since 2001-12-24
いい言葉ねっと いい言葉に、人は癒される、生かされる、動かされる。
いいコトバ このサイトから生まれた本の「いい言葉」
自分がどういう人間であるかと、自分がどう
見られているかは、必ずしも一致しない。

(読めばたちまちハッピーになるいいコトバ、皆川修一) »

いい言葉メニュー

いい言葉コレクション

いい言葉サブメニュー

Amazon商品ガイド

スポンサード・リンク

関連リンク

QRコード

Powered by
Movable Type 4.1
常識は、それほど常識じゃない。 Common sense is not so common.  (Vortaire、訳:Shu)

メイン | 02.信じること・癒し »

2010年3月 7日

キャンセルと返金

キャンセルをしたときに、
返金がされるまでは、
ちょっと、というか、
かなり心配になってしまう。

キャンセルするんだったら、
最初から契約しなければ、
と思うのだが、

オプションとかが
最初の2ヶ月は無料だから
自動的に付いていて、
不要だったら、
後で解除できます、

っていうみたいな契約、
ってありますよね。

あと、会費が最初から
自動的に積み立てられていて、
参加しない人には、
あとで返金します、
みたいなものも...

いずれにしろ、
本当に、お金を戻してくれるんだろうか、
っていう不安がもたげてきます。

実際、戻ってこなかったから、
まあ、いいや、って思えるくらいの額でも、
そんなことを思ってしまうこともある。

なんて、ちっちゃい心なんだろうな。
ケチなんだろうなって思います。

けれども、人って、
自分では、それ以上の額を
捨てるように使っているのに、

自分の意志じゃなく
出ていってしまうお金でも、
労力でも、時間でも、
やっぱり、もったいなく感じることが多い。

自分の意志で、
捨てるものならいい。
どんだけ高額なものでも。

でも、自分の意志に反して、
奪われるものについては、
とても敏感になってしまう。

申し込み自体が、
自分の意志じゃなかった時には、
(強制、付き合い、義理とか)
なおさら、キャンセルと返金に
敏感になっちゃうんでしょうね。

2010年2月19日

時間は作るものじゃない

作るものっていうのは、
人間が、何か持っているもの、
あるものをもとにして、
作るものだけれど、

考えてみれば、
時間というものは、
作れないんだな。

そこの発想を間違うと、
人生という生き方も、
間違ってしまう気がする。

たとえば、
自分のやるべきことを
他人にまかせて、
自分の時間を作っている気になったり、

歩いていけば30分かかるところを、
車を使って5分で行って
時間を作っている、
ということにしていたりもする。

きっと、これは、
時間についての「正しい認識」
じゃあない。

時間なんて、
1秒も、1分も作っていない。

自分が集中したいことを決めているだけ。
そして、集中するために、
経済的な手段とか、物理的(技術的)な手段とか、
を使っている。

人によっては、
権力を使ったり、暴力を使ったりする人も
いるだろう。

すべては、自分が集中したいことに、
自分を置くために。

時間は作れない。

やりたいこと、やりたくないことを決めて、
やりたいことに集中するために、
どんなお膳立てをするか、
っていう、それだけの話。

だから、本当にやりたいことを決められない人は、
周囲から、あるいは、自分の人生から
やらなければいけないことを押しつけられて、
それらに埋もれてしまう。

やりたいことは、
なんとなくあるんだけれど、
そのためのお膳立てができない人も、
だいたい、同じようなことになる。

やりたいことには、
いつまでもたどり着けない。

それで、「時間がない」なんて言ってしまう。
「時間が作れない」なんてことも。

時間なんて、作れないのだ。
本当にやりたいことのために、
やらなければいけないことを、
どんなふうにお膳立てしていくか、
何を捨て、何を準備していくか。

それだけの話。

そう考えると、本当の意味で、
考えることが始まりそう。

わたしは、何をやりたいんだろう?
そのために、どうお膳立てすればいいんだろう?

2010年2月16日

思いとどまっている

買いたいものが、
たくさん思い浮かんでいる。

きっと、
この不景気を吹き飛ばそうと、
日本全国で、
いろんな新しく、刺激的なものが
出てきていて、
私たちを刺激しているからだろうなぁ。

と、勝手に考えている。

なんとか、思いとどまっているのは、
今もっているもので、十分間に合っているし、
新学期を間近にひかえて、
これからの出費をすべて、
まだ把握できていないからだ。

「ま、これくらい、
 買ってもいいだろ。」

という安易な、心の声も
聞こえてくるんですが、

そして、実際、
買っても、たいして
影響ないでしょうけど、

一度財布のひもをゆるめたら、
どんどん、ゆるんでいくんだろうなぁ、
と予想できてしまっていて、
なんとか、思いとどまっている。

消費活動の7割は、
衝動買い、
という言葉があるようですが、

それって、きっと正解。

買い物をした後に、
私は、理由をつけていることが多い。
正当化するための、
もっともらしい理由が浮かんできて、
自分をも、家族をも、
納得させられる。

間違いはないけれど、
正解でもないんだな、
その買い物は。

なんとか、思いとどまっている。
いつまで、思いとどまれるかな。

日本の景気のためには、
ちょっと申し訳ない行動かもしれない。

いっぱい消費して、
いっぱいお金を使って、
景気の回復に貢献しなくちゃいけないんでしょうけどね。

でも、今は、思いとどまるんだ。

2009年8月22日

見える化

口から出る言葉というものは、
ふつうは見えないから、

その言葉に、
必要以上に圧倒されたり、
実際以上に期待をもったりしてしまうのが人間。

大風呂敷をひろげて、
いろんな夢やビジョンを語る人の
口車に乗せられて、
話にのっかってみても、
なかなかうまくいかない人と感じる人は、

後になって、その口車の内容を
「見える化」してみれば、
なぁーんだ、そんなことは、
もともと無理な話だったじゃないか、
ということになるもんです。

夢やビジョンを
「見える化」しなくても、
センスや感性というもので、
ちゃくちゃくとうまくやっていける人はいます。

けれど、
そういうセンスや感性が
自分にもあると思って、
物事を進めようとする人の中には、

関係する人に、
何も「見せる」ことが出来なくて、
うまく動かせない人も多い。

いろんな言葉や目標を
口から出せても、

「よし、やってみよう!」

と描かせるような能力がないと、
最終的には、誰も話に乗ってこなくなります。

最初は、口がうまくて、
乗せられる人が何人かいても...
そうなっちゃうのです。

それでも、やはり、才能は才能。

夢は語れても、
夢を「見せる化」する才能のない人はいる。

そういう場合は、
それができる人と仲間になればいい。

ホンモノ、ニセモノの情報が
いろいろと散らばっている昨今、

「見える化」して、見極めて、
自分の進むべき道を
しっかり歩いていかなければ、
おかしなところに自分を連れて行ってしまう
羽目になることでしょう。

見える化、私としてもテーマです。

2009年8月17日

お付き合い

付き合うものが増えると、
それに奪われる時間もお金も、
増えてきます。

それは、人ばかりでなく、
モノ、こと、なんでも、
という感じです。

昨日、娘の卓球大会に行く際、
高速道路を使ったわけですが、
出口から走ってしばらくして、
タイヤの違和感を感じます。

あ、パンクしたかな?

と思いながら、
車を停止さえ、
違和感を感じた、
左前輪を見てみる。

やっぱり...

ああ。

幸い、いっしょに来ていた他の子供の親もいて、
娘は、そちらに乗せてもらって、
あと10分ばかりの会場へ向かわせたのですが、

ここには、
車、卓球、大会イベント、
という3つのもの、こととの付き合いが
存在する。

車なんかに乗ってくるから、
パンクしたりして、
そのメンテナンスが必要になるわけで、

列車を使っていれば、
そんな心配や費用は発生しない。

しかし、家族みんなの列車代となると、
安くない。その上、駅から大会会場に
歩くとなると、ちょっと大変だったりもする。

そもそも、大会イベントに
参加しなければ、よかったのだ、
という話も出てくる。

たしかに、そうであれば、
何も不具合など起こらず、
過ごせていたことであろう。

そうなると、最後は、
卓球なんか始めなければよかった、
なんて結論にまで至る。

卓球は、それほど
お金がかからないスポーツだと
思っていたが、いろいろと研究を始めると、
用具にかかるお金は、けっこうなもの。

もの、ことに何も付き合わなければ、
費用は発生しない。

まるで、世の中に関わらなければ、
安泰と言っているようなものだ。

じゃあって言うことで、
世捨て人になって、
世のかかわりを断ち切ると、

農業をやって、
自給自足で食べて、
自分の衣類を自分でつくって、
自分の子供に、自分で勉強を教えて、
電気とガス、水道はあきらめて、
というくらいの覚悟がなければ、
世の中から遠ざかることなど出来ない。

結局、そういう便利さを
世の中から受けるには、
社会に関わって、
自分の中から与えられるものを与えて、
受けられるものをありがたくもらって、
生きていくしかないのだ。

パンクしたくらいで、
そんなことを考える私は、
パンクというものが
よほどの無駄に感じたんでしょうね。

たしかに、そんなことが起きると、
車を持っていること、車との付き合いは、
面倒に思えちゃいます。

どんな付き合いを増やし、
どんな付き合いを減らすか。

コントロールできないと、
時間も、お金も、どんどん奪われるばかりです。
それに、どれとの付き合いも、中途半端になる。

2009年7月24日

人を寄せつけないファッション

匂いが強くて、
人を寄せつけない
というファッションもあるだろうけど、

なんていうか、
人間が生理的に、
近づけないファッションが
あるようにも思う。

逆に、思わず、
すり寄っていくようなファッションも。

不景気のせいというよりも、
子育てするようになってから、
ファッションなんていうものに
けっこう無頓着になって、

定番と呼ばれるものばかりを
着ることが多くなってきた昨今、

自分が着るために買おう、
という目的なしでは、
洋服を見たりすることがなくなってきた。

学生の頃には、
洋服を買いたいためだけに、
一生懸命にアルバイトをして、
ブランド・ショップに出向いたものだけれど、

そんなことも、
遠い記憶の出来事になっていた。

ところが、ふとしたきっかけがあれば、
そういう感覚は、また戻ってくるもので、
昨日は、自分のために買うという目的じゃなく、
ぶらぶらと、洋服を見ていた次第。

ちょっと、これはないだろう、
というものから、
あ、これ、着てみたいなと思わせるものまで、
いろいろと楽しませてくれる。

そして、やっぱり、ある。
人を寄せつけないファッション。

そして、そういう格好をしている人も...

うーん、ちょっとイヤだなぁ。

でも、人は人。
好きでやっているんだから、
文句を言う筋合いはあるまい。

2009年7月22日

ガンコモノ同士

娘とスーパーへ買いものに行って、

「お!、これ、いつもより安い!」

と思って買った、98円のお気に入り惣菜パン。

嬉しい気分になり、
娘に得意顔で、

「今日、これ、98円で買ったよ」

と言ったら、娘が、愛想のない返事。

「それ、いつも、98円だよ」

「いや、違うよ」

「いつもは、180円とかだって」

「違うよ、いつも98円」

「おまえは、知らないんだって」

「何、言ってるの?お父さん、98円だよ」

(う~~、このガンコ娘め!)

「よ~し、賭けようぜ」

「いいよ」

「98円じゃなかったら、俺の勝ち」

「え~~!」

「だって、おまえが、98円って言ってるじゃん。」

「ん~、130円以下だったら、わたしの勝ち。
 131円以上だったら、お父さんの勝ちにしよ。」

「別に、いいよ」

ということで、賭けが成立し、
土曜日のスーパーに行って、値段を確認し、
勝った場合は、北京オリンピック体操で銀メダルの内村選手で
人気が出てきた、BIGサンダーっていう板チョコ2枚、100円相当だ。

うちの娘、そうとうガンコで、バッカジャナイノ~~~、
と思っていたのですが、ちょっと時間が経ってみると、
意外と、俺のほうが負けたりして、なんて思えてきました。

昨日は、娘らの大会会場で、
注目の一番どちらが勝つかっていうのを、
友人と賭けをして勝ち、スポーツドリンク2本をゲット。

この程度じゃ、スポーツ賭博なんて言われないでしょう。

さてさて、ガンコモノ同士の賭け。
土曜日の値段は何円かな?

98円だったらいいなぁ...。

2009年6月28日

損したくないは危険

三女が、道路に飛び出しを
しているところを先日目撃した。

車が通っていないから、
よかったものの...

飛び出しをした心理は、
こうである。

遊んでいて、
家に帰ると約束していた時間を
過ぎてしまったこと。

また、帰ろうとしていたところ、
小雨となって、服がぬれ始めたこと。

そういう状況から、
急いで帰らなければいけない、
と焦り、道路を横切る際に、
一時停止を怠って、
自転車を進めた。

怒られたくない、
という感情は、
ときに、危ないことを
させてしまう、いい例だ。

それに通じる感情は、
自分がマイナスのものを受けたくない、
損したくない、というものだろう。

株の売買にて、
値段が下がっているときに、
これ以上損したくない、
という感情が高ぶり、
あわてて売ってしまって、損を出す。

それで、さらに下がったときには、
ああ、売ってよかったとなるのだが、
もし、その後、再上昇すると、
損してしまったとなる。
そこで慌てて買い戻して、
買い戻した瞬間に、また、
値段が下がりようものなら、
ダブル損、なんてこともありうる。

損したくない、という感情には、
いつも痛い目に遭わせられてしまう。

交差点で、信号待ちのときにも、
今行かなければと思って、
無謀な運転をするのも、

信号が、黄色から赤に変わる瞬間に、
渡ってしまえと思うのも、

すべては、損をしたくない、
自分だけは損をしたくない、
という感情がモチベーション。

昨日、わたしも、
慣れない道を運転しているときに、
「今渡らなければ」という感情がもたげてきて、
ちょっと危ない運転をしてしまった。

自分の娘のことばかり言っていられない。

自己チュー、利己的、エゴイスト、
いろんな単語が思い浮かぶけれど、
損したくないという感情は、
結局、損を引き寄せてしまう。

そんな気がしてしまった...

2009年6月14日

なーんにもない

いろーんなものが生まれ、
いろーんなものに、
どんどん慣れていく私たちは、

いろーんなものが、
心にひっかからなくなる、
というか、刺激とならなくなってくる
気がします。

慣れすぎて、なんか、
自分が空っぽになっている感じ。

そんな時、ありませんか?

年とったせいかなぁ...

どっか、遠いところ、
刺激的なところに、
旅にでも出て行けばいいのかなぁ...

なんて考えたところで、
その旅が終われば、
また、慣れてきそうな感じがする。

かと言って、
戦争とか、クーデターとか、
すごい政情不安をともなう刺激を
求めているわけじゃない。

平和な気分に身をまかせながらも、
刺激を受けていたい、という
かなりわがままな願望。

刺激のない生活は、
私たちを空っぽにする気がするのでしょう。

けれど、逆に、
刺激に慣れすぎた生活こそ、
私たちを空っぽにするのかもしれない。

考えることなく、
ただ刺激を待つだけの日々になる感じ。
うーん、むずかしいなぁ。

なーんにもなさすぎる日は、つまらない。
でも、いつも刺激を待っているだけじゃ、
受身だけの、つまらない人間になる。

解決方法は何か。
自分で刺激を作ること?

お!これだ。
でも、これもまた、難しそう。

刺激的な生活に慣れた私たちには、
キビシイ時代だなぁ。

2009年5月23日

にぶくていいこと

昨晩遅く、沖縄の修学旅行から帰ってきた長女。
もちろん、たくさんの思い出話を持ち帰ってきたが、

「この人、にぶくてよかったかもなぁ...」

と思わされた話が1つあった。

不思議なことに、この娘には、
鈍いところと、敏感なところ、
2つがあって、そのシーンそのシーンで、
まったく変わってくる。

にぶい面の1つとしては、
他人の感情に対しては、かなり鈍いこと。
(自分の感情については、敏感だが...)

修学旅行の自由行動にて、
那覇市・国際通りを
グループごとに歩いていたとき。

路上ライブで、多くの人が立ち止まったらしい。
なんだろうな、路上ライブをあまり見ることのないせいか、
関係者から、CDをうまく手渡されて、
「こいつら、将来、必ず人気が出るから、
 今、このCD買っておくと得だよ。」
みたいなことを言われたそうなのだ。

きっと、一般の大人にはやらない商法だとは思うが、
修学旅行の中学生とわかって、やったんだろうなぁ。

路上ライブの、なんとなくいい雰囲気と、
当然買うかのように渡されたCDを手にしていることで、
まんまと、ちょっとした催眠商法にひっかかり、
多くの生徒が買っていたとのこと。

長女は、冷静に、最初から、
CDを受け取らず、それどころか、
受け取ってしまい迷っている友人のCDを、
預かって、ちょこんと返してきたと言う。
(当然、その友人も、後で冷静になって、買わなくてよかった...と)

わが娘ながら、あっぱれ、と思った次第。

実際のところ、
その冷静さが、にぶいためだったのか、
ちょっと冷めているところがあるせいなのか、
はたまた、お金がもったいなくて出来たことなのか、
よくは分からないけれど、

人それぞれの弱さにつけ込んで、
だまそうとする商法はいっぱいあるわけで、
今回の方法は、長女には大丈夫だったというわけだろう。

ただ、きっと、この長女が
だまされやすい商法も
将来にはあるに違いない。

人それぞれ、コンプレックスとか、見栄を持っているからね。
そこらへんを攻めてこられると、
どうしようもなく、行動してしまうのが人間。

この経験ばかりでなく、
他の人がおみやげを買い物している姿を見て、
修学旅行は、1つの勉強になったようだ。

これからも、まだまだ、勉強があるだろう。

2009年5月 8日

金さえ払えば

相手が、お金をちゃんと
払ってくれないような人に見えると、

「なんとか、お金を払ってください」

という態度になってしまいます。

こっちが悪いわけでもないのに、

貸したお金を返してもらう時でも、
購入代金を払ってもらう時でも、
何かの役回りで集金をしている時でも、

そんな気持ちで、お金を出してもらいたい、
という感じになります。

相手は、そういうところを見ると、
調子に乗って、

金さえ払えばいいんだろ!

みたいに言ってきて、
お金を投げつけるような素振りをする。

すると、お金はもらったはいいけど、
なんか、こっちが悪者のような、
強欲な人間のような、
金の亡者のようなイメージを
植えつけられた気分になります。

そこで、はたと気づかされる。

たしかに、
お金をすんなり払ってもらって、
楽したい気分になっていたと...

それがダメなんですよねぇ。
そこに、つけ込まれてしまう。

人間関係に、お金がからむと、
ちょっと、ややこしくなります。
なんていうか、
ちょっと生きづらい気分を
感じるようになる。

けれど、お金に限らず、
そういう生きづらさに対して
楽しちゃいけない時も
あるんですよねぇ。

うん、楽しちゃいけない。
しっかり、苦しもう。

2009年5月 2日

よっぽどのこと

当たり前のことを、
当たり前に出来ない、
ということは、

ふつうに考えれば、
よっぽどのことが
あるに違いないと思われる。

これは、善意で解釈した場合だ。

しかし、
よっぽどのことがないのに、
当たり前のことを
当たり前にしない人もいる。

そして、周囲には、
よっぽどのことがあるように見せる、
という感じ。

こうなると、周囲の人々は、
うかつに、その「やらない人」を
責められなくなる。

よっぽどのことがあるんだから、
当たり前のことが当たり前に出来ないといって、
それを責めたりしたら、ひどいことだろう、
という空気が生まれるからだ。

そこが、「やらない人」のねらいなのだ。

責められない方法で、
「やらない」から、いつまでも逃げられる。

しかし、世の中、そう甘くはない。

どこかで、矛盾が生じてくる。
どこかで、化けの皮がはがれる。

よっぽどの事情があるはずなのに、
これはどう考えてもおかしい、
という事実が見え始めてくるから。

もちろん、そういうところまで徹底して、
「やらない」「やることができない」振りをする小ざかしい人もいる。

しかし、根本にある「面倒くさがり屋」「逃げる人」「ずるい人」な部分は、
いつまでも隠しておけるもんじゃないから、いつかは、ばれるのだ。

そんな「よっぽどのこと」など、ないと。

いつまでも、逃げられる、だませるなんて、
思わないほうがいい。

2009年3月16日

質問の意図

この人に、
とっても興味ある!

と思っているときには、
そんなに質問しなくても
たくさん答えてくれるのが嬉しかったりする。

けれど、
そうでもない人から
質問で尋ねた以上のことを
長々と答えられると、
なんとなくイラっときてしまうこともある。

あと、ピントのずれた答えも...

相手が気心知れた仲だと思っていれば、
質問の意図をくみとって、
答えて欲しいと思うものでしょう。

しかし、なかなか、そうはいかない。

相手にしゃべりたいことがあったり、
相手の関心のあるなしによって、
答えの路線がずれてしまう。

しょっちゅう、そんな答えをしてくる相手には、
質問することさえ、バカらしく思えたりするもんです。

質問の意図が分かってもらえず、
会話が噛み合わないと、
やっぱり、どうしようもないですよね。

そうなると、
本人には尋ねずに、
そのまわりの人に尋ねたりするようになる...

しかし、そのまわりの人が
知っているとも限らず、
まわりの人同士で、
勝手に想像しあうばかりで、
ますます分からなくなることも。

そんなときに、質問の意図を分かって、
ちゃんと答えるって、簡単なようで、
難しいことなんだなぁって思わされてしまいます。

2009年2月22日

演じ疲れる

なにかと疲れるニュースの多い日々に
思えますが、何が一番疲れるか、
といえば、そんなことよりも、

ニセモノの自分を演じ続けることに
疲れることかもしれないな、
って思います。

何かを得るために、
何かが手に入りそうだから、
それにふさわしそうな自分に見せるために、

そういう自分を見せる。

見せるためにがんばることは、
決して悪くない。

それが、1日、1ヶ月、1年、
がんばり続けられるかもしれない。

けれど、いつかは、
演じ疲れる。

だって、本当の自分じゃないから...

演じ疲れてしまう瞬間っていうのは、
欲しいと思っていたものが、
もうどうでもいいものに思えた時であり、

手に入ってみたものの、
たいして大切でないものだと分かった時であり、

他人の目がどうでもよくなった時だろう。

気づいてみれば、
私もよくもこんなものを欲しがったもんだ、
大切にしていたもんだ、
気にしていたもんだ、
となるんでしょうね。

演じ続けた時間が、
返ってくるわけでもないから、
ちょっと空しい思いも感じたりして、

「演じる」っていうのは、
疲れるもんなんだなぁ、
と感傷に浸ってみたくなる。

演じながらも、少しずつ、
本当の自分が傷ついていたのは、
事実でしょうからね。

皆さんは、演じ疲れていませんか?

2009年2月 9日

飽きやすさと好奇心

自分のやっていることに飽きる才能を、
わたしは、もっていると思います。

それと同じくらい、
いろんなことに好奇心をもてる才能も
あるような気がする。

誰かに何かを教える、っていうことに、
とてつもなく好奇心を感じることもあります。

そして、それがとても楽しい時も。

けれど、教えられる側の態度がイマイチだと、
とたんに、好奇心を失うこともあるわけです。
いわゆる、飽きてしまう...

ただ、その後に、
教えることについて、何かいい方法を思いつき、
それを試したくなると、また好奇心が復活する。

今度は、その方法について、
自分がうまく出来ないと、
面倒くさくなったりする。

そうなると、今度は、
教えることを放棄したりして、
教わる側の勝手にさせていると、
なかなか、結果が好転しないことにもなる。

やっぱり、教えるとは言っても、
自分自身も、それによって、
何かしら、「自分の目標」がないとやってられない。

あくまで、私の場合ですが。

どうにもうまくいかないとなると、
今度は、教えることそのものに、
好奇心がなくなったりする。

そして、別の新たなものへの好奇心へ。

なんていうこともあるわけです...

人は、その時期その時期で、
変わる好奇心と飽きやすさをもつ。

それがないと、
人は進化できないかもしれない。

だから、飽きやすさは、
1つの才能としていいだろう、
なんて言い訳も出てくるわけです。

国会で答弁している方々は、
よくよく、自分の言っていることに
飽きないもんだなぁ...

2008年12月18日

よそ行きの顔

街などで、
知人に会った時には、
二つの対応タイプがある。

というか、わたしは、
二者選択をしてしまう人間だ。
(ほとんどの人もそうかもしれないが...)

1つは、
単純に声をかける。
長話になれば、話している。

もう1つは、
そうっとしておく。
もし目が合ったら、
会釈程度のことはするが、
こちらから、無理に会話をしにいくことはない。

家族とかで水入らずのところを邪魔しちゃいけない、
という配慮から、声をかけないこともあるけれど、

相手に「よそ行きの顔」をさせないために、
声をかけないことも多い。

実際、そっちの方が、
私の場合は多いかもしれない。

「よそ行きの顔」をさせたないっていうのは、
なんて言えばいいんだろう?

私が声をかけたことによって、
身構えさせてしまう感じのことかな。

「わたしは幸せなのよ」
「わたしは成功しているのよ」
「わたしは問題ないわ」

という空気をかもし出させるみたいな...

それを感じると、わたしの方も、
無意識に、同じような空気を
発しようとしていたりする。

きっと、私が競争心の激しい人間だ、
と分かっている人は、
特にそうなるんだろう。

競争心を引き出す必要のないところなのに、
わたしが声をかけることによって、
そういう気持ちを相手に抱かせて、
変に疲れさせるよりだったら、

そうっと、そのままにしておいた方が、
わたしも、相手も、平安に過ごせるはず。
そう思うから、「わたし」という人間は、
声をかけない方がいいだろうと考えたりする。

もちろん、これも、
単なる取り越し苦労かもしれないし、
誰でも、どんな関係にも、
声をかけられたら「よそ行きの顔」に
なってしまう可能性があることを
私が知らないだけかもしれない。

とりあえず、他人はどうあれ、
わたしの存在のゆえに、
声をかけないでおく、
っていう選択は、今のところ、
正解のような気がしています。

もう少し年を重ねて、
わたしの空気が丸くなったら、
大丈夫になる時も来るんでしょうけどね。

と言っても、まもなく、
30代も終わるのですが...

2008年11月26日

バラマキ

むかしむかし、
クリスマス・シーズンには、
空から、お金が降ってきました。

ってなことが、
現実として、ありましたね。

何年前かは忘れましたが、
株のデイトレーダーをしていた男性が、
お金の感覚がおかしくなり、
ばらまいて、確か、逮捕されたような...

自分のお金をばらまいて、
他人を喜ばせるのは、
まだゆるせますが、

他人のお金をばらまいて、
自分が他人を喜ばせたような勘違いを
しているのは、ちょっとゆるせない、
という人もいるでしょうね。

麻生総理の定額給付金は、
そんな目で見られてしまうもの
かもしれない。

ライオン総理が紹介した実話に、
米百俵というものがありましたね。

「だからおれは、この百俵の米をもとにして、
 学校を立てたいのだ。...学校を立て、
 道場を設けて、 子どもをしたてあげてゆきたいのだ。
 この百俵は、今でこそただの百俵だが、
 後年には一万俵になるか、百万俵になるか、
 はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、
 見つもれない尊いものになるのだ。」
 (米百俵 山本有三)

せっかくもらった米の使い方について、
分配するんじゃなくて、学校を建てるために使おう、
と提案したために、納得できない武士達を前に、
小林虎三郎(長岡藩大参事)が説得した言葉です。

国民から集められた税金が、
一部の人間や企業だけを潤すものになるか、
表面上、みんなを一時的に少し潤すだけのものになるか。

それ以外に、いい方法はないのか。

そういう使い方しか
思いつかない政治家を支持する国に
なってはいけないなぁ...

と、最近は感じます。

がんばろう、日本国民!!

2008年11月 5日

ウソをつくのは...

先日、テレビで放映していた
映画「ブロークン・アロー」にて、
皮肉な、面白いセリフがあった。

公務員である登場人物が、
起きてしまった問題について、
上司に言うセリフだ。
そして、それに返す上司のセリフ。

「正直に発表すべきです。」

「君はそれでも役人かね。」

役人は、ウソつきだ、
という偏見というか、
ブラック・ジョークなのだろうけど、

今の時代は、
ウソつきのレッテルを、
役人だけに貼れるような状態でなくなった。

そんな気がします。

誰でも、ウソをつける立場にいるんです。

自分の身を守るためなら、
やっぱり、何かしらウソをつきたくなる。
私でさえも、そんな可能性は、
否定できません。

ただ、スケールが小さい。

役人の場合は、
公的なお金がからむ可能性がある。

だから、話題性が高い。
そういうことなのでしょう...

