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常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

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2010年8月19日

ウソと本当のバランス

人の話のなかに、
すべてウソしかない、
ってことはまずない。

ちょっとウソがあるから、
相手に信じられやすい。

そして、
そのちょっとしたウソを
うまく入れられる人が、
本当の「うそつき」だけれど、

最初から最後まで、
すべて本当のウソを入れて、
突き通そうとする人は、
本当の「うそつき」にはなれない。

うそっていうのは、
話のなかや、その人自身に、
ゆがみをもたらすから、

だいたいバレちゃうんですよね。

ウソの部分が
核心であればあるほど、
ウソをついている側は、
そこに思いが集中して、
話をしてしまう。

すると、話に、

というゆがみを感じられて、
そこを問いただされているうちに、
ウソが暴露してくる。

そうでない場合でも、
ウソをつく人間は、
それを突き通すために、

また、後になって、
別のウソをつくことになって、
それを重ねるたびに、
ウソの自分を演じているわけだから、

自分の内面が
ゆがんでくる場合もある。

さらに、
そういうウソをつくのが、
上手になって、

なかなか、バレることが少なくなった人間は、
知らず知らずのうちに、
「まっすぐなところ」、
「日の当たる場所」なんかを歩けなくなって、
逃げているような生き方すらするかもしれない。

おかしい、と思われることが多くなり、
実際、そのおかしさを自分でもわかってくるから、
ますます、ゆがんだ生き方になっちまう。

本当のなかに、
絶妙に混ぜ込んだウソ。

バレることはないかもしれないが、
自分だけは分かる。
それを自分が背負って生きる、
っていうのは、けっこう辛いことなのだ。

ウソなんか、つかない方がいい。
自分が苦しくなるだけ。

それが分かっていても、
人は、ウソをついてしまう。
因果な生き物だね、人間は。

2010年8月18日

カケヒキ

自分の思いどおりにするか、
相手の思いどおりにさせられるか。

0か、100かで考えれば、
そういうことなんでしょうけど、

カケヒキ、交渉は、
どこまで歩み寄れるかが、
やっぱり、ポイント。

自分の思いばかりを、
100%通そうとすれば、
当然ながら、
話はほとんど進まない。

相手の思いを
100%すべて飲み込もうとすれば、
その時か後になってから、
苦しくなる。

だから、ちょうどいいところを探す。

もし、それが見つからないようなら、
交渉しない、カケヒキなし、
という結論を出すしかない。

もしも、幼い頃から、
こういうカケヒキを数多く、
こなしていれば、
大人になったときにも、
そういう状況に慣れやすい。

しかし、
そういう経験なく、
大人になってしまうと、
カケヒキの場面で、
意外と簡単に負けてしまう。

あるいは、
コロッと自分の意見を
変えてしまったり、

交渉決裂の場面ばかりが
増えてしまうことだろうな。

交渉決裂、
っていうことも
あって悪くない。

けれど、そればかりしかない、
っていうのは、なにか、
交渉が下手だというイメージに
なりかねない。

かといって、決裂はしないけれど、
相手の要求ばかり飲まされて帰ってくる、
っていうのは、芸がなさすぎる。

日本人は、あ・うんの呼吸で
通じ合うようなことが、
美徳として語られるけれど、

そんな呼吸は、実際のところ、
外人に通じないどころか、
価値観の違う日本人同士の間にだって、
通用しない。

あまりにもカケヒキ上手な子供は、
かわいげがないけれど、
子供の頃から、そういうカケヒキに
慣れていたほうがいいのは、
今の時代には必要かもしれないな。

2010年8月11日

焦らせる話

心地よい話をもってきてくれる人は、
いつも、決まっている。

一方、
怪しげな儲け話や、
心を不安がらせたり、
焦らせたりする話を
もってくる人も決まっている。

それは、
なんていうか、
運命とか、そういう言葉で
説明はできないけれど、

その人が持っている思考が、
そういう話をセットで、
いつも携帯しているようなもんだと思います。

逆にいえば、
その人の心のなかには、
そういう話しか生まれようがないのでしょう。

あの人としゃべっていると、
なんだか楽しい、
と思える相手と、

この人とは会うだけで
なんだか陰気になってしまう、
と思われてしまう相手と。

人は、一人ひとり、
自分の「気」をもっているんだろうなぁ。

いい話は、
一つとして持ってこない。

電話がくるとか、
突然の訪問があると、
「ウッ!」
と思わず警戒してしまう相手を見ると、

自分も、そんな人として扱われていないか...

ちょっと気になったりもします。

自分は、どんな空気をもって、
人と接しているかな。

シンプルに、
明るい空気かな、
暗い空気かな。

人のもっている「空気」のことを、
裁いている場合じゃないな。

自分のもっている「空気」を
クリーンにすることから、
人生をやり直そう。
そんなことを考えさせられました。

2010年8月10日

きれいな答え

自分のことを
バカに思われないようにしよう、
と考える人ほど、

何か質問をされたときに、
きれいな答えを言おうとしたり、
恥をかくよりだったら、
ということで黙ることがある。

きれいな答えを出そうとすると、
ちょっとずつ、自分の考えとは違う、
ごまかしがあふれ出てくる。

巧妙に、
自分の考えを言っているように、
見えていて、

わかる人にはわかる。

この人、自分で考えていないか、
自分の考えをごまかして言っている、って。

「いろんなこと、いろいろあります」

「他にもあります」

「別のもあります」

こんなセリフを聞いても、
聞かされたほうは、何も得られない。

意見を言った方は、
何かを言ったような気分に
なるかもしれない。

しかし、無駄な言葉なのだ。

ただ、相手を理解するための言葉としては、

「そうですね、そういう考えや、
 ほかにも、いろいろありますよね」

なんてセリフは、いいんでしょうけど。

その人の考えを聞きたい、
とみんなが待っているときに、

「いろいろあります、他にもあります、別のもあります」

じゃ、聞いていられない。

きれいな答えで、ごまかそうとする世代。
それを真似て、きれいに逃げようとする若い世代。

誰が、自分の本当の考えを言うのか。
それが出来なくなった社会は、
ちょっと不安といえば、不安な気がします。

2010年8月 8日

寝つけなかったら...

翌日に、
いつもより早起きしなければいけない時に、
すごく不安になる。

起きられるか、
っていうことと、

朝のうちにやらなければいけないことを、
ちゃんとやり終えられるか、という不安だ。

朝のうちにやり終えられないなら、
寝る前に終わらせたいと思う。

しかし、
寝る前に終わらせようと思って、
寝るのが遅くなって、
翌日起きられなかったらどうしよう、
という不安がもたげてくる。

じゃあ、
早く寝ようと思うところもあるが、
布団に入ったものの、
実際にはすぐに寝つけなかったら、
その寝つくまでの時間がもったいなくなり、
なおかつ、翌日には早起きできない、
という事態も加わって、

やるべきこともできないし、
なおかつ、起きることもできない、
ってことになり、
最悪な状況になることが
想像されてしまい、

おちおち布団に就くことも
できなくなる。

こんなことを考え続けてしまって、
迷いながら、何もしてないのも、
また、もったいない話だ。

今日は、
娘たちの卓球の大会のために、
早く出かけなければならず、

昨晩、そんなことを考えながら、
このコラムを書き始めた、
という話。

で、実際に、寝つけるもんかは、
布団に入ってみないとわからない。

布団が、ちょっと怖くなる。

すんなり眠られたら、
問題ないけどね。

こんなことを考えながら、
布団に入るのを恐れている人って、
世の中に、どれくらいいるんだろうなぁ。

きっと、これって、
すんなり寝つけないことが、
よくある人の悩みなんだろうな。

そして、しょうもない悩みといえば、
しょうもないなやみです。

2010年8月 6日

心のぶつかり合い

生きていれば、
意見の違いは、
しょっちゅうあるだろうと思う。

そんなものはない、
と思い込んでいるだけで、
実は、まわりで、
理解している振りをしてくれている、
っていうこともあるだろう。

いずれにしろ、
心と心は、完璧に、
重なりあうことはない。
どっかでズレる。

そのズレは、
だいたいにおいて、
不快感を与えるものだから、
ガマンしているか、

相手に、
きっちりとぶつかって、
何か結論を出すかしないと、

人は前に進めない。

心をぶつけることに、
何の抵抗もない人もいれば、

ぶつけられると困るから、
自分からは何もぶつけず、
逃げている、っていう人もいる。

人は、ぶつかっていないと、
ダメだと思う。

いや、それは、
必ずしも、ケンカをする、
というような意味合いでなく、

自分の心の中にある、
全精力の思いを、
どっかで吐き出す場所、相手が、
人には必要だ。

それが、
毎日できる人は、
きっと、健康だろうし、
(吐き出される方は、不健康になるかもしれない...笑)

ちょっとでも出来る人は、
それなりに健康だろうし、

たまにしか出来ない人は、
たまった分だけ、
どこかしら歪みとなって、
不健康になるんじゃないだろうか。

ぶつかることを逃げていれば、
人は、楽かもしれないけれど、

ぶつかれる相手がいたら、
ぶつかった方がいいのだ。

せっかく、もっている心。
相手にも、ある心だ。

2010年8月 5日

ちょい罰

世の中には、
罰っていうのがある。

重いものから、
軽いものまで。

罰を受けたくない、
っていうのが、
人の本音だとは思うが、

別にたいしたことのない罰なら、
罰の対象となる行為から
得られる快感とか、利益の方を
優先するという場合もある。

罰を覚悟の上で、
あえてやるという行為だ。

その人にとっては、
ちょい罰、っていうわけだ。

罰が嫌なふりをしながらも、
それほど、応えていない人間は、
そういうところまで計算して、
ルールを破っている。

こういう人間は、手強い。

そして、引き締めるには、
罰を強化するか、
ルールを守ることのメリットを
見つけさせるか、
そのいずれしかないだろう。

実際、ルールを何べんも
破っているだけに、
ルールを守ることのメリットを
教え込むのは、簡単じゃないだろう。

でも、信じてみよう、
と思って、そういう人に忍耐できる人もいる。
(私は、忍耐できないタイプだけど...)

もちろん、人を信じる、
っていうのは大切だ。

その人に、
更生しようという思い、
更生するだけの力がある時には、
その信じる思いが伝わるだけで、

人の心っていうのは、
動かされるかもしれない。

けれども、必ずしも、
みんな、みんなが、
そういう信じられる、
ということだけで変われるか、
といえば、難しいような気がする。

また、人を育てる、
変える、というようなことにも、
きっと、相性のようなものがあって、

厳しくできる人と、
厳しくされると引き締まる人は、
相性がいいが、

やさしく指導する人と、
厳しくされると引き締まる人では、
きっと相性は悪い。

指導される側は、
張りがないかもしれない。

反対に、
厳しくする人と、
厳しくされると緊張感だけで
何もできなくなる人とも、
相性は悪い。

信じるか、罰を与えるか。

人を更生するときには、
誰でも、迷うところだ。

先日、現法務大臣が、
死刑の現場に立ち会った、
というニュースがあった。

罰の場面を見た、というわけだ。
きっと、罰について考えさせられただろう。

けれども、そういう人々が、
社会で行ってきた犯罪を見れば、
更生の方法について悩むことになるだろう。

人は、思いどおりには変わらない。
自分でさえも、そうだ。

人間は、むずかしい生き物だ。

2010年7月19日

緊張感のなさ

いざという時に、
緊張感をもってがんばる、
っていうのは、けっこう難しい。

何かの本番の緊張感っていうのは、
それが来る前に、
心の中で簡単にリハーサルすることが
できるもんじゃない。

となれば、
体験するべき「本番」の数を
増やしていくしかなくなる。

けれど、
本番の数が増えすぎると、
今度は、本番に慣れすぎて、
緊張感がなくなってしまう。

ジレンマなのです。

そうなると、
緊張感を高めるための本番の数、
慣れすぎないくらいの本番の数、
っていう、ちょうどいいところが必要なんですね。

よく、大舞台になれている、
と言いますが、
それが良い効果として
表れてくれる場合と、

かえって悪い効果として
表れてしまう場合があるのも、
こういうことに関係あるんでしょうね。

人間のタイプによっても、
違うでしょうし。

緊張しすぎてしまうタイプ、
ほとんど緊張しないがその代わり
集中力にも欠けるタイプ。

人それぞれに、
いろんな緊張感があって、
それでうまくいったり、
うまくいかなかったり。

今日は、娘の全県総体最終日。
昨日で個人戦ベスト32が決まった。

さて、どこまで残れるか。
冷静になって、1つずつ勝っていけるか、
親子ともども冷静さを失って、すぐに負けてしまうか。

心配なところです。

2010年7月11日

ブレない

菅総理の言っていることが、
ブレてる、ブレてる、と野党から攻められて、
今日の選挙を迎えましたが、
今夜、その結果を迎えます。

どうなることでしょうね。

ちなみに、わたしの近隣町村では、
25%の人、4人に1人の割合で、
不在者投票で済ませた、
という調査結果がニュースになっていた。

ところで、他人から見て、
ブレていないように見える考え方、生き方、
って、なかなか難しいかもしれない。

他人のブレを指摘している自分が、
どんだけブレていないか。

人のことなんて言ってられない。

何かうまくいくパターン、勝てる作戦、
いい方法、選択肢を見つけたときに、
そこから離れないで、
それをずーっとやっていられるか。

それに集中できるか。

まず、そのパターン、方法が、
本当のところ、どれだけずーっと効き目があるか、
分かったもんじゃない。

効き目があまりないことを、
ずーっと続けられたところで、
たいした意味もない。

本当に価値のあることを、
ずーっと続けられる、
ブレないで頑張れる姿が、
きっと、一番いいんでしょうけれど、

人間、ブレちゃいますね、やっぱり。

気まぐれ、不安、邪魔など、
いろいろな要因が、
ブレさせてくる。

菅さんがブレてしまったのも、
それなんでしょうか。

逆の言い方をすれば、
ブレる余裕があった、
ということかな。

わたしも、ブレないように、
生きていけるかな。

2010年7月 8日

分かったつもり

危ない、危ない...

また、分かったつもりに
なっていた。
経験から言うと、
こういう時が一番危ない。

次の瞬間には、
「まだまだだったな。」
と思い知らされる出来事が
起きることになっているから。

きっと、
分かったつもりの気分が、
心に訪れていなければ、
そういうことはないのだ。

分かったつもりが、
心の扉をいったん閉めてしまい、
完結してしまう。

だから、新たな発見、
ということになるんでしょう。

心が完結していなければ、
これまでどおり、いつもどおりの発見が、
続くことになるんでしょうけどね。

分かったつもり、
というのは、

もう発見するもの、
学ぶものがない、
とピリオドを打っているようなもの。

これは、ダメなわけです。

また、いいこと、学んだな。
次は、何を学べるんだろうな、
学ばせてもらえるんだろうな、
っていう気分になれないと、

人は、無理やり
勉強させられる。

ポイントは、
心の扉を開いておくか、
満足して閉じてしまうか、

この違いだけなんだね。

うーん、面白い。

ちょっと、また、
分かったつもりになってきた。

でも、そう考えてみれば、
分かったつもりになって、
何度も勉強させられていることが、
いくつかリストアップできるよ。

仕事のこと、
娘の卓球のこと、
弟の病気のこと、
などなど...

まだまだなんですね、自分は。
禁「分かったつもり」が、2010年後半の目標だ!

2010年7月 7日

ルールの破り方

ルールは破られるためにある。

そんなことを偉そうに言う人の中には、
ルールの破り方を知らない人も
少なくない。

ルールを破って、
ヒーロー気取りをしたいだけ
だったりもするから。

実際、その破り方には、
2タイプあって、

1つ目は、
ルールが不要になったから、
そのルールを超えて進化している場合。

もう1つは、
ルールを守るべ き立場の人間が、
故意に破って、退化している場合。

この2つだと、私は思っている。

ルールを破って、
進化している場合と、退化している場合。

同じ「破っている」ことながら、
まったく正反対の方向に進んでいる。

そして、
ルールを破るからには、
新しいルールを
自然に作っていることになる。

なんのことはない。
その新しいルールを見てみれば、
それが進化か、退化かは、
けっこうカンタンに分かることも多い。

それは、つまり、
自分の行動を見れば、
正当化した言葉をいくら言ってみても、
それが進化か、退化か、
っていうことは、よく分かるってことなのだ。

わたしも、基本的に、
ルールを破ることは好きだと思う。

一方、それでいながら、
自分が作られたルールを破られることには、
すごく腹が立つ。

なんだか、身勝手ですね。

もちろん、ルールそのものが、
身勝手な理由で作られたもの
かもしれませんがね。

2010年7月 4日

思い出を欲しがる

人は、
知らず知らずのうちに、
思い出を欲しがっているのかな、

って思う。

それは、
すでに出来た思い出を
守ることも含めて、

思い出を欲しがっている。

新しい思い出を作ることも大変だけれど、
すでに出来た思い出を守ることは、
実際、もっと大変かもしれない。

なぜなら、
時間が経てば、
そういう思い出の良さを、
ちょっとは否定しなくちゃいけない出来事が
起きてきたりするから、

このやり方で、
この生き方で、
いい結果が出た、いい思い出ができた、
っていう出来事は、

あとになってみれば、
そのやり方、生き方が
通用しない出来事が起きてしまって、

その時だけについて
解釈すればいいのだけれど、

さかのぼって、
じゃあ、あの時の思い出はウソだったのか、
みたいに拡大解釈してしまう人もいるだろうからね。

さかのぼってまで、
思い出を守らなくてもいいのだ。

過去の思い出は、
もう過去のこと。

通用しなくなった、
昔のやり方、生き方を、
捨てたとしても、

思い出までが消えたり、
捨てられたりするわけじゃない。

でも、人は、
思い出を守るために、
昔のやり方、生き方に、
執着してしまう。

その思い出が
良いものであったらなおさらだ。

思い出は、
その時のやり方、生き方が通用していて、
出来ていたもので、
今は通用しなくなったとしても、
消えるもんじゃないのだ。

ただ、今の時間については、
また、新しいやり方、生き方を
考えることも必要なときがある。

それを思い起こせれば、
いい思い出が残せるように思います。

2010年7月 2日

自慢の香り

わたし自身の会話の、
ダメな点として、
自覚しているのが、

ちょっと「自慢」の香りが
するところだろうな。

ただ、
言い訳はあるんですけど、ね。

いちおう、
がんばって得られた結果だから、
ちょっと自慢させてよ、
っていう感じです。(笑)

けれども、
世の中は、自慢っていうものを、
嫌う傾向にあるから、
この香りは、あんまり歓迎されない。

そもそも、
わたしという人間も身勝手で、
他人の自慢は、
あんまり聞きたくなかったりする。
勝手なもんです。

ただ、上手に自慢する、
っていう方法もあるんですよね。

まず、
その自慢する内容の、
価値を知っている人を見つけて、
自慢すること。

そうでない場合は、
自慢話にうんざりさせるばかりでなく、
「訳分かんない」って思われて、
おしまいだからだ。

次は、
相手の自慢話も聞いてあげて、
お互いに、自画自賛で
盛り上がるのが、けっこう楽しい。

こういう条件がついてくると、
基本的に、
「がんばっている人」を
見つけなくちゃいけない。

がんばっている人が、
近くにたくさんいれば、

その間柄で行われれる自慢話は、
笑い話にもなったりして
ごく普通の会話と変わりない。

しかし、
がんばっていない人、たとえば、
他人にばかり期待している人の間で、

自慢話をすると、
嫌われるばかりか、
ねたまれたりして、
邪魔者や敵をつくることになりかねない。

自慢の香りは、
がんばっている人に対してだけ、
放つようにすること。

これって、大切だと思います。

2010年6月28日

3ヶ月待つ

きっと、皆さんの周りにも、
いるだろう。

自分の気に入らないことがあると、
(言葉を変えれば、自分の思いどおりにならないと)
その場から消えて、
もしくはその場に来なくなって、
ヘソを曲げるという姿勢を始める人が。

もちろん、
ヘソを曲げている本人が、
必ずしも、悪いわけじゃない。

その人以上に、
強烈な人が、
邪魔者になっていたりするのも事実。

しかし、
自分の思いどおりにならないことが、
そんなに、悪いことなのか、
という素朴な疑問ももたげてくる。

周りからすれば、
そんな「ささいなこと」まで、
自分の思いどおりにしたいのか、
という具合だ。

あるいは、
抵抗している相手が、
どう頑張っても、わからずやで、
視野の狭い人間だと、
周りでは分かっているというのに、

そこまで頑張って、
抵抗し続けることに
何の意味があるのか、
と思わせられることもある。

すべては、
人の心の有り様。

ガマンできないから、
その場から去る、消える。

けれども、
その去った「その場」しか、
その人の居場所はないから、

またしばらくすると、
戻ってくる。

その期間は、長くても3ヶ月。

自分の居場所がないことに、
人は、長くても3ヶ月しか
ガマンできないということなのだろうか。

新しい居場所でも見つかれば、
帰っては来ない。

けれど、頑固な人ほど、
新しい場所には馴染みようがない。
馴染む方法を持っていない。

3ヶ月...

本当は、そんなに待たずとも、
戻ってくればいいんでしょうけどね。

2010年6月27日

いたずら騒ぎ

時々、もしこれが、
ウソだったら、
イタズラだったら、
と考えてしまうニュースがある。

昨日のニュース(asahiサイト)にて、
盛岡市の公衆浴場にて、
11歳の男の子に、
わいせつな行為をした、
とのことで、男性が現行犯逮捕された、という話。

いろんな「もし」を考えてしまう。

1.その男性が、
  知り合いの男の子に、
  イタズラ目的で、くすぐったり、
  さわったりしていたのだとしたら。
  それに付き合うのが面倒になって、
  ちょっと怒って、「わいせつ」と騒いだ、ってことだったら。

2.男の子が、その男性を嫌いで、
  何もされていないのに、
  困らせてやろう、ということで、
  「わいせつ」と騒いでいたら。

3.体のどこを、どれくらいの時間、
  さわったかは知れないが、
  短い時間に、偶然に、ちょっと
  ふれただけのことだったら。

なんて、いろいろと考えてしまう。

現場を見たわけでないし、
ニュースでは、詳しいことを
書いていないので、

想像の域を出ない話だ。

このニュースの真偽は、
とりあえず、いいとして、

私も含めて、
コミュニケーションそのものが、
下手になってくると、

いろんな意図でやっている行動が、
その意図を汲み取ってもらえないで、
相手に、予想に反した感情を
もたらしたりすることは、

人間同士の生活では、
少なくない。

いらずらを真面目にとらえられたり、
真面目なことがイタズラととらえられたり、
世の中は、何事も、

発信する側と、受信する側の、
それぞれのレベルに応じて、
物事のメッセージが変わるんだな、
って思わされます。

そこらへん、やっぱり、
うまくなっていった方が、
楽ですよね。

2010年6月22日

ひとり好き

ひとりでいるのが好き、
っていうことに気づかされる時。

それは、
ある意味、
本能なんだな、
って思います。

同時に、みんなとワイワイ楽しくやっているのが好き、
っていうことに気づかされる時もある。

それも、また人間の本能。

人には、どっちの面もあって、
いろんなときに、
それぞれの面が出てくる気がする。

ただ、
どちらかと言うと、
ひとりの方が好き、
とかっていうのは、
あるようだ。

「誰もいなくなるけど、大丈夫?」

娘たちに、
こう尋ねると、

「大丈夫」
と答える娘と、

「さびしい」
と答える娘がいる。

一方、
「大丈夫」にも、
平気という意味の大丈夫もあれば、
何かしら悪いことを企んでいて
いなくなった方がいいという大丈夫、
っていうのもあるから、注意だ。

もちろん、
本当は、そんなにさびしくないのに、
さびしい、と言っている場合もある。

ひとりにならせてみると、
その人の個性が、
なんだか知れてくる。

帰ってきて、
その時見せる時の顔が、

ひとりだった時間の充実度を
表してくれる。

ひとりのときは「人」、
みんなといるときに「人」は「人間」に変わる。
そういうことなのかな、と思った。

2010年6月20日

カメが勝ってしまう日

ウサギとカメの童話は、
今の現代では、
そんなに通用するもんじゃない、
っていう気がする。

能力のある者は、
やっぱり、ずば抜けて能力があるし、

その差は、
コツコツ努力だけでは、
乗り越えられない、
っていう思い込みが、
どこかにある。

落ちこぼれて」のコラムにも書いたが、
昨日は、中3の次女にとって、
最後となる、夏の総体が始まった。

それほど、運動センスの高くない子どもたちが
集まっている、わがチーム。

それでも、何かしら、
勝てる方法があると探し、
それだけを一生懸命に
訓練してきた。

1位は無理でも、
2位に届きたいと思ったが、
やっぱり、実力2位のチームには、
勝てなかった。

圧倒的な実力差が、
見られた試合結果だった。

とは言え、気持ちを切り替えて、
次の試合に臨んでいたら、

実力4位チームが、その2位チームを破る、
という波乱が起きた。

ということは、最終的には、
3勝2敗ということで、
勝敗数が並ぶことになり、
3つどもえの戦いで、
試合結果の中身がものをいうことになった。

最後の戦いまで、
気を抜かずに、無駄に負けないように、
子どもたちをがんばり続けさせる。

試合終了。

大会事務局では、
規定にのっとって、
計算を始めていた。

結果、2位~~~~!

子どもたちと、いっしょに、喜んだ。

明らかに、実力では、3位レベルなことは間違いない。
けれど、油断をせずに、できることを、
コツコツやって戦った結果、

2位が、ポロっと、空から落ちてきた。

まさしく、そんな感じだ。

まさか、間違いじゃないの?

