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常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

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2010年3月12日

かんたんな好き嫌い

人を好きになるって、
簡単なことであって、難しいこと。

嫌いになるのも、
きっと簡単なことであって、
難しいこと。

心は、ころころ変わるから、
変わらないようにするのが難しいけれど、

振り子のように、
好きな方に振れるのも、
嫌いな方に振れるのも、

ちょこちょこと出来ちゃう。

だから、
がんばらなきゃいけないのは、
好きなときに、
嫌いな方に振れないよう、

その振り子を
ちゃんと自分で持っていることだと思う。

だって、
嫌いな方に振れてしまったら、
もう、好きな方に振らせる努力すら
意味ないものに感じるだろうし、
そんな努力をするわけなんかない。

コミュニケーションってもの1つを
とってみても、
それを嫌いになってしまったら、
何もしなくなる。

それが楽だし、
ストレスも心労もないだろうから、
どんどん、嫌いになっていく。

コミュニケーションから、
いったん遠ざかってしまうと、
それを好きにならずとも、

コミュニケーションをするということに
戻ってくるのは、きっと難しいはず。

人も、物事も、
好き嫌いがないうちに、

どんなものかを知っていたほうが楽。

面倒くさくなって、
嫌いになりそうになってからじゃ、
なかなか難しい。

何気ないことで、
嫌いになることは多いから。

逆にいえば、
人の好き嫌いなんて、
そんなこともあるから、

あんまり当てにならないんだよね。

「○○が、すっごーく好き」

という言葉も、明日には、意味ない、
ってことも少なくないだろうから。

好き嫌い、ホントはどうでもいいことなんだろうかな。

2010年3月 4日

引き継がれない

どこかに問い合わせをしたり、
何かを依頼したり、交渉しているときに、
「たらい回し」という経験を、
ほとんどの人がするもんです。

担当者と変わります...、
担当が変わりましたので...、
その件については少々お待ちください...、

言葉はどんなものが使われようとも、
今、目の前にいる人は逃げて、
次の人にバトンが渡されるわけです。

そして、その次の人も、
逃げたい気持ちがあるから、
ろくな対応をされずに、
また、別の人が、
目の前に、あるいは電話口に、
現れてくる、という感じです。

さらには、
逃げたいばかりの人たちだったから、
ちゃんと、引き継ぎが行われていることは、
まずない。

同じことを、
2度、3度、説明しなければいけない立場に、
置かれるので、

そのうち、こっちが、
「もう、いいや」ということになる。

もちろん、逆説的に考えれば、
「もう、いいや」くらいで終わることであれば、
そもそも、たいしたことじゃなかったわけで、

もしかしたら、問い合わせたり、
交渉するまでのことでなかったのかもしれない。

そうなれば、こっちのミス、
というか、騒ぎ損。

たらい回しは、引継ぎされていない、
この事実を知っていたほうがいいなぁ、
と感じさせる経験は、多いです。

反対に、
「すごい!、ちゃんと引き継がれている」
というシーンに出くわすと、
とても感動する。

たらい回しに会わないためには、
いろんなことを気にしない、騒がない、
というのが、一番いい。

それができる人間と、
できない人間がいるから、
世の中は、ちょっと面倒くさくなる。

対応(撃退?)マニュアルなんてものも、
作られてくる。

あ、たらい回しにされている、
と感じたときには、
それ以上騒ぐ価値があるかどうか、
立ち止まって考える余裕がほしいものです。

2010年2月28日

熱中

人が何に熱中するか、
なんてことは、
その時々の気分によるものが多く、

たとえば、
他人が不正な扱いを受けているときには、
傍観できるけれど、
自分に不正が及びそうになると、
とたんに必死に抵抗したくなり、
そのことばかりに熱中し始めたりする。

わたしにもありがちだ。

オリンピック放送を見ていても、
今の自分を重ね合わせて、
日本を応援したりしているから、

結果や判定が思わしくないと、
どことなく、不正に扱われたような気分になる。

そこで停滞して、
熱くなってしまう。

けれど、新しい希望のもてる話題が入ると、
心は、すぐに飛んでいって、
そっちに熱くなる。

今朝5:30頃から始まった、
スピードスケートの女子パシュート。

日本語訳されて、
「団体追い抜き」なんて呼んでいるサイトも
ありますが、パシュートのほうがかっこいい。

準決勝・ポーランドに勝って、
銀メダル以上が確定した。

決勝は、ドイツと7:17頃から、とのことで。

心はワクワクしている。

オリンピック最後のワクワクしどころかもしれない。

新しいことに心が奪われるまでは、
停滞したことに奪われたままになって、
それに熱中するのが人間。

けれど、時は流れる。

いろんな話題に、事欠かないのが、人間の社会。
ありがたいもんです。

自分自身においても、
いろんな話題を生んで、
熱中できるものがいろいろ見つかるように、
生きてみたいと思います。

3日坊主のものもあるかもしれない。
でも、そういう中から、
本当に熱中できるものに出会えたら、
それはそれでラッキーだ。

自分の負(マイナス)の部分にだけ、
集中してしまう時間は、できる限り、
減らしたほうがいいからな。

2010年2月18日

元気になりたい

やっぱり、生きていれば、
押しつぶされそうな1日は、
なんどとなくあります。

それは、きっと、
10代のときであろうが、
20代のときであろうが、

はたまた、
40代、50代でも
同じようにあるんです。

違いは何か?

長く生きている分だけ、
こういうトラブルに終わりがあることを、
若い頃よりも早く、予想できることかな。

でも、下手すると、
長く生きている分、
マイナス思考が定着している場合もある。

終わりがあることを予想できる、
っていうくらいに生きた長さと、

いつもいつも嫌なことが起きるんだ、
という思考回路が定着するくらいに生きた長さ、と。

比べちゃいけないけど、
生きるっていうことは、
それだけの違いを生みつけるくらいに、
生き方の道、方法があるんだろうね。

ああ、人生って、面白い。

わたしの場合にも、
ダメな方向に定着したものって、
やっぱり、ある。

たとえば、
「この人からくる電話は、
 ろくなことがない」
とすぐに考えてしまう習慣。

だいたい、事実のことが多いんだけど、
そういう思考回路は、
人間の中身、という全体を考えれば、
なんとなく、いい光とならない気がする。

心のどこかに、
影を落としてしまう感じ。

元気になりたい、
元気になりたい、
今朝は、そう思える朝です。

よっし、元気なってきた。
今日も、がんばるぞ!

2010年2月12日

ぼちぼち生きる

今朝、日経ビジネスサイトで、
勝間で生きられず、香山にもすがれない
という記事を読んだ。

心に、すとんと、入ってきた内容だった。

大阪と東京を行き来しながら、
仕事をする著者、遥洋子さん。

ぼちぼち生きることが、
むずかしい時代になった、
ということ。

なぜか、
東京にいれば、
もちろん、競争は激しい。

じゃあ、癒しのあるはずの地方に行けば、どうか、
といえば、これまでの強者が、
少なくなったパイを死にもの狂いで守るために、
弱者をさらに追い込む、という構図になっているから。

そのとおりだと思う。

ぼちぼち生きようなんて言っていたら、
どちらでも、生きられない、
なんてことになる可能性もある。

新しいことを、ヒットをねらって、
つくっていかなければいけない。
それは、都会にいても、地方にいても、
同じだ、という時代なのでしょう。

それができないと、
ぼちぼちも生きられない、
なんて厳しい時代だろう。

もちろん、
いやいや、俺は、
ぼちぼち生きているよ、
と思っている人、世代、職種の人も
いるでしょう。

ただ、そこに当てはまらない人の方も、
きっと多いはずだ。

頂点を目指すことは、
とりあえず、あきらめた、
だから、ぼちぼち生きたい。

こんなことをゆるしてくれる時代は、
もう、来ないんでしょうか。

全部を奪いとるか、
何もかも失ってギリギリ生きていくか。

うーん、厳しい。

とは言っても、
「ぼちぼち生きる」道を
一生懸命に探す人がいても、
悪くないだろう。

勝間さんにも、香山さんにも、頼れない。
やっぱり、頼れるのは自分だけ。

そういうことなんでしょうか。

なんていうか、
最近感じていたことを、
分かりやすい言葉で伝えてくれた内容でした。

>> 勝間で生きられず、香山にもすがれない

勝間さん、努力で幸せになれますか

>> 勝間さん、努力で幸せになれますか

2010年2月 7日

なくしたもの

なくした、
という事実に、
かなりガッカリする人間(自分)だ、
ということを、今まで知らなかった私。

昨日は、
妻といっしょに買い物に行ったのですが、
何を買うかを話し合って書いたメモが、
買い物をしている途中から、
なくなった、と妻が言うのです。

時々、私も、
その紙をあずかって見ていたりしたもんだから、
私が返さなかったのかな、
それとも、妻がどこかに落としてしまったのかな、
なんて考え出して、

ああ、せっかく、書いたのに、
という気持ちがもたげてきたら、
なんだか、ちょっと情けなくなった。

ちょっとしたメモ用紙なんですけど、
それを書き出すために、
けっこう話し合っていたもんだから、
それだけのショックが湧いてきたんでしょうね。

今思えば、たいしたことないのですが、(笑)
買い物に夢中になって、ちょっと楽しかった分、
ガッカリ感も強かった感じです。

そうかぁ、俺って、
こんなことで、こんなにガッカリするんだぁ...と。

やっぱり、
「なくしたものへの執着」
が強いという性格なんでしょうね。

何をなくするかで、反応も違うでしょうけど、

なくなった、
しょうがない、
じゃあ、どうしようか?

という考えにたどり着く前に、

どうして?
どこで?
なんで?

という問いが堂々巡りしてしまうんです。

やるべきことは、
これから何をするべきか、
ということなんですけどね。

それが分かっていながら、
その準備に時間をかけることが多いから、
そうなってしまうのでしょう。

ちょっと、準備マニアかもしれないな。
って思いました、自分のことを。

2010年2月 4日

かわいそうかな?

めったに、
かわいそうなんて、
思われることのない私ですが、
(きっと、だいたいは、傲慢に見えるでしょうから...)

たまーに、
かわいそうと思われることがあります。

そんなときには、
言葉でも、助けられることでも、
やっぱり、嬉しかったりします。

いつもいつも、受けられるものじゃないから、
ありがたいのでしょう。

そういうものがありがたくなって、
あるいは、病みつきになって、
いつも欲しいなぁと考えて、

「あわれみ」乞いを始めたら、今度は、
かわいそうと思われなくなるだろうなぁ、
って思います。

いつも強気な子供でも、
涙を見せたりすると、
かわいそうだな、なんて思われます。

なかなか見せない涙だからでしょう。

でも、いつも、
泣いてばかりいたり、
騒いだり、駄々をこねるばかりの子供だと、
見せられる涙は、ちょっと面倒くさい。

子供ばかりでなく、
きっと、女性についても、
そうだろうなぁ。

かわいそうと思うのは、
ある意味、自分が優位に立っている気持ちから、
出ていること。

相手からのそういう気持ちを受け入れるためには、
その人より下位に位置している自分を
認めなくてはいけません。

だから、かわいそうなんて思われるなんて、
不愉快だ、不本意だ、失礼だ、などという人もいるでしょう。

自慢でも何でも、
相手が優位な思いからとか、
ちょっとした「上から目線」でものを言うとか、
それを受け入れられるには、
本当に謙虚か、依存心がないとできないんでしょうね。

私は、どっちだろう?

2010年1月30日

ゴール間近?

がんばっていること、
仕事でも、恋愛でも、
そのほかのことで、

ゴール間近と思っていて、
突然、そのゴールが
ふっと見えなくなるときがあります。

うっすらと見えるなら、
まだ、心は安心できます。

見る方向を間違えたのか、
それとも、世の中のイタズラとか、
気まぐれかは、分かりません。

ほんとうに、見えていたと思っていたゴールが、
ふっと、消えるんですよね。

そんなとき、
なんだかなぁ、なんだかなぁ...
と思ってしまいます。

ゴールが消えただけで、
その瞬間に、
自分のやりたいことが、
やるべきことも見えなくなる。

自信がなくなるんでしょうね。
それまでは、これをやっていたんだけど、
ほんとうに、これをやり続けていいのかなぁ、
ダメなんじゃないのかなぁ、と。

あともう少しで、ゴールだったのに、
なんで、ふっと消えるんでしょうね。

それが自分には分からなくて、
なんか虚しくなることもある。

でも、こう考えればいいかもしれない。

もともと、見えていなかった、と。
まだまだ、見えていなかったのだと。

ほんとうの結末に辿り着くまでは、
見えると思ったとしても、
それは、一時的なこと。

見えていない、見えていない。

見えたと思っていただけ、
そう思って、がんばるのが一番。

10m先にゴールがあると、
一人勝手に勘違いして、ガッカリして、
11m先にある本当のゴールを
あきらめていたら、ホントにもったいないです。

がんばろ、がんばろ。

2010年1月26日

激しく頭痛

昨日は、朝から
頭痛がしたもんだ。

私にしては、
めったにないことで、
頭痛もちの人の大変さを
味わっていた1日でした。

ちょっとした頭痛でも、
生活全体に
不快な思いを感じるくらいですから、

もっと日常的にある障害だと、
身体も、心も、かなり不快だろうなぁ、
と考えさせられました。

バカなことに、
あまりにも頭痛がひどかったから、
いつもより早く床についた昨日は、
その頭痛と不快さを感じながら、

もしかして、このまま眠って、
人生が終わったりするんだろうか、
なんて勝手に考えたりもしていました。

そんなことはまったくなくて、
今朝には、スッキリと起きたのですが、
健康が失われると、
あまりいいことを考えられなくなりますね。

結局、あの頭痛は何だったのか、
と考えてみれば、
やっぱり、土曜日、日曜日続けての遠出で
疲れたんだろう、という結論。

健康を失いたくない、
けれど、ちょっとは失ってみないと、
そのありがたみが分からない。

そのためにある、
ちょっとした不快感。

寝不足、働きすぎ、
暴飲暴食、身体にきついことはなんでも、
バランスを考えてやらなくちゃいけないんですね。

身体を大切にしなくちゃ。

2010年1月25日

人間関係の数

うちには、
娘が3人いるのですが、
その3人それぞれのために、
親も、それぞれの人間関係が
生まれることになります。

たとえ、3人が同じ学校に行っていても、
そういう人間関係が微妙に増えるわけで、
それが、もし、高校、その先と
進学することになれば、
そのうち、行き先が変わってきて、
その数だけ、人間関係が増えることになるでしょう。

昨日、娘の卓球大会に行き、
知人のお母さんから話しかけられ、
まさしく、いろいろとからみ、
生まれてきた人間関係の波に、
うまく対応できてない、という苦労をうかがいました。

それまで、そんなに意識したことはなかったのですが、
なるほど、そんなこともあるんだな、と思ったしだいです。

人間関係のなかで、
人がやってしまいがちなのは、
味方をつくること、味方になること。

本当は仲間づくりのはずが、
価値観や考え方の違いがハッキリしてくると、

「あんたは誰の味方なの?」

みたいな話になってきます。

そんなつもりもなく、
なおかつ、自分の意志もあやふやなまま、
人間関係の荒波に漂っていると、

疲れてしまうわけです。

疲れてしまった後に、
あまり気乗りしないけれど、
誰かの味方になろうかと
気持ちをちょっとでも表明したりすると、
そうじゃない側から苦しめられたりする。

結局のところ、
誰の味方になっても、
誰の味方にならなくても、
苦労するわけです。

同じ苦労するなら、
自分で本当に納得する苦労のほうがいい。

できるだけ苦労しないほう、
なんて考えて選んでも、
苦労しないなんて限らない。

それは、人間関係に限らず、
仕事でも何でも、そうでしょう。

からむ人が増えてくれば、
それだけ考えなければいけないことも
増えてくる。苦労も増えてくる。

自分の意志がどこかにないと、
荒波にもまれるだけになる。

がんばらんといけないな。

2010年1月24日

子どもとマンツーマン

勉強でも、スポーツでも、
自分の子どもとマンツーマンで、
がんばっていると、
勘違いがふくらむもんです。

お、すごいな。
けっこう才能があるかもしれないな、
って思われてくる。

そういう考えがあるなかで、
腕試しをしようと、
テストでも、大会でも、
わが子を参加させてみると、
だいたいは、それほどでない、
という結果を見せつけられます。

世の中には、上には上がいる。
狭い日本にだって、上には上が...

でも、その勘違いを
認めたくないか、
信じる気持ちが強すぎて
自覚できないか、
そのどちらかなのでしょう。

力を出せなかった、
ように見える、子どもを
猛烈に怒るというシーンが
出てきます。

私も、そんなことをした時があるから、
そういうことをしている親(大人)の姿を見ると、
自分を見ているようで、恥ずかしくなる。

まわりから見れば、
レベルからして違っていて、
怒ることでどうにかなるような話じゃない
ように感じられても、

いっしょにマンツーマンでがんばってきた親(大人)に
してみれば、もっと実力を出せたはずだ、
という気持ちが捨てきれない。

マンツーマンというのは、
徹底的に鍛える上では、
効果的ではあるが、

その鍛える側が、
いろんな情報をもっていないと、
どんどん、狭い世界へ進んでいくことになります。

成長はしているんですが、
成長する方向が偏ってくるみたいな感じ。

子どもにとっても、
大人にとっても、
全体を見ながら、
目の前のことにも集中するって、
むずかしいもんです。

2010年1月17日

群がりコソコソ

群がって、
コソコソ話をしている女性の群れを
見ていると、思い出す言葉があります。

「ダメな女とは、
 仲間を欲しがる女である。」
 (ダメな女、村上龍)

女性の多い職場で
働くことが多かったものですから、
群がってコソコソ話をしている先には、
だいたい、いい話はしていないことが
多いんですよ。

多い、という表現は、
ちょっと控えめですが、
ほとんどの場合は、
悪口、陰口とかになるんですよね。

大声で言えない、
噂話から始まって、
どんどん、話はそんな方向へ。

その群れに入っていない人からすれば、
「自分のことを言っているんじゃないか」
って思ったりするわけです。

そんなことを気にせず、
自分のやっていることに
集中できるほどの精神力が
強ければいいのですが、

たいていの人は、
群れからはずされただけで、
心に攻撃を受けた気分になってしまう。

群れている側が、
まさしく、その攻撃を目指していた、とすれば、
それは「いじめ」みたいなものでしょう。

群がる女は、ダメな女。
群がる男は、ダメな男。

今日も、どこかで、
群れたがっている人がいる。

そこには、加わりたくないなぁ。

2010年1月 4日

美化された自分

昔の自分っていうのは、
自分の中で、けっこう美化されていたり、
肝心なところが忘れ去られていたりする。

すると、どうなるか。
他人のことが見えてこない。
ちゃんと見られないことになる。

だから、こう考えることにした。

きっと、昔の自分っていうのは、
今思うほどは、
心が強くなくて、
とても優柔不断で、
集中して何かを成すことができなかった
んじゃないだろうか、と。

思うことにしなくても、
きっと、事実だったことでしょう...

でも、そのときの記憶は、
薄まっていたり、ぼかされているから、
自分の中では、
昔の自分が「美化」されてしまうんですよね。

たとえば、
自分の娘に見える(遺伝している?)
自分の欠点について、

自分に似ているな、
とは思っても、
そのすぐ後に、
「いやいや、あそこまでは、
 ダメじゃなかっただろう...」
と否定してしまう。

だから、その同じ欠点について、
娘には、けっこう厳しく指摘したりもする。

ところが、遺伝っぽいポイントで、
けっこう、身に染みついているから、
そう簡単に直るわけがない。

じゃ、しょうがない、しょうがないや。

と一時は思えても、やっぱり、
気になって指摘してしまうのは、

本当は、自分の中から、
その嫌な部分を取り除きたい
という気持ちがあるからなんでしょう。

自分からは取り除けない、
そこはあきらめているところがある上に、
自分のことだから、あんまり気づけない。

でも、自分じゃない人間のそれは、
目に見えてしまう。いやなそれだから、
思わず、口にして指摘してしまう。

昔の自分に面と向き合うことがあったら、
そんなことを、同じように指摘するだろうか。

昔の自分のことを思って、
その後に、
ちょっとでも成長しやすいように、
かけてやる言葉を工夫するだろうか。

そんなことを考えると、
目の前にいる、自分と同じような欠点を
もつひとに、ちょっとはやさしくできるような気がする。

待てるような気がする。

他人に対して、それができないようでは、
自分の欠点も直せないことでしょう。
どちらにしても、時間のかかることでしょうから。

2010年1月 3日

めげながら、前へ前へ

新年の夢を掲げたばかり、
だというのに、

2日目にして、
めげそうな経験をした昨日。

おぉ~~、人生は、
なんとも厳しい。

けれど、逆説的に考えれば、
試練に早めに出会うということは、
それだけ、自分が前へ前へと
進んでいる証拠なんだと思います。

前へ前へと進もうとせずに、
逃げていれば、
きっと問題なんかに、試練なんかに、
出会うはずがないから。

おお、そうだ、そうだ。

そう考えればいいんだ。

そう思うと、なんだか気楽です。

それが収まったころには、
今度、自分の欠点を自覚するような経験が。

その欠点とは、待てないんです。

ネット社会において、
スピーディに物事が進んだり、
仕事が進んだり、解決されたり、
満たされたりすることが多いと、
どうも、リアルな社会での、

かったるさ、遅さに、
イライラしてくるんですよね。

イライラしている自分が、
どんだけスピーディな行動を
起こせるか、っていえば、

「他人のことばかり言って」

というクレームが出てきそうなくらい、
決断は、遅かったりするんですがね。

正月2日目にして、
試練に出会って、
欠点にも嘆く。

うーん、いやだったけど、
今思えば、いいかもしれない。

わたしは、きっと、前進しているんだ。
向かい風の中、前へ前へと進んでいるから、
前から、いろんなものが、自分にぶつかってくるんだ。

決して、背を向けて、
後退しているのに、
追い風状態に甘んじて、
自画自賛するようなことにはならないぞ。

2010年の2日目は、試練と欠点。
いい一日でした。

2009年12月30日

自分とのしがらみ

私にまかせて、
と言われると、
たいていは、ホッとします。

ああ、よかった、
と荷おろし気分になって、
何もしたくなる人。

これは助かった、
ということで、
それ以外に自分がなすべきことに、
力を注ごうとする人。

もちろん、
「これは自分でやりたいんだ!」
とまかせることを拒む人もいるでしょう。

その時々の気分で、
ちょっとは違うかもしれませんが...

昨日、うちの奥さんから
「それ、私にまかせて」と言われ、
心が晴れる気持ちを感じたときに、

ふと、わたしの重荷って

「何なんだろう?」

と考えました。

たしかに、
「まかせて」と言われて、
荷おろし気分にはなった。
けれど、何を背負っていたのか、
自分でも分からないときがあるもんですね。

そこで考えてみて、
どうやら、私の性格の場合は、
その「心の重荷」というのは、

自分が勝手につくっているもので、
だいたいにおいて、
他人と比べて、
これもやらなければいけない、
あれもしたほうがいい、
それもやろう、
と手広く増えそうになること。

現実は、
あれもこれもそれもなんて、
とてもじゃないけど
できないから、
必ず何かが中途半端になるわけです。

そして、ダメなことには、
本来やるべきことが
中途半端になり、
他人と比べて
やらなければいけないと思ったことを
焦るようにやることが、けっこう増えてしまう。

それもずーっと続けばいいのだけれど、
どこか相性が合わない、
ということも多く、途中で
あきらめちゃうこともある。

きっと、うちの奥さんは、
そういうことを解決しようとして、
言ったわけじゃないだろうけど、

「まかせて」

と言われたときに、

ポロっと、何かがはがれたような気がした。

いつもと違うように言われたわけでもない。
ただ、自分の心のなかで感じたことだろうと思う。

ポロっとはがれたものは、何だったんだろう?

きっと、何か、見えない、
自分との「しがらみ」。
誰かとのしがらみじゃない。

自分とのしがらみだから、
自分が切り離すだけで、
それは存在しなくなったのです。

また、引っ付かれないように祈るばかりだ。

2009年12月23日

ラクになる

期待することをやめれば、
ラクになります。

他人に対してはもちろん、
自分に対しても...

でも、
「もう期待しない」
といいつつ、
期待しているんですよね。

なんで、期待するんだろう?
と思うのですが、
人間というのは、もともと、
そういう期待をするように
できているのでしょう。

夢?

憧れ?

願望?

