同じことを何度も言うのを、
止めて欲しいなぁ...
というクレームが
妻に入った。
次女からだ。
たしかに、思い当たる。
ボケたわけじゃない。
本当に分からせるため。
分かったかどうかを確認するために、
同じことを何度も言っている気がする。
それは、たしかだ。
今年の3月になれば、
40歳になる。
間違いなく、オジサンだ。
そうでない振りをしても、
40歳という響きには、
オジサン以外の空気は
見い出せない。
実際問題、
30代でもオジサン的なところも
あるだろうが、
まだまだ30代だから、
と自分では認めていなかったけれど、
40代になったら、
否が応でも認めなくちゃいけない気はする。
そこに来て、
「しつこい」
「くどい」
「同じことを何度も言う」
なんてことになったら、
私のなりたくないオジサンに、
そのまま、なっちゃう路線だ。
うーん、これは、まずい。
この次女からのクレームは、
真摯に受け止めて、対処したほうがいい。
本気でそう思った。
「口を動かす暇があったら、
体を動かせ。」
これくらいのポリシーをもって
生きたほうが、おしゃべり人間は、
ちょうどいいかもしれない。
「あなた、しゃべるの好きだからね。」
妻も、ダメ出し。
「口を動かす暇があったら、
頭を動かせ。体を動かせ。」
今年の決意は、これに変更します。
ダイエットにもいい決意かもしれないな。
がんばるべ!
あけまして、おめでとうございます。
昨晩は、とうとう、
11:00頃には眠くなり、
そのまま床につき、
今朝5:00頃に、
新年の朝を迎えました。
何か、
新しい決意をと
思いましたが、
去年から未達成の目標が、
まだまだ中間地点を過ぎたばかりで、
新しい目標まで
心が及ばない感じです。
とは言っても、
その未達成の目標のために、
新しいアクションもかんがえなければ
いけない気配もするわけで、
それをやり遂げる、
新しい決意は必要な気はします。
今朝の体重は、
59.5kg。
昨晩、ちょっと食べ過ぎたわりには、
なかなかいい感じの体重です。
まだまだ続く正月三が日にも、
油断せずに、食べ過ぎることなく、
ベスト・コンディションな体で、
新年のスタートを切りたい、
と思っているところです。
やはり、体の健康と、
心の健康は大切ですよ。
「心と体を健康にする!」
っていうようなことを、
新年の決意にしても、
おかしくない時代が来ているようにも
見受けられますから。
ホント、大切ですよ。
誰でも、体の病ばかりでなく、
心の病にかかってしまう可能性は
ありですからね。
心と体を健康にする!
2009年の決意は、
今のところ、こんな思いつきで、
始めようとしています。
いい年に、してやるぞ!
今日が2008年ラストです。
みなさま、お世話になりました。
不景気だ、
100年に1度の危機だ、
円高だ、
ガソリン値上げだ、
食品偽装だ、これも値上げだ、
リストラだ、
派遣切りだ、
減収減益だ...
そんなコトバばかりが耳に残っていて、
いいニュースを聞いたことなど、
すっかり忘れて、今年も終わりそうです。
でも、2008年を生き延びたこと。
これだけは、かなりいいことかもしれません。
生き延びることっていうのは、
実は、とっても大切なことなんだと
改めて思います。
もちろん、生き延び方にも、
いろいろあって、
後悔するために生き延びていることや、
もっと学ぶために生き延びていたり、
何かの償いのために生き延びていたり
することもあるでしょう。
それでも、しょうがない。
生き延びた方がいい。
何かを信じて、
何かを夢見て、
っていうのが難しくなっている方々も
少なくないでしょう。
それもそれで、しょうがない。
それでも、生き延びた方がいい。
ちょっとご年配の方々は言います。
「今の時代は、
おかしくなっている」と。
そういえば、自分たちの責任は、
まったくないかのように。
でも、思うんですよね、私は。
おかしくなったのが事実だとすれば、
それは、短時間でおかしくなったことじゃない、と。
そういうご年配の方々の何かの積み重ねが、
その「おかしさ」を引き寄せたかもしれない、と。
一方、おかしくなったわけじゃない、
という考え方もあると思うんです。
時代が進めば、進化すれば、
必ず、試行錯誤で変わっていくんだと。
その変わってくなかでは、
必ず、アップ&ダウンがあって、
結局、人間はなんとかして
解決していく力があるんじゃないかと。
いずれにしろ、明日からは、2009年。
心構え次第で、たいへんキビシイ1年にもなれば、
意外と、かるーく耐えられる1年になるかもしれない。
自分の生き方に、自分が責任をもつことだけは、
変わりない。みなさん、がんばりましょう。
何が無駄かを
決めることは、
実は、かなり難しい...