「実は、ミスっていました」

なんて、後になって連絡が来ないか、
などと心配もしたが、どうやら、
本当に、2位。

全県大会に行けることになってきた。

わたしも含め、
子どもの練習に付き合い、
がんばってきた親たち。

結局、親の真剣度が、
子どもたちの力を引き出すんだな、
と思った。

たとえ、ウサギが相手でも、
カメほどの実力しかなくても、
どこかで、何かが起こって、
チャンスは巡ってくる。

そんなことを感じさせられた結果だった。

うれしい、素直な感想。

なんだか、自分の励みにもなる。
子どもたちの努力の結果には、
そういう力もあるんだなぁ。

カメがウサギに勝てる方法、
どこかに、あるもんだなぁ。

そんなことを、改めて思った。

2010年6月19日

しょうがない

しょうがないこと、
というのは、
本当にしょうがないことか、
と考えさせられた。

というのは、
自分も、意外と、
しょうがない、しょうがない、
と使っているのに、

他人が言う「しょうがない」には、
意外と、しょうがない、じゃないだろ、
と思ったりするからだ。

そう簡単に、
しょうがない、って言うなよ、
っていう具合だ。

それでいて、
自分のことになると、
いとも簡単に、
しょうがない、
というから、かなり身勝手だ。

どうせ勝てないから、
がんばっても、しょうがない。

その勉強は、
テストに出ないから、
やっても、しょうがない。

言っても、聞いてもらえないから、
何を言っても、しょうがない。

こんな感じに、
あきらめを幾つも積み重ねるなら、
きっと、何もチャレンジしなくなるだろうな。

頭だけで考えた賢さ、
経験だけを優先する心の狭さ。

そこから生まれてくる、
しょうがない。

うーん、違うんだよな。
でも、それを言い張るには、
自分の中の「しょうがない」も
なくさなくちゃいけない。

他人の「しょうがない」を批判する前に、
とりあえず、自分の「しょうがない」を
消していくこと。

何ごとも、しょうがない、じゃない。
がんばろう。

2010年6月15日

悪い子

悪い(ダメな)ことはするけど、
悪い(ダメな)人じゃない。

悪い(ダメな)ことはするけど、
悪い(ダメな)子じゃない。

人をダメにしないための方法として、
そういうセリフを聞くけれど、

悪いことをされた、
ダメなことをされた側としては、
そういうセリフに共感するのは、
なかなか難しいだろうと思う。

たしかに、
正義感(?)、愛情あふれる言葉
かもしれない。

けれども、
自分がダメなことをされたときに、
悪いことをされたときにも、
本当に、そういうことが言えるか。

自分が被害を受けたときだけは、
別問題だ、なんてことになったら、
そのセリフのカッコよさは消えてしまう。

わたしには、無理だな。

悪いこと、ダメなことをされたら、
やっぱり、レッテルを貼ってしまいそう。

ただ、そういう大人(人間)がいることも、
大切な気がする。

なんでも許される世の中だと、
思わないためにも、

しっかりとルールを押し付ける大人と、
無条件に愛情を注いでくれる大人が、
子ども(人間)には、必要だ。

否定してくる大人と、
肯定してくる大人が必要だ。

人間は、
肯定される環境の中だけで、
育てられて、
ちゃんと育つほど、
しっかりしてはいない。

同じように、
否定される環境の中だけで、
育てられて、
ちゃんと育つほど、
強くもない。

だから、どちらも必要なんだ。

悪い子(人間)と呼ばれる人は、
特に、どちらも必要なんだ。

そして、本人たちが、
そういう人たちがまわりにいてくれることを、
忘れちゃいけない。

2010年6月14日

病院に行くか行かないか

最近では、
どこの病院でも、
ネットや携帯からの受付予約が
できるようになったせいか、

ネットや携帯を使わない、
知人のおばあちゃんから、
その受付予約を
頼まれることが多くなった。

年を取ると、
気が長くなる、
と言われていたように思うが、
あれは、ウソだ。

年を取るほど、
待てなくなる気がする。

私も、そうかな...

だから、自分では使えない、
ネットや携帯での予約を、
使える知人に頼んでくる。

それはそれで、
便利なものへの関心があって、
非常にいいことだと思う。

先週のこと、
「明日、午後の予約をお願いしたいよ」
という電話が来た。

「ああ、わかった。
 ただ、忘れるかもしれないから、
 予約時間の14:00ちょっと前に、
 催促の電話をくれろや。」

と返答。

翌日、12:30頃に電話が鳴る。

あれ?予定より早いんじゃないか?

と思って電話に出たら、

「今日、風呂のボイラー修理に
 人が来るから、病院には行けなくなった。
 予約もいらないから、いいよ。申し訳ないね。」

とのこと。

おいおい、
病院に行くっていうのは、
それだけのことで
やめてしまえるのかい?

と、ちょっとツッコミを入れたくなった。

お年寄りの方にとっての病院通いは、
なんだか、買い物に行くのと
同じ程度のケースが少なくないようだ。

「今日は、なんだか、
 本当に具合が悪いようだから、
 病院に行くのはやめとくよ。」

なんて冗談が昔あったけれど、
便利な今は、ますます、
その程度のことになっていることが多いかもしれない。

2010年6月13日

今日も一歩

この前やった時よりも、
なんか、うまくできた、
と感じられる瞬間が多くなると、

きっと、生きていること、
チャレンジしていることは、
楽しくなる。

しかし、
いつもいつも、
自分に進歩が
感じられるとは限らない。

今日感じた一歩が、
次の時には、
たいしたもんじゃなかった、
と分かってしまうこともある。

そういうこともあるのが現実。

人は、成長したい、
ちょっとは向上している自分を
感じていたい。

それを感じられないと、
やる気が失せてしまう。

進歩を感じられない時間が、
1時間でもあれば、
ダメになる人がいる。

1日は耐えられる人もいる。

1週間は耐えられる人も、
それ以上の人もいる。

自分の進歩を耐える、
というのは、実のところ、

他人の進歩を耐えるよりも、
キツイことかもしれない。

他人のことは、
他人事で済ませられることも多いが、

自分のことは、
それでは済ませられない。

場合によっては、
自分の進路や収入、人生に
かかわることも多いからね。

今日も一歩、進歩しよう。
進歩だけは、休んでいられない。

なんでもいいから、進歩していたい、
何歳になっても、進歩していたい。
そう思います。

2010年6月10日

言えないこと

話をしていないと、
その人との距離が、
なんだか遠くなったような気がしてくる。

それは、口ゲンカでも何でもいい、
ちょっとしたことでも会話しているうちは、
近くに、感じていられる。

何にも話さないのが、
きっと、一番ダメだな。

言いたいことを、
言えないでいると、

それが、そのうち、
「言えないこと」になって、
時間が経てば経つほど、

なんでもないことが、
強烈に言えないことになり、
それが積み重なって、
ますます、溝は深くなってしまう。

言いたいことを言ってしまう。
相手を怒らせようが、
不快にさせようが、溜め込まずに、
言ってしまうことが大切な気がする。

いつもいつも、
不快なことばかり言う人間だったら、
遠ざけられたり、嫌われるのは
しょうがないが、

理屈の通ることを、穏やかに、
しゃべられるんだったら、
それはそれでいいんじゃないだろうか。

言いたいことが、
言えないことになる前に、
小出しにしていく。

たまってしまえば、
爆発になる。

聞かされたほうも、
びっくりして、爆発してしまう。

言いたいことを言う、
っていう習慣、
その話術っていうのが、
誰もが持っていたら、

家庭の人間関係は、
もっといい感じになるかもな、
そんなことを思った。

2010年6月 9日

どれくらい先の期待

何かをする、というのは、
期待があってすることが
ほとんどだと思います。

自分のためにすることでも、
他人のためにしてあげることでも、
それをすることで、
何か自分が得するとか、
喜べるとか、そういう期待なしに、

何かをしたり、
それを続けるのは、
けっこう難しい。

悟った人間になれるよう、
何かをしてあげても期待するな、
なんて言葉もあるけれど、
そんなことは、
期待しなくても満足できている人か、
期待もしないし何もしない人の言葉のように、
聞こえたりもします。

あるところまでは、
期待しないで、
というか、積み重ねとして、
まだまだ先の効果として分かっているから、
期待を前面に出すことなく、

やっていけることがあります。
けれども、ずーっととなると、
だんだん、苦しくなってくる。

こんなことを続けて、
本当に、意味があるんだろうか?

って考えずには、いられない。

ただ、

何かをする=期待する、

何もしない=期待もしない、

こういう公式しか、
世の中では成り立たないとしたら、

なおかつ、
期待した「益」を受け取るために、
あまり長い時間を待てないとしたら、

きっと、世の中は、
小さい利益の取り合いで、
争いとかケンカとかが耐えなくなるだろうなぁ。

でも、実際は、そうじゃない。

期待はしていても、
ながーい間待っていられる人もいる。

人間は期待しないではいられない存在。
問題は、その期待を、どれくらい先まで待てるか、
ってことでしょう。

2010年6月 6日

気持ちのズレ

好きだっていう気持ちを、
自分で、相手に伝えられないとき、

嫌いだって気持ちを
自分から言えないとき、

傷ついたって事実を
言えないとき、

これは、
言えない側が悪いのか、
気づかない側が悪いのか、
って考えさせられます。

感じている気持ちを中心に考えると、
嫌いだって思っているからしょうがない、
傷ついたって思っているからしょうがない、
ってことになる。

そうなれば、だったら、
それを伝える責任は、
その感情をもった本人にあるんじゃないか、
って思えます。

けれども、
他人のいろいろな感情に
気づかなければいけない、
っていう責任が、
人それぞれに課されることになるとしたら、

気持ちっていうものは、
もっと前面に出さなければいけない、
って義務も、
人それぞれに課さないと
いけないんじゃないかって思う。

人それぞれが、
発信する責任も、
受信する責任も負う、
っていうのが適当だと思うから。

発信する責任だけが強い、
っていうのもおかしいし、

受信する責任だけが強い、
っていうのもおかしい。

どちらの責任も、
等しく引き受けないと、
人間の気持ちのズレは、
おさまらないだろうなぁ。

こう感じている、
それを自分で伝えないと、

勘違いした受け手が、
また別の人に、
勘違いした情報を流して、

ただ単純に「好き」だって言う気持ちが、
めぐりめぐって、勝手な解釈がついたりして、
「○○している時は好きだけど、××している時は嫌い」
みたいな、誰かのコメントみたいな感情も入って、
変化してくるんだろうって思う。

気持ちのズレが消えることはないだろうけど、
人それぞれには、自分の気持ちを、
適切な言葉で、発信したり、受信する責任が、
見えないながらもある。

それを自覚した時から、
言葉ってものに、人は、もっと、
敏感になれるのではないかな。

なんだか、よく分からないことを
言っている気もするけど。今日は、よしとしよう。(笑)

2010年6月 5日

秘密をもたせてしまう

秘密をもつのは、
好きかもしれないが、

自分に秘密にされるような、
秘密をもたれてしまうのは、
たいていの人は、嫌いだろう、と思う。

だからと言って、
「秘密をもたないようにしましょう」
というスローガンを始めたところで、
何の解決にもならない。

秘密がバレた時に、
それを激しく怒ることも
解決にならないこともある。

けれど、そこは、難しい。

秘密を知ると、
すぐに怒る人。

怒られるから、
秘密にする人。

この2タイプの組み合わせだと、
秘密によって、悪循環が始まってしまう。

どちらが悪いとも責められない。

怒られるから、秘密にしておく、
と言っても、その内容レベルがある。

命に関わるような危険を、
秘密にしていてはいけない。
子どもには、特に、そこらへんを
教えなくちゃいけないなと思う。

たとえば、親が大切しているものを、
勝手に持ち出して、それで遊んでいるうちに、
川とかに流してしまった。

「あ、失くしてしまったら、怒られる」

そういう感情が働いて、
それを拾おうと、川に入っていったら、
濁流に巻き込まれて、
死にそうになってしまう。

なんてことになったら、
後になってみれば、

「そんなことくらいで」

と言われるようなことかもしれない。

秘密がバレて、
怒られてしまうことを
怖がってばかりじゃダメだ。

悪いことは悪い、
怒られてもしょうがない、
という気持ちもなくては、
大変なことになってしまうこともある。

子どもに、こういうことを教えるのは、
けっこう難しい気がする。

ずーっと秘密にしておくことなんて、
まず、出来ない。

それを分かるようになったら、
子どもは、少し成長するかな。

2010年6月 1日

人はだまし、だまされる

だますつもりで、
最初からウソをついている場合と、

そんなつもりはなかったけれど、
当初の「つもり」とは違うことを
やらざるを得なくなって、
「だまされた」と言われる場合と、

世の中には、2通りの「だまし方」が
あるんだな、と思った。

もちろん、
後者の「つもりがなかった」ことを、
だましたことと同じように見るのは、
若干、微妙なところもあるけれど、

相手にしてみれば、
「だまされた」と感じる点では、
なんら変わりないんでしょう。

人は、変わる。
世の中も、変わる。
さらに、人は変わる。

ということを当たり前だと思えば、
当初の「つもり」なんてものは、
それほど当てにならないことだと
分かっていて、人と付き合ったほうがいいことになる。

人はだまし、だまされるために生きている。

こんな考えで、生きるのも、
悪くない。

今日も、きっと、
私は、だれかをだますことになるだろう。

そして、誰かに、
だまされることにもなるだろう。

この前言っていたことと違うよ、
昔約束したことと違うじゃないか。

そんなことで、
批判し、批判されたところで、

今、そうしなければいけないと判断したことは、
なかなか、変わりようがない。

決められるのは、
当初と違ってきた現実に対して、
自分はどう対応していくか。
それだけの話。

だまされて当たり前なんだよ、
そう思えるようになったら、
なんだか気楽な気がします。

2010年5月26日

どうでもいい理由

たとえば、
今朝、会社とか学校に、
遅刻した人がいたとして、
その人たちに理由を尋ねたとしたら、

きっと、さまざまな理由が
あるんだろうな、って思います。

そして、そのほとんどが、
「他人」にとっては、

そんなことか!?

と思えるような内容ばかりだと思う。

朝寝坊した、
朝に母親と口ゲンカをした、
列車に乗り遅れた、
駅のトイレで髪をとかしていたら...、
列車に乗ろうとしたら人とぶつかってカバンをぶちまけた、
好きな人に見とれていた、などなど。

どうでもいい理由ばかりが、
きっと、世の中には多い。

そして、犯罪とか、過ちを犯したり、
人に怒りや恨み、憎しみを抱く人も、

ささいなことで、
そんな感情に埋もれていたりする。

ほんのちょっとしたことで、
人の感情は、揺り動かされて、
それで、人の行動が始まってしまう。

それが、過ちに向かったり、
誰かの、さらなる激情を生むものだったり、
そういうことが積み重なって、
世の中には、出来事や、時には、事件が起きている。

...かもしれない。

最初は、ちょっとしたこと。

だから、逆に、
自分のことに関して、
そのちょっとしたことを、
大切にしたほうがいいな、
って思う。

どうでもいい理由で、
自分がやったり、やらなかったりしている、
それらのことを、

しっかりやったり、止めたりしたりする決断力が、
欲しいところだ。

でも、そのささいな理由で、
たいした決断力でやっていることでも、
あとになってみれば、何を生み出すか、
知れたもんじゃないから、

どうでもいいことでも、
バカにしない方がいいな。

ちょっとした食べ物を食べ続ける習慣が、
肥満に至ってしまうように。

どうでもいい理由なんだろうけど、
バカにしちゃいけない。

2010年5月24日

好きでも幸せになれない

好きな気持ちが
生まれた頃には、
その人の前で、

気に入ってもらえるような自分を
つくることが多くなるんだろうけれど、

その人といっしょに
住むことが当たり前になると、

自分をつくることも少なくなり、
本当の自分を見せることにばかり、
明け暮れるようになる。

意識して、そうしているわけじゃないけれど、
いっしょにいる時間に、
何の気兼ねもなくなるから、そうなる。

クヨクヨすることの多い人だと、
そういう姿を一つも見せなかったのが、

そういう姿ばかりを見せることになる。

好きで好きで、
幸せになりたくて、
いっしょになったのに、

いつも見せてしまう姿が、
クヨクヨしてしまうところだとなれば、

きっと、いっしょにいる人は、
耐えられなくなるだろうなぁ。

いっしょにいるときに見せる姿が、
自分のことで、それも、ちょっとしたことで、
毎日クヨクヨしている姿となっては、

どこに、いっしょにいる意味があるのか、
よく分からなくなる。

いっしょに居ても、
幸せにすることができない。

君を支えることが、
僕には出来ない。

そんな無力感に浸ってしまって、
きっと、別れることになるだろう。

幸せになれない性格。

好きであっても、
支えきれない、相手の性格。

現実として、そういうのは、
あるだろうなぁ、って思う。

生きている時間には、
もっと明るい風景があるのに、
そこに、目を向けられない。

病気?性格?

そんなことで済ませて、
次に進めるんならいいんだろうけど、
そんな「気休め」は、一時しか使えず、
また、元に戻ってしまう。

幸せになることが難しい人、
って、やっぱり、いるもんです。

2010年5月18日

人間関係の推理

10人も超えたりすると、
その関係性を推理するのは
難しいものですが、

暗記できる数といわれる「7」人くらいの
人が集まって出来る人間関係であれば、
なんとなく、推理できるもんです。

たとえば、
1.まったく自分を出せない人、
2.別次元に生きるマイペース人間、
3.なんでも面倒くさがる人、
4.正義感は強いけど、いざとなると合わせるだけの人、
5.真面目だけど、不器用な人、
6.群がるしか能のない人、
7.頭で思いついたことは何でもすぐに口にできる人。

こんな7人がいれば、
どうなるか。

結局は、情報を一番発信できる人(7番)が、
その場の空気を作ってしまうように思います。

空気を作られる人が、
その場を支配もできる。

もちろん、
その空気が、
みんなから拒否されれば、
話は別ですが、

人は、空気がないと、
生きていけないところがありますから、
その空気に従うようになる。

なんだか、ちょっとイヤだな、
と思いつつも、
完璧に嫌悪できるものでない限り、

どうしようもなくなって、
そこから逃れる以外に方法がないという状態に
ならない限り、

その空気を受け入れてしまうのが人間。

そして、もう一度整理。

1.別次元に生きるマイペース人間、
2.まったく自分を出せない人、
3.なんでも面倒くさがる人、
4.正義感は強いけど、いざとなると合わせるだけの人、
5.真面目だけど、不器用な人、
6.群がるしか能のない人、
7.頭で思いついたことは何でもすぐに口にできる人。

7が空気を作れば、
6はそれに群がり始めて、
5はそれを嫌うから距離を置き始め、
4も嫌には思うが、群れからは離れられず、
3はどうでもいいから流されてしまい、
2は知らないうちに巻き込まれ、
1は勝手に生きている。

結果、7、6、4、3、2が5人の群れになり、
5が孤立するか、1といっしょにいるか。

そんな感じになるはずです。

職場や、学校でも、
いろんな人間が集まっていて、
そこに出来上がる空気を見てみれば、

だれが作っているか、
ちょっと見ていれば、
推理できるもんです。

やっぱり、この情報化社会。
情報を発信できる人間が、
一番強くなってしまうのは
避けられないのでしょうね。

ちゃんとした情報を発信できる人が、
強くあってほしいものです。

2010年5月12日

頭→神経→体

頭と神経と体と、
人間が活動していくためには、
この3つのつながりが
きっと大切なわけで、

この発達には、
成長期の時間を待つことと、
それを促すための訓練が
必要だなって思う。

当たり前のことなんですが、
子供と、その反対にいる老人を見ると、
そんなことを、
改めて考えてしまうわけです。

子供は、
まだ未発達だから、
ちょっと、うまく、
その流れがスムーズじゃない。

ぎこちない。

一方、老人になると、
発達を終えて、
ちょっとずつ、
その流れに故障が生まれくるから、
これまた、スムーズにいかない。

子供との違いは、
時間が経っても、
元通りにはならないこと。

もう、こんなもんだ、とあきらめて、
それに付き合う気持ちがないと、
その「うまくいかない」ことばかりに向き合うと、

時間は、いくらあっても足りない。

まして、
残り時間が少なくなっている老人だからこそ、
それに向き合いすぎるのは、
時間の無駄なのだ。

頭→神経→体。

頭から、ガタがくるのか。
神経からか、体からか。

どこからくるにしても、
人には、受け入れがたい。

前は出来ていたのに、
という気持ちは、ぬぐい切れない。

子供に対しては、
そういう老後の心配はないけれど、
他の子供と比べたりして、

あの子はできるのに、
お姉ちゃんは出来たのに、
お兄ちゃんは出来たのに、
ということになる。

その感情を、ぬぐい切れないと、
老人の感情と同じで、
時間の無駄になる。

頭→神経→体。
この流れは、すべてを決めるかもしれないが、
こだわりすぎてもいけない。

今もっている能力で、
人それぞれががんばることが大切だ。

2010年5月10日

黒幕

悪さをする人(あるいは人々)が
目に見えているときに、

その背後に、
もっと悪い奴ら、
本当の黒幕がいることは、
少なくありません。

本当の黒幕は、
その名の通り、
自分の存在を隠すのが、
うまいもんですから。

そして、
小悪党ばかりが、
目立つことをしてしまい、
多くの人々から、
悪者に思われていることになる。

こいつが、一番悪い奴だ、
と思い込みたくなったら、
そういうことを考えたほうがいいな、
なんて思います。

「とにかく、世の中というのは常に、
世間が「悪だ」と叩いているやつの
もうひとつ上に隠れた存在があるのです。
われわれは、それを見抜かないといけません。」
(中坊公平、私の事件簿)

この言葉はホントだな、ってうなずきます。

そして、面白く感じるのは、
小悪党っていう存在は、
良くなったとしても、
たいした存在になれない。

それだけの能力しか
自分にしかないし、
人に対する影響力も
ささやかでしかないからでしょう。

しかし、大悪党、
って呼ばれている人が、
改心したときには、
人への影響力も大きいから、
成し遂げる「良いこと」も
スケールが大きかったりする。

ただ、それは、
なかなか、めったにない。

黒幕は、ホントに、
真っ黒なことが多いでしょうから、
そこから、真っ白になるのは、
かなり至難の業。

私は、悪をやれたとしても、
小悪党レベルかな。

あいつは、大物だ、
黒幕、大悪党になれる、
っていう人間には、
なかなかお目にかかれない。

2010年5月 8日

自分を出す

子どもの親が集まるような場所、
あるいは集会、ミーティングに
参加する機会はまだまだあるわけですが、

そこには、必ず、
子どもがいる人、つまり、
1度でも結婚した人が来る。

私のように、
婿入りした人間でも、
子どもの部活の全県大会などに行けば、
中学の同級生に会ったりもする。

それは、やっぱり、その人も結婚していて、
子どもがいるから、出会うわけで、
結婚していず、子どもがいない人には、
出会うことはない。

そう考えると、
ふと思い出す人がいる。

わたしは、好き勝手に、
自分のことを恥も外聞もなく、
前面に出す人間だったから、

好かれも、嫌われもしたが、
(嫌われた方が多かったかもな)

ほとんどと言っていいほど、
「自分」を出すことなく、
おとなしく思えた同級生がいた。

風のウワサによると、
その人は、結婚したとか、
結婚していないとか、
よく分からない。

昔は、自分を出してこなかった人が、
今は、前面に出しているとしたら、
どんなふうな人間になっているのか、
とっても興味がある。

できれば、どこかで、
ふっと出会いたいなぁ...
なんて考えた。

私は、人の内面をうまく引き出す術は、
きっと持っていないだろうから、
その人自身が変わっていない限り、

人の内面にふれることはないだろう。

いつか、時が流れたときに、
その人が変わっていて、
内面を見せられるようになることを
夢みる。

本当は、どんな人だったんだろう、
どんなことを考えていたんだろう...

知っていること、ばかりで、
世の中を見てしまいがちになると、
自分の見方に、時おり、退屈を感じるんでしょう。

いろんな人がいる世の中、
見せない人の内面を
どれだけ見せてもらえる人生になるかな。

2010年5月 3日

静けさ

人が一人いないだけで、
その場の空気を
シーンとさせてしまう人って、

いなくなると、
あらためて存在感の
ある人だなぁって、
思わされます。

静かな雰囲気が好きな人は、
きっと、それがいいと思うんでしょうけど、

静けさばかりでは、
飽きてしまうよ、っていう人は、
騒々しくても、そういう人がいた方がいい、
と思ってしまう。

そこらへんの感覚は、
難しいものを感じます。

「静か」と「平安」は、微妙に違う。

「騒々しい」と「活気がある」も、また違う。

もし、好きな順が、

活気がある > 平安 > 静か > 騒々しい、

だという人がいれば、

活気がある > 騒々しい > 平安 > 静か、

という人とは、微妙に、好みが違うからね。

静かじゃなければ、何でもいい、
というわけじゃないから、

ただの騒々しさを、
活気がある状態にするためにどうしたらいいか、
考えてしまうこともあります。

騒々しさは、時に、収拾がつかないだけで、
人を疲れさせるばかりのこともありますから。

活気があって、
人を楽しく、元気にさせる空気作り、
っていうのは、本当に大切です。

騒々しさのなかに、
そういう可能性を見出す。

静けさのなかに、
そういう可能性は、きっと見出せないから。

GWにおいて、
いろんなところで、
人を呼びよせて、活性化を行う、
っていうのは、そういうことに近いことだろうな、
って思います。

2010年4月29日

不健康

人間は、
完璧、100%の健康って、
いうのは、きっとないんだと思います。

けれども、
そういうものを手に入れたい、
という気分のことがあります。

最高の力を出したい時、
ここ一番大切な時、
待ちに待った「時」、

しかし、そんな時と、
自分の心身が100%健康な時が、
きちんと重なることは、めったにない。

というよりも、
不可能かもしれない。

それを願うことは、
不老不死を願うことと同じくらい、
無謀なことなんでしょう。

人間は、
どこかに、不健康を抱えて
生きるように出来ている。

人によっては、
その度合いが、恒常的にあって、
「障がい」と言われることもある。

そして、その障がいにも、
程度の差がいろいろとある。

100%健康じゃなくても、
軽いだけ、まだマシと思って、
すごすしかない時もあるでしょう。

何事も100%を望むこと、
願うのは、どこかに無理が生じる。

そんな時がくるかもしれないけれど、
来ないかもしれない。

それは分からない。

その時その時で、
それなりのベストな状態であればいい。

がんばろ、がんばろ。

2010年4月28日

かわいく生きる

男がかわいく生きる、
ってことを考えるのは、
ちょっとおかしいことかもしれないが、

女性が、かわいく生きる、
ってことを考えるとしたら、
男も、その路線に、
何かしらヒントがあるんじゃないか、
という気がしてくる。

というのは、
女性の社会進出が盛んになってきて、
シンプルな労働力が欲しい場合には、

プライドとか、面倒くささのある男よりも、
気配りのできる女性を雇用しようという、
会社や企業が増えている気がするからだ。

社会に必要とされる女性に対して、
社会から、必要とされなくなる男性、
という構図が出来上がっていくとしたら、

男性の行き場所は、
新しい職場とか、家庭とかになってしまう。

そして、そこで必要とされるのは、
もう、過去の「男らしさ」とかじゃなくて、

かわいく生きられる強さ、
とかだったりするんじゃないだろうか。

それは、カッコいい仕事をするんじゃなくて、
裏方に回って、身近な人々が頑張れるように、
サポートするような仕事。

そういう人々が頑張りたい、
と思わせる存在になること。

ちょっとした、かわいらしさかな。

見て、かわいい、
とか言うんじゃなくて、

なんか、健気で、
ちょっとしたことをバカにしないで、
工夫しながら、ささやかな楽しみを
作ってくれる、かわいさ。

そう、これだ。

ちょっとした工夫をして、
ささやかな楽しみを作ってくれる。
これが、かわいく生きる、ことなんじゃないだろうか。

強く生きることを求められなくなった男は、
ぜひとも、この路線を目指すべきだ、
なんて、一人勝手に考えている、今日この頃。

2010年4月24日

残念の種類

残念には、
いろんな種類があって、
本当に、

残念がっていいものと、
そうじゃないものが
2つあるんだろうなって思います。

がんばってがんばって、
本番とかでも、精一杯やって、
それでも、目標にちょっとだけ
届かなかったのは、
やっぱり、残念だけれど、

これくらいでいいか、
と思いながら、
手加減をしている状態では、
あともう少しだったとしても、
それは、おしい、残念だった、
とは言えないんじゃないかと思う。

当然の結果と言われるだろうし、
いい薬だ、ってことになる。

人は、結果を見なければ、
現実が分からない、
目が覚めない、
ということは、それこそ、
残念ながら、多い。多すぎる。

そういう私も、
そうだと認める。

なんだろうなぁ...