いろんなものがミックスされて、
人間の期待は、前に進もうとします。

しかし、
その期待が大きければ大きいほど、
だいたいは、うまくいかないことが何か起こる。

それは、邪魔とは限らない。

けれど、人間は、
邪魔が入ったと思ってしまうことが
多いかもしれない。

邪魔が入ったんじゃなくて、
自分の期待の「読み」が
甘かったというのが事実なんです。

それを認めることなく、
邪魔が入った、とばかり、
騒いでいては、進歩がありません。

ゲームなのです。

思い通りにいかないのがゲーム。
それを何度も目の前にして
ちょっとでも、思い通りに、
あるいは期待通りにどう変えられるか、
っていうのが、このゲームの醍醐味。

1勝9敗。

ユニクロの柳井正社長さんが、
言っていた言葉が好きです。

1勝9敗。

私たちの期待の勝率は、そんなもの。
それでも、その1勝がうれしいから、
がんばれる。

9敗で、何度も何度も、
あきらめ加減になるけれど、
その1勝のためにがんばる。

10勝という全勝の期待を捨てて、
1勝を目指せば、ラクになれます。

この生き方だな。

2009年12月21日

強い自分、弱い自分

うまくいっている時に、
それまで自分がやってきたことを
考えるのは、とても楽しいこと。

反対に、
うまくいっていない時には、
自分のやってきたことは
きっと思い出したくもないだろう。

自分のやっていることを、
楽しいと感じられるのは、
自分が強いとも思える瞬間で、

その反対に、楽しいと感じられないのは、
自分が弱いと思える瞬間でもある。

しかし、そんなふうに感じる自分から、
ちょっと離れて、自分を見てみれば、

自分なんていう存在は、
楽しいときにも、そうでないときにも、
そんなに変わっていないのだ。

変わっているのは、
強いと思っているときには、
ちょっと抵抗力が強いような気がしているだけで、

あまりにも物事がうまくいっているときには、
浮かれすぎていて、
ちょっとした嫌なことで、
弱くなったりもする。

反対に、
打たれて打たれて、
へこんでいるときには、
ちょっとした嫌な出来事も、
それまでと同類で、
そんなに動じないで済むことだって
あるかもしれない。

自分は強くも、弱くもない。
きっと、それが真実だと思います。

同じように、
自分のやっていることが、
すべてうまくいくと
運命づけられていることもないし、

すべてうまくいかないと、
運命づけられているわけでもない。

その時その時が、
新しい瞬間で、
新しいチャンスで、
強くも弱くもない自分で
ぶち当たってみて、
そこに転げ落ちてくる「現実」
という結果をまた握り締めて、
次の瞬間に、自分という存在を
試していくことがいいのでしょう。

どの瞬間にも、
自分を試せる。
これが人生の面白いところ。

今日も、がんばるべ。
本当は、

2009年12月15日

りそう主義

漢字をつかうと、
それだけで、
それが正しいかのように
思われてしまうので、
ひらがなで書きます。

理想主義じゃなく、りそう主義。
完璧主義じゃなく、かんぺき主義。

わたしは、今まで、
かんぺき主義っていうのは、
本当に、完璧なものを求めて、

けっこう努力する人のことだと
思っていました。

そして、自分にも、
それが、いくばかりか、
あるっていうふうにも思っていた。

しかし、自分が思う完璧の方向を見るに、
意外と、ムラがあるんですよ。

こっちの分野は、けっこう完璧を目指してるけど、
こっちは、かなりいい加減だと。

そして、そういういい加減なものが、
一つでもあると、
ぜんぶぜんぶが、完璧なように
見えなくなるんです。

だから、かんぺき主義なんじゃなくて、
ある部分についての理想を、
それも、自分オリジナルの、
場合によってはかなり偏った理想を、
目指しているだけなんです。

だから、りそう主義なんだ、
自分って言う人間は、ということに、
ちょっと気づいたわけです。

内心では、かなり前から気づいていたように
思うのですが、いちおう、かんぺき主義な振りを
していたほうが、自分でもがんばれるんでしょう。

でも、単なる「りそう主義」だと分かってしまえば、
それはそれで気楽で、自分のわがままな部分も
受けいれられるし、他人のわがままも
受けいれられる気がします、いくらか...

だいたい、目指しているものが、
高いからエライわけでもないでしょうし、
それに近づいたかどうかは、
内面的にいえば、神さまでない限り、
分からないことです。

偏った、りそう主義。

きっと、誰にもある部分。

そこを大切にしながら、
自分の理想にそわない部分は、
そういうこともあるんだな、
と妥協しながら、感謝しながら、
生きていけたらいいな、って思います。

2009年12月14日

忘れられる

十分にやり直しのできる年齢だから、
がんばりな、っていう言葉があります。

言っている本人は、
思いやりで言っているつもりだとは
思いますが、

「あなたは、やり直さなければいけない」

と断定しているあたりで、
ちょっとズレているかもしれない、
と思うようになりました。

そういう私は、
そんなことが、言ったことがあったかなぁ...

と思い返してみると、
幸い、ないような気がします。

ん?きっと、ない。
あったとしても、弟相手くらいかな。

逆に、言われたことは?
と考えても、心当たりがないから、
幸か不幸か、

「やり直しが必要な人間だ」

とも見られていないことなんでしょう。

おまえは、
やり直しが必要だ、
と言われたら、多分、
しゃくにさわるだろうとは思いますが、

そういうふうな応援を、
もらえないっていうのも
なんか、寂しいことかもなぁ...

ちょっと、複雑な気持ちです。

ともあれ、
やり直しだ、と心に思って、
何かをするのって、

精神衛生上良くない気が
するんです。

やり直し、
って思い続けるのは、
その過去を忘れられないし、
なおかつ、
マイナスとして覚えて、
やり直し作業をすることでしょうから。

そういうことからいけば、

「これまでのことは忘れて、
 これからのことをがんばって!」

という言葉の方がマシかな、
という気もしますが、
それにも「ちょっと待った」が出ます。

「あなたのこれまでのことは、
 忘れたほうがいいような価値しかないよ」

みたいな宣言になるでしょうからね。

相手のことを思えないのであれば、
何を言っても、難しいことかもしれない。

これからかなり頑張らなければいけない人に対して、
何かをいう時には、注意が必要、
ということなのでしょうね。

2009年11月21日

喜びすぎ、落ち込みすぎ

今喜んでいることは、
そんなにたいしたことじゃなくて、

今落ち込んでいることも、
同じように、
そんなにたいしたことじゃない。

鈍くなれ、
というわけじゃなくて、
今しか見えていない状況で
感じている気持ちは、
後々になって、
いくらでも変わる可能性があるということ。

逆にいえば、それだけ、
いろんなことが世の中では
起こるんだ。

いろんなことが起これば、
自分にとってプラスかマイナスかも、
本当は、その時点では分からないわけで、

ずーっと後になって、
プラスになることもあれば、
マイナスになることだってある。

大切なことは、きっと、
今感じている感情は、
今だけのものなんだと理解して
おけばいいんじゃないだろうか。

喜びすぎても、
落ち込みすぎてもいいけれど、
「これは、今だけ」
と割り切って、
その感情にひたることができたら、
かなり、気楽に生きられるかもしれない。

まさしく、
ギャンブルみたいなもんでしょう。

自分の感情も、ギャンブル。
そんな感覚も、悪くない。

今朝起きて、
とてもうれしいことがありました。
今から2時間前くらいのこと。

けれど、
それに関連して、
さっき30分ほど前には、
ちょっと「えー!?」と思わされる
残念なこともあった。

2時間前にあったいいことは、
消えないけれど、
それでも、気持ちの中では、
ついさっき分かったことの印象のほうが強いから、
マイナス気分になる傾向がある。

これは、今だけの感情、今だけ。
今日という一日のなかで、
まだまだ、いろんなことがあるんだろうな。

2009年11月16日

犯人さがし

人は、犯人さがしが好きだ。

自分が犯人でないことが分かっているときには、
なおさら。

そして、犯人にされるのは、
誰もが嫌うこと。

犯人にされるのが
イヤだから、ということで、
犯人さがしの現場にいないと、
犯人にされてしまうのだ。

面白いほどに、
この論理は、いろいろなときに、
当てはまる気がします。

なぜか?

一つは、それぞれが、
自分は犯人されたくないと
分かっているから、
実際に目の前にいる誰かを
犯人にすることは、

自分の心情とも照らし合わせて、
やりたくないことだから。

二つ目は、
犯人を限定するからには、
それに対する反論が
できるだけないほうがいいから。
たとえ、何一つ証拠がなくても、
反論されたくはないのだ。

となると、手っ取り早く、
都合がいいのは、
そこにいない人が
犯人にされてしまう。

しかし、その犯人は、
そんなに重いことでもなかったりする。

とりあえず、犯人が決まれば、
あとは、話が流れる、話が進んで、
それは終わったりする。

だから、犯人にされても、
たいしたことじゃないことも多い。

それを、あとで聞いて、
「私は犯人じゃない」
とか騒ぎ出すと、
かえって盛り上がってしまう。

ますます、その話題が、
その場、空間に停滞してしまい、
次に進めなくなる。

そういうことも多いような気がします。

たいしたことじゃないことの犯人にされたとしても、
どうってことない。そういう信条(心情)で
生きていないと、世の中は生きにくいもののようです。

今日、私は、何の犯人にされるだろう?

2009年11月14日

自由人でいること

だれからも振り回されず、
だれにも頼らず、
という生き方に、
人はあこがれるものですが、

同時に、孤独、
一人ぼっちというのを
怖がっているところもあります。

自由人でいる、
というのは、
そういう「一人になる」
というリスクがつきものです。

しかし、ここは考え方。

人間は、もともと、一人なんだ、と。

あるいは、
固定した友達、友人をつくろうと思うから、
一人ぼっち、という気分になるんであって、

いろんな出会いがあるなかで、
その時々の友達がいれば十分じゃないか、
という考えも。

子供のころには、
ほとんどの人が、
「仲良し」というか、
固定した友達を作りたくなる。

そこで、そこからもれれば、
一人ぼっちという印象を与えられたり、
自分がひとりぼっちになった気になる。

しかし、それは、
そういうことに理解しなければ
いいだけの話。

今は、相性のいい友達がいないだけのこと。
焦らなくていいのだ、とね。

ただね、子供のころには、
そういう見方が、なかなか出来ないもの事実。

今しか見えない。
今の友達、今の気持ち、今の関係。

自由でいるためには、
今に縛られすぎてはいけない。

そういうことかもしれません。

2009年11月 6日

全否定も、楽なこと

いろんな自己啓発本には、
自分を「肯定」することから
はじめようと書いている。

それは、
自分のことについて
他人から否定されること、
あるいは否定されていると感じること
が多いから...という理由のようです。

たしかに、
その意見には賛成だ。

しかし、時には、
自分のことを全否定してみるのも、
気楽だということを発見した。

自分のやっていることは何だ?
意味ないんじゃないか?
バカらしいこと、価値ないことをしていないか?

そういう視点で、物事を見ることは、
「自分のやっていることは大丈夫」
「自分は正しい」
と肯定しながら、狭い世界に閉じこもっていくより、
かなり広がっていく気がします。

問題は、
自分を全否定して、
自分のやることに、やる気をもてるか、
というところだろう。

それが、出来るようなのだ、人間は。

きっと、全否定をしてから
「じゃあ、次は何をしようか」
「じゃあ、これをどういう気持ちで続けようか」
「今は、何ができるか」とか
切り替えられるからでしょうね。

全否定をして
行き詰ってしまう人は、
そこにしがみつきたい気持ちが強すぎて
その切り替えが出来ないんでしょう。

全否定しても、
やれることは残っているんですよ、
人間には...

全否定を、大きなことにとらえすぎるのは、
全否定が大きな出来事であるせいじゃなくて、

その先が見えなくなるくらい、
それまでの自分にこだわるからのようです。

否定された、じゃあ、次は何をしようか。
シンプルに、それを考えたらいいんですよ。

今、出来ることがないわけがない。

こんなご時勢ですから、
仕事のやり方でも、立場でも、
いろいろと変わっていきます。

そういう中で、
それまでにやってきたことを
全否定されたような気分になったら、
そこで、行き詰る必要などないんです。

シンプルに、自問。
次は何をしようか。これだけ。

全否定も、気楽なこと。
人生に、いろんな味わいが
まだ残っていることを確かめられる。

それでいこう!

2009年11月 4日

心を見せられること

自分の心をぜんぶ、
他人に見せられる人は、

わがままと思われやすい。

なぜなら、
普通であれば、
隠すこと、口にしないことまで、
ぜんぶ見せるから、

それを見せられた方は、
それを押しつけられたように感じて、
なんて、わがままだ、となるだろう。

日本人の場合は、
特にそうだろうなぁ。

わたしも、どちらかというと、
見せてもいいという場所では、
心のなか、ぜんぶを見せてしまう。

だから、わがままと思っている人も、
少なくないだろう。

うちの娘らでいうと、
次女が、それに該当するな。

相手がどう思おうと、
自分の意見は、
だいたいのところを、
ちゃんと伝えられる。

ただ最近は、
いくらか年頃になって、
嫌われたくないという感情も働き、

遠慮して言わない、
ということもあるようだ。

それは、相手によりけりなわけで、
だいたいは、自分の思っていることを
ぜんぶ言えるというのは、

「わがまま」だと思われるに、
十分な条件のようです。

実際、保育園のころには、
「お母さん、申し訳ないけど、
 ○○さんは、わがままです」
と先生に言われた経験もある娘だ。

大人になって、
心の見せ方はいくらかは注意しないと、
「大人」じゃないことになる。

見せてもいい相手、
見せてもいい場所、
見せてもいいタイミング、
いろんなことを察して、
(考えすぎて、訳分からなくなるんじゃなくて)

ふつうに出来る大人って、
なかなかいないのが現実でしょう。

見せられていた人が、見せられなくなる。
見せていなかった人が、見せられるようになる。

生きていれば、いろんな変化もあることでしょう。

わたしは、うちの娘は、
これから、どうなるかな?

2009年10月30日

感情は、感情でしかない

悲しい思いをしている人を見て、
その悲しい思いをなくしてあげなければいけない、
と思い、

苦しい思いをしている人を見て、
その苦しみをとりのぞいてあげないとけいない、
と思い、

退屈している人を見て、
退屈させようないようにしないといけない、
と思うような人間がいるとします。

すると、
そんな人々の存在を聞いたり、
そういう人々から
「助けてもらった」ような経験を
持っている人間のなかには、

自分が今悲しんでいるのはおかしい、
自分が今苦しんでいるのは解決されて当然だ、
自分が退屈しているのはつまらないことばかりだからだ、

と自分の不平、不満を盾にして、
自分の悲しみや苦しみをとりのぞいてもらえるのを
当たり前と思う人間が出てきてもおかしくない。

現実として、存在するでしょう。

これは、思うに、
感じている思い、感情をすべて
「正しい」ととらえた場合に
起こりうることのように思います。

わたしがこう感じているのは、
わたしが不幸なのは、
私が不満なのは、

なにもかも、
正しくない、
何かが間違っている、
解決されるべきだ、
という思考ルートになっているのでしょう。

私自身が感じ始めたのは、
「感情を正義にしてはいけない」
ということ。

感情は、あくまで感情でしかない。

感情は、人生のいろいろなシーンにおいて、
いろんな味わいを感じ、
楽しむ(苦しむも含めて)ためのツールにすぎない、と。

感情をツールとして扱ってしまうことには、
かなりの抵抗がありますが、

私たちが、自分の感情や他人の感情を、
あまりにも優先するあまりに、
おかしなことに時間を注ぎすぎてしまうことがあるのは、
たしかに現実だから。

感情を、正義とか、神のような存在に、
置き換えるようなことがあってはいけない。

感情は、感情でしかない。

じゃあ、理性が偉いかといえば、
そういうわけでもない。

理性は、経験や知識を冷静にとらえられるだけ。
それらの範囲からはみ出た未知の部分については、
弱いのです。感情にも、弱点があるように...

感情と理性という2つのツールがセットで、
私たちは、ギリギリ一人前になれるのでしょうね。

もちろん、どちらも未熟すぎて、
半人前以下ということもありますが。

2009年10月29日

頭の中に、道をつくる

うまく表現ができないが、
子どもに考えさせるときに、

考える習慣ができていないな、
と感じる場面があります。

別の表現でいえば、
頭の中に、「考える道」がない、
という感じです。

こういうふうに考えれば、
もっと楽な方法が見つかるのに、

あるいは、
正解にたどり着けるはずなのに、
と思わされることが多いというわけです。

そして、それは、
どうやら、知能指数(IQ)とかに
関係あるかどうかは分からないけれど、

頭を働かせる訓練が
できていない、あるいはしてこなかった、
せいだと感じるようになりました。

もちろん、
頭を働かせるシーンもいろいろあって、
勉強する、テストの問題を解くシーンでは働いても、

家事をする、掃除をする、
というシーンでは働かないという場合もある。

人それぞれの得意、不得意ということで、
納得する方法もあるけれど、
経験の少ないシーンでは、やっぱり、
頭が働かないというわけです。

頭の中をイメージしてみれば、
雑草がぼうぼう生えていて、
そこを歩くのに、かなり手間取ってしまう、
という感じでしょう。

ただ、いかんせん、
頭の中の話だけに、
そんな中に、道をつくるとしたら、
道路工事のようにはいかない。

反対に、頭の中に出来上がってしまった道を、
壊してしまうのも、簡単ではない。
(たとえば、覚せい剤中毒になった、頭の中の道...)

何事もつくるというのは、
大変な作業です。

見えないものであれば、
なおさら、ということでしょうか。

うちの三女の頭の中に、
道をつくりたい、そう思う今日この頃。

一気に完成とはいかない。
部分的に、つくっていかないといけないな、
と気づき始めた親です。

2009年10月27日

時間をとるか、関係をとるか

わたしたちは、
いろんな選択を
いつも迫られながら、
生活をしているわけだけど、

究極のところ、
その選択って、

自分の時間を大切にするか、
誰かとの人間関係を大切にするか、

の2者択一のように思います。

もちろん、なかには、
地球を救えるかとか、
誰かの命を救えるかとか、
そんな大義のために選択をしなければいけない、
という人もいるかとは思いますが、

そういう人々のことさえ、
それを果たすことが、
自分の時間を大切にするかどうか、
を考えていることだと、
強引にくくってしまえば、

やっぱり、2者択一じゃないですか?

わたしの場合、
自分が本当に大切だと思う人が少ない(?)せいか、
ほとんどの場合に、
自分の時間の方を選択することが多いように思います。

じゃあ、このサイト、ブログは、
なんなんだ?

とツッコミをいれられるとすれば、
それですら、

自分の時間を大切にしたい、
意味のあることに使っていたいことの一部だ、

と自覚しています。

現実問題、
他人のためになっていることでも、
自分のためにやっているという自覚があると、
めげることとか、他人のせいにすることも
少なくなると思います。

一番やっかいなのは、
何ひとつ他人のためになっていないのに、
他人のためにやっていると思い込んでいるケース。

これは、自分の時間も無駄にするでしょうし、
他人との関係も悪くなっていくはずです。

もちろん、あとで、
そのことに気づけば、
自分の時間だけは
解釈の中でのみ取り戻せます。

関係は、戻せないかもしれませんが...

あなたの二者択一はどちらですか?

2009年10月22日

問題がない時は、おかしい

今この時点で、
苦しんでいること、
悩んでいることがあれば、

なんとかして、
ここから逃れたい、
解決して、
さっぱりしたい、
と思うのは、人間の常。

しかし、
問題がなくなるっていうのは、
どう考えても、おかしいことだ、
そう思うようになりました。

たしかに、すっきりはしたい。
心が軽くなりたい、
と思ってはいても、

本当に、それを手に入れて、
すっきりしたという気分になっている時、
きっと、そのときの「自分」は、
何かを忘れているんだと思います。

大げさに言えば、わたしたちは、
幸せになる方法を選ぼうとしては、
いけないと思う。

その先で、もしかしたら、
こんな問題に出会うかもしれないけれど、
その問題を選んで、本気でがんばれるかどうか、
そういう視点で、選ぶべきなのだ。

これを選べば、
絶対に幸せになれる、
すっきりする、なんて勘違いはしちゃいけない。

わたしたちは、問題を選んでいる、
そういう認識で生きていけたなら、
いろんな問題にぶち当たって、
解決していける力が身につくんじゃないかな。

幸せになる方法を選んでいるんじゃない。
あきらめずに立ち向かって、
解決するために本気になれる問題を選んでいるんだ。

だから、解決をあきらめてしまうような問題を
選んじゃいけない。

別のテーマでたとえれば、
もしも、いやなこと、不幸なことがあったとしても、
ずーっと寄り添って生きていける伴侶を、
結婚相手に選ぶべきなのだ。

この人を見ていると、
なんか幸せな気分になれる、
という理由じゃ、ちょっと弱いかもしれないな。

問題がない時なんて、おかしい。
そんなことがありえるわけがない。

この認識は、人生を生きるために、
いろんな助けを与えてくれそう...

2009年10月19日

予想どおりはありえない

何かについて予想をしている時には、
自分の予想は絶対に正しい、
と思っているもんです。

それなりの理由があって、
自分の見方には間違う可能性すらない、
みたいなことを思っています。

しかし、現実には、
半分は当たったとしても、
半分ははずれたりする。

それは、
自分の読みが甘い、というか、
自分が思う以外の要素が入り込んできて、
はずれるとか、そういうことの多さ。

自分が思っている要素なんて、
「それがすべてだ!」
といくら思い込んでも、

かなり足りないのが現実。

けれども、
いい気になって予想している時には、
そんなことは、ちっとも思わない。

いろんなことを割り引いて考えて、
やっと、自分の予想は、現実に近くなる。

もしかしたら、
その現実は、
「自分の予想通りにならない」
という現実ばかり、なんてこともあるかも。

今の自分で大丈夫だと思いたい自分、
今の自分じゃダメだろうという不安な自分。

どっちの自分も、
当たっているところがあれば、
きっと、はずれているところもある。

そういう現実を何度も知るためには、
「予想を立てない」という逃げでなく、

「何度も何度も予想を立てる」
ようにすればいいと思う。

何度も何度も予想を立てる、
そして、失敗と挫折を繰り返し、
自分のやろうとすること、
考えていることなんて、

たかが、30%くらいの正解率でしかないんだ、
くらいの「常識」をもつことが大切なんでしょう。

予想を何度も何度も立ててみる、
そして、精一杯やる。

結局、やってみないとわからないから。

2009年10月15日

落ち込まれたくない

自分が落ち込みたい時に、
相手に落ち込まれると、
どうも調子が狂う...

もしくは、
たいしたことでないことでも、
とてつもなく重要なことに感じられて、
気が重くなったりする。

「気楽に落ち込む」
というレベルで終わるはずが、

どどーんと落ち込んでしまうことになるのが、
自分ではイヤだと思っているから、

相手の落ち込んでいる姿に、
イライラしたりする。

そんなこと、ありませんか?

なんでしょうね、この感情って。

できれば、気楽に、
ちょっとの間だけ落ち込みたいんですよ。
落ち込むなら...

ところが、そうはいかない。
自分より早く、自分より深く、
落ち込まれると、

「落ち込めないじゃないか~~!!」
と怒りたくなる。

きっと、こんなことかな。

「男というものは、
 自分がヘコんでいるときに、
 身を粉にして尽くしてくれる女房の姿を
 見せつけられると、
 感謝や恩義は感じながら、
 かえって萎えるし、
 いらついたりもするんですよ。
 自分のふがいなさを突きつけられる
 ようなものだからね。」
薄暮、篠田節子)

男のプライドは、
めんどうくさいですね。

プライドが、
落ち込まなくてもいいような要素を、
落ち込んでしまう要素に変えて、

怒らなくてもいいようなことを、
怒りたくなることに変えてしまう。

できれば、私に関わる人が、
私以上に落ち込まないことを
祈るばかりです。

私の敵が落ち込むのは、
大歓迎なのですがね。(笑)

2009年10月12日

逃げられなくたい

果たさなければいけない義務、
払わなければいけないお金、
やらなければいけない仕事、
伝えなければいけない事実、
立ち向かわなければいけない問題...

いろんなものを目の前にして、
人は、実際に行動に移すかどうかは
別にして、逃げたくなるもんです。

いっしょに取り組めると思っていた仲間なり、
パートナーがいて、がんばろうと思っていた矢先に、
その人たちに逃げられそうな空気を感じた時には、

やっぱり、「逃げられたくない」と思うはずです。

問題の前に、
ポツンと一人取り残されるのは、
かなり、つらいものだと感じます。

しかしながら、
取り組もうとしている、あらゆるものに、
仲間やパートナーがいるべきだとは限りません。

お互いに依存しすぎてしまったり、
逆に、根本的に違いすぎたりして、
いっしょに進むのが難しい場合もあります。

そういうことが分かったとしても、
人は心細くなったりするものですから、
「逃げられたくない」という気持ちに
変化は出てこないかもしれません。

性格的な相性が
明らかに良くないと分かっている夫婦がいて、
妻はもう別れたいと思っている、
夫の方は「見捨てないでくれ」と言う。

「だって、無理じゃない」と妻。

「結婚したんだから、一蓮托生だ。
 そう簡単に、離婚するもんじゃない。
 それは、人の道に外れているぞ。」と正論を言う夫。

現実を話す一方と、
正論を話すもう一方という関係が
ズルズルと続いてしまうのもNGですが、

一方が「捨てられた」「逃げられた」
という感情を抱えたままピリオドを打つのは、
場合によっては、しこりが残って、
あとあと、うまくないことが起きるかもしれません。

逃げているわけじゃない、
新しいスタートラインに、お互いに立ちましょう、
ということなのよ、と納得させる作業。

現実問題、かなり、難しいでしょうが、
やるだけのことは、やるべきでしょうね。

それでも、ダメなら、話は別でしょうが。

逃げられたくない、という気持ち。
事実じゃないとしても、
心に抱いてしまったら、
すがる気持ちに変わる可能性大です。

一番いいのは、そういう関係にならないような、
相手を見極めて、いっしょになることでしょうけどね。

2009年10月11日

恐怖を与える方法

ホラー小説を
描いている作家さんは、

言葉だけで
人に恐怖を与えるわけで、

その才能は、つまるところ、
人の内面をよく知っているから
できることなんじゃないか、と思う。

恐怖ばかりでなく、
勇気とか、好奇心とか、
しがらみとか、責任感とか、

人が心を動かされて、
体も動いてしまう状況は、
いろんなパターンがありえるけれど、

やはり、恐怖ほど、
どうしようもなく、
心と体が動いてしまうものは、
ないんじゃないか、と考える。

そういう意味では、
ホラー小説家に限らず、

人に恐怖を与えて、
人を動かそうとするタイプの人間は、
似たような才能があると思って
間違いない。

ただ、それが、
娯楽向きなのと、
そうでないことの違いかな。

人の心を動かして、
自分のために何か行動をさせようと
するときに、

人は、必然的に、
自分だったら、どうされたら動いてしまうか、
ということを考えるだろう。

それは、それまでに生きた時間において、
どのように、人に動かされてきたか、による。

おどされて、恐怖を与えられて、
動かされた経験が多ければ、
きっと、他人にも、そのような方法を使う。

愛されて、励まされて、鼓舞されて、
動かされた経験が多い人は、
どちらかというと、そういうやり方が
多くなるんじゃないかな。

どちらの方法が、人を伸ばすか。
ハッキリとは比較できない。

できれば、愛されて、
伸ばされたい人が多いだろうけれど、
愛されていることに甘えて、
だらけてしまう人間もいるから、
そこらへんは難しい。

結局は、自分がどのような環境にいて、
どうされてきたか、どうされなかったか、
それだけのことかもしれない。

恐怖によって動かされてきた人は、
ちょっと残念かもしれないが、

その後の大成功すれば、
その点はチャラになるかも。

ただ、その方法を、
他の人に使ったときに、
みんなみんなが、思い通り、
自分が歩んできた成功プロセスと
同じように進んでくれるとは限らない。

その点だけは、忘れちゃいけないだろう。

恐怖は与えられたくないけれど、
思わず、それを使ってしまう。
私も、そうかもな、と自覚する。

うーん、考えなくちゃ。

2009年10月 6日

決められない弱さ

決められない人、
その隣にいる、同じように、
決められない人。

この二人は、
どうなるんだろう?