人は、自分の何かを守るために、
他人にウソをつく。

場合によっては、
自分にもウソをついて、
自分を動かしてしまう。

自己暗示みたいな感じ...

で、それがバレたり、
失敗に終わってしまった時に、
そのウソで、自分が失ったものの
大きさを知る。

あの人のウソも、最初は、
小さいものだったかもしれません。

けれど、ウソは、
ウソを引き寄せて、
どんどん成長していくんですよね。

どこかで止めないと。

2008年10月 9日

割引券、クーポン券

使いたいと思うときにはなくて、
使う予定がないときにはある。
そして、財布の中を占領している。

気にしなければいいものを、
利用期限とかが気になって、
何度も、お店に足を運んだりしてしまう。

そのかいあって、
何か欲しいものが見つかればいいけれど、
見つからなかったりもする。

けれど、使わないと何か損した気分にもなるから、
そんなに欲しいものじゃないけれど、
あったらいいなぁ、みたいなものを手にして、
レジに向かう。

割引券、クーポン券って、
そういう心理も予想して配られているんだろうなぁ、
って思います。

その「きっかけ」となるのが、
やっぱり、会員登録。

そこからすべてが始まる。

「会員登録すると、クーポン券を差し上げますよ。」
「今なら、○○引きですよ。」
「もれなく、2,000ポイントをプレゼントします。」

なので、私は、
持ち歩かなければいけないカードが
発生する会員登録は、
けっこう避けていたりします。

財布は、これ以上大きくしたくないし、
ふくらませたくもない。

なんか、十分ですよ。

1つのカードで、
いろんな会員登録に通用するサービスが
欲しいですね。

TSUTAYAのTポイントカードは、
その1つなんでしょうけど、これからも、
いろんなサービスと連携して欲しいもの。

うーん、それにしても、
割引券、クーポン券ばかりが増えるのは、
ちょっとキツイなぁ。

顔パスで、クーポン券の登録なんか出来たら、
一番いいんだけどなぁ。

2008年10月 4日

大人の逃げ方

文部科学省が中学生に配布した冊子
「かけがえのない自分、かけがえのない健康」に、
こんな言葉を見つけた。(第2章 心の健康)

------引用------

「自分について」確かめたり考えたりすることは
特別なことのように思うかもしれません。
しかし、日常生活における様々な体験、
まわりの人たちとのかかわり、
目標への挑戦などを通して、
だれもが行っていることなのです。

何を見つめる?何を考える?
  • 様々なことに対する自分の味方や考え方、価値観(大切にしていることなど)
  • 自分の得意なことや苦手なこと、好きなことや嫌いなこと、長所や短所、目標や夢
  • 家庭、クラスや学校(部活動を含む)、地域活動などでの自分の役割・責任など
なぜ、「自分について」見つめたり、考えたりすることが必要なのでしょう?
  • 自分に対する安心感や自信が高まる。
  • 自分なりの現実的な目標をもち、目標が達成しやすくなる。
  • 自分らしい意志決定ができやすくなり、責任感も高まる。
  • 自分なりの不安や悩みの解決策、自分にあったストレス対処法を見つけやすくなる。
  • 自分の考えや気持ちをはっきりさせやすくなり、自分の意見を相手に伝えやすくなる。
欲求やストレスについて考えてみよう!
  • 欲求をもったり、ストレスを感じたりすることは自然なことです。
  • ストレスの中には、「さらに努力する」ことによって、克服すると自分を成長させるものもあります。(学習、部活動の練習など)
  • 欲求やストレスへの対処法によって、結果が大きく変わってくることがあります。
  • 適切な対処法には、様々なものがあります。
  • 落書きする、暴力をふるう、悪口を言う、喫煙や飲酒をする。これらは、適切な対処法とは言えません。間違ったもの、許されないものです。
----引用終わり-----

この他にも、人それぞれには個性があって、
コミュニケーションの方法をそれぞれ身につけよう、
っていうようなことも書いています。

行政が配布する冊子の中には、
「とりあえず」形だけ作ってみました、
感じの出来映えのものも少なくないですが、
最後まで読んでみて、この冊子には、
いいことがたくさん書いているなぁ、と思いました。

ただ、面白いのは、前述の引用にあるように、
「...喫煙や飲酒をする。
 これらは、適切な対処法とは言えません。
 間違ったもの、許されないものです。」
ということを、大人には許されている、
っていうのも矛盾しているなぁ、と。

大人も、ストレスの対処法として、
喫煙や飲酒に逃げるのはダメでしょ、
子供に真似させたくなかったら...
と私は思うわけです。

どんなもんでしょう?

2008年9月28日

気まずい答え

お子さんは?

「いません。」

ご両親は?

「亡くなりました。」

お仕事は?

「見つからないのです。」

年齢は?

「教えられるほど若くないです。」

どちらにお住まいですか?

「ホームレスです。」

尋ねる質問のすべてに、
かすりもしない答えばかり返ってくると、
気まずい空気になりますね。

相手のことを知ろうとする質問と、
場を盛り上げる、場をもたせる質問では、
ちょっと違うでしょうけど、
そういう状況が重なると、
何もしゃべられなくなったりもする。

尋ねられた方も、なんか、
イヤなことばかり尋ねる人だなぁ、
と思っているかもしれない。

たしかに、
初対面で聞いちゃいけない質問も
あるかもしれないけれど、
基本的なこととして尋ねないと、
相手と近づいた気になれない場合もあるだろう。

そこらへんの使い分け、
相手の様子の見方、
感じられるようになりたいものです。

わたし、時々、
聞いちゃいけない質問を
どうしても尋ねたくなることがありますからね。
単純な好奇心だけでしょうが...

2008年9月16日

見栄っ張りを利用する

いろんな理由をつけて、
逃げる人ほど、
見栄が強かったりする。

そういうことから考えると、
うまく逃げている時には、
自分なりに「見栄」に抵触していない自分の姿が、
イメージできているんだろうと思う。

しかし、同じ逃げるでも、
「見栄」に抵触してしまう場合が
出てくる。

そういう時には、イヤイヤながらも、
そのことを逃げずに対応しようとするもの。

それで、自分の体裁が
保たれるということを信じているから。

だから、逃げてばかりの人を
つかまえようとする時には、

その人の「見栄」に
抵触してしまいそうなシーンを
こしらえてあげればいい。

すると、振り向く。

あるいは、
傷ついた「見栄」を治そうとして、
登場してくる可能性がある。

注意しなければいけないのは、
「見栄」がズタズタになるくらいのシーンに
なってはいけないこと。

振り向くどころか、
こちらをうらんで追いかけてきて、
復讐される恐れだってあるかもしれません。

それだけ、「見栄」を大切にして、
生きている人たちかもしれないので。

利用できるものは利用するけれど、
利用されているのを感ずかれてはいけない、
ってことなのでしょう。

2008年8月28日

お得か、ゴミか

スーパーでもどこでも、
買い物に行った際に、

レジにて表示される値段が、
売り場で表示されていた値段と違うと、

「ちょっと、ちょっと」と言いたくなるものです。

先日、買い物をしていて、
そういう場面に遭遇しました。

売り場には、半額と表示されていて、
かなりお得だと思い、最後の1個に
手をのばしました。

これは得したな、と思いながら、
レジに立っていると、
レジの人が、違う金額を入力していた。
(実際は、ピって終わりですが...)

今はほとんど、手入力じゃないから、
商品をかざせば、ピっと値段が表示されるのが、
普通ですよね。

「すみません、たしか、売り場には、
 △△円ってあったと思うんですが...
 間違っていなければ。」

とやんわりと言うことにしました。

間違っていないとは思っている私ですが、
もし間違っていれば、恥ずかしいですからね。

対応のいい店員さんで、
即座に売り場に行って、
値段を確かめてくれました。

どうやら、隣りにあった、
ほとんど同じパッケージの商品を、
お客さんが手にとって、
隣りの商品棚に置いたらしく、

私は、それを最後と思って、
よく確認せずに、カゴにいれてしまった、
といういきさつでした。

「どうしますか?」

と尋ねる店員さん。

ここで見栄を張ってもしょうがないので、
お得でない商品だと分かった以上、

「すみません、けっこうです。」

と返事をして、カゴから外してもらった。

店員さんには、動いてもらって、
申し訳なかったけど、

急に、ゴミは増やしてならないな、

という考え方に染まっていた。

我ながら、勝手なものだ。
お得だと思った時には、
必ずしも必要でないものが、
必要なものに思え、
お得でないと分かった瞬間、
同じものがゴミのようにさえ見える。

これまで買ってきたものの中に、
ゴミのようなものがあるわけだ。

まったく、懲りないヤツ。

2008年7月 3日

欲しいもの

人がそれぞれ欲しいものに、
優劣なんてものはないはずなんだけど、

人っていう動物は、
その優劣をつけたがる。

たとえば、理想主義の人から言わせれば、

「私は、出来た人間になりたい。
 お金なんかには興味ない。
 お金のために働いているヤツなんて、
 バカな人たちだよ。
 お金なんて、墓場に持って行けないのに...」

なんてことになるかもしれない。

一方、現実主義の人から見れば、

「いくら立派なことを言っても、
 お金がなければ、何も出来ない。
 私は、絶対にお金持ちになる。
 きれいごとを言うだけで、
 お金を稼げない奴らは、
 いつか、現実に打ちのめされるんだよ。」

なんてことを言うだろう。

手に入れたもので、
自慢しあうのもおかしいけれど、
欲しいもので、
自分たちの人間性に
優劣をつけるのも、また変だ。

何を望もうと、何を欲しがろうと、
人生の半ばにあっては、
一時的なものにすぎない。

それに、欲しいものは、
変わっていく可能性の方が高い。

どちらかと言うと、
その欲しいものが変わらない方が、
すばらしいことかもしれない。

けれど、欲しいものが何かによっては、
やっぱり、変だということもありえる。

ただ言えるのは、
他人が欲しがるものを批判はするな、
っていうことだろう。

それを批判したからといって、
自分が欲しがっているものの格が
アップするわけじゃあないのだ。

そこを勘違いしないようにしよう。
人生の一部に過ぎないんだから。

2008年6月28日

ケチの限界

ケチな人っていうのは、
「ない」ということに
とてつもなく耐えられない人のことだと思う。

そして、その「ない」と感じるレベルが、
きっと、他の人より早いのだ。

だから、本当は、
限界でもないところで、
「もう、限界だ」
なんて思っちゃっている。

それは、
誰かに何かをあげるとか、
自分の持っているものを提供するとか、
そういうことに限らず、

自分の力を出すべきところでも、
そういう傾向が見られるかもしれない。

つまり、
自分の力を100%出し切ればいいのに、
それをすることに、どこかでブレーキをかけてしまう。

それは、なんだろう...?

カッコ悪く見えるような気がするとか、
ギリギリまで出して通用しなかったら怖いとか、
これくらいで済ませたいとか。

やっぱり、ケチな感情かもしれない。

そんなケチにも、
思いっきり、あるだけのものを
出しちゃおうと思わせる機会は、
きっと訪れると思う。

好きな人のためか、
好きなもののためか、
命がけのこととか、
どうしても失いたくないものとか。

そんな時には、
ケチにも、限界ギリギリまで
何らかの力を出し切ろうという気持ちは、
生まれるはずなんだ。

そう考えると、
ケチは、ケチなんかじゃない。

まだ、出し切ってもいいようなチャンスに、
巡りあえていないだけ。
そういうことかもしれない。

2008年6月 1日

使えるものは使える

当たり前のことだけど、
新しいものを買うと、
お金を使うことになる。

たとえば、
パソコンをWindowsから、
Macに変えるというのは、

パソコン本体のお金ばかりでなく、
それで使うソフトのためのお金も
必要になってくる。

うまく流用できる方法が見つかればいいけど、
そういう方法がない場合は、
そういうプラスでかかってしまうお金のことも
考えなくちゃいけない。

今は、地上デジタル放送のために、
いろんなテレビが売り出されている。

それ用のテレビを買うしかない、
と思い込んでいれば、
今のテレビを捨てて、
新しいテレビを買う話になってしまう。

しかし、やっぱり、ニーズがあるものだから、
今のテレビを流用できるための「チューナー」
というものが出ている。

これで、テレビが捨てられることもないから、
地球に優しいというわけだ。

使えるものは使える。

私も賛成だし、
そういうことに頭を使うのが、
基本的に好きだ。

オークションに出品したりするのも、
そういうことの表れだろうなぁ...

結果的に、出品とか、配送の手間の方が、
利益に対して、かかりすぎたとしても、
使ってくれる人がいるんだから、

出品した方がいいと思ったりする。

もちろん、問題外にならないほど安いものは、
あげるとか、捨てる。

そうでないものは、
買ってもらったほうがいい。

少なくとも、
もらった人よりは、買った人の方が、
モノを大切にしてくれるから。

使えるものは、使って欲しいし、
わたしも、使いたいと思っている。

今朝も、新しく買いたいものが1つ思い浮かび、
さて、古いものに付属していたものはどうしようか、
と考えた。

インターネットで調べて、
いろんなアイデアを考えているうちに、
その付属していたものを使える方法を見つけた。
新しく買いたいものの種類をちょっと変えるだけで、
それが使える。なおかつ、安上がりにもなる。

いいことだよ、ホントに。

2008年1月11日

支払シュミレーション

マイホームを建てるときとか、
子供を大学に入れるときとかに限らず、

今は、親を老人ホームに入れるか、
在宅介護をするかとかを考えるときにも、
支払シュミレーションをつくる時代になった。

マイホーム、大学進学という話題なら、
明るい未来を感じる。

しかし、老人ホーム、在宅介護っていうのは、
息詰まっていきそうな心になりそう…

うーん、複雑な時代だ。

それでも、
支払シュミレーションが
うまくいくならいい。

考えることが暗いうえに、
考えて導き出した結論までも暗かったら、
もう、お先真っ暗な気分になるだろうなぁ。

やっぱり、
子供が少ないっていうのは、
気持ちが暗くなっていく大きな要因だね。

たとえば、うちの家族の平均年齢は、
計算してみたら、平均30.2歳と出た。

これが高いか、低いか、
よく分からない。

内訳を見てみれば、
71歳、39歳、38歳、13歳、12歳、6歳、
っていう具合だから、

このまま、みんなが年をとるだけなら、
毎年1歳ずつ平均年齢がアップするばかりで、
その下の世代の子供が生まれなければ、
一家の中も高齢化していくことになる。

結婚を急がせはしないけど、
やっぱり、ちゃんと子供を生んでもらえたら、
平均年齢が都度若くなっていいだろうなぁ。

でも、そうなると同居っていうのが前提になる…

同居は、それなりに問題が起きそうだし、
いいとも言えないなぁ。

子供を生まない若い世代ばかりが
責められるところがあるけど、

子供を生まないのは、
上の世代との親子関係に
原因があるかもしれない気がする。

支払シュミレーションから、
だいぶ話がズレてきたけれど、
要は、そんなことを考えてしまう時代なのだ。

明るい支払シュミレーションはないものか?

2007年12月14日

思い出したくない「自分」

朝起きて、
動き始めて、
1日を始めるのは
自分であるけれど、

そういう自分を、
他の人や動物とは何か違う「自分」と
ハッキリと意識して生きてる人は、
少ないんじゃないかな、と思う。

たとえば、夜中に、
ちょっと起きて、
トイレに行くくらいなら、
きっと、動物とそんなに変わらない。

自分は人間だ、
と意識できる瞬間ではない。

朝起きて、枕元に、
パンとか食べ物が転がっていて、
それを食べるくらいの行動で
1日を始めるんだったら、
それも動物とあんまり変わりない。

でも、お母さんとかだったら、
ちょっと違う。

みんなよりちょっと早く起きて、
みんなのために、
火とか電子レンジを使って、
朝ごはんを準備するからね。

ここらへんの行動くらいになると、
ちょっと人間っぽい。

「自分は母親だ」
という意識がないと、
多分やらない。

もしくは「私がやらないと、誰もやってくれない」
という責任感や、あきらめ感をもって動かないと、
朝ごはんは、テーブルに並ばないことになる。

それをしなければいけない「自分」を思い出すと、
人は、ちょっと負担、ストレスを感じる場合がある。

朝ごはんを準備しない男性は、
ごはんを食べることは無意識だけれど、
会社に行って稼ぐことを思い出した瞬間に、
「自分」というものを意識するのかも…

ああ、イヤだな。

よし、今日は、これをがんばってみよう。

プラス、マイナスの思い出し方の違いはあっても、
「自分」を思い出すのは、やならければいけないことの
重みを感じた時が一番かもしれない。

そういう時に、人間になれる。
人間になりたくない人、
「自分」という存在を思い出したくない人も、
人間にならされてしまう。

朝起きて、動物になっていいたら、どんなでしょうね?

それも、野生と、ペットでは、
また「自分」の思い出し方が
違うだろうけどな。

今朝も、人間として起きた「自分」です。

そして、やらなければいけないことに、
ちょっとしたストレスと興奮を感じながら、
今を生きています。

皆々様も、がんばってください。

2007年9月27日

本気じゃなかった。

「そうは言ったけれど、
 本気じゃなかった。」

良くできた言い訳とは思えない。

いじめて、
お金を要求しておいて、
「本気じゃなかった」
と逃げようとする。

じゃあ、もし、
その本気じゃなかったという要求に、
本気になって応えられて、
目の前に、お金を差し出されたら、
「ああ、あれ、本気じゃなかったよ。」
って言うだろうか。

「ああ、あれ、本気じゃなかったけど、
 どうしてもあげたいっていうのなら、
 もらってあげるよ。」
みたいなことを言うんじゃないだろうか。

もしも、
「本気じゃなかった。」
という言い訳を、
大人が子供に言わせているとしたら、
どうしようもないなぁ…と思う。

いじめた張本人の子供が
知っている真実を曲げるのを
手伝っているわけだからね。

一度曲げることができたら、
その子ども達は、そうやって、
世の中を渡っていくはず。

そういう入れ知恵をしてくれた大人に、
ちょっとは感謝をしたとしても、
今度は、そういう大人相手に、
言い訳を見つけて逃げて、生きていくだろう。

助けてやったつもりになっている大人は、
助けてやったんだから、
今度はまともに生きてくれるだろう、
と勝手に思ったとしても、

助け方が「まとも」でなければ、
その後、まともに生きてくれるわけがない。

と思うのは、私だけかなぁ…

盗みが見つかって、
本気じゃなかった。

過ちを犯して、
本気じゃなかった。

人を殺してしまって、
本気じゃなかった。

そうはならないでしょう?

だったら、
本気じゃない生き方をしていることに、
問題が、罪があることになる。

あなたは、
本気じゃない生き方をする時に、
多くの人に迷惑をかけるから、

本気じゃないことは
やってはいけない、というルールは
あり得ないでしょう。

本気じゃなくても、
本気であっても、
過ちを犯す可能性があるから、
自分の行動に注意しなさい、
というのがルールのはず。

本気じゃなかった。

最低の言い訳かもね。

じゃあ、いつから、
本気になるのかな?
って聞いてみたい。

2007年9月22日

嫌いにかかるコスト

何かを嫌いになると、
あるいは相性が悪いと、
お金がかかってしまう場合がある。

アレルギーっていうのも、
そのものとの相性が悪い、
という一つの現象。

それを避けるために、
一般的なものとは違うものを買ったり、
違うことをしなければいけなかったりするから、
やっぱり、お金がかかる。

そういう「もの」でなく、
人に対しての相性が悪かったり、
強烈に嫌いだったりすると、
感情がさらに加速して、
お金のかかるレベルが変わってくる。

考えてみれば、私にも、
そんなものがないとは
言い切れない。

ささやかなもんだけど、
あるところに行くのが嫌いでね。

でも、どうしても
行かなければいけない時もある。
なんとかして行かない方法をとるとなると、
ちょっとした「コスト」がかかってしまう。

嫌いなものが何もない人は、
そんなコストは何も必要ないだろうなぁ。

自分の好き嫌いのせいですが、
どうしようもないコストですね。

しょうがない人間ですね…

2007年9月17日

うちでは買えないもの

スーパーマーケットで買えば、
1本300円くらいで
羊羹(ようかん)が買えたりする。

同じサイズの羊羹が
老舗の和菓子屋さんだと
2,000円くらいする。

私は甘党で、
羊羹も好きだけれど、
安い羊羹でさえ
買ってまで食べようとは思わない。

だから、考えてみれば、
好きとは言っても、
年に何回も食べていないだろうねぇ。

先日、

「うちでは食べる人がいないから」

ということで、
その2,000円もする羊羹を、
妻が知人からいただいてきた。
妻は喜んで、こんなことを言う。

「すっごーいものもらったよ。
 うちでは買えない羊羹だよ。」

そんな言葉に、私は、
口には出さないが、
ちょっと反応する。

買えない?

今回は、次女も反応した。

「いっつも、そう言うね。
 そんなに、うちは貧乏なの?」

なかなかいい質問。

ほらほら、「買えない」なんて言ったら、
子どもがそんなふうに思うじゃねぇか。
(これも、声に出して言わない…笑)

けれど、次女も、
それほど真剣に尋ねている様子じゃない。

うちで買えないもの、
という言葉が気に入っている妻?

そんな言葉に、
それほど反応しない娘たち?

本当であれば、私は、
そういう言葉にプライドを傷つけられたことを感じ、
否定したり、怒ったりすればいいのかなぁ。

でも、怒る気にもならず、
しばし考えていた。
「うちで買えないもの」っていう言葉は、
子ども達の教育上、どんな効果があるんだろう、って。

自分のうちが貧乏だと思い込むのは、
勇気とか、自信とか、希望とかが萎えたり、
自分を卑下したり、みじめさを感じたりしないものか…

たしかに、そういう思い込みよりも、
ハングリー精神を生み出すケースもあるけどね。

うちでは買えないもの?

正確には、
「うちでは買わないもの」
という表現かな。

そんなにお金に無理してまで、
食べたいものじゃない。
もし、贅沢をするなら、
他のものを食べたい、
あるいは買いたいという感じだな。

実際、
2,000円の羊羹を買ったからって、
生活が困るっていうのは、
そんなにないとは思うけれど、
「買えない」「買わない」わけだ。

そう考えると、
買わないものっていうのは、
いっぱいあって、
買うものが少ないはず。

世の中には、
いろんなものが
売っているからね。

どんな金持ちにも、
「うちで買わないもの」の方が、
「うちで買うもの」より多いでしょう。

あくまで、いろんなことを含めての自分の選び。

もちろん、いろんな人に、
家計的に厳しい時期があって、
買わないということもあるでしょうし。

そんな時には、
そこで見栄を張らない強さ。

子ども達がいるとすれば、
無駄遣いをしてはいけない、
という意識を与えるためにも、
「うちでは買わないもの」
があるのはいいと思います。

そんなふうにして、
家計のやりくりをしているんだ、
それがうまくできてるんだ、
という「お手本」は、
子ども達が将来経験するかもしれない「厳しい時期」の
大きなヒントになるでしょうから。

お父さん、お母さんは、
うまくやりくりしていたんだな、
ということを思い出にしてあげることも大切かな。

衝動でも、見栄でも、同情でも、
感情だけで買い物が出来ない時期がある。

それを知っていれば、
火の車になることもないでしょう。

何事も、教育、教育…

2007年9月 5日

立派なことを言えない

なんか、
自分が調子のいいときには、
自分の口から
いろんな言葉が出てくる。

自分で言っていて、
そうだよなぁ、
と2回納得してしまうこともある。

けれど、間もなく、
考えこまされる事態が起きる。
そういう時が間違いなく来る。

結果を出したいと思っていても、
なかなか出せていないと感じ、
いろいろやってみるんだけれど、
なんか空回り…

結局、何も変わっていない、
何も始めていない、
という気分に襲われる。

すると、焦りを感じる…

リラックスするように努めていて、
しかし、そのリラックスしている時間に、
そんなことしていいのか、
って責めの自問が入りこんできたりする。

ちょっとのリラックス時間しか
とれない自分の臆病さに、
また無意味さを感じたりしてね。

毎日は、人生の積み重ね。
しかし、結果が出せていない時には、
そんな毎日を繰り返して、
何か積み重ねているんだろうか、
と思ってみたりもする。

なんか見えない糧になっていると
自分に言い聞かせても、
なんか分かるけれど、
どうも自信がない時もある。

もっと、やらなきゃいけないことが
あるんじゃないかな、とか思いながら、
過ごしていれば、
何かの意見を聞いてきたり、
相談の電話やメールもあったりします。

すると、私は、なんか
立派なことを言い始めたりする。
けれど、その途中から、
なんか矛盾しているような気もする。

しかし、電話の主に比べれば、
なんとなく「立派」に生きているんだろう。
だから、相談も受けたりする。

けれど、自分では分かっている。
実際、そんなに立派なことを
言える立場じゃないんだよな。

それでいいのか、それがいいのか。

結果がついてこない時期には、
いろんなことを考えるように
人生は出来ているようです。

ユニクロの創始者:柳井正さんが言う

「一勝九敗」

という言葉に、癒しを感じます。

結果が出ていない時期があってもいいんだ、ってね。

これを読んでいるあなたにも、
そういう時期、ありますよね?
ありましたよね?

いっしょに、がんばるべ。

2007年8月25日

決別するなら…

もうダメだ、
もう無理、限界…、
もうガマンできない。

そういう気持ちになっちゃって、
今すぐにでも、少しでも早く、
別れたいと思ったら、

人間の行動は、
超・速いもんである。

あの奥さん、
よく耐えてるなぁ、
あのご主人を
よく支えているよ。
ああいう人なら、
離婚なんかしないだろう。

と周囲が予想していても、
ある限界を越えた瞬間に、
「決別」への展開は
目にも止まらぬスピードだったりします。

反対に、
別れたい、別れない、
と何度となく口にしている人ほど、
ずるずると別れられないで
いたりします。

ある意味、
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
っていうやつで、
その時々で、決心の行方が
ふらつくんでしょう。

そして、
そもそもの行動力がない、
っていうことが、

問題を解決することも出来ないし、
はたまた、そこから決別する勇気も
引き出せないということなんでしょう。

もし、決別する相手が、
モノでなく、人間であるとすれば、
チャンスを与えるのが、
人の心というものです。

「今回はゆるすことにする。
 でも、次はゆるさない。」

というわけです。

ゆるされたことに、
解放感を感じすぎて、
そのチャンスへの自覚が薄いと、
また過ちをおかして、
相手に「決別」の決心を
させてしまいます。

私を見捨てないで…

相手の後ろ姿に、
そんなことを言っても、
もう遅いのです。

ちゃんと、チャンスは
与えられていたんですから。
それを大切にしなかった「あんた」が悪い、
っていうことになります。

子供の頃の私を振り返ってみると、
よく「決別」されていたなぁ、
と思います。

もちろん、しばらくすれば、
それも戻りましたが…

お調子もんでしたから、
何度もいたずらをしているうちに、
自分の予想が、相手の限界を
見積もるのを誤って、
誤算の結果となるんです。

よくいたずらしたり、
からかっていましたねぇ、私は。

成人してからは、
生まれながらの短気のせいか、
私の方から「決別」することが
多くなったように思います。

すぐに見捨てちゃう、
すぐに決別してしまう…

それも、子育てが始まると、
ちょっと変わります。

やっぱり、自分の子供には、
そう簡単に「決別」は出来ない。

イライラしようが、
気に入らないことが多かろうが、
最後まで付き合う気持ちは
消えることはありません。

ハッキリとした断絶、決別なんていうのは、
少ない方がいいに決まっていますが、
相手によっては、そういうケジメをつくらないと、
ズルズルとなってしまう場合もありますから、
決別をするなら、キッチリしなくちゃいけません。

と思っています。
珍しい人間かな…

2007年8月15日

キャンプではあきらめてる

昨日、1泊のキャンプから帰ってきて、
間もなく、爆睡に入ってしまった。

寝ていた時間は、
1時間ほどだけど、
とても気持ちよかった。

キャンプに行く前から
あきらめていたのは、
きっと寝不足になるだろうなぁ、
ってこと。

前の晩に、
散歩したり、
子ども達と遊んだり、
山の自然から刺激を受けたりして、
疲れたはずだけれど、
だからといって、
睡眠時間が長くなるわけじゃない。

予想どおり、
眠気は夜の9:00頃に
襲ってきて、
誰よりも早く
眠りについたようだが、

これまた予想どおり、
夜中の12:00頃には
目が覚めてしまった。

別に不快でもなかったから、
1時間ほど、
テントの外の風の音に耳を傾けて、
昼間の暑さとのギャップに
涼しさを感じていたけれど、

眠れそうにないから、
体を起こして、
一人こっそりと
露天風呂に向かった。

テントの外は、
夜風が気持ちいい…

どのテントも静かだけど、
ちょっと遠くからは、
人の話し声が聞こえる。

まだ飲んでいるんだろうか、
遊んでいるんだろうか。

露天風呂には、
先客が一人いた。

なんだか、
さかんに唾を吐いている。
酔っぱらい?