本当の残念なら、
ちょっとした満足感を覚えながら
言えるけれど、

どっかに、全力を出していなかった自分を
知っているときには、
バカだったなぁ、としか言いようがない。

まだまだがんばれる時に、
手加減しちゃいけないな。
がんばるしかないべ。

バカな「残念だった」って言葉を
口にしないために。

2010年4月20日

レジェンド

レジェンド、っていう言葉に、
なんだか弱い自分です。

たぶん、
その事の始まりは、
HONDA レジェンドっていう車からでしょう。

レジェンド

出て間もなく、この車が目に止まり、
欲しいなぁ、と思ったのですが、
今なお、本気で手に入れるために、
アクションを始めてはいない。

レジェンド、Legend、伝説、
という意味のごとく、
この車は、生き残っていけるのかな。

それとも、そのうち消えて、
伝説にだけ、なるのかな。

この車が気になりだしてから、
レジェンドっていう言葉が気になりだした。

レジェンドが含まれている、
商品、映画、いろいろと見たくなります。

先週末に、
映画「アイ・アム・エジェンド」が、
テレビ地上波で初放映されて見た。

アイ・アム・レジェンド

アイ・アム・レジェンド

主演のウィル・スミスは、
ぴったりだったけれど、
なんだか、内容は、
思ったほどの大作と思えないまま、
終わってしまった。

ウィル・スミスの出演料が高すぎて、
ほかに、予算が回せなかったか、
という感じの映画。

なんだろ、ストーリーの盛り上がりが、
ちゃんと、エンディングに向かっていかない。
えっ!終わり、みたいな。

そういう意味で、伝説になるのか、この映画は?

いやいや、そんなことはないな。
ちょっと残念な映画だった。

考えさせられ、面白い映画だったら、
録画を消さないで、とっておいて、
娘たちにも見せようと思ったが、
即消した。

レジェンド、というタイトルがつくから、
いつもいいとは限らないんだな。
残念、残念...

2010年4月18日

過ぎていくもの

今こうしているうちに、
1秒が過ぎて、
1分が過ぎて、
なんだか知らないうちに、
自分は何かを選んでいて、

過ぎていく時間に、
その選んだものとか、ことを乗せて、
時間の波に浮かばせて、
過ぎ去らせている。

いつもいつも、
ハッキリした目的や目標をもって、
その時間を過ぎ去らせることができれば、

何の後悔もない、
充実した時間、日々を遅れそうだけれど、

選んだ時間の先には、
いろんな選択肢がまた待っているから、

選択するのに時間がかかったり、
選びたくない気持ちや、
迷ったり、こだわったり、
誘惑されたりしているうちに、
時間は、ちょっとずつ減ったりしている。

そのたびに、
時間をうまく使えるようになるのって、
けっこう難しいんだなぁ、って思わされる。

すごーく、価値ある使い方をしていることもあれば、
やっぱり、惰性で使っていることもある。

目的意識がないからだ、
自分に、そんなことを言い聞かせてみたところで、

日々のいろんなことに、
ちょっとは心を揺さぶられながら、
生きているから、

目的意識は、ときどきは、
弱ったりするもんだと、
自分の言い訳をしたりもする。

心から、なかなか消えることのない、
復讐心とか、嫉妬心、競争心でもあれば、
目的意識は、ずーっと、心のなかに、いられるかもしれない。

そういうものがない時には、
人は、どっかで、それを忘れる。

それがいいのか、悪いのか、
よくわからないけれど、

そうやっているうちに、
時間が過ぎ去っていくのは、
事実なんだよなぁ。

2010年4月17日

バリア

人は、言葉の節々に、
何気なく、バリアを張っていたりします。

「○○をお願いします」

と、ていねいな言葉で言いながら、
実は、○○以外には絶対に踏み込むな、
とバリアを作っている。

「まあ、そんなところです」

という返答には、
もうそれ以上は答えられません、
といったニュアンスが含まれていることもある。

「残念ながら、担当でないので...」

という言葉で、関わることを逃げるときもある。

人の言葉の中にあるバリアは、
微妙に存在するもんです。

時に、そのバリアを取り壊して、
中に入り込もうとすると、
地雷を踏んでしまうっていうこともあります。

つまり、相手が、
猛烈に怒る、激怒させてしまうわけです。

バリアに気づかない人は、
いつも、そんなことをしてしまうでしょう。

そういう私も、
無意識に気づかないこともあれば、
意図的に踏み込んでしまっていることもある。

バリアを張る権利のある人もいれば、
そんな権利などないのに、
勝手に張って、情報を留めてしまう人もいる。

もちろん、何事にも、
知る権利があるわけでなく、
議論する義務もない。

バリアを張られたら、
望まれている通り、
関わらないで済めば一番いいでしょうね。

2010年4月16日

気が強い

気の弱い人間ばかりを
相手することが多いと、

「ああ、もうちょっと、
 気の強い人といっしょに
 仕事したいな、付き合いたいな。」

なんて思ったりします。

そんなことを思っていたところに、
いきなり、気の強い人が現れて、
いっしょに仕事しよう、付き合おう、
となったりすると、

その気の強さに圧倒されて、

「ああ、ちょっと気が強いなぁ...」

なんて、今度は思ってみたり、
人間というのは、勝手なもんです。

気の強さ、弱さ、
頭のキレの良さ、悪さ、
気づきの有無など、

人は、他人に対して、
いろんな欲求をもつもんですが、

自分の性格が、
ちょうどいいものでないのと同じで、

他人の性格も、
ちょうどいいものなんて、
ありっこない。

そもそも、ちょうどいい、
っていうのが何だかというものが、
人それぞれ違うわけだから、

あるいは、そのときの気分でも、
違ってきますから、
相性とは、どうにもならない結果に思えます。

恋人と恋人、夫婦、上司と部下、同僚と同僚、
親と子、友達と友達、いろいろ。

ちょうどいいものがない社会で、
わたしたちは生きているけれど、

ある瞬間には、
「なんだか、ちょうどいい」と、
ちょっと勘違いもしたりしながら、

また、時間が経てば、
ちょうどいいものがなくなって、
変わっていって、人は成長するのでしょう。

面白いといえば、面白い。

私にとって、今日ちょうどいいのは、
なんだろうなぁ。

気まぐれな私だから。

2010年4月14日

想像できないこと

自分の思いや考えだけに
とらわれてしまうと、

想像できないことは、
すべて、起こらないだろう、
ありえないだろう、
みたいな理解をしてしまう。

おおげさに言えば、
なんか、予言みたいな感じ?

たとえば、
「私って、
 自分が結婚して、
 子供を育てているところを
 想像できないんだよね。
 きっと、結婚とかとは縁がないんだよ。」
みたいな結論に、もっていく。

なんか、ドラマや小説とかの
セリフに出てきそうだけど、

そんな予言は、
当たるとは限らない。

そういえば、
知人にいたなぁ...

「私、まだまだ働きたいので、
 しばらく結婚しないと思います」

って言いながら、
2ヶ月後には、結婚していた。

さらに、

「私たち夫婦は、
 二人の生活を楽しみたいから、
 子供は、まだまだ生まない」

と言いながら、
半年後には、妊娠の報告をしていた。

想像できることがすべてで、
想像できないことがありえないことじゃない。

想像なんてものは、
そのときそのときの、
人間の心の状態で、
どうにでも変わっていく。

「今は、この子が働いているシーンが
 想像できない」

って言っても、子供は成長して、
少しずつ、大人の手から離れていく。

想像できないのは、
自分の中にある願望とか、不安が、
邪魔をしているか、
想像力の引き出しが少ないだけだろう。

人は、想像力がないと、やっていけない。
道を開けないと思う。

想像を邪魔する感情は、あるいは、
マイナスにだけ向かわせる想像力は、
追い出してしまったほうがいいのだ。

少なくとも、自分だけは、
という気持ちで。

2010年4月10日

整理できない人

心のでも、モノでも、
何かを整理するっていうのは、
1つ1つ、ここからあっちへ、
という具合に、単純なことを
繰り返すことだと思う。

もちろん、
その「あっち」に持っていく場所を
どこにするか、っていうことくらいは、
ちゃんと考えるけれど、

それが決まったら、
1つ1つを、移動することにすぎない。

最初は、いっぱい山積みになっているものでも、
1つ1つ、やっていけば、
いつかは、すべて整理できる。

これ全部、整理できるんだろうか、
なんて考えている暇があったら、
1つ1つ、持てばいいのだ。

考えることで、
心の整理ができる人がいるかもしれないけど、
考えても、どうがんばっても、
整理できない人もいる。
その人は、自分を忙しくさせる以外にないのだ。

考え込んで、
整理が遅れた分、
すぐにでも整理を始めたほうがいい。

もう考えなくてもいいのだ。

1つ1つ、ここから、あっちへ、
移動させる以外に、方法はない。

整理とは、単純な仕事。

そして、考え込むような、
整理できない状態を作らないように
するためには、

日ごろから、ちゃんと、
山積みにならないよう、
溜め込まないことなのだ。

心の整理も同じこと。

1つ1つの考えごとについて、
やるべきことを決めて、
それを実行するだけ。

残りの、整理できていないことを、
考え、悩み始めても、しょうがない。

2010年4月 9日

一度やってしまうと

最初の1回、
というのは、本当に重要なもので、

一度やってしまうと、
状況は変わっていく。

「無理だ、無理だ」
と言われていたことでも、
イヤイヤながら、
1度でもやらせられしまうと、

今度は、無理だ、
とは言えなくなる。

その上、
そのイヤなことに、
ごほうびがあったりすると、
ますます、無理なことではなくなります。

その応用を、
悪いことに使う人も出てくる。

絶対にやっちゃいけない、
悪いことを、「ま、いいか、今回だけは」
と思った瞬間から、
それをすることは、
今回だけに限らず、
ずーっと簡単に破ることができるようになる。

一度やる、
最初にやる、
ということには、
それだけの意味がある。

だから、
いいことも、悪いことも、
最初にやるときには、
本当に、注意が必要なのだ。

それをやろうという勇気は、
何かを変えるだろうし、

それをやってしまう決断は、
何かをダメにしてしまうこともある。

はじめの一歩は、
自分にとって、
世界にとって、
誰にとっても、
そういう意味があるんでしょうね。

2010年4月 8日

何をしていいか

何をしていいか、
分からないという状態には、
いろんなパターンがあるだろうけど、

その「何をしていいか」
分からなくて困っている人を見て、

何をしていいか分からない、
っていう人もいると思います。

子どもを見る親の目、
恋人を見る人の目、
大切な人を見る人の目...

迷っている人、
悩んでいる人を見て、
何かしてあげたい、
っていう気になることは、
きっと、悪くないけれど、

いろいろ考えたけれど、
たくさんのことを試してみたけれど、
結局、何もできないことだけが分かる。

できることは、
自分の仕事を
ちゃんとこなすだけ。

そうすることでしか、
大切な人をサポートできない、
ってことが、世の中には多いかもしれない。

人それぞれ、
いろんなシーンがあるから。

浮き沈みは、
自分と相手のタイミングは、
いつも同じじゃない。

それらは、ズレてやってきて、
それぞれを苦しめたり、
楽しませたりする。

自分が楽しんでいるときに、
相手が苦しんでいれば、
その楽しい気分も
ちょっと半減したりする。

自分が苦しんでいるときに、
相手が楽しんでいれば、
なんだか、イライラもしたりする。

最初から最後まで、
いっしょの感情を共有することはできない。

何をしていいか、
分からなくて困っている人を見て、

何をしてあげられるか
分からないって気持ち。

そういう気持ちを感じるだけで、
いいんじゃないか、と思うことにしよう。
それが、ある意味、愛情の表れかもしれないし。
その人を信じることかもしれないし。

2010年4月 1日

空気をチェック

花粉症の人たちは、
きっと、この時季、
たいへんなんでしょうけど、

花粉症のはずの私が、
なんだか、ここ数年、
悩まされていないことに気づいた。

空気がそれほど問題ないのか、
それとも、自分が強くなったのか、
どっちなんだろう?

空気をチェックしようがないので、
どうも、よく分からない。

人間関係の、空気もきっと同じ。

居づらいなぁ、と思うところで、
そこには、そういう空気を作り出している人が
きっと居て、

もしかしたら、
自分がそういう空気を作り出していて、
ほかの人に、居づらい感じを与えているかもしれない。

そういう空気の原因は誰か、
っていうのをチェックしてみたい時には、

一人ひとりがいないときに、
どんなふうになるか、
他の人々の表情なり、行動なり、
空気がどうなるか、見てみれば、
よく分かったりする。

上司がいないときに、
みんなの空気がリラックスモードになったり、
仕事がはかどったり、
そういうことにも関係するだろうなぁ。

お父さんがいないときに、
みんなの会話がはずむかどうか、
っていうのも、また似ている。

万が一、
その人がいないほうが、
空気がなごむ、まじめになれる、
みたいなことになったときには、

その人が改めるか、
態度を変えない限り、
嫌われる可能性をもっている。

もしも、その人に、権力があれば、
嫌われようがないけどね。

2010年3月30日

読めると扱えるは違う

つくづく、
人の心を読むのと、
その人の心を扱うのは、
違うなぁ、って思わされる。

読んでも、
あえて反対のことをして、
怒らせることもできるから、

扱うっていうのは、
けっこう、高いところに
あるかもしれないなぁと感じる。

わたしは、読むことについて言うと、
それなりに出来るような気がするが、
扱うのだけは、かなり下手に思う。

そもそも、
人の心を扱う、
なんて表現をするところから、
考え方が間違っているんでしょうね。

心は扱うものじゃなくて、
きっと、違うことをするもので、

それが、出来ない人から見て、
「扱っている」ように見えるだけだろうから。

逆に考えて、
心を読まれるのも、
扱われるのも、
ちょっとイヤなことだと言えば、
イヤなことかもしれないから。

読まれていると思われないで、
さりげなく、付き合っていないと、
これもまた、難しいこと。

読めれば、
幸せになれるとか、
成功するとか、
そういうこともでない。

本当のところ、
心からは、必ずしも、
お金が生まれるわけじゃないし、

心とお金は、
強く関係していることもあるけど、
一体のものでもない。

だから、
心を扱えれば、
お金儲けができる、
みたいな広告文句で、

アプローチしてくるコンサルタント業者、
っていうのも、なんだか、違うかもしれない。

2010年3月24日

あるもの把握

自分がどんなものを持っているか、
ちゃんと分かっていないと、
似たようなもの、同じものを
また買ったりすることがある。

ある知人のお宅に行くと、
マヨネーズがすんごい量あったり、
納豆が売るくらいあったりする。

「あ、お買い得!」

って思って買うこともあるだろうけれど、
なんだか、なかったな、という過去の記憶が、
いつもよみがえったり、

あるいは、
いざという時になくて困った、
という痛い思い出があって、
そんな行動を続けさせていることもある。

そうでない場合は、
あやふやな不安が、
似たようなもの、同じものを
集めさせている気がします。

本も、その類かな。

新しい本が出ると、
今もっているものと中身が同じでも、
なんだか、新しい発見がありそうで、
買いたくなってくる。

実際、買えば、
新しい発見があるのだけれど、
ちょっと時間が経ってしまうと、

同じものが2つ、3つとあることに
気づかされる。

自分の手元にあるもの、
その中身も含めて、
ちゃんと把握していないと、

いつまでも、
こんなことの繰り返し。

「なんだか、なかった気がする」

という気持ちって、微妙なんですよね。

逆にいえば、
あんまり持っていない方が、
把握しやすいってこともあるかもしれない。

そして、持っていない状態をキープできれば、
似たようなもの、同じものを集めることもないだろうし。

2010年3月15日

もしも

もしも、今日、
その仕事をしていなかったら、
(その仕事をさせられていなかったら)

あるいは、
その職業についていなかったら、
(その職業をさせられていなかったら)

ほかの何をしていると思いますか?

あらためて尋ねられると、

「そっかぁ、今自分がやっていることって、
 いちおう、自分が選んだことなんだな」

って気づかされます。

選んだことだから、
ちょっとさかのぼれば、
「もしも」っていう別のシーンもありえた、
ということにも気づく。

「もしも、俺が本気を出したら、
 すんごいんだから」

と、大きなことを言うこともできるけれど、

さかのぼってみて、そこを裏返せば、
本気を出さない、という選択をしたことを
明らかにするだけ。

手を抜いた、
っていう表現もできるけれど、

本気を出す勇気がなかった、
ということにもなる。

過去にさかのぼった「もしも」も、
これからのことについての「もしも」も、

それを口にして言ってしまえば、
なんか、軽い。

きっと、「もしも」っていうことを考えるのは、
大切なこともあるけれど、

「もしも」について口にすることは、
そんなに必要じゃない、ということなんでしょう。

もしも、は考えても、
口に出さない。

しばらく、そんなことに
気をつけてみようと思っています。

2010年3月14日

自分に似ている人間

なんで、
この人に怒っているんだろ、
っていうことを
冷静に考えたときに、

自分が他人にしてしまう行動を、
自分にやられてしまった時だ、
と気づくことがあります。

せっかちな私は、
質問されたことについて、
ちゃんと答えることなく、

その答えの後に、
さらなる質問が来て、
それに対して言わなければいけない答えを、
先走りして答えていたりするんですよね。

「今日は元気?」

「ああ、元気だよ」

「じゃあ、ちょっと付き合ってくれる」

「それは、ちょっと無理です」

みたいな流れになるはずが、

「今日は元気?」


「それは、ちょっと無理です」

って答えを返されたら、
相手は、イヤですよねぇ。

なんか、畳み掛けられている感じ。

やっちゃうんだよなぁ。

で、昨日は、私がやられてしまった。
はははは...笑

イヤナモンデスネ。
そんな会話。

そして、やられてみないと、
自分の嫌さ加減が分からない、
という自分も、つくづく、バカだと思う。

人は、自分に似ている人間を見て、
自分の嫌さ、欠点を初めて見つけられることも
多いんでしょう。

それ以外にも、見つけられるチャンスは、
いろいろあるんでしょうけど。

これから、私は、
私に似た人間に何人、出会うことだろう?
ちょっと怖いな。

2010年3月12日

かんたんな好き嫌い

人を好きになるって、
簡単なことであって、難しいこと。

嫌いになるのも、
きっと簡単なことであって、
難しいこと。

心は、ころころ変わるから、
変わらないようにするのが難しいけれど、

振り子のように、
好きな方に振れるのも、
嫌いな方に振れるのも、

ちょこちょこと出来ちゃう。

だから、
がんばらなきゃいけないのは、
好きなときに、
嫌いな方に振れないよう、

その振り子を
ちゃんと自分で持っていることだと思う。

だって、
嫌いな方に振れてしまったら、
もう、好きな方に振らせる努力すら
意味ないものに感じるだろうし、
そんな努力をするわけなんかない。

コミュニケーションってもの1つを
とってみても、
それを嫌いになってしまったら、
何もしなくなる。

それが楽だし、
ストレスも心労もないだろうから、
どんどん、嫌いになっていく。

コミュニケーションから、
いったん遠ざかってしまうと、
それを好きにならずとも、

コミュニケーションをするということに
戻ってくるのは、きっと難しいはず。

人も、物事も、
好き嫌いがないうちに、

どんなものかを知っていたほうが楽。

面倒くさくなって、
嫌いになりそうになってからじゃ、
なかなか難しい。

何気ないことで、
嫌いになることは多いから。

逆にいえば、
人の好き嫌いなんて、
そんなこともあるから、

あんまり当てにならないんだよね。

「○○が、すっごーく好き」

という言葉も、明日には、意味ない、
ってことも少なくないだろうから。

好き嫌い、ホントはどうでもいいことなんだろうかな。

2010年3月 4日

引き継がれない

どこかに問い合わせをしたり、
何かを依頼したり、交渉しているときに、
「たらい回し」という経験を、
ほとんどの人がするもんです。

担当者と変わります...、
担当が変わりましたので...、
その件については少々お待ちください...、

言葉はどんなものが使われようとも、
今、目の前にいる人は逃げて、
次の人にバトンが渡されるわけです。

そして、その次の人も、
逃げたい気持ちがあるから、
ろくな対応をされずに、
また、別の人が、
目の前に、あるいは電話口に、
現れてくる、という感じです。

さらには、
逃げたいばかりの人たちだったから、
ちゃんと、引き継ぎが行われていることは、
まずない。

同じことを、
2度、3度、説明しなければいけない立場に、
置かれるので、

そのうち、こっちが、
「もう、いいや」ということになる。

もちろん、逆説的に考えれば、
「もう、いいや」くらいで終わることであれば、
そもそも、たいしたことじゃなかったわけで、

もしかしたら、問い合わせたり、
交渉するまでのことでなかったのかもしれない。

そうなれば、こっちのミス、
というか、騒ぎ損。

たらい回しは、引継ぎされていない、
この事実を知っていたほうがいいなぁ、
と感じさせる経験は、多いです。

反対に、
「すごい!、ちゃんと引き継がれている」
というシーンに出くわすと、
とても感動する。

たらい回しに会わないためには、
いろんなことを気にしない、騒がない、
というのが、一番いい。

それができる人間と、
できない人間がいるから、
世の中は、ちょっと面倒くさくなる。

対応(撃退?)マニュアルなんてものも、
作られてくる。

あ、たらい回しにされている、
と感じたときには、
それ以上騒ぐ価値があるかどうか、
立ち止まって考える余裕がほしいものです。

2010年2月28日

熱中

人が何に熱中するか、
なんてことは、
その時々の気分によるものが多く、

たとえば、
他人が不正な扱いを受けているときには、
傍観できるけれど、
自分に不正が及びそうになると、
とたんに必死に抵抗したくなり、
そのことばかりに熱中し始めたりする。

わたしにもありがちだ。

オリンピック放送を見ていても、
今の自分を重ね合わせて、
日本を応援したりしているから、

結果や判定が思わしくないと、
どことなく、不正に扱われたような気分になる。

そこで停滞して、
熱くなってしまう。

けれど、新しい希望のもてる話題が入ると、
心は、すぐに飛んでいって、
そっちに熱くなる。

今朝5:30頃から始まった、
スピードスケートの女子パシュート。

日本語訳されて、
「団体追い抜き」なんて呼んでいるサイトも
ありますが、パシュートのほうがかっこいい。

準決勝・ポーランドに勝って、
銀メダル以上が確定した。

決勝は、ドイツと7:17頃から、とのことで。

心はワクワクしている。

オリンピック最後のワクワクしどころかもしれない。

新しいことに心が奪われるまでは、
停滞したことに奪われたままになって、
それに熱中するのが人間。

けれど、時は流れる。

いろんな話題に、事欠かないのが、人間の社会。
ありがたいもんです。

自分自身においても、
いろんな話題を生んで、
熱中できるものがいろいろ見つかるように、
生きてみたいと思います。

3日坊主のものもあるかもしれない。
でも、そういう中から、
本当に熱中できるものに出会えたら、
それはそれでラッキーだ。

自分の負(マイナス)の部分にだけ、
集中してしまう時間は、できる限り、
減らしたほうがいいからな。

2010年2月18日

元気になりたい

やっぱり、生きていれば、
押しつぶされそうな1日は、
なんどとなくあります。

それは、きっと、
10代のときであろうが、
20代のときであろうが、

はたまた、
40代、50代でも
同じようにあるんです。

違いは何か?