やっぱり、
決められないまま、
ずーっと続いてしまう。

話し合っても、
何も決まらない。

行動を起こしても、
すぐに迷い始める。

だから、結局、
何も進まない。

決められない人に見える「弱さ」。
そして、時おり見せる、

「そんなことはないんだぞ。
 俺は(私は)、決められるんだぞ!」

という意気込んだ姿。

でも、決断を公表したとたんに、
本当は、また迷いだしている。

間違いなく、決断できるのは、
誰の目にも明らかに、

「もうダメだろう」

ということで、何かを捨てるとき。

けれど、本当のところ、
ダメになったのは、
それまでに決めていなかったから。

決めるべき時をすべて逃し、
ダメになるまで放って置いて、
ダメになったから「決める」を繰り返していたら、

何も積み重ならないのだ。

決められない「弱さ」。

これは、かなり致命的だな、と思う。

そして、そういう人に振り回される人は、
最初は、たいへんだけれど、
決められない姿を見抜いてしまえば、
もしかしたら、自分の思うように、
決めていって、物事を進められるかもしれない。

2009年10月 5日

願いの強さ

だまされる人を見ていると、
私も含めて、

自分の願いの強さが、
関係しているように思います。

願いは強ければ強いほど、
それが叶うと、いろんな本には書いている。

ところが、現実には、
願いに執着すればするほど、
その願いの強さを利用して、
だまそうとする輩に引っ掛けられることも
少なくないものです。

願いや願望、希望、目標、夢は、
わたしたちの行動のエンジンみたいなものだけど、
それは、自分でコントロールできて初めて、
自分に、良いものをもたらしてくれる。

行け行け!ムードのなかでは、
何かを見落としてしまうことが
あるからでしょうね。

自分ひとりががんばれば、
その願いに近づけるものなら、
まだいいかもしれない。

けれど、他の人とチームになって、
がんばらなければいけないことは、
願いの強さよりも、
その願いが、チーム全体に、
ちゃんと伝わって理解されて、
一人ひとりが何をすればいいのか
見えてくることの方が大切だったりします。

ここは、自分ひとりの場合にも、
きっと共通しています。

今何をすればいいのか、
見えてこないことには、
何のアクションも始まらない。

さらにいえば、
すべきことをした後に、
ほとんどの場合は、
うまくいかない点が出てくるから、
それについて、さらに何をすればいいのか、
が見えてくること。それだと思います。

意味のある失敗を積み重ねる必要があります。

伝わっているべきこと、
考えておくべきことが、
ちゃんとハッキリしていなくて、
失敗を見てしまった、というのでは、
意味がありません。

願いの強さも大切ですが、
次の一歩が見えた方がいい。
そんなことを感じる昨今です。

2009年9月25日

そのままじゃ満足できない

新しいものを買う。

最初は面白い。
そのままでも十分に面白い。

しかし、そのうち、
もっとこうしたら、

もっと面白いかも...

もっと便利かも...

もっと助かるかも...

というような改善意識が
もたげてきます。

そして、だいたいは、
ハマってしまう。

私の昨日は、そんな1日でした。
なんでしょうね?この感覚。

きっと、向上心があって、
悪くない証拠だとは思いますが、
ふと、自分ってなにやってるんだろう?

と思わされるときがあります。

特に、他に何かやらなければいけないことが
ある時には。

でも、それがわかっていても、
目の前の、これをなんとか解決したい。

もっと、楽しめる、楽な方法とかを
考え出したい。たどり着きたい。

そんな気分になるわけです。

そのままじゃ満足できない。
現状に、ちょっとしたスパイスを加えたい、
この気分、うーん、何だろう?

人は、そんな気分があるうちは、
まだまだ若いかもしれませんね。

そのままでいい。
与えられたまま、使っていよう。
それが一番だ、と思う気持ちっていうのは、

足腰が利かなくなってきて、
あまり無理せずに、生活しよう、
みたいな感覚に似ているんじゃないでしょうか。

やりたいことが増えてくる、
ふつうの状態+αが欲しくなる、
このままじゃ満足できない。

そして、それを行動に移すと、
新たな問題が出てくる。

もし、何にもしなければ、
出てこなかったはずの問題。

それでも、そんな問題に出会うべく、
いろいろとやってしまう。

いつまでも、そんな若さを
持ちたいもんです。

2009年9月20日

終わりたくない

この恋を、この戦いを、この仕事を、
まだ終わりたくない、
という気持ちの強さは、
最後の最後に、力を与えてくれる気がします。

昨日、次女の部活動にて、
新人戦の大会がありました。

いちおう、二連覇がかかっている戦い。
本人には、そのつもりはないだろうけど、
まわりから見れば、なんとなく、
油断している感じが見受けられる。

油断という言葉が
ピッタリじゃないとすれば、
「決勝までは、とりあえず、大丈夫だろう」
という気持ち。

ところが、人生というのは、
ありがたいものです。

予期せぬところに、
試練を、つまずきの石を
置いてくれているもんです。

スムーズに勝てるはずの3回戦。

3セット先取で勝ちの試合が、
セットカウント1-2でリードされている。
なおかつ、4セット目も、3点差のリードをゆるしている。

おお、なんてこった!

これじゃあ、上の全県大会に進む切符さえ、
手に入らなくなるんじゃないか、
とあきらめを覚悟してしまいました。

ところが、娘本人は、逆に、
そこから吹っ切れたらしく、

「なんで、私は、こんなに苦しんでいるんでいるんだろう。
 緊張しているからだろうな。だったら、それをやめよう」

と考えたらしい。

緊張をやめようと思って、
やめられるだけ、まだ冷静だったんでしょう。

終わりたくないという強い気持ちと、
緊張しちゃっているんだと気づく余裕。

一見、相容れない感情に思えるのですが、
うまくコントロールできる人もいるんもんです。

私なら、できないな、と感じました。

うーん、面白い。

2009年9月 8日

成長がもったいない

わたしのパソコンには、
Googleデスクトップが入っていて、

デジカメで撮影した写真が、
パソコン画面の右側で、
いつもいつもスライドショーを
してくれています。

撮影した時期は、
三女が生まれた頃の2001年までさかのぼり、
8年も前の写真があるので、
ふと、子供たちの成長を見張ってしまう
写真が流れていることが多々です。

ああ、小さかったんだなぁ...

と思うと、もう、
その時が戻ってこないのを、
ものすごく実感してしまいます。

早く成長してもらって、
楽になりたい気持ちと、

成長するのがもったいない気持ち、
っていうのを味わうようになりました。

年をとったのかな...

それもそのはず。

長女は15歳。
私たちは結婚して16年。

1日1日を生きていれば、
子供も、私たちも、
ちゃんと成長するんですよね。

子供は、成長と呼び、
私たちは、年をとると呼ぶのが
正解かな。

わたしたちの成長は、
必須なことだけど、

なんか、子供の成長は、
もったいない気がしてきた。

もう少し、このままでいて欲しい、
という気持ちがもたげてくる。

なんでしょう、この気持ちは?

自分の時間スピードが速い、
と感じ出した証拠かな。

1日1日、いい人生を送らないと。
誰と、何をするか、っていうのが、
とても大切な気がしてきました。

2009年9月 7日

自分を出すこと

わたしも、自分のコミュニケーションが
上手だとは思わないけれど、
すこしは、ごまかすことも出来るから、
なんとかコミュニケーションになっている。

自分のことをなかなか出せない、
というタイプの一人として、すぐに
うちの長女が思い浮かびます。

この長女。
先週から、積極的に、
コミュニケーションの練習をしているようで、

練習しなければいけないことか、
と私にしてみれば思うのですが、

コミュニケーションを避けてきたり、
ごまかしてきた人間にとっては、
やっぱり、そういう練習は必要なのでしょう。

話を聞いていて、なんか納得しました。

ポイントは、「自分を出すこと」。
やっぱり、これに尽きるようで、
これが出来ない、これをしない、
コミュニケーションは、あまり意味がなく、
そのうち、ストレスばかりが増える...
そんな気がします。

自分をうまく(わがまま?)出して、
コミュニケーションをとっている
と見える人には、大きく分けて、
2タイプあるように思うのです。

タイプ1:相手にどう思われようが、一切かまわず、
 好きなことを言える人。

タイプ2:前置きでクッションをつくって、うまく言う練習をした人。

どんな前置きクッションかというと、

何か、流れを変えてしまう質問をしてしまうときには、
「いきなり、質問してもいいですか?」と尋ねたり、

「もしかしたら、バカなことを言っているかもしれないけど...」
と自分の恐れをそのまま口にしたりする方法です。

これには、いろいろな応用があると思う。

「みんなと違って、変かもしれないけど」
「空気を変えるようで、申し訳ないけど」
「変な意見かもしれないけど」
「わがままなこと言うかもしれないけど」
「今さら言うのは、遅いし、おかしいかもしれないけど」

こんな感じでしょう。

前置きのうまい人は、けっこう、上手に受け入れられたりします。

最悪、賛成はされなくても、なるほどと、聞いてもらえる。

言いたいことを言って、聞いてもらえれば、
思い通りにならなくても、コミュニケーションは、
それでうまくいったとなるはず。

思い通りにしたい、という感情が強ければ、
それは、コミュニケーションを超えた、
人間を動かす技術になってしまうから。

そこは、また別の練習。

何事も、練習を怠けてはいけないのだ。

2009年9月 6日

恥ずかしさを越えて

まわりから見れば、
とても恥ずかしいと思えることを
やっている他人を見て、
こっそり笑ってしまうことがある。

しかし、
自分だって、
まわりから見れば、
恥ずかしいと思われることを
堂々とやっていることがある。

それを自覚したときに、
人は、選ぶことになる。

笑われることだから、
やっぱり恥ずかしいし止めよう、
となるか、

笑われることだろうが、
これは大切なことだから
止めるわけにはいかない、
となるか。

人それぞれの価値観なのだ。

笑われようと、批判されようと、
大切なことは、大切なこと。

本当は、
他人の目など
関係ないこともある。

もちろん、
他人の目だけが
関係することもあるのも事実。

子供に対して、
自分の愛情を示すときに、
まわりから見れば、
恥ずかしいばかりの行動も、

子供本人にしてみれば、
嬉しいと思えること、
というのもある。

しかし、子供が成長すると、
その同じ行動が、
ただ恥ずかしいと思ってしまうものに
変わることもなくもない。

恥ずかしさというのは、
バカにされることへの予感であり、

もし、それがうらやましがられるようなことであれば、
きっと、恥ずかしさは感じられないはず。

しかし、人間は素直じゃないから、
本当はうらやましいことを、
自分にはないという理由で、
バカにし始めることだってある。

愛情を注がれている姿を見て、
うらやましいと感じながら、
バカにする、っていうのは、よくあること。

そのバカにされることを、
真に受けて、愛情を受けることを、
「恥ずかしいから止めて」と言い始める子供。

見えない愛情以外に方法はないのか。
見えない愛情に、本当に意味があるのか。

あふれるばかりの愛情、溺愛心をもつ親は、
そんなことを考えてしまうかもしれません。

2009年8月31日

失敗に気づかないふり

気づかないふり、
っていうのは、
けっこう楽しい。

失敗していても、気づかない。

呼ばれても、気づかない。

頼まれても、気づかない。

本人は、楽しいかもしれないが、
それを見ている方は、イライラするもんです。

気づかないふりを続けられるのは、
それをしても大丈夫な環境があるから、
あるいは、うまくごまかせる言葉をもっているから、
ということがあります。

言葉というのは、
そういう時には便利なものです。

「苦しいときこそ、チャンス」

たしかに、その通りかもしれない。

「昔に比べれば、少しは良くなったじゃないですか」

そういう見方も出来そう...

「あきらめた時が失敗なんですよ」

あきらめちゃいけないのか、そうか。

なんて具合に、うまく乗せられるかもしれません。

しかし、失敗を早く認めて、
やり直し、仕切りなおしをしないと、
手遅れになる場面というものも、
たしかに、存在します。

たしかに、手遅れになったとしても、
そこからのスタートはいつでも出来る。
しかし、遅れれば遅れるほど、
出直しのためのエネルギーが、

もっともっと必要になります。

すぐに準備できるくらいの余力があれば、
いいのですが、気づかないふりを
長く続けていた分、そんな余力もないくらい、
残りのエネルギーを消費していることも多いです。

知らないふりをしていると、
とんでもない「しっぺ返し」を受ける。

昨日の選挙結果では、
そんな印象を受けた次第です。

2009年8月30日

コレクター

最初は、かなり難儀をして、
手に入れていたものでも、

そのうち入手ルートが
確保できると、
簡単に、手に入るようになる。

それが、
たとえば「勝利」というようなものでも、
勝つ方法がわかれば、
最初の頃の難儀などはしないで、
勝てるようになったりもします。

もちろん、ものすごい良いライバルがいれば、
そんなふうに、簡単に「勝つ」というコレクションが
できるわけじゃない。

けれど、意外と簡単に、
「勝つ」ということを、
コレクションにし続けられるとしたら、

そこで集められてくるトロフィーとか、カップとか、
賞状とかの数々に、だんだん、重みがなくなってきそう...

そうなると、あえて、
自分に不得意な方法で
勝てるかどうか、
挑戦してみたくなる人がいるかもしれない。

柔道の選手が、
自分の体重の階級ランクより
上に挑戦するとか、
演歌歌手が、ポップス系の曲に
挑戦するとか、
平泳ぎ選手が、自由形に挑戦するとか。

そんな判断は、めったにないことだろう、
とは思うけれど、コレクションに飽きて、
そんなチャレンジをする人がいたら、
面白いなぁ、という気はします。

だから、話題になることも多い。
柔道の金メダリストが、
格闘家に転身すれば、
ニュースになる。

女子バレーボールの選手が、
ビーチバレーに転向すれば、
また話題になる。

きっと、それは、
同じものを集め続けても、
行き詰っちゃうとか、
自分でもつまらなくなるとか、
そういうことが関係あることだと思う。

もっと、別のものが欲しい。
人間には、そういう欲求が、
いつもあるんでしょうね。

2009年8月28日

変わる、というクセ

このやり方を変えようか、
変えないことにしようか。

うまくいっていない時には、
考えちゃいます。

もし、変えて、
うまくいかなかったら...

ということを考え出したら、
だいたいは、二の足を踏む。

わたしは、最近、
そこは考えないことにしている。

なんでも、そうだけど、
変わるという決心ができるのが、
一番の収穫だなぁ、と思う今日この頃。

そういうことばかり考えているから、
最近は、似たようなことを書いているかもしれない。

たいていの人が、変わろうとは思うけど、
変わり始めた頃には、だいたい不安を感じるから、
そこで止めてしまう。

で、結局、変われない。

変わったことが正解だったかどうかは、
最後の最後まで、わからないと思う。

そればかりか、結果としては、
失敗に終わるかもしれないけど、
後々の人生で、
変えるという決心をつけたことが
収穫になると信じた方がいい。

そんな気がする。

変わらなければいけないシーンは、
生きていれば、何度となく、来る。

変わるクセのついている人と、
変わるクセのついていない人とでは、

決断のスピードが、
ぜんぜん違うことだろう。

石橋を叩いて渡るのは、
悪くないけど、

石橋を叩いて
結局渡らなかったり、

その石橋を叩きすぎて、
壊してしまうようでは、
どうにもならない。

変わるクセ、身につけよう。

2009年8月25日

天才扱いしない

次女が、夏休み最後のギリギリに、
読書感想文のまとめに、
苦心していた。

読んだ本は、8分音符のプレリュード
っていうもの。

天才ピアニストと呼ばれていた透子が、
事故に遭ってから、ピアノを弾けなくなる、
というストーリー。その問題は、
解決するわけでもなさそうで、
その中で、どう生きていくか、
というリアルな話のようです。

娘の読書感想文から、ちょっと引用。
(下書きを、パソコンで書いていたので、
 コピー&ペーストは、簡単)

--本文--

才能というものについて、一人一人の感じ方は違う。
果南(透子の同級生)にとってはすごいことでも、
透子にとっては、当たり前のことだったりするから。
でも、きっと、透子にとっての当たり前だって、
最初から当たり前だったわけじゃないと思う。
透子だって、最初から天才ピアニストだったわけじゃないだろう。
果南にとってすごいと思えることは、
透子が何の努力もせずに身についたんじゃなくて、
やっぱり、透子もがんばっていくうちに、
当たり前になっていったんだと思う。
だから、そういうがんばりがあった分、
ピアノを今までのように弾けなくなったときの悲しみは、
大きかったはずだ。

悲しいとき、泣きたくなる。
でも、透子は悲しいのに、泣いてはいけなかった。
お母さんを責めていないフリをしなきゃいけなかった。
(母親の運転していた車に乗って事故ったことが、弾けない原因だから)
お母さんは、透子に期待していたから、
事故のことで十分に苦しんでいた。
だから、透子が泣けば、お母さんがさらに苦しむ。
お母さんを苦しめないように、透子は泣かないようにした。
私だったら、泣いてしまったかもしれない。
透子は強い。でも、苦しかったと思う。
悲しみを外に出せなかったから。出してはいけなかったから。
我慢すれば我慢するほど、悲しみは大きくなってしまう。
透子は何度も何度も我慢したから、
私が想像できないほどの大きな悲しみが、
透子の中で渦巻いていると思う。

友だちと親の違いってなんだろう。
親とだからできることと、友達とだからできることがある。
もし、親がいなかったら、
親にしか言えないことを誰にも言えない。
けれど、親も友達の代わりはできない。どっちも必要だ。
どっちもいてくれないと、心のバランスが崩れてしまうだろう。
だから、親も友達もいる私は幸せだ。
幸せなことが続くと当たり前になってしまう。
だから、たまに悪いことが起きるのは、
幸せなことなんだと思い出させるためなのかもしれない。

果南は、透子の友達になれていたのかなあ。
けっこう、性格とか合わなそうだったから。
けれど、考えようによっては、
いろいろな友達がいても不思議でない。
果南だけは、透子のことを天才扱いしなかった。
それがかえって、透子の心を救い、
現実に向き合うきっかけをつくってくれたと思う。
私にも、これから、いろいろな友達ができるはずだ。
合わない友達との出会いも、大切にしたいと思う。

--終わり--

引用のつもりが、大半を載せてしまった。

天才扱いしないことが、人を救う。
なんとなく、分かる気がします。

人として向き合える関係、
相手をエライとも、格下だとも思わない、
フェアな関係。そういう関係を築かないと、
どこかで、ひずみが出てくる。

わたしは、友達と、そんな関係を作れていたかな。
ちょっと、疑問だ...

エラそうだったせいか、
いつも「先生」って呼ばれるようになっていたからな。(笑)

2009年8月24日

戻りたい不安

新しいことにチャンレンジしているとき、
勢いよくスタートしたとき、
ワクワクしているとき、

最初のうちは、
だいたい、楽しく出来るもの。

これから、どうなるかな?
どんなことが起こるんだろう?
自分は、どう変われるんだろう?

そんなことを思えば、
ますます、やる気になって、
楽しく向かって行ける。

しかし、世の中、
そのワクワク感が、
ずーっと持続するようなことには
なりえない。

必ず、戻りたくなる不安が
襲ってくる。

そのような事態は、
ほぼ100%と言っていいほど、
必ず、起こる。

ああ、やっぱり、
こんなこと始めなければよかった、
あのまま、あそこにいればよかった、
変わろうなんて思わなければよかった...

たしかに、
その時点で感じている不安は、
事実として起こっていること。

けれども、たとえ、
その先で、やっぱり、うまくいかなくても、
「変わろう」と思った瞬間があって、
それを実行したという行動には、
とても大きな意味があると思う。

変えようとすることのすべてが、
ぜんぶぜんぶ、うまくいくとは限らない。

10変えようとしたら、
そのうち1しかうまくいかない、
っていうこともあっておかしくない。

それでもいいじゃないか。

変わらなければいけない時期は、
必ず、やってくる。

そういうときに、変わることを躊躇して、
時間がかかりすぎて、
変わるタイミングを逃すよりも、

変わることが当たり前になって、
失敗することも覚悟のうえで、
変わるという習慣が身についているほうが、
よっぽどいい、と思う。

「変わる」のは、成功させるためだけじゃない。
「変わる」習慣を身につけるため。

こういう考え方もあっていい、
そんな気がしました。

2009年8月18日

悪者役

悪者役を進んで演じていた人でも、

ふとした「きっかけ」で、
いい人役を演じさせてもらったり、

自分以上に、
キビシイ悪者役が登場すると、

悪者としての存在感が薄れてしまう気持ちを
感じながらも、なんとなく、

いいなぁ...と感じるに違いない。

やはり、「いい人」に思われるのを、
嫌な気がする人はいないはずだ。

だから、悪者役としての仕事がなくなると、
とたんに、いい人役を研究し始めたりもするもの。

人間誰しも、人に悪く思われたいわけじゃない。
少なくとも、良く思われたい相手には、
良く思われたいものなのだ。

悪者役を引き受けるのは、
自分が言いたいことを言って、
悪く思われるなら、
それはそれでしょうがない、
とあきらめているか、

ここは、誰かが悪者役にならないと、
グループが、チームが役に立たない、
思うような方向に進まない、
という危機感を感じてがんばる人だけだろう。

キャラとして、
わたしは、どうあがいても、
「いい人」役が回ってくるタイプじゃない。

いい意味でも、悪い意味でも、
キレる人っていう役はあっても、
いい人には、ほど遠い。

となれば、時には、
悪者役が舞い込んでくる。

しょうがないと思っている。
と同時に、悪者役を演じるのが、
けっこう好きになっていたりする。

やっぱり、演じなれたものは、
気楽で、自分の力を存分に引き出せるもの。

悪者役が、その場のために引き出して、
見せられる力は何か。

ひとことで言えば、
「これじゃ、いけない!やられてしまう。」
ということじゃないだろうか。

部下にとっても、子供にとっても、
そういう存在が必要だと思うことが多々あります。

2009年8月15日

ザ・コンプレックス

自分への評価が、
かなり低くて、
自分にコンプレックスを
感じる人がいる。

まわりの評価は、
けっこう高くても、ね。

それは、いろんなケースが
あるだろうけど、ひとつは、

ある一人の人からの評価だけが
気になりすぎて、その人からの
評価が悪いから、

自分はダメだと
思っている場合が多い。

どうしても、ほかの人、
もっと多くの、広い見地からの
評価に目を向けられないでいる。

もちろん、コンプレックスがあって、
それを克服しようとがんばる気持ちに
切り替えられているうちは、
そのコンプレックスも、まんざら悪い、
とばかりは言えない。

けれど、何にもがんばる気持ちに
なれないくらい、コンプレックスが
強いとなると、ちょっとかわいそう。

あの人は、ちょっとがんばれば、
うまくいくでしょ、
と他人のことばかりが
良く見えてしまう。

まわりから見れば、
そういうことが出来るのは、
あなたも同じレベルでしょ、と言われても、
本人は受け入れられなくなっている。

コンプレックスを植え込める「権威」のある人も
すごいが、もっといい自分に気づかずに、
コンプレックスに埋もれて、
ダメな方の自分を思い込めてしまう人もすごい。

そんな人の口からは、

「あの人は、すごいです。
 あの人の家もすごいから、
 すごすぎて、私はかなわない」

みたいな、大げさな言葉ばかりが出てくる。

ちょっと、この人、
自分は十分な力があるのに、
ふざけて言っているんじゃないの、
と思って眺めていても、
どうやら、本気で言っている様子だったりする。

「うちは白旗です。
 あの人には、どこへでも
 羽ばたいていって欲しい」

なんてことも言ったりする。

そこまで来ると、ははぁ~、
この人は、ライバルの存在だけを
意識しすぎて、自分にコンプレックスを
感じているんだな、と分かってくる。

さらに聞いていると、

「でも、あの人は、
 ○○の方が全然ダメなんですよ。
 それに、嘘つきで、性格も悪いし...」

なんて言葉も、引き出されたり...

つまるところ、ライバル心、競争心、虚栄心に、
打ちのめされてしまって、
強烈なコンプレックスを感じちゃっている。

そういうこともあるんですね。

The コンプレックス。
打ちのめされないよう、
気をつけないといけないな。

2009年8月14日

いっぱい時間があるぞ

時間が欲しい、
時間がない、
と騒いでいながら、

さあ、休みだぞ、
いっぱい時間があるから、
思う存分、やりたいことをやろう、

と自分に言い聞かせて、
手始めにやることは、
意外とたいしたことじゃない。

そんなことを、
改めて自覚している、
このお盆休みです。

本を読む暇がなくなって、
本を読もうと思っていた私は、

本を開く時間を、
それほどとるわけでもなく、

思い立ってやっていることといえば、
地上デジタルのチューナーを買って、
こんなことが出来るかな、
これをやったらどうなるかな、
こんなのはどうだ!?
よし、あれを買ってきてやってみよう、

なんてことを試している。

ハマっている。

ハマってしまえば、
時間が経つのは、
とてつもなく早い。

こんなことをするための休みじゃなかったはずだが、
と思いながら、ひとつ落ち着くと、
今度は、ボーっとしているうちに、
また、別のハマることを考えていたりする。

そこで思った結論。
人間っていうのは、
自分のやりたいことが
わかっていない、と。

本音の部分で、
やりたいことがわかっていないことが、
多いんだなぁ、という感じです。

わたしが、本を読みたい、
と思っていた気持ちは、

実は、最近読む時間が減ったから、
読まなくちゃいけない、
みたいな感じだったんでしょう。

自分のやりたいことが分かっていないのが人間。
今日の私は、放っておいたら、
何をするか、分かったもんじゃない。

2009年8月13日

言いたいこと

言いたいことを、
心に浮かんだとおりの言葉を使って
言うことはダメだっていう時は多い。

言いっぱなしで終わりたいのなら、
それはそれでいいのだけれど、

そうじゃなくて、
何かを動かしたい、
何かを変えたいっていう時には、
そんな方法は使えない。

だからと言って、
だまっているのは、
あまり良くない。

1つは、
だまっているこっちの精神衛生上の理由で、

もう1つは、
こっちがどういう人間か、
本当のことを知らせていないことで、
ふさわしい関係が結べるとは思えないからだ。

自分は、
こんなふうに考える人間なんだよ、
こんなふうなことを言う人間なんだよ、
どんなカタチであれ、
それを伝えたほうがいい。

そして、できれば、
相手が落ち着いて、
受け入れられる言い方で、
というのが条件になる。

落ち着いて
受け入れてもらえれば、
それが、相手の驚きをいくらか
伴うものだったとしても、

その先で前進する可能性がある。

落ち着いて聞かせることが
できない言い方をしてしまったとなると、
あまり進展は期待できない。

常日頃、考えのまとまらない人だとすれば、
それは、なおさらです。

言いたいことを言う方法を工夫する。

言いたいことなのに、
それを工夫するなんて
なんか矛盾する話ですが、

自分の「言いたいこと」で
本当に何かを変えたいと思っているのなら、
そういうことで、頭に汗をかくのは必要です。

2009年8月 7日

したくはなくてもする後悔

忘れたいと思っていたことでも、
やっぱり、ふとしたことで
思い出してしまう。

そして、したくはなくても
後悔の思いがもたげてくる。

後悔したあとに、
これからはこうしよう、
とちょっと思ったくらいで
終わればいいのだけれど、

ああ、あの時こうしていればよかった、
と考え始めれば、もうキリがない。

一生に一度しかないことだと
思えるようなことであれば、なおさら。

自分に感じてしまう責任が重いと、
どうしても、ほかに、その責任がないか、
と考えてしまう。

あるいは、どうしようもなかった理由が
見つからないか、とか。

どうしようもなかった理由が、
見つかれば、なんとなく心は救われる。
その時だけは...