ことなんじゃないかと思う。
今は無駄なことでも、
後になって、
意味のあることになるものが、
無駄なことの中に必ずある。
一方、今も無駄で、
後になっても無駄なことも
必ずある。
今にも未来にも、
決して無駄なことはしたくない、
と思ったら、
何一つ失敗しちゃいけない、
と言われたことに等しいかもしれない。
失敗しないということは、
前例のあることしか
やらないこと。
つまり、過去しか
見ないことになるだろう。
未来を見るとしても、
ちょっと先の見える未来くらいしか、
見ないかな。それも、
誰でも予想できる未来を。
前例のあること、
誰でも予想できる未来だけを
追いかけていくと、
変化を起こすことが
だんだん遅くなっていく。
そんな遅い自分には、
自分がどんどん飽きてくる。
無駄なことをする自分にも、
飽きてくるかもしれないが、
無駄なことをしない自分にも、
人は飽きるものなのだ。
どっちがいいか。
さらに考えれば、
無駄なことをしないように
生きている自分は、
そのうち、
無駄なことができないために、
大きな失敗をしていることに
気づかされる時が来るかもしれない。
何が無駄か。
ホントに、よく分からない。
だから、人生は面白いかもしれない。
来年も、無駄なことをしてみよう。
これから、年末年始の商戦が
本番になりますが、
あきらめているところも
あることでしょうね。
そういう原因を作っているお客の一人として、
自分のことを考えてみても、
私の心の中では、
やっぱり財布のひもが
キツク締められている気がします。
どういうものになら、
お金を払おうと思えるか。
そういう基準が、
どんどん高くなっている気がします。
大げさな話。
食べ物以外は、
買い物しなくても
生きていけるような環境に
いるかもしれませんからね。
どうしても欲しいから、
買うかもしれないけど、
そういう欲しくなるものがなければ、
とりあえず、食いつなぐだけでいい、
みたいになる人だっていてもおかしくない。
そういうお客しかいないことを想像すれば、
商売する側は、いろんな工夫をこらして、
お客さんの心に刺激を与えるか、
それができなければ、
そういうアイデアが浮かばなければ、
成り行きまかせにするか、
あきらめるか、
っていうところでしょう。
新年を迎えるにあたって、
「あきらめ」で始めるなんて、
暗い話かもしれませんが、
わたしは思うんです。
ある意味、あきらめをしないと、
新しい局面には入れないんじゃないか、と。
あきらめない、あきらめない、
と言葉では強いことを言っていても、
新しい局面に入ることから
逃げているだけかもしれませんからね。
今のことはあきらめて、
新しいことに向かって突き進む。
あきらめは、悪いことじゃないです。
とりあえず、あきらめて、
新しいスタートの準備をしましょう。
新年まで、あと5日。
何を成長させたいか、
っていうことも大切だけれど、
どこで成長したいか、
っていうことも考えなくちゃいけない。
大人になっても、
成長した方がいい分野は、
いろいろとあるわけで、
人間関係、
話術、
仕事の能力・技術、
お金の管理能力、
センス、などなど...
分かりやすい成長分野、
活躍が目立ちやすい成長分野に、
人の目は向きやすいけれど、
必ずしも、そういうところに、
力を注げば、誰でも成長できるとは
限らない。
みんなの注目にはならないかもしれないが、
長い目で見れば、本当の成長につながる分野
っていうのもあるだろうから。
そういうことを可能してくれるのは、
どこか。
今、進路を最終決定しなければいけない時期に
差し掛かっている中学3年生とか、高校3年生には、
そんな視点も、必要な気がします。
ナンバーワンの学校だから、
みんながそこに行けば、
成長できるとは限らず、
けれども、レベルの高いところ(学校など)を目指さないと、
周囲に「やる気」のある人があまり集まらないために、
勉強やスポーツ(部活)にがんばるどころじゃない、
なんていう事実も無視はできない感じです。
選べる「ところ」が近くにたくさんあれば、
まったく問題はないのですが、
お金と時間という条件を考えれば、
絞られてもきます。
何を成長させたいか。
どこで成長できるか。
見えないものも含めて、
よくよく考えないと、
自分の未熟さにつまずくことが
多くなりそうです。
人が、
一生懸命になれる時っていうのは、
それぞれ違うんだなぁ...
って改めて思った。
仕事でも、学校でも、
いっしょに何かをやる仲間がいて、
その中で、
一生懸命になれる人と、
だんだんとだらけてくる人がいる。
当然といえば当然だが...
しかし、だらけている人間でも、
何かしら、ちょっとした「儀式」が発生すると、
ピリっと引き締まってくる時がある。
それは、何かの「本番」だったり、
「この人は偉いな」と圧倒されるような存在の人が
登場してきたり...
そういう儀式だ。
だから、そういう儀式が発生しない関係、
つまり、友だちや、家族の関係においては、
どこまでも、だらけてしまう。
なかには、とてつもない肥満に
至ってしまう人も出てくるだろう。
やっぱり、儀式がないからだ。
ただ、儀式が頻繁にあると、
一生懸命にやる時間が増えていいところもあるが、
ストレスも増えて、バランスを失いやすい。
と同時に、「儀式」そのものに慣れてしまい、
反応する儀式のレベルがアップしてしまうのも事実。
儀式がないとピリっとしない人は、
だいたいにおいて、
リラックスするのが上手だったりもするから。
もちろん、リラックスするのが上手とは言っても、
慣れない儀式では、ものすごく緊張するところも
あるのだが...
自分で、緊張感をコントロールできる人間。
そういう人を尊敬してしまうなぁ。
やっぱり、後で分かるもんなんです。
欲しいと思っていたものが、
なぜ手に入らなかったか。
逆に言えば、
欲しいと思ったその時に
手に入らない方がなぜ良かったか、
ということ。
たとえば、
マイホームが欲しい、
と思います。
マイホームは値段的にも、
大きな買い物ですから、
簡単に手に入るものじゃありません。
いろんな段取りをして初めて、
スタートさせられる話です。
場合によっては、
ハードルが発生して、
手に入らないということも出てきます。
そして、しばらくすると、
今のような金融危機が来たり、
人によっては、
リストラされたり職を失ったり、
はたまた、
間取りのせいで
家族関係が変になったり...