ちょっと距離を置いて、
体を洗ったり、
シャワーを浴びたり、
温泉に入っていた私。

温泉を出て、
体が冷えるまで外で涼んだ後、
テントに帰って、眠ることに。

三女が起きている。
隣りに寝て、寝かしつけ、
私も眠りに入ろうとした瞬間に、
今度は「トイレに行きたい」
という次女のリクエスト。

付き添っていく。

そんなこんなで、
やっぱり寝不足…

日が昇って朝になったものの、
うだうだしていたい気分の私。
ところが、
長女が一人元気で、
散歩に行こうという。

その散歩というのが、
渓谷を降りて、
大噴湯を見に行くこと。

階段の上り下りが、
超・運動になる。

帰ってきたら、
ちょうど帰る時刻。

家に帰ってきて、
そこらへんに眠るだけでも、
テントの中より心地いい。

キャンプ、終わりました。
あとは、また来年。

2007年8月 5日

自分に対して面白い自分は

他人に対して面白い自分は、
もしかしたら、
自分に対してはつまらなくて、

自分に対して面白い自分は、
他人にはつまならいかもしれない。

子ども達といっしょに、
歌番組を見ていて、
いい歌だなぁ、
いい歌詞だなぁ、
よく思いつくなぁ、
と思う人たちの感性っていうのは、
きっと、他人に対して面白い感性を
もっているんだと思う。

ちょっとの差で、
歌っている本人たちは、
とても面白そうだけど、
こっちには何も伝わってこない、
面白くないなぁ、
ってものも少なくない。

多分、ホントに、
ちょっとの差だと思う。

特別にむずかしいことが
存在するわけでもなく、
深く深く考えた結果でも
ないかもしれない。

けれど、
面白いものは面白く、
つまらないものはつまらない。

本人たちでさえ、
その時には面白いと思っても、
あとになってそうでもない、
と思えるものもあるはず。

反対に、
他人に受けなかったとしても、
あとで受けるものもあるだろう。
それは、最初に披露した相手が、
いまいちだったということもあるだろうし…

人は、刺激を感じないと、
面白いと思えない。
逆に、イヤだとも思えない。

その刺激っていうのは、
自分とは異なるものから
受けるもの。

たとえば、
私が隣りに住むおばさんに会っても、
何の刺激もない。

けれど、そこんちの息子が、
すごいきれいな奥さんをもらったりしたら、
刺激になるかもしれない。

日本人だけと顔を合わせていれば、
外国人に会うことは刺激だろうし、

反対に、外国人とばかり仕事をしている人は、
日本人だらけの職場に行く方が、
刺激的かもしれない。

人それぞれが刺激と感じるものが違うなかで、
それでも、圧倒的に多くの人に刺激を与えて、
その後に共感とか好感を与えることって、
すごいことだと思う。

やっぱり、それって才能とか、センスなんだろうね。

ただ、そういう刺激を与えることが出来た人でも、
未来永劫ずっと、それが出来るとは限らない。

人々には、刺激に慣れるという性質もあるからね。

だから、それを乗り越えて、
いっつも刺激を与えられる人間っていうのは、
さらにすごいことになる。

きっと、外面は変わりなくても、
内面は慌ただしく変わっているんでしょう。
そんな人間になりたいな、って思いました。
38歳にも出来ないことはないって信じて…

2007年7月26日

20年ぶりの声

「神戸のKさんだって?」

と、昨晩、妻が言う。

電話?

神戸のKさん?

もしや…

電話に出ると、
その電話の主は、
ほぼ20年ぶりのKさん。

仕事(?)で20年ほど前に、
こちらに来ていて、
面識ができた私の先輩。

今日、全国卓球大会のために、
神戸に向かう私たち親子のことを聞いたらしく、
歓迎の電話だった。

なつかしい…

けれど、20年ぶりくらいになると、
正直、話すことが見つからない。

久しぶりぃぃー、
の言葉は出てきても、
お互いに、変わってきているから、
その先の話題が出てこない。

結婚していたり、
子供が産まれていたり、
変化はいろいろ。

それに、当時の先輩、
後輩みたいな関係もあったりするから、
その関係で対話をすればいいのか、

今はそういう関係は離れたから、
そういうことなしに対話をすればいいのか、
そこらへんも、迷った。

そんなことなど悩まずに、
素直に喜んで会話をしていれば
よかったんだろうけどね。

今は、ネット社会のおかげもあって、
ちょっと声をかけたら、
日本全国に知り合いが
いるような状態になるかもしれない。

そういうネットワークを
大々的に利用したことはないけど、
そういうつながりで出会ったり、
再会するのも面白いだろうなぁ。

けれど、
そんなことに発展させずに、
ネット社会の中だけで
付き合いを楽しむからこそ、
面白いし、長続きする
というのもあるかもしれない。

必ずしも、会う必要はない。
仮に、顔と顔を合わせていなくて、
交流を続けていく中で、
ぜんぜん違うタイプの人間を想像して
勘違いしながらやり取りをしていたとしても、
それは、それでいいんじゃないか、と思う。

ネット社会の不正確さとも言えるけれど、
逆に、正確でないからこそ良いとも言える。

その不正確さ、想像だけで
付き合える部分をうまく利用し、
ちょっとした形を与えて、
もう1つの社会を創ったのが、
セカンドライフみたいなサービスでしょうし。

実際に会わないから、
楽しく付き合えるのって、
それはそれでいいよね。

必ず会わなければいけない関係より、
気楽でいい。

さて、神戸にて、
何か面白い出会いがあるかな。

2007年7月15日

目標の低いこと

いい目標をもっている人のことは、
誰しもが応援したいと思う。

自分の邪魔にでもならない限り…

けれど、
いい目標をもっている振りをして、
実のところ、低いというか、
低次元の目標しか持っていないことが
分かると、とてもがっかりする。

その時感じる気持ちは、
やっぱり、利用された感じ…

利用されてもかわいい相手なら
いいけれど、利用されると、
だいたいは腹が立つ。

せっかく全力で出し切ったパワーを
すっごくバカらしい目標に
利用される気分っていうのは、

せっかく払った税金が、
政治家とか官僚に不正に
使われていたことがわかった時の
気分に似ているかもねぇ。

ただ、
私が払っている税金の額なんて、
ホントにたいしたことないから、

そんな大きな顔をして、
「利用された、だまされた」
なんて言う権利なんかないだろうけどね。

利用されたと腹が立っている理由を、
もっとじっくり掘り下げてみると、
本当のところ、利用されたことを
問題にしていないこともあるように思う。

応援したり、
助けようとしていたことが、
熱が入りすぎて、
相手の目標でなく、
自分の目標にすり替わっていることも
あるから。

しかし、あくまで、
相手の目標なんだから、
相手のやる気とか、目標への志があって
初めて意味のあることが、

相手の目標が低いと分かった瞬間に、
すり替わっていた自分の目標が
果たせなくなってしまう。

それは、利用された、
というより、ほぼ100%
自分の目標を邪魔された、
という気分に違いないない。

相手の目標の上を乗り越えて、
よぉーし、この目標をがんばるそー、
って自分のものとして思い始めていたんだから、
そのショックは、計り知れないかも。

熱くなりやすい人は、
そんな経験が人生で
何度となくあるだろう。

裏切られたという気分が
度重なれば、
誰かの目標に便乗することに
だんだん慎重になってくることも考えられる。

うーん、私にはありがちなことだ。

勝手に、他人の目標に便乗して、
熱くなりすぎて、そうこうしているうちに、
相手にほとぼり冷められて、
ああ、邪魔されたぁーってね。

勝手な気分っていうのは分かるけど、
すっごくイライラするんですよね。

だったら、最初から、
その気にさせるなって…

でも、勝手に熱くなっている私も、
悪いから、気持ちのやり場に困るんです。
ははは…笑

2007年7月 6日

スキンシップ

旅先から帰ってきた妻と、
2日ぶりに、顔を合わせました。

子ども達ほど、
恋しくなっていないつもりでしたし、
メールや電話のやり取りで
コンタクトは簡単に出来ていたので、
なんともないつもりでしたが、

やっぱり、近くにいて、
スキンシップができるようになってみると、
「人のぬくもり」っていうか、

なんて言うか、
バーチャルでは感じられないものもあるなぁ、
って改めて思いました。

バーチャル(仮想)な世界で生きていることが
多くなっている私でも、
そんなことを感じるもんなんですねぇ。

自分に、ちょっとビックリです。

セカンドライフなんていう、
仮想な世界・空間で生活みたいなことを
体験できるシステムというか、
考え方というか、スペースが出来上がっても、

まだ、スキンシップの代替には
なりえないでしょう。

もちろん、時代が過ぎれば、
マウスが、スキンシップそのものの感触を
伝達してくれるなんてことも
可能になったりするかもしれない。

けれど、それだって、
代替に過ぎない。

本当のスキンシップの感触、
キスでも、握手でも、抱き合うでも、
腕を組むでも、肩にてをまわすでも、
現実に1対1にならないことには
体感できないからねぇ。

たった2日間、
妻がいないだけで、
そんなことを考えるあたり、
私も人恋しい人間のようです。

さわってみて、
体温を感じてみて、
現実に生きてる人なんだなぁ、
って感じるだけで
なんかふっと嬉しさを感じる。

きっと、
それが好きな人じゃないと、
椅子に座ったときに、
その人の体温が残っているだけで、

うっ!

と嫌悪感をもよおすように、
存在を感じる情報すべてを
否定したくなるはず。

愛おしい相手でないと、
スキンシップは意味ないわけです。

そんなスキンシップを
ありがたがっている私が、
今日からは出張です。

1泊だけのことですが、
スキンシップに飢えそうで、
ちょっと心配です…笑

明日帰ったら、思う存分、
スキンシップするぞぉぉーーーーー!

2007年6月26日

図々しく

お笑い芸人でない限り、

怒らせないように、
不快な思いをさせないように、
と気遣って生きていくことが
人としての「道」のようですが、

私は、笑わせることも出来ないくせに、
怒らせる、あるいは不快な思いをさせるギリギリの
ところまで、図々しく生きている人間のようです。

ある意味、大胆不敵なのでしょう。

分かっているんです。

ちょっと怒っているだろうなぁって。

ああ、嫌そうだなぁって。

でも、その人が、
その感情を許容できるだろうなぁ、
と思える段階まで、レベルまで、
分かっていて、やり続ける。

そして、寸前になって、
「あ、すみませんでした。」
と引き下がる。

別に、いじわるをするつもりじゃないのです。

相手のチャンスを、
自分のチャンスとして
ちょっとだけ利用させてもらう感じです。

で、利用されていると感じた相手が、
どこまでガマンできるかを
よーく観察しているのです。

ふだんは、観察力に乏しい私ですが、
そういう時ばかりは、
けっこう敏感にアンテナが働きます。

相手を見ていなくても、
漂っている空気まで
肌で感じられるような状態…

だいたいは、
うまくいくんですが、
たまに失敗します。

ギリギリが思ったよりも早く
来てしまうと、
逃げようと思った瞬間に、
怒られちゃうんですよねぇ。

いつまで図々しく、
そんなことをしているんだぁぁぁぁーーーー!

みたいに、ね。

私は、いつもチャンスを探しています。
チャンスを作ろうともしています。

そして、偶然、
他人が使っていないチャンスを見つけたら、
盗んだりという悪いことはしませんけれど、
利用させてもらいます。

時には、
「へぇー、そんなところにも、
 そんなチャンスがあったんだ。」
と感謝もされます。

意外にも、
チャンスに気づかない人も
多いんですよねぇ。

チャンスに気づかせるために、
これからも図々しく生きていく、
っていうわけじゃありませんけれど、

図々しさがまったくないと、
チャンスが、こっちに
気づいてくれないのでは
ないでしょうか。

私は、そんな気がしています。

2007年6月16日

ルールが変わる時

ゲームっていうものは、
ルールが変わったとたんに
面白くなることがある。

反対に、
つまらなくなることもある。

ルール1つが変わると、
今まで出来たことが
出来なくなり、

今まで出来なかったことが
やってもいいことに
なったりする。

だから、
ルールっていうものは、
だいたいが、
どんな自由があり、
どんな制限があるか、
ということ。

当然のことながら、
自由度があればあるほど
面白い気がするし、
制限が多ければ多いほど、
なんとなくつまらない気がする。

しかし、
まったく制限がないと、
何が目標か、何が勝ちかも
分からなくなり、
混乱するばかりである。

混乱していることが
楽しいっていうのは、
普通は、それほどないだろう。

もう1つ、つまらないのは、
ゲームが始まる前でなく、
ゲームの途中で、

「実は、こういうルールがあるので、
 それはダメです。やめてください。」

っていう感じのことを言われること。

そんなに重くないルールで、
それが1度くらいなら、
ガマンしてゲームを続けられるだろうけど、
何度も何度もあるとしたら、
やっぱり、やる気がなくなる。

ただ、人生って考えてみれば、
そんな感じのところがあるかもなぁ…

もちろん、
食べていかなくちゃ
生きていけないっていうルールは
あるけれど、

それ以外のことについては、
「生きるって、こういうことも学ぶことか」
っていうことが何度となくあるから。

そして、その度に、
生きるルールを学ぶ。

時には、そのルールを間違って
理解してしまったりすることもある。

そうすれば、後になって、
理解のし直しをうながす経験が
待っている。

ルールがどう変わったかに
気づくことも大切だけれど、

どんなルールがあるか、
っていうことに気づくことも
本当に大切なんだよね。

生きるって、
そのルール探しだな、
って時々思います。

そのルールこそが、
人生の宝なのかも…?

2007年6月 6日

期待しすぎて傷つく自分

結婚したばかりの頃、
近所の子供が回覧板をもってきて、

「はい、どうぞ。
 お母さんが、お駄賃を
 もらってこいと言いました。」

と一言。

「へ?」

どう考えても、ありえない話である。

ありえるとしても、
きっと、こうだろう。

「お駄賃をもらえるかもしれないから、
 回覧板をお隣さんに置いてきて。」

くらいかな…

子供に、夢をもたせることはいいことだと思う。
そして、その夢を叶えるためには、
努力が必要だということも教えるのがいい。

けれど、たいして努力をしなくても、
何かうまい話に乗れる、
みたいな期待をさせると、

その子供は、きっと態度が悪くなるだろう。

ちょっとしたことを頼んだときに、

「何、もらえるの?」

みたいな返答がすぐ出てくる感じ。

あるいは、もらえるものが始めに分かった瞬間から、

「私、やりたくないよ。」

という反応。自分がやるべきことであっても、
そんな態度が出てくる可能性はありえる。

ちょっとのことだとしても、
人というのものは、

「やってあげた。」

という気持ちが残るものである。

しかし、その反対には、
意外にも、鈍感だったりする…

私なんか、そのいい例だな。

「好きでやってくれたんだろ。」

みたいに、自分の都合よく
理解するところはある。

そういう期待のやり取りを考えると、
物事を人に頼むのは、
カンタンにやっちゃいけないな、
と思い始めたりもする。

要は、借りはつくらないってこと。

ただ、人が生きていく中で、
誰にも借りをつくらず、
誰にも迷惑をかけずに進んでいくなんて
めったなことじゃない限り、まず不可能。

厚顔無恥で、
「誰にも借りはない」
と知らんぷりしているような人間でない限り、
いくらでも借りは見つかるはず。

知らず知らずのうちに、
借りをつくっているとすれば、
その相手は、少なからず、
何らかの期待があってもおかしくない。

その期待にすべて応えようとしたら、
身が持たない。

借りに敏感すぎると、
きっと心身ともに疲れて、壊れる。

そうなると、自分も誰かに何かを期待し始める。

すると、自分が期待を裏切っているように、
今度は、自分が期待を裏切られる。

そして、傷つく。

あんまり他人に期待することなく、
鈍感な人だけが、何の苦労もなく、
好き勝手に生きているように見えてしまう。

それがいいのか悪いのか、
分からないけれど、
敏感すぎるのはよくないなぁ、と思う。

昨日は、いろんなことへの期待が交錯して、
夜になる頃には、イライラ絶頂の私でした。

2007年5月28日

節約するところ

誰でも、何かを節約している。

服にかけるお金を節約している人もいれば、
子供にかけるお金を節約している人も、
はたまた、
従業員に払う給料を節約する人もいれば、
ケータイにかけるお金を節約する人もいる。

車にかけるお金を節約する人、
住居にかけるお金を節約する人、
自己啓発にかけるお金を節約する人、
食費を節約する人、
デート費用を節約する人…

いろんな価値観があって、
いろんなものを節約している。

そして、共通するのは、
節約するものがある人は、
節約しないで思いっきり使うものもある。

たとえば、
バス賃や列車賃を節約する人は、
その代わりに、歩いたりするから、
時間と労力は節約しないことになる。

食費を節約する人のなかには、
衣服にかけるお金を節約しない人も
いたりするだろう。

教育にかかわるお金は節約しても、
遊びにかかるお金を節約しない人がいても、
何もおかしくない。

誰しも、何事にも節約する人だ、
という人はいないはずなのだ。

それは、節約することによって、
別のことに手間をかけたり、
無条件に手間がかかったりするから。

そして、それによって、
人の価値観っていうものが分かる。

今の私は、どうだろうなぁ…
と考えてみれば、

交際費は、
かなりと言っていいくらい、
節約している。

その代わり、
子供の才能にかかるお金には、
交際費ほどの節約意識はない。

幸い、世の中自体が、
交際というものの「かたち」が
変わってきているから、
その節約は、それほど難儀なことでもない。

それもこれも、
インターネットという手段(世界)が
存在するおかげなんだろう。

善も悪も含めて、
インターネットという「人間の本質」が
見えやすいものの存在によって、

体裁とか、形式とか、
少しずつ薄くなってきているのを
感じるのは、私だけかな。

もちろん、いつまでも
しぶとく残っているものもあるけれど。

たしかに、
残しておかなければいけないものもある。
つまり、節約なんてして
省略しちゃいけないものだ。

けれど、
便利なものの存在によって、
節約しちゃっていいものも
少なくない。

なかには、その節約が、
自分の価値観に反してしまう人も
いるかもしれないけれどね。

節約されることになる時に、
考えてしまうシーンが
度々出てくるようになった。

子供の新学期が始まってから、
塾や家庭教師のセールス電話が
多くなっていた。

いまだに、そんな電話が
かかってくる。

まだ親が教えられるレベルの勉強だから、
子供とのコミュニケーションも考えた上で、
塾や家庭教師なんぞは考えていないが、

もし、学力をアップさせるために、
専門家に任せて、
自分の時間を節約するということを
選んだりする時がくるとしたら、

時間と重荷を節約すると同時に、
子供とのコミュニケーション時間も
短くしてしまうことになるだろう。

節約していることの裏側で
何が起こるか…
しょうがないこととするか…

カンタンでないこともあるだろうなぁ、
と思います。

2007年3月14日

ホワイトデー

もう卒業式が終わって、
私服姿でホワイトデー売り場に
群がる男の子たち。

中学生っぽい…

なんか、微笑ましかったです。
ゲームセンターとかに
群がっている姿は、
よく見るんですけどね。

学校という囲いから、
解放されて、
ちょっと浮かれている様子も
感じられました。

高校の合格発表も
終わったところもあるでしょうから、
今が「春」でしょうね。

実際、外は、今になって、
大雪という状態ですから、
また冬に逆戻り的な雰囲気なんですけど、

人の心が「春」になっていると、
自然と、春を感じやすくなります。

あと、やっぱり、日が長いのがいい。

夜明けも早いし、
夕方の明るい時間も長くなった。

大雪の中でも、
なんか救いすら感じます。

こんな雪でも、
もう少し我慢すれば、
100%の春になるんだってね。

ホワイトデーの今日、
学校に行っている子供たちは、
お返しに喜んだり、
ガッカリしていることでしょうね。

うちの娘も、卒業をひかえて、
最後だからということで、担任の先生に
バレンタインチョコをプレゼントしたようですから、
お返しをもらってくることでしょう。

先生も、最後だから、
奮発してくれたりするのかな…

なんか、私も楽しみだったりします。

と言う私は、
まだ何も買っていないので、
娘たちに『お返し』を買いに行かないと
いけないですね。

さて、何を買おうかなぁ。

私も、いっしょに
食べられるものにしようかなぁ。

2007年2月22日

入学祝金は欲しいか?

保険のコマーシャルを見ると、
数字のトリックにだまされそうな感が
あります。

数年前からあるのは、
「1日たったの103円」とかいう表現。
これって、怪しいですよね…

1年にしたら、37,000円くらいじゃん。
それが1日にすれば、安く思えちゃう。

しかし、大切なのは、
その投資額に対して、
どれだけの保障がついているか、
っていうことであって、
掛け金だけを前面に出すCMに、
引っかかってはいけません。

一方、保障を
前面に出してくるところも、
それだけで契約を考えていいものか、
分からないところです。

「一生安心」
「なにがあっても大丈夫」
「ボーナスつきでお得」

なんて言葉にだまされてもいけない。
それには、それなりの掛け金が
要求されますからね。

ちょうど、中学校へ入学する長女。
この度、入学祝金がおりてきました。

なんか、やっぱり助かりますね。

私の保険の選び方の基本は、
掛け捨てでないものの場合、
保障も考えますけど、
保険期間すべての掛け金総額と、
保険期間に支払われる保険金総額のバランス。

入院や手術の際に支払われる額は、のぞきます。
それらは、ずっと健康な場合は、
支払われることはありませんからね。

掛け金総額が、保険金総額よりも、
大きくオーバーしていたら、
やっぱり考えちゃいます。

トントンか、掛け金総額がちょっと低めになるように、
という感じで、子供たちが生まれた時に考えて、
保険を選びました。

正解だったと思います。

家計が苦しかった(笑)時にも、
なんとか払ってこれましたしね…

こうして、祝い金も、もらえている。

ちなみに、翌々年、次女が生まれた時に、
同じ契約内容の保険に加入しようとしたら、
掛け金総額が、保険金総額を超えちゃいました。

たった1年ほどで…、
というか、私の年齢が1歳増えるだけで、
掛け金が高くなっちゃうんですね。

ですから、その時には、
小・中・高・大で入学祝金が出るタイプでなく、
大学に入ってから毎年祝金(?)が出るタイプにしました。
それで、掛け金総額と保険金総額がトントンという具合…

今加入を考えるとしたら、
もう無理でしょう。

若いうちに、適当なものに入っていて、
良かったなぁ…という感じがします。

こういう世の中でなければ、
保険なんて要らないんでしょうけど、
セールスレディの口に乗せられないよう、
自分でちゃんと考えましょう。

大きい買い物ですからね。

→生命保険はこうして選びなさい―必要な保険・いらない保険

2007年1月23日

アイデア貧乏

貧乏は貧乏でも、
これから明るくなっていきそうな貧乏なら、
誰でも、耐えられるかもしれない。

けれど、貧乏の真っただ中にあっては、
そんな希望すら、持てないことも…

先を見ることが出来ない、
っていうのは、おそらく、
先に進むためのアイデアがないから。

「一番貧しいのは
 アイデアがないことだ。
 何をしたい、
 何になりたいかが重要だ。」
 (ウィル・スミス[安倍首相とウィル・スミスの対談]、asahi.com1/19記事)

あれは無理、
これもダメ、
それは不可能。

そんなことばかりを考えるクセをつけると、
自分の中のアイデアの泉は
きっと閉じてしまうだろう。

間違いない。
アイデア貧乏は、
自分のせいなのだ。

しかし、
それから脱出するためだからといって、
「アイデアが欲しい、欲しい」
といっても、しょうがない。

アイデアが必要になる何かに対して、
ものすごく強い願望とか思いがなければ、
いけないと思う。

だから、仮に、
本当に貧乏だとしても、内心、
まぁ、このままでもギリギリやっていけるかな、
なんて思っていたら、きっとアイデアも出てこない。

ただ、同じ状況において、
悪を働いてまでも何とかしてやろう、
というアイデアの出し方をする人も出てくるだろうから、
「ハングリー精神」というのが
必ずしも、良い動機になるとは限らないのも事実。

自分をさかのぼった時、
お金が貧しくなる前に、
アイデアが貧しくなっており、
アイデアが貧しくなる前に、
心が貧しくなっているのだとしたら、
リセットしたくなるかもね。

きっと、誰もが何かにおいて、
「貧しさ」を抱えていると思う。

アイデアがないと、
そこを乗り越えることは出来ない。

2006年9月27日

自分のものじゃない

手にしているものが、
たとえ自分のものだとしても、
一時的に預かっているにすぎないと考えれば、
その扱い方は変わってくる。

そうでない場合、
完璧に自分のものだとすれば、
ものによっては「いい加減」に扱ったり、
必要以上に敏感になる正反対のケースもあるだろう。

完璧に他人のものだとしても同じこと。
どうせ自分のじゃないからと、
いい加減に扱う人もいれば、
反対に神経質になりすぎる人もいるはずだ。

要は、ものの扱い方というのは、
その人の人格と価値観に基づいて
現れるんだろう。

もう1つ。
慣れるまでは時間が必要かもしれないけど、
意外と面白い自分が分かるのは、
他人のものだけど、
完璧に自由にしていいケース。

捨てようが、壊そうが、
売ろうが、取り替えようが、
何をしても自由な時…

果たして、そんなものがあるか。

多分、そういうものって、
勘違いされていることも少なくないから、
気づいていないかもしれない。

自分が責任を負わなくてもいいもの、
なおかつ、失う心配のないもの、
って、やっぱり気楽だから、
自分の本当の姿が現れる。

人によっては、そういう意味合いで、
お金を預けられたり、
モノを預けられたりすることもあるでしょう。
また、それ以外にも…

私は、つい最近、そんなかたちで
自分に与えられているものを発見した。

自分のものだと思って扱っているもの、
他人のものだと思って扱っているものに比べて、
やっぱり、そのものと向き合う時には、
ちょっと気持ちが違うことにも気づいた。

自分のものじゃないけど、
自由にしてもいいもの。

そういうものに出会ったときには、
本当の自分が現れてしまうのを止められない。

2006年9月18日

曜日を間違えない人

たいしたことでないけれど、
曜日を絶対に間違えない人って、
すごいと思う。

だいたい間違えるのは、
いつもと違うことが起きた週。

たとえば、今日のように、
月曜日が祝日だったりすると、
それ以降の感覚が崩れてくる。

あと、私の場合によくあるのが、
毎週金曜日の朝に届けられる英字新聞に
関係することなんだけれど、
ふだんは、ちょうど1週間をかけて、
つまり木曜日まで読んでいることが多いから、
それを水曜日に読み終えたりすると、

木曜日の朝に、
「なんで、新聞が来ていないんだ!
 新聞配達の人、忘れてんじゃない?」
なんて思い始める。

何度も何度も、
郵便受けをチェックしているうちに、
「そっかぁ、今日は木曜日か」
と気づくわけだ。

こんな曜日の間違え方は、
1度で終わらない。
たびたび、同じことのくり返し。

待っている側は間違うけれど、
どうだろう?