けれど、心は、
本当のことを知っている。

やっぱり、あれは、自分の責任だったと。

後悔したとたんに、
時間がそこに舞い戻って、
そこで止まってしまう。

時間を送り込んでいたつもりが、
そこに、また戻ってしまうというのは、

そこが、自分のアキレス腱だったり
するからでしょうね。

しょうがない、
もっと大きな後悔をするようなことに
チャレンジした方がいいかもしれない。

今後悔しているようなレベルじゃなく、
もし、失敗したら、とてつもなく、
後悔するようなことにチャレンジだ。

それって何だろう?

そんなことを考える自分は、
後悔から離れて、正常になれる気がします。

もっと後悔するかもしれないチャレンジって、
果たして、何だろう?

今日も、がんばるべ。

2009年8月 1日

考える自由

別に、どうってことはないのだが、
それを考えられているだけで、
イライラしてくることってあるもんだ。typhoon

いや、どうってことがない、
とは限らないな。

たとえば、
自分のことでなく、
浮気相手のことばかり
考えている、
それに浮かれているように見えたら、
やっぱり、イライラしてもおかしくない。toilet

むしろ、その権利がある、
と言った方がいいくらいだ。

「私は君の考え方には反対だ。
だが君がそう考える自由はあくまで守る」
(ヴォルテール)

こんな見方で、
他人の考えていることを
ゆるせる人がいて欲しいと願うのですが、
果たして、自分はどうだろうか、
となると、自信がありません。paper

わたしが何を考えようと自由なんだから、
認めて欲しいと思いながら、

心のどこかで、
他人には、それを認められない。
人間は、わがままですね。

そして、無理に変えようとする。

すると、衝突がある。bomb

佐々木直彦さんのこんな言葉が、
いつも、心に思い浮かびます。

「問題点を突きつけられたが、
 同時に夢も持てた」
と思ってもらうようにするのが、
これからのトレンドである。

人は、自分のなかに
「変わらなくてもいい素晴らしい部分」
があると気づいたとき、
安心して変化を受け入れる

(コンサルティング能力、佐々木直彦)

自分と相手に、自由を認める。
それが本当の幸せだと分かっていながら、
なかなか、むずかしい。

わたしも、勉強中です。

2009年7月31日

コレクション

へぇ~、そんなに好きなんだ。
で、そのコレクション、いくつ持っているの?

と尋ねたときに、

1個だけ。

と返されたら、

え?coldsweats02

と思ってしまうかもしれない。

コレクションというからには、
もっと持っているだろうこと、
かなり好きなんだから、
それだけ集める気持ちがあるんだろう、
と予想してしまうのだが、
そうじゃない人もいる。

きっと、それは、
コレクションと自分の中では
呼びたいだけで、

どこか、ハマりきれない、
不安というか、逃げ腰というか、
傍観者っぽいところがあるんだろうなぁ。rain

他人に、自分の思いの方向性を見せる、
というのは、なかなか、難しいもんです。

コレクションとかじゃなくても、
自分ではそう思っていても、
そうは思われない態度というものがあるんでしょう。

一生懸命に働いています、
この仕事が好きです、
あなたが好きです、
旅行に行くのを楽しみにしてます、

どんな気持ちであっても、
それを他人に見せるっていうのは、
その他人のモノサシっていうのがあるから、
それにそぐわなければ、
どうしようもない。

誰に見せたいか、
誰に分かってもらいたい思いか、
そこが決まっていないと、

それこそ、八方美人といわれるものに
なっちゃうんでしょうね。

自分が自分でなんだか分からない。wobbly

2009年7月29日

明日からの生活

目の前で、胸をたたく彼。

どうした?

と声をかけると、

明日からの生活をどうしていこうか、と思って...

という返答。

重すぎる言葉に、
心が、グラっときた。

そんな重みを予想していなかっただけに、
ちょっとしたショックを感じたのだろう。

次にかける言葉が出てこない。

今なら、何かを言えるかもしれない。
けれど、何も言わなくてよかった、
とも思っている。

人それぞれが出くわす場面には、
他人には分からない感情がある。

プラス思考でも、
リラックスでも、
他人の言葉ですぐに切り替わるものなら、
それはそれでいい。

しかし、人によっては、
なかなか、そこまで変われない心もある。

真剣に考える心。
次を考える余裕なく今にとどまってしまう心。
そして、そうならざるを得ない現状が目の前にあること。

他人の苦しみは、分からない。

かける言葉も見つけられない。

その状況を、心のなかで、
自分なりに、自分に都合のいいように
考えようとする自分もいるけれど、

そんなことも、あまり意味がない。

「明日からの生活」、
そんな追い詰められた状況を、
自分だって、経験するかもしれない。

遊牧民族だったころの人間が、
農耕民族になって、ひとつところに安住を始めてから、
生活というものは、「ひとつところ」にいられることが
当たり前のように思わされてきたところもある。

しかし、今の時代は、そうじゃないんだろう。
もう一度、遊牧民族へ逆戻り、みたいな感じがする。
そう思えば、少しは気楽だが、それだって、
自分が気づいて自覚したことでなければ、
どうにもならない。

2009年7月27日

付き合い

つりあいのとれていない人同士が、
付き合っている様子を見るときに、

見ているこっちが、
勝手に心苦しくなるときがある。

いろんな経験をして、
深みをもっている人間と、
いつも誰かに頼ったり、
誰かのせいばかりにしている人間と、

頼っている側は、
自分たちは「仲良しだ」「うまくいっている」
というけれど、どう見ても、

合わせてもらっているとしか
見えないのだ。

しかし、それを知らない本人は幸せ。

もちろん、深みのある人間の方は、
相手に合わせながらも、
その関係を楽しんでいる、
好きでいることは否定できない。

人の相性なんて、
お互いに、人間ができているから、
ピッタリなんてことはないのだ。

勘違いでも、
バランスが崩れていても、
なぜか、うまくいく関係というものがある。

人の付き合いに、
他人がつべこべ言う資格はない。

アンバランスなカップル、
不釣り合いな友人関係を見て、
そんなことを思いながら、
自分の人間関係を考えたりします。

言葉をぶつけあう関係、
感情をぶつけあう関係、
いろんな関係があるなかで、
人は、自分にあった関係を見つけていく。

うまくいかない関係を経験したって、
いいじゃないか。それはそれで、
次の関係を考えるときに、
学びとなるんだからね。

2009年7月21日

カラダにない弱点

生活をしていて、痛みを感じたり、
くすぐったさを感じたりするところって、
自分のカラダの弱点だけれど、

そんなカラダの弱点を
攻められるよりも、
自分にとって大切な人ととか、
気になる人との関係性を
攻められる方が大きな弱点だ、
っていう人は、けっこう多いと思う。

知らず知らずのうちに、
そんな身内、家族、友人がいる。

親であれば、ふつうは、
子供なんだろうけど、
子供が一人でなく、
2人でも、3人でもいれば、
そのなかには、
自分にとっての「アキレス腱」と
呼べるような子供がいて、

その子供が感じていること、
悩んでいること、行き詰っていることが、
親の心をふりまわしてしまう。

自分のカラダにない弱点は、つらい。

自分で直したり、カバーしたりできない。
だからこそ、敏感になってしまう。

そこに関係する、嫌なことが起こりそうになると、
苦しくはなるけれど、自分のことでないから、
どうしようも出来ない。

相手のそういう弱点に気づいた人は、
直接、相手を攻めるよりも、
そういう関係性を壊すようにした方が
賢いかもしれないですね。

そんな器用なことは出来ないけど、
わたしの場合は、逆に、
そういう弱点を攻められてしまいそうだ。

ある意味、そこの関係性に依存している、
ということなんでしょうね。

弱点を見つめるって、
なかなか苦しいもんです。

2009年7月20日

経験100回

本気で成功させたいことは、
その本番がくるまでに

何度も何度も練習したり、
イメージ・トレーニングをするだろう。

たとえ、その本番が、
5分くらいで終わるものだとしても、
納得のできる状態になるまでには、
その100倍以上の時間を
かけたりする人もいるはず。

しかし、練習100回に比べれば、
本番の経験100回のほうが重い。

本番で培うものは、
練習で育まれるものとは、
やっぱり違うからね。

本番の緊張感は、
また格別。

ただ、たとえば、
本番が1年に1回しかないものだと、
その本番を100回経験することなんて
死ぬまでやったとしても、
ほとんどの人には無理なわけで、

そんな程度の回数しかない本番には、
どうしたらいいのか、と考えてしまう。

何か、それに匹敵するようなシチュエーションを作って、
立ち向かっていかなければ、どうにもならないだろうなぁ...

1年に1回ということに、
集中力を切らさずに、
力を準備していくことは、
なかなか、大変だ。

一方、毎日何度も、
厳しい判断を迫られるような本番が
ある状況っていうのは、
経験の数ではうらやましいが、
四六時中ある緊張感っていうのも、
また大変だろうなぁ、と想像できる。

経験100回を1年で出来る環境、
経験100回を100年かけなければ出来ない環境。

どっちもどっちだ。
人それぞれの人生、試練だろうな。

2009年7月16日

手書きをしてみる思い

年賀状でも、
会社からの郵便物の発送などにも、

相手の名前とか、住所を、
手書きする機会が減ってきた気がします。

そこで、あえて、手書きをしてみると、
ちょっと分かってくることがあります。

その人の名前と、住所をていねいに書いてみると、
自分のなかにある、その人への思いが
ハッキリと分かってくるのです。

あいまいなものだったものが、
けっこうよく見えてくる。

面倒くさいと思えば、
それまでの思いということ。

ていねいに書こうと思えば、
まだ、相手への敬意とか、愛情が、
ちゃんと残っている証拠。

次は、出すのは止めようか、
やっぱり、パソコン印刷にしようか、
なんて考えながら書くということは、
思いに集中できていない表れ。

あえて手書きにしてみると、
そういうことが分かってくる。

きっと、住所を書くことも、
そうなんでしょうけど、
相手の名前を書くことが、
一番なにかを表しているように思う。

さらに、自分の名前とかを書くときに、
どんな思いで書いているか、
っていうのも、文字の状態に表れている。

自分の名前は、書き慣れていて、
思わず、ベラベラと書きなぐることもできれば、

相手に、自分という人間を伝えるために、
相手の名前と同様に、ていねいに書くこともできる。

ただ思うのは、手書きをするのは、
1度に10枚くらいが限度かな、っていうこと。

それ以上は、心が追いつかない。
書きなれていない人にとっては...

10枚でも、20枚でも、100枚でも、
心を変えることなく、
手書きが出来る人は、
ある意味、すごいなぁ、って思います。

なんか、無駄だなぁ、って考えるクセの方が、
強いからね、私の場合は。

2009年7月12日

妄想だと分かって楽しむ

信じれば救われる、
っていうのを、

ウソだと分かっていて、
信じてみるという楽しみに
使うことがあります。

だって、
信じている時間、
妄想している時間、
いろいろと期待している時間、
ってけっこう楽しいじゃないですか。

それが、
本当は叶わないこと、
ウソだと分かっていても、
心底ワクワクできちゃう。

ゲームとかに、
ワクワクするのと同じだと思うんです。
ある意味、心の中だけのゲーム、
想像の世界だけのゲームみたいな...

だから、
妄想癖のある人は、
けっこう幸せかもしれない。

お金を使わずして、
頭の中だけで、
いろんなゲームを楽しめる、
みたいな感じで...

年をとると、
妄想の範囲が限定されて、
妄想が妄想のレベルでなく、
現実に近いレベルに落ちてしまって、
けっこうつまらないかもしれない。

その代わり、
被害妄想だけは、
どんどんふくらんだりして。

それじゃあ、つまらないだろうなぁ、
って思います。

何歳になっても、
妄想を楽しめるような人生。
そういう心の自由さ、
持ち続けることができたら、
ちょっとお得かもしれない。

そんな気がしています。

2009年7月10日

命と向き合うまで

もしかしたら、
これで自分の人生は終わりかも、
っていう瞬間を、

想像だけだったら、
私も何度か経験がある。

昨日も、大雨の中、
高速道路を運転しているときに、
そんなことを考えていた。

ワイパーでふいてもふいても、
視界が悪くてね...
たしかに、怖かったです。

ただ、本当に、
そんだけ危なかったか、
といわれれれば、
ちょっと自信がない。

自信がない、
というのも変だが、

「おれは、あの時に、
 本当に死ぬかもしれなかったんだ」

って言葉を自信をもって言われるのも、
なんだか付き合いきれないなぁとも
思えるから、自信がないのは、
それはそれでいい。

たとえば、
命と向き合う瞬間になっても、

恨み続けたい相手がいるなら、
それはホンモノだろうし、

あきらめきれないことがあるのなら、
それもホンモノだろうから、

そういうことに、
今、命に向き合っていないときでも、
付き合っていたいなって思う。

今私の嫌いな人は誰だろう、
っていえば、なんとなく顔は思い浮かぶけれど、
命と向き合った瞬間にさえ
恨みたいかといえば、そういうわけでもなさそうだ。

となると、逆に、
命と向き合ったときにこそ、
離れたくない人間関係とか、
手放したくない仕事があることになるかな?

うーん、あいまいだ。

やっぱり、まだ向き合っていないからだな。

人は、本当に
向き合わなければいけない時まで、
手探り状態なんだろうなぁ。

2009年7月 1日

ふっと切れる

狭い世界で
一生懸命に張っていたプライドが、

その世界から
ちょこっと出ると、
プライドを張っていたことなんかにはならず、

そんなものは捨てても大丈夫だよ、
っていう具合に、気を楽にしてもらえることがある。

え?

っていうくらい
簡単に、自分のプライドを捨てられる、
というか、気にしなくて済む瞬間があるもんなのだ。

それもそのはず。
狭い世界のプライドは、
ほとんどの人に知られていないから、

そのプライドを捨てたことを
心に恥じたい気持ちがあったとしても、
なんの意味もなさない。

たとえば、ものすごく有名になったシンガーが、
だんだん暇になって、地方巡業に出るというのは、
プライドを捨てなければ、出来ないことだと思う。

けれども、
ローカルでしか有名になったことがなく、
いちおう、全国区で有名になることを目指して、
がんばっていたけれど、挫折してしまい、

どこか知らない地で、
何か別のことをやり始めたとしても、
だれにも知られていないから、
気が楽なのだ。

恥ずかしがる必要も何もない。

プライドなんて、ひとつの世界を飛び出て、
別の世界に移ってしまえば、何のことはない。

野球選手が、その世界を飛び出て、
プロレスラーになっていったりするのも、
同じことだろうなぁ。

実際、ジャイアント馬場は、
そうだったろうから。

狭い世界で守っていたプライドを脱ぎ捨てて、
新しい世界へ、身一つで飛び込む。
人生は、そういうことがあっても、
悪くないと思います。

やってみれば、ふっと切れることでしょう。

2009年6月27日

日常のハッピーエンド

映画でも、本でも、テレビでも、
ストーリーは何かしら、
区切りよくというか、
ケジメっぽいのがあって、

ハッキリそれと分かる
ハッピーエンドで終わるものを、
私たちは見慣れているように思います。

しかし、その慣れと同じくらい、
現実には、そんなにハッキリとした
ハッピーエンドなんか、めったにない、
っていうことも知っていて、
それにも、けっこう慣れています。

二人はやっと出会うことができて、
それからはずーっと幸せに暮らしましたとさ、
なんてことは、まずない。

やっと出会うことができて、
ハッピーな気分を満喫した後は、
新しい苦難、問題がやってくる。

そして、四苦八苦しながら、
乗り越えようとする。

うまくいくときもあれば、
うまくいかないで、
その問題とずーっと向き合って、
すごさなければいけないことも多い。
どちらかというと、
ハッピーな気分を感じるよりも、
そういう重荷を背負っている時間のほうが
長いのかもしれない。

で、そんなときに、
ちょっと見つける、ささやかな幸福感が、
日常のハッピーエンドだろうなぁ、
って思うのです。

実際には、
そのハッピーなまま終わるんじゃないから、
ハッピーエンドなんかじゃなくて、

ハッピー、そしてエンド。
苦難、問題、苦難、問題、ちょっとハッピー、またエンド。
さらに、苦難、問題、苦難、問題、ちょっとハッピー、そしてエンド。

そんなハッピーエンドなのです、きっと死ぬまで。

苦難や問題を感じる暇がなければ、
ハッピーを感じる暇も生まれない。

なかなか、いい人生だと思います。

2009年6月20日

勝つために

熱ーくなることは、
けっこう得意です。

ちょっとしたことで、
カッカすることはしょっちゅう。

思い入れが強ければ強いほど、
かなり熱くなってしまう。

娘らの夏の総体が、
今日から始まります。

思い入れはやはり強いので、
カッカしちゃうだろうなぁ、
という予想を、自分に立てている。

最後だから、なおさら。

しかし、しかしだ。
熱くなるだけでは、
残念ながら、勝負には勝てない。

勝負には、
敵がいることだから、
敵の作戦や動きを「冷静に」
見れたりしないと、
自分たちのミスが目立つようになる。

熱くなりながらも、
冷静さを失わない。

それがベストだけれど、
なかなか、できない。

やっぱり、キャラっていうものが
あるからねぇ。

うーん、今日の娘たちの大会。
どうなるかなぁ...

勝ってもらいたいけれど、
勝ってくれたら嬉しいけれど、
勝負事には負けもありうる。

そういうことも分かって、
勝負に挑めることが
冷静さっていうものなんでしょうね。

絶対に勝つぞ!、
っていう気持ちも大切だけど、

絶対に勝つぞ!
っていう心理で埋め尽くされたときには、
何か忘れてしまっていることもあるだろうから。

がんばれ!がんばれ!
親にできることは、応援だけだ。

2009年6月 7日

めんどくさいのはどっちだ?

知らず知らずのうちに、
自分もよく使っているかもしれない言葉の1つ。

面倒くさい、

めんどくさい、

めんどくせえ。

自分では、なんとも思っていないで、
使っているけれど、他人が使っているのを見て、

ああ、こいつには、
そんなこという資格ないよな。
めんどくさいのはどっちだ!?
おまえに付き合うこっちこそ、
めんどくさいよ。

なんて思ったりすることがある。

そして、そこで初めて、自分自身についても知る。

使う権利も、資格もないのに、
何気なく使っている言葉って、
かなり多いだろうなぁと。

実際のところ、
自分に合っていようが合っていまいが、
言葉などに使う権利も、資格も、
存在はしないから、

まわりからどう思われようと、
いくら言われようが、
気にしなければ、どうでもいいこと。

自分のありのままの「バカらしさ」
を知ってもらうために、
好き勝手に使い続けるか、
ちょっとは遠慮することにするか、
考えさせられるところです。

そんなことを考えるのも、
めんどくさいけどね。

2009年6月 6日

ゆがみ

一丁の豆腐を地面に落とせば、
きっと崩れて、散ってしまう。

卵は、割れてしまう。

缶ジュースは、
地面と当たったところだけが、
たぶん、ゆがむだろう。

粘土であれば、
当たったところを中心に、
カタチが崩れるはずだ。

人間の手から離れて、
捨てられるもの、
放り投げられるもの、
何かにぶつかったものは、
ゆがんでしまうことが多い。

それは、人間が見捨てられたときにも、
同じだろうと思う。

見捨てられた人間は、
どこかに、ゆがみを持っている気がする。

それは、見捨てられたから、
ゆがみが出来た場合もあるし、
ゆがみがあったから、
見捨てられたという場合もあるだろう。

いずれにしろ、ゆがみが
あるんじゃないだろうか。

一度ゆがんでしまった人間を、
立ち直らせるのは、けっこう、
大変だと思う。

親に見捨てられた子どもがいるとして、
誰かが、親の代わりになって、
教え、励まそうとした場合に、

その親に代わるくらいの根気がなければ、
そのゆがみなど、治せないだろうと思う。

ちょっとの間、声をかけたり、
励ましたり、付き合ってあげたくらいで、
それを治せるなんて期待するのは、
傲慢かもしれない。

親の代わりになって、
そんなことができると思うこと自体に、
勘違いがある。

もちろん、もしかしたら、
出来るかもしれない。

けれど、見捨てられた者のゆがみだ。
まわりからの援助も必要だろうが、
結局のところ、本人も、そのゆがみを
自覚して、治そうと思わない限り、
ある意味、大人にならない限り、
無理なんじゃないかと考える。

きっと、見捨てられる者のゆがみは、
ほとんどの人の心に、
ちょっとはあると思う。
ない人なんて、少ないだろう。

それが目立つものか、
そうでもなく隠せるものか。
その違い...

自分にしても、他人のものにしても、
ゆがみというのは、困難な課題だなぁと感じる今日この頃。

2009年6月 4日

体、性格、頭がギリギリ

いつもいつも、
薬を飲むことが必要な人、
習慣となっている人の中には、

だんだんと、
なんで飲み続けなくちゃ
いけないんだろう、
と思っちゃう人もいるでしょう。

うちの次女は、
ぜんそくの持病があって、
朝と晩の薬を毎日飲んでいたのですが、

もう、大丈夫だろう、
という気持ちがあったことと、
なんか、本当に、この薬は効果あるのか、
という面倒くささから、朝だけ薬を飲んでいる
という最近でした。

ところが、数日前から、
朝起きて、ちょっとセキをするようになり、
やっぱり、飲まないといけない体なんだなぁ、
と家族みんなで、再認識。

それだけ、薬があって、
なんとなかっているギリギリの体だということが
分かりました。

ギリギリといえば、
うちの長女は、性格がギリギリです。
すぐに、いっぱいいっぱいになって、
いろんなことを抱え込んでしまう。

さらに、ギリギリといえば、
うちの三女は、頭がギリギリです。
小学3年生の授業は、
割り算に進んでいっているのですが、
まだ、時計や時間のことがよく分かっていない。

三人娘、それぞれのギリギリを抱えている。
体がギリギリ、
性格がギリギリ、
頭がギリギリ...

セキの出てきた次女を前にして、
家族みんなで、そんな話題でしゃべっていて、

もし、選べるとしたら、
どのギリギリがいいか、
って尋ねてみました。

うーん、みんな、一斉に考え込んでしまう。
頭がギリギリの三女でさえも、
苦笑いしながら、考えている姿。

ギリギリであるだけに、
余裕がないこと。

余裕がないと、
ちょっとしたことで困ったことになる。

実際問題、どのギリギリも容易でないな、
という気がして、わたしも選ぶに選べませんでした。

娘らにあるということは、
このわたしにも、何らかの形で、
そのギリギリが備わっているわけで、

なんとか、今日も、
ギリギリ生きていこうと思っています。

2009年6月 1日

見る目がない

自分のことをいい人だと表現するためには、
いろんな言葉が使われるもんです。

人を信じやすくて...
おせっかいで...
傷つきやすくて...
自分が悪いと反省することが多くて...
なんでもしてあげちゃうところがあって...
人から利用されることが多くて...

もちろん、本心から、
そう思って、そう言っている人も
いるでしょうが、

どう見ても、それが
パフォーマンスのための言葉にしか
思えない人もいたりします。

その一つが、
「人を見る目がなくて...」

ただ、この言葉だけは、
ぐるぐるとスパイラルにハマってしまう
意味合いがあると思うんです。

人を見る目がない、
というその目は、
他人を見る目だけに限定できるか、
ということです。

人を見る目がない、
というからには、
「自分」という人を見る目もない、
ことにならないか。

そうだとしたら、
そういう人を見る目がない人が、
他人についてであれ、
自分についてであれ、
何か言っていることは、
どれも当たっていない、
間違っている、ズレている可能性がある、
ということになります。

考えてみれば、たしかに、
そういうことになるんですよね。

自分のことすら正しく見れていない目で、
他人のことを見て、あれこれ判断したり、
行動を起こしたところで、失敗がないわけがない。

じゃあ、自分のことを正しく見れている目が、
この世にいくらあるだろうか、と考えれば、
そんなに多く、ありそうでもない。

みんな、なんらかの意味で、
人を見る目がないのです、きっと。

だから、人を見る目がない、
っていう言葉を自分について言うことは、
何の謙遜にもならないし、
何の言い訳にもならない。

見る目がなくても、
失敗しながら突き進まなくてはいけない、
人生なのですから。

2009年5月30日

うん、と言わせる

あまり話を聞いていない上の空状態で、
簡単に「うん」という知人がいる。

うん、うん、うん、うん、
その人の「うん」は、いつも簡単だ。

けれど、思わぬところで、
簡単に「うん」と言わないときもある。

なん、なんだ?

と不思議に思うのだが、
どうやら、よく観察してみると、

物事の簡単さ、難しさ、というよりも、

そこに関わる人々の心の簡単さ、難しさを
考慮して、返事をしているようなのだ。

あまり、人の心に関係ないことには、
すぐにでも、うん、うん、と言う。

自分の主張やこだわりは、
あまりないらしい。
(まわりにしてみれば、
 物事が進めやすくて、
 とても助かることだろう)

もちろん、安易に「うん」と言ってしまい、
あとあとになってから、
人の心に関係する事柄が出てきて、
ちょっと、あわてふためくこともあるようだが...

