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2008年12月18日

よそ行きの顔

街などで、
知人に会った時には、
二つの対応タイプがある。

というか、わたしは、
二者選択をしてしまう人間だ。
(ほとんどの人もそうかもしれないが...)

1つは、
単純に声をかける。
長話になれば、話している。

もう1つは、
そうっとしておく。
もし目が合ったら、
会釈程度のことはするが、
こちらから、無理に会話をしにいくことはない。

家族とかで水入らずのところを邪魔しちゃいけない、
という配慮から、声をかけないこともあるけれど、

相手に「よそ行きの顔」をさせないために、
声をかけないことも多い。

実際、そっちの方が、
私の場合は多いかもしれない。

「よそ行きの顔」をさせたないっていうのは、
なんて言えばいいんだろう?

私が声をかけたことによって、
身構えさせてしまう感じのことかな。

「わたしは幸せなのよ」
「わたしは成功しているのよ」
「わたしは問題ないわ」

という空気をかもし出させるみたいな...

それを感じると、わたしの方も、
無意識に、同じような空気を
発しようとしていたりする。

きっと、私が競争心の激しい人間だ、
と分かっている人は、
特にそうなるんだろう。

競争心を引き出す必要のないところなのに、
わたしが声をかけることによって、
そういう気持ちを相手に抱かせて、
変に疲れさせるよりだったら、

そうっと、そのままにしておいた方が、
わたしも、相手も、平安に過ごせるはず。
そう思うから、「わたし」という人間は、
声をかけない方がいいだろうと考えたりする。

もちろん、これも、
単なる取り越し苦労かもしれないし、
誰でも、どんな関係にも、
声をかけられたら「よそ行きの顔」に
なってしまう可能性があることを
私が知らないだけかもしれない。

とりあえず、他人はどうあれ、
わたしの存在のゆえに、
声をかけないでおく、
っていう選択は、今のところ、
正解のような気がしています。

もう少し年を重ねて、
わたしの空気が丸くなったら、
大丈夫になる時も来るんでしょうけどね。

と言っても、まもなく、
30代も終わるのですが...

2008年11月26日

バラマキ

むかしむかし、
クリスマス・シーズンには、
空から、お金が降ってきました。

ってなことが、
現実として、ありましたね。

何年前かは忘れましたが、
株のデイトレーダーをしていた男性が、
お金の感覚がおかしくなり、
ばらまいて、確か、逮捕されたような...

自分のお金をばらまいて、
他人を喜ばせるのは、
まだゆるせますが、

他人のお金をばらまいて、
自分が他人を喜ばせたような勘違いを
しているのは、ちょっとゆるせない、
という人もいるでしょうね。

麻生総理の定額給付金は、
そんな目で見られてしまうもの
かもしれない。

ライオン総理が紹介した実話に、
米百俵というものがありましたね。

「だからおれは、この百俵の米をもとにして、
 学校を立てたいのだ。...学校を立て、
 道場を設けて、 子どもをしたてあげてゆきたいのだ。
 この百俵は、今でこそただの百俵だが、
 後年には一万俵になるか、百万俵になるか、
 はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、
 見つもれない尊いものになるのだ。」
 (米百俵 山本有三)

せっかくもらった米の使い方について、
分配するんじゃなくて、学校を建てるために使おう、
と提案したために、納得できない武士達を前に、
小林虎三郎(長岡藩大参事)が説得した言葉です。

国民から集められた税金が、
一部の人間や企業だけを潤すものになるか、
表面上、みんなを一時的に少し潤すだけのものになるか。

それ以外に、いい方法はないのか。

そういう使い方しか
思いつかない政治家を支持する国に
なってはいけないなぁ...

と、最近は感じます。

がんばろう、日本国民!!

2008年11月 5日

ウソをつくのは...

先日、テレビで放映していた
映画「ブロークン・アロー」にて、
皮肉な、面白いセリフがあった。

公務員である登場人物が、
起きてしまった問題について、
上司に言うセリフだ。
そして、それに返す上司のセリフ。

「正直に発表すべきです。」

「君はそれでも役人かね。」

役人は、ウソつきだ、
という偏見というか、
ブラック・ジョークなのだろうけど、

今の時代は、
ウソつきのレッテルを、
役人だけに貼れるような状態でなくなった。

そんな気がします。

誰でも、ウソをつける立場にいるんです。

自分の身を守るためなら、
やっぱり、何かしらウソをつきたくなる。
私でさえも、そんな可能性は、
否定できません。

ただ、スケールが小さい。

役人の場合は、
公的なお金がからむ可能性がある。

だから、話題性が高い。
そういうことなのでしょう...

人は、自分の何かを守るために、
他人にウソをつく。

場合によっては、
自分にもウソをついて、
自分を動かしてしまう。

自己暗示みたいな感じ...

で、それがバレたり、
失敗に終わってしまった時に、
そのウソで、自分が失ったものの
大きさを知る。

あの人のウソも、最初は、
小さいものだったかもしれません。

けれど、ウソは、
ウソを引き寄せて、
どんどん成長していくんですよね。

どこかで止めないと。

2008年10月 9日

割引券、クーポン券

使いたいと思うときにはなくて、
使う予定がないときにはある。
そして、財布の中を占領している。

気にしなければいいものを、
利用期限とかが気になって、
何度も、お店に足を運んだりしてしまう。

そのかいあって、
何か欲しいものが見つかればいいけれど、
見つからなかったりもする。

けれど、使わないと何か損した気分にもなるから、
そんなに欲しいものじゃないけれど、
あったらいいなぁ、みたいなものを手にして、
レジに向かう。

割引券、クーポン券って、
そういう心理も予想して配られているんだろうなぁ、
って思います。

その「きっかけ」となるのが、
やっぱり、会員登録。

そこからすべてが始まる。

「会員登録すると、クーポン券を差し上げますよ。」
「今なら、○○引きですよ。」
「もれなく、2,000ポイントをプレゼントします。」

なので、私は、
持ち歩かなければいけないカードが
発生する会員登録は、
けっこう避けていたりします。

財布は、これ以上大きくしたくないし、
ふくらませたくもない。

なんか、十分ですよ。

1つのカードで、
いろんな会員登録に通用するサービスが
欲しいですね。

TSUTAYAのTポイントカードは、
その1つなんでしょうけど、これからも、
いろんなサービスと連携して欲しいもの。

うーん、それにしても、
割引券、クーポン券ばかりが増えるのは、
ちょっとキツイなぁ。

顔パスで、クーポン券の登録なんか出来たら、
一番いいんだけどなぁ。

2008年10月 4日

大人の逃げ方

文部科学省が中学生に配布した冊子
「かけがえのない自分、かけがえのない健康」に、
こんな言葉を見つけた。(第2章 心の健康)