そんな話を耳にすると、
「ああ、あの時に手に入らなかったのは、
正解だったかもな」
なんて思えます。
結婚相手が欲しい、
美顔が欲しい、
ナイス・バディが欲しい、
クルマが欲しい、
お金が欲しい、
子供が欲しい、
権力が、地位が、名誉が、人気が...
欲しいものにはキリがありません。
今持っているもの以外は、
欲しがってもいいリストに
並べられる可能性があるわけですから。
どれもこれも、
後になってみれば、
欲しいと思っていたことが、
実は不正解だった、
と思うこともあるのです。
分かってみて初めて、
欲しがるだけでは幸せになれない、
成功するわけじゃない、
ということに気づきます。
もちろん、本気で欲しがらなければ、
手に入らないっていうことも。
欲しいの上に、絶対に必要だ、
にかなり近い使命感がないと、
正解じゃない気がします。
最近、思ったことです。
あの時には手に入っていなくて、
よかったなぁ、って感じましたから。
ああ、もう面倒くさい、
と思い始めてくると、
なんとか、逃げたり、
終わらせたりすることにばかり
考えが集中する。
「ま、いっか、
ここまでやったら、
とりあえず大丈夫でしょ。」
問題の解決が中途半端なまま、
自分を納得させることすら出来る。
私も、時々、
そういうことをやっちゃいます。
もうちょっと前に進むまで、
がんばれば、根本的な解決が
見られた、というのに...
だから、ほとんどの場合、
しばらくして、問題が再発するのです。
で、また、同じ対処法で、
解決をがんばる。けれど、
また同じところで、
面倒くさいと思ってしまう。
最近の私も、
ちょうど、そんな感じでした。
ああ、面倒くさい。
やめてしまおっかぁ...
でも、今回ばかりは、
そこからの決心が違いました。
今回だけは、
とことん解決しなければイヤだ。
また、同じことをするのは、
絶対にイヤだ。
すごくネガティブな、
否定的な、嫌悪的な考えから
来る決心だったかもしれませんが、
私を動かすには、
十分だったようです。
そう思った瞬間から、
30分も経たないうちに、
根本原因を発見することが
できました。
よしよし...
やっぱり、あきらめないことは
大切だなぁ。
後悔したくない、
という気持ちには、
夢をあきらめないでがんばるとか、
失敗しても目標を目指すとか、
そういう姿勢であれば、
尊敬のできることだけれど、
罪を犯した後に、
それを行ったことに
後悔はしていない、
と公言するのには、
なんとなく無理があるように思う。
きっと、
「後悔はしていない」
ではなく、
後悔したくない、
という気持ちなんだと思う。
後悔してしまえば、
そこからさかのぼって、
いろんなことが悔やまれるようになるから。
自分が生まれたことも含めて、
いろんなことを後悔しないと、
その罪の重さを償えないくらいに
心に重荷を感じることすらあるだろう。
謝ったらどうだ、
反省したらどうだ、
後悔はないのか、
そんなことを問い詰められれば、
問い詰められるほど、
自分の行動を守りたくなる。
守らないでは、
自分が立っていられないような気分になる。
悔いのない人生を、
後悔のない人生を、
そういうスローガンばかりが
美化されているから、
後悔するべき時なのに、
「後悔」が嫌われてしまう。
そして、後悔しないことによって、
先の人生に、光がなくなったりもする。
過ぎ去ってしまったことを、
後悔して、人生に影が差してしまうのも
苦しいことですが、
後悔しないで、人生の先に、
光が見えなくなるのもツライことです。
どちらがいいか。
イヤだけれど、後悔するしかないんですね。
人間は、後悔するように出来ている。
そんなことを言う人もいました。
ホントに、そうかもしれません。
わたしは、時々、
だまされているのでは...
と思ってしまうことがある。
「おまえは、そんなことないか?」
と妻に聞いてみると、
「ない」という返事。
「だって、だまされたことないもん。」
と、妻が言った。
なるほど...
と思いかけて、
まてよ、俺だって、
そんなにだまされたことはないぞ。
1分くらい、集中して、
だまされたことないか調査を、
頭の中でグルグルとやったが、
事前に防ぐことができたのか、
そんなにない、という結論。
なのに、
「だまされるんじゃないか?」
と思うのは、なぜだ?
もう1つの結論は、これでした。
わたしがだます人間だから、
だまされるんじゃないか、
という心配も出てくる。
だます側の心理状態とか、方法を、
ちょっとは知っているから、
それにハメられないようにと思うわけです。
もちろん、大きな「だまし」を
しているわけじゃないですけど、
どうしたら、人より楽に出来るか、
くらいのことは考えるわけです。
どこで手を抜けるか、
みたいな。
合理的にやる、っていうのは、
ある意味、どこかをごまかす、だます、
っていう意味合いもありますからね。
もちろん、いい意味で、ですが。
そう考えると、
仮にだまされようとも、
妻みたいな人間は、
「だまされるのでは...」
という心配などすることはないでしょうし、
私みたいな人間は、
全然だまされなかったとしても、
「だまされるのでは...」
という心配をすることになる。
うーん、生き方の違いか。
だまされずに、なおかつ、疑わずに、
生きる方法があればいいなぁ。
何かを言ってやりたくなる。
それは、言ってやれば、
何か変えられる気がするから。
しかし、ふと、
自分をかえりみる。
何かを言われて、
「あぁ、そうだな」と思い、
変わったことがあるか?