もしかしたら、新聞配達の人って、
絶対に曜日を間違えないんじゃないかな。

配達するたびに、
新聞に印刷されている曜日が、
チョコチョコ目に入るだろうし、
(もちろん、気には留めないだろうけど…)

仕事を離れて、曜日を尋ねられた時には、
誰よりも最初に即答できるじゃないかな。

って、曜日を間違えないことが、
どれだけ素晴らしいことかは分からないけれど、

「1週間が過ぎるのが、
 早くて早くて…」

なんて口癖にはなりたくないな、って思う。

実は、最近、そんな気持ちを
チョコチョコ感じます。

大きなイベントとかに向けて、
一生懸命がんばっている時には、
そのスピードはそんなに速くはないけれど、

そのイベントまでの時間がまだまだある時には、
微妙な感じがします。早く来てくれればいいような、
もっと遅くなって充実してくれればいいような…

けれど、意外にも、1週間が早く感じる。
体で感じる「時計」に、ちょっとした変化が起きているのかな?

曜日の間違いと言い、それが過ぎるスピードと言い、
誰か、そんなことを研究している人がいたら、
知りたいものです。心理的なことでもいいから…

2006年8月28日

大きい夢のようで、小さいもの

ほぼ日手帳にあった昨日の言葉。

「こどものころ、末は大臣か大将か
 という言葉がよく言われていたけど、
 ぼくはそのときでも、
 とても卑しい言葉だと思っていた。
 なんで夢という広いものを、
 大臣とか大将という野心的なものに
 限定しなければならないのか。」
 (岡本太郎さんの言葉)

子供に、
「何になりたい」と尋ねて、
返ってくる答えに、
どれだけの広がりがあるか、と考えれば、

親や周囲からの洗脳を受けている子供ほど、
小さくなってしまうと思う。

世の中で使われている言葉でしか、
なりたいものが出てこないと思う。

社長、警察、パイロット、野球選手、
看護婦、美容師、消防士、プログラマーなどなど。

どれがいいとか悪いとかっていうのは、
もちろんないけれど、あまりにも早い段階に、
植えつけた「大きな夢」は、
結局のところ、小さい人間をつくることしか
出来なかったりする。

息子を医者にならせようと、
勉強を強制していた親の子供は、
その世界から逃げたくて、
自宅に放火し、家族を殺してしまった。

そういう悲惨な結末に行かなくても、
それに似た話は、少なくない。

親の目から見て、
「確実で、大きな夢」は、
子供の時代が来たときに、
そのままであるとは限らない。

単なる親とか、大人の憧れで、
それを叶えた人がうらやましいだけ。

うらやましいから、
それを「大きい夢」と言っているだけ。

なんか、そういうものさしで、
自分の現実とか夢ばかりでなく、
子供の夢までも測ろうおする大人は、
寂しい存在じゃないか。
自分の子供について、
何をしている?と聞かれ、
「卓球」と答えると、必ず、

「将来は、愛ちゃんになるな」

などと言われる。
卓球を知らない人ほど、
そういうことを言うから、
面白い。

愛ちゃんのような子供が、
そう簡単に出来るわけがない。

もちろん、愛ちゃんのような存在を
目指している子ども達も多くいるだろう。

多くいればいるほど、
次の愛ちゃん的存在になるための競争率は
かなり激しいわけで、
目指した人々の99.99%以上までが、
後には、別の夢を追いかけるはずなのだ。

夢を追いかけた努力を忘れずに、
別の夢でも努力をすれば、それはきっと、
「次の愛ちゃん」なんていう大人の観点からは
想像もつかない夢へと達するはずだ。

自分の夢をあきらめた者だけが、
他人の夢をも固定観念で表現する。
そんな気がしてならない。

なんでもいいから、
何歳になっても、
自分の夢をもっていたいもんだ。

2006年8月12日

ミスの証を目の前に

私は、自分がクルマの運転に
向いていないと思っている。

というより、多分、事実だ。

免許を取る時にも、
適正テストの結果で
指導教官に呼ばれて、
何か注意を受けたことを
覚えている。

いっしょに適正テストを受けた友人らはみんな、
いろんな工夫をして答えていたようだが、
バカ正直に答えたがゆえの結果とは言え、
(たしか、「強引」とか注意されたかな?)
今になって思えば、やっぱり、
運転は向いていないかもなぁ…

と思うところもあって、
気をつけて、クルマを運転している。

とは言っても、たまにミスする。

ここしばらく、違反もなかったため、
去年は、5年免許をもらったけれども、
つい先日、子ども達を迎えに行くときに、
ちょっと考え事をしていて、

踏切で一時停止するのを忘れたようだ。

と言うか、やっぱり、
いつも、その一時不停止がいい加減だったのだろう。

そこをちょうど見ていたパトカーに、
「前のクルマ、止まりなさい」とやられて、
罰金9,000円。

ああ、9,000円もあれば、
iPodが買えるよ。

DVDだったら、4、5枚くらい
買えるものもあるだろう。

今欲しいと思っているデジタルビデオカメラの
軍資金にもなりえた。

家族みんなで、お食事も出来るし、
子ども達の卓球用品を買ってもあげられる。

そういう可能性を台無しにした自分自身に対して、
見せしめとして、その翌日に納めた罰金の領収書を、
自分の目の前に貼っています。

自分のミスの、ハッキリとした証です。

支払う必要もなかったお金を
払うことになったバカ者に対して。

見るたびに、また払うのは勘弁だなぁ、
と思っている今日この頃です。

2006年7月13日

見栄をはった場所がイヤになる

知らず知らずのうちに、
こんなふうに思われたい、
という気持ちが働いて、
私たちは、見栄をはっていたりする。

やさしい人間に思われたい、
出来た人間に思われたい、
才能のある人間に思われたい、
がんばる人間に思われたい、
センスのいい人間に思われたい、
仕事のできる人間に思われたい、
リッチな人間に思われたい、
物持ちな人間に思われたい。

いろんな思われたいがあって、
その通りの自分になろうと、
自分がそう思われる可能性のある場所で、
そういう姿を演じる。

場所は、特定されていなくてもいい。
ある1人の個人がいる場所でも、
組織がある場所でも、
学校でも、会社でも、教会でも、
どこでもいいのだ。

自分が思われたいように
思ってくれそうな人がいる場所なら、
どこでも…

と言うか、可能性の高い場所を
普通であれば、選ぶだろうから。

思い通りに、そう思われたら、
とても嬉しい。やっぱり、
私は、そういう人間なんだ、
と自分を納得させられる。

見栄をはって見せている「姿」が、
本当の自分のような気もしてくる。

しかし、時間が経ってくると、
そういうことが虚しく思えてくる。
おかしいんじゃないの、
自分なんかじゃない、と。

次にもたげてくる気持ちは、
その場所が悪かった、
その場所にいた個人や組織が悪かった、
そういうことを自分にさせた相手が悪い。

見栄というものは、
自分が好きで張っているものなのに、
そういう空気を作りだした場所が悪い、
そんなふうな認識を持ち始める。

そうなると、今度は、
その空気や場所を否定する考えを持つのを、
自分に強要し始めて、
それを受け入れてくれる「新しい場所」を探し出す。
それも、個人だったり、組織だったりする…

おそらく、その新しい場所が見つかると、
また、そこで見栄をはるようになるだろう。
そこでも、見せたい自分が、
自然と心に思い描かれるはずなのだ。

きっと、それがその通りになった時には、
また、虚しくなったり、その場所が嫌いになるだろうなぁ。

見栄をはった場所が問題なんかじゃない。
見栄をはった自分が問題なんだよ。

気づけよ、自分!

2006年3月12日

指をさされる

おかしなことをしていると、
周囲の人間から
指をさされることが多い。

直接、指されることはないとしても、
別の意味で「注目」される。

しかし、おかしなことには、
2つの種類があり、
人に迷惑をかけることと、
人に笑われてしまうこと
(もしくはバカにされてしまうこと)
に分類されるだろう。

迷惑をかけていることなら、
早く気づいて、直さなくちゃいけない。
あるいは、迷惑のかからない方法や
場所を探して、続けるしかない。

一方、笑われてしまうこと、
バカにされてしまうことには、
大きなヒントがある。

つまり、今の時点では、
人に理解されないことだということ。

理解されないことのすべてではないとしても、
未来において、
すごいことに発展するものもあるから、
指をさされた時に、恥ずかしがって、
それをやめたりしたら、
もったいないことになる。

遠慮する必要はない。

迷惑をかけているかどうか、
分からない神経の人間でない限り、
指をさされることを気にする必要はない。

なんて言いながら、
わが道を歩む私は、
いろんな人に、
かなりの迷惑をかけていたりしてね…

少しは、周囲も見ながら。

2006年2月16日

輝かせてくれるもの

なんか、ちょっと前に比べて、
輝いたなぁ…と思える人が
いたりします。

「お金で、女は磨かれるんだ。」
なんていう言葉を
聞いたことがありますが、
そういうケースもあるようです。
一時的ではあったとしても…

それ以外で言えば、
仕事であったり、
恋であったり、
スポーツや芸術に励んで充実していたり、
なんかの社会活動に燃えていたり、
はたまた、整形をしたりと
いろんな理由があるようです。

お金と異性で磨かれる世界っていうのは、
私も詳しくは知らないのですが、
キリがなさそうで、
知らないに越したことはないとも思えます。

おそらく、人間は弱いから、
ちょっとでも、その味や虚栄心を知ってしまうと、
きっと引き下がれなくなる…

どんどん、どんどん、
突き進んでいくことでしか
そのポジションは守れない。

自分が自分をどう思うかでなく、
「輝いていない」って思われることが
一番の屈辱でしょうからね。

私は、何で磨きましょうか…

あんまり考えすぎると、
頭に磨きをかけることになりそうですから、
考えすぎないことにします。

2006年1月27日

バキッ! あちゃ〜

昨日、やってしまいました。

せっかちな性格が、
すべてを招いたいのでしょう。

朝から、慌しかったのです。
子供のスキー教室のサポートに行ったり、
そのスキー場が大雪のゆえに、
急きょ会場が変わったり。

それが終われば、あれこれ…
なんていう感じに、自分で自分を
急かしていました。

不思議なもので、
そういう気持ちになっちゃうと、
もう急ぐ必要のないことにさえ、
急いで、やってしまおうという気分に
なってしまいます。

それが、ちょうど昨日の私。
自宅に帰ってきて、すべては終わった、
ということで、クルマの車庫入れをしている時に、
事件は、起こりました。

注意していたつもりですが、バキッ!
サイドミラーの首がプラプラになってしまいました。

ああ、ショック。

ディーラーに問い合わせて、
部品が来るのを待っています。

しめて15,000円。

いい勉強代になりました。

せっかちすぎる性格に、
気をつけなくちゃな〜
と思わされた出来事です。

珍しく、その後2時間くらい、
立ち直れない私でした。(笑)

2006年1月24日

ネタとお金

ホリエモン逮捕で、何かしら、
古い時代に戻ろうとする動きは、
すこし怖いです。

金だけで人の心を買うのも、
行き過ぎだけれど、
コネや権力だけで人の心を動かすのも、
やはり、あぶなっかしい。

コネや権力のない人には、
何もチャンスがないことになる。
それに、そのコネや権力だって
お金でつくられたりしている可能性は
少なくない。

情報(ネタ)で、お金と人気を集めて、
必死に、チャンスや夢をつくっていく姿。

人々に飛びつかれるようなネタを
発信できない古い人間にとっては、
イヤな存在にもなりえます。

おそらく、どっちも必死になる。
その必死さが、一歩間違うと、
道を踏みはずすことになるでしょう。

コネや権力にひざまずくか、
人気(ネタ)やお金にひざまずくか。

どっちも、不正解でしょう…

ホリエモン逮捕は、
日本の新たなスタート地点。

「戻る」という安易な選択だけは、
避けたいものです。

そう思いながら、
眺めているニュースです。

2005年12月25日

メモと記憶

人の記憶というのは、
かなりあいまいなもので、
簡単に「反対」の記憶がされている、
というようなことがある。

たとえば、
「返した」のに、
「返していない」とか。

「言った」のに、
「言っていない」とか。

そういう問題になった時には、
それぞれが違う記憶、
それも、人間の記憶という
あまり信用できないものを根拠に、
主張を始めたりするから、
収拾がつかなくなる。

ということで、
メモとか、文書とかいうものが
登場してくる。

書き留めておけば、
それが強烈な証拠になるからね。

でも、そこにも、
落とし穴がある。

どういう背景で、
そういう話になったのかが、
メモや文書だけでは、
充分に表されていない、
ということがあるから…

〜〜の条件においては、
1個2,000円で取引する。

という話であったはずなのに、
「1個2,000円」とだけメモが残されていると、
双方とも、何とでも理解できる。

「どんな条件であれ、
 1個2,000円のはずだろ。
 メモに残っているじゃないか!」

「いや、あれは、
 〜〜という条件のはずだったじゃないか!」

国会の証人喚問ではないけれど、
意図的であるかどうかに関わらず、
メモや文書にも、盲点はあるのだ。

となると、結局のところは、
「本当は、どうしたいか?」
という本音のところで、
記憶もメモもうまく利用されるのである。
人間という賢い生き物から…

人間には、確実なものなんて、
ないかもしれませんね。

2005年12月16日

自己責任はどこへ?

私には、よく分かりません。

耐震強度偽装問題において、
その解決のために、
国のお金が使われることに
なっていますね。

持ち家を持つある方が、
インタビューに対して、
こんなことを言っていました。

「国のお金を使う必要はないだろう。
 俺の家に問題があったら、
 国はお金を出してくれるのか?」

なるほど、と感じました。

人道的な支援と考えれば、
助けるのは、たしかに「良いこと」。

しかし、自己責任という部分を考えれば、
どこまで助ければいいかについては、
かなり微妙な話になってきそうです。

数年前に、

「これからは、自己責任の時代だ。」

と叫ばれて、そういう覚悟で生きてきた人にとっては、

「なんだ、この方策は?」

と思っちゃうことでしょうね。

マンションを買うということは、
大きなローンを組んで、
(自分の手にまだ入っていないお金を投資?して…)
賭けをするようなものだと思うんです。

賭けだから、やっぱりリスクがあるわけで…

そのリスクを肩代わりしてくれる人が現れれば、
もう「自己責任」という文字は消えるのです。

リスクを負うことと、自己責任のバランス。
これ以外にも、これからは、
いろんな問題が出てくるでしょうね…

2005年11月 2日

お金がない時に考えること

お金がなくなった時に、
どこへ行くか。

その瞬間を観察すれば、
その人の人格が分かったりする…
本当に、何を頼っているか。

当然のごとく、
怪しげなところに行く人は、
お金の奴隷になってしまっているんだろう。

私は、どこへ行くかなぁ…

うちの父親は、
お金がなくなると、
部屋にこもるタイプだった。

体の機能が停止しているという感じ…
部屋の壁によりかかって座っているか、
布団の上でタバコをふかしている姿、
今でも思い浮かぶ。

ギャンブル依存症、心の病、
そのシンボルとも言える姿だったと思う。

おそらく、考えていることは、
「今度は、どこにお金を借りにいこうか」
っていうようなことだったろうと思う。

だから、動き始める時には、
そのあてが見つかった瞬間であった。

そして、そのお金を手にしたら、
また、パチンコへ行く。
しかし、それが終わった頃、財布の中身は、
数時間前に戻っている。

ただし、借金の額だけは増えている。

ギャンブルでお金がなくなるのと、
事業で失敗してお金がなくなるのは、
基本的には違うはずだけれど、
なくなった瞬間にすることは、
同じであったりする。

次の事業を、ビジネスを考えよう、
なんて思う人は、少ないだろう。

失敗しているというのに、
いつまでも、過去にこだわり、
ギリギリまで、お金をなくしちゃう人は、
特に、そうだろう。

人生のなかで、
お金がなくなる瞬間なんて
訪れなければいいんでしょうけど、
長い人生では、誰にもありえるかもね…

2005年9月26日

人生の打率

イチロー選手が、5年連続の200本安打まで、
あと4本と迫ったそうです。
すごいですね…

この安定した数字をキープするのって。
打率も、3割ちょうど、とのこと。

単純に考えれば、10回立てば、
3回はヒットが打てる。

ただ面白いのは、10回すべてが、
重要なチャンスと限らないということですよね。
イチローは、重要なチャンスだろうが、
そうでなかろうが、自分のペースで、
着々とヒットを打てる。

精神力もかなり強い人なんですね。

一方、打率はそれほど高くないけれど、
重要なチャンスの時だけは、
ちゃんとヒットを出すタイプもいる。

以前、新庄選手が大リーグでプレイしていた際、
こんな言葉を言っていました。

「記録はイチローに、
 記憶は新庄に。」

うまいことを言うなぁ、
と思っていましたが、

あれから数年経った今、
記録も、記憶も、イチロー選手の方が
強くなっているような気がします。
(一般的な話かもしれませんが…)

ただ、どちらのタイプがいい
という問題でもないと思うのです。

自分が、どちらのタイプに向いているか。
コツコツと、日々の生活の打率を上げていくか、
それとも、大きなチャンスの時だけ打率を上げるか。

人生に訪れてくる色んなチャンスにおいて、
自分はどれだけの打率をあげているんでしょう…

10割を目指すばかりに、
かえって失敗している人も
いるような気がします。

イチローでさえ3割なんですから、
よくばっちゃいけないですね。

そんなことを考えました。
イチロー、あと4本、がんばれ〜〜!!

2005年9月16日

何もないという強さ

守るべきものがある人は強いけれど、
守るべきものがない人も強い。

強さのタイプは違うけれど、
どちらの強さもなかなか手強い。

私の父親は、以前にも書いたが、
「何もない」という例の一つ。

本当に、何もない。
財産も、地位も、しがらみもない上、
守りたい家族の存在もそれほど感じないから、
妙な強さが感じられる。

父親のそういう姿を
感じられるようになったのは、
30歳を過ぎたあたりであった。

それまでは、
多く持っている者、
多く勝ち得た者だけが強い、
とばかり思っていたところがあったから、

「何もない」強さには、
心底驚かされた感じだった。

一方、何もない状態っていうのは、
攻められた時にはそういう強さが現れるけれど、
攻められていない時には、
やっぱり弱かったりする。

寄るべきところをしっかりと持っていない限り、
心はふらふらと、いろんな誘惑に引き込まれるわけだ。

あるからこそ、
強いけれど、弱いところ。

ないからこそ、
弱いけれど、強いところ。

そして、それは、
意外と、人それぞれというわけでなく、
同じ一人の人間、たとえば、自分自身を見ていても、

いろんな時期に、そういう弱さ、強さが現れると思う。

ずっと強いわけじゃない、
ずっと弱いわけでもない。

だから思いました。

何かを持っている時には、
それを盾にして強くなろう。
何も持っていない時には、
それをバネにして強くなろうって。

今はあってもなくなる日がこないとも言えないし、
今はなくても手に入る日がこないとも言えないから。

さて、今の私はどうだろうなぁ…
どっちの強さが使えるかなあ。

2005年9月12日

ギャンブルを終えて…

今日は、全国ニュース、ワイドショーとも、
選挙の話題でしょうねぇ。

自民党の圧勝、民主党の惨敗。

報道されているコメントは、
明暗がハッキリしています。

とらえ方によって、
「実は勝った」とか「実は支持されている」とか
言えるような結果ではないわけです。

その明暗が分かれている様子を見ていると、
選挙って、本当にギャンブルだなぁと、
改めて思いました。

惨敗した方々は、潔く、
負けを認めるものです。

しかし、中途半端に負けた方々は、
何かとまだくすぶってしまうような気がします。

ギャンブルもそうなんですよね。
立ち直れないほど負けると、
自分のやり方を考えてしまう。

しかし、中途半端な負け方だと、
あそこまではよかったんだから、
本当は負けていない、
というような考え方をすることも出来る、

プラス思考と言えば、
プラス思考ではあるが、
事実としては、

「空気が読めない」とか、
「本質が読めない」であったりする。

選挙後のコメントを見ると、
そんな雰囲気の人々もいる。

時には、選挙民を
バカにしているようなコメントも…

勝った者が強くて、
じゃあ何をやってもいいのか、
というわけではないけれど、

負けている者が
何も反省しなければ、
いつか本当に大敗してしまうと
思うんだけどなぁ。

今回、ギャンブルに負けた人々には、
そんな空気を感じました。

さて、どうなるか? この日本は…

2005年8月25日

やさしく見える男とやさしい女

やさしく見える男、
というのは、ある意味、
才能である。

それで、何人もの人を、
だまそうと思えば、だませる。

心をつかんで、思い通りに、
動かそうと思えば、動かせる。

やさしい女は、
うまく利用されるのだ。

やはり、金にまつわる話である。
3人の「やさしい女」を知っている。

一人は、けっこうな大金を、
やさしく見える男から返されていない。
やさしいがゆえに、事態が大きくなるまで、
強く催促する必要性を感じていなかった。

そのうえ、その都度、
やさしく見える男は、うまい言い訳をして、
彼女をかわすのである。
根が優しい彼女は、それをそのまま受け入れてあげて、
また、待つことになる。

待てども待てども、返されることはない。
返されたとしても、ささいな額だけである。
そして、その男は、相変わらず、
周囲には「うまくいっている」雰囲気を
かもし出しているのだ。


二人目。彼女は、節約上手である。
まるで、働いたお金の使い道を
知らないかのよう。
日常品など小さな買い物では、
だまされることはないが、
大きな買い物をする時には、
「安くしておいたから」と言われる言葉を信じて、
ふつうの人々の1.5倍、もしくは2倍で買わされている。

そして、そうだとしても、
お金は十分残っているので、
困らないのである。
一方、彼女の兄は、その反対をいく。

幼い頃から、
同じようにもらっている小遣いを、
兄は、すぐに使い果たし、
貯めている妹のことを知っていて、
うまい具合に、妹から借りる(?)。
返ってなど来ないのである。

その兄が、妹の結婚前に、
一世一代の芝居をした。

「母が隠れて借金をしていたことが分かった。
 俺とお前で協力して、返すことにしよう。
 100万円出してくれ。俺も同じように出す。
 そして、お前にはかわいそうだから、
 俺のクルマを譲ってやる。」

妹は素直に、お金を渡した。
そして、譲り受けたのは、その後1年も経たないうちに、
壊れてしまった、ボロボロの軽自動車であった。

ただ、母親の借金だけは本当だった。
しかし、彼女の100万が、どこにいったかと言えば、
それは分からない。なぜなら、「母の借金」は、
別の方法で返されていくことになっていたから。
(この女性は、兄を問い詰めはしなかった。やさしいから…
 ただ、問い詰めたとしても、あのクルマの代金として、
 もらっただけだよ。なんて言われたことだろう。)

とは言え、この経験は、この女性にとって、
ムダではなかった。自分は兄からでさえ、
利用される可能性のある「やさしい女」だったんだ、
という気づきにつながったから。


最後の3人目。この女性は、表情を見ると、
けっこうキツイ。厳しそうに見える。

しかし、簡単に言えば、
ダンナを食わせ続けて、
10年以上頑張っている。

ダンナは、商売が下手である。
いわゆる職人肌の人間なので…

彼女は、商売なんぞに身を染めるつもりはなかったが、
結婚後まもなく始めたボランティア活動が、
ちょっとしたきっかけで、商売に変わった。

その商売が、ある程度うまくいっていた時に、
ダンナの方は、会社をやめて、
これまた、自分の商売を始めたのである。

しかし、職人が商売上手とは限らない。
結果は、散々である。
ダンナの会社の赤字を、
妻の会社の黒字で
補っているようなもの。

それでおさまっているうちは良かったが、
とうとう妻の会社の黒字ではカバーできないほどの赤字を
積み重ねてしまった。

妻は、ダンナの商売にストップをかけた。
そして、ダンナは、妻の会社で雑用係をすることになる。

妻は、一生懸命、ダンナの借金を返している。
顔はキツイけれど、やさしい女なのだ。

そして、その「やさしい女」は、それでも飽きたらず、
支払が滞っている客にさえも、同情している。
請求するのを忘れるほど…

ああ、やさしい女は、罪である。
やさしく見える男を、ますます
ダメにしているかもしれない。

けれど、おそらく、その関係においては、
「やさしく見える男」が更正することはないだろう。
別のところで叩かれて、変わっていくしかないのだ。

2005年7月25日

もう、だまされない

先週末に、
クルマの買い替えを考えてから、
シャカシャカと動いて、
ディーラーに顔を出しては、
見積書をもらっているところです。

車種は、メーカー違いで
2つのクルマを候補にあげていました。
トヨタと、ホンダ。

で、まず、その車種対決は、
私のなかで、ホンダが勝ちました。

そこで、次のステップ。
ちょうど、近くに、
ディーラーが2つあるのです。

自宅から2kmくらい離れたところと、
仕事でよく行くエリアのところ。
(こちらは、自宅から12kmくらいでしょうか…)

最初に、仕事エリアの方の店に行きました。
私の応対をしてくれた男性が、
ジャニーズ系の顔なので、
ジャニーズ君と呼んでおきましょう。

「これが、担当者の私が出せるベストの額です。」
と言われたのは、雑誌に掲載されているのには、
ちょっと遠い額でした。

「これが、本当に、御社のベストですか?」

「いやぁ、今日、店長がいないので、
 何とも出来ないんです。土曜日か、日曜日に
 来てもらえれば、もっと頑張れると思うんですが…
 来られますか?」

とのこと。

ついでがあったので、
言われたとおりに再訪問してみました。

ところが、そのジャニーズ君は、

「これより、さらに1万円程度しか、
 出来ませんと言われまして…」

と、あまり変わらない額を提示された私。
正直、ガッカリ…

え〜、そんなもんなのぉ〜。

と思いながら、
頑張った素振りを見せるジャニーズ君には、
それ以上強く言えませんでした。

買うと確定したわけでもないのに、
そんなに突っ込んでも、しょうがありません。
その場は、そのまま帰ることにしました。

とは言っても、再見積をもらうまで、
けっこう待たされていましたから、
それ以上粘るのは、私にとっても
ロスと考えたわけです。

次に、自宅の近くのディーラーに行きました。
私の応対をしてくれたのは、
すごく真面目そうな、
名刺に「店長」とある男性。

でも、なんとなく、
ヨシモトのタレントの誰かに似ているような、
お笑い系の顔にも思えました。
とりあえず、ヨシモト君と呼びましょう。

そのヨシモト君が、
見積書と計算機をもってきて、
シャカシャカと仕事を始めます。

そう言えば、ジャニーズ君は、
コンピュータで自動計算した見積書だったなぁ。

ここは、古いのかなぁ…

と思いきや、何も言わずに、
つまり「頑張った」とも言わずに、
私に提示した額は、

ジャニーズ君の提示した額より、
たったの200円高い額。

おいおい、ジャニーズ君。
君にとって、私は「招かれざる客」だったのかよぉ〜。

さらに、ガッカリすることになりました。

で、どうするか?

たった200円違いのまま、
ジャニーズ君採用と決めるわけには
いきません。

もっと違いを見せてもらわないと、
判断できかねる状態になったわけです。

たしかに、ジャニーズ君には
ガッカリしていますが、
淡々と仕事をこなすヨシモト君も、
なかなか一筋縄でいかないところもありそう。

念のため、聞いてみました。

「他のディーラーが、
 これ以下の額を出してきたとしても、
 御社は、これがベストなんですよね。」

「それは、その額に、
 合わさせていただきます。」

へ? どういうこと?

「じゃあ、○○○万円だとしても?」

「合わせるように、努力します。」

ヨシモト君、若いながらも、
店長をまかせられているせいか、
言い切ります。

じゃあ、ということで帰ってきましたが、
さてさて、これには、なおさら困りました。

今現時点では、ジャニーズ君が200円リード。
しかし、ヨシモト君は、ふところが広そう。
まだまだ、余裕がありそう…

だけれど、その余裕を引き出すためには、
どんな作戦が存在するのか。

それとも、ジャニーズ君を、
さらに必死にさせて、決着するのか。

今日は仕事をしながらも、
そんなことをずっと考えていそうです。
ゲーム感覚で、面白いと言えば面白いですが、
なりふりかまわず、無意味に
振り回すことだけは避けなければと
私の理性が語りかけます。

どうしようかなぁ…

2005年7月22日

買い替えようかなぁ…

昨日は、夢の中で、とあるものを
買い替えていた夢を見た。

とあるものというのは、
何のことはないクルマである。

来る8月5日に、
車検の時期が迫っているせいか、
心にもたげていたものが出てきたんだろう。

ふつう通りに、
車検の更新をするつもりでいたが、
夢を見たことが引き金となり、
新車の買い替えを真剣に考えだした私。

考えてみれば、今のクルマは、
10年くらい乗っている。

道路に出れば、モデルチェンジした新車が、
たくさん走っているなかで、
10年前のクルマを走らせている私は、
骨董品もののような気がする時もある。

しかし、実際、走れる車だったから、
何とも思わなかった。もともと、
子どもの頃から、車とかには無頓着で、
走ればいい、乗れればいい、移動できればいい、
くらいでしか見ていなかったしね。

それが、ここ1年は、なんとなく、
やっぱり、車の調子がいまいち良くない気がする。
いろんな点で…

だましながら、使っていたけれど、
いざ、車検の更新が近づき、
この車に、20万円以上も投資することに
なりそうな予測を立ててみると、

ちょっと考え込んでしまう。

ちょっと待てよ、
それだけ投資する価値のあるクルマか?