そこで思う。
簡単に「うん」という人が、
一度、うんと言わなかったことを
「うん」と言わせるのは、
意外と難しかったりするんじゃないか、と。

簡単に、うんと言うときには、
あんまり考えていないからであって、

そういう考え慣れていない人が、
よーく考えたり、考えすぎて、
うんと言えなくなっているということは、
ますます、その「うん」と言えない状況が
続くだろうと予想されるからだ。

うん、と言わせるいろんな技術が欲しい。
そんなことを思ったりします。
詐欺師のワザか?

2009年5月25日

逃げているつもりは...

逃げているつもりはないけれど、
逃げているときがあります。

「最終的には、本人の判断だから」

「うちは、自由にさせているから」

「どうする? やる? やらない?」

こんなことを、
間違っても、2歳児については、
言わないと思う。

じゃあ、10歳児についてはどうだろう?

18歳の子どもは?

25歳の部下は?

33歳の部下にはどうか?

相手が何歳かどうかは、
関係ないときもあるかもしれない。

関係する物事によっては、
自分の責任の大きさによっては、

「判断を任せること」「自由にさせること」
で逃げるんじゃなくて、

こういう場面では、やっぱり、
自分がちゃんと判断しなくちゃいけない。
逃げたり、ごまかしたりしちゃいけない、
っていう時があると思います。

人のなかには、なんとなく、
自分が手を下さなくても、
自分の思い通りに「こと」が進むんじゃないか、
という期待がが淡くあるように思います。

その淡い期待に、
心が魅せられてしまうと、

きっと...

まだまだ...

そのうちに...

という感情が出てきて、
判断が遅れてしまう。

選ぶこと、決断することから、
逃げてはいけない。

もっと大胆にいえば、
間違った判断をすること、
選択のミスをすることを
恐れてはいけない。

必ず、そういうことはありえるのだ。

間違った判断、選択のミスより怖いのは、
判断や選択をしないで舞い込んできたラッキーに
踊らされて、学ぶべきことを学べない時かもしれない。

2009年5月22日

問題はなくならない

分かっているつもりだけれど、
どこかで、

「問題がすべて消える」

っていうことを期待している自分が
いるんだよなぁ。

そんなことはないはずなのに、
たとえ、今ある問題がすべて消えたとしても、

その問題のないレベルの基準が、
ぐーんと下がってしまって、

今まで問題にしていなかったことを、
次は問題に感じるかもしれない。

そういう「気になること」があることさえ、
ゆるせないみたいな感じに...

いずれにしろ、問題はなくならない。

そういうことを、
もっと大きな視野で考えれば、
日本という国にある問題も、
世界という、地球ということに関係のある問題も、
なくなるわけがないんだ。

それは、人間そのものが、
そもそも、不完全に生まれて、
問題を抱えているから。

その問題を抱えている生き物が、
かかわりあって、存在する社会に、
問題が起こらないわけがない。

人間が生きている限り、
いつも、どこかで問題があるんだ。

そう開き直って、
問題を一つずつ起こすことと、
問題を一つずつ乗り越えていくこと、
そのものが、生きる目的だ、
と思えれば、ちょっと気楽。

...でも、ないか。

やっぱり、問題はないに越したことはない。

うーん、葛藤です。

2009年5月18日

守るために、責めなくていい

どうなっているんでしょうか?

こんなふうにしてはいかがでしょうか?

こちらはやってみましたか?

自分が、ちょっとあくせくしている時には、
何気ない、そんな質問にも、
自分が責められているような気がしてしまう。

私も、そうです。

相手は、単純に、知りたいという気持ちだけで、
尋ねているのに、こちらが責められていると
勝手に思い込み、逆に、責めるような口調になることも
しばしば...

相手には、
自分という人間のレベルが、
簡単に知られてしまうな、
といつも苦笑いです。

自分を守りたいがために、
思わず、相手を責めてしまう。

なんでしょうね、これって。

一種の被害妄想?

そうかもしれない。

本当は、自分自身が一番、
自分がうまくやれていないことを知っている。

だから、相手に、責めるような思いがなくても、
ふれてほしくない部分の話題が出るだけで、

責められた気がしてしまうというわけだ。

もっと、広い心をもたなくちゃ
いけないなぁ、と思う。

自分を守るために、
相手を責める必要はないんだ、と。

戦争でもあるまいし、
仮に、自分が責められたとしても、

こっちが白旗をあげれば、
それ以上、責めない人もいる。

もちろん、反論すれば、
とことん、責めてくる人もいる。

でも、みんながみんな、
そうじゃない。

ビジネス社会にある、
勝ち負けという価値判断に慣れてしまうと、
そんなふうになるのかもしれない。

味方と敵に、あらゆる人を分ける必要もない。

勝ちと負けだけで、語れないこともある。

人を見たら、守るか、攻めるかの二者択一でもない。

もっと、ゆったりと生きなきゃいけないなぁ。
人生、そんな時間ばかりじゃないのだから。

2009年5月13日

気づかない

他人の感情の動き、
特に、浮き沈みの激しさに、
敏感に気づく人、反応する人、
っていうのは、

おそらく、自分自身も、
そういう浮き沈みが激しい人かもしれない。

わたしがそうだから、
きっと、そうなのだろう。(笑)

最近、そういうことを自覚した。
かなり遅いけれど...ね。

浮き沈みに注目しちゃう、
ということは、ある意味、
それによって自分の気分を、
占っているところがあるからだろう。

たとえば、
自分が注目している人の気分や、体調、調子が、
自分の人生や生活の良し悪しを占う感じ。

それを、無意識にやっている。

自分に、自信がないからだろうな。
自分の力だけで、なんとか、
自分の人生を切り開いていく気になれていない。

もちろん、一人でなんか、
生きているわけじゃないけれど、

他人の「調子」に、
自分の心の浮き沈みを
支配させてしまっているところがあるから、
自分の自信なんてことを考えることは、
ますます少なくなるわけです。

そして、注目している人の
浮き沈みに、ますます敏感になる。
まるで、人生には、それしかない、
かのように。

もしかしたら、その注目する相手は、
子どもだったり、恋人だったり、
友だちだったり、家族だったり、
いろいろあるかもしれないけど、

そこから抜け出すには、
その人の調子うんぬんと関わりなく、
自分でがんばれることに、
しっかりと心も力も注ぐことに
慣れなくちゃいけない。

けっこう、たいへんだけどね。

どうしても、気づいちゃうから。
敏感に、その相手の調子が...

アンテナ感度は、抜群によくなっているだろうから。

気づかないでいる、っていうのも大変です。

2009年5月 5日

言葉を集める

何か、心に悶々としていたり、
悩んでいたり、考えが前に進まないときには、
心のなかに、言葉が散らばっているイメージだと思います。

思っていること、
考えていることが、
うまくまとまらずに、
心のここかしこに、
バラバラと散らばっている。

心の中の自分は、
その中をウロチョロしていて、
その時々出会う自分の感情の言葉に、

うなずいてみたり、
苦しくなってみたり、
さらに悩んでみたり、
ちょっと楽になったり、
パーッと目の前が開けたり...

心の中を歩いているだけで、
いろんな旅をしている。

しかし、
その言葉をぜんぶ並べたり、
集めたりして、整えないことには、
前に進めないこともありうる。

言葉を集めることは、
とても大切なことだ。

自分の言葉であっても、
集めないと、
それは、自分の中で
ちゃんと立っていけない。

次に進むきっかけにもならない。

たとえば、

がんばるぞ!

っていう言葉が、
心の中のどこかに転がっていて、
それに出会って、

よし、がんばるぞ

と思ったとしても、
次にフラフラと心の中を歩いていれば、

そんなにうまくはいかないよ、

なんて言葉に出会ったりする。

何も集めなければ、
その言葉にまた左右されて、
意気消沈...

しかし、
「そんなにうまくはいかないよ」
っていう言葉も含めて、すべてを集めて、

うまくいかない理由とか、
がんばれる理由とかも、
ちゃんと組み立てて、

最後に、
がんばるぞ
っていう言葉を上に立たせられる、
スッキリした状態になれば、

本気になって、
がんばれる。

心の中だけでは、
そんなふうには集められないから、
紙に書いたりすることが、
そんな集める作業を助けてくれるかもしれない。

もちろん、心の中だけで、
そういうことが出来る人も
いるだろうけどね。

マインドマップなんていうものも、
そういうことの一つなんだろうと思います。

2009年5月 3日

自分の落ちる穴

してやったり!

辞書には、

「思った通りに運んだときの達成感を表したり、
 人をだませたときや人に秘密で進めていたことを成し遂げたとき、
 人から無理と思われていることをやり遂げたときなどに使われる。」

とあります。

わたしの思いの中では、
「人をだませたとき」
というのが、ちょっとポイントに感じます。

うまくだませた!

そんな浮かれた気分で、
人をだました人を見ていると、
そのうち、自分で掘った穴に落ちるぞ、
と思ったりするわけです。

いわゆる、墓穴を掘る、ということですな。

だまされた方が賢明であるときには、
だまされた振りをしながら、
その掘られた墓穴へと追い込んでいくことでしょう。

だました方が浮かれていればいるほど、
だまされた側は、次のチャンスをうまい具合に
お膳立てすることができます。

そもそも、人をだまして、
浮かれているなんて、
まったくもって、おかしな話なんですから。

人をだます、という行為そのものに、
すでに、墓穴が隠れています。
それを忘れちゃいけない。

そこを見抜ける人間になりたいものです。

そうすれば、
人をだますなんて愚かなことも考えず、
人にだまされてもうろたえることがないでしょう。

2009年5月 1日

失敗への道

人間関係において、
失敗への道は、
ちゃんと決まっている。

それは、たぶん、
何かを守るために、
自分か相手のどちらが正しいか、
という見方、もしくは議論を始めた時だと思う。

守るものが何もなければ、
自分が正しいか正しくないか、
なんて、どうでもいい話になる。

正しいか正しくないかの違いで、
自分の評判が変わったり、
自分の立場や地位が変わったり、
自分の手元から出すお金の金額が変わったり、
そんなことがあると、

どうしても、正しいことを
結論づけなくてはいけないことになる。

そこに固執すると、
失敗が待っている。

相手も、固執する人間である場合は、
なおさらだ。

幸いにも、相手が固執せずに、
道をゆずってくれるような人であれば、
失敗を見ることなく、終わるかもしれない。

ただ、それは、見なかっただけの話で、
次に出会う人までが、
そのように、道をゆずってくれる人とは
限らないから、問題は残っていることになる。

人間関係を守りたいか、
自分の立場を守りたいか。

人は、何を守りたいかによって、
違った人生を歩む。
これは本当でしょうね。

2009年4月28日

運命づける

これをしたら、
絶対にいいことある、とか。

あれが起こったら、
きっと悪いことが起こる、とか。

ここに出てきた「しこり」は、
たぶん、ガンだ、とか。

人間は、運命づけることが
好きなんだと思う。

自分の妄想で、
楽しんだり、悲しんだり、
恐れたりしていて、

それが実際に起こるのを
待っているまでの時間が、
ちょっとしたスリル。

だから、自分ではいくら、
マイナスの方向に運命づけようと、

「あなたの運命は、救いようがない」

なんてことは言われたくはない。

マイナスに思っていても、
何か、プラスに思える兆しを探して、

プラスに運命づけたい気持ちは、
残っているんだと思う。

けれど、マイナスに運命づけるクセが
つきすぎてしまっていると、
そこから逃れるのに、自分で苦労する。

どんないい兆しがあっても、

「でも」

と必ず思っちゃう。

そういう人といっしょにいると、
気が滅入らされてしまうことが多いだろう。

私だったら、出来る限り、
そういう人から距離を置いてしまうだろうなぁ。

きっと、その人と同じで、
マイナスの方向に運命づけるクセを
自分の中にもあることを知っているからでしょう。

運命は、フリーで考えたいもんです。

2009年4月26日

「最後」に学ぶこと

もうこれが最後だと思えば、
それまではいい加減だった人でも、
とたんに、真剣になることもあります。

勝負の世界であれば、
当たり前に勝てている状態になれると、

いつもの通りの感覚で大丈夫だ、
と思い込んで立ち向かい、
「最後」に真剣になった人から
痛い目に遭わされたりします。

最後とは、怖いものだ、
とつくづく思います。

反対に、最後だし、
もう終わりだから、
どうでもいいや、
という態度になる人もいます。

もったいないところでもありますが、
それも事実。

自分一人だけが「最後」ならいいのですが、
チームや集団で向かえる最後のときに、

メンバーの中に、
真剣になる人たちと、
いい加減になる人たち、
どちらが多いか。

それは、最後の瞬間が、
どう終わるかに、
とても大きな影響をもつことになります。

いっしょに最後を戦うのは、
真剣な人であって欲しい。

それは、結婚というゴールを考えるときに、
近い気もします。

恋愛ならば、
ちょっといい加減な人でも、
とりあえず付き合ってもいい、
となるかもしれないけれど、

結婚は、そうはいかない。

結婚に限らず、
いろいろな「最後」がありますけれど、
なめたらいけませんね。

2009年4月22日

引き出せないもの

自分の引き出し、
っていうのは、
やっぱり限られている。

ということが、
引き出せば引き出すほど、
ハッキリ分かってくる。

そうだとしても、
仕事柄、引き出さなければいけない人は、

「こんなものでも、大丈夫かな?」

なんて思いながら、
今までの自分の流れでは、
出てこないものを出してみたりする。

運よく、

「おお、君は、こんなものも引き出せるのか?」

とサプライズとなることもあれば、

「おいおい、君に、そんなことは求めていないよ。
 今までの路線で、ちゃんとしたものを出してよ。」

という場合もあるだろうね。

ちょっとした思いつきで、
引き出したものが受け入れられることは、
めったにない気がします。

それでも、引き出さないと、
相手に迷惑がかかるから、
仕事の締め切りがあるから、
自分の体裁があるから...
みたいな感じで、無理やり引き出す。

自分の引き出しで勝負してきた人が、
引き出すものがなくなったときには、
焦るだろうなぁ、苦しいだろうなぁ。

そういう私も、かなりの頻度で、
引き出しのギリギリ感を味わう日々です。
なんとか、引き出しを増やさないと。

2009年4月21日

思い込みであって欲しい

「それは、あなたの思い込みですよ。」

と即答してくるわりに、
思い込みでない証拠の方が、
多すぎる。

その証拠を見せられて、
ちょっとは、ひるむ様子を見せるのですが、
あくまで、「思い込み」ですよ、と言い放つ。

「だったら、思い込みだった、
 ということを証明するような行動を
 これから示してください。
 わたしにしても、思い込みだったんだ、
 と思いたいくらいですから。」

人の悪事というか、
人の不純な動機を突き止めるのは、
あまりいい役柄とは言えません。

しかし、
当の本人が、バレていないと思って、
相変わらず堂々としている姿を見ると、

バレている証拠を見せないでは
いられないのです。

その代わり、これからは、
その行動を変えるという「逃げ道」、
チャンスだけは用意しておいてあげるわけです。

それでも、悪事、不純な動機の行動をやめなければ、
もう、どうしようもありません。

人は、根本的に悪いもんじゃない、
そう信じたいと思っています。

わたし自身が「悪役」を引き受けることが多いので、
そう願っています。

だからこそ、チャンスが残されているなら、
そのチャンスを活かしてもらいたい。

チャンスを活かさず、
愚かなことを繰り返す人は、
ホントに、どうしようもない。

賢い人間であれ、そう願います。

2009年4月 6日

言い直す

「つまり、考えるのが
 面倒くさいってことだろ?」

だからー、
自分の知っている言葉でしか
理解したり、表現できない、
ってことだよ。

と何度説明しても、

「考えるのが、
 面倒くさいってことだろ?」

としか言わないのは、
わたしの母親です。

どう考えても、
うちの母親の方が、
考えるのを面倒くさがって、

自分の頭のなかにある言葉でしか、
事態を説明したり、理解することが出来ない感じ。

コミュニケーションとは、
難しいものです。

難しい相手ほど、
限られたコミュニケーション方法しか
受け付けてくれない。

じゃあ、この方法がダメだったら、
この言葉がダメだったら、

これを使おう、という選択肢もないのです。

そんな相手との間に
残されたコミュニケーションは何か。

すっぱりあきらめる。

これしかありません。

分かってもらおうとしない。

そうそう、その通り。

と答えて、誤解させたままに限る。

ただ、この方法には、
大きな弊害があるんです。

その誤解したまま、
言いふらしたり、

誤解したまま、
後になって、その情報を引き出すときに、
新たなミスが上塗りされたりしてしまう。

コミュニケーションは、
他者との交流でしか
研ぎ澄まされることがない。

そうなると、
一人暮らしのご老人で、
人としゃべらない、
本も読まないなんてことになると、

ますます、独り言に近いコミュニケーションをとってしまう。

うーん、そうなる前に、
うちの母親、なんとかなってくれるかなぁ...

なんだかんだ言って、
63歳だもんなぁ。

2009年3月28日

一瞬で考えること

人は、何かの兆しを見て、
一瞬でいろんなことを考えられる、
という才能をもっていると思う。

好きな人のちょっとした言葉で、
もう私のことを嫌いになったんじゃないか、とか。

今朝は、夢にまで出てきたが、
雪道のドライブしていて、
車とすれちがう瞬間に、
ここでぶつかってしまったら、
私はこうなって、子供たちもこんなケガをして、
車の修理代は、こんくらいかかって、
なんかと考えたりもする。

何かの順番待ちをするために、
並ぼうとしている時には、
その目的地は、まだまだ先なのに、
同じ方向に進むすべての人が、
行列をこしらえる人のように見えて、
一人勝手に、競争心を抱いていたりする。

ホントに、人の頭っていうのは、
働くときには、おかしな方向に、
どんどん働けるものだ。

肝心なときには、
うんとも、すんとも
動かなかったりするのになぁ。

文章を書くにしたって、
スラスラと余計な言葉が出てくるわりに、
肝心のいい言葉が出てこないことも
少なくない。

ところが、そう思っていた矢先に、
ちょっとしたきっかけで、
あっという間に、頭の中で
文章が完成してしまうこともある。

もちろん、一瞬で考えたことが正しくて、
ながーい時間をかけて考えたことが
間違いとは限らない。

その逆も、しかり。

いずれにしろ、私のように、
せっかちな人は、何事も、
一瞬で考えられたら、
どんなに幸せだろうか...

なんて、あこがれるばかりである。

2009年3月26日

自分の中の異常感情

○○フェチっていう言葉が
流行ってからしばらく経ちますが、

自分でもおかしいな、あるいは面白いな、
って思える、突き出た感情は、
誰しも持っていると思います。

あることが、
むしょうに好きだったり、
考えただけでドキドキしたり...

それが、神様から与えられた感情か、
自分の性質上の感情かは分かりませんが、

人生に刺激を与えるものとしては、
面白いものを持っているなぁ、って思います。

あと、知らずに持っているものとして、
すごーく追い詰められたときに、どうなるか、
ストレスが積もり積もったときに、どう考えるか、
自分の悪事を見つけられたとき、どう行動するか。

そういうものは、普段は見えないから、
その時の思いや行動の「異常さ」っていうのは、
自分自身も分からない。

けれど、事件を起こした犯人の状況などを聞いて、
もしも、自分が、そんな状況に置かれたら、
どうするんだろう?

なんて考えたら、自分の中にありながら、
奥に隠れて見えなくなっている感情に、
ちょっと怖いな、っていう気がしてきます。

自分だって、同じような、似たようなことを
してしまう弱さをもっている人間だと気づかされます。

もちろん、それを実際にするかどうかは、
紙一重のところかもしれませんが、
ハッキリと違うのは当たり前でして、

たとえば、浮気にしたって、
異性に対して「いいなぁ」と思う感情を、
ちょっとした魔が差して、実際に行動に移すか、
移さないかでは、やっぱり、違うと思うんです。

何か変な感情を、
私たちは、きっと持っている。

あとは、それをどう処理しているか。
処理しきれていないか。

一番いいのは、笑えるような感情に
すりかえられる能力があればいいでしょうね。

殴りつけたくなったら、
ものすごいオンチな大声で歌えるとか...

2009年3月23日

いいあきらめ

あきらめきれないと、
苦しむことが多い。

けれど、
楽になるために、
なんでもかんでもあきらめる、
っていうのが、いいとも限らない。

あきらめるか、
あきらめないか、
そこのところの判断を
どっちに落とすか...

迷うもんです。

あきらめようとした瞬間に、
なにか可能性がうっすらと見えてきたりすると、

あ、やっぱり、
あきらめない方がいいかな、

と思って、あきらめの判断を翻す。

そして、再スタート。

でも、やっぱり、うまくいかない。

ああ、やっぱり、
あの時、あきらめておけばよかったんだぁ...

みたいなことになる。

下手すると、その繰り返しを何度もやっていて、
あきらめていた時間は、
5分だけとか、1時間だけとか、1日だけとか、
という場合もあるだろうなぁ。

そういう人がいても、おかしくない。

人はみな、いいあきらめを見つけたほうがいい。
そして、新しいスタートを、その度にしていく。

そうじゃなきゃ、人は、進んだことにならない。
生きたことにもならない。そんな気がします。

2009年3月22日

やさしくなれない

つくづく、自分って、
やさしくなれない人間だなぁ、
って思います。

休日、家族みんなで、
お出かけから帰って来て、
家で休んでいる。

妻が、玄関からの声を聞きつけ、
居間から出て行く。

どうやら、塾とか家庭教師の勧誘らしい...

と思って、応対している妻に、

「いえいえ、違います。
 こういうテストを主催している会社です。」

という返答。

そういえば、私も、以前、
応対した記憶がある。

近所には、中学生のいる家が多くはないから、
きっと、名簿などを入手して、
ちゃんと目指してきているのだろう。

妻の「けっこうです」と答える声。

それでも、何かしら話し続けようとする男性。

「もういいから、ドアを閉めろ!」

と思わず言ってしまう私。

お出かけ帰りの疲れのせいか、
そもそもの冷たい性格のせいか、
ちょっと、自分について考えてしまう。

自分だって、
営業みたいな仕事をやってきた経験がある。
冷たくされることほど、心に堪えることはない。

そりゃあ、何度も何度も断られれば、
慣れてはくるけれど、たとえば、
1日の始まりとか、昼食後の1回目とかには、
断られたら、やっぱり、ショックを感じる。

期待しないわけにもいかない仕事だから、なおさら。

営業マンの気持ちになれば、
もっとやさしくなれればいいのだろうけれど、

私の代わりに、かなりやさしい妻が応対することで、
何かしら、つけ込まれるような被害感覚(妄想?)も手伝って、
思わず、冷たくなる。

CMでも、広告でも、足でも、口でも、
何かしらの営業がなければ、
新しいものを伝える術はない。

それをする人々は、勇気のある方たち。
冷たい私だけれど、内心では、
とっても尊敬しているのかもしれない。

私には出来ないことを、
よくやっているなぁ...

とんでもない商品の営業をしている人なんかを見ると、
なおさら、ホントに、そう思ってしまう。

2009年3月18日

ちょっと苦しくなった時

そこまで苦しんで
がんばらなくてもいいんじゃないか?

と自問してしまうのであれば、
そのことは、そんなに
がんばりたいことじゃないかもしれない。

あるいは、
自分の力を過信していて、
そこまでがんばらなくても
うまくいくはずだった、
と思っていたかもしれない。

ちょっと苦しいなぁ、
と感じ始めるときには、
イヤになって投げ出すことも、

もう少しと思ってチャンスにすることも
出来る。

毎日毎日、誰しもが、
ちょっとイヤになることに
出くわしていると思います。

たいていの人は、
もうちょっと、がんばろう、
という気持ちをもてる訓練ができていて、
がんばり続けられるんだけれど、

そういう訓練が足りなくて、
逃げてしまう人、
投げ出してしまう人、
それによって他人に迷惑をかけてしまう人も、
少なくない。

人生のポイントは、
とっても苦しい時じゃないんですよね。

とっても苦しい時には、
そこまで積み重ねてきた力で
乗り切るか、乗り切れるかしかない。

しかし、ちょっと苦しい時には、
どうするかで、力が積み重なったり、
何にも蓄えられないことになってしまう。

人生のポイントは、
ちょっと苦しくなった時。
これだと思います。

2009年3月11日

勝手な、裏切られ感

この人なら、私に、
こんなふうなことをしてくれるはずだ、
と勝手な期待を思いこみ、

それが、そのとおりにならなかった時には、
勝手な、裏切られ感をいだいていたりする。

期待することの多い人間は、
いつも、そんな感情に、
心を揺り動かされているかもしれない。

付き合いが長いから、
そんなふうに期待しているとは限らない。

初対面の人に、
道をゆずってもらえるだろう、
とか。

妄想癖のある人になると、
隣でおいしいものを食べている見ず知らずの人が、
自分にも分けてくれるんじゃないか、とか。

クラスや職場の中で
それまで話したことがなかったけれど、
落し物をしたときに拾ってくれて、
もしかして、自分を好きなんじゃないか、とか。

勝手な思い込みは、
それを止めてくれる理由が見つかるまで、
どこまでエスカレートしていく。

そして、ある日。
現実を知らされる。

この人は、そういう人じゃなかったんだ、
そういうわけではなかったんだ、と。

ああ、裏切られた...

現実を知って、
「そうだよな、そんなわけないよな」
と考えられる人ならいい。

しかし、裏切られ感が、
相手の知らぬ間に、嫉妬とかジェラシーを
ともなった復讐心を芽生えさせているとなると、
事は、大きくなってしまう。

勝手な裏切られ感に、
「それは間違っています」
と言い聞かせる人がいても、
きっと、効果はない。

免疫がつかないといけないんだよねぇ。
どうしても、期待を思い込んでしまうから...

私にも、それに似た、淡い期待感あるな。
一種の逃避癖?(笑)

2009年3月 2日

調子のわるい時

調子のわるい時にはどうするか?