長く生きている分だけ、
こういうトラブルに終わりがあることを、
若い頃よりも早く、予想できることかな。

でも、下手すると、
長く生きている分、
マイナス思考が定着している場合もある。

終わりがあることを予想できる、
っていうくらいに生きた長さと、

いつもいつも嫌なことが起きるんだ、
という思考回路が定着するくらいに生きた長さ、と。

比べちゃいけないけど、
生きるっていうことは、
それだけの違いを生みつけるくらいに、
生き方の道、方法があるんだろうね。

ああ、人生って、面白い。

わたしの場合にも、
ダメな方向に定着したものって、
やっぱり、ある。

たとえば、
「この人からくる電話は、
 ろくなことがない」
とすぐに考えてしまう習慣。

だいたい、事実のことが多いんだけど、
そういう思考回路は、
人間の中身、という全体を考えれば、
なんとなく、いい光とならない気がする。

心のどこかに、
影を落としてしまう感じ。

元気になりたい、
元気になりたい、
今朝は、そう思える朝です。

よっし、元気なってきた。
今日も、がんばるぞ!

2010年2月12日

ぼちぼち生きる

今朝、日経ビジネスサイトで、
勝間で生きられず、香山にもすがれない
という記事を読んだ。

心に、すとんと、入ってきた内容だった。

大阪と東京を行き来しながら、
仕事をする著者、遥洋子さん。

ぼちぼち生きることが、
むずかしい時代になった、
ということ。

なぜか、
東京にいれば、
もちろん、競争は激しい。

じゃあ、癒しのあるはずの地方に行けば、どうか、
といえば、これまでの強者が、
少なくなったパイを死にもの狂いで守るために、
弱者をさらに追い込む、という構図になっているから。

そのとおりだと思う。

ぼちぼち生きようなんて言っていたら、
どちらでも、生きられない、
なんてことになる可能性もある。

新しいことを、ヒットをねらって、
つくっていかなければいけない。
それは、都会にいても、地方にいても、
同じだ、という時代なのでしょう。

それができないと、
ぼちぼちも生きられない、
なんて厳しい時代だろう。

もちろん、
いやいや、俺は、
ぼちぼち生きているよ、
と思っている人、世代、職種の人も
いるでしょう。

ただ、そこに当てはまらない人の方も、
きっと多いはずだ。

頂点を目指すことは、
とりあえず、あきらめた、
だから、ぼちぼち生きたい。

こんなことをゆるしてくれる時代は、
もう、来ないんでしょうか。

全部を奪いとるか、
何もかも失ってギリギリ生きていくか。

うーん、厳しい。

とは言っても、
「ぼちぼち生きる」道を
一生懸命に探す人がいても、
悪くないだろう。

勝間さんにも、香山さんにも、頼れない。
やっぱり、頼れるのは自分だけ。

そういうことなんでしょうか。

なんていうか、
最近感じていたことを、
分かりやすい言葉で伝えてくれた内容でした。

>> 勝間で生きられず、香山にもすがれない

勝間さん、努力で幸せになれますか

>> 勝間さん、努力で幸せになれますか

2010年2月 7日

なくしたもの

なくした、
という事実に、
かなりガッカリする人間(自分)だ、
ということを、今まで知らなかった私。

昨日は、
妻といっしょに買い物に行ったのですが、
何を買うかを話し合って書いたメモが、
買い物をしている途中から、
なくなった、と妻が言うのです。

時々、私も、
その紙をあずかって見ていたりしたもんだから、
私が返さなかったのかな、
それとも、妻がどこかに落としてしまったのかな、
なんて考え出して、

ああ、せっかく、書いたのに、
という気持ちがもたげてきたら、
なんだか、ちょっと情けなくなった。

ちょっとしたメモ用紙なんですけど、
それを書き出すために、
けっこう話し合っていたもんだから、
それだけのショックが湧いてきたんでしょうね。

今思えば、たいしたことないのですが、(笑)
買い物に夢中になって、ちょっと楽しかった分、
ガッカリ感も強かった感じです。

そうかぁ、俺って、
こんなことで、こんなにガッカリするんだぁ...と。

やっぱり、
「なくしたものへの執着」
が強いという性格なんでしょうね。

何をなくするかで、反応も違うでしょうけど、

なくなった、
しょうがない、
じゃあ、どうしようか?

という考えにたどり着く前に、

どうして?
どこで?
なんで?

という問いが堂々巡りしてしまうんです。

やるべきことは、
これから何をするべきか、
ということなんですけどね。

それが分かっていながら、
その準備に時間をかけることが多いから、
そうなってしまうのでしょう。

ちょっと、準備マニアかもしれないな。
って思いました、自分のことを。

2010年2月 4日

かわいそうかな?

めったに、
かわいそうなんて、
思われることのない私ですが、
(きっと、だいたいは、傲慢に見えるでしょうから...)

たまーに、
かわいそうと思われることがあります。

そんなときには、
言葉でも、助けられることでも、
やっぱり、嬉しかったりします。

いつもいつも、受けられるものじゃないから、
ありがたいのでしょう。

そういうものがありがたくなって、
あるいは、病みつきになって、
いつも欲しいなぁと考えて、

「あわれみ」乞いを始めたら、今度は、
かわいそうと思われなくなるだろうなぁ、
って思います。

いつも強気な子供でも、
涙を見せたりすると、
かわいそうだな、なんて思われます。

なかなか見せない涙だからでしょう。

でも、いつも、
泣いてばかりいたり、
騒いだり、駄々をこねるばかりの子供だと、
見せられる涙は、ちょっと面倒くさい。

子供ばかりでなく、
きっと、女性についても、
そうだろうなぁ。

かわいそうと思うのは、
ある意味、自分が優位に立っている気持ちから、
出ていること。

相手からのそういう気持ちを受け入れるためには、
その人より下位に位置している自分を
認めなくてはいけません。

だから、かわいそうなんて思われるなんて、
不愉快だ、不本意だ、失礼だ、などという人もいるでしょう。

自慢でも何でも、
相手が優位な思いからとか、
ちょっとした「上から目線」でものを言うとか、
それを受け入れられるには、
本当に謙虚か、依存心がないとできないんでしょうね。

私は、どっちだろう?

2010年1月30日

ゴール間近?

がんばっていること、
仕事でも、恋愛でも、
そのほかのことで、

ゴール間近と思っていて、
突然、そのゴールが
ふっと見えなくなるときがあります。

うっすらと見えるなら、
まだ、心は安心できます。

見る方向を間違えたのか、
それとも、世の中のイタズラとか、
気まぐれかは、分かりません。

ほんとうに、見えていたと思っていたゴールが、
ふっと、消えるんですよね。

そんなとき、
なんだかなぁ、なんだかなぁ...
と思ってしまいます。

ゴールが消えただけで、
その瞬間に、
自分のやりたいことが、
やるべきことも見えなくなる。

自信がなくなるんでしょうね。
それまでは、これをやっていたんだけど、
ほんとうに、これをやり続けていいのかなぁ、
ダメなんじゃないのかなぁ、と。

あともう少しで、ゴールだったのに、
なんで、ふっと消えるんでしょうね。

それが自分には分からなくて、
なんか虚しくなることもある。

でも、こう考えればいいかもしれない。

もともと、見えていなかった、と。
まだまだ、見えていなかったのだと。

ほんとうの結末に辿り着くまでは、
見えると思ったとしても、
それは、一時的なこと。

見えていない、見えていない。

見えたと思っていただけ、
そう思って、がんばるのが一番。

10m先にゴールがあると、
一人勝手に勘違いして、ガッカリして、
11m先にある本当のゴールを
あきらめていたら、ホントにもったいないです。

がんばろ、がんばろ。

2010年1月26日

激しく頭痛

昨日は、朝から
頭痛がしたもんだ。

私にしては、
めったにないことで、
頭痛もちの人の大変さを
味わっていた1日でした。

ちょっとした頭痛でも、
生活全体に
不快な思いを感じるくらいですから、

もっと日常的にある障害だと、
身体も、心も、かなり不快だろうなぁ、
と考えさせられました。

バカなことに、
あまりにも頭痛がひどかったから、
いつもより早く床についた昨日は、
その頭痛と不快さを感じながら、

もしかして、このまま眠って、
人生が終わったりするんだろうか、
なんて勝手に考えたりもしていました。

そんなことはまったくなくて、
今朝には、スッキリと起きたのですが、
健康が失われると、
あまりいいことを考えられなくなりますね。

結局、あの頭痛は何だったのか、
と考えてみれば、
やっぱり、土曜日、日曜日続けての遠出で
疲れたんだろう、という結論。

健康を失いたくない、
けれど、ちょっとは失ってみないと、
そのありがたみが分からない。

そのためにある、
ちょっとした不快感。

寝不足、働きすぎ、
暴飲暴食、身体にきついことはなんでも、
バランスを考えてやらなくちゃいけないんですね。

身体を大切にしなくちゃ。

2010年1月25日

人間関係の数

うちには、
娘が3人いるのですが、
その3人それぞれのために、
親も、それぞれの人間関係が
生まれることになります。

たとえ、3人が同じ学校に行っていても、
そういう人間関係が微妙に増えるわけで、
それが、もし、高校、その先と
進学することになれば、
そのうち、行き先が変わってきて、
その数だけ、人間関係が増えることになるでしょう。

昨日、娘の卓球大会に行き、
知人のお母さんから話しかけられ、
まさしく、いろいろとからみ、
生まれてきた人間関係の波に、
うまく対応できてない、という苦労をうかがいました。

それまで、そんなに意識したことはなかったのですが、
なるほど、そんなこともあるんだな、と思ったしだいです。

人間関係のなかで、
人がやってしまいがちなのは、
味方をつくること、味方になること。

本当は仲間づくりのはずが、
価値観や考え方の違いがハッキリしてくると、

「あんたは誰の味方なの?」

みたいな話になってきます。

そんなつもりもなく、
なおかつ、自分の意志もあやふやなまま、
人間関係の荒波に漂っていると、

疲れてしまうわけです。

疲れてしまった後に、
あまり気乗りしないけれど、
誰かの味方になろうかと
気持ちをちょっとでも表明したりすると、
そうじゃない側から苦しめられたりする。

結局のところ、
誰の味方になっても、
誰の味方にならなくても、
苦労するわけです。

同じ苦労するなら、
自分で本当に納得する苦労のほうがいい。

できるだけ苦労しないほう、
なんて考えて選んでも、
苦労しないなんて限らない。

それは、人間関係に限らず、
仕事でも何でも、そうでしょう。

からむ人が増えてくれば、
それだけ考えなければいけないことも
増えてくる。苦労も増えてくる。

自分の意志がどこかにないと、
荒波にもまれるだけになる。

がんばらんといけないな。

2010年1月24日

子どもとマンツーマン

勉強でも、スポーツでも、
自分の子どもとマンツーマンで、
がんばっていると、
勘違いがふくらむもんです。

お、すごいな。
けっこう才能があるかもしれないな、
って思われてくる。

そういう考えがあるなかで、
腕試しをしようと、
テストでも、大会でも、
わが子を参加させてみると、
だいたいは、それほどでない、
という結果を見せつけられます。

世の中には、上には上がいる。
狭い日本にだって、上には上が...

でも、その勘違いを
認めたくないか、
信じる気持ちが強すぎて
自覚できないか、
そのどちらかなのでしょう。

力を出せなかった、
ように見える、子どもを
猛烈に怒るというシーンが
出てきます。

私も、そんなことをした時があるから、
そういうことをしている親(大人)の姿を見ると、
自分を見ているようで、恥ずかしくなる。

まわりから見れば、
レベルからして違っていて、
怒ることでどうにかなるような話じゃない
ように感じられても、

いっしょにマンツーマンでがんばってきた親(大人)に
してみれば、もっと実力を出せたはずだ、
という気持ちが捨てきれない。

マンツーマンというのは、
徹底的に鍛える上では、
効果的ではあるが、

その鍛える側が、
いろんな情報をもっていないと、
どんどん、狭い世界へ進んでいくことになります。

成長はしているんですが、
成長する方向が偏ってくるみたいな感じ。

子どもにとっても、
大人にとっても、
全体を見ながら、
目の前のことにも集中するって、
むずかしいもんです。

2010年1月17日

群がりコソコソ

群がって、
コソコソ話をしている女性の群れを
見ていると、思い出す言葉があります。

「ダメな女とは、
 仲間を欲しがる女である。」
 (ダメな女、村上龍)

女性の多い職場で
働くことが多かったものですから、
群がってコソコソ話をしている先には、
だいたい、いい話はしていないことが
多いんですよ。

多い、という表現は、
ちょっと控えめですが、
ほとんどの場合は、
悪口、陰口とかになるんですよね。

大声で言えない、
噂話から始まって、
どんどん、話はそんな方向へ。

その群れに入っていない人からすれば、
「自分のことを言っているんじゃないか」
って思ったりするわけです。

そんなことを気にせず、
自分のやっていることに
集中できるほどの精神力が
強ければいいのですが、

たいていの人は、
群れからはずされただけで、
心に攻撃を受けた気分になってしまう。

群れている側が、
まさしく、その攻撃を目指していた、とすれば、
それは「いじめ」みたいなものでしょう。

群がる女は、ダメな女。
群がる男は、ダメな男。

今日も、どこかで、
群れたがっている人がいる。

そこには、加わりたくないなぁ。

2010年1月 4日

美化された自分

昔の自分っていうのは、
自分の中で、けっこう美化されていたり、
肝心なところが忘れ去られていたりする。

すると、どうなるか。
他人のことが見えてこない。
ちゃんと見られないことになる。

だから、こう考えることにした。

きっと、昔の自分っていうのは、
今思うほどは、
心が強くなくて、
とても優柔不断で、
集中して何かを成すことができなかった
んじゃないだろうか、と。

思うことにしなくても、
きっと、事実だったことでしょう...

でも、そのときの記憶は、
薄まっていたり、ぼかされているから、
自分の中では、
昔の自分が「美化」されてしまうんですよね。

たとえば、
自分の娘に見える(遺伝している?)
自分の欠点について、

自分に似ているな、
とは思っても、
そのすぐ後に、
「いやいや、あそこまでは、
 ダメじゃなかっただろう...」
と否定してしまう。

だから、その同じ欠点について、
娘には、けっこう厳しく指摘したりもする。

ところが、遺伝っぽいポイントで、
けっこう、身に染みついているから、
そう簡単に直るわけがない。

じゃ、しょうがない、しょうがないや。

と一時は思えても、やっぱり、
気になって指摘してしまうのは、

本当は、自分の中から、
その嫌な部分を取り除きたい
という気持ちがあるからなんでしょう。

自分からは取り除けない、
そこはあきらめているところがある上に、
自分のことだから、あんまり気づけない。

でも、自分じゃない人間のそれは、
目に見えてしまう。いやなそれだから、
思わず、口にして指摘してしまう。

昔の自分に面と向き合うことがあったら、
そんなことを、同じように指摘するだろうか。

昔の自分のことを思って、
その後に、
ちょっとでも成長しやすいように、
かけてやる言葉を工夫するだろうか。

そんなことを考えると、
目の前にいる、自分と同じような欠点を
もつひとに、ちょっとはやさしくできるような気がする。

待てるような気がする。

他人に対して、それができないようでは、
自分の欠点も直せないことでしょう。
どちらにしても、時間のかかることでしょうから。

2010年1月 3日

めげながら、前へ前へ

新年の夢を掲げたばかり、
だというのに、

2日目にして、
めげそうな経験をした昨日。

おぉ~~、人生は、
なんとも厳しい。

けれど、逆説的に考えれば、
試練に早めに出会うということは、
それだけ、自分が前へ前へと
進んでいる証拠なんだと思います。

前へ前へと進もうとせずに、
逃げていれば、
きっと問題なんかに、試練なんかに、
出会うはずがないから。

おお、そうだ、そうだ。

そう考えればいいんだ。

そう思うと、なんだか気楽です。

それが収まったころには、
今度、自分の欠点を自覚するような経験が。

その欠点とは、待てないんです。

ネット社会において、
スピーディに物事が進んだり、
仕事が進んだり、解決されたり、
満たされたりすることが多いと、
どうも、リアルな社会での、

かったるさ、遅さに、
イライラしてくるんですよね。

イライラしている自分が、
どんだけスピーディな行動を
起こせるか、っていえば、

「他人のことばかり言って」

というクレームが出てきそうなくらい、
決断は、遅かったりするんですがね。

正月2日目にして、
試練に出会って、
欠点にも嘆く。

うーん、いやだったけど、
今思えば、いいかもしれない。

わたしは、きっと、前進しているんだ。
向かい風の中、前へ前へと進んでいるから、
前から、いろんなものが、自分にぶつかってくるんだ。

決して、背を向けて、
後退しているのに、
追い風状態に甘んじて、
自画自賛するようなことにはならないぞ。

2010年の2日目は、試練と欠点。
いい一日でした。

2009年12月30日

自分とのしがらみ

私にまかせて、
と言われると、
たいていは、ホッとします。

ああ、よかった、
と荷おろし気分になって、
何もしたくなる人。

これは助かった、
ということで、
それ以外に自分がなすべきことに、
力を注ごうとする人。

もちろん、
「これは自分でやりたいんだ!」
とまかせることを拒む人もいるでしょう。

その時々の気分で、
ちょっとは違うかもしれませんが...

昨日、うちの奥さんから
「それ、私にまかせて」と言われ、
心が晴れる気持ちを感じたときに、

ふと、わたしの重荷って

「何なんだろう?」

と考えました。

たしかに、
「まかせて」と言われて、
荷おろし気分にはなった。
けれど、何を背負っていたのか、
自分でも分からないときがあるもんですね。

そこで考えてみて、
どうやら、私の性格の場合は、
その「心の重荷」というのは、

自分が勝手につくっているもので、
だいたいにおいて、
他人と比べて、
これもやらなければいけない、
あれもしたほうがいい、
それもやろう、
と手広く増えそうになること。

現実は、
あれもこれもそれもなんて、
とてもじゃないけど
できないから、
必ず何かが中途半端になるわけです。

そして、ダメなことには、
本来やるべきことが
中途半端になり、
他人と比べて
やらなければいけないと思ったことを
焦るようにやることが、けっこう増えてしまう。

それもずーっと続けばいいのだけれど、
どこか相性が合わない、
ということも多く、途中で
あきらめちゃうこともある。

きっと、うちの奥さんは、
そういうことを解決しようとして、
言ったわけじゃないだろうけど、

「まかせて」

と言われたときに、

ポロっと、何かがはがれたような気がした。

いつもと違うように言われたわけでもない。
ただ、自分の心のなかで感じたことだろうと思う。

ポロっとはがれたものは、何だったんだろう?

きっと、何か、見えない、
自分との「しがらみ」。
誰かとのしがらみじゃない。

自分とのしがらみだから、
自分が切り離すだけで、
それは存在しなくなったのです。

また、引っ付かれないように祈るばかりだ。

2009年12月23日

ラクになる

期待することをやめれば、
ラクになります。

他人に対してはもちろん、
自分に対しても...

でも、
「もう期待しない」
といいつつ、
期待しているんですよね。

なんで、期待するんだろう?
と思うのですが、
人間というのは、もともと、
そういう期待をするように
できているのでしょう。

夢?

憧れ?

願望?

いろんなものがミックスされて、
人間の期待は、前に進もうとします。

しかし、
その期待が大きければ大きいほど、
だいたいは、うまくいかないことが何か起こる。

それは、邪魔とは限らない。

けれど、人間は、
邪魔が入ったと思ってしまうことが
多いかもしれない。

邪魔が入ったんじゃなくて、
自分の期待の「読み」が
甘かったというのが事実なんです。

それを認めることなく、
邪魔が入った、とばかり、
騒いでいては、進歩がありません。

ゲームなのです。

思い通りにいかないのがゲーム。
それを何度も目の前にして
ちょっとでも、思い通りに、
あるいは期待通りにどう変えられるか、
っていうのが、このゲームの醍醐味。

1勝9敗。

ユニクロの柳井正社長さんが、
言っていた言葉が好きです。

1勝9敗。

私たちの期待の勝率は、そんなもの。
それでも、その1勝がうれしいから、
がんばれる。

9敗で、何度も何度も、
あきらめ加減になるけれど、
その1勝のためにがんばる。

10勝という全勝の期待を捨てて、
1勝を目指せば、ラクになれます。

この生き方だな。

2009年12月21日

強い自分、弱い自分

うまくいっている時に、
それまで自分がやってきたことを
考えるのは、とても楽しいこと。

反対に、
うまくいっていない時には、
自分のやってきたことは
きっと思い出したくもないだろう。

自分のやっていることを、
楽しいと感じられるのは、
自分が強いとも思える瞬間で、

その反対に、楽しいと感じられないのは、
自分が弱いと思える瞬間でもある。

しかし、そんなふうに感じる自分から、
ちょっと離れて、自分を見てみれば、

自分なんていう存在は、
楽しいときにも、そうでないときにも、
そんなに変わっていないのだ。

変わっているのは、
強いと思っているときには、
ちょっと抵抗力が強いような気がしているだけで、

あまりにも物事がうまくいっているときには、
浮かれすぎていて、
ちょっとした嫌なことで、
弱くなったりもする。

反対に、
打たれて打たれて、
へこんでいるときには、
ちょっとした嫌な出来事も、
それまでと同類で、
そんなに動じないで済むことだって
あるかもしれない。

自分は強くも、弱くもない。
きっと、それが真実だと思います。

同じように、
自分のやっていることが、
すべてうまくいくと
運命づけられていることもないし、

すべてうまくいかないと、
運命づけられているわけでもない。

その時その時が、
新しい瞬間で、
新しいチャンスで、
強くも弱くもない自分で
ぶち当たってみて、
そこに転げ落ちてくる「現実」
という結果をまた握り締めて、
次の瞬間に、自分という存在を
試していくことがいいのでしょう。

どの瞬間にも、
自分を試せる。
これが人生の面白いところ。

今日も、がんばるべ。
本当は、

2009年12月15日

りそう主義

漢字をつかうと、
それだけで、
それが正しいかのように
思われてしまうので、
ひらがなで書きます。

理想主義じゃなく、りそう主義。
完璧主義じゃなく、かんぺき主義。

わたしは、今まで、
かんぺき主義っていうのは、
本当に、完璧なものを求めて、

けっこう努力する人のことだと
思っていました。

そして、自分にも、
それが、いくばかりか、
あるっていうふうにも思っていた。

しかし、自分が思う完璧の方向を見るに、
意外と、ムラがあるんですよ。

こっちの分野は、けっこう完璧を目指してるけど、
こっちは、かなりいい加減だと。

そして、そういういい加減なものが、
一つでもあると、
ぜんぶぜんぶが、完璧なように
見えなくなるんです。

だから、かんぺき主義なんじゃなくて、
ある部分についての理想を、
それも、自分オリジナルの、
場合によってはかなり偏った理想を、
目指しているだけなんです。

だから、りそう主義なんだ、
自分って言う人間は、ということに、
ちょっと気づいたわけです。

内心では、かなり前から気づいていたように
思うのですが、いちおう、かんぺき主義な振りを
していたほうが、自分でもがんばれるんでしょう。

でも、単なる「りそう主義」だと分かってしまえば、
それはそれで気楽で、自分のわがままな部分も
受けいれられるし、他人のわがままも
受けいれられる気がします、いくらか...

だいたい、目指しているものが、
高いからエライわけでもないでしょうし、
それに近づいたかどうかは、
内面的にいえば、神さまでない限り、
分からないことです。

偏った、りそう主義。

きっと、誰にもある部分。

そこを大切にしながら、
自分の理想にそわない部分は、
そういうこともあるんだな、
と妥協しながら、感謝しながら、
生きていけたらいいな、って思います。

2009年12月14日

忘れられる

十分にやり直しのできる年齢だから、
がんばりな、っていう言葉があります。

言っている本人は、
思いやりで言っているつもりだとは
思いますが、

「あなたは、やり直さなければいけない」

と断定しているあたりで、
ちょっとズレているかもしれない、
と思うようになりました。

そういう私は、
そんなことが、言ったことがあったかなぁ...

と思い返してみると、
幸い、ないような気がします。

ん?きっと、ない。
あったとしても、弟相手くらいかな。

逆に、言われたことは?
と考えても、心当たりがないから、
幸か不幸か、

「やり直しが必要な人間だ」

とも見られていないことなんでしょう。

おまえは、
やり直しが必要だ、
と言われたら、多分、
しゃくにさわるだろうとは思いますが、

そういうふうな応援を、
もらえないっていうのも
なんか、寂しいことかもなぁ...

ちょっと、複雑な気持ちです。

ともあれ、
やり直しだ、と心に思って、
何かをするのって、

精神衛生上良くない気が
するんです。

やり直し、
って思い続けるのは、
その過去を忘れられないし、
なおかつ、
マイナスとして覚えて、
やり直し作業をすることでしょうから。

そういうことからいけば、

「これまでのことは忘れて、
 これからのことをがんばって!」

という言葉の方がマシかな、
という気もしますが、
それにも「ちょっと待った」が出ます。

「あなたのこれまでのことは、
 忘れたほうがいいような価値しかないよ」

みたいな宣言になるでしょうからね。

相手のことを思えないのであれば、
何を言っても、難しいことかもしれない。

これからかなり頑張らなければいけない人に対して、
何かをいう時には、注意が必要、
ということなのでしょうね。

2009年11月21日

喜びすぎ、落ち込みすぎ

今喜んでいることは、
そんなにたいしたことじゃなくて、

今落ち込んでいることも、
同じように、
そんなにたいしたことじゃない。

鈍くなれ、
というわけじゃなくて、
今しか見えていない状況で
感じている気持ちは、
後々になって、
いくらでも変わる可能性があるということ。

逆にいえば、それだけ、
いろんなことが世の中では
起こるんだ。

いろんなことが起これば、
自分にとってプラスかマイナスかも、
本当は、その時点では分からないわけで、

ずーっと後になって、
プラスになることもあれば、
マイナスになることだってある。

大切なことは、きっと、
今感じている感情は、
今だけのものなんだと理解して
おけばいいんじゃないだろうか。

喜びすぎても、
落ち込みすぎてもいいけれど、
「これは、今だけ」
と割り切って、
その感情にひたることができたら、
かなり、気楽に生きられるかもしれない。

まさしく、
ギャンブルみたいなもんでしょう。

自分の感情も、ギャンブル。
そんな感覚も、悪くない。

今朝起きて、
とてもうれしいことがありました。
今から2時間前くらいのこと。

けれど、
それに関連して、
さっき30分ほど前には、
ちょっと「えー!?」と思わされる
残念なこともあった。

2時間前にあったいいことは、
消えないけれど、
それでも、気持ちの中では、
ついさっき分かったことの印象のほうが強いから、
マイナス気分になる傾向がある。

これは、今だけの感情、今だけ。
今日という一日のなかで、
まだまだ、いろんなことがあるんだろうな。

2009年11月16日

犯人さがし

人は、犯人さがしが好きだ。

自分が犯人でないことが分かっているときには、
なおさら。

そして、犯人にされるのは、
誰もが嫌うこと。

犯人にされるのが
イヤだから、ということで、
犯人さがしの現場にいないと、
犯人にされてしまうのだ。

面白いほどに、
この論理は、いろいろなときに、
当てはまる気がします。

なぜか?

