、
どんな人とパートナーになって、
突き進んだらいいのか、
分かっている人が一番いい。

わたしは何者かな?


2009年9月21日

嫌なことをする時間

好きなことばかりすることは、
なんだか、幸せじゃないなぁ、
という見方が出てきた。

好きなことっていうのは、
そのうち、飽きるようになっている。

だいたい、
好きなこと=受け身のものは、
そうなっている。

だから、飽きないために、
人は知らず知らずのうち、
その楽しいことから
受けられる刺激がちょっと変わるように
工夫をしている。

携帯ゲームなどは、
完璧な「受け身もの」ではないですが、
いつもやっていれば飽きてくるから、
新しいものが欲しくなったりする。

好きなものでも、
そんなふうに飽きるのだ。

きっと、結論から言えば、
飽きてしまうような好きなことを
しているときには、
人は成長できないんじゃないかな。

飽きない好きなことは、
ちょっと成長するチャンス。

飽きない嫌いなことは、
もっと成長するチャンスかもしれない。
(もちろん、悪事とか、倫理的に嫌なことじゃなく...)

イヤダァ~、とは思っていても、
どうしたらいいかを考えなきゃいけないし、
そういうことを積み重ねることが、
一人の人間の幅を広げて、
成長につなげてくれる。

好きなことばかりじゃ、
そうはいかない。

下手すれば、没頭して、
自分の幅を狭めて、
成長させてくれない。

嫌なことをする時間、
そういうことこそ、
人生には、きっと必要なんだね。

今日も、ちょっと嫌なことをしよう。
ちょっとだけでもいいから。

2009年9月19日

泣かせてしまって

能力的に、あともう少しがんばれば、
すんごいことになるのに、
と思える相手には、
思わず、応援や指導の力が入ってしまう。

すると、その相手本人は、
ギリギリを越えちゃったと思ったときには、
泣いてしまう。

ああ、泣かせちゃった。

悪いことしたな、と思いながら、
指導する側は、でも、しょうがないんだ、
と自分を納得させてみる。

それで、その力を
発揮する本番が来たときに、
結果的に、

泣かせるだけのことをがんばって、
それなりの結果が出たときには、
「やっぱり、あれだけやって良かったな」
となります。

しかし、結果が出せなかったときに、
どう思うか、どう納得するか。

それが問題です。

あれは、無駄だった、とするか。
結果は出せなかったけれど、
やるだけのことはやったし、
何かの糧になっているはず、
と理解するか。

指導した側は、
そんな納得の方法があるでしょうけど、

やっぱり、がんばらせられた本人は、
「あんなにがんばっても、
 だめだったじゃないか」
と思ってしまう人がいるかもしれない。

もちろん、指導の方法に誤りがあれば、
その結論も、間違いじゃないかもしれない。

そこは、難しいところだ。

泣かせるまで、
がんばったから、
成果が出るとは限らない。

てきとうにやったから、
成果に結びつかない、
とも限らない。

努力の方向が間違っていなければ、
その努力の度合いによって、
実を結ぶが、

努力の方向が間違っていれば、
いくら努力しても、
実を結ばないこともある。

涙を見せる女に弱い人は、
そこを見極めるのが難しいでしょうね。

2009年9月15日

求められていること

目的と手段というものが、
何かをやるときには、
なんとなくでも、
「ある」ものだと思います。

ただ、目的や手段が、
うまく整理されていないと、
行動ができなくなることもある。

勝つことが目的なのか、
指示された手段に従うのが目的なのか。
そのいずれかか分からなくなる、
というのが、その一つです。

勝つことが目的であれば、
おおげさな話、どんな手段を
選ぼうと自由だ、という理解もできるでしょう。

指示された手段に従うことが目的であれば、
勝つこと、結果はさておき、
そのとおりに行動することが必然的なことになります。

いずれにしろ、
動かされる方は、
そのいずれかであることが
ハッキリと分かっていれば、
問題はありません。

そして、それに納得して、
行動することができれば。

それが嫌であれば、
あるいは拒否できることであれば、
そこは、自分の自由でやめればいい。

問題は、指示された手段に、
ちゃんと従っていながら、
それに結果がともなわない責任が後で生じ、
勝つ結果を求められる時でしょう。

「おまえら自由にやれ、
 責任は俺がとる」

とは言えない上司みたいなものです。

「おれの言うことをきけ、
 責任はお前たちがとれ!」

みたいな身勝手な上司。

きっと、あなたの身近にも、
いることでしょう。

面と向かって言うことはできないとしても、
責任を負わされて、「やってられない」と感じながらも、
この不景気なご時勢に、それに耐えている人も
いることでしょうね。

お疲れ様です。

次の何かが見つかるまで、
耐えて、耐えて、がんばってください。

2009年9月14日

うまくいかないことを分ける

あれも、うまくいかない。
これも、うまくいかない。
それも、うまくいかない。

自分の身のまわり、
あるいは、会社のなかに、
そういうことが多いと感じる人は、

その「うまくいかないこと」を
分けることを考えたほうがいい。

いっしょにしているから、
混乱するし、解決するための力も
分散してしまうものなのだ。

もしかしたら、本当の問題は、
その問題を分けて考えられないところに、
あるかもしれない。

ぜんぶ、同じ問題だ、
と考えてしまえば、
なんとなく楽なように思うが、

場合によっては、
背負う必要のないものまで
背負ってしまっていることもある。

たとえば、会社の中で、
儲けの出せない部門があったとする。
そこを切り離し、追加投資して、
ひとつの会社にするとか、
あるいは、残念だけど、終わらせるとか。

そういう決断ができないと、
いつまでも、他の問題に埋め尽くされてしまって、
そこの解決に、必要な力を注げない状態がくる。

リーダーには、
問題を分けるセンスが
求められている気がする。

頭のなかで、
ごちゃごちゃにしたまま、
思いついたとおりに、
あれこれ指示を出したり、
あっちに振り回され、
こっちに引っ張られをくりかえしているようじゃ、
何も進まないだろう。

あなたのまわりに、
うまくいかないでいるもの、
ありませんか?

思い切って分けて、
考えてみましょうよ。

2009年9月11日

焦ればいい

うぉぉぉ~~~!
たいへんだぁ~~~!

言葉には出さないけれど、
そう叫びたいくらい、
焦ってしまうことがあるもんです。

その事態の原因が、
自分にあればあるほど...

その心の叫びは大きくなります。

どうしよぉ~~!?

でも、それを声に出してはいけない状況。

声に出してしまえば、
自分のまわりも騒ぎになるどこか、
とてつもなく、自分も責められる、
みたいな感じ?

ところが、
そういう状況にこそ、
チャンスがあって、

どうしよう?
どうしよう?

と考えているうちに、
その事態すべてを解決するばかりか、
そうなるに至った根本的な問題をさえ
解決してくれる「必殺技」が
生まれることもあるのです。


成功するためには、ちょうどいい緊張感と、
リラックス感が大切だ、などと
書いている本が多いですが、

場合によっては、

ものすごく
追い詰められた、
焦っている状態においても、
すごいことがでてくるんだなぁ、
ということを発見します。

人は、どんなときに、
どんな成功法に出会えるか分からない、
というわけです。

さぁ、今日も、焦るぞ!

2009年9月 9日

やりたいから、やりたくないへ

今まで、とっても大好きで、
やりたいと思っていたことが、

ある日を境に、
やりたくないことに
変わるっていうのは、
意外と多いもんだろう、と考えます。

その原因は、
うまく出来ない、
と感じることにもありますが、

うまく出来ないと感じさせる、
誰かの存在も大きいだろうなぁ、
と思うのです。

ものすごいライバルの登場だとか、
いちいちうるさく指摘する上司だとか、
同じチーム(グループ)にとても下手な人がいるとか...

そういう誰かの存在によって、
今まで、やりたいと思っていたことが、
嫌になってしまう。

嫌になったから止める、
という選択もあれば、

本当はまだ好きなんだから、
それがいい気持ちで続けられる環境に
移っていくとか、そういう選択もある。

あと、お金がからんで、
それがストレスになったり、
プレッシャーになったりする場合も。

お金をもっている人からの
圧力っていうのは、やっぱり、
強いもんです。

たとえば、
それが自分のやっていることへの
スポンサーだったりすると、

当然のごとく、うるさい存在になるわけで、
何も言ってこないスポンサーなんて、
めったにいるわけもなく、

昔で言えば、
パトロンと呼ばれる、
保護者、後援者というのは、
生活を支えてくれる意味では、
ありがたかったでしょうけど、

自分の才能を伸ばす上では、
本当に役立ったか、という意味では、
微妙なところかもしれません。

パトロンのような後援者を満足させながら、
自分のやりたいことを、ちゃんとやっていく、
という「術」でしょうね。

そこは、才能というよりは、
世渡り術に近いものでしょう。

つまり、そういう世渡り術がないと、
自分がやりたいことを、やりたいようには出来なくなる。

そのうち、やりたくないことになってしまう。

少しでも、術は、もっていたほうがいいということです。
みんな、がんばれ!

2009年9月 5日

くれるという思いあがり

人は、自分に都合のいい根拠をもって、
自分が大切にされると思っている。

お金を払っているから、
あれをしてあげたから、
友達だから、
身内だから、
ちょっとした知り合いだから...

みんな、都合よく考えている。

しかし、
その相手も、その相手にとって、
都合よく考えていれば、
「大切にされる」という期待が、
自分勝手なものだったことに気づかされる。

自分よりもっとお金を払っている人がいた、
自分よりもっと大きなことをしてあげていた人がいた、
自分よりもっと親しい友達がいた、
自分よりもっと近い家族がいた...

そんな具合である。

大切にしてくれるだろう、
あれをしてくれるだろう、
すべて裏切られる。

いや、裏切られたような気分になっている。

現実は、
裏切ったなんてことじゃない。

その人がその人にとって、
大切な人を、大切にしただけ。

こっちが勝手に、
自分が大切にされると
思い込んでいただけ。

大切にされることなんて
期待しない方がいいんです。

自分が大切だと思う人、
本当に大切な人を
大切にして、

そんなふうに大切な人がいること、
大切にできることに
感謝できた方がいい。

見返りを求めれば、
「大切にした」つもりのことを
後悔するようになる。

そもそも、自分に都合のいい行動を
とっただけかもしれないのだ。

大切にしてあげた、
と恩着せがましくしていただけの
ことかもしれないのだ。

大切な人を大切にできることが、
自分にとっての幸せ。

大切にされることが、
幸せなんかじゃない。

それを忘れないようにしよう。

2009年9月 4日

終わりが見える

ここにいる自分が、
ここを去るときには、
こんな状態だろうなぁ...

今これをしているけれど、
うまくいかなかったら、
こんな気持ちになるだろうなぁ...

あの人との付き合いに、
もし結末がくるとしたら、
二人の関係はこうなっちゃうだろうなぁ...

自分が関わっている、
いろんなことについて
終わりを想像してみると、
意外と、リアルに、
物事が見えてきたりします。

それは、あきらめとか、
そういう気持ちに陥ることばかりに限らず、
終わりをイメージしたり、
それが見えることによって、

今大切なことは何かとか、
今は何をするべきなのか、
っていうことがわかってくることだと思います。

あるいは、そういう終わりにならないため、
どんな対策があるんだろうか、
っていうことも考える機会になる。

反対に、終わりが見えないときには、
自分のやっていることの意味も
わからなくなる。

「世の中で一番大変なのは、
 ゴールの見えない我慢だ。」
医学のたまご、海堂尊)

っていう言葉は、本当だと思うから。

必ずしも、この先に待っている終わりが、
自分の満足するものとは限らないかもしれない。

けれど、今やるべきことにちゃんと向き合う。

ふと思うのですが、
安倍さんが総理大臣になったとき、
彼が出版した「美しい国へ」のインパクトが強かったから、
あんな終わり方になるなんて...と思った。

今度は政権交代を実現した民主党。
どんな終わり方になるのか?!

「何にも変わらなかったじゃないか?!
 やっぱり、元のまんまでいい。」

なんて終わり方が見えてしまうのは、私だけか。

結局、変わらなければいけないのは、
政権でなく、国民ひとりひとりなのかもな。coldsweats01

2009年9月 2日

立つところを変える

職場にて、
話したいと思う相手の顔が、
ちょうどパソコンのディスプレイとか、
書類の山の陰になっていて、
見えないという相手がいます。

そういうときには、
座っていないで、
わざわざ立って、
その人と話をする。

すごく背の高い建物があって、
これ、下のアングルから撮ったら、
とってもカッコいいだろうなぁ、
と思って近づいて、
カメラの液晶ディスプレイをのぞくと、
背が高いゆえに、
電線や木が邪魔をして、
その場所からは、うまく撮れそうにない。

それで、立ち位置をいろいろと変えてみて、
がんばってみる。

人と会話をしていて、
なんか噛み合わないと思ったり、
なんか苦しいなぁと思ったりするとき、
それは、相手の言っていることよりも、
自分の思っていることを
優先している時かもしれない。

あるいは、相手はただしゃべりたいだけで、
自分を攻撃しているわけじゃないのに、
ちょっとでも自分に関係したことがあると、
「攻撃されている」
「指摘されている」
「嫌われている」
なんていう頭が働いて、
冷静に聞くことが出来なくなる瞬間。

しかし、そういう距離感から離れて、
「ああ、この人は、今何かストレスがあって、
 イライラしているんだな」
って思えるような立ち位置に移ることができれば、
ふっと、気が楽になる。

もっと突っ込めば、
この人のために、わたしは何が出来るんだろう、
みたいに思えてきたりもする。

立ち位置を変えれば、

責められている!

という被害者意識から、

何をしてあげられるんだろう?

という、ある意味、優位な意識にまで
変われる。

心のなかの立ち位置が変わるだけで、
人は、余裕が出てくる。

実際の地位や、立場、
外側に見える関係性だけでは、
分かりえないものが、
心の「立ち位置」にはあるということ。

そう考えれば、面白いもんです。
人間関係というのは...

