なんで、
この人に怒っているんだろ、
っていうことを
冷静に考えたときに、
自分が他人にしてしまう行動を、
自分にやられてしまった時だ、
と気づくことがあります。
せっかちな私は、
質問されたことについて、
ちゃんと答えることなく、
その答えの後に、
さらなる質問が来て、
それに対して言わなければいけない答えを、
先走りして答えていたりするんですよね。
「今日は元気?」
「ああ、元気だよ」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれる」
「それは、ちょっと無理です」
みたいな流れになるはずが、
「今日は元気?」
即
「それは、ちょっと無理です」
って答えを返されたら、
相手は、イヤですよねぇ。
なんか、畳み掛けられている感じ。
やっちゃうんだよなぁ。
で、昨日は、私がやられてしまった。
はははは...笑
イヤナモンデスネ。
そんな会話。
そして、やられてみないと、
自分の嫌さ加減が分からない、
という自分も、つくづく、バカだと思う。
人は、自分に似ている人間を見て、
自分の嫌さ、欠点を初めて見つけられることも
多いんでしょう。
それ以外にも、見つけられるチャンスは、
いろいろあるんでしょうけど。
これから、私は、
私に似た人間に何人、出会うことだろう?
ちょっと怖いな。
世の中、
タテのつながりと、
ヨコのつながり、
っていうものがあって、
タテというのは、
なんとなく、権力というか、
力の上下関係がいくらかでもある
ようなイメージにとらえられて、
ヨコというのは、
その力レベルが同じとか、
力関係がないところで、
役割や方向性が違うもの同士の関係、
というイメージを持っている。
どちらのつながりがいいか、
っていうのは、きっと、
人それぞれの個性や志向に関係していて、
その人がタテ社会で生きてきても、
やっぱり、ヨコにあこがれることもあれば、
タテ社会に慣れているから、
タテのつながりのほうが気楽だ、
っていう人もいます。
ヨコのつながりについては、
だいたいにおいて、依存しなければ、
タテほどのしがらみは生まれにくいから、
そんなに息苦しくはないかもしれないけれど、
場合によっては、
求心力を失い、
力が分散してしまって、
うまくいかない、
っていうこともあるんでしょう。
だからっていうことで、
もっと堅固な組織を作ろうと、
「力」が入り込んでしまうと、
ヨコ社会が、いつの間にか、
タテ社会になっていくということもありえる。
何らかの力がないと、
人は、まとまらない。
けれど、力が入りすぎると、
そのまとまりは、カタチだけのものに、
なりやすい。あるいは、
その力から逃げていく人を増やしてしまう。
タテとヨコのつながり、
そこに、どれだけの力を注ぎ込むか。
現代人は、自由な傾向があるゆえに、
意外と、むずかしいなぁ、と感じる今日この頃です。
人を好きになるって、
簡単なことであって、難しいこと。
嫌いになるのも、
きっと簡単なことであって、
難しいこと。
心は、ころころ変わるから、
変わらないようにするのが難しいけれど、
振り子のように、
好きな方に振れるのも、
嫌いな方に振れるのも、
ちょこちょこと出来ちゃう。
だから、
がんばらなきゃいけないのは、
好きなときに、
嫌いな方に振れないよう、
その振り子を
ちゃんと自分で持っていることだと思う。
だって、
嫌いな方に振れてしまったら、
もう、好きな方に振らせる努力すら
意味ないものに感じるだろうし、
そんな努力をするわけなんかない。
コミュニケーションってもの1つを
とってみても、
それを嫌いになってしまったら、
何もしなくなる。
それが楽だし、
ストレスも心労もないだろうから、
どんどん、嫌いになっていく。
コミュニケーションから、
いったん遠ざかってしまうと、
それを好きにならずとも、
コミュニケーションをするということに
戻ってくるのは、きっと難しいはず。
人も、物事も、
好き嫌いがないうちに、
どんなものかを知っていたほうが楽。
面倒くさくなって、
嫌いになりそうになってからじゃ、
なかなか難しい。
何気ないことで、
嫌いになることは多いから。
逆にいえば、
人の好き嫌いなんて、
そんなこともあるから、
あんまり当てにならないんだよね。
「○○が、すっごーく好き」
という言葉も、明日には、意味ない、
ってことも少なくないだろうから。
好き嫌い、ホントはどうでもいいことなんだろうかな。
今の世の中、
変化が激しいから、
これだ、って思うことに、
あんまりにも本気なりすぎて、
それがハズレてしまった場合に、
フットワークが重くなっていると、
ハズレてしまったことよりも、
次の行動ができないことのほうが、
重傷だったりする気がします。
ハズレ、失敗は、
よくあること。
あって当たり前のこと。
もっと大切なのは、
その後の行動。
だから、気持ち的には、
かるーく本気で
がんばっている状態が、
ベストなんじゃないかな、
って考えています。
すると、ハズレだったことにも、
次のヒントが見えてくる。
ハズレを、あんまりにも、
落ち込む必要もなくなる。
ハズレても、
次のチャンスが何かあるかもしれない、
ということに、アンテナを敏感にしていられる。
人は、どうしても、
自分のポジションが気になる存在なんだな。
1番か、2番か、それとも、みんなより前か、
後ろか。そういうことばかりを、
本気に考えて、気にしている。
けれど、かるーく本気になれば、
そんなポジションよりも、
大切なことが見えてくる。
今のポジションに、しがみつくのが、
けっこう危ないって分かってくる。
つまり、フットワークの軽さって、
ホント、大切だなぁって思う。
スポーツでも、仕事でも。
これで、決まったぁ~!!、決まりだぁ~~!!