うーん、ないな。
恐ろしいほどにない。
不思議なことに、
人の言うことをきかない人間に限って、
人に何かを言って、
言うことをきかせようとする。
そして、言うことをきかないと、
さらに怒りたくなる。
つまり、
こういうことなんだろう。
「他人を信用しない人間ほど、
何故か他人に期待する傾向が強い。」
(的を射た言葉、森博嗣)
信用していないから、
何かを言いたくなる。
言わないではすまなくなる。
そして、勝手に期待をかける。
待てないから、イライラする。
さらに、何か言いたくなる。
間違いなく、悪循環。
言うことをきかない相手が
悪いのではなく、
素直じゃない自分が悪い。
そもそも、素直じゃない自分だから、
他人から言われたことを、
自分そのものが言うことをきけない。
そういう人間が言うことは、
他人に聞いてもらえるような内容や言い方で
あるわけがない。
言うことをきく人間の言葉ほど、
他人からも言うことをきいてもらえる。
悲しい現実かもしれませんね。
「どうして、みんな、
言うことをきかないんだ!?」
と嘆いている人は、
「あなたの方こそ、
言うことをきかないでしょ。」
と言われているかもしれない。
ああ、私のことだな。
占い、
っていうのは、
大きくわけて、
2つのタイプがあると思います。
1つは、なんていうか、
大きなパワーとか、プレッシャーで、
その人の運命を予言するような、
押しつけるような感じのもの。
それが、その通りになれば、
「あの占い、当たるよ。」
っていうことになります。
もう1つは、
気づきを与えてくれるようなもの、
アドバイス、助言みたいな感じ。
きっと、身近な人からも、
同じようなことを言われたり、
指摘されたりすることがあっても、
素直になれないから、
「気づき」とならない前に終わっている。
けれど、関わりのない、利害関係のない第3者、
占い師という人間からの言葉だから、
なんとなく、素直に聞ける。
叱って欲しい、という願望が
満たされるような感じ。
ただ、よくよく、そのアドバイス内容を考えてみれば、
別に、自分じゃなくても、他の人にも、
当てはまるような気がするんです。
たとえば、
「今週の魚座」に言われた言葉が、
別に、魚座の人じゃない人が読んだとしても、
「そうだ、そうだ、
そういうところあるよ、わたし。
気をつけないと...」
って思えることだったりするんですよね。
その代わり、当たる、当たらない、
というギャンブル性がないから、
占いという商売としては、
長続きできるんじゃないでしょうか。
当たっていた占いは、
当たらなくなれば間違いなく、
見向きもされなくなるはずですから。
そうすれば、そういう占い師さんの中には、
当たっているように「見せる」ために、
変な小細工を始めたりする人もいる。
占いは、当たる必要なんてない。
「気づき」になるだけで十分。
占いについて考えていたら、
そんなことを思いつきました。
何かの練習をする、
ということは、
本番のためのことであって、
そういう目指すものがないと、
練習をするということは、
あまり、やりがいのないことだ。
しかし、その練習が、
その本番のためにやると言っても、
あまりにも「現実とかけ離れている」ように
思われる時には、練習に身が入らない。
練習は、現実じゃないのは当然だけれど、
現実を無視したような練習は、
やる気すら、そいでしまう。
スポーツであれば、
心の練習、技の練習、作戦の練習、
みたいに分けられると思うが、
やる気がそがれてしまえば、
「心の練習」には至らないことになる。
本番に、どういう心理状態になるか、
は練習としても大切ですからね。
となると、どれだけ現実に近づけられるか。
どれだけリアルか、ホンモノか、
っていうことになる。
練習させる側のコーチとか、指導者は、
そういう「現実」「リアル」に近い状況を
なんとかして作らなくちゃいけない。
私自身、現実味、リアルさが感じられないと、
けっこうダラけたり、イヤになったりする人間なので、
自分のケツに火をつけるのに、苦労することもあります。
相手がある勝負の時に、
勝つということは、
攻めることだとばかり思っていた。
しかし、
相手のミスを誘うことができても、
それが勝ちにつながる、
という当たり前のことを
最近になって、分かってきた気がする。
うさぎと亀の話ではないが、
まともに勝負したら、
パワーがあるもの、
速いもの、
アタマのいいものが
勝つに決まっている。
しかし、
パワーがあるゆえに陥ってしまうミス、
速いからこそ見落としてしまうミス、
アタマがいいからこそ軽視してしまうミス、
そういうものをお膳立てできれば、
勝てたりするのだ。
強いはずのに負けたほうは、
なんで、負けちゃうんだ、
みたいな複雑な気持ちになることでしょう。
ミスは誰にでも起こりうる。
そのミスをしないように、
人間は生きていたり、
戦っていたりするけれど、
ミスの起こりやすい状況は、
意外なところにあったりします。
油断していたつもりはなくても、
予想外のことが起こると、
対応できないことが多いのが人間。
強くて勝つ、という生き方もありますが、
性格によっては、
相手のミスを誘って勝つ、という生き方もある。
きっと、それ以外にもあることでしょう。
いろいろと学んでいます。
話が大げさになると、
解決するものも解決しなくなる。
たとえて言えば、
2,000円くらいで済むことが、
5,000円もかかる話になったり、
「はい」と3秒もかからない返事をすればいいことが、
1時間も、2時間も、ああだこうだと話し合うことに
なってしまったり、
顔を見て30分話せばいいことが、
半日も缶詰で文書をつくって送ったところが
それでも分かってもらえなかったり...