------引用------

「自分について」確かめたり考えたりすることは
特別なことのように思うかもしれません。
しかし、日常生活における様々な体験、
まわりの人たちとのかかわり、
目標への挑戦などを通して、
だれもが行っていることなのです。

何を見つめる?何を考える?
  • 様々なことに対する自分の味方や考え方、価値観(大切にしていることなど)
  • 自分の得意なことや苦手なこと、好きなことや嫌いなこと、長所や短所、目標や夢
  • 家庭、クラスや学校(部活動を含む)、地域活動などでの自分の役割・責任など
なぜ、「自分について」見つめたり、考えたりすることが必要なのでしょう?
  • 自分に対する安心感や自信が高まる。
  • 自分なりの現実的な目標をもち、目標が達成しやすくなる。
  • 自分らしい意志決定ができやすくなり、責任感も高まる。
  • 自分なりの不安や悩みの解決策、自分にあったストレス対処法を見つけやすくなる。
  • 自分の考えや気持ちをはっきりさせやすくなり、自分の意見を相手に伝えやすくなる。
欲求やストレスについて考えてみよう!
  • 欲求をもったり、ストレスを感じたりすることは自然なことです。
  • ストレスの中には、「さらに努力する」ことによって、克服すると自分を成長させるものもあります。(学習、部活動の練習など)
  • 欲求やストレスへの対処法によって、結果が大きく変わってくることがあります。
  • 適切な対処法には、様々なものがあります。
  • 落書きする、暴力をふるう、悪口を言う、喫煙や飲酒をする。これらは、適切な対処法とは言えません。間違ったもの、許されないものです。
----引用終わり-----

この他にも、人それぞれには個性があって、
コミュニケーションの方法をそれぞれ身につけよう、
っていうようなことも書いています。

行政が配布する冊子の中には、
「とりあえず」形だけ作ってみました、
感じの出来映えのものも少なくないですが、
最後まで読んでみて、この冊子には、
いいことがたくさん書いているなぁ、と思いました。

ただ、面白いのは、前述の引用にあるように、
「...喫煙や飲酒をする。
 これらは、適切な対処法とは言えません。
 間違ったもの、許されないものです。」
ということを、大人には許されている、
っていうのも矛盾しているなぁ、と。

大人も、ストレスの対処法として、
喫煙や飲酒に逃げるのはダメでしょ、
子供に真似させたくなかったら...
と私は思うわけです。

どんなもんでしょう?

2008年9月28日

気まずい答え

お子さんは?

「いません。」

ご両親は?

「亡くなりました。」

お仕事は?

「見つからないのです。」

年齢は?

「教えられるほど若くないです。」

どちらにお住まいですか?

「ホームレスです。」

尋ねる質問のすべてに、
かすりもしない答えばかり返ってくると、
気まずい空気になりますね。

相手のことを知ろうとする質問と、
場を盛り上げる、場をもたせる質問では、
ちょっと違うでしょうけど、
そういう状況が重なると、
何もしゃべられなくなったりもする。

尋ねられた方も、なんか、
イヤなことばかり尋ねる人だなぁ、
と思っているかもしれない。

たしかに、
初対面で聞いちゃいけない質問も
あるかもしれないけれど、
基本的なこととして尋ねないと、
相手と近づいた気になれない場合もあるだろう。

そこらへんの使い分け、
相手の様子の見方、
感じられるようになりたいものです。

わたし、時々、
聞いちゃいけない質問を
どうしても尋ねたくなることがありますからね。
単純な好奇心だけでしょうが...

2008年9月16日

見栄っ張りを利用する

いろんな理由をつけて、
逃げる人ほど、
見栄が強かったりする。

そういうことから考えると、
うまく逃げている時には、
自分なりに「見栄」に抵触していない自分の姿が、
イメージできているんだろうと思う。

しかし、同じ逃げるでも、
「見栄」に抵触してしまう場合が
出てくる。

そういう時には、イヤイヤながらも、
そのことを逃げずに対応しようとするもの。

それで、自分の体裁が
保たれるということを信じているから。

だから、逃げてばかりの人を
つかまえようとする時には、

その人の「見栄」に
抵触してしまいそうなシーンを
こしらえてあげればいい。

すると、振り向く。

あるいは、
傷ついた「見栄」を治そうとして、
登場してくる可能性がある。

注意しなければいけないのは、
「見栄」がズタズタになるくらいのシーンに
なってはいけないこと。

振り向くどころか、
こちらをうらんで追いかけてきて、
復讐される恐れだってあるかもしれません。

それだけ、「見栄」を大切にして、
生きている人たちかもしれないので。

利用できるものは利用するけれど、
利用されているのを感ずかれてはいけない、
ってことなのでしょう。

2008年8月28日

お得か、ゴミか

スーパーでもどこでも、
買い物に行った際に、

レジにて表示される値段が、
売り場で表示されていた値段と違うと、

「ちょっと、ちょっと」と言いたくなるものです。

先日、買い物をしていて、
そういう場面に遭遇しました。

売り場には、半額と表示されていて、
かなりお得だと思い、最後の1個に
手をのばしました。

これは得したな、と思いながら、
レジに立っていると、
レジの人が、違う金額を入力していた。
(実際は、ピって終わりですが...)

今はほとんど、手入力じゃないから、
商品をかざせば、ピっと値段が表示されるのが、
普通ですよね。

「すみません、たしか、売り場には、
 △△円ってあったと思うんですが...
 間違っていなければ。」

とやんわりと言うことにしました。

間違っていないとは思っている私ですが、
もし間違っていれば、恥ずかしいですからね。

対応のいい店員さんで、
即座に売り場に行って、
値段を確かめてくれました。

どうやら、隣りにあった、
ほとんど同じパッケージの商品を、
お客さんが手にとって、
隣りの商品棚に置いたらしく、

私は、それを最後と思って、
よく確認せずに、カゴにいれてしまった、
といういきさつでした。

「どうしますか?」

と尋ねる店員さん。

ここで見栄を張ってもしょうがないので、
お得でない商品だと分かった以上、

「すみません、けっこうです。」

と返事をして、カゴから外してもらった。

店員さんには、動いてもらって、
申し訳なかったけど、

急に、ゴミは増やしてならないな、

という考え方に染まっていた。

我ながら、勝手なものだ。
お得だと思った時には、
必ずしも必要でないものが、
必要なものに思え、
お得でないと分かった瞬間、
同じものがゴミのようにさえ見える。

これまで買ってきたものの中に、
ゴミのようなものがあるわけだ。

まったく、懲りないヤツ。

2008年7月 3日

欲しいもの

人がそれぞれ欲しいものに、
優劣なんてものはないはずなんだけど、

人っていう動物は、
その優劣をつけたがる。

たとえば、理想主義の人から言わせれば、

「私は、出来た人間になりたい。
 お金なんかには興味ない。
 お金のために働いているヤツなんて、
 バカな人たちだよ。
 お金なんて、墓場に持って行けないのに...」