2009年9月 1日

しくみ

「しくみ」っていうのは、
いろいろあるなぁ、
って最近、実感しました。

たとえば、
人間がやる仕事っていうのは、
物事がうまく進むように、
という考え方が根底にあって、
それが仕事になっていると
思うんですが、

単に「気合」だけでやろうという「しくみ」もあれば、
そのポイント、ポイントで、
合理的な判断をして進めようという「しくみ」もある。

気合だけでやる「しくみ」を、
しくみ、と呼んでいいかはわからないが、
そういうものにだけ慣れちゃっている人は、

きっと、それが一番だと思っているわけだから、
ほかの「しくみ」を試し始めても、
だいたいは、気合に戻りたくなってくる。

気合のない「しくみ」が、
なにか物足りないというか、
それでは動かないような気がしてくるからだろう。

気合という言葉を使ったが、
実際は、それは、
恐怖というもので動く「しくみ」で
あったりすることもある。

人に恐怖感を与えて、
それで、その人たちを動かす、
という「しくみ」。

動かされる方は、
その恐怖を感じる「しくみ」に慣れてしまい、
その恐怖に付き合う以外に、
方法はないと思い込んでいて、
動かされるままになっている...

わたしも、子供を怒ったりして、
言うことをきかないと、
もっと怒るぞ、みたいな空気を
持っている人間だから、

そういう「しくみ」に
知らず知らずのうちに慣れていて、
それを使っていたりすることが多いもんです。

でも、それ以外の、もっといい、
しくみがあるのも事実なわけで、
それを求める気持ちを忘れちゃいけないな、
って感じます。

しくみ、を作り出す。
そこに気づけば、もっと楽になれることは、
この世の中に、たくさんあるかもしれない。

2009年8月29日

世話にならない

依存しているヤツに限って、

「あなたの世話になんか、
 なりませんよ」

なんてことを言ったりする。

それまでに、
十分に世話されているというのに、
ぬけぬけとそんなことを言うから、
とんでもないことがあるもんです。

その人の人間性が、
信じられないのは言うまでもありません。

自分の力を
等身大で把握している人は、
自分に与えられている、
見える助け、見えない助けが
ちゃんと分かっていますが、

その自分の力を
よく分かっていない人は、
狭い視野でしか見ないため、
見えない助けどころか、

下手すると、
見える助けですら
気づかなかったりします。

だから、逆ギレすることも、しばしば。

本当に、その人が気づかされるのは、

「じゃあ、自分ひとりでやってみろ!」

と、一人、二人と去っていってしまった時。

ああ、自分は、
思っていた以上に、
助けられていたんだ、
と気づくわけです。

ただ、それが悪いとは、
言い切れない。

チャンスといえば、チャンス。

うー、苦しいけど、
ああ言ってしまった手前、
一人でやるっきゃない!
と踏ん張れる人もいるから。

一方、
ああ、世の中って、
なんて理不尽なんだ、
と不平・不満をもらし、
自分の恩知らずを棚に上げてしまう人は、
もう救いようもない。

いつか、どこかで、だれかとお互い様。
そんな気持ち、わたしも忘れてしまうなぁ...

2009年8月26日

バカらしくなる時

一人熱くなって、
一生懸命にがんばっている人を見ると、

ときどき、冷めた目で見て、
「何、一人、がんばっているんだろう、この人は...」
なんて思ったりします。

それでも、その人が、
その一生懸命さをあきらめないときに、
奇異な視線は、ちょっとずつ変わるかもしれない。

しかし、だいたいの人は、
奇異な視線を感じてしまうと、

はたと、我に帰ってしまって、
それまでの自分に、
バカらしさを感じてしまう。

そうなれば、もう、
熱さは、戻ってこない。

そして、戻ってしまえば、
「やっぱり、あの時は、どうかしていたんだ...」
と、自分も、周りも、思うことになる。

一人でがんばったり、
一人で興奮したり、
一人で怒っている姿を、
自分で自覚しちゃうと、
ダメなんですよね。

もちろん、
それを貫けるだけの価値が、
十分にあることなら、
問題のないことですがね。

一人熱くなってしまう、
っていうのは、微妙なところです。

熱くなっている人間が、
バカなのか、

熱くなっている人間を
見ているほうが、
バカなのか。

その時点では、
わからないこともあるから。

人間は、一人でも味方がいないと、
がんばることができなくなることが多い。
やっぱり、弱いんでしょうね。

2009年8月21日

1つの完成

ジグソーパズルをつくっていくときに、
どこの部分から作っていくかといえば、

私であれば、長方形の4辺に近い部分から
作っていくことが多い。

もちろん、その部分の絵柄が単調すぎて、
つなげにくい場合は、分かりやすい絵柄の部分から
スタートする。

いずれにしろ、
部分部分の完成を目指していく。

完成イメージのパズルのピースそれぞれに、
左上から番号を振って、
「1」はどれだ、次の「2」はどれだ、
なんていう探し方はしない。

順番に完成しないと、
前に進めないというのでは、
かなりの時間がかかるか、

何の手がかりもつかめずに、
何も作れないことになるだろう。

何かを完成させるために、
今手がけている1つだけに集中すると、

それが完成した頃には、
時代遅れ、ということがある。
パズル遊びに、似たことのように思う。

それだけ時間がかかってしまうというのは、
完成へのプロセスのなかで、
どこかで行き詰っていたり、
ハマりすぎたりしている証拠。

完成ということを、
今手がけているものに限定しないで、

全体から見て、
ここにどれだけの時間を
かけたらいいか、が見えないと、
まったく意味がないのだ。

完成させるというのは、
そういうバランス感覚が必要なこと。

すべてを見渡せる位置に立たないと、
なんにも進まない。

何を完成させたいのかさえ忘れてしまう。
そんなことになりかねない。

あなたの仕事は、完成に向かってますか?
邪魔は入っていませんか?

2009年8月11日

メリハリ

仕事をやってもらやらなくても、
お金がもらえるとなれば、
そのうち、やらなくなるに決まっている。

がんばってもがんばらなくても、
ほめられないと分かれば、
がんばる気持ちもなくなる。

どこに行っても、誰と会っても、
景色や会話がほとんど同じなら、
旅行なんてしなくなるだろう。

違いがない、
メリハリがない世界では、
私たちは、楽しめない。

もちろん、
そういう世界に安心感を覚え、
そこに安住したい気持ちも、
どこかにはある。

しかし、もし、
何の努力もしないで
得られるメリハリならともなく、
何かがんばったりしないと、
メリハリのある生活を送れないとなれば、
人は、そのために、
いつもとはちょっと違った努力を
することだろう。

いつもと違うこと、
これまでと違うことを
努力しないと、
結果も変わってはこない。

人は、そんな基本的なことを忘れて、
結果が変わることばかりを願っていたりする。

たしかに、変わることもあるだろう。

ただし、それは、
自分の願いどおりの変化とは
限らないのだ。

自分でメリハリをつけようと
自分に変化を突きつけない限り、
人生は楽しく変わらない。

今日も、メリハリを求めて、
生きてみようっか。

2009年8月10日

詰め込みすぎ

近くのスーパーのイベントで、
ウィンナーつめ放題500円とか、
ゼリーつめ放題200円とか、
ときどきやっていると、
人々が群がっている。

以前は、私もやってみたもんだが、
隣でやっているおばさんたちを見て、
私は上手じゃないなと分かり、
それからはあきらめた。

上手な人は、本当に上手だ。
詰め込み用のナイロン袋を、
はち切れない程度に微妙に伸ばして、
どんどん入れていっている。

人間も、それくらい、
いろんなものを詰め込んでも、
どんどん入れられる余裕があれば
いいのだけれど...

みんながみんな、
心のひだを伸ばせるとは限らない。

詰め込まれすぎると、
パンクしてしまう。

会社でいえば、
いろんな仕事を依頼され、
完成させて自分の手元から
送り出そうとするが、

その出口で、
「ちょっと待て、まだ未完成だ。
 やり直し。」
と返される。

そうこうしているうちに、
また、新しい仕事が入ってくる。

そんなことをくりかえしていれば、
間違いなく、はち切れる。

詰め込まれすぎ。

今、この不景気の時代には、
そんな「詰め込まれすぎ」の人が
いっぱいいるかもしれないな、と感じる。

詰め込んだからと言って、
能力を引き出せるわけではない。

バランスだな。
詰め込んで、出して。
もっと詰め込んで、また出してもらって。

そうしないと、人は成長できない。
詰め込み放題じゃないのだ、人は。

2009年8月 8日

見守れない

チームで動くというときに、
リーダーの指示や方向性を見せることが
うまくいっているチームは、
流れがとてもいい。

しかし、そのリーダー以外の人間で、
影の権力をもっている人が、
しゃしゃり出てきて、
そのリーダーの指示や決定を
くつがえしたり、流れを止めたりすると、

とたんに、そのチームは、
動きが悪くなる。

リーダーに、権力(決定権)を与えたならば、
影の権力者は、だまっていた方がいい。
しゃしゃり出てきて、
そのリーダーを骨抜きにしようものなら、
やる気はそがれるは、
方向性はめちゃくちゃになるはで、
何も進まなくなるだろう。