一つは、それぞれが、
自分は犯人されたくないと
分かっているから、
実際に目の前にいる誰かを
犯人にすることは、

自分の心情とも照らし合わせて、
やりたくないことだから。

二つ目は、
犯人を限定するからには、
それに対する反論が
できるだけないほうがいいから。
たとえ、何一つ証拠がなくても、
反論されたくはないのだ。

となると、手っ取り早く、
都合がいいのは、
そこにいない人が
犯人にされてしまう。

しかし、その犯人は、
そんなに重いことでもなかったりする。

とりあえず、犯人が決まれば、
あとは、話が流れる、話が進んで、
それは終わったりする。

だから、犯人にされても、
たいしたことじゃないことも多い。

それを、あとで聞いて、
「私は犯人じゃない」
とか騒ぎ出すと、
かえって盛り上がってしまう。

ますます、その話題が、
その場、空間に停滞してしまい、
次に進めなくなる。

そういうことも多いような気がします。

たいしたことじゃないことの犯人にされたとしても、
どうってことない。そういう信条(心情)で
生きていないと、世の中は生きにくいもののようです。

今日、私は、何の犯人にされるだろう?

2009年11月14日

自由人でいること

だれからも振り回されず、
だれにも頼らず、
という生き方に、
人はあこがれるものですが、

同時に、孤独、
一人ぼっちというのを
怖がっているところもあります。

自由人でいる、
というのは、
そういう「一人になる」
というリスクがつきものです。

しかし、ここは考え方。

人間は、もともと、一人なんだ、と。

あるいは、
固定した友達、友人をつくろうと思うから、
一人ぼっち、という気分になるんであって、

いろんな出会いがあるなかで、
その時々の友達がいれば十分じゃないか、
という考えも。

子供のころには、
ほとんどの人が、
「仲良し」というか、
固定した友達を作りたくなる。

そこで、そこからもれれば、
一人ぼっちという印象を与えられたり、
自分がひとりぼっちになった気になる。

しかし、それは、
そういうことに理解しなければ
いいだけの話。

今は、相性のいい友達がいないだけのこと。
焦らなくていいのだ、とね。

ただね、子供のころには、
そういう見方が、なかなか出来ないもの事実。

今しか見えない。
今の友達、今の気持ち、今の関係。

自由でいるためには、
今に縛られすぎてはいけない。

そういうことかもしれません。

2009年11月 6日

全否定も、楽なこと

いろんな自己啓発本には、
自分を「肯定」することから
はじめようと書いている。

それは、
自分のことについて
他人から否定されること、
あるいは否定されていると感じること
が多いから...という理由のようです。

たしかに、
その意見には賛成だ。

しかし、時には、
自分のことを全否定してみるのも、
気楽だということを発見した。

自分のやっていることは何だ?
意味ないんじゃないか?
バカらしいこと、価値ないことをしていないか?

そういう視点で、物事を見ることは、
「自分のやっていることは大丈夫」
「自分は正しい」
と肯定しながら、狭い世界に閉じこもっていくより、
かなり広がっていく気がします。

問題は、
自分を全否定して、
自分のやることに、やる気をもてるか、
というところだろう。

それが、出来るようなのだ、人間は。

きっと、全否定をしてから
「じゃあ、次は何をしようか」
「じゃあ、これをどういう気持ちで続けようか」
「今は、何ができるか」とか
切り替えられるからでしょうね。

全否定をして
行き詰ってしまう人は、
そこにしがみつきたい気持ちが強すぎて
その切り替えが出来ないんでしょう。

全否定しても、
やれることは残っているんですよ、
人間には...

全否定を、大きなことにとらえすぎるのは、
全否定が大きな出来事であるせいじゃなくて、

その先が見えなくなるくらい、
それまでの自分にこだわるからのようです。

否定された、じゃあ、次は何をしようか。
シンプルに、それを考えたらいいんですよ。

今、出来ることがないわけがない。

こんなご時勢ですから、
仕事のやり方でも、立場でも、
いろいろと変わっていきます。

そういう中で、
それまでにやってきたことを
全否定されたような気分になったら、
そこで、行き詰る必要などないんです。

シンプルに、自問。
次は何をしようか。これだけ。

全否定も、気楽なこと。
人生に、いろんな味わいが
まだ残っていることを確かめられる。

それでいこう!

2009年11月 4日

心を見せられること

自分の心をぜんぶ、
他人に見せられる人は、

わがままと思われやすい。

なぜなら、
普通であれば、
隠すこと、口にしないことまで、
ぜんぶ見せるから、

それを見せられた方は、
それを押しつけられたように感じて、
なんて、わがままだ、となるだろう。

日本人の場合は、
特にそうだろうなぁ。

わたしも、どちらかというと、
見せてもいいという場所では、
心のなか、ぜんぶを見せてしまう。

だから、わがままと思っている人も、
少なくないだろう。

うちの娘らでいうと、
次女が、それに該当するな。

相手がどう思おうと、
自分の意見は、
だいたいのところを、
ちゃんと伝えられる。

ただ最近は、
いくらか年頃になって、
嫌われたくないという感情も働き、

遠慮して言わない、
ということもあるようだ。

それは、相手によりけりなわけで、
だいたいは、自分の思っていることを
ぜんぶ言えるというのは、

「わがまま」だと思われるに、
十分な条件のようです。

実際、保育園のころには、
「お母さん、申し訳ないけど、
 ○○さんは、わがままです」
と先生に言われた経験もある娘だ。

大人になって、
心の見せ方はいくらかは注意しないと、
「大人」じゃないことになる。

見せてもいい相手、
見せてもいい場所、
見せてもいいタイミング、
いろんなことを察して、
(考えすぎて、訳分からなくなるんじゃなくて)

ふつうに出来る大人って、
なかなかいないのが現実でしょう。

見せられていた人が、見せられなくなる。
見せていなかった人が、見せられるようになる。

生きていれば、いろんな変化もあることでしょう。

わたしは、うちの娘は、
これから、どうなるかな?

2009年10月30日

感情は、感情でしかない

悲しい思いをしている人を見て、
その悲しい思いをなくしてあげなければいけない、
と思い、

苦しい思いをしている人を見て、
その苦しみをとりのぞいてあげないとけいない、
と思い、

退屈している人を見て、
退屈させようないようにしないといけない、
と思うような人間がいるとします。

すると、
そんな人々の存在を聞いたり、
そういう人々から
「助けてもらった」ような経験を
持っている人間のなかには、

自分が今悲しんでいるのはおかしい、
自分が今苦しんでいるのは解決されて当然だ、
自分が退屈しているのはつまらないことばかりだからだ、

と自分の不平、不満を盾にして、
自分の悲しみや苦しみをとりのぞいてもらえるのを
当たり前と思う人間が出てきてもおかしくない。

現実として、存在するでしょう。

これは、思うに、
感じている思い、感情をすべて
「正しい」ととらえた場合に
起こりうることのように思います。

わたしがこう感じているのは、
わたしが不幸なのは、
私が不満なのは、

なにもかも、
正しくない、
何かが間違っている、
解決されるべきだ、
という思考ルートになっているのでしょう。

私自身が感じ始めたのは、
「感情を正義にしてはいけない」
ということ。

感情は、あくまで感情でしかない。

感情は、人生のいろいろなシーンにおいて、
いろんな味わいを感じ、
楽しむ(苦しむも含めて)ためのツールにすぎない、と。

感情をツールとして扱ってしまうことには、
かなりの抵抗がありますが、

私たちが、自分の感情や他人の感情を、
あまりにも優先するあまりに、
おかしなことに時間を注ぎすぎてしまうことがあるのは、
たしかに現実だから。

感情を、正義とか、神のような存在に、
置き換えるようなことがあってはいけない。

感情は、感情でしかない。

じゃあ、理性が偉いかといえば、
そういうわけでもない。

理性は、経験や知識を冷静にとらえられるだけ。
それらの範囲からはみ出た未知の部分については、
弱いのです。感情にも、弱点があるように...

感情と理性という2つのツールがセットで、
私たちは、ギリギリ一人前になれるのでしょうね。

もちろん、どちらも未熟すぎて、
半人前以下ということもありますが。

2009年10月29日

頭の中に、道をつくる

うまく表現ができないが、
子どもに考えさせるときに、

考える習慣ができていないな、
と感じる場面があります。

別の表現でいえば、
頭の中に、「考える道」がない、
という感じです。

こういうふうに考えれば、
もっと楽な方法が見つかるのに、

あるいは、
正解にたどり着けるはずなのに、
と思わされることが多いというわけです。

そして、それは、
どうやら、知能指数(IQ)とかに
関係あるかどうかは分からないけれど、

頭を働かせる訓練が
できていない、あるいはしてこなかった、
せいだと感じるようになりました。

もちろん、
頭を働かせるシーンもいろいろあって、
勉強する、テストの問題を解くシーンでは働いても、

家事をする、掃除をする、
というシーンでは働かないという場合もある。

人それぞれの得意、不得意ということで、
納得する方法もあるけれど、
経験の少ないシーンでは、やっぱり、
頭が働かないというわけです。

頭の中をイメージしてみれば、
雑草がぼうぼう生えていて、
そこを歩くのに、かなり手間取ってしまう、
という感じでしょう。

ただ、いかんせん、
頭の中の話だけに、
そんな中に、道をつくるとしたら、
道路工事のようにはいかない。

反対に、頭の中に出来上がってしまった道を、
壊してしまうのも、簡単ではない。
(たとえば、覚せい剤中毒になった、頭の中の道...)

何事もつくるというのは、
大変な作業です。

見えないものであれば、
なおさら、ということでしょうか。

うちの三女の頭の中に、
道をつくりたい、そう思う今日この頃。

一気に完成とはいかない。
部分的に、つくっていかないといけないな、
と気づき始めた親です。

2009年10月27日

時間をとるか、関係をとるか

わたしたちは、
いろんな選択を
いつも迫られながら、
生活をしているわけだけど、

究極のところ、
その選択って、

自分の時間を大切にするか、
誰かとの人間関係を大切にするか、

の2者択一のように思います。

もちろん、なかには、
地球を救えるかとか、
誰かの命を救えるかとか、
そんな大義のために選択をしなければいけない、
という人もいるかとは思いますが、

そういう人々のことさえ、
それを果たすことが、
自分の時間を大切にするかどうか、
を考えていることだと、
強引にくくってしまえば、

やっぱり、2者択一じゃないですか?

わたしの場合、
自分が本当に大切だと思う人が少ない(?)せいか、
ほとんどの場合に、
自分の時間の方を選択することが多いように思います。

じゃあ、このサイト、ブログは、
なんなんだ?

とツッコミをいれられるとすれば、
それですら、

自分の時間を大切にしたい、
意味のあることに使っていたいことの一部だ、

と自覚しています。

現実問題、
他人のためになっていることでも、
自分のためにやっているという自覚があると、
めげることとか、他人のせいにすることも
少なくなると思います。

一番やっかいなのは、
何ひとつ他人のためになっていないのに、
他人のためにやっていると思い込んでいるケース。

これは、自分の時間も無駄にするでしょうし、
他人との関係も悪くなっていくはずです。

もちろん、あとで、
そのことに気づけば、
自分の時間だけは
解釈の中でのみ取り戻せます。

関係は、戻せないかもしれませんが...

あなたの二者択一はどちらですか?

2009年10月22日

問題がない時は、おかしい

今この時点で、
苦しんでいること、
悩んでいることがあれば、

なんとかして、
ここから逃れたい、
解決して、
さっぱりしたい、
と思うのは、人間の常。

しかし、
問題がなくなるっていうのは、
どう考えても、おかしいことだ、
そう思うようになりました。

たしかに、すっきりはしたい。
心が軽くなりたい、
と思ってはいても、

本当に、それを手に入れて、
すっきりしたという気分になっている時、
きっと、そのときの「自分」は、
何かを忘れているんだと思います。

大げさに言えば、わたしたちは、
幸せになる方法を選ぼうとしては、
いけないと思う。

その先で、もしかしたら、
こんな問題に出会うかもしれないけれど、
その問題を選んで、本気でがんばれるかどうか、
そういう視点で、選ぶべきなのだ。

これを選べば、
絶対に幸せになれる、
すっきりする、なんて勘違いはしちゃいけない。

わたしたちは、問題を選んでいる、
そういう認識で生きていけたなら、
いろんな問題にぶち当たって、
解決していける力が身につくんじゃないかな。

幸せになる方法を選んでいるんじゃない。
あきらめずに立ち向かって、
解決するために本気になれる問題を選んでいるんだ。

だから、解決をあきらめてしまうような問題を
選んじゃいけない。

別のテーマでたとえれば、
もしも、いやなこと、不幸なことがあったとしても、
ずーっと寄り添って生きていける伴侶を、
結婚相手に選ぶべきなのだ。

この人を見ていると、
なんか幸せな気分になれる、
という理由じゃ、ちょっと弱いかもしれないな。

問題がない時なんて、おかしい。
そんなことがありえるわけがない。

この認識は、人生を生きるために、
いろんな助けを与えてくれそう...

2009年10月19日

予想どおりはありえない

何かについて予想をしている時には、
自分の予想は絶対に正しい、
と思っているもんです。

それなりの理由があって、
自分の見方には間違う可能性すらない、
みたいなことを思っています。

しかし、現実には、
半分は当たったとしても、
半分ははずれたりする。

それは、
自分の読みが甘い、というか、
自分が思う以外の要素が入り込んできて、
はずれるとか、そういうことの多さ。

自分が思っている要素なんて、
「それがすべてだ!」
といくら思い込んでも、

かなり足りないのが現実。

けれども、
いい気になって予想している時には、
そんなことは、ちっとも思わない。

いろんなことを割り引いて考えて、
やっと、自分の予想は、現実に近くなる。

もしかしたら、
その現実は、
「自分の予想通りにならない」
という現実ばかり、なんてこともあるかも。

今の自分で大丈夫だと思いたい自分、
今の自分じゃダメだろうという不安な自分。

どっちの自分も、
当たっているところがあれば、
きっと、はずれているところもある。

そういう現実を何度も知るためには、
「予想を立てない」という逃げでなく、

「何度も何度も予想を立てる」
ようにすればいいと思う。

何度も何度も予想を立てる、
そして、失敗と挫折を繰り返し、
自分のやろうとすること、
考えていることなんて、

たかが、30%くらいの正解率でしかないんだ、
くらいの「常識」をもつことが大切なんでしょう。

予想を何度も何度も立ててみる、
そして、精一杯やる。

結局、やってみないとわからないから。

2009年10月15日

落ち込まれたくない

自分が落ち込みたい時に、
相手に落ち込まれると、
どうも調子が狂う...

もしくは、
たいしたことでないことでも、
とてつもなく重要なことに感じられて、
気が重くなったりする。

「気楽に落ち込む」
というレベルで終わるはずが、

どどーんと落ち込んでしまうことになるのが、
自分ではイヤだと思っているから、

相手の落ち込んでいる姿に、
イライラしたりする。

そんなこと、ありませんか?

なんでしょうね、この感情って。

できれば、気楽に、
ちょっとの間だけ落ち込みたいんですよ。
落ち込むなら...

ところが、そうはいかない。
自分より早く、自分より深く、
落ち込まれると、

「落ち込めないじゃないか~~!!」
と怒りたくなる。

きっと、こんなことかな。

「男というものは、
 自分がヘコんでいるときに、
 身を粉にして尽くしてくれる女房の姿を
 見せつけられると、
 感謝や恩義は感じながら、
 かえって萎えるし、
 いらついたりもするんですよ。
 自分のふがいなさを突きつけられる
 ようなものだからね。」
薄暮、篠田節子)

男のプライドは、
めんどうくさいですね。

プライドが、
落ち込まなくてもいいような要素を、
落ち込んでしまう要素に変えて、

怒らなくてもいいようなことを、
怒りたくなることに変えてしまう。

できれば、私に関わる人が、
私以上に落ち込まないことを
祈るばかりです。

私の敵が落ち込むのは、
大歓迎なのですがね。(笑)

2009年10月12日

逃げられなくたい

果たさなければいけない義務、
払わなければいけないお金、
やらなければいけない仕事、
伝えなければいけない事実、
立ち向かわなければいけない問題...

いろんなものを目の前にして、
人は、実際に行動に移すかどうかは
別にして、逃げたくなるもんです。

いっしょに取り組めると思っていた仲間なり、
パートナーがいて、がんばろうと思っていた矢先に、
その人たちに逃げられそうな空気を感じた時には、

やっぱり、「逃げられたくない」と思うはずです。

問題の前に、
ポツンと一人取り残されるのは、
かなり、つらいものだと感じます。

しかしながら、
取り組もうとしている、あらゆるものに、
仲間やパートナーがいるべきだとは限りません。

お互いに依存しすぎてしまったり、
逆に、根本的に違いすぎたりして、
いっしょに進むのが難しい場合もあります。

そういうことが分かったとしても、
人は心細くなったりするものですから、
「逃げられたくない」という気持ちに
変化は出てこないかもしれません。

性格的な相性が
明らかに良くないと分かっている夫婦がいて、
妻はもう別れたいと思っている、
夫の方は「見捨てないでくれ」と言う。

「だって、無理じゃない」と妻。

「結婚したんだから、一蓮托生だ。
 そう簡単に、離婚するもんじゃない。
 それは、人の道に外れているぞ。」と正論を言う夫。

現実を話す一方と、
正論を話すもう一方という関係が
ズルズルと続いてしまうのもNGですが、

一方が「捨てられた」「逃げられた」
という感情を抱えたままピリオドを打つのは、
場合によっては、しこりが残って、
あとあと、うまくないことが起きるかもしれません。

逃げているわけじゃない、
新しいスタートラインに、お互いに立ちましょう、
ということなのよ、と納得させる作業。

現実問題、かなり、難しいでしょうが、
やるだけのことは、やるべきでしょうね。

それでも、ダメなら、話は別でしょうが。

逃げられたくない、という気持ち。
事実じゃないとしても、
心に抱いてしまったら、
すがる気持ちに変わる可能性大です。

一番いいのは、そういう関係にならないような、
相手を見極めて、いっしょになることでしょうけどね。

2009年10月11日

恐怖を与える方法

ホラー小説を
描いている作家さんは、

言葉だけで
人に恐怖を与えるわけで、

その才能は、つまるところ、
人の内面をよく知っているから
できることなんじゃないか、と思う。

恐怖ばかりでなく、
勇気とか、好奇心とか、
しがらみとか、責任感とか、

人が心を動かされて、
体も動いてしまう状況は、
いろんなパターンがありえるけれど、

やはり、恐怖ほど、
どうしようもなく、
心と体が動いてしまうものは、
ないんじゃないか、と考える。

そういう意味では、
ホラー小説家に限らず、

人に恐怖を与えて、
人を動かそうとするタイプの人間は、
似たような才能があると思って
間違いない。

ただ、それが、
娯楽向きなのと、
そうでないことの違いかな。

人の心を動かして、
自分のために何か行動をさせようと
するときに、

人は、必然的に、
自分だったら、どうされたら動いてしまうか、
ということを考えるだろう。

それは、それまでに生きた時間において、
どのように、人に動かされてきたか、による。

おどされて、恐怖を与えられて、
動かされた経験が多ければ、
きっと、他人にも、そのような方法を使う。

愛されて、励まされて、鼓舞されて、
動かされた経験が多い人は、
どちらかというと、そういうやり方が
多くなるんじゃないかな。

どちらの方法が、人を伸ばすか。
ハッキリとは比較できない。

できれば、愛されて、
伸ばされたい人が多いだろうけれど、
愛されていることに甘えて、
だらけてしまう人間もいるから、
そこらへんは難しい。

結局は、自分がどのような環境にいて、
どうされてきたか、どうされなかったか、
それだけのことかもしれない。

恐怖によって動かされてきた人は、
ちょっと残念かもしれないが、

その後の大成功すれば、
その点はチャラになるかも。

ただ、その方法を、
他の人に使ったときに、
みんなみんなが、思い通り、
自分が歩んできた成功プロセスと
同じように進んでくれるとは限らない。

その点だけは、忘れちゃいけないだろう。

恐怖は与えられたくないけれど、
思わず、それを使ってしまう。
私も、そうかもな、と自覚する。

うーん、考えなくちゃ。

2009年10月 6日

決められない弱さ

決められない人、
その隣にいる、同じように、
決められない人。

この二人は、
どうなるんだろう?

やっぱり、
決められないまま、
ずーっと続いてしまう。

話し合っても、
何も決まらない。

行動を起こしても、
すぐに迷い始める。

だから、結局、
何も進まない。

決められない人に見える「弱さ」。
そして、時おり見せる、

「そんなことはないんだぞ。
 俺は(私は)、決められるんだぞ!」

という意気込んだ姿。

でも、決断を公表したとたんに、
本当は、また迷いだしている。

間違いなく、決断できるのは、
誰の目にも明らかに、

「もうダメだろう」

ということで、何かを捨てるとき。

けれど、本当のところ、
ダメになったのは、
それまでに決めていなかったから。

決めるべき時をすべて逃し、
ダメになるまで放って置いて、
ダメになったから「決める」を繰り返していたら、

何も積み重ならないのだ。

決められない「弱さ」。

これは、かなり致命的だな、と思う。

そして、そういう人に振り回される人は、
最初は、たいへんだけれど、
決められない姿を見抜いてしまえば、
もしかしたら、自分の思うように、
決めていって、物事を進められるかもしれない。

2009年10月 5日

願いの強さ

だまされる人を見ていると、
私も含めて、

自分の願いの強さが、
関係しているように思います。

願いは強ければ強いほど、
それが叶うと、いろんな本には書いている。

ところが、現実には、
願いに執着すればするほど、
その願いの強さを利用して、
だまそうとする輩に引っ掛けられることも
少なくないものです。

願いや願望、希望、目標、夢は、
わたしたちの行動のエンジンみたいなものだけど、
それは、自分でコントロールできて初めて、
自分に、良いものをもたらしてくれる。

行け行け!ムードのなかでは、
何かを見落としてしまうことが
あるからでしょうね。

自分ひとりががんばれば、
その願いに近づけるものなら、
まだいいかもしれない。

けれど、他の人とチームになって、
がんばらなければいけないことは、
願いの強さよりも、
その願いが、チーム全体に、
ちゃんと伝わって理解されて、
一人ひとりが何をすればいいのか
見えてくることの方が大切だったりします。

ここは、自分ひとりの場合にも、
きっと共通しています。

今何をすればいいのか、
見えてこないことには、
何のアクションも始まらない。

さらにいえば、
すべきことをした後に、
ほとんどの場合は、
うまくいかない点が出てくるから、
それについて、さらに何をすればいいのか、
が見えてくること。それだと思います。

意味のある失敗を積み重ねる必要があります。

伝わっているべきこと、
考えておくべきことが、
ちゃんとハッキリしていなくて、
失敗を見てしまった、というのでは、
意味がありません。

願いの強さも大切ですが、
次の一歩が見えた方がいい。
そんなことを感じる昨今です。

2009年9月25日

そのままじゃ満足できない

新しいものを買う。

最初は面白い。
そのままでも十分に面白い。

しかし、そのうち、
もっとこうしたら、

もっと面白いかも...

もっと便利かも...

もっと助かるかも...

というような改善意識が
もたげてきます。

そして、だいたいは、
ハマってしまう。

私の昨日は、そんな1日でした。
なんでしょうね?この感覚。

きっと、向上心があって、
悪くない証拠だとは思いますが、
ふと、自分ってなにやってるんだろう?

と思わされるときがあります。

特に、他に何かやらなければいけないことが
ある時には。

でも、それがわかっていても、
目の前の、これをなんとか解決したい。

もっと、楽しめる、楽な方法とかを
考え出したい。たどり着きたい。

そんな気分になるわけです。

そのままじゃ満足できない。
現状に、ちょっとしたスパイスを加えたい、
この気分、うーん、何だろう?

人は、そんな気分があるうちは、
まだまだ若いかもしれませんね。

そのままでいい。
与えられたまま、使っていよう。
それが一番だ、と思う気持ちっていうのは、

足腰が利かなくなってきて、
あまり無理せずに、生活しよう、
みたいな感覚に似ているんじゃないでしょうか。

やりたいことが増えてくる、
ふつうの状態+αが欲しくなる、
このままじゃ満足できない。

そして、それを行動に移すと、
新たな問題が出てくる。

もし、何にもしなければ、
出てこなかったはずの問題。

それでも、そんな問題に出会うべく、
いろいろとやってしまう。

いつまでも、そんな若さを
持ちたいもんです。

2009年9月20日

終わりたくない

この恋を、この戦いを、この仕事を、
まだ終わりたくない、
という気持ちの強さは、
最後の最後に、力を与えてくれる気がします。

昨日、次女の部活動にて、
新人戦の大会がありました。

いちおう、二連覇がかかっている戦い。
本人には、そのつもりはないだろうけど、
まわりから見れば、なんとなく、
油断している感じが見受けられる。

油断という言葉が
ピッタリじゃないとすれば、
「決勝までは、とりあえず、大丈夫だろう」
という気持ち。

ところが、人生というのは、
ありがたいものです。

予期せぬところに、
試練を、つまずきの石を
置いてくれているもんです。

スムーズに勝てるはずの3回戦。

3セット先取で勝ちの試合が、
セットカウント1-2でリードされている。
なおかつ、4セット目も、3点差のリードをゆるしている。

おお、なんてこった!