なんて具合に、
大げさにしてしまうと、
解決が遠のいていく。
大げさにしてしまう理由は、
いくつかあるのだけれど、
1つは、
どうしても、自分の思い通りに
進めたいとき。
もう1つは、
その自分の思いを、
正直に言わないで済ませようとしているとき。
前者は、
自分の思い通りにしたい気持ちを
どこかであきらめないと、
どんどん、大げさになっていく。
後者は、
どこかで、自分の思いを正直に
言わないと、これまた、
あらぬ方向に話が進んでしまう。
わたし自身も、自分のやっていることが、
なんか、大げさになってきたなぁ、
と思ったりすることがあります。
そんな時には、やっぱり、
上の2つが関係している。
どこかで折り合いをつけるか、
自分の正直な思いを伝えるか、
そうしない方法ばかりを探していると、
どこまでも、大げさになっていくし、
なかなか、話が終わらなくなる。
大げさは、間違いなく、ムダですよ。
自分の失敗や挫折のために、
自分がかわいそうで、
泣くっていうのは、
誰にでも出来ることだろうけど、
映画や本、聞いた話など、
他人のことで泣けるというのは、
心が成長しないと出来ないこと
なんだろうと思う。
幼い頃に、
純粋に、かわいそうに思えて、
泣けたことが、
ちょっと大人になると、
そういうことにも慣れて、
あるいは、自分の問題だけで
頭がいっぱいになって、
泣けなくなってくる。
けれど、さらに年を重ねていった時に、
また、心の感性がいい意味で戻ってきて、
泣けてくる。
人は、そんなふうに
成長していくんじゃないかなぁ、
って思います。
泣きたい気持ちを、
自分の心で抑えすぎたり、
誰かに抑えられたりしていると、
もしかしたら、心が鈍くなるかもしれない。
それが、大人の状態。
そこから解放してあげる力が、
自分の中から生まれてこないと、
いい涙を忘れる人間になる・・・のかな。
秋なんでしょうか、
思いっきり泣きたいことに出会いたい、
と思ったりする40歳近い男です。
ちなみに、福山雅治さんより
40日遅く生まれた男です。
もったいない、っていう言葉は、
ありがたいもんだからという意味合いも込めて
使われているんだろうけど、
もったいないって思うことばかりが
いいことじゃないなぁ、って最近思う。
前を走っている車が、
もっとスピードを出して、
この信号を突っ切ってくれたら、
もっと早く行けたのに、もったいない。
あの時、ふと思いついたあの馬券を買っていれば、
とんでもない万馬券だったのに、もったいない。
あそこでやめていれば、
まだお金がいっぱい残っていたのに、
もったいない。
この子が、自分の力をちゃんと出して、
がんばってくれたら、勝てていたのに、
もったいない。
ランチ・バイキングにきて、
お腹が破裂する寸前まで食べないなんて、
もったいない。
もしかしたら、
もったいないっていう言葉の使い方を、
間違っているのかもしれない。
「広辞苑」の3番目には、
そのものの値打ちがいかされず
無駄になるのが惜しい。
という意味が掲載されている。
値打ちがあると思って、
もったいないがって手に入れたものが、
実は、たいした価値がない。
価値がないならまだしも、
自分にとって、とても危険なものだとすれば、
もったいないがらない方がいいというわけだ。
もったいない、っていう言葉を、
ありがたがる前に、
もったいないがるのがいいものと、
もったいないがらないのがいいものの区別。
それが必要な感じがします。
いろんなものに溢れている今の時代は、特に。
今の自分に興味はあっても、
自分の人生には興味がない。
同じ自分が含まれているんだから、
同じだろうって持っていたけれど、
なんとなく、興味の方向で違うから、
そんなことがありえるんだな、
っていうことが、最近分かってきた。
簡単に言っちゃえば、
自己チュー、
自意識過剰、
視野が狭い、
という言葉になっちゃうけれど、
必ずしも、悪いことばかりではない。
自分の目標に向けて
がんばっている状態でも、
そういうことが起こりうるからね。
「待てない」って言葉に、
強引にまとめることもできますがね。
自分に興味があるんなら、
自分の人生にも興味があればいいものを、
と思ってしまうのですが、
どうも、長い目で見た「人生」には、
興味をもつのとは、話が違うようです。
今、欲しい。
今、目標が叶って欲しい。
今、そうでなくちゃ不快...
長い目なんて、
持っていないんです。
よく言えば、
「この子は、いい子になろうとしているんだよ。」
「この人は、いい人になりたいんだよ。」
となりますが、
もっと掘り下げてみれば、
「じゃあ、どうして、いい子(人)になりたいの?」
となる。
きっと、
人に認められたい、
人にホメられたい、
人に注目されたい...