しかし、性格というものは、
そう簡単に変われるもんじゃない。

何か言いたい人は、
その言いたいことが、
いつも頭の中にあるだろうし、

自分の思い通りに事を運ばせたい人は、
思い通りになっていない場面を見れば、
イライラしてしまうクセがついているはずだ。

どうしようもない。

それを考えなくていい場所、
見えない場所に、身体を置く以外にないだろうな。

見えてしまう場所が良くない、
考えてしまう関係性になっているのが良くない。

実際、しゃしゃり出てしまう「影の権力者」らしき人を
見てしまうと、私も、そんな人と似ているかな、
と思ってしまう。

見守る、ということが、
本当に下手なんです。
できない。

心配になることと、
自分の思い通りになっていないと、
すぐに修正したくなってしまう。

だから、しゃしゃり出てしまう、というわけ。

後になって、それはダメだったんだな、
とは思うけれど、その瞬間には、
そういう「見守る気持ち」が
完璧に吹っ飛んでしまっているので、
どうしようもない。

心が狭いんでしょうね、
見守れないっていうことは。

ああ、心が大きくなりたい。

2009年8月 6日

どこまでオープンにするか

いろんなことを知ってもらう、
ということは、

知らせるために、
こちらの時間をかけて、

知ってもらうために、
相手の時間もつくってもらうことになる。

わざわざ、知らせるまでもなく、
そのまま進めちゃっていいものは、
相手の時間を大切に思えばこそ、
進めていくものですが、

世の中には、
そのどちらにすればいいか、
ざっくりと分けられる判断基準はない。

知らせておかないで、
あとで大事になった時には、
なんで知らせてくれなかったんだ、
と責められる恐れもあるし、

知らせるべきと思い、
かなりの時間をかけて知らせたのに、
あとになって、それが中止になり、
時間をムダにしたということもありえる。

お互いの時間が、
ほぼ無限にあって、
お互いに、
限りなく理解できる能力があるなら、
なんでもかんでも、
知らせあい、知り合うことは可能かもしれない。

しかし、現実は、そうじゃない。

だから、
知らせるものと、
知らせなくていいものを、
人は、自然に振り分けている。

もちろん、知らせるべきなのに、
あるいは、知らせる以前に、
そういうことはあっちゃいけないのに、

やってしまって、
秘密にしていることもあるだろう。

そういうことを知らせる時には、
責められることを覚悟でやらなくちゃいけない。

知らせる側には、そんな覚悟が必要だ。

ある意味、怒られて当たり前、
みたいな感じ。

怒られないように、叱られないように、
責められないように、罰を受けないように、
なんてことを考えてばかりいたら、

ウソをつくことばかりが増えてしまう。

知らせる側は、怒られて当たり前。
そう思うことが大切。

そういえば、
そんなことを子どもたちに
教えたことがあったな。

私も、実行しなくちゃいけないな。

2009年8月 5日

昨日が通用しない

心がコロコロ変わる人と
いっしょに生活を始めて、

早い段階に気づかなければいけないことは、

「昨日が通用しない」

ということだと思う。

それに気づかずに、
いつまでも、文句を言っていても、
しょうがないのだ。

昨日は、こう言ったじゃない、
ああしろって命令したじゃない、
それをしたいって感じだったじゃない。

そんなことを言ってもしょうがないのだ。

昨日が通用しない、
と分かった瞬間から、
行動も変えたほうがいい。

目の前には、毎日のように、
新しい局面が迫ってくる感じだ。

そこにおいては、まず、
新しい状況をすばやく理解し、
それを吸収しなくちゃいけない。

まず、それが出来ないと、
そこで脱落してしまう。

「なんで、こうなったの?」

「どうして、私だけ?」

「話が違うじゃない」

そんなことを言っているうちに、
今日が、昨日になってしまう。

そうならないためには、
新しい局面で、新しい選択をして、
新しい行動をどんどん始めなくちゃいけない。

それが間違っていてもいいからだ。

ミスをしたら、また、別を始めればいい。
それだけの話。

もう、昨日は通用しない。

このことを、忘れないようにしよう。

2009年8月 4日

得意、不得意と向き合う

得意なことが、
とてもすごく飛び出て、
上手なときには、

それをさらに伸ばしたほうが、
自分の身を助ける。

一方、
自分の不得意な部分を
今より改善したほうが、
自分の身を助ける場合も少なくない。

どちらに、力を注いだほうが、
手っ取り早いか。

そんなことを考えてみるのだけれど、
実際は、人それぞれに、
最善策が違うだろうから、
一概に、答えは出てこない。

感覚的に言うと、
得意なことをさらに伸ばそうと
努力する方が、楽しそうで、
やりがいがあるように感じますが、

いざ、てっぺんに近づいたときには、
その厳しさがさらに増すことだろう、
と思われます。

昨日よりも今日、
今日よりも明日という具合に、
あくなき進歩を積み重ねていくのは、

極めれば極めるほど、
そんなに楽なことではありません。

だからと言って、
自分の不得意を改善していくのも、
ちょっとツライ。

だいたい、不得意なわけだから、
そんなものと向き合うのが
楽しかったり、好きになれたりすることは、
だいたいは少なくて、
これまたキツイ時間になることでしょう。

どっちと向き合うか。
その得意のレベル、
不得意のレベルによって、
判断しなくちゃいけないでしょうね。

そして、できれば、
だれかに頼られるような「得意」をもっていて、
その人に頼れるような「不得意」をもっていたら、
お互いに、補い合えばいいと思います。

お互いに、がんばるべ。

2009年7月30日

しゃべり仕事

しゃべるだけの仕事っていうのは、
はたから見れば、すごく楽な仕事に見えて、
実際は、キツイだろうなぁ、と思う。

しゃべるということは、
見えないものを発することであり、
その見えないものに、
見えなくてもすんごい価値がないと、
そのしゃべりは聞いていられない。

ある意味、
文字というものは見えるけれど、
ものを書くっていう仕事も、
それにちょっと似ているだろうなぁ。

発せられている言葉に、
価値がないといけないからね。

価値があるかどうかは、
人それぞれの判断だとは思うが、

その言葉たちを発する側からすれば、
発するだけの引き出しが、
自分にないと、何も引き出せないことになる。

仮に、その引き出しがあったとしても、
何年も前からの引き出しだけを使って、
いつも、そこから言葉を出していたら、

ほとんどの人に飽きられることになる。

何度も同じことを言ってくれるから、
親切丁寧だ、というとらえ方もあるだろうけど、
本当は、手抜きにすぎないかもしれない。

しゃべるだけの仕事、
書くだけの仕事、
これって、ある意味、
裸になるような仕事なんだろうな。

頭の中をちょっと裸にするだけで、
満足してくれる人もいれば、

頭の中をぜんぶ裸にしても、
まだ満足させられない相手もいるだろう。

なんでもいいから、
引き出しに詰め込んでしまえ、
とがんばっている姿が思い浮かぶ。

そういう人の話なら聞いてみたいが、
昔からの引き出ししか使わない人の話は、
遠慮したいもんだ。

2009年7月28日

モデルさん

昨日、仕事で、
急遽、カメラマンをさせられた。

カメラ撮影は、
嫌いなほうではないが、
突然の依頼だったので、
ちょっとビックリ。

なんせ、モデルさんを撮るわけだから、
アシスタントになって入ったこともない私が、
いきなり、モデルさんとの信頼関係をつくって、
撮影しろ、っていうのが、ちょっと変だ。

たしかに、服を脱がせたりする写真じゃないから、
淡々と撮ればいいからということで、
お願いされたわけだが...

やるからには真剣にやろうと、
カメラの操作から始めて、
時間が経つにつれて、
なんとか様になってきたような気がした自分。

「いいですねぇ~」

「15度くらい、あっち見てもらえますか?」

「うーん、カメラの反応が遅い。もう1枚」

わたしの口から、言葉が勝手に出てくる。
その気になっている証拠か?

2時間半で終わるはずの撮影が、
4時間もかかり、とんでもないと思いながらも、
いきなりの依頼だから、しょうがないだろ、
と開き直り気分。

それでも、気さくなモデルさんと、
気さくなアシスタントのおかげで、
いい時間は過ごせたと思っている。

でも、突然の依頼で出来たくらいだから、
私の今回やったコツでも、手順でも、
マニュアルにすれば、
誰でも出来ることなんじゃないかなぁ、
と思いながら、それを終わらせた。

ほかのモデルさんも撮ってみたいなぁ、
そういえば、と思いついたのが、
牛丼屋で働いている、
なぜかとても美人な女性の顔が...

声をかけるわけにもいかない。

「モデルやりませんか?」

なんてナンパだし、
ちょっと怪しげなスカウトにさえ見られてしまう。

いいモデルさんがいると、
カメラマンは、自分がうまいと
勘違いしちゃうだろうなぁ。

2009年7月23日

まわせるもの

回転すしに行けば、
すしが回ってくる。

何回も何回もまわって、
誰にも手をつけられなかった寿司は、
その日の最後には、きっと捨てられる。

まわせるものは、
いつか捨てられる。

それは、きっと、
情報でも、お金でも、仕事でも、
きっと、そうなんだと思います。

下手すると、人間関係も?

上手に、まわせる人は、
どこにもで、重宝がられるでしょう。

まわせない人は、
1つのことにしがみついていしまう。
アイデアでも、仕事でも、情報でも、
それだけがいい、それしかない、
みたいに思ってしまう。

こだわりと言えば、
聞こえはいいが、
もしかしたら「逃げ」かもしれない。

その安全地帯に、
いつも逃げたくなってしまう。

そこにいれば、安心だから、
自分の知っている領域だし、
自分がつくってきたものだから、
みたいな感じ。

そういうことが通用しなくなる、
使い物にならなくなって、
それでも、だれかに譲ったり、
渡すことができるときには、
躊躇せずに、明け渡せばいい。

まわす。

まわせるようになること。
それって、大切だな、と思う今日この頃です。

2009年7月 9日

なめた人間ほど弱い

人をなめている、
という人間は、やっぱり、
どこかに微妙な態度として現れてくる。

それは、生意気とか、
そういう意味じゃなくても、
なんとなく、実際は、
打たれ弱いというような感じが
分かられる、といった具合だ。

人をなめている人間ほど、
打たれ弱い。

打たれ強い人間は、
人の奥深さを知っているから、
そう簡単に、人をなめることはしない。

人の奥深さを知らないから、
人をなめたりするのだ。

そういう私も、
人の奥深さを考えないときには、
痛い目に遭わされる...

やっぱり、なめた態度に
出てしまうからだろう。

人の見た目はどうあれ、
その人の今の実績や、
目に見えるところの実力がどうあれ、

人には見えない奥深さ、
っていうのがある。

そこを見ることを忘れると、
人の判断は浅はかになる。

浅はかな判断から
導かれる考えは、
自分にとって安易なものになりやすい。

たいしたことないだろう、
こんなところで大丈夫だろう、
そんなにがんばらなくてもいいだろう、
自分はけっこう上手だろう、
うまくやれているだろう、
天才かもしれない、みたいな感じだ。

人は、奥深い存在だ。
それを忘れちゃいけないなって思う。

2009年7月 8日

自分の仕事を消す

不景気な世のなかになると、
会社の仕事は、

とてつもなく増えるか、
はたまた、ぐんと減ってしまうか、
のどちらかになります。

不景気でなくても、
時代が変わると、
公務員ですら、
自分の仕事がなくなってしまう職場、
というものもあることでしょう。

自分の仕事がなくなりそうな時に、
人はどうするか。

その職場にしがみつきたけれど、
それまでやってきた仕事が
いかにも重要だったかのように
アピールするかもしれません。

上層部や、経営者は、
もう不要だと言っているのに、
そんなふうに、
自分の仕事を守ることでしょうね。

しがみつきたい人にとって、
リストラっていうのは怖いですから...

そんなとき、
自分のやっている仕事が
なくなるよう、
消えてしまうように、
行動できる人がいたら、
けっこう面白いかもなぁ、って思うんです。

自分の仕事を消していける人は、
その職場にとっては不要になりますが、

考え方によっては、
仕事を減らしたい、消したい、
効率化したい人にとっては、

そういうことができるプロは、
本当に欲しいかもしれません。

不要な仕事を、
自分の天職だとして守る輩に、
ウンザリしている経営者や上層部の人は、
仕事の中身とかを知らない場合は、
うまく、はぐらかされたりしてしまう。

ここらへんのカケヒキが、
けっこう難しかったりします。

自分の仕事を消してしまうプロ。
これまでお目にかかったことはないのですが、
いたら、面白いなぁ...

最初は、すべての仕事を背負ってくれる。
最後には、そのすべての仕事を不要なものとして、
消し去ってくれる。あるいは、それまでより、
安く済ませられる方法に置き換えてくれる。

今の時代に、必要な仕事人かもしれません。

2009年7月 6日

鍛えられる方向

年はとっても、
なんか自分は鍛えられる必要があるなぁ、
って思います。

でも、年をかさねてきて、
その1分、1秒、1時間が
とても大切に感じられるから、

間違って鍛えられる時間には、
もう耐えられない、という気持ちになってる。

鍛えられるなら、
ちゃんと自分のことを知って、
鍛えて欲しいという感情だ。

けれど、そこには、
自分の矛盾を感じる。

鍛えられる方向の正しさが
最初から分かっていることなんて、
あるんだろうか、ということだ。

そんなことが分かっていたら、
誰も何も苦労しない。

どの方向に向かわせたら成功する、
うまくいくかなんてことを、
自分であれ他人であれ、
最初から見つけることができたら、
人生はすごくカンタンだ。

残念ながら、
やる前から結果が分かっているようなことは、
人生には、なかなか用意されていない。

ある意味、そういうことでは、
人生は平等だ。

やってみないことには、分からない。

鍛える方法、鍛えられる方向、
分からないからこそ、
試行錯誤して、がんばることができる。

1回やってみてすぐに成功することを
期待する人は、きっと、続かない。

鍛えられることも好まないはずだ。

何度でもやろうとする人は、
成功する可能性もあるだろうし、
鍛えられることにも向いているかもしれない。

結局、
自分でがんばることができない人は、
いい人から鍛えられても、
変われないんじゃないだろうか。

2009年7月 4日

他にはない

コア(核)となるものを見出したい。

今は、仕事が奪われる時代、
仕事が盗まれる時代だと思います。

いろんな仕事が、
機械や人によって
システム化されて

ちょっとした訓練を受けた人によって、
カンタンにこなされてしまう。

「おまえの代わりは、
 いくらでもいるんだ!」

まさしく、そんな感じです。

没個性を求める仕事もありますが、
そうでない仕事では、
代わりを見つけられてしまわないように、
自分たちのコアを見出さなくてはいけない。

そして、ほかに代わられないよう、
ほかに追随をゆるさないよう、
伸ばしていく。

自分のコアを考えて、
働いている人ってどんだけいるんだろう?

ふと、思います。

本当は、考えているかもしれないけど、
そう見えない人もいるから、
探すのが難しいときもある。

自分のコアを考えて仕事している人と、
いっしょに働くのは、きっと、やりがいがある。

時には、自分の能力不足に
打ちのめされそうになりながらも...

コアのある人は、いいもんです。
がんばらなければ、と思わされます。

2009年6月24日

競争する生き物

どちらかというと、
男は競争する生き物で、
女はそうじゃない、
というイメージをもっていたけれど、

本当のところ、
ただ、競争することの種類が
違うだけで、男も女も
競争が好きなんだ、
っていうことが分かってくる。

一言でいえば、
どちらも「注目」される競争には
変わりないが、

男の場合は、強さとか、勝利とか、成功に、
競争の方向が向きやすい。

女の場合は、愛情とか、幸せとか、美貌に、
競争の方向が向きやすい。

かな、と思っている。

組織やグループが、
なんか停滞しているな、
って感じたときには、

競争の必要性を感じるものです。

しかし、どう競争させるか、
っていうことがポイントで、

男が多いところに、
愛情とか、幸せとかが
ごほうびになるような競争を
させても意味がない。

女が多いところに、
強さとか、勝利とかが
ごほうびになるような競争を
させようとしても、気が乗らないかもしれない。

でも、勝たなければいけないとなったときには、
女性の気持ちにもある、もっと個別的な感情
「あの人には負けたくない」
「あの女にだけはいい気にならせない」
を刺激することが大切に思います。

競争させるっていうのは、
お尻をただ叩くだけじゃダメなんですよね。

競争する気にならせるというのは、
一筋縄でいかないと感じる今日この頃です。

2009年6月23日

自分の居場所

家庭において、
自分の居場所が見つからない人は、
どこに行くんだろう。

学校にいるときに、
自分の居場所が見つからない子どもは、
どうするんだろう...

職場で居場所の見つからない大人は、
社会で居場所の見つからない大人は、
どう時間を使うんだろう?

自分に居場所なんか要らない、
と開き直っているように見えて、

人間は、懸命に、
自分の居場所を探したり、
自分の居場所をこしらえようと
していたりする気がする。

活躍すれば、
居場所を用意してもらえるかのように、
悪いことでも目立てば、
居場所がハッキリするかのように...

もしも、居場所の必要ない人間になれたら、
そんな悩みも、吹き飛んでしまう。

しかし、生きているかぎり、
ささやかなスペースでもいいから、
人は居場所が必要な生き物だ。

ある人は、その居場所に、
自分なりの仕事ができるもの、
自分の誉れとなるものを求めるかもしれない。

また、別のある人は、その居場所に、
自分が愛されていると感じるもの、
大切にされている感じを求めるかもしれない。

男と女の区別なく、自分の求めるものが、
自分の居場所にあってほしいはずだ。

もし、用意されたという居場所に、
自分の求めるものがなかった場合は、
葛藤するだろう。

ここを居場所と思ってがんばるか、
やっぱり、別を探すかと。

居場所は、ホントに、いろいろです。

2009年6月22日

思えなけば、つらくなる

すごーく頑張ったときに、
惜しかったと思いたい気持ちが
出てくる。

そう思えないと、
とっても辛くなる自分が
分かるから。

でも、冷静に考えてみれば、
そんなたいして、惜しくない現実が
見えてきたりする。

また、自分だけ見ていれば、
惜しかったと思う気持ちも、

自分以上にがんばって、
ちゃんとうまくいっている人を見れば、
自分の「惜しかった」という気持ちが
急速に、冷めていくのを知る。

つまり、人間というのは、
ほぼ自分と同じような条件、環境で、
自分よりもがんばっている人を知らないうちは、

自分のことを惜しいとか、かわいそうとか、
思いたくなる生き物なのかもしれない。

そうしないと、自分の存在意義とか、存在価値とかが、
消えてしまいそうな感じがするからだろう。

だから、思いたい。
そう思えなくなるものから、
目を逸らそうとしたくなる。

見ないでいるほうが、
気がラクだから。

それで、特に不具合がなければ、
そのほうがいいに決まっている。

結局は、
信じたいものを信じ、
思いたいことを思い込み、

何のきっかけもなければ、
保守的になりたい傾向が出てくる。

うーん、そうはなりたくないけど、
そういうところはあるなぁ。

2009年6月19日

省エネにイライラ

節約、省エネ、最小限...

