うちの妻が私に尋ねる。
「あなた、見える?」
「おれ、見えない。」
「おまえは?」
「見えはしないけど、
感じることはあるよ。」
幽霊について、
そんなことを言うから、
ちょっと、ゾクっとした。
生まれつき、怖がり屋の私は、
会話の中にさえ、
ちょっとした幽霊を感じてしまう。
けれど、見たことはない。
見えない幽霊を怖がり、
見える人間を、ちょっとなめている。
しかし、経験上は、
見える人間の方が、
見えない幽霊より怖いのだ。
だまされもするし、
利用されたりもするし、
おどしたりもする。
怖がる相手を間違っちゃいけないな、
と妻の言葉を聞いてから思った。
怖がらなければいけない相手を
カンタンに信じてしまったり、
信じていい相手を、
疑ってしまったり...
人間は、何かにとらわれていると、
見えるはずのものが見えなくなり、
見えていないのに見えているような気がしてくる。
本当に怖いのは、
そんなふうになってしまう、
自分という人間かもしれない。
人を見る目は、やっぱりあった方がいい。
うわぁ、すっげぇ、
この人と気が合う~~!
っと急速に盛り上がりを
感じる人、相手と出会ったりします。
何を言っても、
そう、そう!
という感じで、
相性もバッチリと思ってしまう。
その相性の良さをさらに実感していたいがために、
ちょっとズレたこと、違うなって感じたことにさえ、
知らず知らずのうちに、合わせる自分がいたりする。
それが、すべての始まり。
合わないところまで、
合っている振りを始めると、
だんだん苦しくなってくる。
でも、この人と離れてしまったら、
次はないかもしれないと思ってしまうと、
離れる決心がつかず、
恋人だろうが、仕事だろうが、
ほかの何についてでも、
自分のなかでは盛り上がりが、
急速にクールダウンしているにもかかわらず、
がまんすることを決めてしまう。
やっぱり、がまんできない!
ってことに、数ヶ月くらいで気づいて、
早めに決心をすればいいかもしれないけど、
数年、十年、十数年とがまんを続けると、
それが当たり前になって、
本当に離れられなくなってします。
こころは、クールダウンどころか、
何も感じなくなっていたとしても、
「今」を変えようと思うことだけには、
センサーが反応してしまう。
そして、やっぱり、そのままを決め込む。
心の何かが急速にクールダウンしたときには、
ちゃんと付き合ってあげたほうがいいですね。
自分の心ですから...
狭い世界で
一生懸命に張っていたプライドが、
その世界から
ちょこっと出ると、
プライドを張っていたことなんかにはならず、
そんなものは捨てても大丈夫だよ、
っていう具合に、気を楽にしてもらえることがある。
え?
っていうくらい
簡単に、自分のプライドを捨てられる、
というか、気にしなくて済む瞬間があるもんなのだ。
それもそのはず。
狭い世界のプライドは、
ほとんどの人に知られていないから、
そのプライドを捨てたことを
心に恥じたい気持ちがあったとしても、
なんの意味もなさない。
たとえば、ものすごく有名になったシンガーが、
だんだん暇になって、地方巡業に出るというのは、
プライドを捨てなければ、出来ないことだと思う。
けれども、
ローカルでしか有名になったことがなく、
いちおう、全国区で有名になることを目指して、
がんばっていたけれど、挫折してしまい、
どこか知らない地で、
何か別のことをやり始めたとしても、
だれにも知られていないから、
気が楽なのだ。
恥ずかしがる必要も何もない。
プライドなんて、ひとつの世界を飛び出て、
別の世界に移ってしまえば、何のことはない。
野球選手が、その世界を飛び出て、
プロレスラーになっていったりするのも、
同じことだろうなぁ。
実際、ジャイアント馬場は、
そうだったろうから。
狭い世界で守っていたプライドを脱ぎ捨てて、
新しい世界へ、身一つで飛び込む。
人生は、そういうことがあっても、
悪くないと思います。
やってみれば、ふっと切れることでしょう。
ドタキャン、
っていうものに慣れると、
また、あの人は、
ドタキャンするんだろうなぁ、
と予想できるようになります。
ドタキャンする人の空気みたいなものを
察する感じ...