そういうことに行き着くことが多い。
自分の人生において満足を得られることよりも、
今、どう思われるかに、心が注がれてしまう。
そして、今、失敗すると、
もうダメな気がする。
その失敗が続こうものなら、
もう、ずっとダメな気がする。
自意識過剰。
「じゃあ、どうすればいいの?」
と悩む。
考えるのでなく、悩む。
考えると、悩むは、違うんだけれど、
その違いが分かっていなかったりする。
頭の中で考えただけで、
問題が解決すると思って考え始めると、
「悩む」ことになる。
頭の中で考えて決めた行動を、
心を揺るがすことなく実行しようと思っていれば、
「考える」ことになる。
考えることは、人生につながる。
そんなことが分かってきたように思います。
たとえば、
3人の子供がいれば、
7人の部下がいれば、
10人の弟子がいれば、
それぞれの姿勢が見られます。
特に、問題にぶち当たった時が、
性格というものが最も現れて、
それぞれが違うなぁ、っていうのが分かる。
8人だとしたら...
1.気づかないか、気づいてクヨクヨ。
2.大げさにさわぐか、鎖国状態。
3.なかったことにする。
4.怒る。
5.逃げる。
6.頼る。
7.焦る。
8.よく観察して行動するか、考えすぎる。
っていうケースもあるだろう。
面白いものです。
そして、どれも正しい。
もっと突っ込んで言えば、そこには、
正しい、正しくないの問題は存在しない。
というのは、人それぞれの問題への対処方法には、
それまでの生き方、育ち方が関係してくるので、
どの人も、今やっている方法が一番だと思っている。
しかし、現実は、
隣りを見てみれば、
それぞれが違う方法で
問題に対処している。
それが人間関係的な問題に発展すると、
相性も関わってきて、すぐに解決できる間柄もあれば、
なかなか解決できずに、長引く間柄も出てくる。
そういうことを何度か積み重ねていくと、
人は、いろんな方法があるんだなぁ、
と時間をかけて分かってくる。
なかなか分かっていけない人間は、
鎖国状態かもしれない。
鎖国をいったん解かせて、
鎖国状態をしているうちに、
まわりの時間がどれだけ進んでいたかを
見せないことには、難しいだろう。
もちろん、それでも分からない、
分かりたくないという姿勢の場合も、
少なくない。
方法はいろいろなのだ。
そういう人もいるかもしれない、
ということも含めて、いろんな方法を理解することが、
人生の引き出しを増やすことになるだろう。
わが子らには、
そういうことが分かる人間に
なって欲しいなぁ。
わたしは、それが分かるまでに、
かなりの時間を要した気がする。
まだ、分かっていないところもあるだろうし...
いっしょにいる人の気持ちに助けられて、
気持ちが強くなる時がある。
スポーツであれば、
対戦している相手の気持ちに気圧されて、
こっちの気持ちが弱くなる時もある。
相手の気持ちに、
どれだけの影響を受けるか。
それは、自分の気持ちが、
どれだけ自立しているか、
っていうことが問題だと思う。
いい意味でも、
悪い意味でも、
そういうことが言える。
出来れば、他の人に影響されずに、
いつも、自分の気持ちを強く持って、
生きていけたらいいなぁ。
けれど、あまりにも、
他の人の影響を受けずに、
冷静に振る舞っていると、
「冷たい人間」に思われることも多い。
冷たい人間に思われたくないと考えて、
気を遣うようになれば、これもまた、
他の人の気持ちに影響されているようなもの。
冷たい人間に思われず、
なおかつ、他の人に影響されずにいる、
っていうのは、欲張りなことだとあきらめて、
振る舞っていた方がいいかもしれない。
不器用な人なら、なおさら。
本当に欲しいのはどっちか、っていうことで。
それに集中できなくちゃ、
いつまでも、フラフラしちゃうことになるでしょう。
相手の気持ちの前で、
フラフラしていたら、相手をもフラフラさせるか、
イライラさせるか、放っておかれるかでしょうね。
同情されるのが、
とっても好きな人がいる。
同情されるのは
好きじゃないけど、
共感されたいと思っている人もいる。
落ち込んだ時、
悲しい時、
失敗した時...
自分の大切な人が
落ち込んでいたら、
なんとかして元気にさせよう、
と思うのが普通だろう。
けれど、その周りの人が、
立ち上がらせようとすればするほど、
ダメな時もあるように思う。
そういう助けられている状態が、
その落ち込みとは別に、
どこかしら居心地が良くなっている場合だ。
落ち込んでいても、
周りがあれやこれやと面倒を見てくれるから、
ある意味、何の不自由なく生きていられる状態を
与えてしまっている。
ホントに依存心の強い人だと、
そういうところから「ひきこもり」に
なったりしてしまうかもしれない。
身近に、よく落ち込む人間がいる。
その人を見ていると、
しばらくは落ち込んでいなくちゃ、
ダメだろうなと思う。
だいたい3日くらいだ。
その間は、
相手の見えないニーズに応じて、
同情するか、共感するかを選んで
対応している。
しかし、3日を過ぎたら、
落ち込みでなく、甘えに移行することが
多いようだ、その人の場合は。
その時には言う。
「自分で今の状態から立ち上がれないなら、
病院でも行って、カウンセリングでも受けたほうがいい。
必要なら、薬でも飲んだらいい。立ち上がれないか?