どうせだったら、新しいクルマに
投資した方がいいんじゃないか?

そんな心境になり始めたのが、
昨日の朝起きてからの話である。

思い立ったが吉日。
昨日は、ちょっとの暇を見つけて、
「新車王」なんていう雑誌を買いつけ、
手にとって、いろいろと勉強した。

奥さまにも意見を聞きながら、
見積とかをとってみる話にはなってきた。

車検の日が近いゆえに、決断は、
ここ1週間でやらなければいけない。

だいたい、納車は、
車検が切れた後だろうから、
代車も必要になるだろう。

そんなサービスを含めて、
我が家のクルマは、
生まれ変わる可能性が出てきた。

さて、どうなるかな?

今のところは、子どもたちには内緒にして、
現物を見て、買い替えが分かるというシナリオを
考えている。子どもたちの表情も楽しみだ。

2005年7月14日

「好み」という決断

やっぱり、だいたいが、
人は「好み」で判断する。

付き合いたい人でも、食べたいものでも、
行きたいところでも、身につけたいものでも…

自分に関わることなんだから、
「好み」で判断するのは当然のこと。

ただ、その好みの傾向は、
いろいろあると思う。

見た目のよいもの、安いもの、
本当に楽できるもの、便利なもの、
安心できるもの、名声が得られるもの、
流行っている、ブームになっているもの、などなど。

一方、その「好み」を
コントロールする側に立とうとする人間、
あるいは、限りなく立っていられる人間もいる。

そういう人々は、
相手の好みなどを研究しなければいけないわけで、
単純に、自分の「好み」だけでは
判断しちゃいけない。

そして、もう一つ分かるのは、
「好み」で判断される世界に生きることは、
その先々まで保証されているわけではないということ。

今いっときの「好み」が、
その先で自分に何をもたらすか、
なんて、誰も考えちゃいない。

一方、「好み」をコントロールする側も、
相手を幸せにしようなんて考えていない。
考えているのは、今この瞬間に、
どうやって、その「好み」に飛びつかせるか、
それだけである。

そう考えると、「好み」というものは、
単純なようで、ややこしいものにも思える。
と同時に、怪しいものにも…

私たちは、たとえば、人間関係でも何でも、
何かを捨てるときには、
「好み」で捨てているように思う。
もう要らないと…。

だから、理性では捨てていないゆえに、
後で、後悔することがある。そして、
逆に、「好み」で捨てきれないゆえに、
後で、理性で後悔することもある。

だったら、
「好み」で捨てたり、
「好み」で選んだりしなきゃいいだろう、
と簡単に思うのだが、

そういう私自身でさえ、
その難しさがよく分かる。
「好み」が前面に出てくる時には、
理性は引っ込んでしまうから。

そして、理性が引っ込むには、
また訳があって、自分自身に対して、
もしくは物事に対して勉強不足だからなんですよ。多分…

ああ、面倒くさいですねぇ。
自分の「好み」では自由に生きていきたいのですが、
他人の「好み」には左右されたり縛られたくないですね。

そのためには、やっぱり勉強しないと…

2005年6月 9日

オークションは言葉の力

最近は、オークションで成功するための秘訣とか、
それで稼いで生活を成り立てていく方法などが、
けっこう、本やメールマガジンで出ているようです。

読んだことはありませんが、
「伝え方・見せ方」が重要なことは、
自ずと分かってきます。

「言葉に仕事をさせる」という仕事に
携わっているせいなのか、よく分かりませんが、
いい言葉ねっとサイト、メールマガジンの読者の方から、
オークション出品をお願いされました。

商品の内容を聞くと、
かなりの高額(ビジネス関連)で手に入れたもの。
ご本人は、捨てるか、欲しい人にあげるつもりでしたが、
もしかしたら…ということで、私へ相談。

どうなるか、分かりませんでしたが、
売れた場合の報酬分配も決めて、
いざ出品となりました。

だいたい、送料の2倍を目安として、
5,000円でスタート、期間は3日間。

出品して間もなく、16,000円まで上昇。
翌日には、101,000円。
さらに次の日は、200,000円。
最終日には、午前中のうちに、211,000円になり、
終了の18:00まで、このままいくかな、
という雰囲気を感じていました。

ところが…
以降は、ヤフーの入札履歴をそのままご覧ください。
入札者の名前は、▲や※などの記号に変えています。

[17時 46分] ※※※ 入札。 211,000
[17時 46分] ※※※ 自動入札。 212,000
[17時 48分] ○○○ 入札。 212,000
[17時 48分] ○○○ 自動入札。 213,000
[17時 51分] ××× 入札。 213,000
[17時 51分] ××× 自動入札。 214,000
[17時 52分] ▲▲▲ 入札。 214,000
[17時 52分] ××× 自動入札。 215,000
[17時 52分] ▲▲▲ 自動入札。 215,000
[17時 52分] ××× 自動入札。 216,000
[17時 52分] ▲▲▲ 入札。 216,000
[17時 52分] ××× 自動入札。 217,000
[17時 52分] ▲▲▲ 自動入札。 217,000
[17時 52分] ××× 自動入札。 218,000
[17時 52分] ▲▲▲ 入札。 218,000
[17時 52分] ××× 自動入札。 219,000
[17時 52分] ▲▲▲ 自動入札。 219,000
[17時 52分] ××× 自動入札。 220,000
[17時 53分] ▲▲▲ 入札。 220,000
[17時 53分] ▲▲▲ 自動入札。 221,000
[17時 53分] ○○○ 入札。 221,000
[17時 53分] ○○○ 自動入札。 222,000
[17時 54分] ■■■ 入札。 222,000
[17時 54分] ■■■ 自動入札。 223,000
[17時 55分] ××× 入札。 223,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 224,000
[17時 55分] ■■■ 自動入札。 224,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 225,000
[17時 55分] ▲▲▲ 入札。 225,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 226,000
[17時 55分] ▲▲▲ 自動入札。 226,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 227,000
[17時 55分] ▲▲▲ 入札。 227,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 228,000
[17時 55分] ▲▲▲ 自動入札。 228,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 229,000
[17時 55分] ▲▲▲ 入札。 229,000
[17時 55分] ××× 自動入札。 230,000
[17時 55分] ▲▲▲ 自動入札。 230,000
[17時 55分] ▲▲▲ 入札。 230,000
[17時 55分] ▲▲▲ 自動入札。 231,000
[17時 56分] ▲▲▲ 入札。 231,000
[17時 57分] ××× 入札。 231,000
[17時 57分] ▲▲▲ 自動入札。 250,000
[17時 57分] ××× 自動入札。 250,000
[17時 57分] ▲▲▲ 入札。 250,000
[17時 58分] ××× 入札。 250,000
[17時 58分] ××× 自動入札。 255,000
[17時 58分] ▲▲▲ 自動入札。 255,000
[17時 58分] ××× 自動入札。 256,000
[17時 58分] ▲▲▲ 入札。 256,000
[17時 58分] ▲▲▲ 自動入札。 260,000
[17時 58分] ××× 自動入札。 260,000
[17時 58分] ▲▲▲ 自動入札。 261,000
[17時 59分] ○○○ 入札。 261,000
[17時 59分] ▲▲▲ 自動入札。 270,000
[17時 59分] ○○○ 自動入札。 270,000
[17時 59分] ▲▲▲ 自動入札。 271,000
[17時 59分] ○○○入札。 271,000
[17時 59分] ○○○自動入札。 272,000

終了間際の15分で、6万円の上昇。
最終的に110件の入札、すごいもんですね。

久々に、株取引を思い出しました。
人の心の動きが見える感じです。

言葉の力で、こんなオークションが
経験できるのは、悪い気がしませんね。

ちょっと怖い面もありましたが、
無事に「非常に良い」という評価もいただき、
ホッと一息ついているところです。

2005年5月15日

私は有名です

街を歩いていたり、
車でドライブしていると、
時折、ヘンな広告とか、看板を見つける。

おととい、ちょうど、
そんなものを発見。

その時には、アメリカ人の知人も一緒にいて、
見つけた「それ」について、
よくよく話すことになった。

見つけたのは、
クリーニング屋さんが入口に貼ってあった

「当店は、しみぬきが有名です。」

これが、どんな効果をもたらすか、
私たちは考え出した。

有名です、という言葉に免疫のない人は、
すぐさま信用して、しみぬきに限らず、
どんなもののクリーニングでも
頼もうとするかもしれない。

簡単に言えば、

「私は、有名です。」と言ったようなもの。

言いますか? 言えますか?

ちょっと照れますねぇ。

英語では、

I am famous.

となるわけですが、文法としては間違っていないけれど、
ふつうに考えれば、恥ずかしいとか、
「この人、ちょっとおかしいんじゃない?」
と思われるのが普通のことのよう。

私も、そう思いました。

じゃあ、どうしたらいいか。

「当店は、しみぬき専門店です。」

が正解のような気がしますけど、
それだけに限定すると、
仕事が入らなくなりそうですね。

「当店には、しみぬきのプロがいます。」
あるいは、
「当店には、しみぬきの機械があります。」

なんか、いいような、悪いような。

「当店に、しみぬきをおまかせください。
 もし、満足いただけない場合は、
 料金は全額お返しします。」

お! ここまで覚悟しているお店だったら、
任せてもいいような、お願いしてもいいような。

これで、満足のいく仕事をしてくれたら、
他のことも信用できそうな気がします。

「ここらへんじゃ、私は有名なのよ。
 名前が知れてるんだから…」

なんか、世界が狭いです。

「有名」:文字通りで言えば、名前が有ります、という意味。

誰にだって、何にだって、
ほとんど名前がある中で、
それを自画自賛するっていうのは、
ちょっと悲しいものです。

他人が評価するなら、まだしも、
自分で自分を「有名」だと言っているのは、
なんとなく、
「自分は狭い世界で生きているバカだ。」
と言っているようにしか、聞こえないのですが…

私だけかな?

2005年5月 9日

小回りが利く人生

まずは、言葉の確認から。

ちょっと自信がなかったので、

「小回りが利く」

「小回りが効く」

どちらの漢字が正しいかなぁ、
と調べてみたら、どうやら「利く」らしい。

なんとなく、そっちっぽい気がしていたけれど、
確かめてみなければ、確証は得られない。

Yahoo!やGoogleで検索してみると、
該当する言葉の件数は、
(いわゆる、ホームページ上で使われている数)
以下のようになった。

小回りが利く:Yahoo!が13,545件、Googleが8,610件。

小回りが効く:Yahoo!が 8,231件、Googleが4,600件。

ダントツで、「利く」が多いわけでなく、
どちらかというと、「利く」が多いというような状況。

これから考えると、
「効く」がまったく誤りでもないかな、
という気もしてきた。

と、言葉の確認は、ここまでとして。

いろんな組織にかかわって、
人生を生きていると、
「小回り」が利かない様子を
目の当たりにすることがある。

組織として動くのは、
すごいパワーを出せる場面がある反面、
いざと言う時には、小回りが利かない場面も出てくる。

そういうのを見ると、う〜ん、
組織とのかかわりあいは最小限にしないと、
自分自身の人生さえ小回りが利かなくなるなぁ、
というのを感じます。

やりたい時に、ぱっと動ける、
この時しかないという時に、すっと入れる、
これは危ないと思う時に、ざざっと去る。

そういう小回りは、
よほど訓練された人間の集団か、
一人、または少人数でないと、
出来ないこと。

何かを決める時にも、
結局もめるから、何も決めないで、
意味のない形骸化した集団のままになる。

その組織の中にいるみんなは分かっている。
何も変わらない、こんな組織に、
何の意味があるというのか…

しかし、何かを変えようと思い立ち、
動きを見せる人間が、その中から出ると、
今度は、別の警戒心が起きてくる。

利用されるんじゃないか、
めちゃくちゃにされるんじゃないか、
思いがけない負担が自分に来るのではないか。
そんな心配に、心が占領されると、
意味ないと思っている組織でも、
「そのままでいい」となる。

どんどん「小回りの利かない」組織が
出来上がる、というわけだ。

ああ、面倒くさい。

組織のパワーも利用しながら、
小回りの利く生き方というものは、
出来ないものかしら…

2005年4月20日

「傷つき」やすい人は「傷つけ」やすい

この結論、どう思いますか?


「傷つき」やすい人は「傷つけ」やすい。


「私は傷つきやすいんです」という人に限って、
けっこう、その人の周りにいる人々を、
傷つけていたりする現象。

そういうのを、かなりの確率で
見ているような気がします。
私の見ている世界だけの話だったら…
参考だけにしておいてください。

おそらく、
「自分は傷つきやすいから、こんなに傷ついているのよ。」
と思っちゃっている人には、
かなりキツイ言葉だと思うので…

ただ、これは、私自身をふり返ってみても、
言えることなので、言っているだけのことです。

もちろん、私自身を
「傷つきやすい」と思ってはいませんが、
時折、「傷ついた」という感情をもつ時に、
だいたい、自分の心は、自分だけの感情に
向いてしまいます。

そうなると、
ずっと閉じこもっていたとしても、
閉じこもらないとしても、

なんて言うか、
「傷ついている自分」を盾にして、
いろんなことを言ったりする自分がいる。

「傷ついている」んだから、
こんなことを言ってもゆるされるでしょ、
こんなことを言える権利があるのよ、

…みたいな勘違いをする自分になってしまう。

そうすると、だいたいは、
かえって理解されなくなったり、
周囲から遠ざけられたりするから、
(唯一、近寄るのは、それを利用する目的のある人だけだったり…)
ますます、その「傷ついている自分」の盾を
大きくしなくちゃいけない。
行動もエスカレートする可能性が…

先日逮捕された「吠える女」ではありませんが、
止めるタイミングを逃してしまうのです。

私が「傷ついた」と思っている瞬間は短いので、
(というか、あまりため込まないで、発散するので…)
傷は癒されますが、

もし、それが、ずっと
「傷ついた」と思っている人間であったら、
その「傷ついている自分」という盾は、
どれほど大きくなってしまうことか。

想像するだけで、怖いです。
何年も、何十年も、それをしている人、
世の中を見れば、けっこういますよ。

ほとんどの場合、さらなる暗闇に落ち込んでいる。

だから、「傷つき」やすい人は
「傷つけ」やすい可能性を認めても、
損はないと思います。かえって、
生き方上手になれるかも…

2005年4月 6日

なくしても探さないもの

新しいパソコンにも、
だいぶ慣れてきたので、
これまでのパソコンを
オークションに出品することにしました。

私は、最近、
何でも送料無料で出品します。

どうしてって?

送料は、こちらの問題だと思うんです。
よほど大きなもので
送料が高くなりすぎない限り…

買う側は、ぜんぶでいくらかが分かっていて、
買わないと、近くで買ったりした場合と、
比べにくいわけですから。

オークションの話は、
これまでとして、本題へ。

出品するために、
保管しておいた箱、マニュアル類、CD-ROMなどを
確認しました。

そこで、気づいたんです。

一番最初に読む
「はじめにお読みください。」がない、ということに。
それに、付属品の確認リストが掲載されているというのに…

探しました、探しました。
「なくてもいいだろう…」と思いもしましたが、
やはり、一番重要なものだと考えると、
あきらめることも出来ず、
本棚の裏を探したり、誰かにあげたかな、とか、
いろいろ考えもしました。

そんな時、こんなお話を思い出しました。

「ある女が銀貨十枚を持っていて、
 もしその一枚をなくしたとすれば、
 彼女はあかりをつけて家中を掃き、
 それを見つけるまでは注意深く
 捜さないであろうか。」
 (ルカ15:8-9)

なるほど、たいしたものでなくても、
一生懸命さがすよなぁ、と。

でも、人との関係をうしなった時、
そこまで懸命に探すかどうかは、
どれだけの思いを持っているかによるわけで、

もしかしたら、ものを探す以上に、
一生懸命にならない場合もあるような気がする。
意外と、冷たい人間である自分に気づいたり…

そんなことを考えながら、
探していましたが、やっぱり見つからず。

とうとうあきらめて、
ホームページ上にあるかな?
と思い、見つけました。

よかった、よかった。
確認リストがあった。

そこで、それを印刷して、
並べたものを調べていると、
なんとあったのです。

すでに、並べているものの影にあったのです。

なぜ、見つからなかったのか?
と言いますと、私のアタマの中で、

そのマニュアルは、1cmくらいの厚さだと思っていたのです。
しかし、実際は、2mmくらいの薄いものだった。

書類の集まりの中に埋もれていたのに、
そこを探さずに、本棚とか、
厚手の本が並んでいるところばかり
探していたわけです。

見つかって、良かったけれど、
改めて、思い込みっていうのは、
すごい力があるもんだ、と気づかされました。

とは言っても、
「なくした銀貨」の話なんか思い出すことも出来て、
いろいろ勉強になりました、自分の。

2005年3月23日

人の手を汚す

何でも、自分だけで始めて、
自分で完結できればいいけれど、
力不足を否めない私たちは、
どこかで、人の手を借りる。

時には、それによって、
人の手を汚すことも…

思い返してみると、
手を汚すことになることを分かっていて、
助けを求めたこともあれば、

結果として、
手を汚させていたということも
あるように思います。

「汚した」と言っても、
悪をさせたという意味でなく、

本来は自分がやらなければいけないことを、
他の人に後始末をさせた感じです。
(汚物処理みたいな感じ…)

あなたのために、
手を汚してくれる人はいますか?

もし、いてくれたら、
それは幸いだと思います。

また、その汚し方を見て、
時には「これは、いけないよ。」と
ハッキリ教えてくれる人であれば、
なお幸いでしょう。

だまって言うことを聞いて、
手を汚してくれる人に対して、
私たちは「あの人は優しいなぁ」と思うでしょうが、
その優しさが仇となるケースもあるのは事実です。

本当に、その人のためにならないことが…

以前、仕事をしていて、
外部の方からある企画を提案されたことがあります。
私としては、その提案は身勝手なものと感じ、
それを素直に伝えました。

つまり、自分たちの責任をこちらの責任にすりかえて、
こちらを動かそうという感じに見えたのです。

そうしたところ、
その方は、自分の上司を呼んできて、
なかば、力で納得させようとしました。

おそらく、その人も、その上司も、
他人のせいにする文化のある組織に
生きていたのでしょう。

風の噂で聞いたのですが、
もう、その人は、そこを辞めたようです。

人のせいにして生きていくことを選び、また、
そのために、人の手を汚して生きていく人間は、
どこかで、中身のない自分に出会います。

その時に出す結論は…

人の手を汚すことになる時には、
甘えすぎていないか、考えてみましょう。

2005年2月11日

クレジットカード

今は、いろんなクレジットカードが
ありますね。

よく分からないけど、
いろんなところが提携して、
クレジット機能ばかりでなく、
おまけのサービスもいろいろある。

便利すぎて、
よく使ってしまうと言う知人。

「最近、使いすぎているから、
 使わないように、
 気をつけないとなぁ」
とも言っていた。

そんなに使いすぎている雰囲気は
なかったが、実際のところ、
その方の財布事情は分からないため、
「そうだよなぁ」と思いながら、
聞いていた。

ただ、インターネットをよく利用する人間にとって、
クレジットカードは本当に便利だから、
まったく使わないわけにはいかないだろう。

そう思いながら、
いろいろ調べていると、
今使っているクレジットカードより、
良さそうに思えるものを見つけた。

私のクレジットカードって、
毎年、年会費なんて取られているもんね。
今は、そんなのがないのが、
普通のようだし…

乗り換えを考え、早速申し込み。

っていう、こんな手軽さが、
また支出を大きくするんだろうね。

昨日のニュースじゃないけど、
脅せば、お金を出してくれる、
そんな手軽な関係が築かれれば、
際限なく、そういう行動に走る中学生。

コントロールが利かないと、
あらゆるところで、不具合が出そう。

子どもには、ちゃんと教えないといけないなぁ。
そんな気がした。

2005年2月 8日

お金を使わない方法

実は、私、先日、詐欺やりました。

詐欺にあったのではなく、
詐欺をやったのです。

そのことを、相手の方にも話して、
了承を得ての「詐欺」です。

急に、あるところの
ラーメンを食べたくなってねぇ。
うちの奥様は当然連れて行きますが、
珍しく、義父母も誘ったら、
めったにない誘いを断りまして。

せっかく、おごってあげるというのに…

奥様と三女を連れてだけ、
行くことにしました。

車に乗って、目的地に向かう途中、
奥様が、一つのことを思いつきました。
「本家のおじいちゃん、おばあちゃんを
 連れて行こうか。」と…

彼女は、まったくの善意ですが、
私のアタマの中では、
計算が始まります。

おそらく、おごってくれるだろう。

自分たちの息子、娘は、
家を出てしまって、
二人暮らしをしている夫婦。

70歳は過ぎていますが、
二人で暮らしていかなければいけない状況が、
シャキシャキとした心身を養ってくれているようで、
まだまだ、元気です。

時々、「あそこが痛い、ここが痛い、めまいが…」
などとは言いますが…

目的地への途中にあるお宅。
家の前を通りかけたら、
ちょうど外を歩いていました。

「ラーメン、食べに行かないか?」

二つ返事で、交渉成立。

車の中で、いろいろしゃべる、しゃべる。
二人だけの会話と生活に飽きている夫婦の舌は、
止まりません。
最近の世の中の事件、ニュース、

「あるもんじゃあない。」「○○してしまえ。」
汚い言葉も乱発です…

オレオレ詐欺の話にもなれば、
ちょうど自分たちの世代の人々が
被害に遭っているわけですから、
「なんで、ダマされるんだろうね?」
とも言います。

私は、すかさず、
「まあ、ラーメンを食べに行かないかと誘って、
 車に、爺と婆二人を連れて、
 勘定を払わせるのも詐欺みたいなもんだけどね。」
と真剣に語ると、うちの奥様も、
爺と婆も笑っています。

そして、爺いわく、
「そんな詐欺なら、大歓迎だ。
 いつでも連れて行ってくれ。」と。
 (これが、詐欺がつけいるスキマなんだな…)

同居の爺と婆(義父母)は、
そのありがたみが分からず、
千年に1度あるかないかの誘いを断り、
二人暮らしの爺と婆は、
同じ誘いを、このうえなく喜んでいる。

結果、2,000円ほどの詐欺となったわけですが、
相手が喜んでくれるなら、その罪悪感も少なく…

次は、どこへ連れて行って、
おごってもらおうかなんて、
善意とも、悪意ともつかない計画を
立てている私でした。

2005年1月 8日

オレオレ…

オレオレ詐欺が流行って、
手口が多様化したため、
名称が変わった。
「振り込め詐欺」と。

この名称では、なんとなく、
緊迫感がなくなった気もするが、
本当に色々な手口があるよう…

という私の母親宅にも、
年末、それに類する電話がかかってきた。
全くもって言われない請求内容を盾に、
誰彼かまわず、電話しているようだ。

師走のどさくさにまぎれこもうとしていたのか、
それとも年末年始に心細さを感じていたのか、
母の話によると、かなり、
焦っているような話し声だったらしい。
「もうすぐ、息子が来るから、
その時に電話をかけさせる」と言ったところ、
その電話の主は「三時頃、またかけます。」と残して、
切ったようだ。もちろん、その後、電話はなかった。

おそらく、そういう人々は、
家族構成などの情報とともに、
電話番号リストをもっているだろうから、
たとえば、「オレオレ詐欺」の対象として、
若い世帯である我が家にはかけてくることはない。

そのかわり、「株へ投資しないか」
「融資は必要ありませんか」
というような電話が度々ある。
電話番号リストが違うんだろう。

私の返答は、決まっている。
「今、別の方法でうまくいっているので」
「間に合っています。」こんな感じだ。

そう言えば、うちの妻には、
ダイエット関連の電話が、
「今、体重のことで気になって
いることはありませんか?」という感じに来る。
ふつうに聞けば、自慢っぽくなるが、
ウソでも「一六四センチ、四五キロです。」
とか言えば、その電話の主は、
引き下がるしかなくなる。

寂しさや情報不足、お金、美容、
健康、出会い、何でもエサになりうる。
あらゆる面に対して、
弱点もコンプレックスもない人間なんて、
まずいないから。

「下手な鉄炮も数打ちゃ当たる」という原理で、
私の母に電話をかけた人間が、
どこかでうまくいっていることもあるだろう。
うまくいくと、味をしめて、それを繰り返すようになる。

一方、多様化する手口に、
人々は注意をしていても、
自分の弱点をうまくつかれて、
だまされたりもする。
悲しいことではあるが、
いろいろなことを不審な目でみなければ
いけない時代になったと思う。

2004年12月22日

こんなことも分からないのか!

12月に入ってから、
子供たちが夜眠る前、
午後8:00くらいに
勉強を始めるようになりました。

したがって、
私も勉強を見てあげられるわけで、
仕事の時には、
お客さんにいくらか優しく
教えてあげるわけですが、
(それでも厳しい方です、きっと)

子供たちには、とっても
厳しくなります。

簡単に言えば、
「こんなことも分からないのか!」
という雰囲気を漂わせてしまう私です。

これ、ホントに…

幸い、うちの子供らも、
そういう状態にある程度慣れているので、
めげずに頑張ります。

時には、泣いたりもしながら。

でも、この方法って、
身内じゃないと、
(いや、本当のところは、身内でも)
出来ませんよね。

おそらく、会社で、
そんな調子で怒る上司もいるんでしょうが、
ダメでしょうね。

子供の勉強については、
そんなダメ上司になっている自分を
認めます。

気持ちが入り込んで、
夢中になって教えていると、
そうなっちゃうんでしょうね。

めげずに頑張っている子供たちに、
感謝です。

あと数日で、クリスマス。
その時には、いい思い出を与えたいもの…

2004年12月 6日

すってんてん

財布にお金があれば、
それを10円未満になるまで、
使わなければ気のすまない人がいる。

つまり、
10円を少しでも超えるお金があれば、
10円ガムとか、
10円チョコレートとかを買って、
財布に1円玉しか残らなくなるまで
買い尽くす。

それによって、安心するらしい。
心が満たされるのだ。

あれば不安、なくなれば安心。
不思議な心理ではあるが、
分かるような気もする。

あれば安心、なくなれば不安。
これが通常の心理のはずだが…

ある限り、心が不安定になるのだ。

これも欲しい、あれも欲しい。
あれも食べたい、それも食べたい。
お金が少しでも残っている限り、
その気持ちが心を巡ってしまい、
自分で自分のコントロールが
効かない状態。それが真実なのだ。

落語に「水屋の富」というのがある。
内容は…

昔、水屋という職業があった。
この職業は、1日も休むことが出来ない。
みんなのために、安い料金で重い水を運ぶのだ。

ある水屋さんが富くじを買ったら、
たまたま千両富に見事に当たった。
「これで水屋から足が洗える」
と大喜びであった。

しかし、当たったお金を
隠す場所に困ってしまった。
いろいろな心配をして、
やっと隠したものの、
それでも心配するあまり、
妙な行動が目立つようになった。

風呂に行くのにも
周りの人が皆盗人のように見える…

仕事に出る時も
心配で心配で出掛けるのが遅れ、
遅くなったとお客さんに怒られた。

寝れば、強盗に襲われたりする夢ばかり…
安らかに眠ることすら出来ない。

なんとかしなければ、と思っていると、
その妙な行動が、ヤクザな男の目に止まった。

水屋が仕事から帰ってきて、
いつものようにお金を確認すると、
なんと、そっくり盗まれている。

そこで、水屋が一言。
「ああ、これで苦労が無くなった」

---------落語終わり------------

人間、あっても、なくても、
苦労するんですね。

どうせ、する苦労なら、
どちらがいいんでしょう。

あれば不安、なければ安心。
なければ不安、あれば安心。

ああ、よく分からない。

2004年11月28日

片づけられない女

片づけられない女…

床の上1mも積み重なるくらいの
ゴミが散乱する部屋を見たことはないが、
足の踏み場がない程度の部屋は見たことがある。

身近にいたからね。

その彼女の部屋が、
その程度で済んでいたのは、
下宿という環境にあって、

親が下宿屋さんに申し訳なく思って、
ある程度、定期的に
片づけを手伝いに来ていたからだと思う。

そうでなければ、何cmまで
積み重なっていたことだろう。

そして、今、彼女は、
アパートに住む年齢になったらしく、
その部屋がどうなっているものか。

片づけられない理由っていうのは、
一概に、これっていうのはないと思うけど、
田口ランディさんの言葉だけが
思い浮かぶ…

「何かで埋めている。
 いつも埋めている。

 誰かといっしょにいれない時、
 自分と向きあわないために、
 心を埋めている。」
(もう消費すら快楽じゃない、田口ランディ)

2004年11月21日

汚いという感覚

ん〜、以前、
おしっこダイエットという話を、
よく耳にしたけど、

正直、汚いと思ったのは、
私だけだろうか?