なんてことになるかもしれない。

一方、現実主義の人から見れば、

「いくら立派なことを言っても、
 お金がなければ、何も出来ない。
 私は、絶対にお金持ちになる。
 きれいごとを言うだけで、
 お金を稼げない奴らは、
 いつか、現実に打ちのめされるんだよ。」

なんてことを言うだろう。

手に入れたもので、
自慢しあうのもおかしいけれど、
欲しいもので、
自分たちの人間性に
優劣をつけるのも、また変だ。

何を望もうと、何を欲しがろうと、
人生の半ばにあっては、
一時的なものにすぎない。

それに、欲しいものは、
変わっていく可能性の方が高い。

どちらかと言うと、
その欲しいものが変わらない方が、
すばらしいことかもしれない。

けれど、欲しいものが何かによっては、
やっぱり、変だということもありえる。

ただ言えるのは、
他人が欲しがるものを批判はするな、
っていうことだろう。

それを批判したからといって、
自分が欲しがっているものの格が
アップするわけじゃあないのだ。

そこを勘違いしないようにしよう。
人生の一部に過ぎないんだから。

2008年6月28日

ケチの限界

ケチな人っていうのは、
「ない」ということに
とてつもなく耐えられない人のことだと思う。

そして、その「ない」と感じるレベルが、
きっと、他の人より早いのだ。

だから、本当は、
限界でもないところで、
「もう、限界だ」
なんて思っちゃっている。

それは、
誰かに何かをあげるとか、
自分の持っているものを提供するとか、
そういうことに限らず、

自分の力を出すべきところでも、
そういう傾向が見られるかもしれない。

つまり、
自分の力を100%出し切ればいいのに、
それをすることに、どこかでブレーキをかけてしまう。

それは、なんだろう...?

カッコ悪く見えるような気がするとか、
ギリギリまで出して通用しなかったら怖いとか、
これくらいで済ませたいとか。

やっぱり、ケチな感情かもしれない。

そんなケチにも、
思いっきり、あるだけのものを
出しちゃおうと思わせる機会は、
きっと訪れると思う。

好きな人のためか、
好きなもののためか、
命がけのこととか、
どうしても失いたくないものとか。

そんな時には、
ケチにも、限界ギリギリまで
何らかの力を出し切ろうという気持ちは、
生まれるはずなんだ。

そう考えると、
ケチは、ケチなんかじゃない。

まだ、出し切ってもいいようなチャンスに、
巡りあえていないだけ。
そういうことかもしれない。

2008年6月 1日

使えるものは使える

当たり前のことだけど、
新しいものを買うと、
お金を使うことになる。

たとえば、
パソコンをWindowsから、
Macに変えるというのは、

パソコン本体のお金ばかりでなく、
それで使うソフトのためのお金も
必要になってくる。

うまく流用できる方法が見つかればいいけど、
そういう方法がない場合は、
そういうプラスでかかってしまうお金のことも
考えなくちゃいけない。

今は、地上デジタル放送のために、
いろんなテレビが売り出されている。

それ用のテレビを買うしかない、
と思い込んでいれば、
今のテレビを捨てて、
新しいテレビを買う話になってしまう。

しかし、やっぱり、ニーズがあるものだから、
今のテレビを流用できるための「チューナー」
というものが出ている。

これで、テレビが捨てられることもないから、
地球に優しいというわけだ。

使えるものは使える。

私も賛成だし、
そういうことに頭を使うのが、
基本的に好きだ。

オークションに出品したりするのも、
そういうことの表れだろうなぁ...

結果的に、出品とか、配送の手間の方が、
利益に対して、かかりすぎたとしても、
使ってくれる人がいるんだから、

出品した方がいいと思ったりする。

もちろん、問題外にならないほど安いものは、
あげるとか、捨てる。

そうでないものは、
買ってもらったほうがいい。

少なくとも、
もらった人よりは、買った人の方が、
モノを大切にしてくれるから。

使えるものは、使って欲しいし、
わたしも、使いたいと思っている。

今朝も、新しく買いたいものが1つ思い浮かび、
さて、古いものに付属していたものはどうしようか、
と考えた。

インターネットで調べて、
いろんなアイデアを考えているうちに、
その付属していたものを使える方法を見つけた。
新しく買いたいものの種類をちょっと変えるだけで、
それが使える。なおかつ、安上がりにもなる。

いいことだよ、ホントに。

2008年1月11日

支払シュミレーション

マイホームを建てるときとか、
子供を大学に入れるときとかに限らず、

今は、親を老人ホームに入れるか、
在宅介護をするかとかを考えるときにも、
支払シュミレーションをつくる時代になった。

マイホーム、大学進学という話題なら、
明るい未来を感じる。

しかし、老人ホーム、在宅介護っていうのは、
息詰まっていきそうな心になりそう…

うーん、複雑な時代だ。

それでも、
支払シュミレーションが
うまくいくならいい。

考えることが暗いうえに、
考えて導き出した結論までも暗かったら、
もう、お先真っ暗な気分になるだろうなぁ。

やっぱり、
子供が少ないっていうのは、
気持ちが暗くなっていく大きな要因だね。

たとえば、うちの家族の平均年齢は、
計算してみたら、平均30.2歳と出た。

これが高いか、低いか、
よく分からない。

内訳を見てみれば、
71歳、39歳、38歳、13歳、12歳、6歳、
っていう具合だから、

このまま、みんなが年をとるだけなら、
毎年1歳ずつ平均年齢がアップするばかりで、
その下の世代の子供が生まれなければ、
一家の中も高齢化していくことになる。

結婚を急がせはしないけど、
やっぱり、ちゃんと子供を生んでもらえたら、
平均年齢が都度若くなっていいだろうなぁ。

でも、そうなると同居っていうのが前提になる…

同居は、それなりに問題が起きそうだし、
いいとも言えないなぁ。

子供を生まない若い世代ばかりが
責められるところがあるけど、

子供を生まないのは、
上の世代との親子関係に
原因があるかもしれない気がする。

支払シュミレーションから、
だいぶ話がズレてきたけれど、
要は、そんなことを考えてしまう時代なのだ。

明るい支払シュミレーションはないものか?