ドタキャンをする人っていうのは、
キャンセルしてもお金も何も痛みがないから、
いとも簡単にキャンセルしてくる。
自分に痛みがないから、
他人にそんな迷惑をかけていないだろう、
みたいに思っちゃうんでしょう。
もちろん、キャンセル料をとられたり、
痛みや労力が必要になるとわかっても、
何の遠慮もなく、ドタキャンする人もいる。
そういう人は、それで済ませることに、
ある意味、慣れているわけだ。
できれば、キャンセルするようなことになる前に、
約束する段階で、しっかりしたものにした方がいい。
ただ、みんながみんな、
そういうふうにはいかない。
約束をつくって初めて、
「あれはどうなんだろう?」
「こういう場合は、大丈夫かな?」
「もし、そうなったら、無理じゃないか?」
みたいなことを考えて、やっと、
わかってくることもあるからね。
一言でいえば、勉強不足の人が、
キャンセルをすることが多い。
時々、優柔不断になる私も、
明らかに、勉強不足な自分を
自覚することがあります。
けれど、勉強っていうのは、
あらかじめ、最初からすべてを
勉強できるわけじゃない。
なにか、前進して、
さらに見えてきて、
やっと分かるということも少なくない。
その前進のひとつに、
契約とか、約束っていうものが
含まれる。
そこまでいってみないことには、
決心がつかない。
本気で学ぶ、勉強する気にならない。
ドタキャン人間は、
学ぶのが下手なのかもしれません。
複雑な約束事であればあるほど、
学ぶことが多くなる。それで、
学ぶことが遅れれば、
やっぱり、ドタキャンが出てくる。
そういうことを、私も学ばないといけないなぁ。
ワンマンなんていう言葉は、
もう死後なんだろうかと思いつつ、
他に、心当たりのある言葉が見つからないので、
やっぱり、ワンマンという言葉を
使うことにした。
面倒見の良いおばちゃん、
という第一印象が、
ん?
なんか、これは違うぞ。
ただ、自分の思い通りに、
ことを運ばせたいばかりに、
一生懸命やってる、
ワンマンおばちゃんだ、
と気づかされる瞬間があります。
もちろん、ワンマンおばちゃん、
ばかりではありません。
私も、自分の思い通りに、
ことを運ばせたいときに、
ワンマンおやじになって、
いろいろと段取りを組んで、
しきり始めたりします。
なんにもしたくない人にとっては、
「ああ、らくだ、ラクだ」
となることでしょうが、
心に、少しでも、
自分の意見を反映させたい、
と思っている人は、
そういうワンマンぶりに
文句を言いたい気持ちにはなるでしょうね。
ただ、文句を言いたいだけで、
じゃあ、あんた、やってみろ、と言われた瞬間に、
とたんに、背を向けてブツブツと言い出すくらいな人
でしかなければ、結局、
ワンマンに進んでいくわけです。
そして、ワンマンぶりを発揮する人が、
そういう雑音をまったく気にしない人であれば、
まったく、問題ないでしょう。
残る問題は、
ワンマンぶりに付き合わされ、
お金やら、時間やら、労力やらを
いいように利用されて疲れた、
という感じの人が増えると、
人がさーっと去っていってしまうことでしょうね。
ワンマンな人がいると助かったり、
かえって面倒だったり、
いろいろあるもんです。
三女が、道路に飛び出しを
しているところを先日目撃した。
車が通っていないから、
よかったものの...