自分の「おしっこ」とは言え、
体から一度排泄されたものを、
何ゆえ、もう一度、
体内に入れなければいけないのか。

何かしら、病気を治すために、
尿の成分を使うとかなら、
話は分かるけれど…

ただ、宇宙で漂う船で、
長時間生活するためには、
おしっこも含めて、
浄水して水を循環利用するわけだから、

そんなことも考えて、
「汚い」なんて言っていたら、
何にも飲食できなくなる。

そういう短い循環を考えなくても、
日常で使う水道には、
浄水場というものを通って、
水がきれいになっているだろうし。

私たちが「美味しい、美味しい」と言って飲む、
天然の水や、ミネラルウォーターだって、
循環は違えども、いろんな水が混じって、
自然の力で浄化されてくるんだろうし…

どこからどこまでが汚くて、
どこからどこまでがきれいか、
区切りのつけようがないように感じる。

きれいと、汚いって、
個人的な感覚でしかないかもね。
もしかすると…

2004年11月 1日

自分のしたことが分かる時

周囲から見れば、
いかにも愚かな、と思うことを、
私たちは時々する。

しかし、それらが、
すべて間違っているとは限らない。

また、正しいとも限らない。

だからこそ、やってみる価値はあるのだが、
それによる責任はすべて自分にある、
という覚悟で進まなければいけないこともある。

ただ、自分のしたことが分かる時、
それが、本当は事前に可能だった、
という場合には、やはり惜しまれる…

私の理解は、都合よいかもしれないが、
今回のイラク人質事件で亡くなった香田さんは、
こんなことも考えたんじゃないだろうか。

「もし、万が一、生き残ることが出来たら、
 これまでのことを反省して、生きていこう」と。

残念ながら、それは叶わなかった…

分かる時っていうのは、
いつも「後」だ。

今私がしていることの中にも、
後に分かることがあるんだろうなぁ。

なんか間違っていることないかなぁ…
けっこうありそうだ、と思う今日この頃。

2004年10月22日

気は済むかもしれないけど…

やられたら、仕返しするとか、
相手の弱点を徹底的に突くとか、
それをしたら、
すっきりするかもしれないけど…

昨日、一人のローカル議員さんが、
夕食後、突然、訪問された。

出かける前だったが、
ちょっと時間があったので、
応対した。

どのように、何を伝えていけばいいか?
今の時期に…

話を聞けば、議員さんという仕事も、
いろいろ大変そう。

まずは、選挙の時期が近づくと、
政策論争、本業もそこそこに、
選挙に備えての動きが目立つようになる。

当然、議場も、なんとなく、
しまりがない。しかし、
当選してナンボ、
という世界であるがゆえに、
その心理は分からないでもない。

だからと言って、
そういうしまりがなくなった議員さんを、
マジメな議員さんが責めたからといって、
また議場を離れて、
そのいい加減さを暴露したからといって、
どうなるものでもない。

アメリカの大統領選の演説などを見ると、
相手の欠点をあげつらうことばかりで、
やはり、楽しいものとは言えない。

そこで、私なりに、
相談にきた議員さんに、

「そういうことをすれば、
 気は済むかもしれないが、
 労力と時間のムダになる。

 だから、戦略をよく考えて、
 対応したほうがいいですよ。」

と伝えた。

うやむやしていた心が晴れて、
彼は帰っていった。

気が済む方法は、
それだけのことにしかならず、
何も生み出さないことの方が多い。

それでもいいから、それをするのか。
それとも、考え直すか。

すっきりしない社会では、
そんな選択が多くなりそうだ。

2004年10月 3日

105円と198円

昨日、奥様と買い物していて、
たわいもない選択に、
迷っていました。

私が好きで時々買う「昆布の佃煮」ですが、
いつもは、値段も何も気にせずに、
105円のものをカゴにポンと入れていました。

しかし、昨日は、
カゴに入れようと手にした時に、
平積みの状態で、隣に198円のものが…

初めて見たなぁと思いつつ、
手に取ると、なんとなく、
色つやといい、おいしそう。

でも、これくらいの商品に、
そんな期待をしていいものか、と思い、
元のものを買おうと思ったのですが、

心の奥底で、冒険したいな、
という気持ちがもたげてきて、
198円のものを買いました。

93円というしょうもない差額かもしれませんが、
人間って、十分、悩めるものだなぁ、
と思った次第。

早速、うちに帰って食べてみると、
やっぱり、違うもんだなぁという感想。
どうやら、今回のバージョンアップは、
本当のバージョンアップになったようです。

うちの奥様も「うまい、うまい」
という感想でしたから、良かったです。

2004年9月 9日

結局、経済…

面白い調査をやっていますね。
あまり意味ないですけど、
アメリカ以外での、
ブッシュ大統領、ケリー氏の支持率調査。

ケリー氏が圧勝のようです。
35カ国中、30カ国で…

これが、アメリカの世論に影響するもんでしょうか。

私は、どちらの人もよく分かっていないと
思うので、何を根拠に支持すればいいかさえ、
あいまいなのですが、やはり、結局、経済かな、
と感じました。

他国民は、もちろん、
世界の中におけるアメリカの経済的役割などを
期待しているでしょうし、

自国民は、やはり、日々の生活である、
「自国の中における経済」を見るのかな。

そんなデータが、これにはあるように思います。

私だって、いざとなったら、
そんな気持ちで、自国を見たり、
他国を見たりするでしょうから。

2004年9月 2日

世の中、カネや。

「世の中、カネや。」
と思う人間模様を見ることがあります。

皆さんも、そうでっしゃろ?

でも、自分が、
そうならなかったら、
ええんじゃないだろうか。

「世の中、カネでない。」
と思える人間模様も
見る機会があるわけでして…

人間的には、
人の命や心を救う業界においては、
そんな風潮はあって欲しくない、
と思いつつも、

やっぱり、そうかぁ、
というショックを受ける出来事を
見ることも少なくないです。

しかし、それでも、
自分が、それと同じ行動を
とらなきゃいいんですよ。

いや、時に、
心の奥の「カネ目当ての心」が
うずく時もあるかもしれまへん。

ただ、それが、
ずっと人生を通して、
うずいていなけりゃ、
それでよし、としたら、
いいんじゃないでしょうか。

いろんなことがあって、
いろんな苦しいことも
くぐり抜けているうちには、
やはりカネに苦しい時も
あるはずなんです。

周囲が、そんな苦労をしていない時には、
自分自身が、とてもミジメに感じることも
あるでしょう。

そうだからと言っても、
「世の中、カネや。」という価値観ばかりに
染まってはいけませんって。

たとえ、周りがそう見えても…

この話、きれいごとじゃないと思いますけどね。

2004年8月16日

日常の平凡さと、非凡さ

いろんなブログを読んだり、
本を読んだりしていると、
結局、自分ひとりの経験って、
ちっぽけだよなぁ…って思う。

いろんな人のいろんな経験が、
うらやましく思えたりする。
それが、本当にすべて自分のものになるためには、
やっぱり、莫大な時間とお金も、
必要になったりするわけで…

結論は、ほぼ不可能。

だから、自分らしい経験をして、
それを自分の目で見て、
自分らしい文章にしていくしかない。

そうなんだよね。

人真似して、面白く書こうとか、
深みがあるように書こうとか、
真似はできても、それが自分のものになるまでは、
どこかチグハグなはず。

自分のものになっていない言葉は
使わない方がいいし、
思ってもいないことは
書かない方がいいかもしれない。

いろんな言葉を読んでいると、
自分の言葉も含めて、
「自分のもの」になっていない文章は、
分かってくる。

「背伸びしているな」とか、
これって「出会い系に誘うための創作文章じゃないか」とか、
「やらせじゃないか」とか…

実際、その通りの可能性もあるけど、
仮に、そこにウソがあるとしても、
自分の日常の平凡さを、
文章では非凡に表現したい「心の現実」があるのは、
事実なわけだし。

100%ウソとも言い切れないんだなぁ、
と思ってきた。

非凡さの裏には、平凡がある。
それが心の真理と分かってきたように思う。

2004年8月14日

街はお盆でにぎわい

子供たちと、
お盆に買うものを決めていたので、
さきほど、いっしょに行ってきました。

下見好きの私は、買うものを決めるまで、
4店は回ったでしょうか。
品揃え、価格、などなど…

途中で、子供たちとアイスクリームを
食べたりしながらの買い物です。

いろいろ探しただけのことはあって、
子供たちも、私も満足のいくものを
見つけることができました。

それは、ちょっとした衣類なのですが、
思い入れのシーンで使いたいために、
そこまで探したり、
巡ったりしたわけです。

ショッピングに、ほぼ4時間。
ああ、ゆっくりした…

2004年8月10日

ヨーガ

千葉麗子さんのインテグラル・ビューティというブログを、
時々読むようになって、
頭のためにも、新しいことは必要だけど、
体のためにも、新しいことを始めなくちゃな、
と思うようになりました。

やはり、心と体は別々のものだけど、
切り離せないポイントがどこかにあって、
どちらかが新しいことをすれば、
もう一方にも、ちゃんと影響を与えてくれる、
そんな気がしました。

千葉麗子さんがオススメするのは、ヨーガ。

そういえば、二年前の夏休みだったかな、
ヨーガの無料体験教室っていうのに、
参加してもらえませんか?

っていうお誘いがあって、
付き合いで子供たちと参加した覚えがある。

そしたら、その次の年も、
「参加者が少なくて、参加してもらえたら、
 嬉しいです。」というお誘い。
今度は、奥様と子供たちを送り出した。

その頃は、ヨーガがブームじゃなかったから、
そういう参加率だったかもしれないけど、
今は、この千葉麗子さんなどのおかげで、
本も売れていたりするし、

ヨーガ、なかなか、
いい感じに盛り上がっているんじゃないでしょうか。

そう言えば、今年は、
「参加して下さい。」のお誘いが来ないみたいだし…

なんか、ヨーガって、
座禅とストレッチのミックスみたいで、
心の安定剤としてもいいように感じたな。

心を落ち着け、残りの夏も乗り切ろう。

【参考】
TJムック「千葉麗子のDVDdeヨーガLesson」 <DVD>

TJムック「千葉麗子のキレイと元気をつくる! DVD de ヨーガLesson」〈DVD〉

2004年8月 9日

おカネと誠実さ

最近、思うんだけど、
おカネと誠実さって、
リンクしているわけじゃあないところが、
けっこうあるよなぁ…って。

たとえば、株なんか、
まったくもって、それでしょう。

ある会社が成功しそうだ、
新しい事業がうまくいきそうだ、
という見込みに対して、
早い段階に気づいた人が、
投資を始める。

その後、人気が出てくると、
たくさんの人が、株を買って、
投資(?)する。

しかし、後に投資を始めた人は、
「人気投票」を手伝っただけ
だったりするんだよねぇ。

人気があるところに、
おカネが集まって、
その人気やブームを作った人たちが、
儲けられる、っていうパターン。

そして、その人気は、時代によって変わる。
たとえば、人一人を見れば、
人格、才能、容姿、ルーツ(有名人の2世、3世とか…)、持っているもの、などなど、
いろんなものが対象になる。

もちろん、その色々が複合される場合もある。

誠実さが、人気の対象になることもあるけど、
それとは関係ないところで、人気を獲得できる人もいる。

だから、人によっては、
「お金儲け」のために一生懸命やっているつもりが、
その目的に届かないところで、
頑張っている場合もあるかもしれない。

それで良し、としているのなら、
いいけど、あくまでお金儲けに憧れがあるなら、
そういう経済のしくみとかも分かって、
おカネを目指していかないといけない。

何も、誠実さを捨てることは必要でないけれど…
目指している目標と、
それに届くために頑張る方法が
本当に一致しているか、考えることの方が大切。

なぜ、「頑張っている人」ほど、うまくいかないのか?

2004年7月24日

うち、貧乏でないもん

子どもの口から、
「うち、貧乏でないもん」
という言葉が出てくるとき、
その状況をどうとらえますか?
それを言ったのが、もし自分の子どもだったら、
あるいは、知人や親戚の子だったら…
まず、自分の子どもだったら、
「よくぞ言った。これで恥じかかなくて、済む」
そんなことを思う人もいるかもしれない。
では、他人の子どもだったら、いかがでしょう?
「何、言ってんだか、このガキは?!?
 自分で稼いだわけでもあるまいし。
 おおかた、親が見栄を張って、いろんなものを与えたりして、
 うちは貧乏じゃないって洗脳しているだけじゃないの。」
とか思う人も、いるのではないかな?
そもそも、子どもの金銭感覚なんて、
それほど、当てになるものじゃあない。
与えられて、もらい受けて、
その満足感によって、判断する以外にないだろうから。
なかには、ちゃんと労働というか、お手伝いの対価として
与えている家庭もあるだろう。そういうところの子供たちは、
多分、金銭感覚が、キチンと身についていたりするだろうな。
貧乏か、貧乏でないかの判断が、
子どもの口から出てくるより先に、
「うち、自分の食べる分くらい、自分で稼げるもん」
そんな言葉が出てくるように、育てたいものだ。
「うち、貧乏でないもん。」
昔のテレビ番組じゃあないけど、
金持ちの家に生まれた子どもが、
そうでない子どもに対して、
自慢するかのように言うセリフに近いかもね…
子どもの口から出てくる言葉は、
親がどういう価値観で接しているかが、
ハッキリ分かる「ものさし」かもしれない。
うん、気をつけたい。

2004年7月23日

電話が怖い

お金を借りて返せなくなると、
怖くなるものが増えてくる。
電話、玄関のチャイム、郵便物、などなど…
情報化社会と言えば、
今はパソコンやケータイが主流みたいな感じがあるけど、
家庭用電話も、立派な情報機器なわけで、
ケータイよりも安いこの「電話」が使いずらくなると、
多くの人々との交信も、やりずらくなる。
あの人、なかなか、電話に出ないねぇ…。
から始まって、
「お客様の都合により、一時止めております。」
という自動応答メッセージが流れるようになるまで、
その実態は、ある程度、決まっている。
しかし、借りる先を誤まると、
「電話に出ないこと」で、
怖さを軽減するのも難しいようだ。


そのことは、
ちょっと風向きが変われば、
あなたや私の身にも
起こり得ることだった。

(火車、宮部みゆき)

この言葉を思い出す。 今、自分は大丈夫、そんなことにはならないだろう、 と思っている人間のなかでも、 今年の末には、そんな怖さを味わう人もいるだろうし… 数年前に、そんなふうに思っていた人が、 今、その怖さを味わっているケースもあるだろう。 ものすごい脅しの催促が、 今もどれだけ残っているかは 分からないけど、 その催促の怖さ、どうのこうのより、 やはり、人に「借り」があって、 その借りから自由になれない自分の身が、 怖いのだと思う。 精いっぱい、生きれないのは、 やはり辛いだろう。 不景気のせいにすれば、物事が解決するわけでもない。 何の、誰のせいにも出来ない状況もあるだろうし… 借りる・貸すというシステムが、 もっと健全なものにならない限り、 この問題はなくならないだろうなぁ。 身近に、そんな話を聞くたびに、思うことだ。

2004年7月 6日

反発を始める

何かに反抗すること、
反発を始めることは、
心が自立してきた「1つの証」と
とらえられる。
多分、心理学的にも、
いくらか言えることだろう…
うちの三女、3歳も、
ご飯を食べる前にお菓子を食べようとすると、
私か、うちの奥様から叱られる。
それを感じているから、
こぶしをふるって、たたこうとしたりする。
生意気にも…
反発だ、自分の願いが叶えられないことに対する。
3歳でも、それが出来るのだから、
オトナの私たちが、
もし、それと同じレベルの反発しか
出来ないとすれば、
かなり情けない。
泣いたり、人に八つ当たりしたり、いじけたり、
そういう行動を選ぶ人間がいる。
(これを読んでいる人には、少ないとは思うが…)
心理学の本で読んだ記憶か定かでないが、
誰か自分以外の人間を動かしたい時、
人はそれまで最も効果のあった方法を、
選ぶ習性がつくらしい。
多分、ヒトに限ったことじゃあないだろう。
反発をそういう行動のエネルギーに変えることしか、
習得しなかった子ども、または大人は、
正直、かわいそうである。
反発のエネルギーは、
自分の人生をよくする力に使って欲しい。
他人と過去を変えようとするより、
自分と未来を変えようとする力に…
そんな決心をする人には、
心からの声援を送りたい。

2004年7月 5日

パチンコ屋さん

車でドライブしながら、
列車に乗りながら、
外の風景を見ていて思うのは、
パチンコ屋さんの残骸ほど、
無残なものはないなぁ、ということ。
何か人間の欲の残骸とでも言うような感じ…
私の気のせいか分からないが、
つぶれたパチンコ屋さんの風景が
目立つようになってきた。
繁盛時には車が何台も並んだり、
ジャラジャラと威勢のいい音が外にもれたり、
そんな空気をかもし出していたパチンコ屋さん。
「この店じゃあ、俺の欲は満たされないなぁ」
と思われてしまえば、
パチンコ屋さんはどんどん人が引いていく。
そして、つぶれる…
人の欲を満たし、
自分たちの経営も満たし、
繁盛感を出していく。
それでも、捨てられる時がくる。
かなり因果な商売かもしれない。
パチンコ屋さんに入ったことなんて、
しばらくない。急用があって義父を呼びに行った時、
あとは、どうしても、トイレを使わなければいけなくなった時。
今は改善されたと聞くが、
まず、パチンコ屋に入ると、
タバコの白い煙が充満していて、
ちょっとの間、そこの空気に身を置いただけで、
服に臭いが染みついたんだよなぁ。
これは、若気のイタリとしての告白ですが、
多分、16,7歳の時、
(今から20年ほど前だな)
寮生活をしていた私は、
友人達がパチンコ屋に行くと聞いて、
どんなもんだろう…と少々興味があった。
実際、自分の父親は、
ギャンブル依存症で、興味も何も、
その結末はよく知っていたのですが、
「もしかしたら、俺にはパチンコの才能があるかもしれない」
なんて、根拠のない仮設をたてて、
パチンコ屋に行く日を計画していました。
それは、自宅に帰省する時の列車待ち時間。
駅前のパチンコ屋に入り、試した…
詳しいことは忘れたし、行った回数も覚えていないけど、
心の中で負けが1万円を超えたら止めようと
決めていたんです。
アルバイトのお金を使っていたのか、
自宅から送られていたお金を使っていたのか、
それは忘れたけど、
すぐに、その時は来ました。
早かったですねぇ。
多分、父親のダメな姿を見ていたのが、
潔いブレーキになったのでしょう。
それ以降、やろうとも思いません。
今なお、パチンコをしている人たちは、
どれだけ勝っているんでしょうかねぇ。
勝ち組、負け組あわせたら、何対何でしょうね…
ちょっと興味あります。

2004年6月16日

裁判の費用

誰しもが、高いというイメージのある、
裁判の費用。
自分の財布から出すことを考えれば、
裁判に訴えて、その真相を明らかにするか、
それとも、泣き寝入りするかを考えてしまう。
それが、行政が関わる裁判だと、
それに使われるのは、国や地方の予算、
つまり税金だったりするから、
結局のところ、負けても、
自分の財布は傷まない。
大きな会社が訴えられた場合もそうだろうな。
だから、負けそうな裁判でも、
自分たちの主張を見せるパフォーマンスとして、
一度負けても控訴したり、上告したりする。
やはり、物事を明らかにするという正義のためとは言っても、
人を動かして、それを行うわけだから、
お金はかかるよなぁ。
人が人を裁く。
その人の裁きに、正義を期待して、訴える。
お金をかけて、訴える。
出来る限り、お金をかけずに、
公正な裁判を期待するとすれば、
ものすごい時間が必要だろう。
こんな記録がある。


あくる日モーセは座して民をさばいたが、
民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。
モーセのしゅうとは、
彼がすべて民にしていることを見て、言った、
「あなたが民にしているこのことはなんですか。
 あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、
 あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。
モーセはしゅうとに言った、
「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。
 彼らは事があれば、わたしの所にきます。
 わたしは相互の間をさばいて、
 神の定めと判決を知らせるのです」。
モーセのしゅうとは彼に言った、
「あなたのしていることは良くない。
 あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、
 必ず疲れ果てるであろう。
 このことはあなたに重過ぎるから、
 ひとりですることができない。
 今わたしの言うことを聞きなさい。
 わたしはあなたに助言する。…
 すべての民のうちから、
 有能な人で、神を恐れ、
 誠実で不義の利を憎む人を選び、
 それを民の上に立てて、千人の長、
 百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。
 平素は彼らに民をさばかせ、
 大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、
 小事件はすべて彼らにさばかせなさい。
 こうしてあなたを身軽にし、
 あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。
 あなたが、もしこの事を行い、
 神もまたあなたに命じられるならば、
 あなたは耐えることができ、この民もまた、
 みな安んじてその所に帰ることができよう」。
 モーセはしゅうとの言葉に従い、
 すべて言われたようにした。
 (旧約聖書 出エジプト18:13-24)

こんな時代もあったんでしょうね。
本当に、信頼できて、正義を期待できる人は、
やはり多くはないでしょう。モーセの時代のように、
一人の信頼できる人ばかりに、たくさんの人が集まると、
時間がかかりすぎます。
(今の裁判でも、十分、時間がかかるようですが…)
裁判に、時間をかけるか、お金をかけるか、
この二者択一は、本当に難しいです。

2004年6月12日

ちっぽけだから、つまずく

私のHPにて、「小さな人間につまずくな」という
タイトルの文章を書いたら、たくさんのメールをいただいた。

それらは、
夫が浮気しているという「いたずら電話」に悩んでいた人、
頑張ろうと思っていたことを邪魔された人、
「つまずかされた」ことによって自分の弱さが分かった人、
などから…。

それから数日後、今度は、私がつまずいた。
それは、朝のジョギング中、路上のちょっとした段差。
見事につまずいた。手を出すタイミングが遅れ、
顔からアスファルトにぶつかる。

インターネットの世界で仕事をすることが多くなっていた昨今、
あらためて「現実ってイタイなぁ」と思った。
つまずいた相手は、本当にちっぽけな存在。
しかし、私の被害は、けっこう大きく見えた。
痛みはそれほどでもなかったが、顔だっただけに、
見た目が痛々しいという結果。

私たちは、大きな岩にはつまずくことはない。
人につまずく時も同様。
器の大きい人間につまずくことは、まずない。
器の小さい人間を相手につまずく。
そして、それだけで、志をあきらめたり、
やりかけの良いこともやめてしまったりする。
これは、本当にもったいない。

私は、つまずきそうな時には
次の言葉を思い出すようにしている。


「相手の言葉に傷ついてしまうのは、
 あなたが相手と同じレベルだからです。
 怒ってしまうのは、
 あなたが相手と同じレベルだからです。」
(ドロシーおばさんの大事なことに気づく、加藤締三)

なかなか痛烈な言葉だが、
そんなレベルであってなるものか、
という向上心を呼び起こしてくれるから、
とてもいい言葉だと思っている。

たくさんのメールをいただいて、気づいたことが一つ。
つまずく事柄、つまずき方は、人それぞれだが、
結果的には、つまずいた嫌悪感や相手への憎悪より、
自分の足りないところの発見を喜んでいること。
たしかに、私もつまずいて、分かったことがあるもんなぁ。

2004年6月 1日

現実はイタイ

インターネット上の仕事とかに
接する機会が多いと、
本当に「現実」の感覚を忘れてしまうかもしれない。
そんなことを思った。
イタイほどに、本当に…
最近、始めたジョギング。
今朝も天気がよく、快調に走っていたところ、
ふとした瞬間に、こけてしまった。
思いもよらず、こけたものの、
頭の中ではたいしたことないと思ったのだろうか、
アスファルトに、顔をこすりつけてしまった。
手が出たのか、手が出るのが遅かったのか、
ちょっとした段差があったせいで、
顔と手の位置関係がずれたのか…
今は、よく覚えていませんが、
そんな具合に、ちょっとこけたのです。
ん?、ちょっとじゃないかもな。
痛くはないけど、ほかの人から見たら、
痛々しそうに思える。今は傷があるから…
ああ、現実って、こうなんだんな。
というのを、改めて思い返した。
そして、やはり、運動不足気味の「自分」
という認識も、さらに強まることに。
現実は、イタイんだよな。
こければ…
ゲームのようにリセットもできない。
確実に、傷と痛みが残る…
正直に、そういう感覚を忘れていた。
あと、年を重ねているという感覚も…
うちの奥様の誕生日が、もう間もなく。
学年で言えば同じだけど、
彼女のほうが、ちょっと私より早く、
36歳を迎える。
お互いに、40歳がそこまで近づいてきた。
このイタイ現実と、顔に出来たばかりの傷を感じて、
しっかりせにゃいかんなぁ、と思った。
仕事ばかりしていないで、
自分の現実的な健康にも気をつけて。
ついでに、ちょうど左小指の指先も
すりむいたため、カットバンをしています。
けっこう使う「A」のキーを押すのが窮屈に感じている、
今朝の私でございます。
皆様も、「こける」には、くれぐれもご注意を…

2004年5月31日

サラ金に勤める本音

サラ金に勤める女性の本音が読めて、
なおかつ、お金を借りるということは、
どういうことか…
そんなことを考えさせられるサイトに、
先週、出会いました。
Yahoo!で紹介されていて、
分かったものですが、
なかなか、意味深いものがありました。
サラ金レディ日記

これを読んだら、私の場合、
これを読んでちょっと考えて欲しいなぁ、
という知人の顔が、2,3思い浮かびました。

でも、そういう人に限って、
情報を集めない方だったり、
情報に興味を示さない方だったりしますからね。
なんていうか、救いようがない…というのが事実だったりします。
知らない過ぎる、
学ばない過ぎる、
考えない過ぎる。
それじゃあ、罠から逃れられることなんか、
ありえない。
サラ金日記レディ日記を読んでいると、
勉強しない人々の問題が、
明らかになってくる。
「消費者金融」とはよく言ったもの、
消費しかしないもんね。
消費だけが目的なんだよね。
時に、一人前にも「投資だ」なんて言葉だけは、
使っても、その実は「消費」に過ぎないことも多々。
消費である限り、使えばただ消える。
自分への投資という考えがない限り、
お金に追われるハメになるんだろうな。
そんなことを感じたサイトでした。

2004年5月14日

タダにしない

今なお、インターネットの検索キーワードとして、
「無料」という言葉が、圧倒的に多い。
タダが愛されている。
先日、こんな言葉を見つけた。
誰が言ったか、忘れた…
「金儲けというのは、
 究極のところ、お金のない人間から、
 さらにお金を巻き上げるシステムだ。」
と、キツイと思いつつ、
当たっているかもなぁ、と思った。
世の中、そういうふうに出来ているよ、
多分…
タダ、という感覚は、
本当はマズイんじゃないか、と思うことがある。
何らかの意味で、人手が加わっているのに、
それをタダで分け与えたり、もらったりするのは、
なんか人の感覚を鈍らせるように思う。
タダだったら欲しいけど、
そうじゃなかったらいらないっていうものがあったとして、
それに、たくさんの人が手を出すと、どうなるか。
タダじゃない、本当の価値あるものに対する目が、
変わっちゃうかも… そんな気がする。
絶対に変わらない確かな目をもった人もいるだろうけど、
そんなタダに惑わされる目が同じように、
金儲けという裏側のシステムに
はめられたり、だまされたりするんじゃないだろうか、と思う。
たしかに、同じ人手はかけられているけど、
情報という商品は、また別かもしれない。
情報自体に値段をつけるか、
その先の商品やサービスに値段をつけるか、
いろいろな選択肢があるだろうから。
「あの、これタダです。」
とお店の人に言われたとき、
「いや、ちゃんと、代金をとってください。」
と言うようなお客さんが増えたら、
お店の人たちの真剣度も増すかも…
「どうせ、タダだから」で作って、
「どうせ、タダだから」でもらう、
この人間関係、いい感じには思えないよなぁ。
そう思う、今日この頃。

2004年5月12日

下請けである限り…

「下請である限り未来はない」
こんな言葉を、見つけた。
強烈、と感じる人もいるかもしれない。
お金の流れは、
商品やサービスを実際に考えて、
それを世の中に直接売る会社に入るのが当然のこと。
そこから下請けしている会社は、
いくらかの交渉はしたとしても、
だいたいの決定権は、
発注側の会社にある。
やはり、きついと思う。
表面的には下請けと言っても、
技術なども含めた商品やサービスを直接売っている会社なら、
待遇も、ぜんぜん違うだろうと思う。
下請け会社を経営していた人のなかには、
いま、たいへんな苦労をしている人もいると聞く。
本当に、ガラっと生活が変わり、
職安で仕事を探すところから、
再スタートしている人もいるらしい。
なかには、油断せずに、
次をちゃんと考えたにも関らず、
そんな再スタートをしている人もいるだろう。
しかし、繁盛していた当時の契約量などに甘んじ、
甘く考えていた人もいることと思う。
同じような下請け会社が、
生き残れるかどうかは、
やはり、自分たちのカラーを出せる商品やサービスを、
独自で考え出せるかにあるようだ。
それによって、お金の入りも変わってくる。
下請けと言ってきたが、これは、
会社の中にも言えると思う。
社員は、雇用という契約はあっても、
ある意味、下請けに近い扱いを受けている場合もあると思う。
時代が変われば、同じように、未来はないかもしれない。
「下請けである限り、未来はない」
本当に、強烈な言葉だ。

2004年4月22日

孤立してない?