悪い言葉じゃない。

けれど、それを実行するシーン、
実行する人によっては、
イライラさせられる場合もある。

動いて欲しいときに、
最小限の動きで済ませようとする人。

自分の体のエネルギーの
省エネのつもりか?

何に、そのエネルギーをとっておくのか?

今が動くべきときじゃないのか?

最小限の動きで済ませようとして、
緻密な計画があって、
その計画が完全であればいいのだが、

だいたいは、最小限の動きが、
お粗末な動きとなり、
必要なところをカバーできないことになり、
抜け、漏れ、穴だらけになる。

省エネとは方向性を間違えば、
手抜きになる。

動くことについて言ったら、
人間は、省エネじゃ駄目だと思う。

動けるうちに、しっかりと動く。
動かないことに慣れちゃうと、
体の節々の、動く機能が衰える。

そうなってしまった時間が
長く過ぎてから、

動こうと思っても、
もう体は動かないのだ。

人間は、動くことについては、
省エネになっちゃいけない。

動けるうちに、どんどん動け。
そんなことを感じる日々です。

だから、暑い夏には、動いて、
汗を流すのが一番いい。

2009年6月18日

将来は総理大臣に

子供の頃に、
成績がよかったり、
頭がいいということで評判になると、

「将来は、総理大臣にでもなるんじゃないの」

と言われたりする子供がいた。

そういうことを言う大人が多かったなぁ、
と今になって思うと、

わたしのまわりにいた大人っていうのは、
かなり世界が狭かったんだと思う。

頭がいい、エライ=将来は総理大臣とほめる

という公式しかないわけなのだ。

もちろん、ちょっとはバラエティに富んできて、
弁護士、医者、学校の先生、社長、
なんていう言葉もあったような気がする。

それだとしても、
やっぱり、一般の大人が、
ふつうに知っている「世界」の域を出ない。

もしも、そういうことしか言わない大人の世界に、
埋もれてしまうと、将来の職業選択は、
きっと狭いものになるだろうなぁ...

当然、わかってくるのは、
総理大臣になる人の少なさ。

最近の総理大臣は、
あっという間に辞める人が多かったから、
3年のうちに3人もいたりするけれど、

小泉総理のように、4年くらい務める人がいると、
1億人以上の人間から、4年に一人しか出ないことになる。
となれば、まず、1億人以上の人は、
総理大臣になることはない。いくら目指したからといっても、
日本には、その時その時に、一人の総理大臣しか要らないからね。

総理大臣になることはない、
という現実を受けいれて、
弁護士や、医者、先生になる気もない、
となったときに、毎日の生活で見る「職業」だけを、
心にとめたら、

将来の選択は、かなり狭くなってしまう。

ちなみに、世の中の職業を、
いろいろリストップしてみてください。

200も出てきますか?

本当は、もっとたくさんの職業があるというのに、
もしも、30くらいしか思い浮かばないとしたら、
大変でしょう。

きっと、その30のうち、半分は、
自分とは関係あるように思えない仕事でしょうし、
残りの半分は、合わないものだったりする。

すると、ホントに残るものは...

自分の近くにいる大人、
メディアの偏った情報からも離れて、
世の中にある「仕事」をたくさん見ること。

これから仕事を始める子供、若者には、
必要なことに思えます。

2009年6月17日

自分のためも含めて

人のためだ、人のためだ、
とがんばっているときに、

感謝されなかったり、
勝手な行動をとられたりすると、

「せっかく」

という思いがもたげてくる。

だから、私なりのがんばり方なのだが、
たとえ、人のためになることを
がんばっていることでも、

そこに、自分のため、
というものも含めようと
考えることにしている。

自己満足でも、何か他の利益でもいい。

自分のため、も含めておけば、
感謝されなかったり、
現実として人のためにならなかったりしたときに、
自分の心を穏やかにキープすることができる。

特に、恩着せがましい思いが
出てきやすい人は、それがいい。

私の好きな例でいえば、
自分が嫌いな食べ物を、
あの人の好物だからとせっせと料理をしたのに、
食べてもらえなかったときのショックは、
大きいだろうけど、

自分も好きな食べ物を、
食べてもらうために料理した時には、
運悪くお腹いっぱいで食べてもらえなかったとしても、
自分の食べる量が増えてラッキー、
みたいな受け取り方ができるとと思うんです。

それじゃあ、思いやりでもなんでもない、
という人もいるでしょう。

ホントに博愛の人、聖人の人ならまだしも、
心に弱さをもっている人、
拒まれたときの傷に耐えられない人は、
やっぱり、自分のためを含めておくのも、
一つの方法だと思う。

もちろん、後になって、
自分のためになってたんだ、
という受けとめ方で救われることもありますけどね。

2009年6月13日

どうして?

クセというのは、
恐ろしいもので、
「どうして?」という言葉が
何か口に出てしまう人がいる。

素朴な疑問なら、まだいい。

答えのない「どうして?」は、
時に、その問いを投げかけられた相手も、
その問いをする自分をも苦しめたりする。

どうして?

に答えが出ないのなら、

これから、どうするか?

を早めに決めて、スタートしなくちゃいけないのだ。

答えのない「どうして?」をいつまでもいつまでも
考えこんでしまうクセばかりが身につくと、
何一つ、手につかなくなってしまう。

もちろん、

どうして?

をじっくり考えることが必要な時もある。
ただ、その問いばかりに、
自分が苦しめられて前に進めないことの多い人は、
その問いは、ちょっと辞めた方がいい。

ある意味、「どうして中毒」だ。

たとえば、

どうして、感謝されないの?

相手の性格が悪いのかもしれない。
そのどうして?を考えて、自分が悩むのはバカらしい。

どうして、今日は調子が悪いの?

人間の生活、能力には、バラツキがある。
毎日、同じ調子で生きていけるわけがない。

どうして、私だけ苦しい目に遭うの?

ホントに、あなただけですか。
よーく、まわりを見てください。

「どうして中毒」には、ホントに注意だ。

2009年6月10日

もったいない人

せっかくの才能があるのに、
それを活かそうとしない。

自分の才能なんだから、
それを活かそうが
放っておこうが自由な話ではあるけれど、

才能がないと自覚している人からすれば、
うらやましさを超えて、
怒り、憎しみさえも感じることに
なりかねないように思う。

まわりから見れば、
「もったいない」と見えることも、

本人からすれば、
そういう問題じゃないということになる。

ちょっとしたこと、
たとえば人間関係とか、
ささいなことで怒られたとかで、
その才能を活かす場から去っていく。

そんな人は、この世に、
たくさんいるだろうと思う。

そんなことなど気にしないで、
自分の才能で何ができるか、
っていうことにだけ集中すればいい、
と外野の人々は思うことだろう。

しかし、才能をつぶしてまでも、
そんな環境、人間関係、時間が続くのをやめたい、
と思っているのだとすれば、どうにもならない。

もったいない、もったいない、
といくら言われようと、
心は翻らないだろう。

そんな、もったいない人を目の前にした時に、
あきらめるしかないんだろうか、と思うと、
なんとも、やるせない気持ちになります。

きっと、あなたのまわりにも、
もったいない人、いますよね。

2009年6月 5日

頭のいい素直さ

今が一番の戦いだ、
がんばれよ!

なんて言葉をかけられて、

「はい、がんばります!」

という子どもは、きっと、
素直なんだろうと思います。

同じ10代でも、
だんだん歳を重ねてくると、

何が戦いなのか?

という気持ちが湧いてきて、
戦う気になれないことも
少なくないだろうと予想できる。

まわりの大人が、
ただ戦わせたいだけで、
本人は、そんなにでもない。

どちらかというと、
戦わせようとしている大人に反抗して、
戦おうと思うことの方が、
断然、戦う気が起きてくるくらい。

素直な子どもは、
言われたままに、
戦っている。

頭が悪いわけじゃないけど、
言いなりになっていることに疑問ももたず、
がんばれる心とか、余裕があるから、
ある意味、幸せ。

けれど、中途半端に頭がいいと、
何のために、これをやらされるんだろう、
って考え始めるから、

戦う気持ちも、がんばる気持ちも、
どことなく、冷めてしまう。

人生、自分が何のためにがんばっているか、
ちゃんとわかっていることなんて少ないかもしれない。

あるいは、あることのためにがんばっていると
思っていたことが、まったく見当外れながんばり方で、
後々になって、あの時のがんばりが、
今やっと、役に立っているな、なんてこともあるだろう。

勉強が何の役に立つか、
考え出したら、きっと
役に立たないことのほうが多いと
思えてしまうことと同じ。

戦える気持ちになる素直さもわかる、
戦えない気持ちになる頭の良さもわかる。

それぞれの素直さ、頭の良さで、
人生を生きていて、それぞれの実を
手に入れていくんだろう、と思います。

2009年5月24日

アイデア対決

どうしようもなく強い相手に対して、
必ず、負けるしかないということはないと思う。
そう信じたい。

どこかに、何か勝つためのアイデアがあるはずだ。
今朝は、そんな気分で、いろいろと思索を練っています。

昨日は、娘たちの部活卓球の春の全県大会。
次女は、1回戦から、手ごわい相手と対戦。
スカっと、楽勝したという試合はなかった。

苦しみながらの、3回戦突破。
なんとか、ベスト16に残る。

そして、いよいよ、今日は、
4回戦にて、第1シードとの対戦になる。

相手は、いわゆる優勝候補だ。

実力でいえば、相手が上。
技術でいえば、できることの種類はきっと同レベル。
ただ、決定率が違うだろうとは思う。

そうなると、作戦、アイデアで、
その足りないところを補うしかない。

相手の得意なことを封じ込め、
自分の得意なところに持ち込んで、
試合を運んでいく、という。

ただ、それも、
言葉でいえば、なんか、
出来そうな感じはするが、

決定率が邪魔をして、
ボロボロになる可能性もある。

だから、その決定率も考慮に入れた、
アイデア対決をしないことには、
完璧な負け試合になることは
目に見えている。

うーん、なんか、
抜け道があるはずだ。
どこかに、ちょっとしたスキマかもしれないが、
弱点があるはずだ。

試合中に、試合前に、
そういうことに気づきたい。

そんなことを考えるのは、面白い。

勝って当たり前の試合に臨むよりも、
負けて当たり前の試合で何が出来るかの方が、
プレッシャーも少ないですからね。

がんばれ!がんばれ!

2009年5月19日

競り合うもの

4月1日生まれと、4月2日生まれの違いは、
人生において、けっこうの差を生む。

そんな気がしていた。

うちの長女は、4月2日生まれだけれど、
予定日としては、4月1日と言われてきていて、

私の気持ちとしても、
その予定日どおり、4月1日に
生まれてくれたらいいなぁ、
なんて思っていた。

その理由が、今思えば、面白い。
当時、仕事上のライバルと思っていたヤツが、
私よりちょっと先に結婚をして、
その予定日よりちょっと前に、
子どもが生まれていたからだ。

なんていうか、似たことが多いと、
何かと張り合おう、競り合おう、
という気持ちになったりするから、
人間というのは不思議だ。

きっと、いろんなことを集めても、
なんの共通点もない人には、
そんな気持ちも湧いてこないだろう。

仕事上のライバル、
結婚の時期が同じ、
出産予定日も同じ...

じゃあ、子どもも同じ学年に生まれて、
その子どもの成長で、競り合おうなんて、
今考えれば、おかしな話だ。

もう、15年前のこと。

15年も経てば、
いろんなことが起きて、
変わってきている。

当時、ライバルだと思っていた彼とは、
わたしが仕事を変えたために、
会うこともなくなり、風の噂によると、
借金だとか、離婚だとか、
なにやら妙な話題は耳に入ってはくるが、
くわしいことまでは分からない関係になっている。

人が競り合おうなんていうものは、
時が経ってみれば、案外どころか、
ほとんど、たいしたことのないことばかり。

4月1日と、4月2日生まれに、
どんな差があるというのか。

どの日に生まれようが、
その人がどう生きるか、
それだけが大切なのだ。

そんなことを思った朝でした。

2009年5月15日

気圧される

相手の気迫が強くて、
気圧されるとき
っていうのがあるもんです。

自分では、
そんなに気迫をもてないことだったら、
気圧されても、そんなにかまわない
のですが、

自分でも、それなりにがんばりたい、
と思っていることには、
敵や仲間に負けないほどの気迫をもって、
立ち向かわないと、やっぱり、
気圧されておしまい、になります。

気圧される、の反対は、
気圧す? なんていう言葉になるか、
と思ったのですが、

そんな言葉はないようです。

思いつく言葉では、
圧倒する、くらいしか出てこない。

私だったら、出来れば、
相手を圧倒するくらいの「気迫」が
欲しいなぁ、なんて思うのですが、

どうがんばっても、
そんな「気迫」とは縁がなく、
圧倒することなど出来ない人もいるはず。

相手の気迫に勝つ気迫でなく、
相手の気迫を吸収して中和する「根気」が
必要かもしれない。

1.気迫がない・気圧される

2.根気がある・吸収して中和する

3.気迫がある・圧倒する

気迫はなくてもいいから、
少なくとも、ステップ2に進んで、
根気だけはもたないと、
自分一人だけでない環境では、
戦い抜いていくことはできないでしょう。

根気だけでも、育てよう。
私にも必要だと思っています。

2009年5月10日

目指してくれること

ああ、やっと、
本気になってくれたんだ。

やっと、この目標を
目指してくれる気になったんだ。

やっと、いっしょに
がんばれるんだ。

そう思うと、なんとなく、
じーんとしてきます。

仕事で、後輩を指導するときでも、
子どもに、何かを教えるときでも、
仲間といっしょにがんばろうとするときでも、

やっと...ここまで来たか、

と思えるまでには、
うまくいかないシーンが、
数限りなくあって、
それが半年続いたり、1年続いたり、2年続いたり、
あるいは、もっと長引いたり。

長引けば、長引くほど、
もうやめようか、やっぱり、
この人(たち)には無理かな、
なんて自問しながら、
それでも、ささやかな希望をもって、
向き合っていく。

その希望が叶えられる時など、
なかなか来そうに思えない時間が長いうえに、
思いもよらないハプニングばかりが
立て続けに起こったりするもの。

こっちの希望が弱くなれば、
教えられたり、導かれている側の思いは、
もっと、頼りないものになる。

そういうことを、何度も何度も
くぐりぬけて、やっと...ここまで来たか。

やっと...本物の目標を
目指してくれるようになったか。

そう感じられる瞬間は、
本当に、心を熱くさせられる。

生きてて良かったなぁ、
あきらめなくて良かったなぁ、
「自分」はがんばったなぁ...って。

昨日は、ちょっと、
そんな気分に
浸っていたところです。

2009年5月 6日

裏切られるのを覚悟で

何度も何度も、
約束を破られる、
ウソをつかれる...