2007年12月14日

思い出したくない「自分」

朝起きて、
動き始めて、
1日を始めるのは
自分であるけれど、

そういう自分を、
他の人や動物とは何か違う「自分」と
ハッキリと意識して生きてる人は、
少ないんじゃないかな、と思う。

たとえば、夜中に、
ちょっと起きて、
トイレに行くくらいなら、
きっと、動物とそんなに変わらない。

自分は人間だ、
と意識できる瞬間ではない。

朝起きて、枕元に、
パンとか食べ物が転がっていて、
それを食べるくらいの行動で
1日を始めるんだったら、
それも動物とあんまり変わりない。

でも、お母さんとかだったら、
ちょっと違う。

みんなよりちょっと早く起きて、
みんなのために、
火とか電子レンジを使って、
朝ごはんを準備するからね。

ここらへんの行動くらいになると、
ちょっと人間っぽい。

「自分は母親だ」
という意識がないと、
多分やらない。

もしくは「私がやらないと、誰もやってくれない」
という責任感や、あきらめ感をもって動かないと、
朝ごはんは、テーブルに並ばないことになる。

それをしなければいけない「自分」を思い出すと、
人は、ちょっと負担、ストレスを感じる場合がある。

朝ごはんを準備しない男性は、
ごはんを食べることは無意識だけれど、
会社に行って稼ぐことを思い出した瞬間に、
「自分」というものを意識するのかも…

ああ、イヤだな。

よし、今日は、これをがんばってみよう。

プラス、マイナスの思い出し方の違いはあっても、
「自分」を思い出すのは、やならければいけないことの
重みを感じた時が一番かもしれない。

そういう時に、人間になれる。
人間になりたくない人、
「自分」という存在を思い出したくない人も、
人間にならされてしまう。

朝起きて、動物になっていいたら、どんなでしょうね?

それも、野生と、ペットでは、
また「自分」の思い出し方が
違うだろうけどな。

今朝も、人間として起きた「自分」です。

そして、やらなければいけないことに、
ちょっとしたストレスと興奮を感じながら、
今を生きています。

皆々様も、がんばってください。

2007年9月27日

本気じゃなかった。

「そうは言ったけれど、
 本気じゃなかった。」

良くできた言い訳とは思えない。

いじめて、
お金を要求しておいて、
「本気じゃなかった」
と逃げようとする。

じゃあ、もし、
その本気じゃなかったという要求に、
本気になって応えられて、
目の前に、お金を差し出されたら、
「ああ、あれ、本気じゃなかったよ。」
って言うだろうか。

「ああ、あれ、本気じゃなかったけど、
 どうしてもあげたいっていうのなら、
 もらってあげるよ。」
みたいなことを言うんじゃないだろうか。

もしも、
「本気じゃなかった。」
という言い訳を、
大人が子供に言わせているとしたら、
どうしようもないなぁ…と思う。

いじめた張本人の子供が
知っている真実を曲げるのを
手伝っているわけだからね。

一度曲げることができたら、
その子ども達は、そうやって、
世の中を渡っていくはず。

そういう入れ知恵をしてくれた大人に、
ちょっとは感謝をしたとしても、
今度は、そういう大人相手に、
言い訳を見つけて逃げて、生きていくだろう。

助けてやったつもりになっている大人は、
助けてやったんだから、
今度はまともに生きてくれるだろう、
と勝手に思ったとしても、

助け方が「まとも」でなければ、
その後、まともに生きてくれるわけがない。

と思うのは、私だけかなぁ…

盗みが見つかって、
本気じゃなかった。

過ちを犯して、
本気じゃなかった。

人を殺してしまって、
本気じゃなかった。

そうはならないでしょう?

だったら、
本気じゃない生き方をしていることに、
問題が、罪があることになる。

あなたは、
本気じゃない生き方をする時に、
多くの人に迷惑をかけるから、

本気じゃないことは
やってはいけない、というルールは
あり得ないでしょう。

本気じゃなくても、
本気であっても、
過ちを犯す可能性があるから、
自分の行動に注意しなさい、
というのがルールのはず。

本気じゃなかった。

最低の言い訳かもね。

じゃあ、いつから、
本気になるのかな?
って聞いてみたい。

2007年9月22日

嫌いにかかるコスト

何かを嫌いになると、
あるいは相性が悪いと、
お金がかかってしまう場合がある。

アレルギーっていうのも、
そのものとの相性が悪い、
という一つの現象。

それを避けるために、
一般的なものとは違うものを買ったり、
違うことをしなければいけなかったりするから、
やっぱり、お金がかかる。

そういう「もの」でなく、
人に対しての相性が悪かったり、
強烈に嫌いだったりすると、
感情がさらに加速して、
お金のかかるレベルが変わってくる。

考えてみれば、私にも、
そんなものがないとは
言い切れない。

ささやかなもんだけど、
あるところに行くのが嫌いでね。

でも、どうしても
行かなければいけない時もある。
なんとかして行かない方法をとるとなると、
ちょっとした「コスト」がかかってしまう。

嫌いなものが何もない人は、
そんなコストは何も必要ないだろうなぁ。

自分の好き嫌いのせいですが、
どうしようもないコストですね。

しょうがない人間ですね…

2007年9月17日

うちでは買えないもの

スーパーマーケットで買えば、
1本300円くらいで
羊羹(ようかん)が買えたりする。

同じサイズの羊羹が
老舗の和菓子屋さんだと
2,000円くらいする。

私は甘党で、
羊羹も好きだけれど、
安い羊羹でさえ
買ってまで食べようとは思わない。

だから、考えてみれば、
好きとは言っても、
年に何回も食べていないだろうねぇ。

先日、

「うちでは食べる人がいないから」

ということで、
その2,000円もする羊羹を、
妻が知人からいただいてきた。
妻は喜んで、こんなことを言う。

「すっごーいものもらったよ。
 うちでは買えない羊羹だよ。」

そんな言葉に、私は、
口には出さないが、
ちょっと反応する。

買えない?