自立と孤立は、違う…
日経BPメールにて、こんな表現に出会った。


わたしたちの世代は、
この先もずっとみんなで楽しく
カイシャという神輿(みこし)を
かついでいられるほど
幸せな世代ではないと思うんです。

会社というみこしをかついでいる時代が、
本当に幸せだったか、と言えば、疑問な点も残るが、
保護があった分、よかったなぁという気分を
引きずっている人は少なくないだろう、と思う。
会社に限ったことではない。
みこし的な存在がなくなったり、それが軽くなったりした集団では、
人と人とのつながりも変わってくると思う。
自立心を起こして、
新たな「みこし」をつくろうと仲間を集める者もいれば、
消えた「みこし」を探したり、
壊れかけた「みこし」を元に戻そうと、
仲間の足を引っ張る者もいる。
孤立しているのか、自立しているのか、
周囲からただ眺めただけでは分からない。
好きなことをして商売を始めよう、
なんていうメールマガジンや本が出版されると、
そして、それに実際の成功体験なんかがあると、
ちょっとでも「独立心」のある人は、
飛びついたりするよう。
しかし、「好きなことを始める」だけでは、
自立しているなんて言えない。
それが、多くの人々から理解されたり、
あるいは受け入れてもらえないと、
孤立してしまうから。
会社や他の集団の中でも、
それに近い状況はありえるだろう。
それに、自分の時間やすべてをかけてでも、
(会社であれば、仮に自腹でやることになっても…ということ)
軌道に乗るまで頑張れる気持ちがあるかどうかが、
一つは、自立の表れじゃあないだろうか。
それがないと、
「ただ、自分の好きなことだけをしている」孤立になっちゃう。
もし、自分に何か足りないなぁ、
と思ったときには、そんなことなんだと思う。
自立するか、孤立するか…
きわどいところだと思います。

2004年4月19日

女性タクシー運転手

土曜日、久々にタクシーに乗る機会があった。
女性のタクシー運転手だった…
やはり、女性だけあって、
会話がいろいろと発生してくる。
ただ話に付きあっているだけだった私も、
その話題のなかに、
興味もてるものも出てくる。
一番興味をひいたのが、
やはり「女性タクシー運転手」の存在意義。
介護サービスとの連携目的が、それらしい。
だから、ホームヘルパー2級の資格も持っていると、
教えてくれた。
介護サービスを受けているご老人の移動に限らず、
ただ薬をもらいに行ったり、買い物に行ったり、
それだけの業務もあるらしい。
タクシー会社は、それで儲かっているのか、
と聞いたところ、そうでもないらしい。
しかしながら、時代が時代だから、
そのようなサービスを増やしていく体制に進むとのこと。
先日、テレビでも報道されていたが、
景気の動きに、直影響されやすいタクシー業界。
そういう介護のニーズは増えていくなかで、
女性タクシー運転手はますます増えるだろう。
一方、男性タクシー運転手は、
だんだん居場所がなくなるか、
求人が減るのかなぁ、と思いながら、
彼女の話を聞いていた。
年金対策に限らず、
そういう高齢化社会に向けた予算規模だけが、
どんどん増えていく体制だけが、
アタマのなかに思い浮かぶ。
お金は、どうやって回るんだろう。
税金? 大丈夫かなぁ…
介護保険? ん??
先週まで1週間ほど続いた、イラク人質事件が、
3人の日本人解放というかたちで終わった。
しかし、今朝は、穏やかでない。
救出するためにかかった費用を、
本人達に請求するかどうか、
なんて話も出ている。
その是非は、どうあれ…。
人を生かすためにはお金がかかる。
国家であれ、家計であれ、そうなのだ。
それが回るシステムと、
そのなかで起きた問題に対する自己責任と、
どういうバランスで考えていけばいいのか、
今の世の中は、ますます複雑になっていくような気がした。
簡単なようで、複雑なお金である。

2004年4月 5日

あとがない

自発的に、勇気とか、やる気とか、
出せないと…
「あとがない」という場面まで、
たどり着いてしまうことがある。
そうならないと、実際、
動くきっかけとか、動く理由、意味を
見つけられないのが、人間かもしれない。
火事場の馬鹿力とも言えるパワーだけど、
人によっては、その緊迫感を感じすぎて、
何もできなくなる人もいるかもしれない。
「あとがない」というのは、
難しいシーンだなと思う。
わたしの理解はたぶん足りないと思うが、
神経症などを治す「森田療法」というものがある。
これの面白いポイントは、
第1?4期という療養期間があるなかで、
第1期に「患者は1日中ベットに寝ていなければならない。」
というものがあることだ。
その期間は、お医者さんによって、
いろいろなアドバイスがあるかもしれないが、
たとえば7泊8日の間は、
読書やテレビなど、いっさいの気晴らしの行動が禁止され、
洗顔・食事・排泄以外は、寝ていなければいけない。
この目的は、
ゆがめられた「生へのエネルギー」を目覚めされること。
ふつうであれば、さすがに、
これだけの期間をただ寝かせられると、
患者は何かしたくてたまらなくなり、
終わる頃には、見違えるように「やる気」満々?!に
なっているようだ。
(図解・精神病マニュアル、同文書院)
「あとがない」とは
また別の次元かもしれないけど、
「何もさせられない」のも、
やる気に通じる可能性になるわけだから、
面白いな、人間は…
いずれにしろ、自分の立っている地面が、
少しずつ狭まっていることを感じれば、
そしてそこに立っていること自体が危ないと分かれば、
前に進むんだよね、私たちは。
しょうがない性質(タチ)です。

2004年4月 2日

へそくり

私には、へそくりがない。
ほぼ正確に、財布から通帳まで、
把握しているタイプの人間だ。
友人に、へそくりが好きなやつがいまして、
本やいろんなものの間に、
1万円札をはさんでいる。
そして、しばらくはそれを思い出さないようにしていると、
本当に忘れしまうらしい…
そして、ある日。
昔の本を読んでいて、
パラっと1万円札とご対面する。
その感動が面白いという彼。
おいおい、その本を捨てたり、なくしたり、
貸した時に別の人を見つけられたりしたら、
どうするんだよ、と思う私。
刺激…ということだろうか。
日常とは違うことを求めてしまう人間の心理。
反対に、あらゆるものが、
思いどおりに、いつもどおりにあって欲しいと
願っている人間の心理もある。
どちらもあわせもっている私たち。
お金の貯め方、使い方にだって、
それが現れる。
ギャンブル、買い物、旅行、いろんな刺激…
食べ物、服、必需品、などの定番。
へそくり、もっていますか?
へそくり、何に使っていますか、使うつもりですか?
興味あるなぁ。

2004年3月18日

卒業おめでとう2004

またまた、今年も卒業式でお話する機会があるようで、
その練習も兼ねて、ちょっと書きたいと思います。

----- 本文-----

卒業生の皆さん、保護者の皆さま、
そして、これまでご指導してくださった先生方、
本日は、まことにおめでとうございます。
皆さんは、4月から、新しい生活がスタートします。
多分、ちょっとだけ常識が変わることになるでしょう。
たとえば、中学校では、
英語を一生懸命勉強することになります。
その英語には、こんな言葉があります。
「常識は、それほど常識でない」
Common sense is not so common.
自分が今知っていることだけを
常識と思って生きていると、
苦しくなることがあります。

自分が知らないことにも興味をもてると、
自分の本当にやりたいことや、
自分のかくれた才能にも、出会えます

また、オトナになった時、
自分しか見えない人に
ならないで済むでしょう 。

何か自分の知らないことに出会ったときは、
この言葉を思い出して、前に進んでみてください。
「常識は、それほど常識でない」
Common sense is not so common.
皆さんの新たな旅立ちを心からお祝いし、
以上で終わります。
本日は、まことにおめでとうございます。

-----本文終わり-----

去年に比べて、超・短くしました。
いいかな…

2004年3月16日

お金の手ざわり

給料は振り込み、
支払は自動引落し、またはカード、
株の売買も口座取引のみ…
なんて具合に、
実際にお金にふれることが
すくなっている現代において、
おカネの「手ざわり」感覚を取り戻そう、
なんていう呼びかけがある。
しかし、実際は、
お金に「手ざわり」なんてないんじゃないか、
と思う。
手ざわり(?)があるように、ということで、
もし、すべてを現金やり取りの世界に戻したら、
おそらく、さわることすら出来ない人が
出てくるんじゃないか、という気がする。
お金には、「手ざわり」なんてない。
お金は、そもそも約束事のシンボルに過ぎない。
働いたこと(または知恵を出したこと)に対する報い、
そして欲しいもの(またはサービス)に対する対価。
その中間にあるのが、お金。
当たり前のことだけど、
働いたことに対する報いを、
その人の欲しいもので払ったら、
お金は要らなくなる。
原始的というか、パチンコ屋さん的というか…
けれど、欲しいものが、価値観が、
無限に近いほど多様化している現代では、
それらすべてを一つのところで準備することなんて、
やっぱり、出来ないからね。
お金というシンボルが必要になる。
実際は「存在しない」その手ざわりを、
今は紙っぺらの手ざわりに変えてしまった。
それぞれの人々の状況によって、
その手ざわりは重くも、軽くもなる。
本当に重いもの、軽いものは、
働くことだったり、欲しいものを手に入れたり、
することの方なんだけど…
お金がそんなことになっちゃう。
お金の手ざわりにだまされないように、
そんなことを思った。
去年、札束をばらまくような心境になった人の言葉を読んで…
(デイトレーダー、日々株の売買で利ざやを稼ぐ人)
「何回か、瞬時に大金を手にしたが、
 喜びより空虚さが残った。
 自由な半面、市場から利益をもぎ取るだけで、
 世間に何のプラスも生み出していない。
 この世界に自分がいてもいなくても同じと思うと、
 たまらない気持ちになった。」

2004年3月 1日

ソーラー型人間

名刺サイズの薄型ソーラー電卓が壊れ、
先週の土曜日に、新しいものを買おうと、
お店に行った。
行ったお店がよくなかったのか、
そのサイズがなかなかないんだな。
それに、ソーラー型って、
限定しているからでしょうか。
ソーラー型って、やっぱり便利。
自分でパワーを蓄えて、
また自分で動き続けてくれるから。
何の手もかける必要がないというのは、
本当にいいこと。
人間でも、そんな人ばかりが自分の近くにいたら、
本当に楽だよなぁ、って思っちゃいます。
かなり、わがままな願望ですが…
名づけて、「ソーラー型人間」。
自分でエネルギーを蓄え、
自分で仕事をきちんとしてくれる。
究極の自立だよね。
おまけに、電卓の方は排泄物も出さない…
それ自身が壊れて、ゴミになるまでは、ね。
自分自身がまったく人の手を借りずに、
生きていけるなんてことはありえないだろうけど、
できる限り、そうありたいね。
ま、ソーラー型人間と言ったら、
人によっては、孤独じゃん、と思うかもしれないけど…
実際に、ソーラー型人間になってみれば、
そうでもないかも…
自立して、自らエネルギーを蓄えられる人間と
付き合うのは、けっこう面白いからね。
目指そう、ソーラー型人間!!

2004年2月26日

使えるお金

お金があるのに、
使えない…
お金がないのに、
使える。
世の中には、不思議なことがある。
やはり、金は天下の回り物なのか、
それとも、感覚の問題だけなのかなぁ。
1,000円あるときに、
「それじゃあ、何も出来ないよ」と思うか、
「まだ、○○も買えるし、△△もできる」と思うかは、
その表れの一つでしょう。
そういう感覚が積み重なって、
お金があるのに使えなかったり、
お金がないのに使えたりする状態になるんだろう。
かく言う私自身を見てみると、
気づいてきたのは、
起業してからというもの、
同じ額が手元や通帳にあったとしても、
使える幅がなんとなく増えているように思う。
なんでだろう…
お金を生かせるようになったということかな。
多分、使い方の根本が、
消費でなく、投資になっているからだろう。
いや、株とかにお金を使っているんじゃなくてだよ。
たとえば、ラーメンを食べたいと思ったとき、
たしかに、おいしいラーメン屋を探すのは、
変わらないけど、食べて勉強になる、
その店のポリシーとか、雰囲気とか、対応を学べる店に
行くようになったから。
ちょっと面倒なことをするもんだ、
と思うかもしれないけど、
そういうところを見て食べるのは、
単なる消費でなく、
自分に対する投資として、
食べていることになる。
同じ行動をしても、
何かを吸収している。
別に、無理して意識しているんじゃなくて、
そういう知恵をかもしだしている人々の姿が、
とっても面白いから。
いかがでしょう…、
こんな見方で、お金を使うのは?
使えるお金が増えるはずです。

2004年2月13日

自分でつくる

何でも、自分でやらなければ
気の済まない人がいる。
下手でも上手でも、
自分でやってみるのが好きな人もいる。
自分でやるっていうのは、
いいことだ。
コストも時間も考えなければ、
いろんなことを自分でやってみれば、
いろんなことがわかるから…
庭で野菜をつくる、
パソコンで年賀状を印刷する、
日曜大工セットで棚をつくる、
などなど…
今は、自分でやりたい人のために、
超・本格的なものから、
少しだけ手を加えれば「自分で行った」感覚を
もてるようなものまで、
お店にはいろんなものが揃っている。
いちおう、行政書士のできる仕事となっている、
クルマの「車庫証明」の手続き。
10年前に、新車を購入したときから、
自分でしてみようと思った。
ふとそう思ったのだ…
ディーラーと商談をしている時に、
見積書に、確か1万5千円くらいで計上されていたな。
実際に、警察署へ行き、
手続きをしてみて、 ビックリ。
確か、2千円くらいで済んだ。
書類も1枚程度、簡単に書けたし、
時間も、そんなにかからなかった。
不思議なもの…
それを、専門家(?)と呼ばれる人間に頼むと、
1万5千円もとられる。
自分でやるって、こんなに得なのか。
という、本当にいい体験…
ま、何でも自分でやることが、
いつも、時間とコストを節約するとは限らないけど、
他人に任せている場合と、
自分で行った場合の違いをわかる上でも、
いろんなことにチャレンジしてみよう。
食事なんかも、いい例だよね。
人が作ったものには、いろいろ文句を言ったりするけど、
自分でつくってみれば、
出せる味、かかってしまう時間や材料費がわかる。

そこで、最終決断…
自分でつくるか、つくらないか。
この土曜、日曜は、
いろんなことを自分で試してみようか。

2004年2月12日

見返り

日本では、女性から男性へ。
それが、バレンタイン・デー。
そして、その見返り(?)を期待できる、
ホワイト・デーなるものが1ヵ月後。
最近は、義理チョコが減っていると、
聞いているが、それでも、
今が絶好の商戦とばかりに、
デパートもスーパーも、その他のいろんなお店も、
バレンタインの雰囲気がただよっている。
昨日は、休日だったから、
なおさらのこと。
バレンタインの特設コーナーには、
多くの女性がいた。
ま、アメリカは、
もともとがプレゼントを互いに贈りあう日だから、
比べるのはナンセンスかもしれないが、
ホワイト・デーという見返り(?)の日をつくるあたりは、
本当に日本人らしいなぁ、と思う。
そして、見返りは、モノかカネで。
誠意とかでは、なかなか分かりにくい…
というのが、日本の姿かな。
わたしも、その一人だったりして。
たしかに、モノとかカネになると、
分かりやすいもんね。
それで終わりって言える。
あるいは、足りないとなれば、
足りないと伝えやすい。
見返りは、どこまで求めればいいんだろうか。
親子、夫婦、兄弟姉妹…
こういう血縁で、見返りを考え始めたら、
一番ややこしそう。
そんなことを思う。

2004年1月30日

忙しくて、それどころ…

最近は、子どもでさえも、
「忙しくても、それどころでない」
という言葉を言うようになった。
だって、やっぱり、すごいよ。
塾に行っている子のなかには…
毎日、朝から晩まで、
分刻みのスケジュールらしい子もいるから。
冗談だろ、おおげさに言っているだけだろ、
と思っていたけど、
身近に、そんな子がいると、
有無を言わさず、実感させられる。
そして、不思議なもので、
ほんとうに小さい頃からその習慣に、
入っている子は、あまり違和感なく
続けていられるよう。
ま、さらに年を重ねたときに、
どうなるかは分からないけど…
まだ、子どもの時分に言う
「忙しくて、それどころでない」には、
そのスケジュール通りこなす以外に、
方法はないだろう、と思うけど、
大人になってからの
「忙しくて、それどころでない」には、
スケジュール通りこなしても、
追いつかない事柄がけっこうあるもの。
そして、それを根本的に乗り切る秘訣は、
「忙しいときにこそ、手をつけなければいけない」
ことがあったりする。
勉強であったり、能力・技能の向上であったり、
そこを高めていかないと、
何も解決しないんだな。
だって、忙しさが去れば、
その必要性、重要性もいっしょに
薄れていくから…
さらに、
「忙しいときにこそ、手抜きをしてはいけない人間関係もある」
それにも、また困っちゃうんだよな。
忙しさは、苦しみであり、
最大のチャンスのようです。
今日は、忙しくなりそうですか?
私は、そうみたい…
仕事しているんだか、していないんだか…(笑)

2004年1月29日

シンプルな生活

生活をシンプルに変えていくと、
だいたいはお金がかからなくなる。
ただ、その見返りとして、
何か物足りない、あるいは寂しさとして、
残ってしまう場合もある。
だから、シンプルでない生活、
ゴミでも何でも、いろんなものに囲まれて
生活していた方が安心だと感じる人の生活も
分からないでもない。
「何かで埋めている。
 いつも埋めている。

 誰かといっしょにいれない時、
 自分と向きあわないために、
 心を埋めている。」
 (もう消費すら快楽じゃない、田口ランディ)
やっぱり、人は寂しがり屋。
とってもきれい好きな人でも、
長い間、孤独を味わうことになったら、
周りの空間を埋めたくなるんじゃないだろうか、
なんて考えた。
知り合いに、本当にきれい好きな人がいる。
潔癖症というか…
外出先から帰ったら、必ず着替える。
訪問すれば、あらゆるものがピカピカ、
チリ一つ、間違いなくない。
そんな人でも、寂しさには、
勝てないんじゃないだろうか。
いろんなもので、自分の周りを埋める、
いろんなものを買いたくなってしまう。
すべては寂しさから…?
そういうシンプルな理解も、
あながち、間違いでもないように思う。
シンプルな生活が出来るかどうか。
自分とお金の関係を解くカギになりそうです…

2004年1月14日

なぜ高くても…

誰にでも、お金がいくらかかっても
欲しいものがある。
時には、買ってしばらく後に、
後悔してしまうこともあるだろう。
でも、やっぱり、
その時は欲しかった。
反対に、どんなに安くても、
たとえ無料だとしても、要らないものはいらない。
それだけハッキリと違いが生れる。
そして、個々人で、もちろん、その対象は違う。
私には思いもよらないものに、
多額のお金を使う人がいて、
私がお金をかけているもののなかには、
知人が首を傾げるものもある。
モノを買う感情って、面白い。
確かに買う前には、
いろんな理由を考えたり、
悩んだりするけど、
結局は、買っちゃう。
そして、納得のいく理由を前面に置く。
高くても買っちゃうんだよなぁ。
こんな不景気でも…
お金の使い方にメリハリをつけているということでしょう。
自分の価値観にマッチするものには、
お金をふんだんに使って、
それ以外のものには、
かなりの節約をする。
確かに、その方が楽しい。
しばらく、そんな時代になりそうですね。

2004年1月13日

成人式

今年の成人式も、
各地で荒れた様子。
成人式を破壊するために、
参加している…そんな感じの姿に、
かえって、成人式を重要視している雰囲気も感じる。
大きなことをしたい、
目立つことをしたい、
大人たちのつくった体制をめちゃくちゃにしたい、
自由にふるまいたい…
それを実現できるのが、
自分たちが主人公(?)になれる日、成人式。
ま、確かに、自分たちの気持ちを
破壊という活動でしか表現できない「脱コドモの新成人」も、
かわいそうだけど、
それを、自分たちのモノサシだけで
測りつづけようとする「脱コドモしたはずの旧成人」も、
かわいそうかもしれない。
旧成人は、成人式を
「オトナとしての責任を自覚をし、自立を決心してもらう」日、
なんていうふうに決めてきたかもしれない。
しかし、そういう旧成人だって、
「オトナとしての責任を自覚し、自立しているか」と
聞かれれば、本当の意味では、
どんなもんだか分かったもんじゃない。
というより、新成人から見れば、
自分たちの立場を、
「お金」「コネ」「体裁」で守っているふうにしか見えないかも…。
そのモノサシも正しいとは言い切れないけど、
100%間違いでもない。
「お金」「コネ」「体裁」も、
一瞬ではあるかもしれないが、
「破壊」の前では、無に等しい。
私個人の意見を言うと、
「成人式」なんてもう要らないんじゃないかな、と。
もっとシンプルに言えば、
お互いがお互いに押し付けるような結末に
なるスタイルは、やめればいい。
「祝ってあげている」「主人公だ」という感覚にも、
既にズレがあるのだから、さ。
責任と、自覚と、自立が、
式の前後でどれだけ身につくか、
考えてみれば、そんなに難しくない結論にも思うのだが…
ま、カタクルシイを敬遠するShuとしての意見でした。

2003年12月30日

自由になりたい

自由になりたい、
けど、なかなか思い通りにさせてくれない。
立派な親のもとで育てられた人々は、
そんな思いでいるかもしれない。
反対に、とんでもない親、表現は悪いが、
一人前になっていない親のもとで
育てられた人々は、苦労したなと思っているかもしれない。
思い通りにしたい、
苦労から解放されたい、
どっちの感情も、自立へのスタート。
そう思う。
先日、掲示板に、こんな投稿がありました。
すでに、ご覧の方もいらっしゃるかと思います。


投稿者:ねこき
投稿日:12/26(金)-02:50 No.3636

【いい言葉】
親に抱きしめて貰えない子は、
他人を抱きしめることが出来なくなるんだよ。

【コメント】
保母である母が、仕事の経験から言ってくれた言葉です。人は生まれた時から人なのでなく、親からたくさん愛されてこそ人になるのだと思いました。


投稿者:ぽば
投稿日:12/26(金)-21:27 No.3654


「親」という一つの存在だけじゃないと思います…。小さい頃は、親がイチバン身近な人が多いでしょうが、それだと親がいない人はどうなるのでしょうか。また、親がいても孤独感を感じてる人はたくさんいることと思います。
 私は、ある方に、「自分を愛するようにしてください」と教えていただきました。いろんな困難にぶつかる時、やっぱり自愛が大切なんだと思います。そしたら、他人を少しずつでも愛せるようになるんだと思います。そして、感謝を覚えて行くんだと思います…
偉そうなこと言いしよく言葉になってませんが…。親からのたくさんの愛だけが愛じゃないと思います…。気づくのに時間はかかっても…

親の愛、ま、それは有る無しも含めて、
いろんなものがあるでしょうが、
かたちはどうあれ、自分への愛、
「自由になりたい、自分らしい生き方でありたい」
という自立心をもたらすのでしょう。
そんな気がしました。
いい意味でも、悪い意味でも…

2003年12月29日

漫画家志望

昨日より、東京ビッグサイトにて、
アマチュア漫画家の祭典「コミックマーケット65」
(略称コミケット)が開幕した。
漫画家志望でないので、
「コミケット」という存在自体、知らない私でしたが、
記事を読んでいるうちに、参加サークル数35,000、
来場者46万人、という数字に、驚いた。
うちの子供も、私も大好きである「犬夜叉」を
描いた漫画家:高橋留美子さんも、
ここからスタートした、という話を聞いて、
そのパワーも感じた次第。
漫画家志望をキーワードに、
インターネットを色々調べていると、
日本全国には、
「漫画家になれたらいいなぁ」程度を含めて、
漫画を描いている人々は数十万人いるらしい。
ん?、ゲームを作りたい若者の数は、
そこまで及ばないかもしれないけど、
同じように、競争率が激しいもんだ、
と感じた。
競争率が激しい分、
日本のマンガ業界も、ゲーム業界も、
世界に注目されるレベルなんだろう、やっぱり。
いろんなもの(工業製品、電化製品、など)が、
アジア諸国に真似られる世界ではあるけど、
アメリカのハリウッド映画が真似られないのと同じで、
中身のみが勝負の漫画、ゲームだけは、
アジア諸国にもなかなか真似られないように思う。
競争率の激しいマンガ業界に、
夢を描いている若い人々。
おそらく、前途多難。
多くの人々が、
フリーターをしながら、あるいは、
極貧生活に苦しめられながら、
夢をあたためていることだろう。
それでも、
夢をあきらめざるを得ない人々も、
少なくないはず。
お金がついてくるようにしないといけないから、
夢を守るというのは、けっこう大変なんだな。
ガンバレ、漫画家志望の皆様!!
日本の未来のために。

2003年12月13日

別れる決心

こんなメールをいただきました。
(以下、本文)
はじめまして。
**と申します。
一言お礼を申し上げたくてメールいたしました。
メルマガを読み始めて数ヶ月。
いつも楽しみにしております。


人は、とても長い間、
見慣れた陸から離れるという覚悟なしに、
新しい陸を見つけることは出来ない。

(英語)
One doesn't discover new lands
without consenting to lose
sight of the shore
for a very long time.