それでも、
付き合っていかなければ
いけない人間関係っていうものが、
ある人にはあります。

もちろん、
その人は極悪人というほども
もんじゃあない。

なんていうか、
価値観とか、人生観が
ちょこっと違っていて、

あるいは、
ちょっとした「病」的な価値観を
もっていて、自分たちとはズレている感じ...

だから、
裏切りを裏切りと思っていなかったり、
裏切ることをたいしたことないと思っていたり、
いろいろだったりもするわけです。

ただ、そういう人たちでも、
不思議と、こちらと認識が一致する時が
あったりします。

それは、こちらが裏切ったような場合。

そういう時だけは、
どうして裏切ったんだ?
なんで、そんなことをしたんだ?

自分たちの裏切り行為は、
ものすごい高い棚に上げておいて、

他人の裏切り行為だけは
ちゃんと責めてくれるのです。

そういうことから考えると、
裏切っているつもりがないとか、
そういうことじゃなくて、

やっぱり、ずるいということなんです。

そのずるさに付き合える心の広さを
持てたときだけ、人は、幸せになれるのでしょう。

裏切られるのは、人生にはつきものですから。

2009年4月25日

あとはまかせて

42.195kmというフルマラソンを、
世界最速で走った記録は、
今のところ、2:03:59らしい。

すんげぇ、はえぇ。

その同じ距離を、
もし、まあまあレベルの一般人42人が
だいたい1kmずつリレーで走ったら、
その最速記録に勝てるかなぁ。

うーん、無理かなぁ...

42人でかなわないのなら、
84人が500mずつ走ったら、
どうだろう?

それでもダメなら、
面倒くさい、422人で100mずつ走ったら、
どうだろう?

そんな感じなら、
勝てるんじゃないだろうか。
なんか、可能な気がする。

一人だけでひたすら
がんばっている姿よりは、

なんか、
信じられる仲間がいて、
「あとはまかせるよ」
「あとはまかせて」
っていう言葉で、
自分の役割を引き渡していける姿は、
なんか力強いように思えてしまう。

信じられる家族でもいいかもしれない。

マラソンじゃなくても、
何かがんばる他のことでも、
自分一人で「走っていける」ところには、
きっと限界があると思う。

だから、それぞれ限界のある人間同士が集まって、
ひとりひとりの限界までがんばり、
仲間を信じることで、その限界をカバーしていく。

そういう経験が何一つなくて、
ずーっと一人だけでがんばってきた、
という人は、どこかに寂しさといじけた面を
持ってしまうかもしれない。

一人だけでがんばるしかなかった、
という人もいるだろう...

そう考えると、人生のどこかで、
「あとはまかせて」「あとはまかせるよ」
と言い合える誰かに巡りあえるのは、
とても幸せなことなんだなぁ。

2009年4月24日

時間のてんびん

自分の時間と、
他人の時間をてんびんにかけたら、
きっと、自分の時間が重く感じられるだろう。

しかし、ビジネスや商売というシーンでは、
自分の時間を重くとらえて
他人の時間を軽くとらえているように
感じられると、お客は逃げていくことも多い。

それを知っていて、
お客のなかには、店員とか担当者の時間を
どうにでも使おうとする人間がいるから困る。

たいしたことでもないのに、

「ちょっと」

と呼びつけたり、

「やり直してよ」

と言ったり...

お客様としての「自分の時間」を
重いものとして最大限に主張したいから、
そんな態度をとるわけです。

きっと、その人自身が、
自分の職場に戻ると、
そんなふうにしてくるお客が
多かったりするから、
そういう意識が定着してしまうのでしょう。

ある意味、仕返しになるのかな?

さかのぼれば、
お客様は神様だ、
という感覚がまだ残っていることになる。
日本人には、ありがちだ。

神様だ、とまでは言い切らないにしても、
お客様が大切なのはもちろんの話だけれど、

本当は、自分の時間も、他人の時間も、
どちらも大切なのである。

双方が、お互いの時間を大切にして、
一番いい使い方を見つけないことには、
ある時点で関わりあったことの価値が薄まってしまう。

心の底から、気持ちよく接してもらい、
こちらも、気持ちよく接することが出来なくなるだろう。

その気持ちの表れとして、お金を払うのであって、
お金を払うから、何でも要求していい、とは話が違う。

新人さんを見ることの多い最近、
自分の時間、他人の時間、
それを大切に思える人間になっていくには、
どうしたらいいんだろう、なんて考えます。

2009年4月20日

事実をつきつけられても

事実というものがあり、
それを見て思うことや、
その背景のこと、
将来のことへの見通しや
懸案も含まれた
事情というものがあるように思います。

事実は、紛れもなく、
目の前に見えているそれだけなのですが、
事情を考えると、見えているものが変わってくる、
というわけです。

しかし、
事情というものを考えすぎると、
事実がゆがめられてしまって、
何も出来なくなる、ということもありえます。

なかには、
いくら、事実をつきつけられても、
それを、願望や理想、夢によって曲げてしまい、
必要なアクションが遅れてしまうということも。

人が何か反省しようとか、
改めようという気になるためには、
事実を事実として、
ちゃんと把握しなくちゃいけないな、と思う。

事実に背を向けて、
自分の事情ばかりにこだわって、
逃げてばかりいると、
変わるべきチャンスを逃してしまう。

わたし自身にも、当てはまることに思います。
ちょっと、耳が痛いなぁ。

事実というのは、
ほんとうのところ、これだ!
と言うのが難しいこともあるから。

でも、そう言って、
ごまかしてばかりもいられないんだよね。

たしかに、事実はあるから。

つきつけられた事実に、
目を背けない人間でありたいな。

2009年4月17日

ミスへの対応

状況が、刻一刻と変わる今の時代において、
明らかに、自分の上の人のミスだと分かる判断に
出くわしたりするものです。

判断のタイミングが遅れたり、
判断の方向が違っていたり、
という具合に。

しかし、どうしても、、
その判断を変えることが
できない場合も少なくない。

はたまた、
自分たちのせいで、
上の人が、そういう判断を
せざるを得なかったということもある。

判断のタイミング、
判断の内容にミスがあったのは事実だけれど、
その原因のちょっとを自分がかじっているとすれば、

そのミスに対して、
できる限りの力を出して、
対応せざるを得ない。

そう思って、ある意味、
自分をそこに追い詰めることが
次のミスを防げることになるかもしれない。

ミスが出てしまったことを、
外野といっしょになって、
上の人を責めてもしょうがない。

自分のせいではなかった、
と思い込みたいとしても、
それとは関係なく、
ミスへの対応を精一杯することが、
自分を成長させてくれるのだと思います。

大胆にいえば、
自分がミスしないことも、
上の人がミスしないことも、
ありえないのですから。

なおさら、
自分の下の人が
ミスしないことなんて
もっとありえません。

人は、どこの組織に属していても、
ミスやトラブルに対応するために
生きている。そう思ったほうが気楽です。

2009年4月10日

根本の限界

いくら努力をしても、
練習をしても、

もうこれ以上の上達は無理じゃないかな、
と思われるレベル、というものがあるように思います。

それは、実力的なレベルでなく、
なんていうか、そのベースとなっているもの、
根本となっているもの限界、
を意味することがあるように思うのです。

たとえていえば、
水泳のクロールと、平泳ぎでは、
出せるスピードに限界がある感じです。

最初に、クロールで覚えたから、
やっぱり、目指せるスピードは、
一番速いわけですが、

同じように、最初に、
平泳ぎを選んだ場合には、
その泳法のなかでの限界に出くわす。

もちろん、
クロールと平泳ぎでは、
泳法が違うという根本もあるので、

たとえとして、無理な部分もありますが、
それに近いことって、
世の中に、多いと思うんですよ。

人それぞれのベースとなる素質で、
目指すところが違うみたいな感じ。

トップにはなりたいけれど、
素質から考えれば、
そういうところでなく、
もっと個性的なポジションをねらう
という方向性です。

方向転換して、
直せるものなら、
直せばいいのだけれど...

そう簡単でもないから、
今もっているベースで、
目指せるところを目指す。

そして、限界に達したら、
とりあえず、あきらめることも選ぶ。

そういうことも大切だな、
ということを最近学んでいます。

2009年4月 2日

期待以上に

期待をされる、
ということは、
人にとって、とても嬉しいことで、

しかし、実際は、
相手が「期待をしている」振りを
していることもある。

そんな状況において、
期待どおり、もしくは期待以上に、
がんばろうとすると、

そんなに、がんばらなくてもいい、
そんなに、がんばってもらうと、
困る、ということになる。

意外と、完ぺき主義な私は、
いくら期待をかけられて
任されたことに、

その気になって、がんばろうとするまで、
ちょっと、時間がかかってしまう。

しかし、その気が出てしまうと、
期待以上にがんばろうとしてしまい、
時々、やりすぎてしまう傾向があるように思う。

もしかしたら、
今の自分も、そうかもしれないな、
っていう気がしないでもない。

ちょっとした期待を感じて、
がんばっていることがあるんですよ。

いろいろ本を買って、
勉強をしたり、
その本に書いている通り、
行動計画やら、必要なアクションを
はじめようとしている。

そこで、ふと思った。

以前にも、こんなことがあったな、と。

それで、がんばっていたら、
「ちょっと、先走らないでください。」
って怒られたことがあったもんなぁ。

期待以上に、がんばって、
追い越してしまうと、そう言われる。

相手の気持ちも分かるから、
ちょっと考えないといけないんだろうな。

2009年3月31日

ご機嫌とり

わたしは、基本的に、
人の「ご機嫌とり」をするのは、
とてもイヤだと感じる人間だけれど、

必要に迫られて、
どうしてもやらなければいけないと
感じるときには、そのご機嫌とりをする。

正直に、そのときには、
自分の損得を考えているのは
間違いない。

ご機嫌とりをすれば、
何らかの得がありそうであれば、
がんばって、やるわけです。

その代わり、
自分の目論見が外れて、
ご機嫌とりの「やりがい」「やる価値」がないと
分かれば、その時点で、
スッパリやめるというハッキリとした態度、性格。

こう書くと、むしょうに、
自己チューに見えてしまうのですが、
(もちろん、それは否定しませんが、)

相手に対する期待は、
どちらかというと、
その人の能力を出し切って、
いい結果が出るところを見せて欲しい、
という感じが多い。

悪く言えば、
自分の思い通りの結果になるように、
がんばって欲しい、ということだ。

だから、わが子たちへの期待も、
ハッキリしているのだろう。

向いていないと分かっていることには、
そんなに期待をかけない。

向いていると感じることには、
けっこう期待をかける。

けれども、しばらくやってみて、
向いていないと分かった瞬間には、
その期待度をガクンとダウンさせる。

そんな感じです。

ご機嫌とり、いい表現で言えば、
励まし。

しかし、それは、
相手の受け止め方次第で、
どちらにも、なりうる。

そんなものがなくても、
自分の力を出し切れる人が、
本当は一番いいんだけどなぁ...

私は、どうだろう?

2009年3月29日

戦いらしい空気

これから大切な一番が
あるというのに、

戦いらしい空気がチームにないとしたら、
チームは、力を出せないんじゃないかと思う。

さらには、
そのチームを応援しようとしていた
サポーターの人々も、
その応援する気をなくすことだろう。

残念ながら、
戦いらしい空気を消してしまうのは、
一人のメンバーだったりする。

そのメンバーだけ、
チームのことよりも、
自分のポジションとか、
自分がどう思われるかとかだけに、
気が向いているとしたら、
戦いたい気持ちどころじゃないだろう。

仮に、そのメンバーの相手を
しなければいけない立場のメンバーがいたら、
(友だちとかで)
それに付き合っているうちに、
戦いらしい空気は、どんどん薄まっていく。

そこで、
「そんなんじゃダメだよ」
と指摘するメンバーが出てきたとする。

言うことを聞いて、
表面的には収まったような空気に
なったとしても、

そういう言葉が出てきてしまった瞬間に、
空気が、微妙にトーンダウンしてしまうことは
避けられない。

チームのメンバーひとりひとりが、
何の問題もないなんてことはない。
だが、問題を抱えすぎるメンバーがいるのが
大変であることも事実。

戦いたくなる空気、戦いらしい空気、
大切だなぁって思います。

2009年3月21日

自分の心に無理しない

無理をしてまで、
がんばる価値のあることがある。

しかし、そこまでする価値のないことも
やっぱり、あるに違いない。

ただ、それをする前に、
今しようとしていることが、
どちらの属するものかは
なかなか判断しかねる。

価値ありのものか、
価値なしのものか、
どっちでもいいから、
最後まで、とことんつき合う、
という気持ちになっているんであれば、
何も問題はない。

とは言っても、
チームとしてがんばることだったりすると、
自分ひとりのがんばりだけでは、
なんとも出来ないこともある。

みんながみんな、
建前でなく本心から、
同じ目標を共有していれば
いいんでしょうけど...