って思っているときが、一番危ない。
きっと、フットワークが重くなっているから。
「なんか、ダメっぽいな。
次は、何をしようかな。」
こう考えられる状態のときが、
一番いいのかもしれない。
もうすっかり、
バンクーバーオリンピックの
空気は、ぶっ飛んでいる世間。
金メダル、金メダルと
騒いでいた世間も、
この国日本では、もう騒がない。
ほかの国々はどうだろう?
金メダルをとった人は、
今なお、ヒーロー扱いかな。
いろんな場面で、
引っ張りだこかな。
そんな中、
銀メダルっていうのは、
どうなんだろう?
2番手、っていうのは、
なにかいいことあるんだろうか?
ナンバー1というのは、
注目の的にもなるけれど、
嫉妬のターゲットにもなる。
足を引っ張られることもある。
そこにいくと、
ナンバー2というのは、
微妙に、同情されたり、
共感をもらえたりするところも多い。
年末恒例の漫才グランプリを決める、M-1。
2008に、チャンピオンになったのは、
NON STYLE(ノンスタイル)だったけれど、
年を明けてからの2009年という
1年をふりかえってみれば、
2位だった、オードリーのほうが、
注目された。
これは、2番手だったから、
というわけでもないだろうけど、
2番手でも十分に、
何かいいことがある、
っていう、一つの証拠だ。
これに限らず、
いろんな歴史を
ひもといてみても、
ナンバー2が、
うまく世渡りしていることは、
少なくない。
きっと、ナンバー1、頂点に立てる人は、
かなり個性的で、敵をつくってしまうタイプが
多いのに対して、
ナンバー2という立場の人は、
そういう人たちの下で、
いろんな対応能力を養っていくだろうから、
柔軟性があるかもしれないな。
ナンバー1がねらえなくなってきた自分を感じたら、
ナンバー2をねらっていこう、なんて考えている最近です。
でも、実際は、ナンバー2も難しいんだな。
ナンバー3、ナンバー4くらいになってしまいそうだ。
身内の人間との会話は、
とてもイライラする。
なんでだろう?
同じことを言われても、
きっと、身内の人間に言われると、
あ、そうか、
とはならない。
うるさいなぁー、
と思ったり、言われたりして、
おしまい。
それは、きっと、
10代とその親の関係ばかりでなく、
20代とその親、30代とその親、
40代、50代でも、きっと同じなんだろう。
親との会話は、
イライラするのが定番。
イライラしない親との会話には、
どんなコンテンツ(内容)があるんだろう、
と考えてみれば、
おいしい食べ物の話とか、
繰り返しじゃないうわさ話とか、
前に話してない面白話とか、
そういうものだと思います。
それ以外の話になると、
特に、互いの行動とか性格の話では、
イライラしだしてくる。
そして、不幸なことに、
身内の、そういうことこそ、
口にして言いたくなってくる。
いやなクセ、フシギな行動、
もったいないやり方、恥ずかしい姿、
などなど。
身内で、距離が近いからこそ、
目につくこと、それが一番イライラするし、
それを口にすると、イライラする話題になっちゃう。
さらには、
身内だからこそ、
話をよく聞いてくれないから、
そのイライラは積もり積もっていく。
身内との会話は、
なかなか、うまくかみ合わないものですね。
もっと、楽しくできたら、楽しいはずの相手でしょうが...