(アンドレ・ジット)


この言葉を読んで、
3年半つきあった彼氏と別れる決心ができました。
趣味のあわない二人でも、
このままだらだらと付き合っていれば、人なみの幸せがあると。
お互い無理するコトも多々ありました。
最近では一緒に居ても笑いもなく、
淡々と過ぎていく日々でした。
もうすぐ20代半ば、周りはほとんど結婚していき、
親も焦っている最中で守りに入っていました。
そんな時に趣味が凄くあい、
自分が必要とする人が出来ました。
理想は期待だけの「塊」。
ズシンときました。
彼女がいる彼が振り向いてくれるコトはないのですが、
それでも期待してしまう自分がいるのは確かです。
新しい風に少しだけ流されてみようと思います。
本当にありがとうございましたm(__*)mペコリ
(本文、終わり)
別れる決心には、 いろいろあって、
必ずしも、今現在たしかなものが見えて、
別れるわけでもない。
かなりの勇気ですね。
打算的でない別れ方が出来ないと、
本当にいい出会いにはめぐり合えないような気がしました。
がんばれ?。

2003年12月12日

金の切れ目

お金が入ったり、
有名になったりすると、
いろんな「親戚」が増えたりする…
法的に言えば、
ふつう顔見知りなのは、
三親等内が限度でしょう。
(具体的に言えば、曾祖父母、叔父叔母、甥姪など)
場合によっては、
そこまで顔見知りという広がりのない人も、
いるだろうと思う。
それが、 思いがけずに、
お金、有名とかがかかわってくると、
親戚の血筋が急に濃くなってくる。
人って、ゲンキン…
反対に、問題の多い家族というレッテルを
貼られると、血筋が薄まってくる。
薄いほうがいいのか、
濃いほうがいいのか、
それは、その親族の本質次第だから、
なんとも言えませんが…
金の切れ目は縁の切れ目。
よく言ったものです。
ん?、どうだろう?
金で切る、あるいは切られるしかなかった縁もあれば、
金が切れてもつながった縁もあるように思う。
そんなふうに2つあるとするなら、
やっぱり、みんなみんな、
どっちの縁も持っているんでしょう。
そんななか、期待したり、
裏切られた気分になったり、
経験を積み重ねて、
本当の絆の部分だけが強くなる。
そんなふうに思います。

2003年11月28日

今日という日

昨日がどんな日であれ、
ちゃんと今日という日が来る。
これには、癒されます…
うまくいくことも、
なかなかうまくいかないことも、
そのどちらかまだ分からない
あいまいな位置づけの日も、
時にはあります。
それでも、ちゃんと新しい一日が来ますから。
ま、気分的に、
新しい一日、今日なんだって、
昨日を引きずることなく思えるには、
ある程度、精神的に強くなくちゃいけないけどね…
昨日、お気に入りのラーメン屋さんの前を
通り過ぎた時、今日の売上はどれくらい
いったのかな…なんて考えた。
若いオヤジ(?)さん一人で、
やっているラーメン屋さん。
毎日の売上に波があるだろうから、
敏感にもなるだろうし、
心が広くもなるだろうなぁ…
そんな想像をしていた。
本当は、人生全体が、
そんなもんだよね。
でも、大きな組織とか、大木のそばにいると、
ときどき、それを忘れたりする。
今日という日に、
何か前進しなくちゃいけないのに、
関係ないことで振り回されたりする。
ま、自分の思い通り進める日なんていうのは、
なかなかないだろうけど…
関係ない色んなことにも振り回されながら、
今日という日を、また迎えるわけです。
新たな気持ちで迎える決心だけ、しちゃいましょう。
もったいない今日にならないように。

2003年11月26日

宝くじの当たる確率

昨日から、年末ジャンボ宝くじが、
発売された様子。
現状からの「大逆転」を夢見て、
行列をつくる人々の姿が、
ニュース番組で報道された。
「あそこで買えば、当たる」
「この日に買えば、当たる」
「あの服を着て買えば、当たる」
などなど…
「当たり」にまつわる話は尽きない。
ま、その時々の売上数によって、
いくらかは変わるだろうけど、宝くじで
10万円以上が当たる確率は、0.02%
なんだそうです。
ふ?。
買ってはいないんだけど、
ちょっと気の遠くなる数字。
1万人に2人という計算だよね。
でも、「当たる人」も必ずいる。
それに自分がなる確率0.02%より、
それに自分がならない確率99.98%の方が大きい。
よく考えてみれば、
確率って、本当に不思議な話。
じゃあってんで、
主催者側が「確率を上げてやろう」となると、
当選本数が増える代わりに、
1等の当選金額が減っていく。
宝くじ世界の貧富の差が少なくなるわけだな。
そうなると、買う方の魅力がグンと落ち、
売上が伸び悩むことになるだろう。
大きな奇跡。ラッキー。ツキ。
仕事やビジネスに、ギャンブル性を求めるか。
結婚相手に、ギャンブル性を求めるか。
宝くじなどに、ギャンブル性を求めるか。
多分、人は、どこかで、
きっとギャンブル性の刺激を求めている。

2003年11月11日

お金はどこに…?

不景気とは言っても、
きっと、どこかにお金が転がっている、
そう思います。(笑)
ま、預貯金されているお金は、
しばらく、そのままかもしれないけど、
みんなの財布にあるお金は、
いろいろと巡って歩くわけで…
たとえば、昨日、
私がレンタル屋さんで払ったお金は、
そのいくらかが、従業員さんの給料になり、
その従業員さんの手から、買い物の際、
近くのスーパーマーケットのレジに入る。
レジのお姉さんは、そのなかから、
また給料をもらい、おいしいレストランで
デートして、食事したりする。
そこで儲けたレストランのオーナーは、
さらなる成長のために、
新たなメニュー作りの材料に、
そのお金をあてたりする。
そんな循環でいけば、
お金が途中で消えることはなく、
ずっとグルグル回って、
どこかに転がっているはずなんだけど…
お金が消えたように見える。
こういうことだと思うんだ。
世の中には、経済のレールがいくつもあって、
レールごとに、お金の受け渡し、引継ぎが
行われている。前述のレンタル屋さんから、
レストランのオーナーさんに渡っていく流れが
あるように。
ところが、ここに、
2つのレールを行き来できるAさんという人間がいて、
Bというレールで受け取ったお金を、
Cというレールに渡してしまったとする。
すると、Bというレールで巡っていたお金が、
グンと減る。不景気という感覚が増すわけだな。
しかし、Cというレールでは、
その感覚があまりない。
先進国と途上国の関係も、
もしかしたら、そんなものかもしれないけど、
このレール関係は、目に見える同じ国の中なのに、
見えない世界として、行われていることだから、
面白いというか、不思議な真実。
なんて言うんだろう。
それこそ、映画「マトリックス」のような二元的世界を
見ているように思う。
これを解消するには、
他の人々が、Aさんと同じように、
B,C双方のレールを行き来できる能力を身につけるか、
Aさんのような能力をもった他の誰かが、
CからBへお金を戻してくれなきゃいけない。
利用者の少ない○○コミュニティ・センターとか、
赤字運営の行政施設とか、
単なる 「箱」とも言える建物を見ていると、
そんなレールを感じる次第です。
お金は、どこへ行ったんでしょう…

2003年11月 7日

英会話を学ぶ

「出身県でわかる人の性格」
(岩中祥史著、草思社)にこうある。
「東北地方出身者は一般的に口が重いというが、
 ○○ に限ってはそうでもない。というか、
 ふだんは寡黙でとっつきが悪そうでも、
 ひとたび酒が入ると
 たいへん饒舌(じょうぜつ)になるのだ。
 これが同じ人なのかと驚くほどである。」
これから考えるに、○○県人は
酔っ払っている時に英会話を学ぶと、
効果がありそうだ。そうでない時は、
いくら学んでも、それを発揮する機会を
自ら逃してしまう。ん?、ちと情けない。
外国語を学ぶ時は、
考え方の変換を多いに求められる。
だから、「あ・うん」の呼吸とか、
「言わなくても分かるでしょ」とか、
そんな自分だけのコミュニケーション常識から
離れられない人は、
それを学ぶことが極めて難しいはずである。
つまり、言語は、言葉を学んでいるのではないのだ。
新しい世界へ入るための考え方を
学んでいると思った方がいい。
最近の事柄に置き換えるとすれば、
パソコンやインターネットの世界に入る感覚に似ている。
学習対象は、考え方なのだ。
英語を考え方という視点から見ると、
最も大きなポイントは、
「結論を最初に言う」ということだろう。
理由を並べて?・結論
という感じのコミュニケーションを
選択している人であれば、
結論・理由を並べる?
という具合に変えなくてはいけない。
時には、言いたくないことでも、
最初に言わなければいけないわけである。
その言い方には気をつけるとしても、
とりあえず、酒を飲まなくても、
それが出来るようになるところから
始めてみてはどうだろうか。

2003年10月24日

他人に振りまわされる

誰でも、最初に、
どんな人間関係を築いたかが、
後々まで続くお互いの力のバランスを
決めるように思う。
そして、他人に振りまわされる場合、
っていうのは、やはり、その他人、
つまり相手に弱みを握られたとか、
最初に依存から始めたとか、
自分の理想が間違っていたとか、
そんなケースが多いことだろう。
何にせよ、振りまわされるのは、
嫌なことですよね。
言葉で言っちゃうと、簡単ですが、
振りまわされ始めたら、やっぱり、
逃げりゃあいいんです。
つまり、その相手から自立できる環境を
選ぶようにすればいいんです。
でも、人間の生活では、
それがなかなか出来ない場合も多いというのは、
本当にジレンマです。
ま、何か大きな損失でさえも覚悟できれば、
すぐさま、それが出来るのでしょうけど、
その損失の先に、新しい幸せを見いだせなくて、
ズルズルといってしまう…
それで、振りまわされる側の人間は、
次第にウップンが溜まり、
とうとう爆発することになります。
爆発する前に、いろんな選択肢が
多分、あったのでしょうけど、
それを見過ごしてきてしまった…
結果的には、その見過ごしが、
大きな分かれ道だったりしますから、
それこそ、振りまわされる側が
爆発行動に移った際には、
とんでもない事件になったりもします。
もったいないことです。
いろんな選択肢があった時点では、
少しなりとも穏やかに進めた可能性も、
それを見過ごし、爆発した時点では、
大きな転換を図らない限り、
進んでいけない状況になっているからです。
誰かに振りまわされ、
それが嫌だなと感じている時には、
自分の心のためにも、
早く対処を考えましょう。
人間は、自分の心は強いと過信してしまう場合が
けっこう多いのですが、意外と、もろかったりします。
そのもろさを、自分にごまかし続けていると、
あとあと、たいへんになりますよ。本当に…

2003年10月23日

生活苦に重なる出費

出費には、いろんなものがあって、
たとえば、ほとんどの家庭で必要とされるものから、
そうではないけど、使っているうちに、
その家庭では「なくてはならないもの」と
思われているものまで…
本当に必要なものを買うのでさえ、
かなり大変なご家庭に、
遠く離れて住む兄弟の不幸が重なった、
という話を聞いた。
かなり遠い場所に住んでいる奥さんの兄弟の死。
しかし、家計は、そこに行くまでの交通費でさえ、
捻出できない状況。
不幸の連絡が入った当日、
奥さんは、葬式に参加したい気持ちを確認し、
ご主人は、お金を借りるために
奔走することを選んだ。
既に、いろんなサラ金業者から、
借りているため、さらなる借金を、
どこに借りに行ったのか、
奥さんでさえも、分からない。
しかし、そんな不安よりも、やはり、
兄弟の死に顔を最後に見たい、
葬式に参加したいという気持ちの方が
勝っている。
人の感情というものは、
時に、難しい選択を迫られます。
そして、それは、バランスを欠く行動で
あったりもします。
「じゃあ、どうすればいいのよ?」
という問いかけもあるでしょうが、
自分がその立場だったら、
やはり、答えが難しいです。
「そうならないようにする」
なんていう答えは、
意味を成さないような気もしますし。
人間が、幸せと不幸、どちらに対しても、
その思いを心のなかだけで示し、
また周囲もそれで理解してくれたら、
だいぶ楽な気もしますが、
人間は、そんなふうにつくられていないところも
ありますからね。
死に顔を拝むことが、
返せない借金をふくらませる不安より
勝ったことが、なんとなく理不尽に思え、
その話を聞き、しばらく考えた次第でした。

2003年10月 8日

美しき自立

去年のコラムだけど、
「自立した女性」というものを書き、
けっこう評判が良かったのを覚えている。
自立した女性というと、
何か、バリバリのキャリアウーマンが
想像されやすいけど、そういうスタイルは、
むしろ、「自立」とは違うものじゃあないか、
と思う、私は。
バリバリのキャリアウーマンのなかには、
なんとなく、男社会の風潮というか、型に
はめ込まれて生かされている感じに
見える女性もいたりする。
以前の会社で、中国出張した時に、
そんな雰囲気を最も感じた。
中国は、一人っ子政策だから、
やっぱり、「働いて当たり前」というか、
そういう理想像というか、型が、
キチンと波及している。
共産主義のせいか、何かは分からないけど、
オトコ社会が、女性にも強く
浸透していた印象が忘れられない。
ただ、その良し悪しは、私には分からない。
それが好きで、また、それが自分に合っていて、
その型に、自分をはめ込んでいるのだとすれば、
何も問題はないが…
もし、知らず知らずのうちに、
はめ込まれ、息苦しく生きているとすれば、
見た目の「自立」とは違った現実が
あることになる。
で、私が思う「美しき自立」とは、
そういう世の中の価値観とは違った、
とは言っても、世の中にちゃんと通用する
自分独自の価値観を持って、
自分の生活をちゃんと生きていること。
男だから、女だから、あるいは、
会社に勤める人間だから、主婦だから、
というような既存の価値観にしばられず、
自分の役割として、それに楽しみを見出せることが、
美しき自立だと思う。
そんな自立を果たしている人は、
やっぱり、美しい。
やっていること、行動に、
賢さが光ってくる。
バリバリのキャリアウーマンだった女性が、
結婚し、家庭を持ち、子育てを始めた時に、
ちょっと一息ついたり、少し疲れたりすると、
虚しさを感じたりすることもある。
あるいは、
再び、社会の第一線に出て働きたくなる心境が
もたげることも…それは、普通のことだと思う。
そこで、何をモノサシにして、
選択するかが「自立」への別れ道。
何を選択するか、でなく…
そして、その結果に
責任をとる覚悟も必要だろう。
だから、バリバリのキャリアウーマンだった女性が、
家庭におさまって、いろんな葛藤がありながらも、
料理や家事に「生きがい」を見つけたとしても、
美しき自立に見えるんです。
社会に認められたい気持ちが
悪いわけではありません。
ただ、自立って言うのは、
それだけじゃあないと思うんですよ。
だから、美しく見えるのも様々なんです。

2003年10月 7日

2割が貯蓄ゼロ

先月22日のニュースに、
「貯蓄ゼロの家庭が、全体の2割を超えた」
というものがあった。
驚いた、その時は。
国ばかりか、家庭にも、
貯蓄がなくなっているという実態に
感じたが…
貯蓄のある家庭では、
その平均額が1,460万円ということで、
こちらは上昇しているらしい。
(この額を聞いて、かなり驚いた友人がいた。
 自分自身と比べて… )
これって、「貧富の差が激しくなった」
と言うのかなぁ。
自分も含めて、何気なく、
すれ違う人々の5人に1人は、
貯蓄がない、てことになる。
(ま、厳密に言えば、5世帯に1世帯だろうけど…)
最初、この貯蓄ゼロというのは、
所有しているプラスとマイナスの財産を
差し引いたものだろうと思っていたが、
どうも、本当に貯蓄ゼロのことらしい。
ということは、少なくとも、
ローンとかのマイナス財産が
含まれていないわけだから、
実際の割合は、もっと多いことになっちゃう?!
そういう状況でも、
平穏に暮らせるということは、
日本人が精神的に強いということなのか、
経済システムがうまくごまかしているのか、
ん?、なんとも言えない。
ただ、何かしら見えない爆弾を
持っているような感じ…
なんとも言えない怖さ。

2003年9月20日

疑いに耐えうる強さ

世の中が物騒だから、
日常生活していると、
思いもよらないことで、
疑われたりする…
ま、ほとんどは、放っておけば、
何ごともなく済む話であるが、
気になると、やはり、
弁明に走りたくなる。
なんとか、理解してもらいたいという一心で…
人の理解とは何だろうか、と思う。
そもそも、その理解というもの自体が、
怪しむべきものじゃあないか、と。
今年の春の始めだったと思う。
自家用車のドアをキーロックしないで、
次の朝を迎えてしまった。
奥様が、クルマを使おうとして、
エンジンをかけに行くと、
何か浮かない顔で帰ってきた。
「○○○(三女)が、昨日、乗っている間に、
 唾でもとばしたのかなぁ?。」
と言う。初めは、何を言っているのか、
分からない私…
「何か、クルマの中が変なのよ。
 汚れているというか、唾がついているというか…」
「ん?」
そんなぁ…と思うが、車庫のクルマに行ってみる。
どうやら、事実だ。そして、三女が犯人でもなさそうだ。
ちょっと、酒臭い…
きもちわりぃ?。
最初は、誰かのいやがらせかと思った。
あとは、何か不審者のしわざ…
もう一つ考えられるのは、
通りがかりの酔っ払いが、
自宅に帰る途中、 疲れて、
あるいは眠くなって、
仮の宿を求めているうちに、
ロックされていない自動車を見つけ、
朝方まで眠っていた?!…
気持ち悪がる奥様を横に、
いちおう、交番に電話をしてみた。
「ここ数日、不審者や変質者の情報は、
 ありますか?」
「どうしてでしょう?」
いきさつを説明する。すると、また質問。
「それで何か、今現時点で、困ったことは…?」
「何か、気持ち悪くてねぇ。」
「そうですか…」
続く会話でも、何となく、
しっくりこない気分だけが積み重なる。
そこで、気づく。
あ?、この人、私のことを、、
「ちょっと変じゃないか」と疑っている…
そっかぁ、まずは疑うことが、
この人(警察官)の仕事なんだろうね。
ちょっと不快な気分が残ったけど、
彼の仕事上、しょうがない性質と考え、
伝えるだけは伝えて、電話を切った。
やっぱり、疑われるっていうのは、不快だ。
そして、その疑いは、だいたいが、
自分という人間を見て、言っているのでなく、
相手の固定観念、先入観から生まれる。
だから、それに理解を求めるのは、
間違いなんだよ。期待しすぎ…
なんか寂しいことだけど、
そういう世の中なんだよな。
私が自分や家族を
守りたいのと全く同じ理由で、相手も、
自分を守りたいんだから。
疑われても、しょうがないんだよ。
こっちが強くなるしかない!!
ま、幸い、その件は、
それ以降何もなし。
酔っぱらいのしわざだったんでしょう。

2003年9月19日

無担保

無担保で借りられるお金って、
便利だよね、確かに…
自分の何が犠牲になっているか、
あるいは、
自分の何が奪われる危機に瀕しているか、
あいまいになっちゃうから、
心理的負担が少ない。
たとえば、マイホームとか、
何かの財産が担保に入っていれば、
やはり、ちょっとは気になる。
ま、それだって、
慣れてくると、鈍くなるんだけどね…
今は、少なくなっただろうけど、
質屋の存在も同じ感じ…
大事なもの、 大切な宝物と
思っていたものを手放してしまえば、
確かに、取り戻そうとは思うけど、
やはり、少しは鈍くなっちゃう。
それでも、無担保の比ではない。
こんなふうに考えれば、どうだろう。
無担保でお金を借りるっていうのは、
自分の「魂」を売ったようなものだって…
でしょ?
返せなくなったら、
その催促に、魂は束縛される。
心配だけが、いつも心にある状態。
明けても暮れても、また借りる方法はないか、
と探し出す…
まさしく、「魂」を売ったのだよ。
それは…
賢明な人は、一度の苦労で、
おそらく、「魂」を買い戻す大変さを知る。
ずる賢い人は、逃げる方法を見つけ出す。
それだって、失った「魂」は取り戻せない。
いつまでも、どこまでも逃げなくちゃいけないし、
自分の「魂」に再会するチャンスすら、
なくなっちゃう。
魂の値段って、そんなに安いんだろうか。
みんながみんな、そうじゃないだろうけど、
少しばかりのプライドのために、
「魂」を売ってしまった人々を見るに、
そんなことが、頭の中にもたげてきます。

2003年9月 3日

派閥はいらない

会社に行けば、△△派閥、
政治を見れば、○○派閥、
隣近所でも、××派閥。
何の派閥にも属していない私は、
ハッキリ言える。
「派閥はいらない。時代遅れだ。」
なぜ、群がらなければいけないのか。
数や力が隆盛を極める時代も確かにあろうが、
それも、いつかは、必ず崩れる。
そんな一時の力や場所を得るために、
派閥というものに参加していて、
何の意味があるんだろう…?
そんなものにこだわって、
どんな益があるんだろう…?
そんなことを思う。
いや、その派閥と人生をともに
浮きも沈みもずっと過ごす決意があるのならいい。
しかし、一時のものを手にするために、
加わっているだけなら、
かえって身が危ないと思う。
たとえば、自分でないとしても、
その派閥に属する人間が何らかの問題を起こしたとき、
おそらく、
「その人は最近、変だったから、
 除名しました。」とかになる。
しかし、それを機に、
その派閥の結束は弱まる。
ただ一人の除名だけでは、
派閥に対する信頼感、依存感は、
戻りえない。
みんな、自分の身を守るために、
派閥に属しているわけだから、
その自分の身を守れないところに
とどまる必要はなくなるわけだ。
本当に、その派閥と人生を共にする決心を
している人以外は…
派閥はいらない。時代遅れだよ。
絶対に…
何度も群れては、何度も散っていく。
その繰り返し。

2003年9月 2日

文字の値段

文書の様式というのは、面倒くさいもの。

内容がたいしたものでないとしても、
たとえば、作ったときは見るけど、
それ以後は、1年に1回見ればいいくらいのものでも、
こんな様式で、というルールを決められたりする。
そのルールというのも、
何かしら、強い根拠があるわけでなく、
最初に誰かがそう決めたから、
なんていう場合すらありえる。
確かに、いろんな人間が、
自分勝手にいろんな様式で、
同じような申請や請求をされたら、
そういう窓口業務が専門のお役所は、
とても 面倒くさいという感じになるだろう。
ところが、である。
昔、昔、それこそ、
平安時代、あるいは江戸時代でもいい。
貴族、あるいは公家と呼ばれる人々が、
行っていたお役所仕事というものは、
そんな様式についてのあれこれだったろう、
とよく聞く。
たとえば、「て」「に」「は」「を」の文字の使い方である。
この文書のここには、「て」だの、
こちらは「を」だの、そんな話のやり取りで、
お役所仕事の大半が過ぎていく。
そのために、税を納めていた当時の人々は、
たまんないね。まいった、まいった…
その「に」なり、「を」なりを生み出す時間が、
今のお金にすると、1万円、あるいは数十万円に
なったことだろう。
言葉は大事だし、みんなに分かりやすく
読んでもらうためには、もちろん、
文法なり、様式も大事だけど、
それだけにしがみついて、
仕事を増やしていたら、
本当に大切な仕事が出来なくなっちゃうよ。
文字の値段より、中身の値段をあげたいもの。

2003年8月18日

嘘つきと泥棒

ずっと分からなかったんだけど、
どうして、
「嘘つきは泥棒の始まり」と言うのかなって。
それが、先日、ひらめいた。
いや、多分、ひらめいたってほどの
ことじゃあないかもしれない。
既に、誰かが言っていることかもしれない。
ただ、私的には、
なるほど、と思えたから、
書き残しておく。
嘘つきは、何も盗んでいないようだけど、
盗んでいたものがあったんだよな。
それは「他人からの信用」を盗んでいた。
本当は、嘘をついている以上、
信頼されるに値しないのに、
それを手に入れている。
嘘がバレルまでは、
その「他人からの信用」を
盗んでいられる。
だから、そこで盗みを働いている以上、
次の盗み、本当の盗みにも、
手を出しやすくなっている。
心理的な障壁が既に低い…
やっぱり、こんなことは
誰かが言っているよね。
そんなことはどうでもいいから、
自分の発見に気をよくしているShuです。
そっか、考えてみると、
不倫とかも盗みなんだよね。
近くで不倫している方、いませんか?
その人って、けっこう嘘つきだったりしません?
私の理由付けが当たっているとすれば…
嘘は止めよう、
本当の盗みになる前に。
そして、あなた自身が、
嘘に盗まれないように祈る次第です。

2003年8月14日

土下座

土下座をされて、
「そこまでされたら、感無量ですね。」
というコメント。
これは、テレビドラマ「西部警察」の
撮影中に、スポーツカーが暴走し、
その車に衝突されて、
ケガをしたファンの一言。
土下座というのは、
そこまで効果がある。
と言うか、何の言い訳もしないで、
ひたすら謝罪する姿に、
ファンはかえって、恐縮する。
やはり、始めに、
好意があっての謝罪だからだろうが、
言い訳を一切しない姿には、
見習いたいものがある。
昨日、私も、あるシーンで、
言い訳したよな。
「別に、やりたくて、
 やってるわけじゃないから。」
その言葉を口から出した瞬間、
自分でも、あらあらと思ったよ。
だったら、最初から、
やらなければいいじゃん、って。
引き受けた以上、
それが始まった以上、
やはり、言い訳は出来ない。
言い訳したら、
積み重ねたものが、
いっきに崩れ落ちる…
目の前の人間に、
理解されるために、同情されるために、
小手先の言い訳を使うなんて、
やっぱり感心できない。
そんなのは、テレビでも、周囲でも、
よく見ているはず。
政治家が逮捕されそうな時、
上司に責任追及が及びそうな時、
ああはなりたくないな、と思いつつ…
いざ、自分がその立場に立たされると、
思わず口から出てしまう言い訳。
ん?、渡哲也さんの土下座に、
関心していました。

2003年7月30日

いやな顔

顔ぶれ、という言葉にふれると、
顔は、やっぱり重要なんだよな、
って気づかされる。

足でも、手でもない。
まず、一番に個性が表れる顔。

人の顔をとやかく言う資格はないけど、
昔の表情と比べて、
なんか「いやな顔」になっちゃたよなぁ、
って思う人がいる。

そう思わされた時、
はたと自分の顔の筋肉が固定化していないか、
思いっきり口元をあげて、
試したりする自分がいる。

テレビに映し出される政治家の顔は、
私のいい「教師」。

なんでだろうね、よく分からないけど、
やっぱり、顔の筋肉が固定化したような表情になる。

まぶたが目を覆い隠しているように見えてくると、
間もなく、口元があがりにくくなっているように見える。
そして、めったにあがらない口元があがる時には、
なんとなく、自然でない笑みに見えたりする。
多分、そんな人でも、
何気なく、思いっきり笑わせられる瞬間が
あるだろうけど、お決まりの場所では、
お決まりの表情となる。
「この人も、いやな顔になっちゃったなぁ」
そんな言葉が思わず、漏れる。
で、自分の顔の筋肉を動かす訓練を始める。
体に贅肉がつくよりも、顔の筋肉が固定化する方が、
もっともっと怖いことのように思える昨今。
もともと、欧米人とかに比べると、
表情が乏しい日本人だから、
というか、それが美徳と
されているところもある日本社会だから、
これは、要注意事項だと思う。
ああ、いやな顔にはなりたくないなぁ。

2003年7月28日

所有欲

人間の所有欲。
これが原動力ともなれば、
これが足かせをつくる原因にもなる。

やっぱり、日本人のマイホーム信仰は、
なかなか消えがたいよね。
車を運転していると、
新しい住宅タウン、
新築中の家が度々、目に入る。

この不景気な世の中でも、
また、建築業界が息切れしているとは言え、
ちゃんとローンを組んで、建てる人は建てる。

「自分のモノにならない借家(またはアパート)に、
 ずっとお金を注ぎ込むのはもったいない。」
そういう感情は、やっぱり、ぬぐいきれない。

家をもつプライドで建てる人もいるだろうけど、
やっぱり、城をもちたい所有欲が
強いんだろうなって思う。

まして、自分の知人達が、
次々と持っていく姿を見ていれば、
遅れまいという気持ちは強まってくる。

そういう所有欲が原動力となって、
前進しているうちはいい。
しかし、そこに入居してみたものの、
家族関係でも、人生でも、仕事でも、
なんかしっくりこなくなると、
その所有欲は「足かせ」をつくったに過ぎない、
というケースも出てくる。

ん?、所有欲は恐るべし。
人生を狂わす。そんな人々を、
数多く見る時代になってき