無理にでも、何かするようにして、
それをしている間に、
調子を取り戻そうとするタイプ。

特に無理しないで、休む。
調子が出てきそうで、
やる気が湧きそうになったら、
何かを始めるタイプ。

あるいは、他にやりたいことがあったら、
そっちの方に手をつけるタイプ。

いろんな人がいるでしょうし、
これが一番利くとも言えない気がする。

調子がわるい、というのは、
本人が自覚しないと、

調子が悪くても
気にならないという事実もあります。

反対に、調子なんか悪くなくても、
本人が調子が悪いと思ってしまえば、
「やる気」も失せてくる。

そこで生まれた気分は、
それがいい気分であれ、
悪い気分であれ、暴走する可能性があります。

自分では止められない。

暴走といっても、
暴れるとかでなくて、

その感情がそのままずーっと、
行き過ぎてしまうこと。

それを止めようと意識しすぎてしまうと、
なおさら、暴走してしまう。

だから、一番いいのは、
調子悪いか、調子いいかを考える暇を与えないよう、
のめりこめる「やること」を決めておくこと。

ある意味、スイッチを入れて、
その暴走ルートから外れる感じ。

これは、私も実践だな。

2009年3月 1日

断食パワー

タモリの「笑っていいとも」では、
EXILEのボーカルATSUSHIが、

とんねるずの「みなさんのおかげでした」では、
美川憲一が、

断食をしている、という話をしていた。

もちろん、彼らの場合は、
宗教的な断食ではなく、
どちらかというと、
胃腸を休めて、カラダの毒素を出す、
というような意味合いで、
断食をしているようで、

そのやり方も、
まったく何も食べない、
ということでなく、

固形食物は食べず、
水分や野菜ジュースは飲む、
なんていうやり方らしい。

だから、
3日間とか、5日間とか、
やれちゃったりする。

「やれちゃったり」なんて、
簡単に書いてしまったが、
実際、食べ過ぎることに慣れている私たちは、

食べないことをスタートするのが、
最初は、苦しいもんです。

私も、水分オンリーで、
たしか、4日間の断食をしたことがあったなぁ。

若かりし頃で、何か、願掛けでもするかのように、
ちょっと思いつめた断食だったせいもあって、
けっこう苦しかったことを覚えている。

どのような方法で行う断食であれ、
目的とやり方を間違ってはいけないな、
と思います。

そして、その目的にあった断食を行うのであれば、
たしかに、カラダのパワーを取り戻したりするためにも、
効果があるのは、事実です。

不景気だ、不景気だ、
といいながらも、やっぱり、
日本人は、まだ飽食の時代だからね。

正しい断食をして、
食べることの意味とか、生きることの意味を考えて、
食べることをリセットしてみるのは、いいことですよ。

2009年2月28日

返ってくること

やりっぱなしに出来ること、
っていうのは気楽。

何をしても、
何をやらなくても、
そのまま放っておけばいいことは、
その結果を見なくて済むからね。

でも、だいたいのことは、
何かが返ってくる。

言葉として返ってきたり、
相手の態度として返ってきたり、
やっぱり、後々の結果として返ってきたり...

たとえ、返ってきても、
それに気づかずに、
それを見たり、聞いたりしないでいられたら、
それもまた、気楽。

けれど、だいたいのことは、
返ってくる。

返ってくると、それを気にしなくちゃならない。
本人が気にしなくても、
それに気づくよう、あるいは、
それに気を留めるように言われることも少なくない。

仕事が増えるんだよね。

放っておけば、何もしなくてもいいものを、
気に留め始めれば、やることが増える。

そのために、何かを考える。
考えて、やることを決めて、実際にやる。

そして、また返ってくるから、
また考えて、決めて、...のくり返し。

人生は、そんなもんなんだと分かっているけど、
それが永遠に続くかのように感じると、
ウンザリしたりする人もいるはず。

キャッチボールなんですよね。
返ってきたものを、また返して、
さらに返ってくるものを受け止めて、
もう1回返して...

相手がいようが、
自分だけの問題であろうが、
返ってくるものは返ってくる。

イヤなんだけど、
しょうがないですね。

2009年2月23日

なんか不利だなぁ

少しでも、有利な立場になりたい。
ふつうであれば、誰もが思うこと。

自分からわざわざ、
不利な立場を望む人なんて、
そんなにいないもんだ。

しかし、
そういう心とは裏腹に、
有利な立場になると、

とたんに、いろんなことが崩れてしまう人がいる。

私もその一人かな。
油断をしたり、
失うことが怖くなって動けなくなったり、
あわてすぎたり...

そんな人が、逆に不利な立場になると、
シャキっとしてきて、
自分の能力を引き出して、
ちゃんとがんばれるようになる。

不利なことが分かっているから、
どうにかして、全能力を引き出して
がんばらなくちゃいけない、
と脳が集中をしてくれるからだ。

有利になると、
そういうこととは別のことに
頭が集中してしまう。

相手は強いんじゃないか、
この先はいいことないんじゃないか、
自分の今の気持ちは大丈夫か、
ほかの人はどう思っているか。

そんな余計なことばかりに、
頭が使われて、同じ思いが巡るばかり。

「悲運に耐えるより、
 幸運に耐えるためにこそ、
 大きな能力が要る。」
 (運と気まぐれに支配される人たち、ラ・ロシュフコー)

そういうことなんだと思います。

不利な立場に追いやられたときこそ、チャンスだよ。

2009年2月21日

スッキリをあきらめる

スッキリしたくて、
不安や悩みを相談してくる人。

相談されたら、
少しでも力になりたいと思って、
話を聞きながら、
いろいろと考えたりもする。

助言やアドバイスも
求めてくるから、
真剣に言葉を探して、
言ったりもする。

相手は、ふむふむ、とうなずいている。

「ああ、俺も、いいこと言うなぁ...」

と思いながら、これで一件落着と思っていると、
まもなくして、また、同じような不安や悩みを抱えて、
その人がやってくる。

またか?

と思いながらも、やっぱり、
力になってあげたいと思って、
話を聞いてあげて、助言と励ましを与える。

そして、また...

その人は、スッキリしたいと思い、
話を聞かされたこっちも、
スッキリさせてあげたいと思っても、

当の本人の個性として、
スッキリできない性格だと
あきらめるしかないこともありそうだ、
と、最近になって発見した。

そういう人にとって一番いいのは、

「不安や悩みの解決にこだわるよりも
 不安や悩みに付き合う練習をした方がいいかもしれない。

 スッキリして生きようとするよりも
 スッキリしないで生きていく術を見つけた方が楽かもしれない。」

そんなふうに思った。

何からでも、悩みや不安を作ることができる人には、
解決とか、スッキリというのは、もともと無理な話なのだ。

間違いなく、そういう人種がいる。

スッキリすることなんて、
あきらめたほうがいい。

それにこだわることによって、
また、悩みが増えるに決まっているからだ。

あなたは、違いますか?

2009年2月17日

心の貯金

お金が貯金できるように、
人との信頼関係も貯められる。

自分の苦しみも、
きっと貯められる。

貯めたものは、
あとになって使うことができたり、
生かすことができる。

自分ばかりが
なんでこんなに苦しむのか、
と考える人は少なくないと思うけれど、

そんな苦しみの貯金が増えれば増えるほど、
いつか、たっぷり使えるときがくる。

そう思えたら、
貯めるのは楽しみかな。

子供が苦しんでいる姿を見て、
すぐに手を出したくなるときにも、

「これは、この子の貯金なんだ」

と心を鬼にして、
だまって眺めていることも
大切なんだな、って感じる。

このだまって眺めることが、
今度は、親の貯金になると思うんだな。

貯めるっていうのは、
だいたいが地道なこと。

それを使うときにはいつも、
華々しい。だから、
そういう日が来るのを楽しみにして、
じっくり貯め込むんです。

心の貯金、みんな、がんばるべ。

2009年2月16日

パニックを楽しむ

生きていると、時に、
自業自得と思えるアクシデントに、
出会います。

最初は、認めたくないのですが、
時間が経つにつれて
自業自得だと認めた方が、
とても気楽だということに気づくのです。

それを認めないと、
否定するために、

いろんなウソを
自分につかなくちゃいけない
ことになる。

自分にウソをついて、
後で一番イヤになるのは、
自分です。

ウソは、だんだんに
重ねなきゃいけなくなりますからね。

だから、
自業自得を認めちゃう。

そして、そのアクシデント、パニックを
楽しむ余裕をもつことができたら、
幸いなんですよね。

ああ、俺って、
パニックとか、
焦ったり、怖がっているときに、
とてつもない力を発揮するんだよな。

そんな気がしてきたら、
あとは、儲けものですよ。

始まったパニック、アクシデントに、
逃げも隠れもしないで、
どこまでもとことんついていく気にさえなれば、
ある意味、怖いものなし。

それから逃げようと、
どこまでも隠れていようなんて考えるから、
苦しくなるんです。

自業自得のアクシデントには、
逆らわないことです。

これを乗り越えたら、
俺って、どれくらい成長できるかな。

そんなことを考える人間になりたい。
今、アクシデント中の私が言っています。

さあ、どうなるかな、自分!

2009年2月 4日

悩みメニュー

他人の悩みを相談されて、
こっちとしては、それなりに本気になって、
同情したり、共感して、

何が原因なんだろう...?
どうしたらいいんだろう...?

真剣と考えて、

こんなのはどう?

と言った後に、
悩んでいた本人の反応を見て、
ガッカリすることがあります。

「あ、なんか、私の悩んでいたこと、
 そういうことじゃないみたい。」

このセリフほど、
ガッカリ、同時にイライラするものは、
ありません。

似たセリフで言えば、

「あ、もう解決した」

「え、あのこと。
 すっかり忘れていたよ。」

みたいな感じかな。

おいおい、それはないだろう...。
あんなに付き合せておいて、
と思わされます。

付き合ったこっちがバカだった。

そこで学びます。
自分の悩みにしろ、他人の悩みにしろ、
悩みにふれる機会があったから、
こんなスローガンを思い出そうと。

「ちょっと待て、その悩みに付き合う価値あるか?」

わたしが付き合わされて迷惑な人を考えてみると、
その人の悩みメニューは、いつも、こんな感じです。

  1. どうしたらいい? どうしよう?
  2. どうなるの? 悪いことが起きないかな。
  3. 分からない。 難しい。 出来そうにない。
  4. ~って、思われたんじゃないかな。
  5. なんで、~って思ってくれないの?
  6. なんで、悩みがあるの? あっちゃいけない。
  7. なんで、分からない? 分からないわけがない。
  8. なんで、こんな人間なんだろう? イヤだよ。
  9. ~して、いいかなぁ。~したら、ダメかなぁ。
  10. ~すればいいのかな?
  11. ~したら、どうなるのかな?
  12. モヤっとする ハッキリ、スッキリしない
  13. どうしても、こうじゃなきゃイヤだ
  14. 絶対、~のはずなのに、どうして?
  15. なんで、あんなこと悩んだんだろう?(解決後)
今度、相談を持ちかけられたら、
悩みメニューに照らし合わせて、
付き合う価値があるか、
真剣に考えようと思います。

私が付き合ってしまうのは、
私にとっても、その人本人にとっても、
いいこととは言い切れないからね。

2009年2月 3日

出しても出さなくても

自分を出す、
自分の本当の部分を見せる、
っていうことができないと、

人間はストレスになると思う。

けれど、
自分を出して、
それが理解されにくいと、
また、別のストレスになる。

出しても出さなくても、
いずれにしろ、ストレスだとしたら、
その人は、どうしたらいいんだろう...

自分が理解されるところを探すしかない。
そうなるのかな。

たとえば、ゲイとか、レズとか、
そういう本当の部分を、
この日本という国で見せるのは、
かなり難しい。

個性という理解は、なかなかされない。

まず、必ず、おかしい、となるはず。

私だって、関わりなく、
ただ眺めているくらいの関係であれば、
冷静に、放っておけるだろうけど、

何かしら深く関わることになれば、
きっと、心が、複雑な感情を持つだろう。
慣れるまでは...

人は、人に、
必ずしも理解されることはない。

人は、「本当の」自分を出せば、
必ず、スッキリするとは限らない。

それは、
好きなことをして生きれば、
幸せになるとは限らないことと、
同じなんだろう。

それは、不幸か。

うーん、幸せか、不幸かは、
その段階では決めかねるけれど、

少なくとも、
幸せを感じられない人がいるのは、
事実だろうな。

本当の自分で生きるって、
どういうことなんだろう?

そもそも、本当の自分って、
何だろう?

今日も、そんなことを考えながら、
生きている人間がたくさんいる。

2009年1月29日

迷う楽しみ

迷わずに、
早く決めてしまいたい、
と思うこともありますが、

迷うことが
とっても楽しみな時もある。

いつまでも、迷っていたい、みたいな。

自分が迷うことによって、
誰かに迷惑をかけているとなれば、
今すぐにでも決めた方がいいのですが、

誰の迷惑にもなっていないのなら、
迷えるだけ迷って、
考えることをいくらでも増やして、

グラグラと迷っていたい。

気の短い私にも、
そんな性格のパーツがある、
ということを自覚すると、
なんとなく、不思議な感じがします。

根本は、やっぱり、
優柔不断なんだろうか、
という気づきさえ、出てくる。

あの人と付き合おうか、
この人と付き合おうか、

あれを買おうか、
これを買おうか、

あっちに加入しようか、
こっちに加入しようか。

迷えば迷うほど、
答えが決められなくなる。

いっそ、どっちにも、
ということが出来ればいいけれど、
カラダは1つ。付き合い切れない。

そうこうして迷っているうちに、
相手の人が別の人と付き合いだし、
買いたかったものは売り切れて、
応募期間は締め切られる。

じゃあ、次のチャンスまで、
と気合を入れて待ち始めるのですが、

なかなか、思ったとおりのものが
出てこない。

もちろん、待つことによって、
本当に関心がなくなって
欲しいという興味もなくなるのなら、
それはそれで、それまでのことなんですがね。

迷ったら、いついつまでは決めてしまう、
ということは決めた方がいい。

それさえも、決められなければ、
どうしようもありません。

そうなる前に、私も決めなければ...

ああ、でも迷う。
新しく買いたい○○。

2009年1月27日

話せない

ちょっとはしゃべらずに、
黙っていて欲しいと思う人もいれば、
何もしゃべらない人もいて、
私たちは、コミュニケーションを
考えさせられます。

また、病気というものは、
自分や家族がなってみないと、
知る機会がなかったりするので、

ちょっとこの人、病気かな、
と思ってみても、何の病気か、
想像できないと、さらに調べることが
できずに、知らずのまま過ごしてしまう。

場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)。

家庭ではよくしゃべっているらしいが、
学校など家庭以外の場面では、
何もしゃべらないという子供の病名。

そういう子供たちがいる事実は、
知っていましたが、つい最近、
この病名を知りました。

命にかかわる病気ではないけれど、
もしかしたら、生きるためには大変になるかなぁ、
という気がしました。

気づくのは、子供が
保育園とか幼稚園、小学校など、
家庭以外の集団生活を始める頃。

なんか、こういうところでは、
おとなしいんだなぁ、
と親が思っているうちに、

いわゆる、
「借りてきた猫」くらいに
思っているのが、

発する言葉がゼロ、

という事実に気づきだすようです。

しゃべることが当たり前、
と思っている私のような人間は、
そういう子供を見ていると、

完ぺき主義で、
自分の思うとおりしゃべれないことや、
自分の思い通りに理解されないことを
恐れて、話せないんじゃないか、

と勝手に考えたりして、
ある程度の同情を持ったりするのですが、
いつまでも「話せない」ことに
付き合えなかったりします。

だからと言って、
攻めることは出来ない。

ほかの子供たちもそれを理解して、
サポートしてくれるなら、
それはそれでいいのですが、

そういう空気にならないと、
何かしら、こっちが無視している
ような気がしてきて、
これまた複雑な気持ちになるわけです。

しゃべらない相手を、
そのまま、そっとしておく、というのは、
時には無視にも見えるわけですよ。

話せない病気、難しいですね。

真剣に悩んでいる本人や家族を目の前にして、

「あの人こそ、場面緘黙症になって、
 ちょっとは黙ってくれたらいいのに...」

なんて冗談も言えないでしょうし。

話せなくなる心理、
その原因が深いところにあると、
話せないだけに、
専門家でも、治療するには
大変な気がします。

2009年1月25日

相手を間違えるな

信用する相手と、
疑う相手を間違えると、
たいへんなことになる。

たとえば、こんな話。

去年、中国製ギョーザに毒が混入されていた事件で、
中国側は、あくまで、日本での混入を主張していた。

事実は、イマイチ、ハッキリとしたカタチで、
解明されていない感じだが、

その事件の影響を受けて、
その製造元のギョーザが
日本で売れなくなったのは当然のこと。

そのため、中国内では、
そのギョーザを救うために政府が斡旋して、
中国内で売るとか、配るとかしたらしい。
理由は、あくまで「毒は日本で混入されたものだから」。

そしたら、それを食べた中国人の中で、
体調不良を訴え出した人が出た。

うーん。

食べて大丈夫だったら、
「やっぱり、日本での混入だった」
と言うつもりだったのか。

実際、日本での混入を訴えている中国政府のお偉いさんは、
そのギョーザを食べられるのかな、と素朴な疑問。

日本人からすれば、
「日本を疑うにも程がある」
という話かもしれない。
 
身の回りにいる、うるさくて、
言うことを聞きたくなくなる人ほど、
信用できる場合もある。

なかなか、難しい現実...

2009年1月24日

心の毒

もしも、自分の心の中で、
知らず知らずのうちに
生まれてしまう毒があるとしたら、

それは、
自分に害を与えるばかりか、
自分のまわりにいる人々にも
害を与えるかもしれない。

その毒を取り除くか、
その毒を中和して
害のないものに変えてくれる何かがないと、
私たちは、毒を消せない。

自分に害を与える毒。

その1.妄想で考え出した不安。
こんなふうに思われているんじゃないか。
こんなことが起こるんじゃないか。

その2.怒り。
その最悪たる状態が殺意かな。一つの言葉を思い出す。
「ひとを殺すときって、自分のことも殺してるんだって」
(疾走、重松清)

その3.甘さ。
甘いから、なお手強い。
心に強い夢とかでなく、
ちょっとした誘惑に負けそうな夢、くじけそうな夢。
そんな夢を見ているのは、甘くて気持ちいいけど...

その4...なんて考えたら、いろいろありそうで、
キリがない。

毒と思えなそうで、
毒だったりするものもあるから、
なかなか対応が遅れる。

対応が遅れると、
毒は、カラダに回ってしまう。
時には、感染してしまったり...

私の中にも、きっと、何かしら毒がある。
1つは、怒りでしょうね。

やる気につながる「怒り」もあれば、
時間ばかりロスする怒りもある。

私の怒りが、誰かの心にぶつかって、
また、怒りを生んで、次の心にぶつかって、
さらに、怒りを生んで...

怒りを寛容に包み込める人に出会うまでは、
怒りは、止まらない。

それまでに、どれだけの人に感染するもんだろう...

その時々で、予想がつかない。

心の毒、ないに越したことはないなぁ。

2009年1月23日

悩むことは悪くない

わたしの中では、どうも、

「悩むことは悪い」

というイメージがあるようです。

だから、自分の身内を見る場合に、
悩んでいる姿を見ると、
けっこうイライラしています。

悩んでないで、
早く結論を出して動け!

みたいな感じ。

そのやり玉にあげられやすいのは、
悩むことが大好きな長女です。

でも、この父親が、
悩むことが嫌いだ、
ということを感じていて、

「悩むことって悪いの?」

みたいなことで
悩み出している感じがします。

これは、ダメだなぁ...

と考え始めました。

わたし自身が「悩みの種」になることを、
わたしは望まないし、
それは、悩むよりも、もっとイヤだ。

もちろん、そういう「悩みの種」であるダメ親父になって、
子供らが反面教師としてそれを見て、
力強く成長してくれる、
という効果を期待することも出来ますが、

必ずしも、それがうまくいくとは
限りませんからね。

だから、ちょっと変わろうと思っています。

「わたしは、悩むことは嫌いだけど、
 あなたが悩むのは自由だ。」

みたいなオーラを発する感じに...

出来るかな。

悩むことは悪くない!ってな。

でも、あんまり悩んで欲しくないなぁ、
悩む暇があったら、まず、ぶち当たれって。

でも、それも、個性だからなぁ。
(今度は、自分が悩んでいるのか!?)

2009年1月11日

気楽になりたい願望

気楽になりたい願望、
というのは、
ちょっと矛盾しているかも、
なんてことに、最近気づいた。

願望が強ければ強いほど、
人は、いろんな環境や条件が
受け入れがたくなる。

たとえば、
こうやりたい、こうなりたい、
こんなふうに思われたい、
なんて思った瞬間から、

その邪魔となりそうな人とか、
それを好まない人とかの存在が
気になる。

気になり始めれば、
その「気」はすでに「楽」でない。

それは、気楽になりたいという願望には、
当てはめられる話だ。

気楽になりたい願望が強くなればなるほど、
気楽なエリアから遠のいてしまう。

気楽になりたいなら、
いっそのこそ、
願望なんか捨ててしまった方がいい。

そうなると、
流されるまま、みたいで、
イメージ的には悪い気もするが、

気楽を捨てても、
流されるまま、とは限らない。

どちらかと言うと、
うまく流されながら、
自分の目指す方向に
一番近いところに流れ着く方法を
身につけることだと思うから。

「何かに突き当たると、
 水は逆らうことなく流れを変えます。
 行く手を遮るものがないときでも、
 水はさまざまに回り道をします。
 わたしたちの体を構成する
 いちばん多くの要素が
 水であることを考えるなら、
 わたしたちにも同じ性質が
 備わっているはずです。」
 (何もしない贅沢、ヴェロニク・ヴィエン)

7年ほど前に買った本にあった言葉です。

今になっても、生きる言葉に思えます。

気楽になりたいのなら、
水のようになること。

願望は、その水に流しながら、
叶えていけばいいのです。

今日から、水です。

2009年1月 9日

自分に待ちくたびれる

いつか、才能が花開く。
いつか、いい人と出会える。
いつか、大成功する。

そう、自分に言い聞かせて
生きてきたとして、
もう何年待てば、
そんな日が来るのか、
と思っている人もいるのでは...?

わたしも、ある意味、
その一人かもしれないし、

欲を捨てれば、
すでに、いろんなことが
叶えられている一人かもしれない。

欲張りな自分にしてみれば、
自分のことに待ちくたびれているけど、

欲を捨てた自分から見れば、
そんなに待たなくても、
けっこう多くの頻度で
幸せな自分を発見したりする。

他人に待ちくたびれるのと、
自分に待ちくたびれるのでは、
苦痛の種類が違うだろう。

わたしは、
「待つ」こと自体には、
何の損もないけれど、

待ちくたびれることには、
何かしらもったいない気がする。

何か、待つものを間違っている感じ。

理想が高くて、
お似合いの人との結婚を
手放してしまう人のように...

もちろん、
「自分は、これくらいが
 お似合いなんだ」
と、自分を卑下してしまうのも、
もったいない話ではあるけれど、

待つものを間違っているのも、
また、もったいない。

待つだけでいいものを待てず、
間違ったものを待っている。

人生には、
そういう時間が
けっこう多いのかもしれません。

それに気づけたら、
人生も大きく変わるんでしょうけどね...

なかなか、人間は、
賢くなれない。私もそうだ。

2009年1月 3日

新年のクレーム

同じことを何度も言うのを、
止めて欲しいなぁ...

というクレームが
妻に入った。

次女からだ。

たしかに、思い当たる。
ボケたわけじゃない。

本当に分からせるため。
分かったかどうかを確認するために、
同じことを何度も言っている気がする。
それは、たしかだ。

今年の3月になれば、
40歳になる。

間違いなく、オジサンだ。
そうでない振りをしても、
40歳という響きには、
オジサン以外の空気は
見い出せない。

実際問題、
30代でもオジサン的なところも
あるだろうが、

まだまだ30代だから、
と自分では認めていなかったけれど、

40代になったら、
否が応でも認めなくちゃいけない気はする。

そこに来て、
「しつこい」
「くどい」
「同じことを何度も言う」
なんてことになったら、

私のなりたくないオジサンに、
そのまま、なっちゃう路線だ。

うーん、これは、まずい。

この次女からのクレームは、
真摯に受け止めて、対処したほうがいい。
本気でそう思った。

「口を動かす暇があったら、
 体を動かせ。」

これくらいのポリシーをもって
生きたほうが、おしゃべり人間は、
ちょうどいいかもしれない。

「あなた、しゃべるの好きだからね。」

妻も、ダメ出し。

「口を動かす暇があったら、
 頭を動かせ。体を動かせ。」

今年の決意は、これに変更します。

ダイエットにもいい決意かもしれないな。
がんばるべ!

2009年1月 1日

新年らしい決意

あけまして、おめでとうございます。

昨晩は、とうとう、
11:00頃には眠くなり、
そのまま床につき、

今朝5:00頃に、
新年の朝を迎えました。

何か、
新しい決意をと
思いましたが、

去年から未達成の目標が、
まだまだ中間地点を過ぎたばかりで、

新しい目標まで
心が及ばない感じです。

とは言っても、
その未達成の目標のために、
新しいアクションもかんがえなければ
いけない気配もするわけで、

それをやり遂げる、
新しい決意は必要な気はします。

今朝の体重は、
59.5kg。

昨晩、ちょっと食べ過ぎたわりには、
なかなかいい感じの体重です。

まだまだ続く正月三が日にも、
油断せずに、食べ過ぎることなく、
ベスト・コンディションな体で、
新年のスタートを切りたい、
と思っているところです。

やはり、体の健康と、
心の健康は大切ですよ。

「心と体を健康にする!」

っていうようなことを、
新年の決意にしても、
おかしくない時代が来ているようにも
見受けられますから。

ホント、大切ですよ。

誰でも、体の病ばかりでなく、
心の病にかかってしまう可能性は
ありですからね。

心と体を健康にする!

2009年の決意は、
今のところ、こんな思いつきで、
始めようとしています。

いい年に、してやるぞ!

2008年12月31日

お世話になりました

今日が2008年ラストです。

みなさま、お世話になりました。

不景気だ、
100年に1度の危機だ、
円高だ、
ガソリン値上げだ、
食品偽装だ、これも値上げだ、
リストラだ、
派遣切りだ、
減収減益だ...