これじゃあ、上の全県大会に進む切符さえ、
手に入らなくなるんじゃないか、
とあきらめを覚悟してしまいました。

ところが、娘本人は、逆に、
そこから吹っ切れたらしく、

「なんで、私は、こんなに苦しんでいるんでいるんだろう。
 緊張しているからだろうな。だったら、それをやめよう」

と考えたらしい。

緊張をやめようと思って、
やめられるだけ、まだ冷静だったんでしょう。

終わりたくないという強い気持ちと、
緊張しちゃっているんだと気づく余裕。

一見、相容れない感情に思えるのですが、
うまくコントロールできる人もいるんもんです。

私なら、できないな、と感じました。

うーん、面白い。

2009年9月 8日

成長がもったいない

わたしのパソコンには、
Googleデスクトップが入っていて、

デジカメで撮影した写真が、
パソコン画面の右側で、
いつもいつもスライドショーを
してくれています。

撮影した時期は、
三女が生まれた頃の2001年までさかのぼり、
8年も前の写真があるので、
ふと、子供たちの成長を見張ってしまう
写真が流れていることが多々です。

ああ、小さかったんだなぁ...

と思うと、もう、
その時が戻ってこないのを、
ものすごく実感してしまいます。

早く成長してもらって、
楽になりたい気持ちと、

成長するのがもったいない気持ち、
っていうのを味わうようになりました。

年をとったのかな...

それもそのはず。

長女は15歳。
私たちは結婚して16年。

1日1日を生きていれば、
子供も、私たちも、
ちゃんと成長するんですよね。

子供は、成長と呼び、
私たちは、年をとると呼ぶのが
正解かな。

わたしたちの成長は、
必須なことだけど、

なんか、子供の成長は、
もったいない気がしてきた。

もう少し、このままでいて欲しい、
という気持ちがもたげてくる。

なんでしょう、この気持ちは?

自分の時間スピードが速い、
と感じ出した証拠かな。

1日1日、いい人生を送らないと。
誰と、何をするか、っていうのが、
とても大切な気がしてきました。

2009年9月 7日

自分を出すこと

わたしも、自分のコミュニケーションが
上手だとは思わないけれど、
すこしは、ごまかすことも出来るから、
なんとかコミュニケーションになっている。

自分のことをなかなか出せない、
というタイプの一人として、すぐに
うちの長女が思い浮かびます。

この長女。
先週から、積極的に、
コミュニケーションの練習をしているようで、

練習しなければいけないことか、
と私にしてみれば思うのですが、

コミュニケーションを避けてきたり、
ごまかしてきた人間にとっては、
やっぱり、そういう練習は必要なのでしょう。

話を聞いていて、なんか納得しました。

ポイントは、「自分を出すこと」。
やっぱり、これに尽きるようで、
これが出来ない、これをしない、
コミュニケーションは、あまり意味がなく、
そのうち、ストレスばかりが増える...
そんな気がします。

自分をうまく(わがまま?)出して、
コミュニケーションをとっている
と見える人には、大きく分けて、
2タイプあるように思うのです。

タイプ1:相手にどう思われようが、一切かまわず、
 好きなことを言える人。

タイプ2:前置きでクッションをつくって、うまく言う練習をした人。

どんな前置きクッションかというと、

何か、流れを変えてしまう質問をしてしまうときには、
「いきなり、質問してもいいですか?」と尋ねたり、

「もしかしたら、バカなことを言っているかもしれないけど...」
と自分の恐れをそのまま口にしたりする方法です。

これには、いろいろな応用があると思う。

「みんなと違って、変かもしれないけど」
「空気を変えるようで、申し訳ないけど」
「変な意見かもしれないけど」
「わがままなこと言うかもしれないけど」
「今さら言うのは、遅いし、おかしいかもしれないけど」

こんな感じでしょう。

前置きのうまい人は、けっこう、上手に受け入れられたりします。

最悪、賛成はされなくても、なるほどと、聞いてもらえる。

言いたいことを言って、聞いてもらえれば、
思い通りにならなくても、コミュニケーションは、
それでうまくいったとなるはず。

思い通りにしたい、という感情が強ければ、
それは、コミュニケーションを超えた、
人間を動かす技術になってしまうから。

そこは、また別の練習。

何事も、練習を怠けてはいけないのだ。

2009年9月 6日

恥ずかしさを越えて

まわりから見れば、
とても恥ずかしいと思えることを
やっている他人を見て、
こっそり笑ってしまうことがある。

しかし、
自分だって、
まわりから見れば、
恥ずかしいと思われることを
堂々とやっていることがある。

それを自覚したときに、
人は、選ぶことになる。

笑われることだから、
やっぱり恥ずかしいし止めよう、
となるか、

笑われることだろうが、
これは大切なことだから
止めるわけにはいかない、
となるか。

人それぞれの価値観なのだ。

笑われようと、批判されようと、
大切なことは、大切なこと。

本当は、
他人の目など
関係ないこともある。

もちろん、
他人の目だけが
関係することもあるのも事実。

子供に対して、
自分の愛情を示すときに、
まわりから見れば、
恥ずかしいばかりの行動も、

子供本人にしてみれば、
嬉しいと思えること、
というのもある。

しかし、子供が成長すると、
その同じ行動が、
ただ恥ずかしいと思ってしまうものに
変わることもなくもない。

恥ずかしさというのは、
バカにされることへの予感であり、

もし、それがうらやましがられるようなことであれば、
きっと、恥ずかしさは感じられないはず。

しかし、人間は素直じゃないから、
本当はうらやましいことを、
自分にはないという理由で、
バカにし始めることだってある。

愛情を注がれている姿を見て、
うらやましいと感じながら、
バカにする、っていうのは、よくあること。

そのバカにされることを、
真に受けて、愛情を受けることを、
「恥ずかしいから止めて」と言い始める子供。

見えない愛情以外に方法はないのか。
見えない愛情に、本当に意味があるのか。

あふれるばかりの愛情、溺愛心をもつ親は、
そんなことを考えてしまうかもしれません。

2009年8月31日

失敗に気づかないふり

気づかないふり、
っていうのは、
けっこう楽しい。

失敗していても、気づかない。

呼ばれても、気づかない。

頼まれても、気づかない。

本人は、楽しいかもしれないが、
それを見ている方は、イライラするもんです。

気づかないふりを続けられるのは、
それをしても大丈夫な環境があるから、
あるいは、うまくごまかせる言葉をもっているから、
ということがあります。

言葉というのは、
そういう時には便利なものです。

「苦しいときこそ、チャンス」

たしかに、その通りかもしれない。

「昔に比べれば、少しは良くなったじゃないですか」

そういう見方も出来そう...

「あきらめた時が失敗なんですよ」

あきらめちゃいけないのか、そうか。

なんて具合に、うまく乗せられるかもしれません。

しかし、失敗を早く認めて、
やり直し、仕切りなおしをしないと、
手遅れになる場面というものも、
たしかに、存在します。

たしかに、手遅れになったとしても、
そこからのスタートはいつでも出来る。
しかし、遅れれば遅れるほど、
出直しのためのエネルギーが、

もっともっと必要になります。

すぐに準備できるくらいの余力があれば、
いいのですが、気づかないふりを
長く続けていた分、そんな余力もないくらい、
残りのエネルギーを消費していることも多いです。

知らないふりをしていると、
とんでもない「しっぺ返し」を受ける。

昨日の選挙結果では、
そんな印象を受けた次第です。

2009年8月30日

コレクター

最初は、かなり難儀をして、
手に入れていたものでも、

そのうち入手ルートが
確保できると、
簡単に、手に入るようになる。

それが、
たとえば「勝利」というようなものでも、
勝つ方法がわかれば、
最初の頃の難儀などはしないで、
勝てるようになったりもします。

もちろん、ものすごい良いライバルがいれば、
そんなふうに、簡単に「勝つ」というコレクションが
できるわけじゃない。

けれど、意外と簡単に、
「勝つ」ということを、
コレクションにし続けられるとしたら、

そこで集められてくるトロフィーとか、カップとか、
賞状とかの数々に、だんだん、重みがなくなってきそう...

そうなると、あえて、
自分に不得意な方法で
勝てるかどうか、
挑戦してみたくなる人がいるかもしれない。

柔道の選手が、
自分の体重の階級ランクより
上に挑戦するとか、
演歌歌手が、ポップス系の曲に
挑戦するとか、
平泳ぎ選手が、自由形に挑戦するとか。

そんな判断は、めったにないことだろう、
とは思うけれど、コレクションに飽きて、
そんなチャレンジをする人がいたら、
面白いなぁ、という気はします。

だから、話題になることも多い。
柔道の金メダリストが、
格闘家に転身すれば、
ニュースになる。

女子バレーボールの選手が、
ビーチバレーに転向すれば、
また話題になる。

きっと、それは、
同じものを集め続けても、
行き詰っちゃうとか、
自分でもつまらなくなるとか、
そういうことが関係あることだと思う。

もっと、別のものが欲しい。
人間には、そういう欲求が、
いつもあるんでしょうね。

2009年8月28日

変わる、というクセ

このやり方を変えようか、
変えないことにしようか。

うまくいっていない時には、
考えちゃいます。

もし、変えて、
うまくいかなかったら...

ということを考え出したら、
だいたいは、二の足を踏む。

わたしは、最近、
そこは考えないことにしている。

なんでも、そうだけど、
変わるという決心ができるのが、
一番の収穫だなぁ、と思う今日この頃。

そういうことばかり考えているから、
最近は、似たようなことを書いているかもしれない。

たいていの人が、変わろうとは思うけど、
変わり始めた頃には、だいたい不安を感じるから、
そこで止めてしまう。

で、結局、変われない。

変わったことが正解だったかどうかは、
最後の最後まで、わからないと思う。

そればかりか、結果としては、
失敗に終わるかもしれないけど、
後々の人生で、
変えるという決心をつけたことが
収穫になると信じた方がいい。

そんな気がする。

変わらなければいけないシーンは、
生きていれば、何度となく、来る。

変わるクセのついている人と、
変わるクセのついていない人とでは、

決断のスピードが、
ぜんぜん違うことだろう。

石橋を叩いて渡るのは、
悪くないけど、

石橋を叩いて
結局渡らなかったり、

その石橋を叩きすぎて、
壊してしまうようでは、
どうにもならない。

変わるクセ、身につけよう。

2009年8月25日

天才扱いしない

次女が、夏休み最後のギリギリに、
読書感想文のまとめに、
苦心していた。

読んだ本は、8分音符のプレリュード
っていうもの。

天才ピアニストと呼ばれていた透子が、
事故に遭ってから、ピアノを弾けなくなる、
というストーリー。その問題は、
解決するわけでもなさそうで、
その中で、どう生きていくか、
というリアルな話のようです。

娘の読書感想文から、ちょっと引用。
(下書きを、パソコンで書いていたので、
 コピー&ペーストは、簡単)

--本文--

才能というものについて、一人一人の感じ方は違う。
果南(透子の同級生)にとってはすごいことでも、
透子にとっては、当たり前のことだったりするから。
でも、きっと、透子にとっての当たり前だって、
最初から当たり前だったわけじゃないと思う。
透子だって、最初から天才ピアニストだったわけじゃないだろう。
果南にとってすごいと思えることは、
透子が何の努力もせずに身についたんじゃなくて、
やっぱり、透子もがんばっていくうちに、
当たり前になっていったんだと思う。
だから、そういうがんばりがあった分、
ピアノを今までのように弾けなくなったときの悲しみは、
大きかったはずだ。

悲しいとき、泣きたくなる。
でも、透子は悲しいのに、泣いてはいけなかった。
お母さんを責めていないフリをしなきゃいけなかった。
(母親の運転していた車に乗って事故ったことが、弾けない原因だから)
お母さんは、透子に期待していたから、
事故のことで十分に苦しんでいた。
だから、透子が泣けば、お母さんがさらに苦しむ。
お母さんを苦しめないように、透子は泣かないようにした。
私だったら、泣いてしまったかもしれない。
透子は強い。でも、苦しかったと思う。
悲しみを外に出せなかったから。出してはいけなかったから。
我慢すれば我慢するほど、悲しみは大きくなってしまう。
透子は何度も何度も我慢したから、
私が想像できないほどの大きな悲しみが、
透子の中で渦巻いていると思う。

友だちと親の違いってなんだろう。
親とだからできることと、友達とだからできることがある。
もし、親がいなかったら、
親にしか言えないことを誰にも言えない。
けれど、親も友達の代わりはできない。どっちも必要だ。
どっちもいてくれないと、心のバランスが崩れてしまうだろう。
だから、親も友達もいる私は幸せだ。
幸せなことが続くと当たり前になってしまう。
だから、たまに悪いことが起きるのは、
幸せなことなんだと思い出させるためなのかもしれない。

果南は、透子の友達になれていたのかなあ。
けっこう、性格とか合わなそうだったから。
けれど、考えようによっては、
いろいろな友達がいても不思議でない。
果南だけは、透子のことを天才扱いしなかった。
それがかえって、透子の心を救い、
現実に向き合うきっかけをつくってくれたと思う。
私にも、これから、いろいろな友達ができるはずだ。
合わない友達との出会いも、大切にしたいと思う。

--終わり--

引用のつもりが、大半を載せてしまった。

天才扱いしないことが、人を救う。
なんとなく、分かる気がします。

人として向き合える関係、
相手をエライとも、格下だとも思わない、
フェアな関係。そういう関係を築かないと、
どこかで、ひずみが出てくる。

わたしは、友達と、そんな関係を作れていたかな。
ちょっと、疑問だ...

エラそうだったせいか、
いつも「先生」って呼ばれるようになっていたからな。(笑)

2009年8月24日

戻りたい不安

新しいことにチャンレンジしているとき、
勢いよくスタートしたとき、
ワクワクしているとき、

最初のうちは、
だいたい、楽しく出来るもの。

これから、どうなるかな?
どんなことが起こるんだろう?
自分は、どう変われるんだろう?

そんなことを思えば、
ますます、やる気になって、
楽しく向かって行ける。

しかし、世の中、
そのワクワク感が、
ずーっと持続するようなことには
なりえない。

必ず、戻りたくなる不安が
襲ってくる。

そのような事態は、
ほぼ100%と言っていいほど、
必ず、起こる。

ああ、やっぱり、
こんなこと始めなければよかった、
あのまま、あそこにいればよかった、
変わろうなんて思わなければよかった...

たしかに、
その時点で感じている不安は、
事実として起こっていること。

けれども、たとえ、
その先で、やっぱり、うまくいかなくても、
「変わろう」と思った瞬間があって、
それを実行したという行動には、
とても大きな意味があると思う。

変えようとすることのすべてが、
ぜんぶぜんぶ、うまくいくとは限らない。

10変えようとしたら、
そのうち1しかうまくいかない、
っていうこともあっておかしくない。

それでもいいじゃないか。

変わらなければいけない時期は、
必ず、やってくる。

そういうときに、変わることを躊躇して、
時間がかかりすぎて、
変わるタイミングを逃すよりも、

変わることが当たり前になって、
失敗することも覚悟のうえで、
変わるという習慣が身についているほうが、
よっぽどいい、と思う。

「変わる」のは、成功させるためだけじゃない。
「変わる」習慣を身につけるため。

こういう考え方もあっていい、
そんな気がしました。

2009年8月18日

悪者役

悪者役を進んで演じていた人でも、

ふとした「きっかけ」で、
いい人役を演じさせてもらったり、

自分以上に、
キビシイ悪者役が登場すると、

悪者としての存在感が薄れてしまう気持ちを
感じながらも、なんとなく、

いいなぁ...と感じるに違いない。

やはり、「いい人」に思われるのを、
嫌な気がする人はいないはずだ。

だから、悪者役としての仕事がなくなると、
とたんに、いい人役を研究し始めたりもするもの。

人間誰しも、人に悪く思われたいわけじゃない。
少なくとも、良く思われたい相手には、
良く思われたいものなのだ。

悪者役を引き受けるのは、
自分が言いたいことを言って、
悪く思われるなら、
それはそれでしょうがない、
とあきらめているか、

ここは、誰かが悪者役にならないと、
グループが、チームが役に立たない、
思うような方向に進まない、
という危機感を感じてがんばる人だけだろう。

キャラとして、
わたしは、どうあがいても、
「いい人」役が回ってくるタイプじゃない。

いい意味でも、悪い意味でも、
キレる人っていう役はあっても、
いい人には、ほど遠い。

となれば、時には、
悪者役が舞い込んでくる。

しょうがないと思っている。
と同時に、悪者役を演じるのが、
けっこう好きになっていたりする。

やっぱり、演じなれたものは、
気楽で、自分の力を存分に引き出せるもの。

悪者役が、その場のために引き出して、
見せられる力は何か。

ひとことで言えば、
「これじゃ、いけない!やられてしまう。」
ということじゃないだろうか。

部下にとっても、子供にとっても、
そういう存在が必要だと思うことが多々あります。

2009年8月15日

ザ・コンプレックス

自分への評価が、
かなり低くて、
自分にコンプレックスを
感じる人がいる。

まわりの評価は、
けっこう高くても、ね。

それは、いろんなケースが
あるだろうけど、ひとつは、

ある一人の人からの評価だけが
気になりすぎて、その人からの
評価が悪いから、

自分はダメだと
思っている場合が多い。

どうしても、ほかの人、
もっと多くの、広い見地からの
評価に目を向けられないでいる。

もちろん、コンプレックスがあって、
それを克服しようとがんばる気持ちに
切り替えられているうちは、
そのコンプレックスも、まんざら悪い、
とばかりは言えない。

けれど、何にもがんばる気持ちに
なれないくらい、コンプレックスが
強いとなると、ちょっとかわいそう。

あの人は、ちょっとがんばれば、
うまくいくでしょ、
と他人のことばかりが
良く見えてしまう。

まわりから見れば、
そういうことが出来るのは、
あなたも同じレベルでしょ、と言われても、
本人は受け入れられなくなっている。

コンプレックスを植え込める「権威」のある人も
すごいが、もっといい自分に気づかずに、
コンプレックスに埋もれて、
ダメな方の自分を思い込めてしまう人もすごい。

そんな人の口からは、

「あの人は、すごいです。
 あの人の家もすごいから、
 すごすぎて、私はかなわない」

みたいな、大げさな言葉ばかりが出てくる。

ちょっと、この人、
自分は十分な力があるのに、
ふざけて言っているんじゃないの、
と思って眺めていても、
どうやら、本気で言っている様子だったりする。

「うちは白旗です。
 あの人には、どこへでも
 羽ばたいていって欲しい」

なんてことも言ったりする。

そこまで来ると、ははぁ~、
この人は、ライバルの存在だけを
意識しすぎて、自分にコンプレックスを
感じているんだな、と分かってくる。

さらに聞いていると、

「でも、あの人は、
 ○○の方が全然ダメなんですよ。
 それに、嘘つきで、性格も悪いし...」

なんて言葉も、引き出されたり...

つまるところ、ライバル心、競争心、虚栄心に、
打ちのめされてしまって、
強烈なコンプレックスを感じちゃっている。

そういうこともあるんですね。

The コンプレックス。
打ちのめされないよう、
気をつけないといけないな。

2009年8月14日

いっぱい時間があるぞ

時間が欲しい、
時間がない、
と騒いでいながら、

さあ、休みだぞ、
いっぱい時間があるから、
思う存分、やりたいことをやろう、

と自分に言い聞かせて、
手始めにやることは、
意外とたいしたことじゃない。

そんなことを、
改めて自覚している、
このお盆休みです。

本を読む暇がなくなって、
本を読もうと思っていた私は、

本を開く時間を、
それほどとるわけでもなく、

思い立ってやっていることといえば、
地上デジタルのチューナーを買って、
こんなことが出来るかな、
これをやったらどうなるかな、
こんなのはどうだ!?
よし、あれを買ってきてやってみよう、

なんてことを試している。

ハマっている。

ハマってしまえば、
時間が経つのは、
とてつもなく早い。

こんなことをするための休みじゃなかったはずだが、
と思いながら、ひとつ落ち着くと、
今度は、ボーっとしているうちに、
また、別のハマることを考えていたりする。

そこで思った結論。
人間っていうのは、
自分のやりたいことが
わかっていない、と。

本音の部分で、
やりたいことがわかっていないことが、
多いんだなぁ、という感じです。

わたしが、本を読みたい、
と思っていた気持ちは、

実は、最近読む時間が減ったから、
読まなくちゃいけない、
みたいな感じだったんでしょう。

自分のやりたいことが分かっていないのが人間。
今日の私は、放っておいたら、
何をするか、分かったもんじゃない。

2009年8月13日

言いたいこと

言いたいことを、
心に浮かんだとおりの言葉を使って
言うことはダメだっていう時は多い。

言いっぱなしで終わりたいのなら、
それはそれでいいのだけれど、

そうじゃなくて、
何かを動かしたい、
何かを変えたいっていう時には、
そんな方法は使えない。

だからと言って、
だまっているのは、
あまり良くない。

1つは、
だまっているこっちの精神衛生上の理由で、

もう1つは、
こっちがどういう人間か、
本当のことを知らせていないことで、
ふさわしい関係が結べるとは思えないからだ。

自分は、
こんなふうに考える人間なんだよ、
こんなふうなことを言う人間なんだよ、
どんなカタチであれ、
それを伝えたほうがいい。

そして、できれば、
相手が落ち着いて、
受け入れられる言い方で、
というのが条件になる。

落ち着いて
受け入れてもらえれば、
それが、相手の驚きをいくらか
伴うものだったとしても、

その先で前進する可能性がある。

落ち着いて聞かせることが
できない言い方をしてしまったとなると、
あまり進展は期待できない。

常日頃、考えのまとまらない人だとすれば、
それは、なおさらです。

言いたいことを言う方法を工夫する。

言いたいことなのに、
それを工夫するなんて
なんか矛盾する話ですが、

自分の「言いたいこと」で
本当に何かを変えたいと思っているのなら、
そういうことで、頭に汗をかくのは必要です。

2009年8月 7日

したくはなくてもする後悔

忘れたいと思っていたことでも、
やっぱり、ふとしたことで
思い出してしまう。

そして、したくはなくても
後悔の思いがもたげてくる。

後悔したあとに、
これからはこうしよう、
とちょっと思ったくらいで
終わればいいのだけれど、

ああ、あの時こうしていればよかった、
と考え始めれば、もうキリがない。

一生に一度しかないことだと
思えるようなことであれば、なおさら。

自分に感じてしまう責任が重いと、
どうしても、ほかに、その責任がないか、
と考えてしまう。

あるいは、どうしようもなかった理由が
見つからないか、とか。

どうしようもなかった理由が、
見つかれば、なんとなく心は救われる。
その時だけは...

けれど、心は、
本当のことを知っている。

やっぱり、あれは、自分の責任だったと。

後悔したとたんに、
時間がそこに舞い戻って、
そこで止まってしまう。

時間を送り込んでいたつもりが、
そこに、また戻ってしまうというのは、

そこが、自分のアキレス腱だったり
するからでしょうね。

しょうがない、
もっと大きな後悔をするようなことに
チャレンジした方がいいかもしれない。

今後悔しているようなレベルじゃなく、
もし、失敗したら、とてつもなく、
後悔するようなことにチャレンジだ。

それって何だろう?

そんなことを考える自分は、
後悔から離れて、正常になれる気がします。

もっと後悔するかもしれないチャレンジって、
果たして、何だろう?

今日も、がんばるべ。

2009年8月 1日

考える自由

別に、どうってことはないのだが、
それを考えられているだけで、
イライラしてくることってあるもんだ。typhoon

いや、どうってことがない、
とは限らないな。

たとえば、
自分のことでなく、
浮気相手のことばかり
考えている、
それに浮かれているように見えたら、
やっぱり、イライラしてもおかしくない。toilet

むしろ、その権利がある、
と言った方がいいくらいだ。

「私は君の考え方には反対だ。
だが君がそう考える自由はあくまで守る」
(ヴォルテール)

こんな見方で、
他人の考えていることを
ゆるせる人がいて欲しいと願うのですが、
果たして、自分はどうだろうか、
となると、自信がありません。paper

わたしが何を考えようと自由なんだから、
認めて欲しいと思いながら、

心のどこかで、
他人には、それを認められない。
人間は、わがままですね。

そして、無理に変えようとする。

すると、衝突がある。bomb

佐々木直彦さんのこんな言葉が、
いつも、心に思い浮かびます。

「問題点を突きつけられたが、
 同時に夢も持てた」
と思ってもらうようにするのが、
これからのトレンドである。

人は、自分のなかに
「変わらなくてもいい素晴らしい部分」
があると気づいたとき、
安心して変化を受け入れる

(コンサルティング能力、佐々木直彦)

自分と相手に、自由を認める。
それが本当の幸せだと分かっていながら、
なかなか、むずかしい。

わたしも、勉強中です。

2009年7月31日

コレクション

へぇ~、そんなに好きなんだ。
で、そのコレクション、いくつ持っているの?

と尋ねたときに、

1個だけ。

と返されたら、

え?coldsweats02

と思ってしまうかもしれない。

コレクションというからには、
もっと持っているだろうこと、
かなり好きなんだから、
それだけ集める気持ちがあるんだろう、
と予想してしまうのだが、
そうじゃない人もいる。

きっと、それは、
コレクションと自分の中では
呼びたいだけで、

どこか、ハマりきれない、
不安というか、逃げ腰というか、
傍観者っぽいところがあるんだろうなぁ。rain

他人に、自分の思いの方向性を見せる、
というのは、なかなか、難しいもんです。

コレクションとかじゃなくても、
自分ではそう思っていても、
そうは思われない態度というものがあるんでしょう。

一生懸命に働いています、
この仕事が好きです、
あなたが好きです、
旅行に行くのを楽しみにしてます、

どんな気持ちであっても、
それを他人に見せるっていうのは、
その他人のモノサシっていうのがあるから、
それにそぐわなければ、
どうしようもない。

誰に見せたいか、
誰に分かってもらいたい思いか、
そこが決まっていないと、

それこそ、八方美人といわれるものに
なっちゃうんでしょうね。

自分が自分でなんだか分からない。wobbly

2009年7月29日

明日からの生活

目の前で、胸をたたく彼。

どうした?