今回は、次女も反応した。

「いっつも、そう言うね。
 そんなに、うちは貧乏なの?」

なかなかいい質問。

ほらほら、「買えない」なんて言ったら、
子どもがそんなふうに思うじゃねぇか。
(これも、声に出して言わない…笑)

けれど、次女も、
それほど真剣に尋ねている様子じゃない。

うちで買えないもの、
という言葉が気に入っている妻?

そんな言葉に、
それほど反応しない娘たち?

本当であれば、私は、
そういう言葉にプライドを傷つけられたことを感じ、
否定したり、怒ったりすればいいのかなぁ。

でも、怒る気にもならず、
しばし考えていた。
「うちで買えないもの」っていう言葉は、
子ども達の教育上、どんな効果があるんだろう、って。

自分のうちが貧乏だと思い込むのは、
勇気とか、自信とか、希望とかが萎えたり、
自分を卑下したり、みじめさを感じたりしないものか…

たしかに、そういう思い込みよりも、
ハングリー精神を生み出すケースもあるけどね。

うちでは買えないもの?

正確には、
「うちでは買わないもの」
という表現かな。

そんなにお金に無理してまで、
食べたいものじゃない。
もし、贅沢をするなら、
他のものを食べたい、
あるいは買いたいという感じだな。

実際、
2,000円の羊羹を買ったからって、
生活が困るっていうのは、
そんなにないとは思うけれど、
「買えない」「買わない」わけだ。

そう考えると、
買わないものっていうのは、
いっぱいあって、
買うものが少ないはず。

世の中には、
いろんなものが
売っているからね。

どんな金持ちにも、
「うちで買わないもの」の方が、
「うちで買うもの」より多いでしょう。

あくまで、いろんなことを含めての自分の選び。

もちろん、いろんな人に、
家計的に厳しい時期があって、
買わないということもあるでしょうし。

そんな時には、
そこで見栄を張らない強さ。

子ども達がいるとすれば、
無駄遣いをしてはいけない、
という意識を与えるためにも、
「うちでは買わないもの」
があるのはいいと思います。

そんなふうにして、
家計のやりくりをしているんだ、
それがうまくできてるんだ、
という「お手本」は、
子ども達が将来経験するかもしれない「厳しい時期」の
大きなヒントになるでしょうから。

お父さん、お母さんは、
うまくやりくりしていたんだな、
ということを思い出にしてあげることも大切かな。

衝動でも、見栄でも、同情でも、
感情だけで買い物が出来ない時期がある。

それを知っていれば、
火の車になることもないでしょう。

何事も、教育、教育…

2007年9月 5日

立派なことを言えない

なんか、
自分が調子のいいときには、
自分の口から
いろんな言葉が出てくる。

自分で言っていて、
そうだよなぁ、
と2回納得してしまうこともある。

けれど、間もなく、
考えこまされる事態が起きる。
そういう時が間違いなく来る。

結果を出したいと思っていても、
なかなか出せていないと感じ、
いろいろやってみるんだけれど、
なんか空回り…

結局、何も変わっていない、
何も始めていない、
という気分に襲われる。

すると、焦りを感じる…

リラックスするように努めていて、
しかし、そのリラックスしている時間に、
そんなことしていいのか、
って責めの自問が入りこんできたりする。

ちょっとのリラックス時間しか
とれない自分の臆病さに、
また無意味さを感じたりしてね。

毎日は、人生の積み重ね。
しかし、結果が出せていない時には、
そんな毎日を繰り返して、
何か積み重ねているんだろうか、
と思ってみたりもする。

なんか見えない糧になっていると
自分に言い聞かせても、
なんか分かるけれど、
どうも自信がない時もある。

もっと、やらなきゃいけないことが
あるんじゃないかな、とか思いながら、
過ごしていれば、
何かの意見を聞いてきたり、
相談の電話やメールもあったりします。

すると、私は、なんか
立派なことを言い始めたりする。
けれど、その途中から、
なんか矛盾しているような気もする。

しかし、電話の主に比べれば、
なんとなく「立派」に生きているんだろう。
だから、相談も受けたりする。

けれど、自分では分かっている。
実際、そんなに立派なことを
言える立場じゃないんだよな。

それでいいのか、それがいいのか。

結果がついてこない時期には、
いろんなことを考えるように
人生は出来ているようです。

ユニクロの創始者:柳井正さんが言う

「一勝九敗」

という言葉に、癒しを感じます。

結果が出ていない時期があってもいいんだ、ってね。

これを読んでいるあなたにも、
そういう時期、ありますよね?
ありましたよね?

いっしょに、がんばるべ。

2007年8月25日

決別するなら…

もうダメだ、
もう無理、限界…、
もうガマンできない。

そういう気持ちになっちゃって、
今すぐにでも、少しでも早く、
別れたいと思ったら、

人間の行動は、
超・速いもんである。

あの奥さん、
よく耐えてるなぁ、
あのご主人を
よく支えているよ。
ああいう人なら、
離婚なんかしないだろう。

と周囲が予想していても、
ある限界を越えた瞬間に、
「決別」への展開は
目にも止まらぬスピードだったりします。

反対に、
別れたい、別れない、
と何度となく口にしている人ほど、
ずるずると別れられないで
いたりします。

ある意味、
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
っていうやつで、
その時々で、決心の行方が
ふらつくんでしょう。

そして、
そもそもの行動力がない、
っていうことが、

問題を解決することも出来ないし、
はたまた、そこから決別する勇気も
引き出せないということなんでしょう。

もし、決別する相手が、
モノでなく、人間であるとすれば、
チャンスを与えるのが、
人の心というものです。

「今回はゆるすことにする。
 でも、次はゆるさない。」

というわけです。

ゆるされたことに、
解放感を感じすぎて、
そのチャンスへの自覚が薄いと、
また過ちをおかして、
相手に「決別」の決心を
させてしまいます。

私を見捨てないで…

相手の後ろ姿に、
そんなことを言っても、
もう遅いのです。

ちゃんと、チャンスは
与えられていたんですから。
それを大切にしなかった「あんた」が悪い、
っていうことになります。

子供の頃の私を振り返ってみると、
よく「決別」されていたなぁ、
と思います。

もちろん、しばらくすれば、
それも戻りましたが…

お調子もんでしたから、
何度もいたずらをしているうちに、
自分の予想が、相手の限界を
見積もるのを誤って、
誤算の結果となるんです。

よくいたずらしたり、
からかっていましたねぇ、私は。

成人してからは、
生まれながらの短気のせいか、
私の方から「決別」することが
多くなったように思います。

すぐに見捨てちゃう、
すぐに決別してしまう…

それも、子育てが始まると、
ちょっと変わります。

やっぱり、自分の子供には、
そう簡単に「決別」は出来ない。

イライラしようが、
気に入らないことが多かろうが、
最後まで付き合う気持ちは
消えることはありません。

ハッキリとした断絶、決別なんていうのは、
少ない方がいいに決まっていますが、
相手によっては、そういうケジメをつくらないと、
ズルズルとなってしまう場合もありますから、
決別をするなら、キッチリしなくちゃいけません。