飛び出しをした心理は、
こうである。
遊んでいて、
家に帰ると約束していた時間を
過ぎてしまったこと。
また、帰ろうとしていたところ、
小雨となって、服がぬれ始めたこと。
そういう状況から、
急いで帰らなければいけない、
と焦り、道路を横切る際に、
一時停止を怠って、
自転車を進めた。
怒られたくない、
という感情は、
ときに、危ないことを
させてしまう、いい例だ。
それに通じる感情は、
自分がマイナスのものを受けたくない、
損したくない、というものだろう。
株の売買にて、
値段が下がっているときに、
これ以上損したくない、
という感情が高ぶり、
あわてて売ってしまって、損を出す。
それで、さらに下がったときには、
ああ、売ってよかったとなるのだが、
もし、その後、再上昇すると、
損してしまったとなる。
そこで慌てて買い戻して、
買い戻した瞬間に、また、
値段が下がりようものなら、
ダブル損、なんてこともありうる。
損したくない、という感情には、
いつも痛い目に遭わせられてしまう。
交差点で、信号待ちのときにも、
今行かなければと思って、
無謀な運転をするのも、
信号が、黄色から赤に変わる瞬間に、
渡ってしまえと思うのも、
すべては、損をしたくない、
自分だけは損をしたくない、
という感情がモチベーション。
昨日、わたしも、
慣れない道を運転しているときに、
「今渡らなければ」という感情がもたげてきて、
ちょっと危ない運転をしてしまった。
自分の娘のことばかり言っていられない。
自己チュー、利己的、エゴイスト、
いろんな単語が思い浮かぶけれど、
損したくないという感情は、
結局、損を引き寄せてしまう。
そんな気がしてしまった...
映画でも、本でも、テレビでも、
ストーリーは何かしら、
区切りよくというか、
ケジメっぽいのがあって、
ハッキリそれと分かる
ハッピーエンドで終わるものを、
私たちは見慣れているように思います。
しかし、その慣れと同じくらい、
現実には、そんなにハッキリとした
ハッピーエンドなんか、めったにない、
っていうことも知っていて、
それにも、けっこう慣れています。
二人はやっと出会うことができて、
それからはずーっと幸せに暮らしましたとさ、
なんてことは、まずない。
やっと出会うことができて、
ハッピーな気分を満喫した後は、
新しい苦難、問題がやってくる。
そして、四苦八苦しながら、
乗り越えようとする。
うまくいくときもあれば、
うまくいかないで、
その問題とずーっと向き合って、
すごさなければいけないことも多い。
どちらかというと、
ハッピーな気分を感じるよりも、
そういう重荷を背負っている時間のほうが
長いのかもしれない。
で、そんなときに、
ちょっと見つける、ささやかな幸福感が、
日常のハッピーエンドだろうなぁ、
って思うのです。
実際には、
そのハッピーなまま終わるんじゃないから、
ハッピーエンドなんかじゃなくて、
ハッピー、そしてエンド。
苦難、問題、苦難、問題、ちょっとハッピー、またエンド。
さらに、苦難、問題、苦難、問題、ちょっとハッピー、そしてエンド。
そんなハッピーエンドなのです、きっと死ぬまで。
苦難や問題を感じる暇がなければ、
ハッピーを感じる暇も生まれない。
なかなか、いい人生だと思います。
体の不調など何も感じない、
とーっても若い頃には、
うだうだ、だらだら、
と動くことをおっくうがっていた気がします。
けれど、ちょっとずつ歳を重ねてくると、
なんとなく、すんなり動けない自分の体を
感じたりするものです。
「老いた」とまではいきませんが、
なんとなく、疲れが残るとか、
腰がすっきりしないとか、
消化能力が落ちたとか...
以前のような、ほぼ完璧な体がほしい、
と思っても、それは叶うわけなどなく、
しかし、そのスッキリしない体のことを気にしすぎて、
気落ちしていたりすると、どんどん、時間が過ぎていく。
ちょっとした不調でもそうなのですから、
本当に老いた体を感じている人は、
もっと強くそんな気分になるんじゃないでしょうか?