自分で立ち上がる気があるなら、もう甘えていちゃダメだ。」
すると、相手は、選択をする。
この状態を病気と理解したいか、
自分の甘えという理解にしたいか、
という選択だ。
単に同情や共感が欲しい人間は、
病気にしたいわけじゃない。
立ち直りたい気持ちを、
3日目くらいからフツフツとさせてくる。
人によっては、もっと早かったり、
もっと遅かったりもするだろう。
いずれにしろ、
落ち込みから逃げられる見込みのある人だ。
落ち込みに付き合いすぎてはいけない。
自分も落ち込んで、引きずり込まれることさえありうる。
病気なら医者、
そうでないなら本人の生命力。
心のリズムは何とかして戻るように出来ているはずだから。
眠気なんかぶっ飛ばして、
ガンガンやってやるぜ、
が決まり文句だったのが、
別に、眠気をぶっ飛ばさなくても、
まず寝てスッキリしてから
がんばればいいじゃん、
みたいに思うようになりました。
寝不足のために出てくる眠気のときもあれば、
まわりのゆったりした空気に
包まれすぎて襲ってくる眠気もありますが、
秋になったせいなんでしょうかねぇ。
でも、暑い夏のときにも、
眠気があったなぁ...
朝には、自然に早く起きてしまうのに、
昼には、眠くなったりする。
せっかちなのかもしれません。
それでも、
邪魔するヤツなんか、
徹底的にぶっつぶして
突き進めと思う性格だったのが、
邪魔したいヤツには
邪魔させておけばいいじゃん、
そのうち飽きるだろうし、
別に対抗しなくても、
時間が経てば、誰が悪者か、
なんて自然に知れていくんだから、
って思う感じが出てきました。
ちょっと丸くなったのかな?
昼ごはんを食べたら、
もっと眠くなるんだろうなぁ。
シャキッとせい!
と誰かに言われたい。
勝てば勝つほど、
楽しくなってくる人がいる。
勝てば勝つほど、
苦しくなってくる人がいる。
それは、
その人の器か、
その人の才能か、
その人の心のあり方のせいか。
そこらへんは、人それぞれかもしれない。
勝っているんだから、
楽しいに決まっているでしょう、
と思うのは、外野の人間だけ。
今行われている相撲場所では、
横綱の朝昇龍が6日目にして、
2敗をしたということで、
ニュースになっている。
世の中は、きっと、
お決まりの流れで、
「引退か」なんて噂になることだろう。
そんななかで勝つ相撲が、
朝昇龍にとって、昔のように
「楽しい」と思えるだろうか、
という素朴な疑問が浮かんでくる。
まさしく、勝てば勝つほど、
逆風が強くなって、
負ければ負けるほど、
追い風が強くなり、
いっそ、その風に身をまかせたら、
どんだけ気が楽だろうなんてことを
まったく考えないなんて言ったら、
ウソになるだろうな...
負けた方が楽だとは分かっていても、
心のどこかに、まだ負けたくない、
という気持ちは、フツフツとあって、
それを捨てられない自分と戦っている。
敵は、対戦相手でなく、
もう自分以外の誰でもない。
その自分が楽しい人間か。
それが勝ち続けた時の気分を
決めているのかなぁ、なんて思った。
どうだろうか?
心の問題だ、
やる気の問題だ、
メンタルの問題だ、
気合の問題だ、
勇気の問題だ。
言葉としては、
カッコいいけれど、
実は違うっていう場合は、
少なくないように思う。
「変わる勇気と、
変わらない勇気なんて、
よくいうけど、
たぶん、勇気の問題じゃないんですよね。
おそらく、洞察力とアイディアの問題なんです。」
(ほぼ日、糸井重里)
これは、本当だと思う。
もちろん、すべてのシーンに
当てはまるとは言い切れないけど...
スポーツでもビジネスでも何でも、
戦うシーンにおいて、最後の決め時に、
勇気を出して行ったことがミスをする時がある。
勇気が足りなかった、という人もいるだろう。
もっと早く勇気を出していれば、という人もいるかもしれない。
けれど、勇気が出ないことには、理由があって、
何かしら不安があったわけだ。
その不安を消す努力は、
本番前に行わなければいけないわけで、
本番では、そんなに出来ないだろう。
あるいは、アイディアをいろいろ考えるとすれば、
それも、本番前でなければいけない。
そう考えると、
勇気の問題にしてしまう前に、
その前のことが大切で、逆に、
勇気の問題にならないように、
ちゃんと手を打っておかなくちゃいけない。
いざという時に、勇気が出なくなる、
って分かっているのなら、なおさらだ。
心の問題だ、っていう時に、
心に集中しすぎても、
その問題は解決しないことが多い。
最近、プレッシャーで泣くことの多い娘を
見ていると、そう感じる日々です。
待つというのは、
あんまり楽しくないことも多く、
そんな時には、忍耐のいる話になります。
けれど、
待つという時間のなかで、
目の前に見えるものが
いろいろと変化してくれると、
それが眺めているだけで、
待っていることを忘れさせてくれる場合もあります。
昨日の私ら家族に必要なのは、
まさしく、そんな眺めでした。
朝の9:00から夕方6:30まで。
だいたい9時間半。
その間に、娘ら二人の試合は、
それぞれ3つずつで、合計6試合だけ。
(1試合長くても20分ほど)
もちろん、途中で負ければ、
早く帰ることになった大会。
対戦の組み合わせがよかったせいか、
高校生相手ながら、それなりに健闘し、
勝ち進めました。
おかげで、待っている時間が、
途方もなく長く感じられる。