と声をかけると、

明日からの生活をどうしていこうか、と思って...

という返答。

重すぎる言葉に、
心が、グラっときた。

そんな重みを予想していなかっただけに、
ちょっとしたショックを感じたのだろう。

次にかける言葉が出てこない。

今なら、何かを言えるかもしれない。
けれど、何も言わなくてよかった、
とも思っている。

人それぞれが出くわす場面には、
他人には分からない感情がある。

プラス思考でも、
リラックスでも、
他人の言葉ですぐに切り替わるものなら、
それはそれでいい。

しかし、人によっては、
なかなか、そこまで変われない心もある。

真剣に考える心。
次を考える余裕なく今にとどまってしまう心。
そして、そうならざるを得ない現状が目の前にあること。

他人の苦しみは、分からない。

かける言葉も見つけられない。

その状況を、心のなかで、
自分なりに、自分に都合のいいように
考えようとする自分もいるけれど、

そんなことも、あまり意味がない。

「明日からの生活」、
そんな追い詰められた状況を、
自分だって、経験するかもしれない。

遊牧民族だったころの人間が、
農耕民族になって、ひとつところに安住を始めてから、
生活というものは、「ひとつところ」にいられることが
当たり前のように思わされてきたところもある。

しかし、今の時代は、そうじゃないんだろう。
もう一度、遊牧民族へ逆戻り、みたいな感じがする。
そう思えば、少しは気楽だが、それだって、
自分が気づいて自覚したことでなければ、
どうにもならない。

2009年7月27日

付き合い

つりあいのとれていない人同士が、
付き合っている様子を見るときに、

見ているこっちが、
勝手に心苦しくなるときがある。

いろんな経験をして、
深みをもっている人間と、
いつも誰かに頼ったり、
誰かのせいばかりにしている人間と、

頼っている側は、
自分たちは「仲良しだ」「うまくいっている」
というけれど、どう見ても、

合わせてもらっているとしか
見えないのだ。

しかし、それを知らない本人は幸せ。

もちろん、深みのある人間の方は、
相手に合わせながらも、
その関係を楽しんでいる、
好きでいることは否定できない。

人の相性なんて、
お互いに、人間ができているから、
ピッタリなんてことはないのだ。

勘違いでも、
バランスが崩れていても、
なぜか、うまくいく関係というものがある。

人の付き合いに、
他人がつべこべ言う資格はない。

アンバランスなカップル、
不釣り合いな友人関係を見て、
そんなことを思いながら、
自分の人間関係を考えたりします。

言葉をぶつけあう関係、
感情をぶつけあう関係、
いろんな関係があるなかで、
人は、自分にあった関係を見つけていく。

うまくいかない関係を経験したって、
いいじゃないか。それはそれで、
次の関係を考えるときに、
学びとなるんだからね。

2009年7月21日

カラダにない弱点

生活をしていて、痛みを感じたり、
くすぐったさを感じたりするところって、
自分のカラダの弱点だけれど、

そんなカラダの弱点を
攻められるよりも、
自分にとって大切な人ととか、
気になる人との関係性を
攻められる方が大きな弱点だ、
っていう人は、けっこう多いと思う。

知らず知らずのうちに、
そんな身内、家族、友人がいる。

親であれば、ふつうは、
子供なんだろうけど、
子供が一人でなく、
2人でも、3人でもいれば、
そのなかには、
自分にとっての「アキレス腱」と
呼べるような子供がいて、

その子供が感じていること、
悩んでいること、行き詰っていることが、
親の心をふりまわしてしまう。

自分のカラダにない弱点は、つらい。

自分で直したり、カバーしたりできない。
だからこそ、敏感になってしまう。

そこに関係する、嫌なことが起こりそうになると、
苦しくはなるけれど、自分のことでないから、
どうしようも出来ない。

相手のそういう弱点に気づいた人は、
直接、相手を攻めるよりも、
そういう関係性を壊すようにした方が
賢いかもしれないですね。

そんな器用なことは出来ないけど、
わたしの場合は、逆に、
そういう弱点を攻められてしまいそうだ。

ある意味、そこの関係性に依存している、
ということなんでしょうね。

弱点を見つめるって、
なかなか苦しいもんです。

2009年7月20日

経験100回

本気で成功させたいことは、
その本番がくるまでに

何度も何度も練習したり、
イメージ・トレーニングをするだろう。

たとえ、その本番が、
5分くらいで終わるものだとしても、
納得のできる状態になるまでには、
その100倍以上の時間を
かけたりする人もいるはず。

しかし、練習100回に比べれば、
本番の経験100回のほうが重い。

本番で培うものは、
練習で育まれるものとは、
やっぱり違うからね。

本番の緊張感は、
また格別。

ただ、たとえば、
本番が1年に1回しかないものだと、
その本番を100回経験することなんて
死ぬまでやったとしても、
ほとんどの人には無理なわけで、

そんな程度の回数しかない本番には、
どうしたらいいのか、と考えてしまう。

何か、それに匹敵するようなシチュエーションを作って、
立ち向かっていかなければ、どうにもならないだろうなぁ...

1年に1回ということに、
集中力を切らさずに、
力を準備していくことは、
なかなか、大変だ。

一方、毎日何度も、
厳しい判断を迫られるような本番が
ある状況っていうのは、
経験の数ではうらやましいが、
四六時中ある緊張感っていうのも、
また大変だろうなぁ、と想像できる。

経験100回を1年で出来る環境、
経験100回を100年かけなければ出来ない環境。

どっちもどっちだ。
人それぞれの人生、試練だろうな。

2009年7月16日

手書きをしてみる思い

年賀状でも、
会社からの郵便物の発送などにも、

相手の名前とか、住所を、
手書きする機会が減ってきた気がします。

そこで、あえて、手書きをしてみると、
ちょっと分かってくることがあります。

その人の名前と、住所をていねいに書いてみると、
自分のなかにある、その人への思いが
ハッキリと分かってくるのです。

あいまいなものだったものが、
けっこうよく見えてくる。

面倒くさいと思えば、
それまでの思いということ。

ていねいに書こうと思えば、
まだ、相手への敬意とか、愛情が、
ちゃんと残っている証拠。

次は、出すのは止めようか、
やっぱり、パソコン印刷にしようか、
なんて考えながら書くということは、
思いに集中できていない表れ。

あえて手書きにしてみると、
そういうことが分かってくる。

きっと、住所を書くことも、
そうなんでしょうけど、
相手の名前を書くことが、
一番なにかを表しているように思う。

さらに、自分の名前とかを書くときに、
どんな思いで書いているか、
っていうのも、文字の状態に表れている。

自分の名前は、書き慣れていて、
思わず、ベラベラと書きなぐることもできれば、

相手に、自分という人間を伝えるために、
相手の名前と同様に、ていねいに書くこともできる。

ただ思うのは、手書きをするのは、
1度に10枚くらいが限度かな、っていうこと。

それ以上は、心が追いつかない。
書きなれていない人にとっては...

10枚でも、20枚でも、100枚でも、
心を変えることなく、
手書きが出来る人は、
ある意味、すごいなぁ、って思います。

なんか、無駄だなぁ、って考えるクセの方が、
強いからね、私の場合は。

2009年7月12日

妄想だと分かって楽しむ

信じれば救われる、
っていうのを、

ウソだと分かっていて、
信じてみるという楽しみに
使うことがあります。

だって、
信じている時間、
妄想している時間、
いろいろと期待している時間、
ってけっこう楽しいじゃないですか。

それが、
本当は叶わないこと、
ウソだと分かっていても、
心底ワクワクできちゃう。

ゲームとかに、
ワクワクするのと同じだと思うんです。
ある意味、心の中だけのゲーム、
想像の世界だけのゲームみたいな...

だから、
妄想癖のある人は、
けっこう幸せかもしれない。

お金を使わずして、
頭の中だけで、
いろんなゲームを楽しめる、
みたいな感じで...

年をとると、
妄想の範囲が限定されて、
妄想が妄想のレベルでなく、
現実に近いレベルに落ちてしまって、
けっこうつまらないかもしれない。

その代わり、
被害妄想だけは、
どんどんふくらんだりして。

それじゃあ、つまらないだろうなぁ、
って思います。

何歳になっても、
妄想を楽しめるような人生。
そういう心の自由さ、
持ち続けることができたら、
ちょっとお得かもしれない。

そんな気がしています。

2009年7月10日

命と向き合うまで

もしかしたら、
これで自分の人生は終わりかも、
っていう瞬間を、

想像だけだったら、
私も何度か経験がある。

昨日も、大雨の中、
高速道路を運転しているときに、
そんなことを考えていた。

ワイパーでふいてもふいても、
視界が悪くてね...
たしかに、怖かったです。

ただ、本当に、
そんだけ危なかったか、
といわれれれば、
ちょっと自信がない。

自信がない、
というのも変だが、

「おれは、あの時に、
 本当に死ぬかもしれなかったんだ」

って言葉を自信をもって言われるのも、
なんだか付き合いきれないなぁとも
思えるから、自信がないのは、
それはそれでいい。

たとえば、
命と向き合う瞬間になっても、

恨み続けたい相手がいるなら、
それはホンモノだろうし、

あきらめきれないことがあるのなら、
それもホンモノだろうから、

そういうことに、
今、命に向き合っていないときでも、
付き合っていたいなって思う。

今私の嫌いな人は誰だろう、
っていえば、なんとなく顔は思い浮かぶけれど、
命と向き合った瞬間にさえ
恨みたいかといえば、そういうわけでもなさそうだ。

となると、逆に、
命と向き合ったときにこそ、
離れたくない人間関係とか、
手放したくない仕事があることになるかな?

うーん、あいまいだ。

やっぱり、まだ向き合っていないからだな。

人は、本当に
向き合わなければいけない時まで、
手探り状態なんだろうなぁ。

2009年7月 1日

ふっと切れる

狭い世界で
一生懸命に張っていたプライドが、

その世界から
ちょこっと出ると、
プライドを張っていたことなんかにはならず、

そんなものは捨てても大丈夫だよ、
っていう具合に、気を楽にしてもらえることがある。

え?

っていうくらい
簡単に、自分のプライドを捨てられる、
というか、気にしなくて済む瞬間があるもんなのだ。

それもそのはず。
狭い世界のプライドは、
ほとんどの人に知られていないから、

そのプライドを捨てたことを
心に恥じたい気持ちがあったとしても、
なんの意味もなさない。

たとえば、ものすごく有名になったシンガーが、
だんだん暇になって、地方巡業に出るというのは、
プライドを捨てなければ、出来ないことだと思う。

けれども、
ローカルでしか有名になったことがなく、
いちおう、全国区で有名になることを目指して、
がんばっていたけれど、挫折してしまい、

どこか知らない地で、
何か別のことをやり始めたとしても、
だれにも知られていないから、
気が楽なのだ。

恥ずかしがる必要も何もない。

プライドなんて、ひとつの世界を飛び出て、
別の世界に移ってしまえば、何のことはない。

野球選手が、その世界を飛び出て、
プロレスラーになっていったりするのも、
同じことだろうなぁ。

実際、ジャイアント馬場は、
そうだったろうから。

狭い世界で守っていたプライドを脱ぎ捨てて、
新しい世界へ、身一つで飛び込む。
人生は、そういうことがあっても、
悪くないと思います。

やってみれば、ふっと切れることでしょう。

2009年6月27日

日常のハッピーエンド

映画でも、本でも、テレビでも、
ストーリーは何かしら、
区切りよくというか、
ケジメっぽいのがあって、

ハッキリそれと分かる
ハッピーエンドで終わるものを、
私たちは見慣れているように思います。

しかし、その慣れと同じくらい、
現実には、そんなにハッキリとした
ハッピーエンドなんか、めったにない、
っていうことも知っていて、
それにも、けっこう慣れています。

二人はやっと出会うことができて、
それからはずーっと幸せに暮らしましたとさ、
なんてことは、まずない。

やっと出会うことができて、
ハッピーな気分を満喫した後は、
新しい苦難、問題がやってくる。

そして、四苦八苦しながら、
乗り越えようとする。

うまくいくときもあれば、
うまくいかないで、
その問題とずーっと向き合って、
すごさなければいけないことも多い。
どちらかというと、
ハッピーな気分を感じるよりも、
そういう重荷を背負っている時間のほうが
長いのかもしれない。

で、そんなときに、
ちょっと見つける、ささやかな幸福感が、
日常のハッピーエンドだろうなぁ、
って思うのです。

実際には、
そのハッピーなまま終わるんじゃないから、
ハッピーエンドなんかじゃなくて、

ハッピー、そしてエンド。
苦難、問題、苦難、問題、ちょっとハッピー、またエンド。
さらに、苦難、問題、苦難、問題、ちょっとハッピー、そしてエンド。

そんなハッピーエンドなのです、きっと死ぬまで。

苦難や問題を感じる暇がなければ、
ハッピーを感じる暇も生まれない。

なかなか、いい人生だと思います。

2009年6月20日

勝つために

熱ーくなることは、
けっこう得意です。

ちょっとしたことで、
カッカすることはしょっちゅう。

思い入れが強ければ強いほど、
かなり熱くなってしまう。

娘らの夏の総体が、
今日から始まります。

思い入れはやはり強いので、
カッカしちゃうだろうなぁ、
という予想を、自分に立てている。

最後だから、なおさら。

しかし、しかしだ。
熱くなるだけでは、
残念ながら、勝負には勝てない。

勝負には、
敵がいることだから、
敵の作戦や動きを「冷静に」
見れたりしないと、
自分たちのミスが目立つようになる。

熱くなりながらも、
冷静さを失わない。

それがベストだけれど、
なかなか、できない。

やっぱり、キャラっていうものが
あるからねぇ。

うーん、今日の娘たちの大会。
どうなるかなぁ...

勝ってもらいたいけれど、
勝ってくれたら嬉しいけれど、
勝負事には負けもありうる。

そういうことも分かって、
勝負に挑めることが
冷静さっていうものなんでしょうね。

絶対に勝つぞ!、
っていう気持ちも大切だけど、

絶対に勝つぞ!
っていう心理で埋め尽くされたときには、
何か忘れてしまっていることもあるだろうから。

がんばれ!がんばれ!
親にできることは、応援だけだ。

2009年6月 7日

めんどくさいのはどっちだ?

知らず知らずのうちに、
自分もよく使っているかもしれない言葉の1つ。

面倒くさい、

めんどくさい、

めんどくせえ。

自分では、なんとも思っていないで、
使っているけれど、他人が使っているのを見て、

ああ、こいつには、
そんなこという資格ないよな。
めんどくさいのはどっちだ!?
おまえに付き合うこっちこそ、
めんどくさいよ。

なんて思ったりすることがある。

そして、そこで初めて、自分自身についても知る。

使う権利も、資格もないのに、
何気なく使っている言葉って、
かなり多いだろうなぁと。

実際のところ、
自分に合っていようが合っていまいが、
言葉などに使う権利も、資格も、
存在はしないから、

まわりからどう思われようと、
いくら言われようが、
気にしなければ、どうでもいいこと。

自分のありのままの「バカらしさ」
を知ってもらうために、
好き勝手に使い続けるか、
ちょっとは遠慮することにするか、
考えさせられるところです。

そんなことを考えるのも、
めんどくさいけどね。

2009年6月 6日

ゆがみ

一丁の豆腐を地面に落とせば、
きっと崩れて、散ってしまう。

卵は、割れてしまう。

缶ジュースは、
地面と当たったところだけが、
たぶん、ゆがむだろう。

粘土であれば、
当たったところを中心に、
カタチが崩れるはずだ。

人間の手から離れて、
捨てられるもの、
放り投げられるもの、
何かにぶつかったものは、
ゆがんでしまうことが多い。

それは、人間が見捨てられたときにも、
同じだろうと思う。

見捨てられた人間は、
どこかに、ゆがみを持っている気がする。

それは、見捨てられたから、
ゆがみが出来た場合もあるし、
ゆがみがあったから、
見捨てられたという場合もあるだろう。

いずれにしろ、ゆがみが
あるんじゃないだろうか。

一度ゆがんでしまった人間を、
立ち直らせるのは、けっこう、
大変だと思う。

親に見捨てられた子どもがいるとして、
誰かが、親の代わりになって、
教え、励まそうとした場合に、

その親に代わるくらいの根気がなければ、
そのゆがみなど、治せないだろうと思う。

ちょっとの間、声をかけたり、
励ましたり、付き合ってあげたくらいで、
それを治せるなんて期待するのは、
傲慢かもしれない。

親の代わりになって、
そんなことができると思うこと自体に、
勘違いがある。

もちろん、もしかしたら、
出来るかもしれない。

けれど、見捨てられた者のゆがみだ。
まわりからの援助も必要だろうが、
結局のところ、本人も、そのゆがみを
自覚して、治そうと思わない限り、
ある意味、大人にならない限り、
無理なんじゃないかと考える。

きっと、見捨てられる者のゆがみは、
ほとんどの人の心に、
ちょっとはあると思う。
ない人なんて、少ないだろう。

それが目立つものか、
そうでもなく隠せるものか。
その違い...

自分にしても、他人のものにしても、
ゆがみというのは、困難な課題だなぁと感じる今日この頃。

2009年6月 4日

体、性格、頭がギリギリ

いつもいつも、
薬を飲むことが必要な人、
習慣となっている人の中には、

だんだんと、
なんで飲み続けなくちゃ
いけないんだろう、
と思っちゃう人もいるでしょう。

うちの次女は、
ぜんそくの持病があって、
朝と晩の薬を毎日飲んでいたのですが、

もう、大丈夫だろう、
という気持ちがあったことと、
なんか、本当に、この薬は効果あるのか、
という面倒くささから、朝だけ薬を飲んでいる
という最近でした。

ところが、数日前から、
朝起きて、ちょっとセキをするようになり、
やっぱり、飲まないといけない体なんだなぁ、
と家族みんなで、再認識。

それだけ、薬があって、
なんとなかっているギリギリの体だということが
分かりました。

ギリギリといえば、
うちの長女は、性格がギリギリです。
すぐに、いっぱいいっぱいになって、
いろんなことを抱え込んでしまう。

さらに、ギリギリといえば、
うちの三女は、頭がギリギリです。
小学3年生の授業は、
割り算に進んでいっているのですが、
まだ、時計や時間のことがよく分かっていない。

三人娘、それぞれのギリギリを抱えている。
体がギリギリ、
性格がギリギリ、
頭がギリギリ...

セキの出てきた次女を前にして、
家族みんなで、そんな話題でしゃべっていて、

もし、選べるとしたら、
どのギリギリがいいか、
って尋ねてみました。

うーん、みんな、一斉に考え込んでしまう。
頭がギリギリの三女でさえも、
苦笑いしながら、考えている姿。

ギリギリであるだけに、
余裕がないこと。

余裕がないと、
ちょっとしたことで困ったことになる。

実際問題、どのギリギリも容易でないな、
という気がして、わたしも選ぶに選べませんでした。

娘らにあるということは、
このわたしにも、何らかの形で、
そのギリギリが備わっているわけで、

なんとか、今日も、
ギリギリ生きていこうと思っています。

2009年6月 1日

見る目がない

自分のことをいい人だと表現するためには、
いろんな言葉が使われるもんです。

人を信じやすくて...
おせっかいで...
傷つきやすくて...
自分が悪いと反省することが多くて...
なんでもしてあげちゃうところがあって...
人から利用されることが多くて...

もちろん、本心から、
そう思って、そう言っている人も
いるでしょうが、

どう見ても、それが
パフォーマンスのための言葉にしか
思えない人もいたりします。

その一つが、
「人を見る目がなくて...」

ただ、この言葉だけは、
ぐるぐるとスパイラルにハマってしまう
意味合いがあると思うんです。

人を見る目がない、
というその目は、
他人を見る目だけに限定できるか、
ということです。

人を見る目がない、
というからには、
「自分」という人を見る目もない、
ことにならないか。

そうだとしたら、
そういう人を見る目がない人が、
他人についてであれ、
自分についてであれ、
何か言っていることは、
どれも当たっていない、
間違っている、ズレている可能性がある、
ということになります。

考えてみれば、たしかに、
そういうことになるんですよね。

自分のことすら正しく見れていない目で、
他人のことを見て、あれこれ判断したり、
行動を起こしたところで、失敗がないわけがない。

じゃあ、自分のことを正しく見れている目が、
この世にいくらあるだろうか、と考えれば、
そんなに多く、ありそうでもない。

みんな、なんらかの意味で、
人を見る目がないのです、きっと。

だから、人を見る目がない、
っていう言葉を自分について言うことは、
何の謙遜にもならないし、
何の言い訳にもならない。

見る目がなくても、
失敗しながら突き進まなくてはいけない、
人生なのですから。

2009年5月30日

うん、と言わせる

あまり話を聞いていない上の空状態で、
簡単に「うん」という知人がいる。

うん、うん、うん、うん、
その人の「うん」は、いつも簡単だ。

けれど、思わぬところで、
簡単に「うん」と言わないときもある。

なん、なんだ?

と不思議に思うのだが、
どうやら、よく観察してみると、

物事の簡単さ、難しさ、というよりも、

そこに関わる人々の心の簡単さ、難しさを
考慮して、返事をしているようなのだ。

あまり、人の心に関係ないことには、
すぐにでも、うん、うん、と言う。

自分の主張やこだわりは、
あまりないらしい。
(まわりにしてみれば、
 物事が進めやすくて、
 とても助かることだろう)

もちろん、安易に「うん」と言ってしまい、
あとあとになってから、
人の心に関係する事柄が出てきて、
ちょっと、あわてふためくこともあるようだが...

そこで思う。
簡単に「うん」という人が、
一度、うんと言わなかったことを
「うん」と言わせるのは、
意外と難しかったりするんじゃないか、と。

簡単に、うんと言うときには、
あんまり考えていないからであって、

そういう考え慣れていない人が、
よーく考えたり、考えすぎて、
うんと言えなくなっているということは、
ますます、その「うん」と言えない状況が
続くだろうと予想されるからだ。

うん、と言わせるいろんな技術が欲しい。
そんなことを思ったりします。
詐欺師のワザか?

2009年5月25日

逃げているつもりは...

逃げているつもりはないけれど、
逃げているときがあります。

「最終的には、本人の判断だから」

「うちは、自由にさせているから」

「どうする? やる? やらない?」

こんなことを、
間違っても、2歳児については、
言わないと思う。

じゃあ、10歳児についてはどうだろう?

18歳の子どもは?

25歳の部下は?

33歳の部下にはどうか?

相手が何歳かどうかは、
関係ないときもあるかもしれない。

関係する物事によっては、
自分の責任の大きさによっては、

「判断を任せること」「自由にさせること」
で逃げるんじゃなくて、

こういう場面では、やっぱり、
自分がちゃんと判断しなくちゃいけない。
逃げたり、ごまかしたりしちゃいけない、
っていう時があると思います。

人のなかには、なんとなく、
自分が手を下さなくても、
自分の思い通りに「こと」が進むんじゃないか、
という期待がが淡くあるように思います。

その淡い期待に、
心が魅せられてしまうと、

きっと...

まだまだ...

そのうちに...

という感情が出てきて、
判断が遅れてしまう。

選ぶこと、決断することから、
逃げてはいけない。

もっと大胆にいえば、
間違った判断をすること、
選択のミスをすることを
恐れてはいけない。

必ず、そういうことはありえるのだ。

間違った判断、選択のミスより怖いのは、
判断や選択をしないで舞い込んできたラッキーに
踊らされて、学ぶべきことを学べない時かもしれない。

2009年5月22日

問題はなくならない

分かっているつもりだけれど、
どこかで、

「問題がすべて消える」

っていうことを期待している自分が
いるんだよなぁ。

そんなことはないはずなのに、
たとえ、今ある問題がすべて消えたとしても、

その問題のないレベルの基準が、
ぐーんと下がってしまって、

今まで問題にしていなかったことを、
次は問題に感じるかもしれない。

そういう「気になること」があることさえ、
ゆるせないみたいな感じに...

いずれにしろ、問題はなくならない。

そういうことを、
もっと大きな視野で考えれば、
日本という国にある問題も、
世界という、地球ということに関係のある問題も、
なくなるわけがないんだ。

それは、人間そのものが、
そもそも、不完全に生まれて、
問題を抱えているから。

その問題を抱えている生き物が、
かかわりあって、存在する社会に、
問題が起こらないわけがない。

人間が生きている限り、
いつも、どこかで問題があるんだ。

そう開き直って、
問題を一つずつ起こすことと、
問題を一つずつ乗り越えていくこと、
そのものが、生きる目的だ、
と思えれば、ちょっと気楽。

...でも、ないか。

やっぱり、問題はないに越したことはない。

うーん、葛藤です。

2009年5月18日

守るために、責めなくていい

どうなっているんでしょうか?

こんなふうにしてはいかがでしょうか?

こちらはやってみましたか?

自分が、ちょっとあくせくしている時には、
何気ない、そんな質問にも、
自分が責められているような気がしてしまう。

私も、そうです。

相手は、単純に、知りたいという気持ちだけで、
尋ねているのに、こちらが責められていると
勝手に思い込み、逆に、責めるような口調になることも
しばしば...

相手には、
自分という人間のレベルが、
簡単に知られてしまうな、
といつも苦笑いです。

自分を守りたいがために、
思わず、相手を責めてしまう。

なんでしょうね、これって。

一種の被害妄想?