そうとも限らない。

がんばっている人が、
がんばっていない人に指摘して、
「がんばれよ」と言っちゃえば、
そこからは、押し付けになってしまう。

目標の共有どころでなかったりするわけです。

がんばっている人が、
がんばればがんばるだけ、
空回りしてしまうことも。

目標は、あきらめられない。
けれど、他人に期待してもしょうがない。

そういう状況で、
自分の心に無理するか、
無理しないかって考える。

それでも、
他人を励ますことをがんばるか、
自分ひとりでがんばれることに集中するか。

そこからは、人それぞれの選択になるでしょう。

春になって、新しい環境になると、
そんな悩みが出てくるかもしれませんね。

2009年3月17日

理想が好きとは限らない

「あの人が好きになってくれた私って、
 本当の私じゃないのよね。
 それが一番問題だったんだ。」
(女たちのジハード、篠田節子)

相手の理想にはまる人になろうと、
がむしゃらに、がんばる。

そして、好きになってもらった。

けれど、ふと考えてしまう...

これ、私じゃない。
それに、この私を、
私は好きじゃない、と。

人について以外でも、
そんなことはある。

前から欲しかったポストで、
やりたい仕事が与えられたとする。
自分の理想のポジションだ。

理想的な仕事のやり方、
人々に評価されるような仕事のやり方で、
一生懸命に、がんばる。

しかし、やっぱり、
考えるようになってしまう。

こういうやり方、私は好きじゃない。
私らしくないというか、
これじゃあ、私の力は出せていない、
という感じ。

そんなことを考えているときに、
別の仕事、ポジションの話が入ってくる。

そっちの方が面白そう。
それまでは、理想とは思っていなかったことだけれど、
なんか、そっちがいいと思えば、行動は早い。

理想だと思っていたものを、
さっさと捨て去って、
見も心も、切り替えることが出来る。

「理想の場所」が好きとは限らない。

理想の場所が与えられても、
自分のやりたいことが出来ないなら、
意味がないのだ。

それは、理想の人といっしょになっても、
自分のやりたいことをやらせてもらえないなら、
イヤになるのと同じだろう。

理想って何だろうなぁ...

2009年3月13日

空っぽになる

人間が、空っぽになる瞬間。

すんごい目標を達成したとき、

頭の中の悩みに打ちのめされて
いっぱいいっぱいだったのが
スーッと吹っ切れたとき、
(これはいい意味で)

とっても緊張したり、
好きで好きでたまらなかったり、
怒りや憎しみで、
そのことばかり考えていて、
パニックで何も考えられなくなったとき。
(こっちは悪い意味で)

空っぽになるんですよ。

あれ、俺って何だっけ?
何、言いたいんだっけ?
何をしたいんだっけ?

頭の中から、
引き出すものが
まったく何もなる瞬間です。

ものを書くことが多い私にとっては、
もしかしたら、
悩みに苦しんでいるときよりも
ピンチな状態かもしれない。

だって、
悩むことや苦しむことがあるうちは、
頭のなかに、ネタ(コンテンツとでも呼ぼうか)が
ありますからね。

今朝、本当は、
そんなにたいしたことを達成したわけじゃないのに、
なんか、自分勝手に、達成感を感じすぎてしまい、
「空っぽ」になりました。

ほんの10分くらいかな?

すっからかん。

本当は、考えれば、
ちゃんと考えるべきことなんて
たくさんあるのに、

脳のスイッチが入らなければ、
それすらしないこともあるもんですね。

このスイッチのオンオフを、
自分の意志で出来たら、
人間が悩むことなんて、
めったになくなるんでしょうけど...

でも、悩む人は、
そのスイッチをオンオフすることすら、
忘れちゃっているかもしれない。

実際、今だってすでに持っていて、
オンさえすれば、いつでも「空っぽ」に
なれるチャンスがあるんでしょうに。

2009年3月12日

100回失敗

100回失敗してみよう、
というアイデアは、とっても素敵だった。

という収穫を手にしたようです。

去年の春頃から、
正確に言うと、
去年の4月14日となっている。

どうしようもなくて、
心に思い当たった人に、
アドバイスを求めようとしたが、
その人と巡り合うことができず、

しばらくして、
新しいアイデアが出てきた。

そのアイデアを基に、
いろんなチャレンジをして、
100回の失敗を見た。

もちろん、ささやかな成功もあったけれど、
その時に思い描いた目標からすれば、
明らかに失敗だ。

でも、100回のチャレンジが、
現実のものとして終わって、
すでに過去となって、気づいたことがあった。

ほぼ1年という時間がかかって、
それほどの効果も出ていないけれど、
やったからこそ、わかったことは少なくないから、
かなりの意味があったと思う。

やらなければ、失敗してみなければ、
そういうこともわからなかったのだ。

失敗してみよう、
と思う瞬間は、

成功したい、
と思う瞬間よりも、

10倍は大切な気がする。

ひまわり証券の広告に、
「失敗と成功を繰り返して人間は成長する。」
という言葉があったけれど、

失敗をする覚悟ができた瞬間から、
成功に、少しずつ近づいているのでしょう。

そんな気がします。

あと、もう少し!

という気持ちにだけはなっています。

その「あと、もう少し」っていうのが、
現実には、どれほど近くて、どれほど遠いかは
分かりません。

それでも、100回失敗してみて、
素敵なことを学んだな、って思うわけです。

100回失敗しても、がんばりたいこと、
その先に、いいものが待っているんです。

2009年3月 9日

変わったという証明

出来なかったことが出来る、
それを見せられる瞬間ほど、
「変わった」という証明になるものはない。

そして、そういう瞬間ほど、
こんなに変わったんだ、
成長したんだ、
と思わせられることは、
やっぱりない。

素直に、感動したりする。

それが、たとえば、
自分の子供でなくても、
実際に見ていなくても、
話を聞いただけで、
そんな気分にさせられたりします。

もちろん、自分自身が、
出来るように「なった」となれば、
自分で感動することもある。

変わった、という証明は、
自分にとって、
それを見た、聞いた誰かにとって、
勇気にもなったりする。

「私も、その瞬間を見たかったなぁ...」

と残念がられることも。

変わりたい、と思います。
変わった結果を見せられる人でありたい、と。

でも、変わるネタがなかなか見つからなくなって、
ちょっと大変だなぁ、って思うことも多いです。

年とったんでしょうね。

2009年3月 3日

ピーンと

高校入試はあさって3月5日。
(うちの地元ですが...)

迫ってまいりました。

うちの娘は、来年なのですが、
なんとなく、ピーンとした緊張感を
おぼえます。

実際、中2の長女、中1の次女にしてみれば、
そのあさってには、学校で、実力テストがあるらしいので、

今年最後の緊張感を、受験生の3年生と
共有することになるようです。

来年の緊張感、
再来年の緊張感にそなえて、
今日と明日は、がんばって勉強することでしょう。

わたしも、応援も兼ねて、
何か勉強をしなくちゃ、
と思っているところです。

学校で学んだことが、
大人になってから役立つシーンというのは、
それほど多くはありません。

それは事実です。

だから、
「学校で学んだことは役に立たない」
などと言われます。

けれど、
「勉強する」習慣は、
間違いなく、役に立つと思います。

いや、それに対しても、
人間は、いざとなれば、
何が何でも勉強するもんだ、
という意見があることも知っています。

ただね、いざとなっても、
勉強する気になれない人間がいるのも
事実なんです。

可能な限り、逃げて、逃げて、
にっちもさっちもいななくなって、
行き詰って、最悪な状態になるのです。

いざとなって、学ぶ力が出てくる。
それに期待するのは、
人それぞれの自由ですが、
そうなるとは限らないので、

勉強できるときに、
勉強する習慣を身につけておきたいですね。

がんばれ!受験生。

2009年2月27日

幸せの反対は成功

勝負事にこだわる男がいても、
なんの不思議も感じません。

幸せにこだわる女性がいても、
なんの意外性もありません。

けれど、時に、
男以上に、「勝ち」にこだわる女性を見ると、
この人、男性化しているなぁ...
男性社会で生きたほうがいいかもなぁ、
と思わされることがあります。

それは、決して、
性同一障害とか、
性転換というような「性」の問題ではなく、
目標として目指すものの話であって、

どちらかと言うと、
男女平等社会から
生まれてきた傾向かもしれない。

日経BPサイトに、

「男の幸せ」という言葉はあまり聞きません。
男性にとって、「女の幸せ」に対応する言葉は
「男の成功」かもしれません。

っていう言葉がありました。

なるほど、そうかもなぁ、と納得。
私が感じていたことは、これなんでしょう。

男が勝ちたい気持ちは、
つまりは、成功に通ずるものであって、

女が手に入れたいと思う気持ちは、
きっと、幸せに通じるもの。

それが、女の人が成功を求め始めると、
どことなく、男性とかぶってしまう。

それは、子育ての分担、家事の分担を誰がするか、
ということに限らず、1つの空間にいっしょにいた時に、
それが、家族であれ、職場であれ、
ほぼ同じような傾向の人間ばかりがいるということ。

もちろん、だからと言って、
昔のように、女子社員の仕事は、
お茶くみとか、コピーとかだなんて言うつもりはありません。

なんていうか、
男性は成功を求めて仕事をして、
女性は幸せを求めて仕事をして、
そういう違う姿が相乗効果を出すはずなのに、

二人とも、成功を求めてしまって、
見落としてしまうことが増えてしまう感じを
想像してしまいます。

そういう意味で、
成功を求めることの反対は、
幸せを求めることなのでしょう。

成功を欲しがる人ばかりといっしょに居てはいけない。
幸せを求める人が、そこには必ず居たほうがいい。

それが、成功もして、幸せになる方法に思えます。

2009年2月20日

パワーの配分

なにかをがんばろう、
って思い立ったときに、

がんばるパワーに問題がなければ、
残る問題は、そのパワー、力を
どんなことに、どんなふうに配分するか、
っていうことになります。

一人でがんばるしかないことであって、
がんばる方向が、いろいろと分かれるはず。

一人じゃないことであれば、
それは、もっと、いろいろに分かれる。

誰に何をやらせるかで、
その結果が変わってくるのも明らか。

もちろん、そこには、
ほとんど何も出来ない人がいて、
その人が、少しでも役に立つように、
何かを教えたり、何かを学ばせたりする必要も出てくる。

そういうことをさせるために、
時間を割いたり、心を注いだりするパワーも、
バカにならない。

思った以上に、
一人でどんどん習得して、
一人でどんどん成長していってくれる人なら、
まったく問題ないけれど、

必ずしもそういうわけでなく、
むしろ、そうじゃないことの方が多いから、
どれだけのパワーを注いで、
そこを見守っているかが大切。

あまり近づくと、
うっとうしがられることもあるだろうし、

あまり遠くから見てばかりいると、
気が抜けたり、頼りにされていない気持ちになって、
せっかくのパワーが、それこそ分散していたりする。

自分のパワーの配分、
自分以外のパワーの配分。

これをどう計画して、どう進めるか。
当たるも、外れるも、投資、ギャンブルみたいなもんですね。

2009年2月14日

気持ちの100%理想

自分のスタイルが、
100%理想に近づくよう、

ダイエットをしたり、
運動に励んだりする。

その理想に近づくことに、
大きな価値があればあるほど、
がんばることが出来る。

それと同じように、
自分の気持ちの状態を、
100%理想に近づけたいと思った時には、
なかなか、難しい人もいる。

実際、何ごとでも、
100%理想に近づけることは、
カンタンじゃない。

たとえば、心の中に、
憎しみとか恨みとか持たないとか、
マイナス思考にならないとか、
いつも明るくなるとか、

そんな気持ち、心の状態の理想をもっていて、
過ごそうと思っても、

日々の生活のなかには、
いろんなことが起きて、
どんどん、わっさわっさと
心を揺らそうとする出来事が
迫ってくるもの。

平常心を保っていようとしても、
なかなか難しくて当たり前。

気持ちの100%理想を達成するなんてことは、
理想にしないほうがいいのかもしれません。

でも、完璧主義の人には、
そういう理想をもたないほうが難しいことでしょう。
困ったもんです。

2009年2月 8日

応援のやりがい

見えないところで、
がんばっていなくても、

見えるところで、
がんばっている姿を見ると、

それにだまされて、
応援のやりがいがあったりするものです。

見えないところで、
がんばるためには集中力が必要ですが、

見えるところで、
がんばっている姿のためには、
ちょっとした演技力が必要です。

そう、演技力。

スポーツであれば、
大きな声を出すとか、
一生懸命動いているとか、
そんな姿を見せること。

勉強や仕事であれば、
真剣な眼差しをみせるとか...

しかし、本番だけで、
そんなことがすぐに出来る
わけではありません。

だらけてしまうわけじゃないけど、
とても、緊張してしまって
自分の力が出せないという人にも、

応援のやりがいがなかった、
という印象が残ったりします。

あんなにがんばってきたのに、
もったいない、なんとか出来なかったのか...

みたいな感じです。

勝てないと分かっている試合を
応援することに、すごく虚しさを感じて、
応援にも行かない、なんて人もいるでしょうから。

応援を引きつける「演技力」。
誰も一人では戦えないことが分かっているのですから、
そういう力が欲しいところです。

2009年2月 6日

昼寝しながら学ぶ

ダイヤモンド・オンラインにて、
昼寝をすると、創造性がアップする、
というような記事がありました。

なんでも、昼寝をしながらでも、
人間は学べる、と。

睡眠学習っていう言葉が以前からあり、
昼寝も、同じ寝ることに変わりないから、
当然といえば、当然ではありますが...