そんなコトバばかりが耳に残っていて、
いいニュースを聞いたことなど、
すっかり忘れて、今年も終わりそうです。

でも、2008年を生き延びたこと。
これだけは、かなりいいことかもしれません。

生き延びることっていうのは、
実は、とっても大切なことなんだと
改めて思います。

もちろん、生き延び方にも、
いろいろあって、
後悔するために生き延びていることや、
もっと学ぶために生き延びていたり、
何かの償いのために生き延びていたり
することもあるでしょう。

それでも、しょうがない。

生き延びた方がいい。

何かを信じて、
何かを夢見て、
っていうのが難しくなっている方々も
少なくないでしょう。

それもそれで、しょうがない。

それでも、生き延びた方がいい。

ちょっとご年配の方々は言います。

「今の時代は、
 おかしくなっている」と。

そういえば、自分たちの責任は、
まったくないかのように。

でも、思うんですよね、私は。

おかしくなったのが事実だとすれば、
それは、短時間でおかしくなったことじゃない、と。

そういうご年配の方々の何かの積み重ねが、
その「おかしさ」を引き寄せたかもしれない、と。

一方、おかしくなったわけじゃない、
という考え方もあると思うんです。

時代が進めば、進化すれば、
必ず、試行錯誤で変わっていくんだと。
その変わってくなかでは、
必ず、アップ&ダウンがあって、
結局、人間はなんとかして
解決していく力があるんじゃないかと。

いずれにしろ、明日からは、2009年。

心構え次第で、たいへんキビシイ1年にもなれば、
意外と、かるーく耐えられる1年になるかもしれない。

自分の生き方に、自分が責任をもつことだけは、
変わりない。みなさん、がんばりましょう。

2008年12月29日

何が無駄か

何が無駄かを
決めることは、
実は、かなり難しい...

ことなんじゃないかと思う。

今は無駄なことでも、
後になって、
意味のあることになるものが、
無駄なことの中に必ずある。

一方、今も無駄で、
後になっても無駄なことも
必ずある。

今にも未来にも、
決して無駄なことはしたくない、
と思ったら、
何一つ失敗しちゃいけない、
と言われたことに等しいかもしれない。

失敗しないということは、
前例のあることしか
やらないこと。

つまり、過去しか
見ないことになるだろう。

未来を見るとしても、
ちょっと先の見える未来くらいしか、
見ないかな。それも、
誰でも予想できる未来を。

前例のあること、
誰でも予想できる未来だけを
追いかけていくと、
変化を起こすことが
だんだん遅くなっていく。

そんな遅い自分には、
自分がどんどん飽きてくる。

無駄なことをする自分にも、
飽きてくるかもしれないが、

無駄なことをしない自分にも、
人は飽きるものなのだ。

どっちがいいか。

さらに考えれば、
無駄なことをしないように
生きている自分は、

そのうち、
無駄なことができないために、
大きな失敗をしていることに
気づかされる時が来るかもしれない。

何が無駄か。

ホントに、よく分からない。

だから、人生は面白いかもしれない。

来年も、無駄なことをしてみよう。

2008年12月27日

あきらめ

これから、年末年始の商戦が
本番になりますが、

あきらめているところも
あることでしょうね。

そういう原因を作っているお客の一人として、
自分のことを考えてみても、

私の心の中では、
やっぱり財布のひもが
キツク締められている気がします。

どういうものになら、
お金を払おうと思えるか。

そういう基準が、
どんどん高くなっている気がします。

大げさな話。
食べ物以外は、
買い物しなくても
生きていけるような環境に
いるかもしれませんからね。

どうしても欲しいから、
買うかもしれないけど、

そういう欲しくなるものがなければ、
とりあえず、食いつなぐだけでいい、
みたいになる人だっていてもおかしくない。

そういうお客しかいないことを想像すれば、
商売する側は、いろんな工夫をこらして、
お客さんの心に刺激を与えるか、

それができなければ、
そういうアイデアが浮かばなければ、
成り行きまかせにするか、
あきらめるか、
っていうところでしょう。

新年を迎えるにあたって、
「あきらめ」で始めるなんて、
暗い話かもしれませんが、
わたしは思うんです。

ある意味、あきらめをしないと、
新しい局面には入れないんじゃないか、と。

あきらめない、あきらめない、
と言葉では強いことを言っていても、

新しい局面に入ることから
逃げているだけかもしれませんからね。

今のことはあきらめて、
新しいことに向かって突き進む。

あきらめは、悪いことじゃないです。
とりあえず、あきらめて、
新しいスタートの準備をしましょう。

新年まで、あと5日。

2008年12月22日

どこで成長できるか

何を成長させたいか、
っていうことも大切だけれど、

どこで成長したいか、
っていうことも考えなくちゃいけない。

大人になっても、
成長した方がいい分野は、
いろいろとあるわけで、

人間関係、
話術、
仕事の能力・技術、
お金の管理能力、
センス、などなど...

分かりやすい成長分野、
活躍が目立ちやすい成長分野に、
人の目は向きやすいけれど、

必ずしも、そういうところに、
力を注げば、誰でも成長できるとは
限らない。

みんなの注目にはならないかもしれないが、
長い目で見れば、本当の成長につながる分野
っていうのもあるだろうから。

そういうことを可能してくれるのは、
どこか。

今、進路を最終決定しなければいけない時期に
差し掛かっている中学3年生とか、高校3年生には、
そんな視点も、必要な気がします。

ナンバーワンの学校だから、
みんながそこに行けば、
成長できるとは限らず、

けれども、レベルの高いところ(学校など)を目指さないと、
周囲に「やる気」のある人があまり集まらないために、
勉強やスポーツ(部活)にがんばるどころじゃない、
なんていう事実も無視はできない感じです。

選べる「ところ」が近くにたくさんあれば、
まったく問題はないのですが、

お金と時間という条件を考えれば、
絞られてもきます。

何を成長させたいか。
どこで成長できるか。

見えないものも含めて、
よくよく考えないと、
自分の未熟さにつまずくことが
多くなりそうです。

2008年12月17日

儀式の欲しいひと

人が、
一生懸命になれる時っていうのは、
それぞれ違うんだなぁ...

って改めて思った。

仕事でも、学校でも、
いっしょに何かをやる仲間がいて、
その中で、
一生懸命になれる人と、
だんだんとだらけてくる人がいる。

当然といえば当然だが...

しかし、だらけている人間でも、
何かしら、ちょっとした「儀式」が発生すると、
ピリっと引き締まってくる時がある。

それは、何かの「本番」だったり、
「この人は偉いな」と圧倒されるような存在の人が
登場してきたり...

そういう儀式だ。

だから、そういう儀式が発生しない関係、
つまり、友だちや、家族の関係においては、
どこまでも、だらけてしまう。

なかには、とてつもない肥満に
至ってしまう人も出てくるだろう。

やっぱり、儀式がないからだ。

ただ、儀式が頻繁にあると、
一生懸命にやる時間が増えていいところもあるが、
ストレスも増えて、バランスを失いやすい。

と同時に、「儀式」そのものに慣れてしまい、
反応する儀式のレベルがアップしてしまうのも事実。

儀式がないとピリっとしない人は、
だいたいにおいて、
リラックスするのが上手だったりもするから。

もちろん、リラックスするのが上手とは言っても、
慣れない儀式では、ものすごく緊張するところも
あるのだが...

自分で、緊張感をコントロールできる人間。
そういう人を尊敬してしまうなぁ。

2008年12月16日

欲しいという不正解

やっぱり、後で分かるもんなんです。

欲しいと思っていたものが、
なぜ手に入らなかったか。

逆に言えば、
欲しいと思ったその時に
手に入らない方がなぜ良かったか、
ということ。

たとえば、
マイホームが欲しい、
と思います。

マイホームは値段的にも、
大きな買い物ですから、
簡単に手に入るものじゃありません。

いろんな段取りをして初めて、
スタートさせられる話です。

場合によっては、
ハードルが発生して、
手に入らないということも出てきます。

そして、しばらくすると、
今のような金融危機が来たり、
人によっては、
リストラされたり職を失ったり、

はたまた、
間取りのせいで
家族関係が変になったり...

そんな話を耳にすると、

「ああ、あの時に手に入らなかったのは、
 正解だったかもな」

なんて思えます。

結婚相手が欲しい、
美顔が欲しい、
ナイス・バディが欲しい、
クルマが欲しい、
お金が欲しい、
子供が欲しい、
権力が、地位が、名誉が、人気が...

欲しいものにはキリがありません。

今持っているもの以外は、
欲しがってもいいリストに
並べられる可能性があるわけですから。

どれもこれも、
後になってみれば、
欲しいと思っていたことが、
実は不正解だった、
と思うこともあるのです。

分かってみて初めて、
欲しがるだけでは幸せになれない、
成功するわけじゃない、
ということに気づきます。

もちろん、本気で欲しがらなければ、
手に入らないっていうことも。

欲しいの上に、絶対に必要だ、
にかなり近い使命感がないと、
正解じゃない気がします。

最近、思ったことです。

あの時には手に入っていなくて、
よかったなぁ、って感じましたから。

2008年12月 7日

くり返さないために

ああ、もう面倒くさい、
と思い始めてくると、

なんとか、逃げたり、
終わらせたりすることにばかり
考えが集中する。

「ま、いっか、
 ここまでやったら、
 とりあえず大丈夫でしょ。」

問題の解決が中途半端なまま、
自分を納得させることすら出来る。

私も、時々、
そういうことをやっちゃいます。

もうちょっと前に進むまで、
がんばれば、根本的な解決が
見られた、というのに...

だから、ほとんどの場合、
しばらくして、問題が再発するのです。

で、また、同じ対処法で、
解決をがんばる。けれど、
また同じところで、
面倒くさいと思ってしまう。

最近の私も、
ちょうど、そんな感じでした。

ああ、面倒くさい。

やめてしまおっかぁ...

でも、今回ばかりは、
そこからの決心が違いました。

今回だけは、
とことん解決しなければイヤだ。
また、同じことをするのは、
絶対にイヤだ。

すごくネガティブな、
否定的な、嫌悪的な考えから
来る決心だったかもしれませんが、

私を動かすには、
十分だったようです。

そう思った瞬間から、
30分も経たないうちに、
根本原因を発見することが
できました。

よしよし...

やっぱり、あきらめないことは
大切だなぁ。

2008年12月 4日

傷つくことが上手

何でも上手になることは、
悪いことじゃないけれど、

上手になってもしょうがないものに、
傷つくことっていうのが入るように思う。

傷ついた、
と騒ぐ人間ほど、
他人を傷つけた時には、
知らんぷりをしている。

わたし自身について言えば、
けっこう鈍いので、
きっと、いろんなところで
たくさんの人を傷つけているだろうなぁ、
って想像しています。

それでも、鈍いから、
相手の人もあきらめて、
言ってこない...

これ、幸いです。

で、わたしが考えていることは、
自分だけを正当化するために、

「私は傷ついた」
「私は傷つけられた」
「私だけ痛い思いをしている」

というようなセリフは言わないようにしような、と。

ずるい使い方だと思うから...

そして、
それを言っている時の
自分がどれだけ醜いか、
知っているから。

自己憐憫だけならまだしも、
それによって同情を集めて、
自分のほかのミスまでも
正当化しようというダメな行動に
走ってしまいそうで。

そして、それがうまくいけばいくほど、
そういう方法だけに頼って、
世渡りをしそうで。

そんなんじゃいけない。

そんな人間になってはいけない。

そう思います。

インターネットで、いい詩を見つけたので、
最後の部分を引用します。

「傷つくことだけ上手になる者たちよ
 本当に 傷ついた者は きっと他にいる

 傷つくことだけ上手になる者たちよ
 本当に 傷ついた者は 傷ついたと言う元気もない

 傷つくことだけ上手になる者たちよ
 本当に 傷つくことを恐れ
 傷ついたふりをして 逃げ回ってはいないか

 傷つくことだけ上手になる者たちよ
 本当に 上手にならなければならないものは 傷つくことではなく
 傷ついた後 傷を自分で癒す力を 持つことではないか」

→傷つくことだけ上手になる者たちよ

2008年11月27日

後悔したくない

後悔したくない、
という気持ちには、

夢をあきらめないでがんばるとか、
失敗しても目標を目指すとか、
そういう姿勢であれば、
尊敬のできることだけれど、

罪を犯した後に、
それを行ったことに
後悔はしていない、
と公言するのには、
なんとなく無理があるように思う。

きっと、
「後悔はしていない」
ではなく、

後悔したくない、
という気持ちなんだと思う。

後悔してしまえば、
そこからさかのぼって、
いろんなことが悔やまれるようになるから。

自分が生まれたことも含めて、
いろんなことを後悔しないと、
その罪の重さを償えないくらいに
心に重荷を感じることすらあるだろう。

謝ったらどうだ、
反省したらどうだ、
後悔はないのか、

そんなことを問い詰められれば、
問い詰められるほど、
自分の行動を守りたくなる。

守らないでは、
自分が立っていられないような気分になる。

悔いのない人生を、
後悔のない人生を、
そういうスローガンばかりが
美化されているから、

後悔するべき時なのに、
「後悔」が嫌われてしまう。

そして、後悔しないことによって、
先の人生に、光がなくなったりもする。

過ぎ去ってしまったことを、
後悔して、人生に影が差してしまうのも
苦しいことですが、

後悔しないで、人生の先に、
光が見えなくなるのもツライことです。

どちらがいいか。

イヤだけれど、後悔するしかないんですね。

人間は、後悔するように出来ている。
そんなことを言う人もいました。

ホントに、そうかもしれません。

2008年11月20日

だまされているのでは...

わたしは、時々、
だまされているのでは...
と思ってしまうことがある。

「おまえは、そんなことないか?」

と妻に聞いてみると、
「ない」という返事。

「だって、だまされたことないもん。」
と、妻が言った。

なるほど...

と思いかけて、

まてよ、俺だって、
そんなにだまされたことはないぞ。

1分くらい、集中して、
だまされたことないか調査を、
頭の中でグルグルとやったが、

事前に防ぐことができたのか、
そんなにない、という結論。

なのに、

「だまされるんじゃないか?」

と思うのは、なぜだ?

もう1つの結論は、これでした。

わたしがだます人間だから、
だまされるんじゃないか、
という心配も出てくる。

だます側の心理状態とか、方法を、
ちょっとは知っているから、
それにハメられないようにと思うわけです。

もちろん、大きな「だまし」を
しているわけじゃないですけど、
どうしたら、人より楽に出来るか、
くらいのことは考えるわけです。

どこで手を抜けるか、
みたいな。

合理的にやる、っていうのは、
ある意味、どこかをごまかす、だます、
っていう意味合いもありますからね。
もちろん、いい意味で、ですが。

そう考えると、
仮にだまされようとも、
妻みたいな人間は、
「だまされるのでは...」
という心配などすることはないでしょうし、

私みたいな人間は、
全然だまされなかったとしても、
「だまされるのでは...」
という心配をすることになる。

うーん、生き方の違いか。
だまされずに、なおかつ、疑わずに、
生きる方法があればいいなぁ。

2008年11月14日

言うことをきかない

何かを言ってやりたくなる。

それは、言ってやれば、
何か変えられる気がするから。

しかし、ふと、
自分をかえりみる。

何かを言われて、
「あぁ、そうだな」と思い、
変わったことがあるか?

うーん、ないな。

恐ろしいほどにない。

不思議なことに、
人の言うことをきかない人間に限って、
人に何かを言って、
言うことをきかせようとする。

そして、言うことをきかないと、
さらに怒りたくなる。

つまり、
こういうことなんだろう。

「他人を信用しない人間ほど、
 何故か他人に期待する傾向が強い。」
(的を射た言葉、森博嗣)

信用していないから、
何かを言いたくなる。
言わないではすまなくなる。

そして、勝手に期待をかける。
待てないから、イライラする。

さらに、何か言いたくなる。

間違いなく、悪循環。

言うことをきかない相手が
悪いのではなく、

素直じゃない自分が悪い。
そもそも、素直じゃない自分だから、
他人から言われたことを、
自分そのものが言うことをきけない。

そういう人間が言うことは、
他人に聞いてもらえるような内容や言い方で
あるわけがない。

言うことをきく人間の言葉ほど、
他人からも言うことをきいてもらえる。

悲しい現実かもしれませんね。

「どうして、みんな、
 言うことをきかないんだ!?」

と嘆いている人は、

「あなたの方こそ、
 言うことをきかないでしょ。」

と言われているかもしれない。

ああ、私のことだな。

2008年11月 6日

占い好き

占い、
っていうのは、
大きくわけて、

2つのタイプがあると思います。

1つは、なんていうか、
大きなパワーとか、プレッシャーで、
その人の運命を予言するような、
押しつけるような感じのもの。

それが、その通りになれば、
「あの占い、当たるよ。」
っていうことになります。

もう1つは、
気づきを与えてくれるようなもの、
アドバイス、助言みたいな感じ。

きっと、身近な人からも、
同じようなことを言われたり、
指摘されたりすることがあっても、
素直になれないから、
「気づき」とならない前に終わっている。

けれど、関わりのない、利害関係のない第3者、
占い師という人間からの言葉だから、
なんとなく、素直に聞ける。

叱って欲しい、という願望が
満たされるような感じ。

ただ、よくよく、そのアドバイス内容を考えてみれば、
別に、自分じゃなくても、他の人にも、
当てはまるような気がするんです。

たとえば、
「今週の魚座」に言われた言葉が、

別に、魚座の人じゃない人が読んだとしても、

「そうだ、そうだ、
 そういうところあるよ、わたし。
 気をつけないと...」

って思えることだったりするんですよね。

その代わり、当たる、当たらない、
というギャンブル性がないから、
占いという商売としては、
長続きできるんじゃないでしょうか。

当たっていた占いは、
当たらなくなれば間違いなく、
見向きもされなくなるはずですから。

そうすれば、そういう占い師さんの中には、
当たっているように「見せる」ために、
変な小細工を始めたりする人もいる。

占いは、当たる必要なんてない。
「気づき」になるだけで十分。

占いについて考えていたら、
そんなことを思いつきました。

2008年11月 2日

現実じゃない

何かの練習をする、
ということは、

本番のためのことであって、
そういう目指すものがないと、

練習をするということは、
あまり、やりがいのないことだ。

しかし、その練習が、
その本番のためにやると言っても、
あまりにも「現実とかけ離れている」ように
思われる時には、練習に身が入らない。

練習は、現実じゃないのは当然だけれど、
現実を無視したような練習は、
やる気すら、そいでしまう。

スポーツであれば、
心の練習、技の練習、作戦の練習、
みたいに分けられると思うが、

やる気がそがれてしまえば、
「心の練習」には至らないことになる。

本番に、どういう心理状態になるか、
は練習としても大切ですからね。

となると、どれだけ現実に近づけられるか。
どれだけリアルか、ホンモノか、
っていうことになる。

練習させる側のコーチとか、指導者は、
そういう「現実」「リアル」に近い状況を
なんとかして作らなくちゃいけない。

私自身、現実味、リアルさが感じられないと、
けっこうダラけたり、イヤになったりする人間なので、
自分のケツに火をつけるのに、苦労することもあります。

2008年10月26日

ミスを誘う

相手がある勝負の時に、
勝つということは、
攻めることだとばかり思っていた。

しかし、
相手のミスを誘うことができても、
それが勝ちにつながる、
という当たり前のことを
最近になって、分かってきた気がする。

うさぎと亀の話ではないが、
まともに勝負したら、
パワーがあるもの、
速いもの、
アタマのいいものが
勝つに決まっている。

しかし、
パワーがあるゆえに陥ってしまうミス、
速いからこそ見落としてしまうミス、
アタマがいいからこそ軽視してしまうミス、
そういうものをお膳立てできれば、
勝てたりするのだ。

強いはずのに負けたほうは、
なんで、負けちゃうんだ、
みたいな複雑な気持ちになることでしょう。

ミスは誰にでも起こりうる。

そのミスをしないように、
人間は生きていたり、
戦っていたりするけれど、

ミスの起こりやすい状況は、
意外なところにあったりします。

油断していたつもりはなくても、
予想外のことが起こると、
対応できないことが多いのが人間。

強くて勝つ、という生き方もありますが、
性格によっては、
相手のミスを誘って勝つ、という生き方もある。

きっと、それ以外にもあることでしょう。

いろいろと学んでいます。

2008年10月23日

大げさにしないために

話が大げさになると、
解決するものも解決しなくなる。

たとえて言えば、
2,000円くらいで済むことが、
5,000円もかかる話になったり、

「はい」と3秒もかからない返事をすればいいことが、
1時間も、2時間も、ああだこうだと話し合うことに
なってしまったり、

顔を見て30分話せばいいことが、
半日も缶詰で文書をつくって送ったところが
それでも分かってもらえなかったり...

なんて具合に、
大げさにしてしまうと、
解決が遠のいていく。

大げさにしてしまう理由は、
いくつかあるのだけれど、

1つは、
どうしても、自分の思い通りに
進めたいとき。

もう1つは、
その自分の思いを、
正直に言わないで済ませようとしているとき。

前者は、
自分の思い通りにしたい気持ちを
どこかであきらめないと、
どんどん、大げさになっていく。

後者は、
どこかで、自分の思いを正直に
言わないと、これまた、
あらぬ方向に話が進んでしまう。

わたし自身も、自分のやっていることが、
なんか、大げさになってきたなぁ、
と思ったりすることがあります。

そんな時には、やっぱり、
上の2つが関係している。

どこかで折り合いをつけるか、
自分の正直な思いを伝えるか、
そうしない方法ばかりを探していると、
どこまでも、大げさになっていくし、
なかなか、話が終わらなくなる。

大げさは、間違いなく、ムダですよ。

2008年10月22日

他人のことで泣ける

自分の失敗や挫折のために、
自分がかわいそうで、
泣くっていうのは、
誰にでも出来ることだろうけど、

映画や本、聞いた話など、
他人のことで泣けるというのは、
心が成長しないと出来ないこと
なんだろうと思う。

幼い頃に、
純粋に、かわいそうに思えて、
泣けたことが、

ちょっと大人になると、
そういうことにも慣れて、

あるいは、自分の問題だけで
頭がいっぱいになって、
泣けなくなってくる。

けれど、さらに年を重ねていった時に、
また、心の感性がいい意味で戻ってきて、
泣けてくる。

人は、そんなふうに
成長していくんじゃないかなぁ、
って思います。

泣きたい気持ちを、
自分の心で抑えすぎたり、
誰かに抑えられたりしていると、
もしかしたら、心が鈍くなるかもしれない。

それが、大人の状態。

そこから解放してあげる力が、
自分の中から生まれてこないと、
いい涙を忘れる人間になる・・・のかな。

秋なんでしょうか、
思いっきり泣きたいことに出会いたい、
と思ったりする40歳近い男です。

ちなみに、福山雅治さんより
40日遅く生まれた男です。

2008年10月20日

もったいないがらない

もったいない、っていう言葉は、
ありがたいもんだからという意味合いも込めて
使われているんだろうけど、

もったいないって思うことばかりが
いいことじゃないなぁ、って最近思う。

前を走っている車が、
もっとスピードを出して、
この信号を突っ切ってくれたら、
もっと早く行けたのに、もったいない。

あの時、ふと思いついたあの馬券を買っていれば、
とんでもない万馬券だったのに、もったいない。

あそこでやめていれば、
まだお金がいっぱい残っていたのに、
もったいない。

この子が、自分の力をちゃんと出して、
がんばってくれたら、勝てていたのに、
もったいない。

ランチ・バイキングにきて、
お腹が破裂する寸前まで食べないなんて、
もったいない。

もしかしたら、
もったいないっていう言葉の使い方を、
間違っているのかもしれない。

「広辞苑」の3番目には、

そのものの値打ちがいかされず
無駄になるのが惜しい。

という意味が掲載されている。

値打ちがあると思って、
もったいないがって手に入れたものが、
実は、たいした価値がない。

価値がないならまだしも、
自分にとって、とても危険なものだとすれば、
もったいないがらない方がいいというわけだ。

もったいない、っていう言葉を、
ありがたがる前に、

もったいないがるのがいいものと、
もったいないがらないのがいいものの区別。
それが必要な感じがします。

いろんなものに溢れている今の時代は、特に。

2008年10月12日

今の自分、自分の人生

今の自分に興味はあっても、
自分の人生には興味がない。

同じ自分が含まれているんだから、
同じだろうって持っていたけれど、
なんとなく、興味の方向で違うから、
そんなことがありえるんだな、
っていうことが、最近分かってきた。

簡単に言っちゃえば、
自己チュー、
自意識過剰、
視野が狭い、
という言葉になっちゃうけれど、
必ずしも、悪いことばかりではない。

自分の目標に向けて
がんばっている状態でも、
そういうことが起こりうるからね。

「待てない」って言葉に、
強引にまとめることもできますがね。

自分に興味があるんなら、
自分の人生にも興味があればいいものを、
と思ってしまうのですが、
どうも、長い目で見た「人生」には、
興味をもつのとは、話が違うようです。

今、欲しい。
今、目標が叶って欲しい。
今、そうでなくちゃ不快...

長い目なんて、
持っていないんです。

よく言えば、
「この子は、いい子になろうとしているんだよ。」
「この人は、いい人になりたいんだよ。」
となりますが、

もっと掘り下げてみれば、
「じゃあ、どうして、いい子(人)になりたいの?」
となる。

きっと、
人に認められたい、
人にホメられたい、
人に注目されたい...

そういうことに行き着くことが多い。

自分の人生において満足を得られることよりも、
今、どう思われるかに、心が注がれてしまう。

そして、今、失敗すると、
もうダメな気がする。

その失敗が続こうものなら、
もう、ずっとダメな気がする。

自意識過剰。

「じゃあ、どうすればいいの?」
と悩む。

考えるのでなく、悩む。

考えると、悩むは、違うんだけれど、
その違いが分かっていなかったりする。

頭の中で考えただけで、
問題が解決すると思って考え始めると、
「悩む」ことになる。

頭の中で考えて決めた行動を、
心を揺るがすことなく実行しようと思っていれば、
「考える」ことになる。

考えることは、人生につながる。

そんなことが分かってきたように思います。

2008年10月 3日

方法はいろいろ

たとえば、
3人の子供がいれば、
7人の部下がいれば、
10人の弟子がいれば、
それぞれの姿勢が見られます。

特に、問題にぶち当たった時が、
性格というものが最も現れて、
それぞれが違うなぁ、っていうのが分かる。

8人だとしたら...