そうかもしれない。

本当は、自分自身が一番、
自分がうまくやれていないことを知っている。

だから、相手に、責めるような思いがなくても、
ふれてほしくない部分の話題が出るだけで、

責められた気がしてしまうというわけだ。

もっと、広い心をもたなくちゃ
いけないなぁ、と思う。

自分を守るために、
相手を責める必要はないんだ、と。

戦争でもあるまいし、
仮に、自分が責められたとしても、

こっちが白旗をあげれば、
それ以上、責めない人もいる。

もちろん、反論すれば、
とことん、責めてくる人もいる。

でも、みんながみんな、
そうじゃない。

ビジネス社会にある、
勝ち負けという価値判断に慣れてしまうと、
そんなふうになるのかもしれない。

味方と敵に、あらゆる人を分ける必要もない。

勝ちと負けだけで、語れないこともある。

人を見たら、守るか、攻めるかの二者択一でもない。

もっと、ゆったりと生きなきゃいけないなぁ。
人生、そんな時間ばかりじゃないのだから。

2009年5月13日

気づかない

他人の感情の動き、
特に、浮き沈みの激しさに、
敏感に気づく人、反応する人、
っていうのは、

おそらく、自分自身も、
そういう浮き沈みが激しい人かもしれない。

わたしがそうだから、
きっと、そうなのだろう。(笑)

最近、そういうことを自覚した。
かなり遅いけれど...ね。

浮き沈みに注目しちゃう、
ということは、ある意味、
それによって自分の気分を、
占っているところがあるからだろう。

たとえば、
自分が注目している人の気分や、体調、調子が、
自分の人生や生活の良し悪しを占う感じ。

それを、無意識にやっている。

自分に、自信がないからだろうな。
自分の力だけで、なんとか、
自分の人生を切り開いていく気になれていない。

もちろん、一人でなんか、
生きているわけじゃないけれど、

他人の「調子」に、
自分の心の浮き沈みを
支配させてしまっているところがあるから、
自分の自信なんてことを考えることは、
ますます少なくなるわけです。

そして、注目している人の
浮き沈みに、ますます敏感になる。
まるで、人生には、それしかない、
かのように。

もしかしたら、その注目する相手は、
子どもだったり、恋人だったり、
友だちだったり、家族だったり、
いろいろあるかもしれないけど、

そこから抜け出すには、
その人の調子うんぬんと関わりなく、
自分でがんばれることに、
しっかりと心も力も注ぐことに
慣れなくちゃいけない。

けっこう、たいへんだけどね。

どうしても、気づいちゃうから。
敏感に、その相手の調子が...

アンテナ感度は、抜群によくなっているだろうから。

気づかないでいる、っていうのも大変です。

2009年5月 5日

言葉を集める

何か、心に悶々としていたり、
悩んでいたり、考えが前に進まないときには、
心のなかに、言葉が散らばっているイメージだと思います。

思っていること、
考えていることが、
うまくまとまらずに、
心のここかしこに、
バラバラと散らばっている。

心の中の自分は、
その中をウロチョロしていて、
その時々出会う自分の感情の言葉に、

うなずいてみたり、
苦しくなってみたり、
さらに悩んでみたり、
ちょっと楽になったり、
パーッと目の前が開けたり...

心の中を歩いているだけで、
いろんな旅をしている。

しかし、
その言葉をぜんぶ並べたり、
集めたりして、整えないことには、
前に進めないこともありうる。

言葉を集めることは、
とても大切なことだ。

自分の言葉であっても、
集めないと、
それは、自分の中で
ちゃんと立っていけない。

次に進むきっかけにもならない。

たとえば、

がんばるぞ!

っていう言葉が、
心の中のどこかに転がっていて、
それに出会って、

よし、がんばるぞ

と思ったとしても、
次にフラフラと心の中を歩いていれば、

そんなにうまくはいかないよ、

なんて言葉に出会ったりする。

何も集めなければ、
その言葉にまた左右されて、
意気消沈...

しかし、
「そんなにうまくはいかないよ」
っていう言葉も含めて、すべてを集めて、

うまくいかない理由とか、
がんばれる理由とかも、
ちゃんと組み立てて、

最後に、
がんばるぞ
っていう言葉を上に立たせられる、
スッキリした状態になれば、

本気になって、
がんばれる。

心の中だけでは、
そんなふうには集められないから、
紙に書いたりすることが、
そんな集める作業を助けてくれるかもしれない。

もちろん、心の中だけで、
そういうことが出来る人も
いるだろうけどね。

マインドマップなんていうものも、
そういうことの一つなんだろうと思います。

2009年5月 3日

自分の落ちる穴

してやったり!

辞書には、

「思った通りに運んだときの達成感を表したり、
 人をだませたときや人に秘密で進めていたことを成し遂げたとき、
 人から無理と思われていることをやり遂げたときなどに使われる。」

とあります。

わたしの思いの中では、
「人をだませたとき」
というのが、ちょっとポイントに感じます。

うまくだませた!

そんな浮かれた気分で、
人をだました人を見ていると、
そのうち、自分で掘った穴に落ちるぞ、
と思ったりするわけです。

いわゆる、墓穴を掘る、ということですな。

だまされた方が賢明であるときには、
だまされた振りをしながら、
その掘られた墓穴へと追い込んでいくことでしょう。

だました方が浮かれていればいるほど、
だまされた側は、次のチャンスをうまい具合に
お膳立てすることができます。

そもそも、人をだまして、
浮かれているなんて、
まったくもって、おかしな話なんですから。

人をだます、という行為そのものに、
すでに、墓穴が隠れています。
それを忘れちゃいけない。

そこを見抜ける人間になりたいものです。

そうすれば、
人をだますなんて愚かなことも考えず、
人にだまされてもうろたえることがないでしょう。

2009年5月 1日

失敗への道

人間関係において、
失敗への道は、
ちゃんと決まっている。

それは、たぶん、
何かを守るために、
自分か相手のどちらが正しいか、
という見方、もしくは議論を始めた時だと思う。

守るものが何もなければ、
自分が正しいか正しくないか、
なんて、どうでもいい話になる。

正しいか正しくないかの違いで、
自分の評判が変わったり、
自分の立場や地位が変わったり、
自分の手元から出すお金の金額が変わったり、
そんなことがあると、

どうしても、正しいことを
結論づけなくてはいけないことになる。

そこに固執すると、
失敗が待っている。

相手も、固執する人間である場合は、
なおさらだ。

幸いにも、相手が固執せずに、
道をゆずってくれるような人であれば、
失敗を見ることなく、終わるかもしれない。

ただ、それは、見なかっただけの話で、
次に出会う人までが、
そのように、道をゆずってくれる人とは
限らないから、問題は残っていることになる。

人間関係を守りたいか、
自分の立場を守りたいか。

人は、何を守りたいかによって、
違った人生を歩む。
これは本当でしょうね。

2009年4月28日

運命づける

これをしたら、
絶対にいいことある、とか。

あれが起こったら、
きっと悪いことが起こる、とか。

ここに出てきた「しこり」は、
たぶん、ガンだ、とか。

人間は、運命づけることが
好きなんだと思う。

自分の妄想で、
楽しんだり、悲しんだり、
恐れたりしていて、

それが実際に起こるのを
待っているまでの時間が、
ちょっとしたスリル。

だから、自分ではいくら、
マイナスの方向に運命づけようと、

「あなたの運命は、救いようがない」

なんてことは言われたくはない。

マイナスに思っていても、
何か、プラスに思える兆しを探して、

プラスに運命づけたい気持ちは、
残っているんだと思う。

けれど、マイナスに運命づけるクセが
つきすぎてしまっていると、
そこから逃れるのに、自分で苦労する。

どんないい兆しがあっても、

「でも」

と必ず思っちゃう。

そういう人といっしょにいると、
気が滅入らされてしまうことが多いだろう。

私だったら、出来る限り、
そういう人から距離を置いてしまうだろうなぁ。

きっと、その人と同じで、
マイナスの方向に運命づけるクセを
自分の中にもあることを知っているからでしょう。

運命は、フリーで考えたいもんです。

2009年4月26日

「最後」に学ぶこと

もうこれが最後だと思えば、
それまではいい加減だった人でも、
とたんに、真剣になることもあります。

勝負の世界であれば、
当たり前に勝てている状態になれると、

いつもの通りの感覚で大丈夫だ、
と思い込んで立ち向かい、
「最後」に真剣になった人から
痛い目に遭わされたりします。

最後とは、怖いものだ、
とつくづく思います。

反対に、最後だし、
もう終わりだから、
どうでもいいや、
という態度になる人もいます。

もったいないところでもありますが、
それも事実。

自分一人だけが「最後」ならいいのですが、
チームや集団で向かえる最後のときに、

メンバーの中に、
真剣になる人たちと、
いい加減になる人たち、
どちらが多いか。

それは、最後の瞬間が、
どう終わるかに、
とても大きな影響をもつことになります。

いっしょに最後を戦うのは、
真剣な人であって欲しい。

それは、結婚というゴールを考えるときに、
近い気もします。

恋愛ならば、
ちょっといい加減な人でも、
とりあえず付き合ってもいい、
となるかもしれないけれど、

結婚は、そうはいかない。

結婚に限らず、
いろいろな「最後」がありますけれど、
なめたらいけませんね。

2009年4月22日

引き出せないもの

自分の引き出し、
っていうのは、
やっぱり限られている。

ということが、
引き出せば引き出すほど、
ハッキリ分かってくる。

そうだとしても、
仕事柄、引き出さなければいけない人は、

「こんなものでも、大丈夫かな?」

なんて思いながら、
今までの自分の流れでは、
出てこないものを出してみたりする。

運よく、

「おお、君は、こんなものも引き出せるのか?」

とサプライズとなることもあれば、

「おいおい、君に、そんなことは求めていないよ。
 今までの路線で、ちゃんとしたものを出してよ。」

という場合もあるだろうね。

ちょっとした思いつきで、
引き出したものが受け入れられることは、
めったにない気がします。

それでも、引き出さないと、
相手に迷惑がかかるから、
仕事の締め切りがあるから、
自分の体裁があるから...
みたいな感じで、無理やり引き出す。

自分の引き出しで勝負してきた人が、
引き出すものがなくなったときには、
焦るだろうなぁ、苦しいだろうなぁ。

そういう私も、かなりの頻度で、
引き出しのギリギリ感を味わう日々です。
なんとか、引き出しを増やさないと。

2009年4月21日

思い込みであって欲しい

「それは、あなたの思い込みですよ。」

と即答してくるわりに、
思い込みでない証拠の方が、
多すぎる。

その証拠を見せられて、
ちょっとは、ひるむ様子を見せるのですが、
あくまで、「思い込み」ですよ、と言い放つ。

「だったら、思い込みだった、
 ということを証明するような行動を
 これから示してください。
 わたしにしても、思い込みだったんだ、
 と思いたいくらいですから。」

人の悪事というか、
人の不純な動機を突き止めるのは、
あまりいい役柄とは言えません。

しかし、
当の本人が、バレていないと思って、
相変わらず堂々としている姿を見ると、

バレている証拠を見せないでは
いられないのです。

その代わり、これからは、
その行動を変えるという「逃げ道」、
チャンスだけは用意しておいてあげるわけです。

それでも、悪事、不純な動機の行動をやめなければ、
もう、どうしようもありません。

人は、根本的に悪いもんじゃない、
そう信じたいと思っています。

わたし自身が「悪役」を引き受けることが多いので、
そう願っています。

だからこそ、チャンスが残されているなら、
そのチャンスを活かしてもらいたい。

チャンスを活かさず、
愚かなことを繰り返す人は、
ホントに、どうしようもない。

賢い人間であれ、そう願います。

2009年4月 6日

言い直す

「つまり、考えるのが
 面倒くさいってことだろ?」

だからー、
自分の知っている言葉でしか
理解したり、表現できない、
ってことだよ。

と何度説明しても、

「考えるのが、
 面倒くさいってことだろ?」

としか言わないのは、
わたしの母親です。

どう考えても、
うちの母親の方が、
考えるのを面倒くさがって、

自分の頭のなかにある言葉でしか、
事態を説明したり、理解することが出来ない感じ。

コミュニケーションとは、
難しいものです。

難しい相手ほど、
限られたコミュニケーション方法しか
受け付けてくれない。

じゃあ、この方法がダメだったら、
この言葉がダメだったら、

これを使おう、という選択肢もないのです。

そんな相手との間に
残されたコミュニケーションは何か。

すっぱりあきらめる。

これしかありません。

分かってもらおうとしない。

そうそう、その通り。

と答えて、誤解させたままに限る。

ただ、この方法には、
大きな弊害があるんです。

その誤解したまま、
言いふらしたり、

誤解したまま、
後になって、その情報を引き出すときに、
新たなミスが上塗りされたりしてしまう。

コミュニケーションは、
他者との交流でしか
研ぎ澄まされることがない。

そうなると、
一人暮らしのご老人で、
人としゃべらない、
本も読まないなんてことになると、

ますます、独り言に近いコミュニケーションをとってしまう。

うーん、そうなる前に、
うちの母親、なんとかなってくれるかなぁ...

なんだかんだ言って、
63歳だもんなぁ。

2009年3月28日

一瞬で考えること

人は、何かの兆しを見て、
一瞬でいろんなことを考えられる、
という才能をもっていると思う。

好きな人のちょっとした言葉で、
もう私のことを嫌いになったんじゃないか、とか。

今朝は、夢にまで出てきたが、
雪道のドライブしていて、
車とすれちがう瞬間に、
ここでぶつかってしまったら、
私はこうなって、子供たちもこんなケガをして、
車の修理代は、こんくらいかかって、
なんかと考えたりもする。

何かの順番待ちをするために、
並ぼうとしている時には、
その目的地は、まだまだ先なのに、
同じ方向に進むすべての人が、
行列をこしらえる人のように見えて、
一人勝手に、競争心を抱いていたりする。

ホントに、人の頭っていうのは、
働くときには、おかしな方向に、
どんどん働けるものだ。

肝心なときには、
うんとも、すんとも
動かなかったりするのになぁ。

文章を書くにしたって、
スラスラと余計な言葉が出てくるわりに、
肝心のいい言葉が出てこないことも
少なくない。

ところが、そう思っていた矢先に、
ちょっとしたきっかけで、
あっという間に、頭の中で
文章が完成してしまうこともある。

もちろん、一瞬で考えたことが正しくて、
ながーい時間をかけて考えたことが
間違いとは限らない。

その逆も、しかり。

いずれにしろ、私のように、
せっかちな人は、何事も、
一瞬で考えられたら、
どんなに幸せだろうか...

なんて、あこがれるばかりである。

2009年3月26日

自分の中の異常感情

○○フェチっていう言葉が
流行ってからしばらく経ちますが、

自分でもおかしいな、あるいは面白いな、
って思える、突き出た感情は、
誰しも持っていると思います。

あることが、
むしょうに好きだったり、
考えただけでドキドキしたり...

それが、神様から与えられた感情か、
自分の性質上の感情かは分かりませんが、

人生に刺激を与えるものとしては、
面白いものを持っているなぁ、って思います。

あと、知らずに持っているものとして、
すごーく追い詰められたときに、どうなるか、
ストレスが積もり積もったときに、どう考えるか、
自分の悪事を見つけられたとき、どう行動するか。

そういうものは、普段は見えないから、
その時の思いや行動の「異常さ」っていうのは、
自分自身も分からない。

けれど、事件を起こした犯人の状況などを聞いて、
もしも、自分が、そんな状況に置かれたら、
どうするんだろう?

なんて考えたら、自分の中にありながら、
奥に隠れて見えなくなっている感情に、
ちょっと怖いな、っていう気がしてきます。

自分だって、同じような、似たようなことを
してしまう弱さをもっている人間だと気づかされます。

もちろん、それを実際にするかどうかは、
紙一重のところかもしれませんが、
ハッキリと違うのは当たり前でして、

たとえば、浮気にしたって、
異性に対して「いいなぁ」と思う感情を、
ちょっとした魔が差して、実際に行動に移すか、
移さないかでは、やっぱり、違うと思うんです。

何か変な感情を、
私たちは、きっと持っている。

あとは、それをどう処理しているか。
処理しきれていないか。

一番いいのは、笑えるような感情に
すりかえられる能力があればいいでしょうね。

殴りつけたくなったら、
ものすごいオンチな大声で歌えるとか...

2009年3月23日

いいあきらめ

あきらめきれないと、
苦しむことが多い。

けれど、
楽になるために、
なんでもかんでもあきらめる、
っていうのが、いいとも限らない。

あきらめるか、
あきらめないか、
そこのところの判断を
どっちに落とすか...

迷うもんです。

あきらめようとした瞬間に、
なにか可能性がうっすらと見えてきたりすると、

あ、やっぱり、
あきらめない方がいいかな、

と思って、あきらめの判断を翻す。

そして、再スタート。

でも、やっぱり、うまくいかない。

ああ、やっぱり、
あの時、あきらめておけばよかったんだぁ...

みたいなことになる。

下手すると、その繰り返しを何度もやっていて、
あきらめていた時間は、
5分だけとか、1時間だけとか、1日だけとか、
という場合もあるだろうなぁ。

そういう人がいても、おかしくない。

人はみな、いいあきらめを見つけたほうがいい。
そして、新しいスタートを、その度にしていく。

そうじゃなきゃ、人は、進んだことにならない。
生きたことにもならない。そんな気がします。

2009年3月22日

やさしくなれない

つくづく、自分って、
やさしくなれない人間だなぁ、
って思います。

休日、家族みんなで、
お出かけから帰って来て、
家で休んでいる。

妻が、玄関からの声を聞きつけ、
居間から出て行く。

どうやら、塾とか家庭教師の勧誘らしい...

と思って、応対している妻に、

「いえいえ、違います。
 こういうテストを主催している会社です。」

という返答。

そういえば、私も、以前、
応対した記憶がある。

近所には、中学生のいる家が多くはないから、
きっと、名簿などを入手して、
ちゃんと目指してきているのだろう。

妻の「けっこうです」と答える声。

それでも、何かしら話し続けようとする男性。

「もういいから、ドアを閉めろ!」

と思わず言ってしまう私。

お出かけ帰りの疲れのせいか、
そもそもの冷たい性格のせいか、
ちょっと、自分について考えてしまう。

自分だって、
営業みたいな仕事をやってきた経験がある。
冷たくされることほど、心に堪えることはない。

そりゃあ、何度も何度も断られれば、
慣れてはくるけれど、たとえば、
1日の始まりとか、昼食後の1回目とかには、
断られたら、やっぱり、ショックを感じる。

期待しないわけにもいかない仕事だから、なおさら。

営業マンの気持ちになれば、
もっとやさしくなれればいいのだろうけれど、

私の代わりに、かなりやさしい妻が応対することで、
何かしら、つけ込まれるような被害感覚(妄想?)も手伝って、
思わず、冷たくなる。

CMでも、広告でも、足でも、口でも、
何かしらの営業がなければ、
新しいものを伝える術はない。

それをする人々は、勇気のある方たち。
冷たい私だけれど、内心では、
とっても尊敬しているのかもしれない。

私には出来ないことを、
よくやっているなぁ...

とんでもない商品の営業をしている人なんかを見ると、
なおさら、ホントに、そう思ってしまう。

2009年3月18日

ちょっと苦しくなった時

そこまで苦しんで
がんばらなくてもいいんじゃないか?

と自問してしまうのであれば、
そのことは、そんなに
がんばりたいことじゃないかもしれない。

あるいは、
自分の力を過信していて、
そこまでがんばらなくても
うまくいくはずだった、
と思っていたかもしれない。

ちょっと苦しいなぁ、
と感じ始めるときには、
イヤになって投げ出すことも、

もう少しと思ってチャンスにすることも
出来る。

毎日毎日、誰しもが、
ちょっとイヤになることに
出くわしていると思います。

たいていの人は、
もうちょっと、がんばろう、
という気持ちをもてる訓練ができていて、
がんばり続けられるんだけれど、

そういう訓練が足りなくて、
逃げてしまう人、
投げ出してしまう人、
それによって他人に迷惑をかけてしまう人も、
少なくない。

人生のポイントは、
とっても苦しい時じゃないんですよね。

とっても苦しい時には、
そこまで積み重ねてきた力で
乗り切るか、乗り切れるかしかない。

しかし、ちょっと苦しい時には、
どうするかで、力が積み重なったり、
何にも蓄えられないことになってしまう。

人生のポイントは、
ちょっと苦しくなった時。
これだと思います。

2009年3月11日

勝手な、裏切られ感

この人なら、私に、
こんなふうなことをしてくれるはずだ、
と勝手な期待を思いこみ、

それが、そのとおりにならなかった時には、
勝手な、裏切られ感をいだいていたりする。

期待することの多い人間は、
いつも、そんな感情に、
心を揺り動かされているかもしれない。

付き合いが長いから、
そんなふうに期待しているとは限らない。

初対面の人に、
道をゆずってもらえるだろう、
とか。

妄想癖のある人になると、
隣でおいしいものを食べている見ず知らずの人が、
自分にも分けてくれるんじゃないか、とか。

クラスや職場の中で
それまで話したことがなかったけれど、
落し物をしたときに拾ってくれて、
もしかして、自分を好きなんじゃないか、とか。

勝手な思い込みは、
それを止めてくれる理由が見つかるまで、
どこまでエスカレートしていく。

そして、ある日。
現実を知らされる。

この人は、そういう人じゃなかったんだ、
そういうわけではなかったんだ、と。

ああ、裏切られた...

現実を知って、
「そうだよな、そんなわけないよな」
と考えられる人ならいい。

しかし、裏切られ感が、
相手の知らぬ間に、嫉妬とかジェラシーを
ともなった復讐心を芽生えさせているとなると、
事は、大きくなってしまう。

勝手な裏切られ感に、
「それは間違っています」
と言い聞かせる人がいても、
きっと、効果はない。

免疫がつかないといけないんだよねぇ。
どうしても、期待を思い込んでしまうから...

私にも、それに似た、淡い期待感あるな。
一種の逃避癖?(笑)

2009年3月 2日

調子のわるい時

調子のわるい時にはどうするか?

無理にでも、何かするようにして、
それをしている間に、
調子を取り戻そうとするタイプ。

特に無理しないで、休む。
調子が出てきそうで、
やる気が湧きそうになったら、
何かを始めるタイプ。

あるいは、他にやりたいことがあったら、
そっちの方に手をつけるタイプ。

いろんな人がいるでしょうし、
これが一番利くとも言えない気がする。

調子がわるい、というのは、
本人が自覚しないと、

調子が悪くても
気にならないという事実もあります。

反対に、調子なんか悪くなくても、
本人が調子が悪いと思ってしまえば、
「やる気」も失せてくる。

そこで生まれた気分は、
それがいい気分であれ、
悪い気分であれ、暴走する可能性があります。

自分では止められない。

暴走といっても、
暴れるとかでなくて、

その感情がそのままずーっと、
行き過ぎてしまうこと。

それを止めようと意識しすぎてしまうと、
なおさら、暴走してしまう。

だから、一番いいのは、
調子悪いか、調子いいかを考える暇を与えないよう、
のめりこめる「やること」を決めておくこと。

ある意味、スイッチを入れて、
その暴走ルートから外れる感じ。

これは、私も実践だな。

2009年3月 1日

断食パワー

タモリの「笑っていいとも」では、
EXILEのボーカルATSUSHIが、

とんねるずの「みなさんのおかげでした」では、
美川憲一が、

断食をしている、という話をしていた。

もちろん、彼らの場合は、
宗教的な断食ではなく、
どちらかというと、
胃腸を休めて、カラダの毒素を出す、
というような意味合いで、
断食をしているようで、

そのやり方も、
まったく何も食べない、
ということでなく、

固形食物は食べず、
水分や野菜ジュースは飲む、
なんていうやり方らしい。

だから、
3日間とか、5日間とか、
やれちゃったりする。

「やれちゃったり」なんて、
簡単に書いてしまったが、
実際、食べ過ぎることに慣れている私たちは、

食べないことをスタートするのが、
最初は、苦しいもんです。

私も、水分オンリーで、
たしか、4日間の断食をしたことがあったなぁ。

若かりし頃で、何か、願掛けでもするかのように、
ちょっと思いつめた断食だったせいもあって、
けっこう苦しかったことを覚えている。

どのような方法で行う断食であれ、
目的とやり方を間違ってはいけないな、
と思います。

そして、その目的にあった断食を行うのであれば、
たしかに、カラダのパワーを取り戻したりするためにも、
効果があるのは、事実です。

不景気だ、不景気だ、
といいながらも、やっぱり、
日本人は、まだ飽食の時代だからね。

正しい断食をして、
食べることの意味とか、生きることの意味を考えて、
食べることをリセットしてみるのは、いいことですよ。

2009年2月28日

返ってくること

やりっぱなしに出来ること、
っていうのは気楽。

何をしても、
何をやらなくても、
そのまま放っておけばいいことは、
その結果を見なくて済むからね。

でも、だいたいのことは、
何かが返ってくる。

言葉として返ってきたり、
相手の態度として返ってきたり、
やっぱり、後々の結果として返ってきたり...

たとえ、返ってきても、
それに気づかずに、
それを見たり、聞いたりしないでいられたら、
それもまた、気楽。

けれど、だいたいのことは、
返ってくる。

返ってくると、それを気にしなくちゃならない。
本人が気にしなくても、
それに気づくよう、あるいは、
それに気を留めるように言われることも少なくない。

仕事が増えるんだよね。

放っておけば、何もしなくてもいいものを、
気に留め始めれば、やることが増える。

そのために、何かを考える。
考えて、やることを決めて、実際にやる。

そして、また返ってくるから、
また考えて、決めて、...のくり返し。

人生は、そんなもんなんだと分かっているけど、
それが永遠に続くかのように感じると、
ウンザリしたりする人もいるはず。

キャッチボールなんですよね。
返ってきたものを、また返して、
さらに返ってくるものを受け止めて、
もう1回返して...

相手がいようが、
自分だけの問題であろうが、
返ってくるものは返ってくる。

イヤなんだけど、
しょうがないですね。

2009年2月23日

なんか不利だなぁ

少しでも、有利な立場になりたい。
ふつうであれば、誰もが思うこと。

自分からわざわざ、
不利な立場を望む人なんて、
そんなにいないもん