学校や会社で眠気を感じて、
思わず、寝てしまったとしても、

「今、ちゃんと勉強してましたから」

という言い訳が通用する時代が来るのかな。

いやいや、そんなことはない。

寝ている時の学習っていうのは、
かなり限定されると思います。

胎児が子宮の中にいて、
何かしら学ぶことにも
限度があるように...

寝ている間の学習には、
やはり、そんなに興味をもてません。

心に「キタ~!」と思ったのは、
想像力がアップする、という話。

今のわたし、創造力を、渇望しています。
創造力に、飢えています。

欲しい、欲しい、欲しくて、たまらない!

昼寝をして、創造力が養われるなら、
いくらでも、寝てやるわい。そんな気分です。

眠気を感じている頭の中には、
たしかに、創造性のあるアイデアは、
出てこない。

これは、すでに経験済みだ。

だったら、寝ればいい。

しかし、だらけているような自分を感じてしまって、
あと、他の人の目も気になって、
昼寝をすることなんて出来ない。

でも、でも、この話によれば、
何の後ろめたさを感じることもなく、
寝てもいいというわけだ。

寝よ~、寝よ~。

遠慮しないで、昼寝しよ~。

2009年1月28日

仕事が遅い

仕事の遅い人間には、
2つのタイプがあって、

速くやろうとは思うけれど、
カラダとかアタマが動かない、
というタイプと、

速くやろうという気がないタイプ。

そのいずれかです。

もっと厳密に分ければ、
そのタイプとは別に、
調子が悪くて仕事が遅い、
などという場合もあるでしょう。

とは言っても、とりあえず、
その2つのどちらなのかなぁ、
ということをよく観察して見極めて、
相手と対峙しなければいけない。

やる気のない人間に、
時間を投資しすぎて、
もともとのやる気が問題だった、
と気づいても遅いわけで、

ある程度のところまでがんばって、
ダメなら、あきらめるしかない。

やる気のある人間であるなら、
速く仕事ができるように、
素早く動けるように、
何らかの「ダイエット」をしたり、
動けるようになる知識とか技術を
教え込めばいいわけです。

やれば出来るのにやらない人間と、
やっても限界があるけどがんばり続ける人間。

どちらの人間に対して、
人は助けたい気持ちを持てるか、
と言えば、心理的には後者でしょうね。

そして、がんばり続ければ、
仕事もいくらか速くなることもある。

やれば出来るんだから、
と油断している方は、どんどん
時代から取り残されてしまうこともある。

仕事が速い振りをするだけの人間には、
ならないようにしなくちゃいけないですね。

2009年1月21日

慣れないこと

女の人と話すことに
慣れていなかった時期、
というものがありました。

ほぼ男子校みたいな環境にいて、
当然のごとく、男だらけの寮に住んでいて、
男の先生ばかりが多い。

久しぶりに、
女の人を目の前にすると、
なかなか、言葉が出てこない。

人それぞれの環境で、
慣れないことって、
いろいろあると思います。

慣れない食べ物、
慣れない言葉、
慣れない仕事、
慣れない気候、
慣れないクルマの運転...

慣れないことに慣れようとする人と、
慣れなくてもいいと投げ出す人と、
2つのタイプがいるとすれば、

自分は投げ出す側だとしても、
慣れようとする人の方が
付き合いやすいと思うのは
ごく当たり前のこと。

そういうことが分かっているんだから、
慣れようとがんばればいいのですが、
なかなか、その気にはなれない。

やっぱり、
「がんばること」に慣れてない
というわけです。

自分自身ががんばらない人ほど、
「がんばること」に慣れていない人に、
腹が立ったりします。

かなり身勝手な話ですが、
そういうものなんですよ。

自分が、がんばらないことには慣れていて、
けっこう長い間、そのまま放っておけますが、

他の人の「がんばらない」姿には、
いてもたってもいられない。

お店であれば「店長を出せ!」と叫び、
お役所であれば「税金を返せ!無駄遣いだ!」と批判し、
身内であれば「やってくれてもいいだろ!」みたいに言う。

でも、自分がそうであるように、
がんばることに慣れていない人を、
がんばらせるって、けっこう難しいんですよね。

2009年1月17日

英雄が欲しい

昨日のアメリカにおいて、
ハドソン川へ不時着陸した飛行機ニュース。

離陸からだいたい15分間の、
適切な判断とテクニックで、
死者を出さずにやり過ごした機長は、

いまや、アメリカの英雄のようです。

アメリカに限らず、
日本にも、英雄が欲しい時代ですから、
これは、ホントにええ話です。

こんな言葉を思い出しました。

「年を重ねると、
ヒーローを見つけるのが
より難しくなるんです。
でも、本当は、
年を重ねた時こそ、
必要みたいです。」
(英語)
As you get older
it is harder to have heroes,
but it is sort of necessary.
(アーネスト・ヘミングウェイ)

たしかに、その通りですよ。

年を重ねると、
問題が大きくなったり、
複雑になったりしますから、

どうにかして欲しい、
サーッと現れて、
何事もなかったような状況に、
リセットして、

サーッと去ってくれるヒーローが
いて欲しい気持ちになるのは分かります。

だったら、自分が
ヒーローになってやろうじゃないか、
なんて思う気力が残っていれば、
いいんでしょうけれど、

毎日の生活に、
大人は擦り減っていたりしますからね。

もし、そういう大人の問題が、
子供たちにしわ寄せとなって、
子供たちの心でさえもしぼませていたら、
日本という国はどうなるんだろうか?

なんて、生意気なことを考えています。

だったら、何が出来るか。

なんて難しいことは考えられず、
少なくとも、身近な家族のなかでは、
英雄、ヒーローまでいかなくても、

必要な試練を、いっしょに乗り越えたり、
ちょっとしたヒントを与えられる存在でいたい、
と思う次第です。

出来れば、試練の原因になる存在にはなりたくない。

ただ、ハドソン川の英雄のように、
瞬時に適切な判断ができる政治家が
いたらいいなぁ、と思ってしまう私もいるのは、
事実ですが、ちょっと贅沢でしょう。

2009年1月16日

才能を支える精神力

20歳初めに見た映画「ホーム・アローン」。
たくさんのギャラを手にしただろう、
主演のマコーレー・カルキン少年。

今は、少年の面影もなく、
人生でいろいろと苦労している話が
海の向こうから報道されています。

彼以外、俳優業以外でも、
その才能に恵まれて、
大人を超える活躍をする少年少女は、
出てくるたびに、目立つものです。

その才能については、
ホントにうらやましい限りですが、
その後の人生を知る機会があると、
考えさせられることも多いです。

大ざっぱに言えば、
才能を支える精神力がないと、
その才能は、最後の一滴まで
活かされることがないんじゃないか、と。

この最後の一滴、
っていうのが、
ポイントだと思います。

若くして注目される才能が、
あっという間に枯れてしまう、
とは思えない。

じゃあ、なぜ活躍できなくなる人がいるのか。
最後の一滴まで活かせないことがあるのか。

それが、才能を支える精神力が
足りなかった、ということかもしれない。

場合によっては、
その少年少女の親とか、周囲の人間に、
それが足りなくて、失敗するケースもある。

才能を支える精神力を、
瞬間的なパワーだとすれば、

才能を支える霊魂力みたいな、
価値観、人生観、経済観という
長期的なパワーも必要かもしれない。

才能といっしょに、
そういう精神力、霊魂力も育まれないと、
才能はまとまったままでいられない。

才能=水にたとえれば、
精神力、霊魂力=コップ。

コップのサイズを大きくしていったり、
壊れないように強化していかなければ、
水がこぼれたり、もれたりしてしまう。

子供の才能を伸ばすことばかりに、
親とかが集中してしまい、
精神力や霊魂力の方がついてこないと、
どこかでバランスを崩しますから、
気をつけなくちゃいけないな、と思いました。

2009年1月13日

思考のジャンプ

論理的に考える人のことを、
冷たいとか、頭がかたいとか、
言う人がいたりしますが、

どうやら、
論理的に考えない人の方が
頭がかたいのでは...

ということを最近分かってきました。

(すでに、分かっている人も多いでしょうが)

どうやら、私も、
論理的に考えられずに、
頭がかたかったようです。

そして、冷たいか、冷たくないかは、
論理的に考える人かどうかとは、
あまり関係ない。

論理的に考えない人は、
どう考えるかといえば、

感情的に考える。

感情的に考えるということは、
その人の感情のクセにしたがって、

思考のルートというか、回路、
考えの「流れ道」が決まっているから、

さまざまな出来事、問題が、
目の前に来ても、
ほとんど同じ反応をしてしまう。

考え方に至ってしまう。

たとえば、

「今日から、新しい営業スタイルで仕事しましょう」

「それは、無理だ!」

「今日から、この練習をしましょう」

「そんなことは、バカらしい!」

「今日から、これは、あなたがやること(仕事・担当)です」

「これは、出来ない!」

こんな具合でしょう。

思考がジャンプをしてしまう。

どうやれば、出来るか?
と論理的に考える前に、

うぉ~、パニック!出来ない。
と感情が前に出てきてしまう。

「ひらめき」っていうのは、
思考のジャンプと思われがちですが、

どうしてどうして、
頭の中では、論理的に、
何かしらの思考に連想が働いて、
ひらめきが生まれてきている場合が多いのです。

そういうことから導き出されるのは、
上司(または目上の人間、親、先生など)が論理的でなく、
部下(または下っ端、子供、生徒など)も論理的でない場合、

とんでもなく、空回り、悪循環する関係が
生まれる可能性が高いということでしょう。

論理的に書けたかな。

今日は、論理的に生きていきたいと考えています。

2009年1月 6日

theの話

「theが分からない。」

長女がそう言ってきた。
英語の勉強だ。

「なんで、theくらいのことが分からないのだ?」

そんな気持ちで、
theについて教え始めると、
自分も学生の頃に、
よく分からないでいたことが、
思い出された。

長女が尋ねてきたのは、
こういう例文を書くこと。

問題:あなたの家は、駅から遠いですか?

長女は、

Is your house far from station?

と英文を作った。

しかし、正解では、
station のまえに、theが付く。
the stationだ。

なんで、theが付くの?

という話になる。

中学校の頃は、
theを「その」と訳するようなクセが
ついてしまったりするから、
そういう疑問が出てくるんだろう。

間違いでもないけど、
会話のなかで、限定される、
また、絞り込まれることに
theが付くことなんだ、
と教える言葉が、私の口から出てきた。

the station

尋ねている人は、
具体的な駅名までは分からないけれど、
一番近い駅をイメージして尋ねるだろうから、
限定していることになる。

そして、尋ねられた方は、
間違いなく、自分の家から近い駅を限定し、
駅名やら、場所、距離などもイメージして
答えることだろう。

会話のなかで、
お互いのイメージが共有されて限定されるところに、
theが使われるんだよ、と補足した私。

だから、

Where is the pen? (the penはどこ?)

といきなり尋ねられたら、
ふつうであれば、

What is the pen? (the penって何?)

と尋ね返されるんじゃないかな。

イメージを共有していないのに、
the をつけて会話されれば、
?と思われて当然なのだ。

しかし、面白いことに、
尋ね返されるときのtheは、
共有されている。

あなたが言っているthe penって何?

というわけで、お互いの頭の中で、
the penが、ある意味共有されるわけだから。

そんな余計な説明まで、
してやったけれど、
どうやら、長女は分かったようだった。

ただ、
ひと晩明けて思った。

そんな説明で良かったのかなぁ...って。

中学校の勉強くらいは、
まだ教えられるが、
高校くらいになると、どうだろう。

ちょっと不安になる。

分からないことは、分からないと言うしかないな。

2009年1月 4日

負ける方法

自分のまわりに、
良きライバルがいないために、
いつもいつも勝てる状況にいるために、

かえって弱くなることが
あるように思います。

それはそうでしょうね。

スポーツであれば、
自分よりも強い選手がいるはずだし、

ビジネスや仕事であれば、
自分よりも能力のある人がいる。

良きライバルがいないと、
そういうことを忘れがちになる。

「なんだ、自分って、
 すごいんじゃない?」

みたいなことばかりを
いつもいつも確認することになるわけです。

でも、普通であれば、
そういう自画自賛を確認することに
飽きてくるものなのですが、

飽きてこない人種もいる。
それがナルシストっていう人。

ワンパターンの自画自賛シーンに、
何度出くわしても、飽きないわけです。

しかし、
本当に強くなりたい人、
負けたくない人は、
そういう自画自賛シーンに
飽きた方がいい。

そして、良きライバルが
いないならいないで、
自分が負けるかもしれない状況を
考え出した方がいい。

そういう状況を考え出して、
その上で、そういう状況の中で、
どんなふうにしたら勝てるか、
そういう訓練や練習が必要だと思うんです。

そういう思考に至ることが出来ない人は、
いつまで経っても、井の中の蛙...