1.気づかないか、気づいてクヨクヨ。
2.大げさにさわぐか、鎖国状態。
3.なかったことにする。
4.怒る。
5.逃げる。
6.頼る。
7.焦る。
8.よく観察して行動するか、考えすぎる。

っていうケースもあるだろう。
面白いものです。
そして、どれも正しい。
もっと突っ込んで言えば、そこには、
正しい、正しくないの問題は存在しない。

というのは、人それぞれの問題への対処方法には、
それまでの生き方、育ち方が関係してくるので、
どの人も、今やっている方法が一番だと思っている。

しかし、現実は、
隣りを見てみれば、
それぞれが違う方法で
問題に対処している。

それが人間関係的な問題に発展すると、
相性も関わってきて、すぐに解決できる間柄もあれば、
なかなか解決できずに、長引く間柄も出てくる。

そういうことを何度か積み重ねていくと、
人は、いろんな方法があるんだなぁ、
と時間をかけて分かってくる。

なかなか分かっていけない人間は、
鎖国状態かもしれない。

鎖国をいったん解かせて、
鎖国状態をしているうちに、
まわりの時間がどれだけ進んでいたかを
見せないことには、難しいだろう。

もちろん、それでも分からない、
分かりたくないという姿勢の場合も、
少なくない。

方法はいろいろなのだ。

そういう人もいるかもしれない、
ということも含めて、いろんな方法を理解することが、
人生の引き出しを増やすことになるだろう。

わが子らには、
そういうことが分かる人間に
なって欲しいなぁ。

わたしは、それが分かるまでに、
かなりの時間を要した気がする。
まだ、分かっていないところもあるだろうし...

2008年9月27日

相手の気持ち

いっしょにいる人の気持ちに助けられて、
気持ちが強くなる時がある。

スポーツであれば、
対戦している相手の気持ちに気圧されて、
こっちの気持ちが弱くなる時もある。

相手の気持ちに、
どれだけの影響を受けるか。
それは、自分の気持ちが、
どれだけ自立しているか、
っていうことが問題だと思う。

いい意味でも、
悪い意味でも、
そういうことが言える。

出来れば、他の人に影響されずに、
いつも、自分の気持ちを強く持って、
生きていけたらいいなぁ。

けれど、あまりにも、
他の人の影響を受けずに、
冷静に振る舞っていると、
「冷たい人間」に思われることも多い。

冷たい人間に思われたくないと考えて、
気を遣うようになれば、これもまた、
他の人の気持ちに影響されているようなもの。

冷たい人間に思われず、
なおかつ、他の人に影響されずにいる、
っていうのは、欲張りなことだとあきらめて、
振る舞っていた方がいいかもしれない。

不器用な人なら、なおさら。

本当に欲しいのはどっちか、っていうことで。

それに集中できなくちゃ、
いつまでも、フラフラしちゃうことになるでしょう。

相手の気持ちの前で、
フラフラしていたら、相手をもフラフラさせるか、
イライラさせるか、放っておかれるかでしょうね。

2008年9月24日

落ち込み付き合い

同情されるのが、
とっても好きな人がいる。

同情されるのは
好きじゃないけど、
共感されたいと思っている人もいる。

落ち込んだ時、
悲しい時、
失敗した時...

自分の大切な人が
落ち込んでいたら、
なんとかして元気にさせよう、
と思うのが普通だろう。

けれど、その周りの人が、
立ち上がらせようとすればするほど、
ダメな時もあるように思う。

そういう助けられている状態が、
その落ち込みとは別に、
どこかしら居心地が良くなっている場合だ。

落ち込んでいても、
周りがあれやこれやと面倒を見てくれるから、
ある意味、何の不自由なく生きていられる状態を
与えてしまっている。

ホントに依存心の強い人だと、
そういうところから「ひきこもり」に
なったりしてしまうかもしれない。

身近に、よく落ち込む人間がいる。

その人を見ていると、
しばらくは落ち込んでいなくちゃ、
ダメだろうなと思う。

だいたい3日くらいだ。

その間は、
相手の見えないニーズに応じて、
同情するか、共感するかを選んで
対応している。

しかし、3日を過ぎたら、
落ち込みでなく、甘えに移行することが
多いようだ、その人の場合は。

その時には言う。

「自分で今の状態から立ち上がれないなら、
 病院でも行って、カウンセリングでも受けたほうがいい。
 必要なら、薬でも飲んだらいい。立ち上がれないか?
 自分で立ち上がる気があるなら、もう甘えていちゃダメだ。」

すると、相手は、選択をする。
この状態を病気と理解したいか、
自分の甘えという理解にしたいか、
という選択だ。

単に同情や共感が欲しい人間は、
病気にしたいわけじゃない。

立ち直りたい気持ちを、
3日目くらいからフツフツとさせてくる。

人によっては、もっと早かったり、
もっと遅かったりもするだろう。

いずれにしろ、
落ち込みから逃げられる見込みのある人だ。

落ち込みに付き合いすぎてはいけない。
自分も落ち込んで、引きずり込まれることさえありうる。

病気なら医者、
そうでないなら本人の生命力。

心のリズムは何とかして戻るように出来ているはずだから。

2008年9月22日

なんか眠い

眠気なんかぶっ飛ばして、
ガンガンやってやるぜ、

が決まり文句だったのが、

別に、眠気をぶっ飛ばさなくても、
まず寝てスッキリしてから
がんばればいいじゃん、

みたいに思うようになりました。

寝不足のために出てくる眠気のときもあれば、
まわりのゆったりした空気に
包まれすぎて襲ってくる眠気もありますが、
秋になったせいなんでしょうかねぇ。
でも、暑い夏のときにも、
眠気があったなぁ...

朝には、自然に早く起きてしまうのに、
昼には、眠くなったりする。

せっかちなのかもしれません。

それでも、
邪魔するヤツなんか、
徹底的にぶっつぶして
突き進めと思う性格だったのが、

邪魔したいヤツには
邪魔させておけばいいじゃん、
そのうち飽きるだろうし、
別に対抗しなくても、
時間が経てば、誰が悪者か、
なんて自然に知れていくんだから、
って思う感じが出てきました。

ちょっと丸くなったのかな?

昼ごはんを食べたら、
もっと眠くなるんだろうなぁ。

シャキッとせい!

と誰かに言われたい。

2008年9月20日

勝てば勝つほど

勝てば勝つほど、
楽しくなってくる人がいる。

勝てば勝つほど、
苦しくなってくる人がいる。

それは、
その人の器か、
その人の才能か、
その人の心のあり方のせいか。

そこらへんは、人それぞれかもしれない。

勝っているんだから、
楽しいに決まっているでしょう、
と思うのは、外野の人間だけ。

今行われている相撲場所では、
横綱の朝昇龍が6日目にして、
2敗をしたということで、
ニュースになっている。

世の中は、きっと、
お決まりの流れで、
「引退か」なんて噂になることだろう。

そんななかで勝つ相撲が、
朝昇龍にとって、昔のように
「楽しい」と思えるだろうか、
という素朴な疑問が浮かんでくる。

まさしく、勝てば勝つほど、
逆風が強くなって、
負ければ負けるほど、
追い風が強くなり、

いっそ、その風に身をまかせたら、
どんだけ気が楽だろうなんてことを
まったく考えないなんて言ったら、
ウソになるだろうな...

負けた方が楽だとは分かっていても、
心のどこかに、まだ負けたくない、
という気持ちは、フツフツとあって、
それを捨てられない自分と戦っている。

敵は、対戦相手でなく、
もう自分以外の誰でもない。

その自分が楽しい人間か。
それが勝ち続けた時の気分を
決めているのかなぁ、なんて思った。

どうだろうか?

2008年9月18日

勇気の問題じゃない

心の問題だ、
やる気の問題だ、
メンタルの問題だ、
気合の問題だ、
勇気の問題だ。

言葉としては、
カッコいいけれど、
実は違うっていう場合は、
少なくないように思う。

「変わる勇気と、
 変わらない勇気なんて、
 よくいうけど、
 たぶん、勇気の問題じゃないんですよね。
 おそらく、洞察力とアイディアの問題なんです。」
 (ほぼ日、糸井重里)

これは、本当だと思う。
もちろん、すべてのシーンに
当てはまるとは言い切れないけど...

スポーツでもビジネスでも何でも、
戦うシーンにおいて、最後の決め時に、
勇気を出して行ったことがミスをする時がある。

勇気が足りなかった、という人もいるだろう。
もっと早く勇気を出していれば、という人もいるかもしれない。

けれど、勇気が出ないことには、理由があって、
何かしら不安があったわけだ。

その不安を消す努力は、
本番前に行わなければいけないわけで、
本番では、そんなに出来ないだろう。

あるいは、アイディアをいろいろ考えるとすれば、
それも、本番前でなければいけない。

そう考えると、
勇気の問題にしてしまう前に、
その前のことが大切で、逆に、
勇気の問題にならないように、
ちゃんと手を打っておかなくちゃいけない。

いざという時に、勇気が出なくなる、
って分かっているのなら、なおさらだ。

心の問題だ、っていう時に、
心に集中しすぎても、
その問題は解決しないことが多い。

最近、プレッシャーで泣くことの多い娘を
見ていると、そう感じる日々です。

2008年9月14日

待ち時間

待つというのは、
あんまり楽しくないことも多く、
そんな時には、忍耐のいる話になります。

けれど、
待つという時間のなかで、
目の前に見えるものが
いろいろと変化してくれると、
それが眺めているだけで、
待っていることを忘れさせてくれる場合もあります。

昨日の私ら家族に必要なのは、
まさしく、そんな眺めでした。

朝の9:00から夕方6:30まで。
だいたい9時間半。

その間に、娘ら二人の試合は、
それぞれ3つずつで、合計6試合だけ。
(1試合長くても20分ほど)

もちろん、途中で負ければ、
早く帰ることになった大会。

対戦の組み合わせがよかったせいか、
高校生相手ながら、それなりに健闘し、
勝ち進めました。

おかげで、待っている時間が、
途方もなく長く感じられる。

目の前に、「変化」という見せ物がないと、
退屈で、しょうがなくなる感じ。

幸い、優勝候補と呼ばれる選手の試合が、
たいして強くもなさそうな対戦相手に
苦しめられるという面白いシーンを、
私たちが陣取った観客席の
すぐ近くで見ることができて、
退屈しませんでした。

その優勝候補さん、
対戦するたびに、危ない試合の連続。

私たちを楽しませる目的でもあったのか。

もちろん、そんなはずもなく、
必死だったのでしょうけれど、
研究されたり、勝たなければいけない、
というプレッシャーのもとでは、
いろんな展開があるということでしょうね。

あと、待っている時間が長すぎて、
自分の調子をいい感じにキープできなくなる、
っていうのも、ありえるかもしれませんね。

さて、今日は、昨日の試合で残った
ベスト32からの戦い。待ち時間が少ないから、
見るでなく、自分たちの試合に集中することで、
楽しむのが、目的になりますね。

2008年9月13日

高くも、低くもないところ

人の意識には、
いろんな状況において、
高い意識と、低い意識って
いうものがあると思う。

たとえば、
高い意識の時には、
こんな感じになるだろう。

1.自分の道を進める
2.自分のやることに集中できる
3.物事とちょうどいい距離を保てる
4.考えられる
5.理解と平安がある
6.見えないものも信じられる

しかし、これが
低い意識の時には、
こうなるだろう。

1.うらやむ
2.落ち込んで心がバラバラ
3.物事にハマりすぎてしまう
4.考えられない
5.思い込みと平安
6.見えるものに押しつぶされる

ここまで落ちてしまえば、
這い上がるのは、
けっこう大変だったりすることもある。

だから、現実には、
その中間のところ、
高くも、低くもないところで、
なんとか踏みとどまって、
高い意識に、自分を持って行った方がいい。

せっかく高い意識を持っていても、
ふとしたきっかけで、そこから
降り始めてしまうこともなきにしもあらずだから、
油断したり、ぼーっとしたり、気が散ったりした時には、
注意した方がいいかもしれない。

それと、高いところから降り始めるときの自分のクセも
知っておけば、助かることだろう。

たとえば、
1.計画性がなくなったり、
2.自分の中にある引き出しを忘れたり、
3.同じことをくり返したり、
4.急ぎたくなったり、慌てたり、
5.挑戦しなくなったり...

高い意識のためには、
何らかの計画性が必要に思う。

それがあるうちは、
落ちぶれていくことはないはず。

計画を捨てた段階で、
いろんな努力の必要性も
消えたりすることが多いからね。

低い意識に落ち込む前に、
立ち直りたいものです。

みんな、がんばろう。

2008年9月12日

解決するように

問題が解決するように、
と願うのがふつうかもしれないが、

その願いは、
ちょっと無理だろう、
というケースは少なくないように思う。

病気や性格、家族の中にある問題とか...

そういうケースに対して、
解決するようにと願えば願うほど、
人の感じるストレスが大きくなり、
息苦しくなることだろう。

解決するようにと願うよりだったら、
その問題にうまく付き合えるように、
と願った方がいいかもしれない。

解決されることが癒しでなく、
付き合う覚悟を決めるだけで、
心がスーッと癒されることもあるのは確か。

「こうしようと
 一筋に思う心こそ
 人が誰しも抱える病である
 この病を必ず治そうという
 こだわりもまた病である」
 (柳生宗矩)

この言葉は、本当だろう。

解決しよう、消そう、
まったくなくそう、と思えば思うほど、

それを感じる心の比重が増すばかりで、
その問題から離れられなくなる。

問題が存在することが問題なのではなく、
問題を意識しすぎることが問題だ、
ということに、本人が気づいていない。

解決するように、
と願わなくてもいい問題もある。

そんなことが分かるようになったのは、
いくらか長く生きてきた証拠なんでしょうね。

まだまだ迷うことも多いのですが、
いくらか成長しているようです。

2008年9月 6日

腹が減る

腹が減る、
という意識は、

もっと食べたい、
という意識とは、

必ずしも一致しない。

腹は減っているけど、
もっと食べたいと思わない時もあれば、

腹は減っていないけど、
もっと食べたいと思うこともあるから。

それと同じことが、
アタマの中についても
言える気がする。

知識が足りない、
ということと、

もっと知りたい、
ということが一致しないことに、
きっと似ているのだ。

もっと、という欲望は、
自分自身がすでに
たくさん満たされている現実とは、
ちょっと別の問題で、

心の不安定さに
関係してくることなんでしょう。

ここ数日、狂ったように
本を読んでいる長女がいます。

1つのことについて、
とことん考え始め、
それについて知らないと、
自分が前に進めないという状況に
至っているようです。

4、5日前には、
そんな感情は少しもなく、
なんとなくボーっと考え事をするくらいでしたが、

突如、そういう感情に占められてしまう。

他人から見れば、
十分に知っているだろう、
十分に食べただろう、
と思われても、

本人の心が、
そのことに対して不安定であれば、
それを安定させるために、
もっともっととなる。

世間では、ハングリー精神と呼ぶその感情。
若い娘の胸に、フツフツと湧きあがっている様子は、
自分も、このままじゃいけないな、
って思わせてくれる姿です。

もちろん、
食うことに関してのハングリー精神は、
あまり必要としませんが...

2008年8月24日

経験は、経験のために

参加することに意味があるとか、
勝つことに意味があるとか、
負けることに意味があるとか、

意味は、いろんなことに
見出される。

逆に言えば、理想や目標や夢のために、
がんばって、それがうまくいけば、
それに、意味があった、と言い、

それがうまくいかなければ、
その前の準備に、意味があった、
と言っているだけかもしれない。

つまりは、結果論。

でも、それが悪いとも言えない。

気に入らない、好きになれない結果と、
穏やかに向き合うためには、
自分なりに消化できる「意味」がないと、
投げ出したくなるものだからね。

たいしたことじゃないことでも、
とっても惜しい気がすると、
やっぱり、意味を探したくなる。

昨日、見たいオリンピック番組の録画終了時刻を、
番組表どおりに設定していたせいで、
尻切れトンボの録画になっていたことを、

チョー悔やんでいる。

きっと、こんな経験の記憶が新しい人は、
当然のごとく、延長録画をしていただろう、と思う。

私は、すっかり忘れていた。

ああ、この経験も、次に活かせるんだ、
と自分を納得させようと思ったけれど、

おいおい、オリンピックは、
これから4年経たないと、来ないんだよ、
というツッコミを自分で入れた。

録画なんて、たいしたことじゃないことで、
こんなに悔やんでいる自分がいるくらいだから、

このオリンピックという舞台で、
自分の力を思ったように出せなかった人は、
さらに悔やんでいることだろうと思う。

参加することに意義がある、
なんていう言葉じゃ消化しきれない、
心のウップンが...

次のチャンスは、なんと言っても、4年後なんだから。

本当に、チャンスが来るかどうかも、
分からない。

もちろん、オリンピックにこだわらず、
次の人生に活かすことを考えれば、
やっぱり、何事も「経験」なんだろうけど、

そういう悟りに至るまでには、
今日終わるばかりのオリンピックは、
まだ記憶に新しすぎるだろう。

がんばった人たち、
ホントにお疲れさまでした。

そして、いろんな感動をありがとう。

2008年8月23日

手段が大げさ

蟻んこっていうのは、
ホントに敏感だなぁ...

って思う。

よくも、甘いものを見つけて、
家の中まで入ってくるもんだ、と。

子供がアイスクリームをこぼしたりして、
そこをちゃんと拭かないと、
蟻んこが行列をつくって来ていたりする。

都会では、
あんまりありえない話かもしれないが、
わが家では、時々ありえる。
ちょっと古い家だから...

そんなふうに生きている蟻んこは、
ホントに、たくましい。

でも、人間がやろうと思えば、
簡単に踏みつぶしたりできる存在。

山の中に行くと、
蟻んこのサイズもけっこう大きくなって、
簡単に踏みつぶせるような雰囲気でなく
感じたりするから不思議だ。

大きくなったとは言え、
せいぜい2センチくらいだからね。

でも、それくらいの蟻んこになると、
怖い人は怖いらしい。

大げさにして、叩きつぶそうとする。
下手すると、そんな小さな蟻んこを、
ライフル銃で打ち殺すかのような形相だ。

そんな光景を思うと、
ふと考える。

たいした敵でないのに、
手段を大げさにして、かえって、
ミスをする時が人間にはあるよなぁ、って。

それって、完璧に消し去りたい、
そうしないと怖い!という恐怖心から
来るもののように思います。

怖くなかったら、
そんなに大げさな手段に、
なることはないはずなんです。

見た目たいしたことはないけど、
なんか空気的に「しぶとい」気がして、
怖い感じがするのでしょう。

たいしたことのない敵には、
冷静さを失わずに、対処したいものです。

2008年8月18日

素晴らしすぎて分からない

素晴らしい!

ブラボー!

って感嘆の声をかけられるのは、
そのことが分かるからであって、

それがよく分からないと、
そういう感動もない、ってことになる。

北京オリンピックの競技種目を、
いくつも見てきたけれど、

私にしてみれば、やっぱり、
卓球が良く分かる。

あと、子供の頃にやったり、
ルールが簡単なもの、
柔道、バレー、陸上、バドミントン、
なんかは分かる。

ところが、カヌーとか、馬術の競技になると、
さっぱり、分からない。

きっと、私と反対に、
卓球がさっぱり分からないという人もいるだろう。

しかし、私以上に卓球の分かる人は、
私には気づかないポイントに、
大きな感動をしていることだってあるだろう。

そういう素晴らしいところは、
私には、素晴らしすぎて分からない、
ってことになる。

素晴らしさが分かってくれる人が増えないと、
スポーツであれ、芸術であれ、
本当のファンは増えない。
(選手の容姿や個性でファンが増える場合もあるが...)

卓球やバドミントンは、
競技人口は20万人くらいいると言う。

一方、今回銀メダルを獲って
話題になったフェンシングは、
5000人ほどという話。

競技する様子をテレビ映像で見ていると、
剣の先が、相手の体にさわって、
ランプがつけばポイントみたいな感じもするが、

そのセンサー感度がいいか悪いかを、
チェックしながら競技を進めている光景があったり、
選手の後頭部や背中に
垂れ下がっているケーブルがなんとなく気になったり、
簡単じゃない感じもしてくる。

そこにいけば、やっぱり、
サッカーは分かりやすい。

ボールを蹴って蹴って、
相手のゴールに入れるだけ。

100m走なんかもっと分かりやすい。
ゴールまで一番早く着けばいい。

素晴らしさも、分かりやすいだろう。

もちろん、分かりやすいから人気が出る、
というわけでもないが、

素晴らしさを分かりやすくする、
っていうのは、何事においても
大切な気がする。

でもなぁ、あんまり分かりやすいものに頼り過ぎると、
人間が考えなくなって、ダメになる気もするな。

うーん、でも、分かりやすさには、
かなわないっていうのは事実だ。

分かりやすさに勝てるものを作りたいもんだ。
それは、面白いとか、楽しいとかしかないかな...

2008年8月13日

火の番

昨晩は、キャンプ場で一夜。

キャンプ恒例の花火を、
子供たちといっしょに楽しんだ。

花火の後のキャンプファイヤーの火が
まだ消え残っていて、

消えきるまで
時間がかかりそうだったことから、
わたしは、火の番をすることにした。

きれいな夜空の下で、
眠るのも悪くないだろう、と。

風も涼しい。
虫もあんまり寄ってくる気配がない。

11:00頃、みんながテントに帰り、
私は、居心地のいいチェアに座っていると、
うつらうつらと眠っていたようだ。

気づいたのは、11:50頃。
おお、本当に眠っていた...

夜空なんか、見ていた記憶もない。

ただ目を開けたら、けっこう、
真っ暗なはずなんだけど、
周りが見える見える、よく見える。

自分の体の体温から、
視力まで、夜に同化したような気分だった。

虫とかにとっても、
違和感のない存在になれたかな。

子供の頃は、夜って怖い、
みたいなイメージだったけれど、

大人になっての夜は、
同化できれば気持ちいい。

目の前にあった、
まだかすかに赤いファイヤーの残り火も、
間もなく消えるだろう。

風が葉っぱを揺らす音は聴こえても、
どこまでもどこまで、穏やかな夜。

夏の山の夜は、気持ちいいですね。

2008年8月 9日

信念か、逃げか

人が何かに夢中になっている姿は、
良くも悪くも、人を圧倒するもの...

昨晩の開会式で始まった、
2008北京オリンピックでは、
いい意味で、そういった感動的なシーンが
数多く見られるだろうと期待している。

しかし、それとは正反対の
夢中なシーンも、世の中にはある。

たとえば、負けの混んでいる人が、
パチンコ屋に通い詰めて夢中になっている姿は、
かなり危なげに見えるだろうなぁ、と想像できる。

店員でさえも、
「あの人、大丈夫なんだろうか?」
と心配したくなる人もいるのでは...

パチンコに限らず、
本当は趣味レベルのもののはずが、
本業以上に夢中になっている姿を見ると、
周囲の人からは「逃げ」ているように
感じられるだろう。

しかし、そこは、判断の難しいところ、
そこに信念をもって突き進んでいき、
チャンスを作ることが出来た、
という場合もありうるから。
(もちろん、パチンコのことではないが)

本人は信念だと思っていても、
結果的には「逃げ」だったということもあれば、

本人は逃げだと思っていたが、
結果的にはチャンスとなり「信念」を生み出すこともある。

どちらにどう転ぶかは、
本人の努力っていうものもあるけれど、
その時代の流れっていうのも無視できない。

同じことを、いつ、どこでやるかによって、
実を結ぶ可能性も変わってくるから。

となれば、やっぱり、結果オーライということか。

結果がついてくれば、信念で、
結果がついてこなければ、逃げ?

うーん、世の中からは、
そういう判断をされるだろうなぁ...

そうなれば、パチンコでも、ギャンブルでも、
突き進んでいった先で、大当たりがあって、
すべてが挽回できれば、
信念だった、と言ってもらえる?

やっぱり、そうなっちゃうかぁ。

でも、信念は、
どういう結果があろうと、
信念であって欲しいなぁ。

そしたら、「逃げ」がかわいそうかぁ。
認められるチャンスが与えられてもいいだろうからねぇ...

信念か、逃げか。

人の目を気にすれば、気になることだけれど、
本当は、どっちでもいいことかもしれないな。

じゃあ、私は、
信念のギリギリのところで、
とことん、逃げてみるか!

2008年7月21日

何に勝つために

何かをがんばるということは、
何かに勝つためにがんばっているはず。

それが、
人間相手であれば、
高橋さんだったり、
斎藤さんだったり、
近藤さんだったり、
今野さんだったり、
と名前も浮かんでくることになる。

相手がはっきりしていれば、
対抗意識っていうのも燃えてくる。

けれど、燃えすぎた対抗意識が、
かえって、自分を苦しめてしまうこともある。

そうなると、戦う相手は、自分になる。
自分の中でふくらみすぎた意識を、
冷静なレベルまで下げないと、
相手との戦いどころではない。

ある意味、無理な部分は無理と
あきらめてみるのも一つの手だろう。

ただ、そういう思考回路になれない人も
いるだろう。

どう戦っても、勝てそうにない相手は、
敵ではなく、自分であったりするのだ。

変われない自分を相手にするのは、
ホントに手強い。

肩の力を抜こうと思っても、
ちょっとも抜くこともできない。

逆に、集中しようと思っても、
気が散ってしまう。

怖がらないように思っても、
ビビってしまう。

どうしようもない心。
自分の心に勝てないで、
他人の心に勝てるか。

ただ、この心も
コロコロ変わるかもしれないから、
あきらめずに、付きあっていった方がいい。

自分との、長い、長い戦い。

2008年7月14日

心のステージ

心というステージには、
いろんなものが登場してきて、

私たちを
楽しませたり、
恐がらせたり、
退屈させたり、
刺激を与えたりしている。

いつもいつもだ。

夜眠っていて、
夢を見ている時だってそうだし。

本当は、心のステージに、
どんなものが登場しているかなんて、
他人には見えないはずなんだけど、

表情や行動を見ていると、
なんとなく分かってくることもある。

他人のそれを見て、
自分の心のステージに出てくるものも
変わってくる。

優越感だったり、イライラだったり、
喜びだったり、悲しみだったり...

仕事やスポーツで、
ステージに油断が登場してくると、
ろくなことが起きません。

つかみかけていた勝利が、
するりと手のひらからこぼれたり、

そこまでいかないとしても、
油断が、突如として不安に化けたり、
心のステージの移り変わりは忙しい。

油断の代わりに、
今やるべきことへの集中、

不安の代わりに、
平安(冷静)な感情の登場を
お願いしたいもんですが、

それこそ、油断していると、
登場するものは、どんどんと
変わっていきます。
だいたいは、悪い方へ。

心のステージを成り行きまかせにしていると、