目の前に、「変化」という見せ物がないと、
退屈で、しょうがなくなる感じ。
幸い、優勝候補と呼ばれる選手の試合が、
たいして強くもなさそうな対戦相手に
苦しめられるという面白いシーンを、
私たちが陣取った観客席の
すぐ近くで見ることができて、
退屈しませんでした。
その優勝候補さん、
対戦するたびに、危ない試合の連続。
私たちを楽しませる目的でもあったのか。
もちろん、そんなはずもなく、
必死だったのでしょうけれど、
研究されたり、勝たなければいけない、
というプレッシャーのもとでは、
いろんな展開があるということでしょうね。
あと、待っている時間が長すぎて、
自分の調子をいい感じにキープできなくなる、
っていうのも、ありえるかもしれませんね。
さて、今日は、昨日の試合で残った
ベスト32からの戦い。待ち時間が少ないから、
見るでなく、自分たちの試合に集中することで、
楽しむのが、目的になりますね。
人の意識には、
いろんな状況において、
高い意識と、低い意識って
いうものがあると思う。
たとえば、
高い意識の時には、
こんな感じになるだろう。
1.自分の道を進める
2.自分のやることに集中できる
3.物事とちょうどいい距離を保てる
4.考えられる
5.理解と平安がある
6.見えないものも信じられる
しかし、これが
低い意識の時には、
こうなるだろう。
1.うらやむ
2.落ち込んで心がバラバラ
3.物事にハマりすぎてしまう
4.考えられない
5.思い込みと平安
6.見えるものに押しつぶされる
ここまで落ちてしまえば、
這い上がるのは、
けっこう大変だったりすることもある。
だから、現実には、
その中間のところ、
高くも、低くもないところで、
なんとか踏みとどまって、
高い意識に、自分を持って行った方がいい。
せっかく高い意識を持っていても、
ふとしたきっかけで、そこから
降り始めてしまうこともなきにしもあらずだから、
油断したり、ぼーっとしたり、気が散ったりした時には、
注意した方がいいかもしれない。
それと、高いところから降り始めるときの自分のクセも
知っておけば、助かることだろう。
たとえば、
1.計画性がなくなったり、
2.自分の中にある引き出しを忘れたり、
3.同じことをくり返したり、
4.急ぎたくなったり、慌てたり、
5.挑戦しなくなったり...
高い意識のためには、
何らかの計画性が必要に思う。
それがあるうちは、
落ちぶれていくことはないはず。
計画を捨てた段階で、
いろんな努力の必要性も
消えたりすることが多いからね。
低い意識に落ち込む前に、
立ち直りたいものです。
みんな、がんばろう。
問題が解決するように、
と願うのがふつうかもしれないが、
その願いは、
ちょっと無理だろう、
というケースは少なくないように思う。
病気や性格、家族の中にある問題とか...
そういうケースに対して、
解決するようにと願えば願うほど、
人の感じるストレスが大きくなり、
息苦しくなることだろう。
解決するようにと願うよりだったら、
その問題にうまく付き合えるように、
と願った方がいいかもしれない。
解決されることが癒しでなく、
付き合う覚悟を決めるだけで、
心がスーッと癒されることもあるのは確か。
「こうしようと
一筋に思う心こそ
人が誰しも抱える病である
この病を必ず治そうという
こだわりもまた病である」
(柳生宗矩)
この言葉は、本当だろう。
解決しよう、消そう、
まったくなくそう、と思えば思うほど、
それを感じる心の比重が増すばかりで、
その問題から離れられなくなる。
問題が存在することが問題なのではなく、
問題を意識しすぎることが問題だ、
ということに、本人が気づいていない。
解決するように、
と願わなくてもいい問題もある。
そんなことが分かるようになったのは、
いくらか長く生きてきた証拠なんでしょうね。
まだまだ迷うことも多いのですが、
いくらか成長しているようです。
腹が減る、
という意識は、
もっと食べたい、
という意識とは、
必ずしも一致しない。
腹は減っているけど、
もっと食べたいと思わない時もあれば、
腹は減っていないけど、
もっと食べたいと思うこともあるから。
それと同じことが、
アタマの中についても
言える気がする。
知識が足りない、
ということと、
もっと知りたい、
ということが一致しないことに、
きっと似ているのだ。
もっと、という欲望は、
自分自身がすでに
たくさん満たされている現実とは、
ちょっと別の問題で、
心の不安定さに
関係してくることなんでしょう。
ここ数日、狂ったように
本を読んでいる長女がいます。
1つのことについて、
とことん考え始め、
それについて知らないと、
自分が前に進めないという状況に
至っているようです。
4、5日前には、
そんな感情は少しもなく、
なんとなくボーっと考え事をするくらいでしたが、
突如、そういう感情に占められてしまう。
他人から見れば、
十分に知っているだろう、
十分に食べただろう、
と思われても、
本人の心が、
そのことに対して不安定であれば、
それを安定させるために、
もっともっととなる。
世間では、ハングリー精神と呼ぶその感情。
若い娘の胸に、フツフツと湧きあがっている様子は、
自分も、このままじゃいけないな、
って思わせてくれる姿です。
もちろん、
食うことに関してのハングリー精神は、
あまり必要としませんが...