いまは勝てても、
そのうち勝てなくなるでしょうね。

2008年12月26日

話題となる

あいまいな態度を
示している人が多い中で、
ズバっとハッキリとした発言や行動を
する人がいると、

話題となる。

おとといの例でいえば、
自民党の渡辺氏が
麻生首相に対して造反。

昨日は、
秋田県の寺田知事が独自の判断で、
小中学校の全国学力テストの結果を、
市町村別で公表したこと。

もちろん、応援する人もいれば、
バカなことをしたもんだ、
という人もいるだろう。

どちらも、世論が大きくなびけば、
追い風になるが、
このタイミングで別のことが起きて、
世論の関心が他に向いてしまえば、

ちょっと変わったことをしたことで、
孤立することになったりもする。

話題となるということは、
そういうことだと思う。

注目されて、
その1人だけに人々が群がっていたのが、

その群れがサーッと引いていく。

いっつも、話題をつくっていない限り、
いつかは、人々が去っていく。

マラソンとヨットで世界一周をする「アースマラソン」へ、
12月17日に出発した間寛平さん。

スタート前日、当日、その後には、
話題性もあって、報道されていましたが、
今は、あまり情報が入ってきません。

「どんなことがあっても、
 何年かかっても帰ってこようと思ってます」

という決意には、すごい話題性がありますが、
人々には、それぞれの生活がある。

命や、いろんなものをかけてまで
話題になったとしても、その結果は分からない。

今話題になっている人は、
1週間後、1ヵ月後、1年後、
どうなっていることでしょう。

2008年12月23日

なんとか数値にする

5年くらい前からだろうか、
百ます計算という言葉が
流行りだしました。

これは、小学生の計算能力を高めて、
ほかの学力向上にも結びつけよう、
という陰山英男先生の試みでした。

この先生、だいぶ有名になって、
週刊ダイヤモンドなんていうビジネス雑誌にも、
登場しています。

最近の言葉に、こんなものがありました。

 「数値だけ」ではダメだが、
 数値はやはり重要なのだ。
 (陰山英男)


その通りだと思います。

世の中には、
何らかの成果というものを、
数値に表せないものもありますが、

数値に表すことが出来るのなら、
やっぱり、数値にした方がいい、
と私も思います。

そうすると、それをアップさせたり、
良くさせたりする目当てを
もちやすいから。

子供の世界ばかりでなく、
大人の世界もそうでしょうね。

ただ、問題は、
その数値に、なんていうか、
感情を入れ込むなどの操作が
出来ると、ちょっとマズイ。

たとえば、
100mを何秒で走れたか、
というのには、
何の感情も入りようがありません。

スタートでオンして、
ストップでオフにして、
時間が表示される。

体重、身長も、
そのままの現実を
計測してくれる。

しかし、何かの決定率とか、達成率、
というものを計算して表そうとする場合には、
これを含むか、含まないかのラインが
あいまいになりやすいものだと、
そこから計算される数値も、あいまいになる。

なんとか数値にはしてみたけれど、
その数値がなんとも役に立たない、
という具合でしょう。

目当てにする数値の中身が、
あいまいになると、
その数値対する「やりがい」も
薄れてくる。

それを盾にして、
指導されたり、命令されたりすると、
今度は、ウソの報告が始まったりする。

あいまいであるゆえに、
可能なウソです。

数値の扱いっていうのは、
いつでも、ややこしいものだと思います。

2008年12月20日

手の内を見せる

「これは健康にいいよ~」
と誘われる商品がある。

同じ商品について
「これは金儲けにいいよよ~」
と誘われる人もいる。

こんな不景気な世の中では、
ほとんどの人が、
警戒心が強くなっていたりするから、

単純に、
「○○にいいよ~」
と言われても、
すぐに飛びついてもらえるわけじゃない。

そうなると、話術の上手な人を仲間に引き入れて、
その人から、うまい具合に誘ってもらった方がいい。

だから、そういう人に対しては、
手の内を見せて、
「金儲けにいいよ~」
なんてセリフに変わってくる。

手の内を見せられたときに、
ちょっとドキっとすることがある。

「なんで、わたしにそんなこと言うの?」

みたいな感じ...

けれど、よくよく考えてみれば、

(つまり、そういうことを言うってことは、
 私をだますつもりはなくて、
 私を仲間にしようってことかしら...)

という結論にたどり着く。

実は、だまされるよりも、
仲間に加えようとしているのは、
ちょっと怖い気もしたりする。

それでも、
私のことをだまされるような人でなく、
仲間としてがんばれる人だと認めているんだ、
なんて、勝手に考えれば、
嬉しいとか思うかもしれない。

仲間。
響きがいいですからね...

手の内を見せられたら、
ちょっと注意しなくちゃいけない時代なのかも。

いい話の仲間だったらいいんですけど。

2008年12月10日

生かすか、つぶすか

今朝は、ソニーが世界で
16,000人のリストラを行う、
というニュースが報道されています。

先週は、アメリカの
自動車メーカービック3(GM、フォード、クライスラー)が、
政府から救済を受けるための、人員削減計画などが
話題になっていました。

それ以外にも、さまざまな会社で、
似たような話があるようです。

おーっ、一気に、
キビシイ世の中になってきた、
という感じがします。

妻が娘らから、

「どうして?」

と尋ねられた。

「世の中、仕事がなくなってきたんだよ。」

と説明していました。

私なりに言えば、

「仕事を創れる人が、
 少なくなってきたんだよ。」

と思います。

お金はあるところにはある。
それが動くような、魅力あるものが
出てきていない。

だから、それを創れない、
生み出せなくなってきた会社の「一部分」を
生かすか、つぶすか、ということで、
世の中は、騒いでいることになるのでしょう。

作れば売れる、
という大量生産の時代は、
本当に過ぎ去ったんだなぁ、と感じます。

師走を迎えるこの時期に、
麻生首相に対する支持率も下落して、
日本は、ちょっと暗い新年を迎えそうです。

ただ、個人的には、
そんなこととは無関係に、
元気な気持ちで生きていたい、
と思っているところです。

皆さんも、がんばりましょうねぇ。
負けるな、ニッポン!!


2008年12月 9日

目標とアイデア

2009年まで、
あと21日しか残っていない。

その残りの「今年」をがんばるとしても、
やっぱり、新しい2009年の目標とかを
考えたくなる時期ですね。

考えたくないとしても、
考えるよう催促されている人も
いるかもしれません。

自分で自由に目標を考えられる環境に
いる人は、ある意味、幸せかもしれません。

なかには、「上」からの目標を受けて、
それを自分の目標に落とし込むとか、
自分の目標に反映させるとかしないと、

「自分の目標」を認めてもらえない人も
いることでしょう。

たいへんな立場です。

まして、世の中が不景気になったり、
思わしくない結果が続くと、
「上」からの目標は、
だんだん窮屈になってきます。

それを、自分のものとして考えるのは、
この上なく「やらされ感」を感じる原因になります。

やらされ感では、
目標に向ける「やりがい」も
トーンダウンすることが多くなります。

目標だけならまだしも、
その目標を達成するための手段やアイデアまで、
限定されてしまうと、

もう、自分は道具に過ぎないのか?

みたいな感情になって、
その目標に向けてがんばる日々が、
苦痛になってしまうことも...

目標を考えるこの時期、
あるいは、3ヵ月後の年度末の時期、
目標を考える人々には、
いろんな感情がうずまきますね。

果たせないと分かっている
無謀な目標であれば、
なおさら、虚しい。

うーん、気合では
どうにもならない目標があるのも、
事実だと思います。

2008年12月 3日

パートナーも成長

今年引退した、KKコンビ。

KKコンビで分かる人たちは、
それなりの年代かもしれない。

わたしが言っているのは、
PL学園出身の
桑田真澄選手、
清原和博選手。

それ以前の世代にも、
KKコンビなるものがあったのかは、
分からないですが...

桑田選手が、
清原選手より早く、
アメリカ大リーグを引退して、
日本に帰ってきた。

そして、日本テレビの
「行列ができる法律相談所」にて、
清原選手のバッティング・ピッチャーを務めるために、
現役時代と同じレベルのボールが投げられるよう、
毎日練習をしている、と語った。

しばらくして、
清原選手が引退することが決まり、
そのバッティング・ピッチャーとして投げたシーンが、
テレビで放映されたりもした。

実際に、清原選手の練習相手として、
十分なレベルであったかは分からないけれど、

一流プレイヤーの練習パートナーになるためには、
もしかしたら、本人以上に練習をしなくちゃいけない
かもしれないなぁ、って思います。

少なくとも、同等なことができなくちゃいけないでしょ。

最近の私は、そういうことを痛烈に感じます。

娘らの卓球練習相手であるために、
思いついたときに、
練習に付き合っているような感覚で
過ごしてきていましたが、

どうも、それでは、
練習パートナーが務まっていない、
ということが分かったのです。

つまり、強化する相手になりえていない。

伸び盛りの娘らのパートナーでいるためには、
大げさな話。娘ら以上に、
練習をしていなくちゃいけない。

そんなことを感じました。

なめていたんでしょうね。

練習相手さえできるレベルであればいい、と。

しかし、練習パートナーであるためには、
レベルをアップしていなくちゃ話にならない。

ダイエットも兼ねて、
この冬はがんばってみようと考えています。

(追伸)
夫婦関係も、これに似ている気がします。
相手がいい人であれば、
幸せになれるわけじゃありません。

自分も、いいパートナーとして、
いつも成長していないと、
幸せを感じることも出来ない。きっと...

2008年11月25日

立場のこだわり

これからの時代は、
会社の合併や
学校の統合など、

2つや3つあったものを
1つのものにすることが
多くなるだろうなぁ、と思います。

それは、なんていうか、
合理化とか、縮小化とか、
そういう目的になることでしょう。

で、そういうことが目的なんだから、
妙なこだわりなんか捨てて、
考えるべきことに集中すればいいのでしょうけど、

そういう場面にありながら、
自分たちの立場にこだわって、

いっしょになった後の名前は、
こちらの名前を使わせてもらう!

いや、こっちの名前だ!

という議論を始める人たちも
少なくない。

そんなことを言っている場合じゃないから、
いっしょになろうというのに、
立場にこだわって、
そんな話を始める人たち。

それで、いっしょになる話が、
ぶちこわれて、その先では、
どちらも立ち行かなくなる。

やっぱり、いっしょになりましょうか、
という話は再び始める頃には、
双方ともボロボロになっていて、
復活の体力すら残っていないなんてことに...

立場へのこだわり。
男の人は、特に強い。

そんな場合でない時でも、
そういうプライドだけは、
立派に残っている。

うーん、私も男ですが、
男は面倒くさい、と思います。

2008年11月22日

見捨てたい気持ち

もうダメだ、この人は、
と思ってしまった人を
見捨てるのは簡単で、

身内でなく、
相手に対して責任を感じなくていい人、
自分にとってどうでもいい人を
見捨てるのは、ポイといつでも出来る。

そんな時でも、
ふと考えてしまうのは、
この人を見捨てないことで
自分が成長できるんじゃないか、とか、

この人を見捨てたら、
自分の大切な人が困るんじゃないか、とか、

直結じゃないけれど、
何かしら、自分とのつながりを
感じてしまう時だろうと思う。

わたしも、例外にもれず、
その人に対しては、
何の恩義もないが、
私の大切な人が困るというか、
残念な目に遭うことが
予想されたりすると、

ダメな人間だと思っても、
見捨てられなくなる。

でも、そんなことを積み重ねていれば、
面倒を見なければいけない人間ばかりが増えて、
誰のことも見捨てられなくなる可能性すらある。

人一人が面倒を見られる人の数っていうのには、
必ず、限界があると思うから、

どこかで、線引きをして、
心の中で見捨てる。

冷たいハートの私でも、
見捨てることに、ちょっとした罪悪感を感じながら、
見捨てる。

ただし、見捨てられたことによって、
必ず、その人々が不利益をこうむるかと言えば、
見捨てられたことによって、
自分たちのやる気が芽生えて、
自分たちで問題解決していく姿に変わった、
ということもあるから、

「自分がやらなければ、どうしようもなくなる」
って思うのは、善意かもしれないけれど、
自意識過剰なところもあるんだな、
って気づかされた。

たまには、見捨ててもいい。
そこから、何かが生まれることもあるから。

一番ダメなのは、自分も、相手も、
変わらないことだと思います。

2008年11月19日

すべる

「すべる」という言葉に
とても敏感な時期がありました。
受験シーズンです。

学校のスキー教室を
ズル休みしたほど、
ナーバスになっていた、という記憶があります。

「すべる」というと、
なんとなくマイナスのイメージが
ついて回るのは事実。

受験に限らず、
クルマを運転していて
冬道をすべらせてしまうのは命とり、
手に持っていた皿が
すべり落ちて割れるのもダメ。

昔、会社の同僚である女子社員が、
お酒の席で、上司のツルツル頭に、
ガムテープを貼って
「ツルツルすべって、貼れない」
なんてやっていましたが、
これも普段ならNG場面。

笑いがすべってしまったら、
空気がシラケテしまって、ヒンシュクを買う。

しかし、すべるにも、
いいことはある。

スキーでも、スケートでも、その他のことでも、
ちゃんとすべらせることをコントロールできれば、
とても気持ちよかったり、役に立つわけですから。

問題は、その「すべる」をうまく
コントロールする方法なんですよね。

それが出来れば、世の中では、
いろんなことが過ごしやすくなる。

もちろん、すべっても、
気にしないでいられれば、
何も問題もないわけですが。

ここ数日、うまく「すべる」方法をさがしている私です。

2008年11月17日

なんでも出来る

いろんなことについて、
なんでも出来る、
ということはないが、

何らかの分野については、
なんでも出来る、
っていうことがよくあるかもしれない。

そういう私にも、
我ながら過信してしまうが、
けっこう、なんでも出来ちゃうなぁ、
と思う分野に気づいた。

ちょっと恥ずかしいので、
くわしいことは言えないが、

大切なのは、
そこで気づいたこと。

やっぱり、
なんでも出来る、

っていうのは、
なにも出来ない、
に近いかもしれない、ってこと。

学校の勉強とかだったら、
そういうことは、歓迎されるかもしれない。

国語、数学、英語、理科、社会、
すべて80点の人は、

50、60、100、65、70の人よりも、
優秀だ、ということで認められるだろう。

100、70、75、75、75の人と
比べられても同じだろう。

けれど、すべて80点の人は、
どの教科においても、1位はとれない。

勝てるのは、合計点のみ。

だから、
数学の道でトップを目指そうと
がんばる人にとっては、
その「なんでも出来る」人は、
ライバルになりえない。

きっと、その人は、
平均的になんでも出来る人じゃ、
切磋琢磨できないから、
数学だけ頑張ろうとする人を
仲間として探すだろう。

限定した目標を持っている人にとっては、
鼓舞する存在になりえない、ということ。

偏っててもいい。
飛びぬけているものがある人の方が、
ありがたい。

ちょっと、わたしも、
飛び抜けたいと思