と思っています。
珍しい人間かな…

2007年8月15日

キャンプではあきらめてる

昨日、1泊のキャンプから帰ってきて、
間もなく、爆睡に入ってしまった。

寝ていた時間は、
1時間ほどだけど、
とても気持ちよかった。

キャンプに行く前から
あきらめていたのは、
きっと寝不足になるだろうなぁ、
ってこと。

前の晩に、
散歩したり、
子ども達と遊んだり、
山の自然から刺激を受けたりして、
疲れたはずだけれど、
だからといって、
睡眠時間が長くなるわけじゃない。

予想どおり、
眠気は夜の9:00頃に
襲ってきて、
誰よりも早く
眠りについたようだが、

これまた予想どおり、
夜中の12:00頃には
目が覚めてしまった。

別に不快でもなかったから、
1時間ほど、
テントの外の風の音に耳を傾けて、
昼間の暑さとのギャップに
涼しさを感じていたけれど、

眠れそうにないから、
体を起こして、
一人こっそりと
露天風呂に向かった。

テントの外は、
夜風が気持ちいい…

どのテントも静かだけど、
ちょっと遠くからは、
人の話し声が聞こえる。

まだ飲んでいるんだろうか、
遊んでいるんだろうか。

露天風呂には、
先客が一人いた。

なんだか、
さかんに唾を吐いている。
酔っぱらい?

ちょっと距離を置いて、
体を洗ったり、
シャワーを浴びたり、
温泉に入っていた私。

温泉を出て、
体が冷えるまで外で涼んだ後、
テントに帰って、眠ることに。

三女が起きている。
隣りに寝て、寝かしつけ、
私も眠りに入ろうとした瞬間に、
今度は「トイレに行きたい」
という次女のリクエスト。

付き添っていく。

そんなこんなで、
やっぱり寝不足…

日が昇って朝になったものの、
うだうだしていたい気分の私。
ところが、
長女が一人元気で、
散歩に行こうという。

その散歩というのが、
渓谷を降りて、
大噴湯を見に行くこと。

階段の上り下りが、
超・運動になる。

帰ってきたら、
ちょうど帰る時刻。

家に帰ってきて、
そこらへんに眠るだけでも、
テントの中より心地いい。

キャンプ、終わりました。
あとは、また来年。

2007年8月 5日

自分に対して面白い自分は

他人に対して面白い自分は、
もしかしたら、
自分に対してはつまらなくて、

自分に対して面白い自分は、
他人にはつまならいかもしれない。

子ども達といっしょに、
歌番組を見ていて、
いい歌だなぁ、
いい歌詞だなぁ、
よく思いつくなぁ、
と思う人たちの感性っていうのは、
きっと、他人に対して面白い感性を
もっているんだと思う。

ちょっとの差で、
歌っている本人たちは、
とても面白そうだけど、
こっちには何も伝わってこない、
面白くないなぁ、
ってものも少なくない。

多分、ホントに、
ちょっとの差だと思う。

特別にむずかしいことが
存在するわけでもなく、
深く深く考えた結果でも
ないかもしれない。

けれど、
面白いものは面白く、
つまらないものはつまらない。

本人たちでさえ、
その時には面白いと思っても、
あとになってそうでもない、
と思えるものもあるはず。

反対に、
他人に受けなかったとしても、
あとで受けるものもあるだろう。
それは、最初に披露した相手が、
いまいちだったということもあるだろうし…

人は、刺激を感じないと、
面白いと思えない。
逆に、イヤだとも思えない。

その刺激っていうのは、
自分とは異なるものから
受けるもの。

たとえば、
私が隣りに住むおばさんに会っても、
何の刺激もない。

けれど、そこんちの息子が、
すごいきれいな奥さんをもらったりしたら、
刺激になるかもしれない。

日本人だけと顔を合わせていれば、
外国人に会うことは刺激だろうし、

反対に、外国人とばかり仕事をしている人は、
日本人だらけの職場に行く方が、
刺激的かもしれない。

人それぞれが刺激と感じるものが違うなかで、
それでも、圧倒的に多くの人に刺激を与えて、
その後に共感とか好感を与えることって、
すごいことだと思う。

やっぱり、それって才能とか、センスなんだろうね。

ただ、そういう刺激を与えることが出来た人でも、
未来永劫ずっと、それが出来るとは限らない。

人々には、刺激に慣れるという性質もあるからね。

だから、それを乗り越えて、
いっつも刺激を与えられる人間っていうのは、
さらにすごいことになる。

きっと、外面は変わりなくても、
内面は慌ただしく変わっているんでしょう。
そんな人間になりたいな、って思いました。
38歳にも出来ないことはないって信じて…

2007年7月26日

20年ぶりの声

「神戸のKさんだって?」

と、昨晩、妻が言う。

電話?

神戸のKさん?

もしや…

電話に出ると、
その電話の主は、
ほぼ20年ぶりのKさん。

仕事(?)で20年ほど前に、
こちらに来ていて、
面識ができた私の先輩。

今日、全国卓球大会のために、
神戸に向かう私たち親子のことを聞いたらしく、
歓迎の電話だった。

なつかしい…

けれど、20年ぶりくらいになると、
正直、話すことが見つからない。

久しぶりぃぃー、
の言葉は出てきても、
お互いに、変わってきているから、
その先の話題が出てこない。

結婚していたり、
子供が産まれていたり、
変化はいろいろ。

それに、当時の先輩、
後輩みたいな関係もあったりするから、
その関係で対話をすればいいのか、

今はそういう関係は離れたから、
そういうことなしに対話をすればいいのか、
そこらへんも、迷った。

そんなことなど悩まずに、
素直に喜んで会話をしていれば
よかったんだろうけどね。

今は、ネット社会のおかげもあって、
ちょっと声をかけたら、
日本全国に知り合いが
いるような状態になるかもしれない。

そういうネットワークを
大々的に利用したことはないけど、
そういうつながりで出会ったり、
再会するのも面白いだろうなぁ。

けれど、
そんなことに発展させずに、
ネット社会の中だけで
付き合いを楽しむからこそ、
面白いし、長続きする
というのもあるかもしれない。

必ずしも、会う必要はない。
仮に、顔と顔を合わせていなくて、
交流を続けていく中で、
ぜんぜん違うタイプの人間を想像して
勘違いしながらやり取りをしていたとしても、
それは、それでいいんじゃないか、と思う。