動けるときに、精一杯動いておく。
そういうことが大切だな、って思います。
体の不調を気にしだしたら、
キリがない。
もちろん、治るようなことなら、
病院に行ったり、薬でも飲んで、
治せばいい。
しかし、そういう治るかどうか分からないことで、
自分の「体調」としてずーと付き合わなくちゃいけないことは、
あきらめて、不完全を当たり前として、
生きていたほうが、イキイキできるというわけです。
体が動く、ということを
今は当たり前に思っていますが、
そういうわけじゃないなぁ、
っていうのは、
車を運転していて、
信号ギリギリで、
横断歩道を渡るおばあちゃん達を見ていると、
よく分かります。
すごい余裕をもって、
本人は渡っているつもりでしょうが、
かなり遅いのです。
待たされているのです。
思うように、体が動かなくなる、
という時期は、必ず来る。
元気な女優の森光子さんだって、
もう、でんぐり返しの演技は止めたほうがいい、
といわれるようにもなる。
動けるうちに動いて、がんばる。
それが一番。
動けなくなりそうだったら、
その動ける範囲でがんばる。
それがベスト。
いつまでも快活でいたいから、
そんなことを考えます。
ぶらっと、公園とかに行って、
そこにいる人に、ちょこっと声をかけて、
あたりさわりない話をして
コミュニケーションをする。
そんなことなら、
何のお金もかからない。
けれど、
何か自分に必要な情報を知っている人や、
自分と長く関わることになりそうな人と、
大切なコミュニケーションをするとしたら、
お金がかかり始めたりする。
ケータイにかかるお金だって、
コミュニケーションの費用だろうし、
インターネット料金だって、
それと同じもんだろう。
コミュニケーションにかかる費用が
増えれば増えるほどいいことかと言えば、
そんなことは分からなくて、
ただただ増えたばかりで、
自分ひとりの時間がどんどんなくなって、
苦しくなったりするかもしれない。
自分でも、
かなり時代錯誤だと思うのだけど、
私が携帯電話を手放したのが2002年1月らしく、
かれこれ、7年が経っている。
なくても、そんなに苦労した覚えがないので、
それはそれでいいのかな、と思っているのだが、
来年3月には、高校生になる長女がいるわけで、
それは、きっと持たせることになるだろうなぁ、
と普通に考えている。
そんな折、CMでよく放送されている、
ソフトバンクの「ホワイト学割with家族」ってのが、
突如、心にひっかかるようになり、
新しく加入する家族も、
毎月490円(ただし3年間)になるようだから、
2台買ったとしても、490円x2=月980円で済む。
昔で言う、トランシーバー状態で、
家族間通話ができるというわけだ。
おまけに、0円ケータイなんか買うとしたら、
ほんとに、3年間は、月980円。
合計35,280円で、使えることになる。
このコミュニケーション費用は、安い。
7年ぶりに、ケータイを持つことになるかな。
ホワイト学割with家族のキャンペーンが、
9月30日までっていうのが、気になる。
どちらかというと、
男は競争する生き物で、
女はそうじゃない、
というイメージをもっていたけれど、
本当のところ、
ただ、競争することの種類が
違うだけで、男も女も
競争が好きなんだ、
っていうことが分かってくる。
一言でいえば、
どちらも「注目」される競争には
変わりないが、
男の場合は、強さとか、勝利とか、成功に、
競争の方向が向きやすい。
女の場合は、愛情とか、幸せとか、美貌に、
競争の方向が向きやすい。
かな、と思っている。
組織やグループが、
なんか停滞しているな、
って感じたときには、
競争の必要性を感じるものです。
しかし、どう競争させるか、
っていうことがポイントで、
男が多いところに、
愛情とか、幸せとかが
ごほうびになるような競争を
させても意味がない。
女が多いところに、
強さとか、勝利とかが
ごほうびになるような競争を
させようとしても、気が乗らないかもしれない。
でも、勝たなければいけないとなったときには、
女性の気持ちにもある、もっと個別的な感情
「あの人には負けたくない」
「あの女にだけはいい気にならせない」
を刺激することが大切に思います。
競争させるっていうのは、
お尻をただ叩くだけじゃダメなんですよね。
競争する気にならせるというのは、
一筋縄でいかないと感じる今日この頃です。