世の中に、親子との会話を楽しめている人々は、
どれくらい、いるかなぁ。
キャンセルをしたときに、
返金がされるまでは、
ちょっと、というか、
かなり心配になってしまう。
キャンセルするんだったら、
最初から契約しなければ、
と思うのだが、
オプションとかが
最初の2ヶ月は無料だから
自動的に付いていて、
不要だったら、
後で解除できます、
っていうみたいな契約、
ってありますよね。
あと、会費が最初から
自動的に積み立てられていて、
参加しない人には、
あとで返金します、
みたいなものも...
いずれにしろ、
本当に、お金を戻してくれるんだろうか、
っていう不安がもたげてきます。
実際、戻ってこなかったから、
まあ、いいや、って思えるくらいの額でも、
そんなことを思ってしまうこともある。
なんて、ちっちゃい心なんだろうな。
ケチなんだろうなって思います。
けれども、人って、
自分では、それ以上の額を
捨てるように使っているのに、
自分の意志じゃなく
出ていってしまうお金でも、
労力でも、時間でも、
やっぱり、もったいなく感じることが多い。
自分の意志で、
捨てるものならいい。
どんだけ高額なものでも。
でも、自分の意志に反して、
奪われるものについては、
とても敏感になってしまう。
申し込み自体が、
自分の意志じゃなかった時には、
(強制、付き合い、義理とか)
なおさら、キャンセルと返金に
敏感になっちゃうんでしょうね。
買っている本なんかに、
その人の嗜好が表れるのは、
当然といえば当然だろうけど、
掃除をする、という仕事ひとつをとってみても、
性格が表れるなぁ、ってことを思った。
なんていうか、
マニアックな掃除をする人と、
一般的な掃除をする人と、
っていうのがいると思う。
一般的な掃除っていうのは、
たとえば、その人の玄関に入ったときには、
とりあえず、見えるところが、
それなりにきれいなんだろうと想像する。
マニアックな掃除をする人は、
下手すると、玄関からのそういう眺めは、
それほどきれいじゃなくても、
家の中の、あるポイントだけは、
むしょうにきれいだ、という感じ。
それは、気になったところを、
そこだけ、とことんやってしまう、
という性格だからでしょう。
その「気になる」ところが、
その時々、移り変わって、
そのうち、全体を移り変わるようなものであれば、
結果的には、全体がきれいになるはずなのですが、
そういう全体にいくまえに、
とても細かいところだけに熱中する傾向があれば、
やっぱり、ポイントポイントしか
きれいになることができず、
全体的に見れば、ところどころに、
きれいじゃないところが残るわけです。
玄関に入ったときには、
なんだか、汚れているところが、
目に入ってくる、という感じ。
なにかを始めると、
思わず、マニアックになってしまう人にとっては、
しょうがない現象なんでしょうね。
全体を、さーっと出来ない性格。
うーん、そういわれてみれば、
私にも、その気があるので、
全体を見る目を失っちゃいけない、
と思う今日この頃です。
代わってあげたい、
と思える優しさは、
きっと、
代わってあげない方がいい、
という厳しさと同じ愛情に
通じるんじゃないか、
と思います。
今日は、いよいよ、
長女の高校入試。
まもなく、向かうところです。
ついでに、次女もテスト。
こっちは、昨晩、コンパスが壊れて、
今朝になって、コンパスを2個もっている友達に、
借りるためのお願いをして、
事なきを得た様子。
長女にしても、
なにかパニックとなるようなことは
起きるかもしれない。
起きないことがないなんて、
思わないほうがいい。
そのパニックにぶち当たったときに、
近くにいれば、代わってあげたい、
俺だったらこんなふうにできるのに、
と思ったりするところですが、
残念ながら、
今回ばかりは、
そんなシーンを間近に見ることが
できません。
やれることは、
おだやかに、自分のなすべき今日の仕事を、
ちゃんと、こなすだけ。
実際は、昨日も、今日も、
相変わらずの1日にしか過ぎないけれど、
人の心が、どんだけ注ぎ込まれるかで、
違った1日になっている。
ああ、自分のことより、
ちょっと、気になってしまいます。
自分のことのほうが、
ちょっと楽だな。
たかが高校入試、
されど高校入試。
これからもあるだろう、
いろんな関門の1つに過ぎない。
がんばれ、がんばれ。
受験じゃない人も、みんな、
今日は、がんばってください。