ネット社会の不正確さとも言えるけれど、
逆に、正確でないからこそ良いとも言える。

その不正確さ、想像だけで
付き合える部分をうまく利用し、
ちょっとした形を与えて、
もう1つの社会を創ったのが、
セカンドライフみたいなサービスでしょうし。

実際に会わないから、
楽しく付き合えるのって、
それはそれでいいよね。

必ず会わなければいけない関係より、
気楽でいい。

さて、神戸にて、
何か面白い出会いがあるかな。

2007年7月15日

目標の低いこと

いい目標をもっている人のことは、
誰しもが応援したいと思う。

自分の邪魔にでもならない限り…

けれど、
いい目標をもっている振りをして、
実のところ、低いというか、
低次元の目標しか持っていないことが
分かると、とてもがっかりする。

その時感じる気持ちは、
やっぱり、利用された感じ…

利用されてもかわいい相手なら
いいけれど、利用されると、
だいたいは腹が立つ。

せっかく全力で出し切ったパワーを
すっごくバカらしい目標に
利用される気分っていうのは、

せっかく払った税金が、
政治家とか官僚に不正に
使われていたことがわかった時の
気分に似ているかもねぇ。

ただ、
私が払っている税金の額なんて、
ホントにたいしたことないから、

そんな大きな顔をして、
「利用された、だまされた」
なんて言う権利なんかないだろうけどね。

利用されたと腹が立っている理由を、
もっとじっくり掘り下げてみると、
本当のところ、利用されたことを
問題にしていないこともあるように思う。

応援したり、
助けようとしていたことが、
熱が入りすぎて、
相手の目標でなく、
自分の目標にすり替わっていることも
あるから。

しかし、あくまで、
相手の目標なんだから、
相手のやる気とか、目標への志があって
初めて意味のあることが、

相手の目標が低いと分かった瞬間に、
すり替わっていた自分の目標が
果たせなくなってしまう。

それは、利用された、
というより、ほぼ100%
自分の目標を邪魔された、
という気分に違いないない。

相手の目標の上を乗り越えて、
よぉーし、この目標をがんばるそー、
って自分のものとして思い始めていたんだから、
そのショックは、計り知れないかも。

熱くなりやすい人は、
そんな経験が人生で
何度となくあるだろう。

裏切られたという気分が
度重なれば、
誰かの目標に便乗することに
だんだん慎重になってくることも考えられる。

うーん、私にはありがちなことだ。

勝手に、他人の目標に便乗して、
熱くなりすぎて、そうこうしているうちに、
相手にほとぼり冷められて、
ああ、邪魔されたぁーってね。

勝手な気分っていうのは分かるけど、
すっごくイライラするんですよね。

だったら、最初から、
その気にさせるなって…

でも、勝手に熱くなっている私も、
悪いから、気持ちのやり場に困るんです。
ははは…笑

2007年7月 6日

スキンシップ

旅先から帰ってきた妻と、
2日ぶりに、顔を合わせました。

子ども達ほど、
恋しくなっていないつもりでしたし、
メールや電話のやり取りで
コンタクトは簡単に出来ていたので、
なんともないつもりでしたが、

やっぱり、近くにいて、
スキンシップができるようになってみると、
「人のぬくもり」っていうか、

なんて言うか、
バーチャルでは感じられないものもあるなぁ、
って改めて思いました。

バーチャル(仮想)な世界で生きていることが
多くなっている私でも、
そんなことを感じるもんなんですねぇ。

自分に、ちょっとビックリです。

セカンドライフなんていう、
仮想な世界・空間で生活みたいなことを
体験できるシステムというか、
考え方というか、スペースが出来上がっても、

まだ、スキンシップの代替には
なりえないでしょう。

もちろん、時代が過ぎれば、
マウスが、スキンシップそのものの感触を
伝達してくれるなんてことも
可能になったりするかもしれない。

けれど、それだって、
代替に過ぎない。

本当のスキンシップの感触、
キスでも、握手でも、抱き合うでも、
腕を組むでも、肩にてをまわすでも、
現実に1対1にならないことには
体感できないからねぇ。

たった2日間、
妻がいないだけで、
そんなことを考えるあたり、
私も人恋しい人間のようです。

さわってみて、
体温を感じてみて、
現実に生きてる人なんだなぁ、
って感じるだけで
なんかふっと嬉しさを感じる。

きっと、
それが好きな人じゃないと、
椅子に座ったときに、
その人の体温が残っているだけで、

うっ!

と嫌悪感をもよおすように、
存在を感じる情報すべてを
否定したくなるはず。

愛おしい相手でないと、
スキンシップは意味ないわけです。

そんなスキンシップを
ありがたがっている私が、
今日からは出張です。

1泊だけのことですが、
スキンシップに飢えそうで、
ちょっと心配です…笑

明日帰ったら、思う存分、
スキンシップするぞぉぉーーーーー!

2007年6月26日

図々しく

お笑い芸人でない限り、

怒らせないように、
不快な思いをさせないように、
と気遣って生きていくことが
人としての「道」のようですが、

私は、笑わせることも出来ないくせに、
怒らせる、あるいは不快な思いをさせるギリギリの
ところまで、図々しく生きている人間のようです。

ある意味、大胆不敵なのでしょう。

分かっているんです。

ちょっと怒っているだろうなぁって。

ああ、嫌そうだなぁって。

でも、その人が、
その感情を許容できるだろうなぁ、
と思える段階まで、レベルまで、
分かっていて、やり続ける。

そして、寸前になって、
「あ、すみませんでした。」
と引き下がる。

別に、いじわるをするつもりじゃないのです。

相手のチャンスを、
自分のチャンスとして
ちょっとだけ利用させてもらう感じです。

で、利用されていると感じた相手が、
どこまでガマンできるかを
よーく観察しているのです。

ふだんは、観察力に乏しい私ですが、
そういう時ばかりは、
けっこう敏感にアンテナが働きます。

相手を見ていなくても、
漂っている空気まで
肌で感じられるような状態…

だいたいは、
うまくいくんですが、
たまに失敗します。

ギリギリが思ったよりも早く
来てしまうと、
逃げようと思った瞬間に、
怒られちゃうんですよねぇ。

いつまで図々しく、
そんなことをしているんだぁぁぁぁーーーー!

みたいに、ね。

私は、いつもチャンスを探しています。
チャンスを作ろうともしています。

そして、偶然、
他人が使っていないチャンスを見つけたら、
盗んだりという悪いことはしませんけれど、
利用させてもらいます。

時には、
「へぇー、そんなところにも、
 そんなチャンスがあったんだ。」
と感謝もされます。

意外にも、
チャンスに気づかない人も
多いんですよねぇ。

チャンスに気づかせるために、
これからも図々しく生きていく、
っていうわけじゃありませんけれど、

図々しさがまったくないと、
チャンスが、こっちに
気づいてくれないのでは
ないでしょうか。

私は、そんな気がしています。

2007年6月16日

ルールが変わる時

ゲームっていうものは、
ルールが変わったとたんに
面白くなることがある。

反対に、
つまらなくなることもある。

ルール1つが変わると、
今まで出来たことが
出来なくなり、

今まで出来なかったことが
やってもいいことに
なったりする。

だから、
ルールっていうものは、
だいたいが、
どんな自由があり、
どんな制限があるか、
ということ。

当然のことながら、
自由度があればあるほど
面白い気がするし、
制限が多ければ多いほど、
なんとなくつまらない気がする。

しかし、
まったく制限がないと、
何が目標か、何が勝ちかも
分からなくなり、
混乱するばかりである。

混乱していることが
楽しいっていうのは、
普通は、それほどないだろう。

もう1つ、つまらないのは、
ゲームが始まる前でなく、
ゲームの途中で、

「実は、こういうルールがあるので、
 それはダメです。やめてください。」

っていう感じのことを言われること。

そんなに重くないルールで、
それが1度くらいなら、
ガマンしてゲームを続けられるだろうけど、
何度も何度もあるとしたら、
やっぱり、やる気がなくなる。

ただ、人生って考えてみれば、
そんな感じのところがあるかもなぁ…

もちろん、
食べていかなくちゃ
生きていけないっていうルールは
あるけれど、

それ以外のことについては、
「生きるって、こういうことも学ぶことか」
っていうことが何度となくあるから。

そして、その度に、
生きるルールを学ぶ。

時には、そのルールを間違って
理解してしまったりすることもある。

そうすれば、後になって、
理解のし直しをうながす経験が
待っている。

ルールがどう変わったかに
気づくことも大切だけれど、

どんなルールがあるか、
っていうことに気づくことも
本当に大切なんだよね。

生きるって、
そのルール探しだな、
って時々思います。

そのルールこそが、
人生の宝なのかも…?

2007年6月 6日

期待しすぎて傷つく自分

結婚したばかりの頃、
近所の子供が回覧板をもってきて、

「はい、どうぞ。
 お母さんが、お駄賃を
 もらってこいと言いました。」

と一言。

「へ?」

どう考えても、ありえない話である。

ありえるとしても、
きっと、こうだろう。

「お駄賃をもらえるかもしれないから、
 回覧板をお隣さんに置いてきて。」

くらいかな…

子供に、夢をもたせることはいいことだと思う。
そして、その夢を叶えるためには、
努力が必要だということも教えるのがいい。

けれど、たいして努力をしなくても、
何かうまい話に乗れる、
みたいな期待をさせると、

その子供は、きっと態度が悪くなるだろう。

ちょっとしたことを頼んだときに、

「何、もらえるの?」

みたいな返答がすぐ出てくる感じ。

あるいは、もらえるものが始めに分かった瞬間から、

「私、やりたくないよ。」

という反応。自分がやるべきことであっても、
そんな態度が出てくる可能性はありえる。

ちょっとのことだとしても、
人というのものは、

「やってあげた。」

という気持ちが残るものである。

しかし、その反対には、
意外にも、鈍感だったりする…

私なんか、そのいい例だな。

「好きでやってくれたんだろ。」

みたいに、自分の都合よく
理解するところはある。

そういう期待のやり取りを考えると、
物事を人に頼むのは、
カンタンにやっちゃいけないな、
と思い始めたりもする。

要は、借りはつくらないってこと。

ただ、人が生きていく中で、
誰にも借りをつくらず、
誰にも迷惑をかけずに進んでいくなんて
めったなことじゃない限り、まず不可能。

厚顔無恥で、
「誰にも借りはない」
と知らんぷりしているような人間でない限り、
いくらでも借りは見つかるはず。

知らず知らずのうちに、
借りをつくっているとすれば、
その相手は、少なからず、
何らかの期待があってもおかしくない。

その期待にすべて応えようとしたら、
身が持たない。

借りに敏感すぎると、
きっと心身ともに疲れて、壊れる。

そうなると、自分も誰かに何かを期待し始める。

すると、自分が期待を裏切っているように、
今度は、自分が期待を裏切られる。

そして、傷つく。

あんまり他人に期待することなく、
鈍感な人だけが、何の苦労もなく、
好き勝手に生きているように見えてしまう。

それがいいのか悪いのか、
分からないけれど、
敏感すぎるのはよくないなぁ、と思う。

昨日は、いろんなことへの期待が交錯して、
夜になる頃には、イライラ絶頂の私でした。

2007年5月28日

節約するところ

誰でも、何かを節約している。

服にかけるお金を節約している人もいれば、
子供にかけるお金を節約している人も、
はたまた、
従業員に払う給料を節約する人もいれば、
ケータイにかけるお金を節約する人もいる。

車にかけるお金を節約する人、
住居にかけるお金を節約する人、
自己啓発にかけるお金を節約する人、
食費を節約する人、
デート費用を節約する人…

いろんな価値観があって、
いろんなものを節約している。

そして、共通するのは、
節約するものがある人は、
節約しないで思いっきり使うものもある。

たとえば、
バス賃や列車賃を節約する人は、
その代わりに、歩いたりするから、
時間と労力は節約しないことになる。

食費を節約する人のなかには、
衣服にかけるお金を節約しない人も
いたりするだろう。

教育にかかわるお金は節約しても、
遊びにかかるお金を節約しない人がいても、
何もおかしくない。

誰しも、何事にも節約する人だ、
という人はいないはずなのだ。

それは、節約することによって、
別のことに手間をかけたり、
無条件に手間がかかったりするから。

そして、それによって、
人の価値観っていうものが分かる。

今の私は、